2016年11月30日水曜日

雑記

 17日、秋葉原ヨドバシでDAP購入。店員さんと話していたら年齢が自分より少しだけ若そうな長身の紳士が話に割り込んできていろいろ聞かしてもらう。オーディオが好きで詳しい。最近出たDAPやイヤホンの視聴の感想を鋭く丁寧に柔らかく話されていた。自分はと言うと、これぐらいの贅沢は許されるだろうとハイエンドの領域に入るであろうDAPを購入。ついでに4.4mm5極のバランス接続MMCX対応ケーブルも発注しておいた。このケーブルを装着して手持ちのシュアでこのDAPを聞いてみてその素晴らしい音質(特に音場)に感激。ケーブルは入荷待ちなので暫くは通常のアンバランスのイヤホンで聴くしかない。
 この日の夕方からは梅島で酒とカラオケ。

 23日、早慶戦。慶応SOのミスキックでかろうじて勝たせてもらったという感が強い。ディフェンスに簡単に穴が空く。岸岡のプレースキックの精度が上がっていればもう少しは安心して観られた筈である。CTB中野からの攻撃はワンパターンで、きついマークにあっている中野からの展開に苦労している。帝京の1位、慶応の4位は決定だから早明戦で2-3位が決まる。どちらにしても大学選手権での組み合わせは帝京とは別ブロック。筑波大が出場できないのは残念。
 明治戦はチケット購入を失念していて入手できず、4日はテレビ観戦。

 血圧が高い。新たに自分専用の血圧計を購入し、朝と夜に測定し記録をつけ始めた。毎日の酒精もやめて今のところのデイリー飲酒頻度は30%代。血圧の記録と飲酒頻度をエクセル管理するのは自分の性癖、というかデータ管理が趣味のようなもの。朝は寒いので体重測定まで至っていない。ランニングしていた頃は体重が7kgほど減っていて、今となっては夢か幻かとの想いもしてしまう。あの頃は血圧も中性脂肪も何もかもが正常値の範囲にあった。

 DAPのアンバランス側のエージング進行中。現在値は約150時間で目標の200時間までもう少し。しかし、バランス接続ケーブル入手でアンバランス接続はしなくなる。が、一応イヤホンを接続して通電し続けている。月末頃には入荷するであろうと言われていたバランス接続ケーブルが入荷したとの連絡を25日に受け、29日に再び秋葉原へ。
 この日の予定はケーブルを受け取るのと同時にイヤホンを視聴し新規購入すること。およびひさしぶりの駒形どぜうで泥鰌鍋を楽しみながら一杯飲むこととしていた。
 イヤホンの候補は概ね2つに絞っていたが、第一候補であったSONY品は低音の音圧が好みでない。自分の好みは低音が抑え気味で中高音の響きがキレイというか前面に出てくるというか、要は中高音が主体のもの。audio-technicaのものはSONY品よりいいが音質がキレイと言うより硬い。JVCのウッドシリーズは最大公約数的な音質でつまらなく、Radiusは音が引っ込み気味と感じた。SONYとJVCを何度も聞き比べ、両者から選ぶならJVCかとも思っていた。候補の一つであったCampfire Audio(以下CA)は鍵のかかっているケースに入っており、しゃがんで商品群を眺め、店員さんに声をかけようとしていたところで逆に声を掛けられ、視聴させてもらった。中高音が素晴らしいい、キレイ。もうこれでいいかと思っていたら店員さんがグレードアップされたものが更に素晴らしいと言いそれも耳に入れた。想定していた予算よりオーバーするがもうこの時点でこのCAを買うことにした。グレードが上のものを試すとそれが欲しくなる。だからなるべく触らないようにしているのだが、今回は回避できなかった。
 レジに行ったら店員さんも自覚していなかったらしいがこの商品は翌日からの販売開始となっていた。また春日部から秋葉原に足を運ぶのも面倒だし、自分の場合は送料無料となるので最速で宅配してもらうこととした。CAはデザインも好きだし、バランスでは尚更にキレイな音が耳に入ってくるであろうと期待大。イヤホンのエージングも兼ねてDAPのバランス側のエージングをしよう。200時間に達するのは来月中半ころとなるヵ。
 
