2022年12月29日木曜日

渡辺京二さんが逝去

 渡辺京二さんが25日に老衰のため自宅で死去した。92歳であった。お通夜は26日で葬儀は縁のある真宗寺で27日。自分の読書歴を画するような気持ちである。

 『逝きし世の面影』を2007年に読んだときから渡辺さんの著作に入れ込み、会社勤めのときは自席で昼食を摂るのと並行して本を開き、1年半ほど続いた。もちろん他の本も読むのでその間に読んだのは14冊に過ぎない。それからは大学の通信教育を始めたこともあり、彼の著作を購入はすれど読むのをサボっていた。最近その積ん読状態だった本を続けて読み始めた。これは自分の年齢が重なってきたこともあり、読んでいない本をきちんと読もうとの気持ちもあり、店仕舞する在庫一掃の体をなすようでもある。このように15年ほどにわたって渡辺さんの本に接してきたので、その死去は自分の中である期間の時の流れを画す気持ちである。
 現在まで27冊の著作を読んできたが、未読のものがまだ8冊もある。

 <渡辺京二 『日本詩歌思出草』(平凡社、2017年)>:知っている詩人はいるけれど、目に触れた作品はない。それに、書かれている内容がストレートに入ってこない。これは単純に自分の感性の欠落に起因する。
 若い頃は中原中也や萩原朔太郎、三好達治、宮沢賢治、石川啄木といったある意味学生にとっての必須教科のような気持ちで詩歌に触れた。当時は好きな詩もあって抜き書きして机の前においていたこともあったが、若き頃の感傷的な空気に漬ったに過ぎない。啄木は好きになれなかった(なれない)―勤務先での青森県出身の同僚と宴会で席を同じくしたときに啄木の悪口を言ったらその同僚が怒り出したことを思い出す-。宮沢賢治にも距離をおく感覚である。
 いくつかの詩集を買って目を通したのであるが、手元にあるのは高橋新吉の詩集だけである(1972年に購入)。特に好きな詩は「鐙」であって、その三行詩は次である。「鐙を踏み外す事は正なり 全き調和は死なり 太陽も僕から見ると子供だ」。最後の1行はいまもって違和感というか理解できていないが、最初の2行は今も世の中を見る自分の思いに合致している。その詩集では他にも好きな詩がいくつもある。
 大学3年か4年ときに東京駅地下にある郵便物仕分のアルバイトをやっていたとき、明治大学の学生からダダイスト辻潤を教えてもらい、辻潤に関する本を読んでいたときにダダイストなる言葉の延長で高橋新吉の詩集を手にしたと思う。
 ・・・渡辺京二さんの本から脱線してしまった。

2022年12月28日水曜日

大学ラグビー選手権準決勝、早稲田の勝利

 大学ラグビー選手権準々決勝(12/25)、早稲田は対抗戦に続いて明治に負けるのではないかという気持ちの方が強かった。昨年は早稲田が対抗戦で勝利し大学選手権準々決勝で敗れた(それも悔しいエラーが続いての敗戦)。今季はその逆があり得るのだろうか、対抗戦では完敗し、東洋大学との戦いも圧勝したというわけではなかった。相良主将が復帰し、夏に故障した伊藤がSOで初先発とはいえ、佐藤健二はリザーブスタートだし、スクラムは劣勢にあり、L/Oへの不安も払拭できない。内心では今年も年越しは駄目かもとも思っていた。
 しかし、テレビ中継を見ながらチャンスでは久しぶりに大きな声を出し体に力を入れた。松下の2本のトライ、鮮やかな宮尾のインターセプトによる75mほどの独走トライ、ハイパントでの槇の素晴らしいキャッチング、明治の2回連続のコラプシングを呼び込んだFWDのうまさ、そして相良のジャッカルで明治ボールを奪い取りタッチラインに蹴り出してゲームオーバー。結果は27(3T3G2PG)-21(2T2G1PT)、素晴らしい試合だった。

 慶応は33-34で京産大に惜敗、筑波は最後の10分で1T1G1PGと10点を挙げて東海に20-17で勝利。帝京-同志社は昨年同様に同志社の大敗。望むらくは慶応が京産大に勝って欲しかった。そうすると準決勝は対抗戦の大学だけで戦うことになり、対抗戦のレベルの高さが再認識された筈だし、また、準決勝での早慶戦も楽しめた筈だった。
 今回の準々決勝はどの大学に肩入れすることなく単純にラグビーが好きというファンならば、帝京-同志社を除く3試合はどれもたまらなく楽しめたいいゲームであったと感じられたであろう。 1/2は箱根駅伝と準決勝の両方で早稲田を見ることができ、2年ぶりに心弾む正月になりそうだ。


 早稲田の勝利を祝って飲んだ。江口寿史バージョン“紅乙女”のグラスの中は奥会津只見の米焼酎“ねっか”。

2022年12月22日木曜日

最近はまっていること

 最近はまっていること、集中していることを書いてみる。

 アメリカで2004~2012年に放送された『Dr. HOUSE』(HOUSE M.D)の新品同様のBD全8巻(39枚/177話)をメルカリで購入し、毎日観ている。1日1枚のBDを消化しても1ヶ月以上かかる。現在2巻目3枚(トータル8枚/37話)まで観た。ドクターハウスのキャラクターや会話が面白くこのドラマを観ているときには睡魔が襲ってこない。

 Ludovico EinaudiのCDを連続して購入した。もちろん新たに入手すれば聴くのであるが棚に並ぶCDが16セットになればコレクターの様相も帯びている。しかしライブ盤は重複もあるので買わない-そもそも観客からの拍手や雑音が好きでない。

 京都橘高校のマーチングバンドは同じ動画をYouTubeで何度観ても楽しめる。マーチングしながら、且つ身体を弾ませながらの演奏、オレンジのユニフォームに身を包み楽しそうに演奏している彼女たち(少人数の男子もいる)は素晴らしい。アクセス数が多いのも宜なるかな。

 <渡辺京二 『父母の記 ー私的昭和の面影』(平凡社、2016年)>:著者の家族内の歴史と著者が交流した人々への思い。父親は女を作り家には殆どおらず、家にいれば夫婦喧嘩、でも母親はしっかりした人のようで、長姉にも相当にサポートしてもらっている。しまいには父親は女を作って両親は離婚。
 「父母」の章を離れて、「昭和の面影」の段では私が知っている人物との交流を振り返っている箇所は一行一行読み進めるが、ローカルな人物および他の著書で書かれているところは斜め読みした。 
 著者の確かな記憶に驚き、また此の世を俯瞰する視線の広さと深さ、揺るぎない思考・意志といったものを感じる。それに豊かな語彙を目にする度に己の貧弱な語彙が口惜しくなる。

 AKAI EWIを購入して1年が経った。まだ倦きないで、短時間ではあるがほぼ毎日練習している。美しい女性のトレーナーに教えてもらえればもっと熱心になり上達も早くなるのであろうがそのような機会はないし求めもしない。
 思ってみれば受験勉強もギターの練習も会社勤めのときの勉強もすべて独りでやってきた。それが今ひとつステップアップしない要因であろう。まぁ、70歳を越えた人間には一人自己満足の境地に近づこうと励むのが相応しい。
 1年前に練習していた曲を今演奏すると少しは上達しているようである。が、テキストに書かれているようにメトロノームの重要性が今になって改めて理解し、拍子を耳にしながら練習するようになった。少しでも上手くなりたいとの思い(妄想?)は減退していない。

2022年12月19日月曜日

高齢の意識、クズとワルの小説

 娘の中学一年の長女(Cちゃん)が右足を剥離骨折してギブスで固定している。娘の時間が都合つかないときはお迎えを依頼され、4回ほど近くの中学校の駐車場に車を運び、少し坑内に足を踏み入れCちゃんを迎える。横に並んで歩くと160cm近くの身長で母親よりも大きくなり、一緒に恋人のように(?)に歩くことが嬉しい。中学校から彼女の自宅までは約500m(我が家から娘の家は100m足らずの距離)なので、僅かな時間のデート&ドライブとなる。
 下校する中学生を眺めていると、また、彼女の兄は来年から大学生になることも併せて、ついつい自分の60年前を振り返っているような気分になってしまう。

 年賀状を作成。ピーク時の1/5ほど枚数は減った。2023年と印刷すると来年に迎える年齢のことを意識し、後期高齢者の域に近づいていることをひしひしと感じる。

 <染井為人 『悪い夏』(角川文庫、2020年/初刊2017年)>:文庫本の帯に書かれているように「クズとワルしか出てこない」。
 舞台は葉県北西部に位置する架空の船岡市、物語の中軸を成すのは生活保護費の受給。
 市役所内の社会福祉事務所に勤務する佐々木守は自己主張できず、指示や依頼に唯唯諾諾と従ってしまう小柄の26歳。ズルしてサボり癖のある先輩の高野洋司、正義感濫れているように見える行動的で有能な同僚宮田有子、彼らの上司であり佐々木を飲みに誘いたがる独身課長の嶺本。彼らが生活保護費受給の決定と不正受給を断ずる側の人間である。
 表向きは通常の医者だが闇医者である石郷の診断書をもとに不正受給を続ける山田吉雄は脱法ドラッグMDMAの売り子でもある。それを仕切るのはヤクザの金本隆也で、彼にくっついている莉華は2歳の子を母親に預けっぱなしにし、22歳の愛美に恩を売って良いように使い回す。愛美は自閉症のようなあるいは発達障害があるような4歳の娘・美空に暴力も振るい、働く気力もなく生活保護を受給している。
 物語の中心にはいないが、ベンツに乗る息子がいるが縁を切っていると嘘をついて不正受給する老婆の矢野もいれば、コミュニケーション能力がなく仕事ができない古川佳澄は夫を交通事故で亡くし小学生の勇太と二人暮らしで万引きをしてしまい、スーパーの店長は衆人の前で罵倒する。
 以上でほぼ登場人物の説明は終えた。これ以上書くと内容をバラしてしまうことになる。何年か経ってからこのメモを見てストーリーを思い出せるか否かそういう気持ちでメモしてみた。 出てくる人物が相互に関連し合い、伏線も周到に用意されていて、久々に一気読みした。面白かった。

