2024年11月15日金曜日

駅伝、ラグビー、辞典

 伊勢路を走る大学駅伝、3位以内を目標という早稲田に対しシード権獲得を希んでいた自分からすれば5位は嬉しい結果と言える。
 ラグビー帝京戦。夏に勝っているとはいえどうなるか予想(想像)もつかず、僅差でもいいから勝ってほしい、勝つならば30点以下、負けるならば40点前後は取られるかと漠然と思っていた。結果は4年振りの勝利でスコアは48(7T5G)-17(3T1G)と快勝。しかも7Tの内訳は田中健想が5Tで、一試合で1選手5Tは全く記憶にない。そして服部の2Tと全トライは1年生の二人。4年間の溜飲が下がる思いがした。当たり前のことであるがトライするまでの布石をメンバーが敷いているわけで、相変わらずに佐藤主将や矢崎、福島秀法の素晴らしさは印象に残る。宮尾を見られたのも嬉しい。
 帝京に関して言えば、例年の落ち着いた力強さが備わっていないと感じた。
 明治の強さが印象にあるから、今後の山場は、帝京vs明治、早稲田vs明治にある。 今後の対抗戦組み合わせをみると、慶応は大学選手権出場が危うい。青学が出れば新鮮味があって面白さがある。今季は慶応も筑波もできは良くない。
 対筑波戦はこんなものかなという感じ。零封を期待していたが筑波のサインプレーで隙を突かれて走られた。帝京戦とは異なって今回は早稲田の6トライはFWBK陣の6人であり楽しめた。

 <小松奎文 『いろごと辞典』(角川文庫、2018年)>:辞典である。斜め読みしながら一通り目を通した。そしてよく読む小説よりも時間的にも空間的にも遠大な、人間の普遍的な性と生活の一部を垣間見た思いが強い。見出項目の解説を読み、その言葉が活きていた時代を想像し、町や村に生活していた人々の日常に思いを馳せると古から現代まで連綿と続く、人間の不変の歴史を思う。 個人の趣味の延長線上にあるこの辞書を編んだ著者に唯々敬服するばかり。

2024年11月1日金曜日

選挙、大リーグWS、本2冊

 衆議院選挙が終わった。緩い地盤の上に立つ舞台の上で三流役者が虚実まじえて演じる茶番を、舞台の袖で悲喜こもごも眺める選挙民、という感じがしないでもない。そして選挙に出向かない人々がそれらを遠巻きに眺めている、っていうところか。

 ドジャースとヤンキースのWSはドジャースの優勝で幕を閉じた。両チームの選手の名は知っているけれど日本シリーズに臨む選手たちの名は殆ど知らない。WSの放送は見るが日本シリーズは全く見ない。
 スポーツ・ゲームはミスをしなければ負けない(ミスをした方が負ける)とは良く言われることであるが、WSの最終戦はヤンキースの度重なるミスの間隙を攻めてドジャースが勝った。ジャッジのエラー、ショートの悪送球、ピッチャーがカバーに入らない、打撃妨害、牽制3回失敗ボーク、いろいろと面白かった。

 <東郷和彦 『北方領土交渉秘録 失われた五度の機会』(新潮文庫、2011年/初刊2007年>:本文に一通り目を通し、「あっそう」という軽い気持ちにしかならないなか、佐藤優の解説は丁寧に読んだ。それはロシア(ソ連)という国の容貌を少しでも深く知ることができるからである。
 北方領土というといくつかの事柄を思い出す。最初は鈴木宗男で、昔、『朝まで生テレビ!』を必ず見ていた時期に彼が登場したときがあって、甲高い声で鶏のようによく声を出している次元の低い代議士だという印象を抱いたこと。そして同じく『朝まで生テレビ!』で松田九郎が途中から出てきて、酔っ払っているのか阿呆なのか呆れ返ったことがあり、さすが鈴木の盟友だと妙に得心できた。松田は長崎を選挙区とする代議士で、長崎というと直近では谷川弥一を思いだし、特異な代議士が出てくる地域ではあると今も感じている。
 北方領土返還を求めて春日部駅前で街宣車から聞こえてくる演説も思い出す。遇々駅に歩を進めているときに同年代の男性が妙に昂揚してパンフを配っていてこちらにも声をかけてきた。「本当に北方領土が返還されると思っているんですか?」と訊ねたら、その人は気弱な表情をして目をそらして違う人のところに行った。領土問題は武力戦争でしか解決しないと思っていたので、芸能人がパフォーマンスで北方領土返還を訴えても滑稽でしかなかった。基本的には今もその思いはさほど崩れてはいない。
 ヤルタの密約とソ連の侵攻、ダレスの恫喝、大東亜戦争/太平洋戦争における戦争責任と米国による翻弄等々、歴史は不可解。否、人間社会は不可解。

 <井上先斗 『イッツ・ダ・ボム』(文藝春秋、2024年>:バンクシーは知っている。グラフィティやボムは知らない。スロー・アップやタグも勿論はじめて目にする用語で、Wikipediaでその言葉を確認しながらページを進めた。公共物あるいは私的なシャッターやカベに描く迷惑な落書きに、それらを描く人たちの思いや芸術性には思いを馳せることもなかった。逆に言えば初めて知ることになる人たちに新鮮味も感じた。が、この小説には描く人たちの内面の深耕はなく、描くことの意味は表層的で衝動的であり、ああ、こういう表現行動をする人たちもいるのだと教えてもらったという感が強い。読み終えれば何も残らない。