 秋葉原から歩いて浅草橋に向かい、そこから左に直角に曲がって歩を進め駒形どぜいに入る。日本酒と泥鰌鍋を目の前においてもらう。意外だったのが以前は好きでたまらなかった泥鰌鍋がなんかつまらなくなっている自分がいた。年齢を重ねて好みが変化したとしか思えない。割り下がしょっぱく感じるし、酒も楽しめない。泥鰌も牛蒡も葱も全て好きだったのがこの日は美味いと感じることができなくなっていた。加齢するということはこういう変化として表れるのかもしれない。意外であると同時に自分の変化に少し落胆。
 家人のために“おいもやさん興伸”で”みやび”を購入し-女性は何故にこうも芋が好きなんだろう-、手にぶら下げて帰宅。風呂に入って口直し(?)にJamesonのハイボールを飲む。ハイボールはいつもと同じく美味い。しかし、量は進まなくなった。これも年齢の所為なのであろう。それに歩き続けたので疲れた。以前はもっと酔っ払って、もっと長い距離を歩いて、帰宅後も呑み続けたが今はできなくなってきた。

2016年11月22日火曜日

来季スポーツ推薦、文庫1冊

 早稲田ラグビー部のスポーツ推薦入学合格者4名が決定。古賀由教/東福岡高校/FB、下川甲嗣/修猷館高校/FW1列以外、久保優/筑紫高校/PR、星谷俊輔/國學院久我山高校(LO)。古賀・久保・星谷は高校日本代表候補で下川はU17に選抜されていた。古賀はU17およびU20セブンズ代表。星谷は190cmの体躯。例年通り花園における選手名鑑を購入し、今後の自己推薦合格者などをみては来季に向けて期待を膨らませることとなる。

 明日の対慶応戦、もちろん勝って欲しいが、慶応に苦戦しそうだし正直なところ勝敗の予想がつかない。完敗もあるかも。

 <大岡昇平 『無罪』(小学館、2016年)>:初刊は1978年で33年前の5月に新潮文庫で既読であったが内容や感想はメモしておらず記憶もない。舞台は英米で、時代は17世紀から20世紀初期。文献をもとにして裁判が始まってから無罪までの過程を小説化した13篇の短編集。近年においてもシェクスピアは誰それであるとの論考が発表された「シェイクスピア・ミステリー」もあり、かの有名な「サッコとヴァンゼッティ」もある。裁判過程への疑惑と周囲の喧噪はいまも形を変えて表れており、謎も謎のままにあるのは所詮人間の成せる業と言ってしまっては悲観的すぎるか。

2016年11月17日木曜日

シニアの品格

 <小屋一雄 『シニアの品格』(小学館、2016年)>:「ひんかく」など考えたことがない。あるとすれば商品開発部門に所属する現役サラリーマンだった頃、品質管理部を略した「品確」とそれを揶揄した「貧確」。我が身を振り返れば何の格もない「貧格」か。
 定年退職が間近で出世コースから外れた東条が奧野老人と出会ってそれまでの人生を振り返り、自己変革して様を描く自己啓発風の小説。企業人としての恨み節からはじまる東条はまあつき合いたくないステロタイプの人間である。それが鮮やかに変化していくのであるが、その過程に肯く箇所もあれば、そうかなと思う箇所もある。雨滴を眺めてたゆまざる努力を説く賢人もいれば、会話の中で相手自身の姿を気づかせる達人もいる。奧野老人は後者。「私の場合はただ単純に、世界とのつながりを楽しんでいるだけで、自分を高めるというよりも、ただ、生きて楽しむということだけなんです」と虚静恬淡の姿勢で、「『品格』があるとすれば自分から関心が離れていくこと」と言う。その境地には到底およばない我が身であるが、ちょっと待って、そこでいう世界って何を意味しているのか、どのような世界なのか、またその世界との繋がりを媒介するものは何であろうか、それらを自覚した上での楽しみではなかろうか、と思う。例えば、”他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ”という「世界」観を持っている場合、繋ぎとなるのは歴史を学ぶことでもあり、哲学を囓ってみること、あるいは小説を読むことなどであり、それらを通して”この世界でオレは何者だ”と問い続け、それを楽しむことではなかろうかと考える。
 奧野老人が奥さんとの関係を話す言葉、「美代子は私にとって畑で、私はそこに生える草だったんです」。こういう夫婦は素晴らしいと言えるのであろうが、俗人に言わせてみれば-悪ふざけである-、畑に種はどう蒔いたのか、いい草を伸ばそうとしても畑の質が良くなくてさ、てこともあるし、更には権兵衛が種蒔きゃカラスがほじくることもあって・・・・、ふざけすぎ。