2022年12月13日火曜日

またもや雑記と本一冊

 「国民のみなさんにしっかりご理解いただけるように丁寧に説明していく必要がある」。このフレーズはいつどのような場面でも使い回しできる。すなわち、無味乾燥な空虚な言葉でしかない。丁寧という言葉の意味、説明するという意義を理解していない上の言葉遊びでしかない。国民という存在は結局のところ政治屋が地位を得るために道具として弄ぼうとしているに過ぎない。できることは弄ばれないように努めること。

 ほったらかしにしている花壇-というにはおこがましいが-その花壇の中央の木に奇麗なピンクの花が咲いていた。あれっ、この木には花が咲くんだっけと意外に感じ、しかも何の花なのかも知らない。木の幹にぶら下げていた色褪せた札を見るとシンオトメサザンカだった。
 <渡辺京二 『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社、2016年)>:幾つかの言葉をピックアップしておく。
 「・・常識で判断したいと思っている。・・・私が言っているのは、自分の持っている理性の働きからふつうに出てくる考えのことだ。私は理屈に合わないことは、あるいは観察のもたらすことと合致しないことは受け入れない。それは私の自然な精神の働きで、それを常識と言うのだ」
 「問題は国際社会における日本の地位などではない。フィンランドやデンマークやブータンは、小国だからといって不幸だろうか。・・・日本はそこに住む人たちにとってよい国になればいいのである」
 「ともに生きている他者への責任を果し、他者とともに生きることに生き甲斐を見出したい」
 「私は国家の受益者であるから、それなりの代償は払う。しかしそれ以上は国家と関らぬ個でありたい」
 「・・・刹那化、非連続化こそ心配・・・」
 「言葉(概念)に前もって善悪、正・不正、民主・反民主、進歩・反動の色がついていて、そういう色つきカードを操作することが論壇の仕事になっている。考えるというただひとつのことが欠落しているのだ」
 「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)
 「ヨーロッパでは産業革命(Industrial Revolution,)、同時代に日本で起こったのは勤勉革命(Industrious Revolution).。・・・産業革命は資本投下、勤勉革命は労働力投下」(日本の経済史家) 「政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上のものを求めるのは間違っているんですよ」
 「変わるというのは、無節操なのではなくて、ひとつの方向性を堅持しながら、いつも新しく転換し続けること」

2022年12月9日金曜日

雑記、本一冊

 1年ぶりに友人から電話がはいった。近況を話し合っていたら「あっちの方は大丈夫?」と言われ、「あっちの方」って下半身のあれかと瞬時に思い即答できなかった。「あっちって?」と問いかけたら「あぁ、コロナは大丈夫かと思って」と応じられ、紛らわしいことは口にするなと腹の中で笑ってしまった。
 録画した番組のタイトルを見ていたら<ノーカット版>とあり、これまた瞬時くノ一カット版と読んでしまった。発想が貧弱というか、「あっちの方」に結びつく嫌らしさというか、ついついまだ我が身は枯れていないと恥ずかしくもある。

 洗面所の配水管に小さなプラスティック部品を落としてしまい、管内でのつまりを懸念してそれを取り除こうと配水管の分解に入ったらすぐにU字管の腐食にきづいた。パイプレンチでナットを緩めようとしたらほんの少し回しただけで脆くもねじ切れてしまった。ネットショップからU字管を購入し、トイレの水洗モーター交換に続いて今度は洗面所の配水管交換工事。しかしまぁ水回りの工事が短期間で続くのはやはり何か不具合に関する自然の摂理のような法則があるのかも。

 約2ヶ月間にわたって分割払いしてきた年末掃除、1Fのフロアをいつものようにスチームクリーナーでの清掃とオスモカラーでのワックスがけを施し、やっと(!)完了。

 書店で衝動的に文庫本の小説を購入した。家に帰ってバッグから出してみたら以前に読んでいた気がした。過去の読書リストを開いてみたらやはり読んでいた。書店では記憶力低下で帰宅後はまだ記憶がさほど衰えていなかったということか。重複して購入してしまった文庫本やCDはこれで何度目になるのであろうか。

 <渡辺京二 『気になる人』(晶文社、2015年)>:熊本在住の9人の(そこそこ)著名な人たちへのインタビュー集。知っている人、聞いたことがある人、全く始めて知る人たちの個性あふれる、というよりも確とした軸を持っている人たちの語る言葉は魅力的である。9人は、坂口恭平・橙書店/田尻久子・アラン=ローゼン・長崎書店/児玉真也・画家/酒井榮雄・プロヴァンスに魅せられた経営/田中恵子・喫茶「カリガリ」元経営者/磯あけみ・農業兼画家/池田道明・詩人/伊藤比呂美。

2022年12月5日月曜日

いつものパターンの雑記

 夕方になって雨戸を閉める時刻が次第に早くなってくる。年月の経過とともに年齢の重りを意識する頻度も多くなり、数値が増えてきたその年齢や冬に向かっている寒さの所為もあるのだろう、ほぼ毎朝測る血圧が以前よりも高くなってきており、とうとう病院で診察を受けることとした。薬の効果は直ぐに数値に表れ、よく言われる運動ってやつも積極的に行う心算はないので、これからはもうずっと服用し続けることになろう。

 毎年末のインフルエンザのワクチンや5回目のコロナワクチン接種も終わり、今年中に終えようとしている予定は1Fフロアの清掃&ワックス、あとは期限を区切っていないTo Do List記載の9項目。無論リストに記載していない誘惑(読書や好きな曲のEWIフィンガリング譜作成)は常に目の前にある。

 <渡辺京二 『無名の人生』(文春新書、2014年)>:世の中に対する著者の考え方がよく理解できる、そして共感する、平易に書かれたエッセイ的な内容。以下、幾つかの引用とメモ。
 「人間の生命に限りがあるのは、退屈さにピリオドをうつためではないでしょうか」
 「要は、基準となるべき独自の尺度を一生かけてつくりあげられるかどうか」-高校時代からいつも思っていた(る)ことがある。人生に方程式はないのか、宗教というものは感化を受けるものではなくて自分で形作るものではないのか、既存の宗教はそのためのテキストの一つでしかない。その行き着く先には「自立と自律」というバックボーンがある。
 「ケアとは、人間の存在を「ニーズ(基本的な欲求)の固まり」と捉える人間観・・・じつは、ケアこそが、もともとはありもしなかった人びとのニーズをつくりだしているのではないか。これがイリイチが看破したしたことでした」
 「世話になっても依存したくはない」
 「選挙民のメンタリティにモメンタムがはたらく」
 「西洋では主人の言葉は絶対命令だけれど、日本では使用人は自分の考えを持ち、その方が主人のためになるなら、自由に裁量権を行使する」-忖度と連繋し、そして時には間違いを犯し責任転嫁される。
 「(西洋の)彼らは「(日本の)娘たちは可愛らしいのに、どうして男は不細工なのか」とも言っています。だから「ムスメ」という言葉がフランス語にもなりました」-西洋人が幕末に描いた日本のスケッチのなかの男の不細工さに自分が繫がるとは思いたくない。
 「フォークナーは「批評家とは馬の尻尾にたかるアブにすぎない。だから私は批評を一切読まない」と言い放ちました」
 「「あなたは芸術に迷い込んだ俗人よ」。つまり、芸術家は俗世から切れてしまうものなのに、あなたはずっと俗人の世界に対して憧れを持ち続けているのね、と」
 「陋巷に生きる」

2022年12月1日木曜日

トイレ水洗モーター交換、渡辺京二の本2冊

 トイレの水洗モーターが動かない。2年前にも動かなくなりメーカーから特例扱いでモーターを取り寄せたが到着時には何を処置せずともすぐに正常な動作に戻り交換せずのままにいた。その後何度か動かないことがあったが-不思議なことに自分の時に不調になることが多い-半日も経てば正常動作になるので2年間は補修せずにすんでいた。前日にまたもやモーターが動かず手動で水洗していたが今回は一日過ぎてもだめで、とうとう交換することとした。補修交換はいたって容易であり、便座を取り外したついでにフィルターや他の箇所も徹底的にクリーニングし、勿論モーターは正常に動作した。モーターが不調となった原因について分解調査するという好奇心はわかなかった。

 <渡辺京二 『未踏の野を過ぎて』(弦書房、2011年)>:主に世相を論じた文章群、真宗寺-佐藤秀人に関する箇所に惹かれた。でも、実際に真宗寺の中に入り住職の一方的と思える思考(嗜好)を聞くのはおそらく断えきれないであろう。強烈な個性を前面に出して自説を主張する人は苦手である。こういう人は魅力的であっても個人的には適度な距離を保っているのが自分にとって好ましく思える。反面、彼の後背にある浄土真宗とは何か、知りたくなる-と思って何年経つであろうか。法然に惹かれて過去に何冊か本を読んだけれど、そもそも「宗教」というものがちゃんと理解できていない。

 <渡辺京二 『細部にやどる夢 私と西洋文学』(石風社、2011年)>:取上げられている西洋文学の作家/作品は一冊も読んだことがない。したがってそこの部分は斜め読みし、ちゃんと(?)読んだのは書物に関する筆者のエッセイ数編。購入して10年以上も経つ本をこのように取り扱うのは自分自身の体たらくと自戒(自壊)でしかない。

 『週刊文春』の年末恒例「ミステリーベスト10」を確認するために書店に行った。本屋に行く頻度は以前に比べて格段に少なくなっている。いつもの癖が出て予定外の本を2冊買ってしまった。
 この書店ではクレジットカード読み込みのエラーが多い。他の所ではなんともないがここではよくエラーが出てしまい必ずといって良いほど読み取りを繰り返される。