2016年11月14日月曜日

漫画と小説とエッセイ

 <原泰久 『キングダム 四十四』(集英社、2016年)>:酔っていたせいもあろう(といえば失礼になるが)、いつも以上に楽しめた。「渇いてねェんだ 心が渇いてねぇから略奪も陵辱も必要ねェんだ 飛信隊はどこの隊よりも心が潤ってんだ」、この台詞がこの巻のエッセンス。

 <浦沢直樹 『BILLY BAT⑳』(講談社、2016年)>:完結したけれど、結局消化不良。惑わされてそのままに終わったという感じしか残らない。終わりかたも性急に進めた印象あり。

 <白石一文 『記憶の渚にて』(KADOKAWA、2016年)>:人が生を受け継いでいるなかで、記憶とは何でどう持ち続けているのか。連綿と続く生の繰り返しのなかで前の人の記憶が残る。問い詰めれば「私とは一体誰か?」という問いを自分に問い続けることとなる。著者はこの根源的な問いを常に小説という舞台で展開し続ける。兄の死、伯父の死、教団との関係、桜の木の謎、・・・900枚の長編も倦きることなく読み続けたが、帯にある「圧巻のラスト」に行き着いてみれば人びとの関係はすべて仕組まれたことであって肩すかしを食らった、生煮えの鍋物を食わされた感が強い。しかし、著者の「私とは誰か」を思索し追い続ける姿(作品)にはいつも引き込まれる。

2016年11月11日金曜日

大腸内視鏡検査始末

 5月末の人間ドックで便潜血が指摘され、書面上で要精密検査とされていたが10月頃に病院に行こうと放っておいた。そんなところに息子が同じく便潜血があるからどこか病院を紹介してとのメールが来た。かつて2年間にわたって2回ポリープ除去をした池袋の某病院を紹介した。23年前の人間ドックを池袋のクリニックで行いそこで紹介された病院であり、そのとき一緒に診察を待っていた人が、地元の横浜では痛くてしようがないが、ここはやはり評判通りの病院で数年前からここに来ている、と言っていた。そのときのポリープ除去は一泊の入院が前提で、まずは3箇所を除去し、翌年には先延ばした1箇所を処置した。痛みも何もなく、スムーズに終了していた。

 息子が予約を入れてから少し経ってオレも予約を入れて先ずは診察をして、11月末には内視鏡検査を予約した。
 暫く経ってから息子から連絡があり、10月末にポリープを除去したが検査中は耐えられないほどの痛みがあり(内視鏡が腸の内壁に当たるときのようである)、一日経ったいまは出血がひどいと言う。すぐに病院に行って止血処置をしたとのこと。そしてその二日後また連絡があり、出血が止まらない、職場の人から病院を紹介され、池袋の病院に紹介状を書いてもらい、柏の某病院に行ったら即時入院となってしまったと言う。息子の嫁さんは0歳児の赤ちゃんがいるので病院に駆けつけるわけには行かないので、オレが着替えなどを持って行くことになった。家人も車に同乗し、柏までの片道1時間の通いを連日4日通うこととなった。
 内視鏡検査のある当日朝に息子から電話があり、念のためにすぐに病院に来てくれろ医者から言われたという。胸騒ぎがするが、連絡は病院からではなく息子本人からなので悪いことは考えずに病院に向かい、ナースステーションで内視鏡検査室に向かうように言われ、エレベーターで降りたら検査を終えたばかりの息子が車椅子に座って出てきたばかりだった。約1時間後、処置をした医者が経過説明に来て一緒に聞いた。オレにすぐに病院に来てくれと言う意味は、手術や輸血の必要があるなら同意書へのサインをしてもらうためだったようである。医者が患部の写真を見せて説明をし、ポリープ除去した3箇所はすべて潰瘍になっており、1箇所毎に数本の止血処置が施してあった。そして直腸部に1cmのIs(無茎型)ポリープが残っているという。池袋では1箇所が残っているとは息子は聞かされていない。取り忘れですかとその医者に聞いたら、少し間を置いてからそうでしょうね、と仰る。また出血の可能性は誰にでもあるとも言う。医者によって技術の巧拙があるのではないですかと聞くと、それはないでしょう、誰がやっても可能性はあると言う。まぁ、医者が医者を非難(批判)することはまずないであろうからそれ以上は聞かないこととした。出血の可能性があるから、その際はすぐに駆けつけられるように自宅の近くの病院がいいですよ、とも仰る。・・ところが、翌日、息子に聞いたところ、看護師さんが、“普段は穏やかで他人の批判をしない先生が、(池袋の医者は)やりっ放しのひどい処置で、同じ医師として許しがたいと言っていた”とのことであった。入院して4日後に息子は退院。4ヶ月後には潰瘍の治療と残っていた1箇所のポリープ除去をその病院で行う予定を組み入れた。
 オレは予約していた池袋のその病院にキャンセルを入れた。その病院で息子のポリープ除去した医師と止血処置をした医師の名前は掴んでおり、オレの検査時の担当医にならないことは判っているが、その藪医者を放置している病院には信頼をおけない。春日部市内の某病院に行って状況を説明し、12月某日に先ずは予備内視鏡検査となる。そこではポリープがあったとしてもいきなり除去することはしないらしい。息子の経過と、オレの経緯を説明していて池袋の某病院の名前をポロッと出してしまったら、その病院の院長は名医で通っているのだが、息子さんに対応した医者は非常勤の医師なんでしょうねと言う。
 その池袋の某病院で購入した内視鏡検査前日の食事パックが残っていて、ダイエット食にしたが、さすがに消化促進の小粥中心で夕食はコーンスープだけでは腹を充たすことはできなかった。しかし、医者も人の子でミスもするであろうが、今回の息子の件ではひどすぎた。数年前にオレがかかった二人の某整形外科医と同様の藪医者ではある。

独り言

 トランプが次期大統領に決定。アメリカ合衆国(合州国の方が適していると思う)の公に定められた法によって彼が選ばれて間もなく全米ではトランプ反対デモ。なんか妙。トランプ側に投票した人たちにどう向き合うんだろうか。受け入れたくない気持は判るけれど、選挙の結果後すぐにトランプ反対というのは筋違いのような気がする。クリントンが当選していたらトランプ賛成の人はやはり結果に抗うのであろうか。そうであるならばやはり選挙で選ぶというシステムに欠陥があるとしかいえないだろう。否、そもそも万人が得心する術などないのだ。
 Popular vote(一般投票)は、クリントン47.7%>トランプ47.5%で、Projected electoral vote(選挙人団)はクリントン232<トランプ306。(以上の数値はhttps://en.wikipedia.org/wiki
/United_States_presidential_election、2016、11日 0:15。)この逆転現象はゴアとブッシュと同一の状況。おかしいと指摘されるもそのままでまた再現した。これがおかしいと言うのは、多数決を是とすることが基本にある。でも根っ子は多数決というシステムが抱える問題にあろうかと思う。日本だって一般投票で過半数どころか遙かに下回る獲得投票でありながら国会では一強となっている。投票率20%代で当選しても、歓喜の表情で堂々と当選萬歳をして議会を構成している現実がある。
 いまの状況が最善策なのか、問題点は何か、そしてどう検め正すべきかを問い続けることが組織(システム)のあるべき姿だと、青臭いと言われようがそう思っている。そして、「軽々しく口に出される民主的」がキライなのである。結局は、この世の中で一体何をどう捉え、自分は何なのよ、と思い続けるしかないような気がする。マジメに考えているわけではないけれど。
 今日の午後、車から甲高い女性の声が何か訴えていた。うるせーなと思いながら、何が彼女をそう熱くするのかな、と不思議だった。

2016年11月10日木曜日

続けざまに映画を観る

 DVDに録画してあった映画を続けて観た。最初は「硫黄島からの手紙」。次に市川崑監督の「野火」。硫黄島や比島で死んだ一般の兵隊は何と戦っていたのだろう。少なくとも米軍と戦っていたのではない。「野火」では延々と飢餓が映し出される。前の戦争の各戦域での餓死者は61%(『敗者の日本史20 ポツダム宣言と軍国日本』)。
 3作目が久しぶりの山中貞雄の「人情紙風船」。名作中の名作であるとの感想は変わらない。この映画が公開された翌1938年に山中は戦病死。
 最後に「一枚のハガキ」。金もなく貧乏な家族の中にあって大竹しのぶだけがこざっぱりとして髪も整えられ歯も白く、いかにも作られた映画という思いを抱いた。燃え落ちた家の焼け跡の中で豊川悦司が大竹しのぶに向かって、一粒の麦を蒔こう、という台詞ではさらに違和感を覚えた。麦を蒔こうではなく、「一粒の麦」と言ったところに感動を呼び込もうとする制作者側の意図を感じた。新藤兼人の作品では「裸の島」が最高であると思っている。
 「人情紙風船」以外のDVDは破棄。