2022年11月26日土曜日

渡辺京二さんの本ニ冊

 積ん読状態の本を引っ張り出し、在庫処理といった感もあるが、古いものから順に読んだ。

 <渡辺京二 『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』(洋泉社、2010年)>:交易を求めるロシア、アイヌやロシアとの接触で立ち回る松前藩、松前島(北海道)に向き合いのらりくらりとも思われる幕府の対応、ロシア人と融通無碍に接する日本の商人やアイヌ、民族国家建設を意識しないアイヌ人。文献に裏打ちされるエピソードによってそれぞれの人たちの思いや生き方が活写され、小説を読むような面白さがある。そして現在にも通じる中央政府の決断の遅さや事なかれ的処理などを認識する-これはもう日本人固有の性質なのであろうヵ。
 アイヌ社会の基本単位がコタンであり、国家形成の意志がなかったアイヌは、日本商人がアイヌの地に入り込むにつれ江戸後期には人口が激減し、ついには日本という国家に飲み込まれてしまう。なれど、幕末の日本経済を支えた中には「アイヌ民族の苦難と衰亡があった」。一方、「どうもアイヌは日本国民の顔をしながら、あくまでアイヌとしていまでも生き続けているようなのである」。アイヌを語るとき、日本人一般には蔑みの視線があると思う。それは沖縄の人々へも同様である。差別や蔑みの意識を覚えたらそれがどこから染み出てくるのか、どうしてなのかを考えねばならない。考えることによって己の存在や生き方を見直すことにもなる。
 幕末史に触れるときページを開き確認しなおすために、あちらこちらに線を引き、付箋を挟んだ。
 読み終わってから12年前に目を通した『オホーツクの古代史』(菊池俊彦)を引っ張りだし、赤線を引いた箇所を斜め読みしてみた。だが無味乾燥のように文献が紹介され、流鬼国や夜叉国の位置などが論じられるばかりで、そこには人々の生活文化がさほど浮かんでこない。

 <渡辺京二 『女子学生、渡辺京二に 会いに行く』(亜紀書房、2011年)>:渡辺京二さんの生の声(会話)を初めて活字で見た。「~の。」で終る口調が気になったがYouTubeで講演を視聴したら違和感はなくなった。それはさて置き、やはり共感する。津田塾大学の学生たちとの対話は著者80歳のときであり、その80年間に積み重ねられた彼の思想というか生活観というか、社会への向き合い方に、不遜な言い方ではあるが同調する。
 父親が家庭を顧みない人で、母親は甘やかしていたらしいし、長男は重度の自閉症で施設に入っているということは初めて知った。妻とのやりとり、男と女の関係性(情愛)なども語られて面白く読んだ、というよりは共感の強さをより強く意識した。

2022年11月15日火曜日

読書するということ、娘の息子の大学合格

 本を読むということは、ありとあらゆるすべてを包含するこの世の中において、自分の立つ位置を探り、確かめるということを円環の如く繰り返すためのツールなのではなかろうか。・・・表現がすっきりとしない。渡辺京二の次の言葉が腑に落ちる。「読むというのは他者の生命のリズムを自分のからだに刻印されることなのだ。だからそこには受容と同時に拒否も生じ、自分の魂のなかを他人の魂が通過して行った痕跡、つまり抗体のごときものが形成され、多かれ少なかれ、その後の生はその抗体の働きに左右されることになる」。

 娘の長男が11/1に早々と大学合格を決めた。高校は進学校に向けて実績を伸ばしている中位の私立高校。高校入学後は本人も言う通り勉強はあまりせず成績も下の方。2年になってから自分の進みたい学部を決め、首都圏の大学についてかなり調べていたようである。勉強をあまりしていなかったので高校1-2年の成績は振るわず、本人が言うには学校推薦や指定校推薦は早くに諦め、受験すべき希望大学を絞っていたようである。少し高望みではないかと感じていた。AO(専願)入試の受験科目を高校2年時には選択しておらず、高校の教員もその大学受験は諦めろと主張していたようである。しかし受験科目は3年になってから集中的に2-3年分を独習し、解らなければその科目の教師に何度も教えを受け、その教師もクラス担任の主張には反して受験してもいいのではないかとサポートしてくれたらしく、勉強を続けたようである。
 高校では希望学部のある大学2校について指定校推薦を進めてきたらしいが、本人はその大学については国家試験合格率などが低いと端から拒否し、あくまでも希望大学1本に絞って受験を繰り返すつもりでいた。安全圏内を進めても本人が納得しないと碌なことにならないと、娘は勉強のための金銭的サポートは惜しまなかったようで、私立高校であるがために受験のための夏期講習があるのだが、それを拒否し、高校と交渉し(担任教師もサポートしてくれたらしく)受講料を返金してもらい、自分で探して春頃から通っていた受験塾に通い続け、娘が言うにはあんなにちゃんと勉強しているのは生まれて初めてのことと感慨深く話していた。
 そして希望大学のまずはAO(専願)入試が10/22。筆記試験はまぁまぁだったらしいが、面接や小論文は思っていた通りに終えたらしい。特にこの子は人と接する姿勢が良く、性格が素直で主張もはっきりしている。合格の可能性は半信半疑で、何か受かるような気がすると口にしていたのは連れ合い一人だけ。
 「受かったよ-!!」とLINEに入ったのは合格発表当日の13:30頃。本人より先に合否を知るのはまずかろうと息子からの連絡を待ってから合格を知り、我が家に立ち寄って玄関を開けたときから嬉しさに涙ぐんでいた。受験者本人は受験校を1本に絞り、AOが不合格なら、その後も3回続く一般選抜を受験するつもりだったらしい。そうなれば次第に合格のハードルは高くなるし、娘が言うのは受験料もバカにならないとのことである。娘は話しながら何度も涙ぐんでいた。
 早々に大学受験合格を決め、この後は遊びほうけるのかとも思ったが、今の時代は合格後に大学から課題が送られてくるし、受験塾も勉強を続けさせるようである。
 数日が経ってから我が家に寄ったその子から受験期の話を聞いた。一般論文や面接については彼の一歳年長で大学1年のガールフレンド(恋人ヵ)がかなりサポートしてくれたらしい。一般論文ではこういうことが出るのではないかと予想し的中させたのも彼女らしい。合格のお祝いと、大学進学入学のプレゼントをするから欲しいものを考えておいてと宿題を出し、何を希望してくるのかが楽しみである。サポートしてくれた彼女にも何かプレゼントするから伝えておいてと言った。娘も母親として心配もしていたことだし、駅までの車での送り迎えも頻繁にしていたので、現金でお祝いをあげた-たまには自分の好きな服でも買ったらとの言葉も添えて。

2022年11月8日火曜日

西村賢太、渡辺京二

 <渡辺京二 『アーリイモダンの夢』(弦書房、2008年)>:個人を軸とした評論には関心がなく、斜め読み、流し読みあるいは読み飛ばす。それは横井小楠やイリイチ、石牟礼道子、宮崎滔天や漱石などである。しかし、網野善彦批判は鋭く(表面的にならざるを得ないが)勉強になる。
 「カオスとしての維新」を通してやはり近代日本の画期となった維新へ関心は深いことを自覚する。気になること言葉は別記し、「カオスとしての維新」の章は全文をコピーしていつでも振り返られるようにした。

 <『文学界7月号 特集西村賢太』(文藝春秋、2022年)>:「特集 西村賢太 私小説になった男」だけを読むために購入し、摘まみ食いしながら、幾つかは読み返したりして5ヶ月。今更ながらではあるが西村賢太の死はあまりにも突然で、生き続けていたら「文学界」という世界でこの作家は今後どう息をしていくのだろうかと漠然とした思いが淀んでいた。特集は以下の4編からなる。
 ①田中慎弥と阿部公彦の対談、②古書店「朝日書林」店主・荒川義雄氏による「西村君との30有余年」、③遺作『雨滴は続く』の中で北町貫多が好意を寄せる新聞記者・葛山久子が匿名で載せた「親愛なる西村さんへ」、④木村綾子による「北町貫多 罵倒アンソロジー」。
 荒川さんのことは西村賢太の著作の中で知っていて、彼は最後までこの人に気持ちを寄せていて且つ随分と迷惑をかけていた。その様子がよく分かる。荒川さんの助言通りに病院に行っていれば、もしかしたら西村賢太は死なずに、病院のベッドで看護婦さんを相手に新しい物語が創られていたかもしれない。北町貫多の罵倒の言葉はもう「罵倒」の域を超えている。でも、小説を読んでいてどこか哀しくて面白く、だから読者に愛されたのであろう。
 この作家はこれからどう残るのだろうか、かつての多くの作家のように著作は書店から消え、忘れられ読まれなくなるのだろうか。遺作となった『雨滴は続く』を最後として読みたいと思う。

2022年11月2日水曜日

PC不調、NZ戦

 サブマシンとしていたPC、一度立ち上がったが再起動すると結局はFixing状況となりもう駄目かと諦めかけたが、電源オフしてPCのカバーを開けてDドライブのHDDを取り外し、結局はこのHDDが故障していた。それだけで全不具合を説明できる訳ではないので、HDDなしの状態でリセットをかけて初期状態にし、次に丸ごとバックアップしていた外付けHDDからCドライブを復元したら一ヶ月前の状態に戻った。各種ドライバーを更新させてまずはOKとなった。余っていた外付けHDDをDドライブとして取付け、NASに常時保存しているデータをコピーしてすべて復活させた。
 ・・・と思っていたら今度は昨年夏に購入しメインPCとしていたPCがおかしくなった。ドラバーを更新させたらおかしな動きを示すようになった。ライセンス制限の為にこのPCだけはバックアップソフトが異なり、これで復元しようとしたら、ソフトが悪いのか、自分のミスなのか、リブートするとエラーメッセージが出続けてからwindowsが何とか立ち上がる。立ち上がってもアプリが動作するか否かは分からない。そのうちリブートしても立ち上がらなくなってしまった。修復モードにも入れない。ネットでいろいろ調べるともう素人には手をつけられない状況だった。修理に出す費用は4~5万円はかかるだろうと書かれており、それでも直るとは断言できないらしい。もうこのマシンは廃棄するしかないと断じた。1年と少しの寿命だった。このPCは購入して数日後に不調になり、販売元からの電話サポートを受けて修復したことがあったもので、そのときから基礎疾患に罹っていたのかもしれない。
 サブマシンをメインに格上げしてもやはり自室にはもう一台音楽再生を中心に使うPCは欲しい。ということで、2万円もしないミニPCを購入。CHUWI HEROBOXでDドライブにはまだ余っているHDDを取付け、通常はテレビにHDMI接続する。FHDではなく24”HDのテレビなのだが、このPCの使用目的には支障ない。マウスとキーボードはそれぞれ2,000円もしない安価なワイアレス。初めてのWindows11で、この安価なミニPCはなかなかに快適である。不安は耐久性だがこればっかりは使ってみるしかない。
 ついていないことは連続するもので、ネット購入したワイアレス・キーボードが全く機能しない。交換の要求をしたら翌日に交換品が到着し、それで正常に機能した。まったく、と愚痴も言いたいところだが、ま、PCの不具合に関していい経験をし、多少なりとも知識も増えたかもしれないので良しとしよう。何かを得ようとしたら何かを差し出さなければならない、これは自分の信条でもあるのだから。

 NZ戦、友人からのメールで惜敗だったことを知った。1995年ワールドカップでは17-145と記録に残る屈辱的大差で負け(大会史上の最大失点で今後も破られないであろう)、それを思うと今回の31-38(4T4G1PG-5T5G1PG)は驚くばかりのスコアである。ただ、日本のトライはラッキーというものがあり、フェーズを重ねてのトライではなくそれが少し物足りない。

2022年10月26日水曜日

ラグビー、渡辺京二の一冊、掃除、PC

 23日、関東大学ラグビー対抗戦の早稲田vs立教戦。新潟陸上競技場は風と雨の悪コンディション。立教の反則が続いて攻撃のフェーズが重ならず、ミスも多く、フラストレーションのたまる試合だった。それにレフェリーが反則やセットプレー時にプレーヤーに話す言葉の回数が多く、それもまたゲームが波に乗れない要因の一つと感じた。立教がディフェンスを積極的に行っていることは理解できるが余りにも反則が多すぎる。中断するためにフェーズが重ねられず早稲田の攻めが畳みかけられない、そしてミスしてしまう。また、風のせいもあろうがラインアウトのスローイングでノット・ストレートのミスが多い。
 SHは島本→小西、SOは吉村。伊藤や宮尾、相良、松下、岡崎、細屋はリザーブにも出ていない。特に伊東は8月の帝京との練習試合で怪我をしたらしい。復帰は未定とwebで見つけたが早くフィールドに登場して欲しい。
 スコアは31-7(5T3G-1T1G)。勝ち点では帝京がトップで(20点)、1点差で早稲田・明治・慶応と並ぶ。結果のスコアだけで判断すると帝京>>明治>早稲田>慶応という順位ヵ。これからはこの4校が激しい戦いになり、11月以降ピークを迎える。

 年末の掃除を一気にやるのはしんどくなってきたのでまずは1Fの外側のガラスや壁、2Fのベランダの清掃を実施。さらに結構な作業量となる1Fベランダの徹底清掃。古い塗装膜をケルヒャーで落とし、乾いてから部分的にもう一度繰り返し、次に乾燥後にサンドペーパーをかけようとするも翌日は雨で中段。結局サンドペーパーかけと塗装を3日に渡って行った。
 ものは序でと花壇雑草駆除にも手を入れたが、抜き苅した草や枝はまだ花壇の側に数ヶ月前から放ったまま積み重ねただけで、これも気持ちが向いたらキチンと後始末をやろうとの気持ちだけがある。

 <渡辺京二 『熊本県人』(言視舎、2012年/初刊1972年)>:著者の「幻の処女作」ということで購入したもので、別に熊本県人に関心があったわけではない。ただひたすら著者の本であるからということで購入し、長らく積ん読状態になっていた。「肥後人の精神の流れをつらぬいている1本の赤い糸のようなものに心をひかれてきた」とあとがきで書いているが、そういった郷土精神のようなものや、特定の偉人話にも昔から関心が低く、何かを感じるのではないかと期待したが結局は斜め読みしたなかに何も見つけることはできなかった。

 戦国末期の石見銀山を舞台にした小説を楽しんだ。メモはもう一つの鉱山関連のブログに書く。1月に読んだ『輝山』のメモもそちらに移動した。

 昔の映画音楽(1960年代)の幾つかのスコアを探すも見つからない。メイン・メロディだけのスコアが欲しいのだが耳コピには自信がない。時間をかけて自分で作るしかない。

 サブマシンとしていたPCが重傷。パーティションで作成しているドライブDが認識されない。リブートを何度か試したら今度は立ち上がらなくなった。そしてついにブラックアウト状態から起動画面とならず、Fixing状態となり、約35時間経過後に立ち上がったが、その後windowsのアップデートがかかり再起動で再度立ち上がらず、再びの自動修復となって30時間経過後の今もまだ継続している。
 SSDが故障、あるいは死にかけているのか、判らない。いつ終了するのか判らないが今のFixing状態を続けるしかない。使用して4年経過のPCであるが早死にしてしまうのか。もしそうなってもデータは常時NASに保存してあるし、正常なPCはあと2台を使用しているので大きな不便さはないが、修理するか(SDD交換も含めて)新規に買い直すか迷うところではある。まずはFixing終了まで静観するしかない。

2022年10月19日水曜日

左翼史、60歳をすぎての生活ヒント、漫画

 <池上彰・佐藤優 『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』(講談社現代新書、2021年)>:本書が対象とする時代は自分より10~20年ぐらい早い世代の同時代史といったところなのであるが、自分にとっては過去に読み聞きしてきた亜同時代史的な左翼の歴史テキストである。解説される歴史(政治)用語や人たちは殆ど知っている。しかし、内容まで知悉している訳ではないので復習するという気持ちで読んだ。この二人の「日本左翼史」はあと2冊読むつもり。
 現在のロシアと中国を彷彿させる指摘をここに記しておく。 「ロシア人は国境を「線」ではなく「面」で捉えており、地図上に引かれた線が自分たちと他国を物理的に隔てているとは全く思っていません。そういう観点からしてみれぱ他国との間に線的な国境が引かれていようと安心できないので、国境の外側に「何か」が起きた際に軍事展開ができる緩衝地帯(バッファー)を欲しがるのですね」-ウクライナを攻撃し一方的に併合したロシアの現在はこれかと得心する。
 「鄭小平の時代になって1974年に「三つの世界」論を出してきたんですね。東西それぞれの陣営の覇権国であるアメリカとゾ連が第一世界で、第二世界にはその両国に従属せざるを得ない東ヨーロッパ諸国や日本、西欧諸国がある。そしてそれらとは別の第三世界もある、中国はその一員であるとした」。結局、中国は独自の世界観で世界の中心-中華-であることを目指している。ま、将来的にロシアは第一世界から外れていくのであろうけれど。

 <--- 『60歳すぎたらやめて幸せになれる100のこと』(宝島社、2021年)>:わずかではあるが身辺の不要品を廃棄処分している中、何か抜け漏れはあるかと参考にしてみた。
 このムックの読者対象は女性である。定年退職した男性は廃棄処分対象とはなっても老後人生を「幸せになれる」対象とは想定しにくいのかもしれない(!?)。また、多くの家事全般の簡略化が推奨されているのは、これらが女性の役割であるとされている社会を連想させられた。それは、男性が愛する楽器やアウトドア用品、CDやレコードなどは直接には触れられていないことなどから窺われる。
 新たな発見や気付きはなかった。すべて当たり前、あるいはいろいろな記事でいままで目にしたことだけだった。

 <都留泰作 『竜女戦記 5』(平凡社、2022年)>:江戸期のパラレル・ワールド(と感じている)物語。登場人物のプロフィールを何度も確認して記憶を呼び戻し(戻らない場合は諦めて)本文の頁を捲る。

2022年10月18日火曜日

『マンガ猥褻考』

 <黒鉄ヒロシ 『マンガ猥褻考』(河出新書、2022年)>:「猥褻」とは何かと己に問いかければ、それは、「日常と非日常の境目」にあり、権力(者)が、個人的な性的嗜好を横に措いた上で社会秩序なる言葉を前面に出し、組織の中枢で生きる彼らがその個人的経済的安定を背負い出世のために理論(屁理屈)を駆使して庶民を抑圧し、一人になれば芸術愛好と称して枕絵(春画)に魅入り、下手すれば家庭が大事と旧統一教会の信仰に囚われて政治生活を営む。何を言いたいかと言うと、「猥褻」とは個人にとっては深く考えるものではなく、(家庭から国家までの)社会組織を意識したときに観念するものでなかろうか。・・・自慢気に言えば、以上の文章にはSprangerの6種の価値観を含んで編んでみた。かなり支離滅裂ではあるが。
 猥褻は、社会を意識せずにすめばFreedomな範疇にあり且つLibertyなものであろう。面倒くさいのはやはり、社会規範などを意識したときである。尚、手許にある英英辞典から引用すれば、Freedomとは「the right to do what you want without being controlled or restricted by anyone」であり、Libertyとは「the freedom and the right to do whatever you want without asking permission or being afraid of authorit」である。
  “「日常と非日常の境目」にある「猥褻」”というフレーズから頭に浮かぶのは、絵画「世界の起源」であり、且つその前で脚を拡げて局部を拡げる女性の姿勢。絵画を見ればそこには作者の哲学はどうなのかとの想いが沸騰するお湯の泡の如くに沸きだし、女性が局部を拡げる様態を見れば政治的抗議や社会的抵抗を想う。
 西洋のバイブレーターは当初ヒステリー症状の治療に使われたらしいとある(性的緊張からの解放治癒ヵ)。一方日本の張形は職人の工芸品を思わせ、房事に与れない孤独を埋めた(煩悩からの解放ヵ)。なる程、西洋では治癒を求め、我が国では内省的に道具を求めるのか、なんて何となく得心した気分になる。ちなみに今PCのキーボードに向かっているこの時間はバーボン・ウィスキー(Woodford Reserve)を飲みながら書いている。
 「エロ、スケベ、好色、色情、色欲、リビドー」、黑鉄さんは海だろうが谷だろうが、まずは「猥褻の森」と書く。無論、オレとてもその森から出ることはできず、出る気持ちもなく、モニターに映る女性の画像を見ては、奇麗だ、可愛い、素敵だ、頭が良さそうだ、・・などと妄想を抱くに過ぎない。でもこれって猥褻の部類なのか、否、そうではなく人間や社会を見つめているに過ぎない。「日常と非日常の境目」を「正義と不正義」、「正常と異常」と解釈すれば、現在の社会的事情を正視せずに「丁寧な説明」などと空疎な言葉を並べるだけの今の国内政治や、ロシアのウクライナ攻撃は社会的な「猥褻」ではないかとの思いもする。
 ・・・・酔いは深まっている。