2016年11月9日水曜日

議会の混乱からの教訓!?

 11月8日の朝日新聞に「議会の信頼 富山の混乱を教訓に」の社説。「政務活動費(政活費)の不正で3割の議員が辞職した富山市議会の補欠選挙が、投開票され」、「当選した人の多くは、政活費や議会の改革を訴えた党や無所属の候補だった」が「残念なのは投票率が26・94%と低かったことだ」とし、「政治不信を招いた主因は議会にある。だが不正が長年続いたことは、有権者の関心の低さと無縁ではない。議会が再生を果たすよう、市民は厳しい視線を注ぐ必要がある」と主張する。ここで、ちょこっと抗いたくなった。たかが27%弱の投票率で当選したとする市議会議員と議会制民主主義をまずは嘲け笑い、「市民は厳しい視線を注ぐ」ことへの具体的な手段ぐらいは論じてほしい。たとえそれがラジカルなものであってもだ。市民の厳しい視線を具体的に向けるシステムはまずは選挙であろうし、その選挙での低投票率を嘆くならば選挙に基づく議会制民主主義への疑問を呈するのが先ではないのか、と思うのである。

 つづけて「まずは政活費の不正使用を防ぐ具体策だ」と当たり前のことを書き、政活費の使途を点検する市議会の対策案は、今はやりの「第三者機関を設け」「領収書をインターネットで公開する」ことだと報じる。第三者機関というのは政治の中枢をなす議会システムの機能欠陥を露呈していることであり、自浄作用が不全であることであろう。総じて言えば、市民の厳しい視線を具体的に結びつけることが出来ず、そのようなシステムから生れている議会の機能不全がいまの議会制民主主義である、と感じてしまう。

 「公金は正しく使い、使途はわかりやすく示す。議員に求めたいのはごく常識的な感覚だ」というが、それは使い古された繰り言としか見えないし、「時代が求める改革を怠れば、政治不信が深まるだけ」なのは、時代を超え、形を変え、いつの世にも表出する事象である。くり返される歴史の一面である。そして新聞の論調も型通りのつまらない陳腐な域内に安住している、という感想を抱いてしまう。バカバカしいトランプのように尖がれとは思わないが。

2016年11月6日日曜日

秩父宮、惨敗

 今日は筑波戦以来の秩父宮へ。早稲田が今後対戦する明治と慶応の両校どうしの戦いを見たいこと、余っているリピートクーポンの消化、そして早稲田の帝京戦。帝京戦はスコアによっては試合前に競技場を去ることも前提としていた。
 明慶戦はニュートラルな気持で観戦するにはとて面白い、試合であった。残り少ない時間となった後半、追い上げる明治が反則・ミスを犯さずにフェーズを重ねる集中力と勝利への執念は素晴らしい。最後が認定トライで終わったのは「前への明治」の矜持を示したものであろう。

 さて、帝京戦。早稲田の惨敗。PGによる3点で先制したが、その後すぐに鮮やかなトライをされ、続けて2つ目のトライを取られたところで帰りたくなった。帝京は個々の体躯が鍛えられており、スピード、パワー、スキル、瞬時の判断力がずば抜けており、早稲田は足下にも及ばない。帝京3つ目のトライで席を立つ。トイレによって通路に出たら更にトライが重なっており、そのときはまだ前半20分ほどであり、スコアは3-28、これでは100点を超えてしまうかもしれない、早稲田の得点は初っ端のPG3点だけかもしれないと思ったら、帰宅後に確認した結果は3-75(11T)。帝京は今の大学の中では全てが何段階も上である。大学選手権、日本選手権までにはまだレベルアップする気がする。一方の早稲田、慶応戦と明治戦にも明るい展望が見出せない。