2022年10月13日木曜日

結婚記念日、『英雄』

 48回目の結婚記念日を迎えた。長い結婚生活を経て、諧謔の装いをまといながら、よくぞここまでもったものだとか、という台詞を吐く人もいるけれど、自分にとってはそんな気持ちは全くなく平凡に寄り添いながら、性格の違いによる我儘や勝手さやすれ違いはお互いに受け入れ、平穏な日々を過ごしてきた歳月だったと思う。これからもそう続いていくのだろう。
 相互に何かプレゼントしようかとも口にするが、どちらも格別欲しいものはなく-年齢を重ねれば食欲も物欲も薄れるばかりなので-、特に記念日を祝うとかのイベントもなく過ごした。外に出ることも尠くなっている昨今なれば、せいぜい部屋着でも新調しようかと久しぶりにショッピングセンターに出かけただけだった。昨日けっこう飲んだので酒精を口にすることもなかった。

 <真保裕一 『英雄』(朝日新聞出版、2022年)>:植松英美(えみ)は実の父親を全く知らなかった。山藤ホールディングス創業者で元会長であるその父南郷英雄が拳銃で射殺される。英美の母は7年前に病死しており、最後まで実父のことは全く語らずに逝ってしまった。英美とは母を異にする南郷の長男・次男・長女、それに長女の夫たちとの遺産を巡り駆け引きが始まる。英美は父のことを知りたく、弁護士深尾女史や伯母/春子や異父の弟/正貴・妹瑞希のサポートを受けながら調査を進める。
 南郷英雄が生きてきた時代と現在を行き来して最終的には殺人犯にたどり着く。英雄が南郷家に婿入りする前の苗字は吉藤であり、創業した会社の名を何故に山藤としたのか、山は何に由来するのか、それがキーとなる。
 戦争直後の英雄の烈しい人生、運送業から事業を拡大する際の厳しい経営と人的関係、それらが現代と交錯しながら展開される。①殺人犯を明らかにするということが物語の大筋の背景にあるが、②主軸は英雄の戦後からの生涯を炙り出すことにあり、③英美が父を知りたいという動機はその間接的手段としての位置づけにある。面白くは読んだのが、この三つの構造が小説の焦点を甘くしている。

2022年10月6日木曜日

通院、74歳まで・・・、江戸川乱歩賞

 10月に入った。今日は雨で肌寒い日となった。
 3ヶ月の間を空けて病院に行った。雨が降っているせいであろう駐車場は満車となっておりすぐには入れなかった。泌尿器科のエリアは老人たちが沢山いて、立って診察を待っている人も沢山で、老婦が老夫の座る車椅子を押す姿も何人か見かける。自分も受付に診察受付書を提出すると、お一人ですかと確認され、一瞬戸惑うがああそうか老人は付き添いもよくあるのかと得心し、いやオレは単に頻尿の薬の処方箋を頂戴しにきただけと口には出さずに独り言ちた。
 世の中がコロナ禍となってから人間ドックには行かなくなり、さらに友人が前立腺癌に罹ったこともあり、次回には一通りの血液検査を申し込んだ。3ヶ月後の1月6日には最初に採血をして結果を待ってから診察を受けることなる。
 ふと思う。10月となった。次回の通院は1月。そうか、74歳になる4月までは半年を切ってしまったか。やっぱり傍目には老人なのだろうな、60歳を待っていた頃が懐かしい。毎日深夜近くまで会社で仕事をしていた頃-定年を迎えるまで続いた-が思い出される。10年、20年の経つのは早いものである。

 <荒木あかね 『此の世の果ての殺人』(講談社、2022年)>:2022年第68回江戸川乱歩賞受賞作。作者は23歳の九大文学部卒業の女性。選者たちの高い評価を得て今年度の受賞となった。
 ドライブしていたら自殺者の死体がぶら下がっている。家に帰れば首を吊った父親の死体が不自然な格好のままに横たわっている。処置に困って道端に捨てた。あちこちに放置された死体がある。弟が卒業した中学校には殺された多くの死体が床に並べられている。殺人は体を何カ所も刺され或は切られている。等々、このような、死体がいっぱいという類の小説は好きではない。ゾンビが歩き回るとかホラー小説は絶対に読まない。だから読み始めにこのミステリーは自分の好みの範囲外であろうと感じた。が、豈図らんや、とても面白く読んだ。文章も上手い。作者はいい読書を続けてきたのであろう。
 数ヶ月後には小惑星が熊本に衝突し、地球は滅亡の危機にある。ために人々は海外に逃げ、あるいは絶望して自殺し、警察署からも署員はいなくなり、ごく限られた人が警察システム解消に向けて働いているだけ。ゴースト化する町-福岡近辺がこの小説の舞台。この設定の中で描く連続殺人事件が新鮮である。スピーディーで、殺人のロジックが明解で、伏線の張り方に感心し、語り手のハル-小春-の内面描写も上手いと感じた。
 物足りない点は、登場人物のそれぞれの人生のダークな部分や悲哀が掘り下げられていないこと。例えば、引きこもりとなった弟、元刑事で一緒に事件を追うイサガワ先生、警察官の市村、そしてハルのそれまでの人生など。短くともよいからもう少し深く描かれてもよいのじゃないか。最後の大団円は安手のミステリードラマを彷彿させられた。
 若いし女性ということも相俟っているのだろう、大型新人ミステリー作家と評されている。ただ、ミステリー作家というジャンルで括れば、桐野夏生のような、人生の深さや社会性を描写する作家にはなれないと思う。あくまでも娯楽的な視点で、今はやりの奇想な場面で殺人ゲームを物語する作家であろうと、今は感じる。この作者の本を読み続けるのか否かは次作が分岐点となろう。

2022年9月30日金曜日

知人の病、本2冊

 月に一度短い会話をする知り合いがいる。1歳下の男性で、静脈瘤の話しをしたりしていて、最近は彼の万全とは言えない体調に関することが多い。又、彼の老齢の母親がほぼ寝たきりになっていることも話されていた。
 数日前も最近の体調はいかがですか、ということから始まったら、彼の奥さんがどうも認知症を患ってきたようだ、しかも症状のすすみが早いと言っていた。間違いを指摘すると奥さんはとても怒るし、寝たきりの母親の面倒も見てもらっているので強いことが言えないし、病院に行くこともとても口に出せないと言う。料理の順番も分からなくなってきており、最近は炊事をしなくなっていると言う。お湯を沸かしっぱなしにしていたこともあり、ガスをいじることがとても心配だとも言っていた。几帳面で真面目な人ほど認知症の進行が早く、彼の知っている二家族もそうだったと言う。
 暗い話しになったので話題を変えようとしたが、彼は奥さんのことを話し続けていた。苦しい心情を誰かに話したかったのではないかと思う。この文章を書いている私の連れ合いの親しい友人も緩やかに認知症がすすんでいるらしい。どうしようもないことだが身につまされる。

 上記のことと同列に書くことではないかもしれないが、親しい友人二人が癌に罹患した。一人は入院治療中。一人は転移もなく自宅で普通に生活し、切除手術待ちであり、手術後は完治すると言われているらしい。
 会社勤めの頃、親しい同僚二人が胃癌に罹り、手術後に二人を交えて話しをしていたとき、二人が切除した部位の大きさを口に出していたことを思い出す。完治するとみられる病気の場合は笑いながら話しができるし、あっけらかんとしたものである。前記の手術待ちの友人とも電話で話す内容に暗さは皆無だった。
 恙なく残りの人生を完うしたい。

 <ヴィクトール・E・フランクル 『夜と霧 新版』(みすず書房、2002年)>:安易に感想を書くべきではないし、読後の複雑に入り交じった感情を言葉で表現できない。

 <佐高信・佐藤優 『世界と闘う「読書術」 思想を鍛える1000冊』(集英社新書、2013年)>:佐高信が一言話し、佐藤優が豊富な読書量と博識さに裏付けられた見解を応え語る、という感が強い。歴史の中であまり知られていない(自分が知らなかった)事実、外務省や国会議員たちの品位のない振る舞いも話される。リストアップされている本に、既に読んでいた本、読みたくなる本、読まなくてはならない本・・があり、それらの書名と簡単な解説にいつでもアクセスできるようこの新書は辞書と並べて本棚においておく。
 (いつものように)幾つかの言葉をアフォリズムとしてピックアップし別途まとめておく。

2022年9月25日日曜日

自室のオーディオ構成

 十数年にわたってオーディオ機器に遊びすぎ、結線が複雑になってしまっている。自室のオーディオの構成は下図の通りであり、時折この図を見て操作確認しないと音が出ないことがある。もう増えはしないだろうと思っていたが、簡便な操作で遊びたくて『ステレオ』誌付属の安価なLUXMAN製グラフィック・イコライザー(EQ)を購入した。ハイレゾの構成には割り込ませずに支流とも言えるラインに追加した。ケーブルは眠っていたある程度グレードの高いコンポーネント・ケーブルを短くしRCAコネクターは付け替えた。

 ボーカルの曲に5バンドの周波数をいじっていると好みの趣となって楽しめる。クラシック系に手を加えることはないが、ポップス系、ジャズ系は周波数バンドを変更すると楽しめると思う。

 購入したEQを選択するまでには中古品も含めていろいろなものを探しまくった。しかし、昔と違ってルーム・オーディオ向け商品はごく限られ、結局はここに落ち着いた。

 長年にわたって修正・追加・変更を加えているのでブロック図はスマートでない。工夫すれば分かりやすい綺麗な図になるのだろうが、この図に慣れ親しんでいるので新たにレイアウトする気にはならない。




2022年9月24日土曜日

戦争漫画とバカな店長

 <矢口高雄・バロン吉元ほか 『幻の戦争漫画』(詳伝社新書、2022年)>:バロン吉元・木村直巳・矢口高雄/小池一夫・北川玲子・川島れいこが1971~2005年に描いた5編。木村直巳の「銃後15の春」がもっとも好みである。作者紹介を見て、彼は『監察医 朝顔』と『新おみやさん』の作者であり、彼の描く世界になるほどと思う。最も長いものが矢口高雄/小池一夫の「燃えよ番外兵」であり、この漫画が描かれた1971年、51年前当時の戦争漫画の単純さを思う。
 戦争を舞台にした単なる活劇、戦争の渦中に生きる青春と社会への懐疑、悲劇を描く反戦的装い、戦時中の恋愛を通して過去を思い穏やかな現在に繋げるもの。様々な切り口で戦争を舞台にするが、自分の年齢のせいもあろうが、気の抜けた飲み残しのビールを飲むような感覚になった。

 <早見和真 『新!店長がバカすぎて』(角川春樹事務所、2022年)>:バカを無理に作っている。書店内の描写が少ない、というか書店外の描写が多くて、ツマラナイ。前作の『店長がバカすぎて』を超えていない。

2022年9月22日木曜日

宗教の勧誘

 ○○新聞が郵便受けに入っていた。新宗教と分類されるある宗教の布教を目的としていて、記事は会長講演の内容、誰それが何それに任命されたとの人事、前政権批判、敵対する宗教団体批判、布教活動の成果、個人的信仰の深さ、等々。こちらの意図に無関係に、年に何回か目にするいつものパターンであり、さっと眺めて廃棄する新聞の中に混じり込ませた。
 翌日、鳴ったチャイムに応じてモニターを見たら中年と思しき女性が、昨日○○新聞を入れさせていただいた者ですがと話しはじめ、すぐにあらゆる宗教勧誘を拒否している旨伝えたら、一方的に何かしゃべり始めた。それには応じず強い言葉を発したら返す言葉を失ったようで黙って背を向けて帰っていった。

 布教する宗教を受け入れる気持ちは皆無である。宗教という限定された言葉は使わずに、自分で自分の周りの事物を見つめ、考え、自分自身のこととして何かを追い求めたいと思っている。だからなのか、高校時代に人生というものを考える方程式はないものかと漠然と思ったときがあった。

 数日後、今度は別の新宗教のチラシが入っていた。前期の教派と同じく昭和30年代初期に設立された宗教であり、かつてドライブを楽しんでいたときにこの宗教の壮大な建築物を、驚きをもって眺めたことがあった。

 直接的に宗教の勧誘をされたのは高校3年の時で「エホバの証人」であった。何も知らずに下宿先の自室で話を聞き、40代前後と感じた男性は絵入りの聖書をおいていった。何か違和感を覚えたのであろう、あるいは鈍感だったのか、さらりと受け流して終った。

 あらゆる宗教の勧誘や案内説明はすべて直ぐに拒否している。玄関先に来たら、相手が丁寧な言葉遣いをするときは丁寧に端的に断り、しゃべり続けようとする人には強い言葉で応じる。街中や駅前で声をかけられたことは一度もない。
 他人に布教しようとするその行為はどこから来るのか、何故なのか、今もって明解には理解できない。理解しようとも思わない。

2022年9月12日月曜日

家族集合、大学ラグビー

 久しぶりに息子一家と娘一家が自宅に集まりしばしの宴会。前半は駐車場で花火。これは息子の娘の要求にそったものであろう、夕方に電話があって急遽やることとなった。そこに娘の長男を除いて参加した。
 花火終了後宴会のようになった。息子持参の金沢の日本酒とビール、そこに私のビール・ウィスキー・日本酒3種を加え、飲む人は手酌で杯を重ねた。暫く経ってから娘の、塾帰りの長男が加わり全員がそろった。彼は大学受験勉強真っ盛りで、おそらく彼の人生で初めて勉強に集中している時期である。運動不足のせいかちょっと見ない間に結構太っていた。顔が丸くなり、体の肉付きがよくなっている。娘の中1の娘は吹奏楽部に入っていて、それとなく自分のクラリネットがほしいなぁと視線を向けられた。もちろん買ってあげると返答をした。いつねだられるのかが楽しみ。

 大学ラグビー対抗戦グループとリーグ戦グループが始まり、関西は18日からとなる。対抗戦を中心に見てリーグ戦をフルに見ることは尠い。対抗戦は順当な結果であるが、リーグ戦では以下を特記する。
 まずは東洋大が東海大に勝つという大波乱(27-24)。そもそも東洋大がリーグ戦一部に上がったことさえ認識がなかった。212cmのLO留学生が兎に角大きいし、ペナルティ時の東洋大のクイックスタートなどで、東海大が自分のリズムが出せなかった。東洋大が流経大にも勝ったらリーグ戦は益益面白くなる。
 法政が大東文化に勝ってまずは嬉しい(26-19)。大学選手権に進むのが期待の最低ライン。
 8期ぶりに一部に復帰した立正大学はやはり前途多難か(対日大33-44)。堀越さんの監督は24シーズン目となるが一部定着を希う。

 早稲田Bvs明治BでSH小西が後半途中から登場。単純に嬉しい。33-26で勝った。

 勢いで小説4冊を発注。これでまた未読の本が増える。

2022年9月11日日曜日

白石一文『道』、大学ラグビー開幕

 <白石一文 『道』(小学館、2022年)>:2012年から著者の小説を読み始め、本作が28冊目の小説。ニコラ・ド・スタールの実在する絵画「道」が時空転送装置となり、主人公唐沢功一郎は4度移動する。それぞれの別々の世界で、功一郎は高校受験失敗をやり直し、死んだ娘の美雨が生きている世界に生活し、妻の渚とその妹碧の別々の世界を行き来し、芸能界に活躍する若い霧戸ツムギも功一郎の手助けの下に前の世界から離れて今の世界を生きる。誰なのか判らない父をめぐって母の思慮に触れる。
 転送されれば前の世界に生きた者はその世界から忽然と姿を消し、それぞれの世界の記憶と意識は継続したままに今の世界を生きていく。 それぞれの世界に生きる人たちの-功一郎の人生に絡む人たちの-人生が描かれ、功一郎の彼らに向き合う考えや意識、彼らを救おうとする姿勢、見守る柔らかな暖かい視線、自身の葛藤が描かれる。
 絵画「道」からこの小説の構想を考え、物語を編んだのであろう。そしてそこに自身の人生を照らし投影する。現実にはあり得ない架空の世界を描く著者の小説は、それがどんな小説空間であろうとこちらを引き込んでしまう。
 ふと思う、「ノンフィクションは事実を語るが真実を語れない。フィクションは事実を語れないが真実を語れる」と、魯迅の言葉「真実は虚構を通してのみ語られる」と。
 
 大学ラグビーが開幕。筑波は明治に敗れたがプレース・キックの精度が良ければもっと展開が異なっていたであろう。PG2本を続けて外すのは痛い。
 早稲田は前半もたつき後半快調といった不完全燃焼のゲーム展開となった。ラインアウトはコミュニケーションミス、接点は差し込まれる。吉村がSOに入った後半はボールの展開ピードが早くなった。SH宮尾とSOとの連携も吉村の方がいいように見えた。伊藤はやはり怪我らしい、早く出てきてほしい。プレイヤー・オブ・ザ・マッチは1年のCTB野中で、彼は故障がない限りレギュラーとして出続けるだろう。
 前半/後半で結果を記すと、早稲田:7(1T1G)/31(5T3G) – 青学:3(1PG)/5(1T)。

2022年9月10日土曜日

雑記

 最近のニュースとして頭に浮かぶこと・・・国葬、旧統一教会、円安、ウクライナ、民主主義の危機、大谷翔平、3歳の幼稚園児の死、警察の嘘発表、等々。

 国葬:意味が分からない。そもそも国葬という法的基準がないところで政府の思惑で実施するということは暴挙以外の何ものでもない。外国からの弔意をキチンと受けるというけれど、外国の弔意というものは様々な計算の上に立って表明されるものであろうし、弔意があるから国葬をするというものではなく、国葬をやるからその儀式に対応して弔意を表明するという性質のものであろう。そもそも弔意とは個人的なものでしかないと思う。

 旧統一教会:大学生時代にとある駅前で何人かのグループが勧誘していた光景を思い出す。勧誘されたことはない。桜田淳子は姉の影響で加入したと芸能記者の友人が言っていた。ほかにも山崎某が脱会したとかの芸能記事が記憶にある。
 高校1年の時同じクラスにいて上智大学神学部に進学した知人が旧統一教会の現役会員であって、何年か前に同学年の同窓会メンバーに文鮮明の文庫本を送ってきた。同封されていた文章はキチンとした文章であったが教祖を讃える文言には強い違和感と距離感を覚えた。
 勤務先の同僚にも宗教絡みのことを口にされたことがある。妹が宗教に凝ってしまって家族で困惑している、幸福の科学の信者になっている学生時代の知人が電話で勧誘してきたと。
 中学生の頃、下駄屋の息子の同級生の母親が当時勢いよく会員を増やしていた某会に入れ込んでしまって近所で話題になっていた。またその某会の二人が私の自宅に来て入会を勧誘しに来て父親に揶揄されていた。

 円安:少ない額でもあるため放ってあった外貨預金を円に換えてほぼ全額引き出した。少なくともここ数ヶ月の間では利益がでた。

 ウクライナ:この先どうなるのかと毎日ニュースを見ている。そのニュースさえもどれだけ真実を伝えているのだろう。早く終わってほしい。

 民主主義の危機:second-worstとも言われる民主主義。民主主義礼賛は決してしないし、多数決による決定にも疑義があるし、もっと言えば現行の選挙システムに否定的である。

 大谷翔平:不世出の野球選手。ただただ凄いと思う。ピッチャーで4番という選手は高校生にはよくあるが、高校を卒業した後は何かがそれを潰してしまっているのだろう。

 3歳の幼稚園児の死:ニュースを見ていて涙が出る。あまりにも悲惨だし、あまりにも愚かな「川崎幼稚園」運営関係者。「複数の職員によるミスが重なった」と幼稚園側は言っているが、それだけで済ませはいけないし、そこに関係者の浅薄な弁解を感じる。会見の場で手に持った用紙に目を落として読んでいるという姿勢に憤りを感じる。弁護士が作成したと思える文章を読むことで、心からの謝罪ではなく、その場を凌いで批判に対応しようとする意識を見る。
 ミス発生の起因に思いはないのだろうか。せめて「ハインリッヒの法則」を理解してほしい。「・・・だろう」と勝手に判断しているのは感性の鈍さ、想像力の欠如、そしてそれらを膨張させてしまう運営システムにある。

 警察の嘘発表:組織の中に埋没すると人間は平気で嘘をつき、いつのまにか嘘つきになる。誰かが言っていた。嘘をつく場面はあるが「嘘つきにはなるな」と。

 さあ今日から大学ラグビーが開幕する。早稲田はまずは青山学院に大勝してほしい。出場メンバーに伊藤がいないのは怪我でもしたのか。また、小西が復帰してきたが嬉しい。まだB or Cへの出場であるが、最終的にはAのSHに宮尾と小西が名を連ねてほしい。青学戦に出場するルーキーのFL粟飯原、CTB野中、LO栗田に期待が膨らむ。

2022年8月30日火曜日

雑記、東野圭吾のミステリー2冊

 トイレのタンク内排水弁が壊れた。弁開閉ヒンジのU字状回転部の破損。最も負荷がかかる部分が壊れるべくして壊れた。おそらくは、部品点数削減/コスト低減なのであろうが意地悪く捉えればそういうことを意識せずにいわゆる部品の形を作ったというところかもしれない。しかし、一日15回の使用で17年間を考えれば、15×365×17=93,075という耐用回数はプラスティック材とはいえ低いのではないかと思う。

 少しずつ体重が増えている。気をつけなければならない。間食と好きなあずきバーは断った。

 <東野圭吾 『透明な螺旋』(文藝春秋、2021年)>:息子から頂戴した東野圭吾のミステリー2冊のうちの1冊。頁を開いてのイントロで大凡のストーリー展開が予想できた。東北の貧乏な暮らしから逃れるように千葉県に就職し、華やかな東京に足を踏み入れ、男に騙され子供を抱え、挙句の果てに赤ん坊を棄てる。・・・年数が経て母親と二人で生活する女性がいて、母親が死んだ空白を埋めるかのように男が現れて女に暴力を振るい、男は殺される。残された女がいつも抱えている手作りの人形は過去に東北から出てきた女のものであり、ここで全体像の輪郭がより鮮明になる。殺人の犯人を追う刑事。どう繋げるのであろうかと思っていたら、そこで線を結びつけるのがガリレオシリーズの湯川学。その湯川が帯の惹句を借りれば「愛と哀しみ」の渦中に入るのであるが、このシチュエーションが余りにも作られた構図でありある種滑稽でもある。

 <東野圭吾 『マスカレード・ゲーム』(集英社、2022年)>:「・・・(略)・・・スゴイとは思わず、かといってつまらないミステリーではなく、繋がりの見えない連続殺人事件と、これから起こるであろうホテルでの殺人(誰が殺され、誰が殺すのは解っていない)のストーリー構成を楽しんだ。新田刑事とホテル・フロント・クラークの山岸尚美・・・(略)・・・頁を閉じることが惜しくなる軽快なスピード感と謎解きに引き込まれ楽しめた。・・・(略)・・・」。以上は10年前に読んだ『マスカレード・ホテル』の感想メモからの抜粋で、つまり設定は同じ。加わるのは個性豊かな、独善的な梓真尋警部。彼女の行動がストーリーを彩る。殺人犯確定は意外な展開の末であったが、安直な内省と浅薄な感情が感じられ犯行動機には無理を感じる。

2022年8月23日火曜日

タイトル画像変更

タイトルの図を最近はまっているWOODFORD RESERVEの写真に変更。
昨日追加購入、これで3種4本目。

2022年8月22日月曜日

雑草、新書とミステリー

 暑いので外に出て体を動かすのが嫌でたまらなく、庭の広くもない花壇に雑草が伸び放題になっている。暑さが和らいだら草むしりをしようと思っていたのだがなかなかそうはならない。それに暑さが和らいだらと言っているその和らぎの閾値が次第に低くなってきて、結局、花壇は花ではなく少しの樹木以外には雑草が占有している。
 雑草という種類の草花はないので、その成長の早い雑草が見ようによっては生き生きとしているとも思える。でもそれは動こうとしない自分を弁解している様でもある。

 <結城真一郎 『#真相をお話しします』(新潮社、2022年)>:風景も人も描かれておらず、単色の矩形の図形が無機質に組み合わされている絵をジグソーパズルにした、という印象の、もう読まないというミステリー短編集。

 <牧田善二 『糖質中毒』(文春新書、2022年)>:糖質制限がよく言われていて一度きちんと学んで少しは実戦しようかと手に取った。目的は今の体重が増えないように、欲を言えば少し落としたいと。

2022年8月18日木曜日

アルトサックスの雑記、芥川賞受賞作

 EWIで好きなメロディ-を下手なりに演奏している時間が多くなると、好みの音質であるアルトサックスの響を聴く頻度が高くなった。持っているCDはナベサダとKenny Gであり、ここにCandy Dulferが加わった。動画を見ながら心地よい音楽を聴くには女性の方がいいだろう。で、結局はCandy Dulferのベストアルバムを買った。しかし好みではない曲も多い。特に人のコーラスが入っているものは好きではない。
 もっとイジーリスニング的な曲が良いと言うことで安価なコンピレーション・アルバムを購入。安価で著名ではない演奏はやはりそれなりの心地よさしかなく物足りない。そもそもナベサダやKenny G、Candy Dulferと比較することが間違っている。

 もうひとつのブログ<T and T Room – mines>を9ヶ月ぶりに更新。

 <髙瀨隼子 『おいしいごはんが食べられますように』(講談社、2022年)>:とある営業支店と何軒かの飲食店、男のアパートメントという狭い空間、限られた人数しか登場しない小説。
 職場で上手く立ち振る舞い、同僚の芦川女子と関係を持つ二谷。芦川は料理が好きで、かつ仕事にキチンと取り組めないが職場に得意の手作りお菓子を持参し、職場の皆が彼女を守りたくなっている。仕事ができて頑張り屋だが皆と一緒に同調して食事を摂ることが好きではない、しかし周りに合わせている押尾女子。二谷と押尾は時折一緒に飲み、そこでは芦川などの振る舞いを非難する。本の帯の惹句には「ままならない人間関係を、食べものを通して描く傑作」とある。そのとおりで最近読んだ芥川賞受賞作ではもっとも傑作と思う。
 ちょっとした集まりにお菓子や手作りの手芸品を持って来るという女性はよくあること。出張してもお土産を買ってくることに違和感を抱き、いつも手ぶらで帰ってくる人もいた。日々の暮らしの中で、本人がよかれと感じている行為を自制なく振りまく人、無意識に善意を押しつける人、趣味の強制を感じさせる人、このような人は身近にもいた(る)が彼(彼女)たちには一定の距離をとるようにしている。

2022年8月13日土曜日

0円漫画、好きな作家の短編集

 EWI向けに運指を付した楽譜を作り続けるのはそろそろ止め、ミスのない演奏ができるように密度の濃い練習をせねば、と思うがついつい易きに流れてしまう。
 ギター用に揃えた器材を処分しようか、愛着があってとってある本も処分してしまおうか、そもそも捨てられないでいる小物類も部屋を雑然とさせているのでそれらも処分しようかと思っている。以前、何百冊かの本をまとめて処分した様に決めてしまえば早いのだが…。

 <乙川優三郎 『ナインストーリーズ』(文藝春秋、2021年)>:9編の短編集。帯に「人生の黄昏を迎える人々に光を当てた9つの物語」。乙川さんの小節を読むといつも静謐のなかにいる自分を覚える。なれど、描かれる「人生の黄昏」は自分よりも20歳ほど若い人たちである。70歳を越えると黄昏ではなく夜なのであろう。深更も近い。

 <柳本光晴 『響~小説家になる方法~』①-④(小学館、2015-2016年)>:0円キャンペーンで幾つかの漫画を購入したが残ったのはこれと『夏子の酒』だけ。女子高校生と出版社が舞台。面白いが続編にお金を出す気持ちにはならない。

 <尾瀬あきら 『夏子の酒 ①』(講談社、2012年)><尾瀬あきら 『夏子の酒 ②』(講談社、2012年)>:懐かしさで0円購入。物語付き日本酒文化の薀蓄本、という感覚で読んだ。この後に続く夏子の酒造り奮闘記には関心は向かない。

2022年8月5日金曜日

雑記

 30日に4回目のコロナワクチン接種。
 この日息子の娘が陽性となってしまった。家族の中では娘の娘が罹って以来二人目。
 31日、昼近くから体調がすっきりしない。平時より1度ほど体温があがりかったるくなる。ワクチン接種の副反応であろう。8時間ほど経過したら平熱に戻り、倦怠感もなくなった。
 
 NASを導入。LANDISKをかなり前にも導入していたが当時は十分に活用するに至らず接続を断った。今回は1Fと2Fに置いてある合計3台のPCの間でモバイルHDDを持ち歩くのが面倒になり、前と同じくLANDISKを導入。併せて有線と無線の回線速度の測定を行い、古くなっていたLANケーブルのカテゴリーをCAT.7-オーバースペック気味-にアップさせて3本を交換。
 3台のPCは購入年に開きもあり、回線速度にもその差異が表れ、世の中の通信速度向上を実感する。

 大学ラグビー関東大学対抗戦のスケジュールが決定、また夏の練習試合の配信もあるのでほぼ1年振りにオンデマンドを購入。順当に進めば明年1月までの自動継続。今季はどう進んで行くのやら。いまは昨年の対抗戦が配信されている。

2022年7月29日金曜日

つんどく本、只見線、幾冊かの本

 朝日新聞の土曜日「読書」の頁は毎週楽しみにして読んでいる。今日(23日)から「つんどく本を開く」が始まり、「読書好きの方に、「いつか読もう」と積んだままだった本に手をのばし、開いてもらいます」とあり、随時掲載されるとのことである。このコーナーを見て親近感というかほっとした。というのは、自室に「つんどく本」は200冊を越える。そのジャンルは、数学/物理から宗教/思想/哲学、歴史や政治、もちろん小説もあって、多岐に渡る。
 好きな作家は別にしてなるべく新刊書を購入することは控え、なるべく「つんどく本」を読もうかと意識してはいる。でも、以前ほどではないが新聞の広告などや書評を見ては新刊を買ってしまう。
 本を買ってから時間が経つと関心が向かう方向も変化し、そろそろ読むことをやめる本や廃棄処分しても良いかと思うこともある。

 22日、NHKにて新日本風土記「絶景鉄道-只見線」が放映された。
 会津若松駅から新潟県魚沼市小出駅までの只見線は馴染みのある鉄路であり、只見駅から小出駅までは乗車したことはないが、会津横田駅~会津若松駅までは何度も2~3輛ほどの車輌の乗客となり車窓から流れる風景を眺めた。特に会津高校に入学してからは年に何度か横田の自宅(横田鉱山の社宅)に帰り、大学2年20歳になる3日前、1969年4月5日に横田から東京に向かうのときに乗ったのが只見線に乗ったのが最後である。序でに書けばその時に中学の同級生で会津女子高校に進学し卒業したIYさんと偶然に再会し、会津若松までの時間をともに過ごした。彼女は中学の同窓生(私とは高校も同窓)と結婚し今は名古屋に住んでいるはずである。数日経ってからふと思えば、何故にそのときに彼女が住んでいた静岡の住所を尋ねなかったのだろう、逆に何故彼女は私の住所を聞かなかったのだろうと思った。今から53年前のことである。
 テレビから流れる画像には記憶ある風景もあり懐かしさがこみ上げる。思いもかけず会津横田駅が映し出された。錆びた手すりや案内板、板が打ち付けられた待合室、短い乗降場(プラットフォームと呼ぶには相応しくない)、かつての横田鉱山引込線が見えた。20数年前に娘が線路に立って写真を撮った場所である。高校1年の時に、中学での先生だった杉崎先生(女性)に会い「(高校のクラス担任であった)大越先生のすぐ近くだよ、遊びに来て」と言ってくださった。それもこの会津横田駅の乗降場でのことだった。可愛さのある素敵な先生だったのに行く機会を作らなかった。幾ばくかの後悔。まだまだこの駅から思い出すことも多い。書けばきりがない。
 只見線が復旧することはあり得ないと思っていたが今秋10月から一日3往復の運行をすることになっている。一方で今日の新聞にはJRの赤字路線に関する記事が大きく掲載されていた。只見線は運休になる前も赤字路線であった。観光客に大きな期待が膨らんでいることであろう。一度はゆったりと乗ってみたいのであるが、それはかつてのように疎らな乗客の車内情景を前提としている。

 <ルシア=ベルリン 『すべての月、すべての年』(講談社、2022年)>:アメリカではA Manual for Cleaning Womenとして出版され(2015年)、日本での発刊は2回に分けられ、本作はその2回目にあたる。感想は前に読んだ『掃除婦のための手引き書』と同じで、「触れると火傷をしそうな、あるいは日焼けして赤く水ぶくれを起こしそうな皮膚感覚」。
 決して混じり合うことのない人間関係の中にあって、どこか孤独で滑稽で猥雑であることに愛着を感じ、かつ描かれる社会への拒絶感もあり、結局はその中に飛び込むことのない映画のスクリーンを眺めている自分がいる。

 <高橋三千綱 『枳殻家の末娘』(青志社、2022年)>:29年前にサンケイスポーツに連載されてもので今まで未刊であった。性描写はあっても裸で交わる汗やぬめりなどの濡れ場という感じは薄く、乾いたなかで開放的に描かれるポルノ小説風性描写小説という感覚。
 解説に西村賢太-本作が出版された1ヶ月後の今年2月に急死-。

 <荒巻豊志 『図解でよくわかる地政学のきほん』(誠文堂新光社、2016年)>:中高生も読める地政学の基本。右に地図、左に概説は分かりやすく、気軽に世界史を部分的に復習。

 <魚豊 『ひゃくえむ。第1巻』(講談社、2019年)>:ひゃくえむは100m。走る少年。次巻に繋がる魅力を感じ取れなかった。

2022年7月23日土曜日

混合栓修理、図工の時間

 浴室の混合栓から水漏れ。何故か分からないけれどピンホールから細く水が放たれ、また可動部の一箇所から水が滴れていた。今の家は18年程前に建てたものだからそろそろ補修が必要な年数となったのであろう。バラして水漏れ部を補修し、ピンホールには詰め物をしようと思い混合栓を分解し清掃した。元に戻せるか、混合栓買い換えになるかと一時不安が頭をよぎったが結果的には全て補修できた。組み立てられたものは分解再組み立てが可能である、機械的結合部は外観上隠されているに過ぎないとの自信に基づいていて、今回も(は)うまく処理できた。

 1階リビングの吹き抜け部にぶら下がっているペンダント照明の和紙カバーが汚れ、傷んでもいた。簡易的に汚れを取り除き、切れ目のあるところは破れ障子張りのごとくに補修しようと思った。が、和紙はかなり弱っていて補修できる状態ではないし、軽く濡らしただけで簡単に破れてしまった。18年程前のものでもう販売されていないし、そもそもカバーだけを売ってもいない。ならば自作しようと格闘することにした。
 上下の針金サポートを残し、上から下まで繋いでいた螺旋状の竹ひご、和紙は全て取り除き、簡便に骨組みを作り、紙で外観を調える。
 使用した材料はΦ1.8mmの竹ひご、Φ3mmの丸棒、トレーシングペーパーとして家にあったケミカル和紙、画用紙、木工用瞬間接着剤と速乾木工用接着剤。121cm高さの仮組み骨格としたのは段ボール。購入金額は1000円ちょっと。メインとなる高価なケミカル和紙に費用はかかっていない。細かい作業で神経を鋭敏にし、集中する時間は延べ1週間ほどに及んだ。
 完成品は下の写真。出来映えは小中学生の図工といったところ。近くで見ると雑なところもあり、職人的技術はもちろん芸術性も絶無であるが、まあ、家族以外の他人が見るわけでもないし、これで良しとして終えた。そう、遠目には良いではないか、と独り言。



2022年7月15日金曜日

漫画、占領改革、正義中毒

 <都留泰作 『竜女戦記 4』(平凡社、2022年)>:11ヶ月振りなのでやむを得ないが、やはり前の巻を読み直すところからはじまる。
 蛇国での争いは、人と人、村と村、派閥と派閥、政党と政党、国と国、連携国と連携国との争いをダブらせて見てしまう。これもロシアの蛮行、米中間の敵対、○○ミクスや△△ビジョンを標榜する首相を頂く日本、そんな状況のせいであろうか。・・・デクを操る”たか“は先々何を得るのであろうか。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第8集』(小学館、2022年)>:コペルニクスの登場を先に見て、終わった。

 <天川晃・増田弘編 『地域から見直す占領改革』(山川出版社、2001年)>:構成は“序論/地域から見直す占領改革-Ⅰ部/地域から見直す占領改革-Ⅱ部/指導者交代の諸相-Ⅲ部/制度選択と地域社会”。
 事実の現象把握と分析・類型化、表層をスコップで削るという作業、その下に何があるのかという問題にそのスコップは食い込んでいない。全体的な感想はそのようなもの。しかし首肯するところは勿論少なくない。例えば、次のような箇所、すなわち、「「占領が原点である」とする従来の視点は、「価値観」ではともかく、”事実”においては、見なおさなければならないであろう」、「包括的な論理による把握では、地方における独自性や多様性を見失わせることも偶にはある」-等々。
 一方、(茨城県において)「政治家(多くは、戦時期に、市町村のリーダーになっている名望家の三代目)は、占領期においても、供出、公民館設立などでも、さらに地域社会でも、戦前からの民心の機微の把握力やある種の責任感をもって女性も含む広範な大衆を掌握していたこと、それが民主化の質を限定した」と指摘することは当たってはいると思うが、民主化が限定される根底には、日本における封建的追従性や依存性、長いものに巻かれる集団的性癖性などにあると思っている。そして、民主化や民主主義という言葉が論議を深められないままに安易に使われていることに抗いたい-民主化・民主主義に反対することではない-気持ちがある。

 <中野信子 『人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム、2020年)>:己の心的枠外の人に「正義の制裁」を加え、脳の快楽中枢が刺激されてドーパミンが放出され、快楽とともに正義の沼に溺れてしまう。これが著書のいう「正義中毒」。
 ネットなどでその「正義中毒」を膨張させ、中毒の沼は深くなり、水平に拡がり集団化する。集団化するとその中の己はますます中毒の度合いが強くなる。このような人たちに-似たような人物は知人の中にも数人はいる-まともに応対してもどうにもならない。こういう人もいると認め、距離を置くしかない。
 「正義中毒」に落ち込まないためには、「人を許せない自分や他者、相手を馬鹿にしてしまう自分や他者の愚かさを人間なのだからしょうがないと認め」、「常に自分を客観的に見る習慣をつけていくこと」である。更には、「目分にも他人にも「一貫性」を求めない」ようにし、「人間は不完全なものであり、結局永遠に完成しない」と「意識」し、「「答えがない」からこそ「考えること」を止めない」ことが最も大事なことではないだろうか。知らないことを知り、知ることを知る、つまりメタ認知はそれなのであろう。

2022年7月8日金曜日

雑記

 7月5日、約2ヶ月半ぶりに髪を切りに行った。近くの1,200円カットで、3人いたスタッフの一人の女性には何回か担当してもらったことがあり、今回も運良く彼女が担当となった。1万円札を出してくずしてもらったからか、支払いはカードを使うことが多いですかと聞かれ、ええ、ほとんどがクレジットカードで本屋でもスーパーでもカードを使っている、と応じてから、彼女が本好きで小説の話となった。カットしている合間に彼女は東野圭吾の小説が好きでよく読んでいるとのことだった。彼女にとって東野圭吾の小説は読みやすくて、読み始めると時間の経つのを忘れてしまう、と言っていた。こっちもその作家の本はほとんど読んでいるので、一人の作家を中心に会話ができ、楽しい10分ほどの時間を過ごすことができた。

 髪を切った後、100円ショップに立ち寄り200円の買い物をし、次は健康保険組合に提出する書類を発行してもらいに市役所に行く。何故に市役所に働いている人が多いのかといつも思う。仕事が多いから働く人が多いのか、人が多いから仕事が増えているのか、市役所のフロアを歩くといつもそう感じる。

 市役所の後は、30分ほど書店で時間を潰してから16時に予約していた銀行へ。前日午前に入ったときは多くの人がいたが、この日は16時という時刻のせいか閑散としている。ワンタイムパスカードに変わって、スマホで暗証番号を受ける新システムに登録するために行ったのだが、スマホだけで登録手続きはできないためであって、当初はその原因が分からなかった。おそらく70歳という年齢制限に引っかかったのであろうと思っていた。銀行で確認するとやはりそうであった。70歳を超えると銀行でしか登録できないと何故に明示してくれないのであろうか。そうすれば何度かスマホやPCでトライした無駄な時間を費やすこともなかったのに。とは言っても銀行の親切な女性に苦情を言うほど野暮ではないので、そこは楽しく会話をしながら時間を過ごせた。しかし、安全のためと言いながら、却って不便や無駄なことを強制している側面があることには想像が及ばないのであろうか。運営管理側の図る安全考慮-余計なお世話、という図式は簡単に回避できると思うのだが。
 スマホ登録以外にも用事があり二人の女性と手続きを済ませたのであるが、スマホの扱いにとても慣れていると褒められた。多分に「年齢の割には」という言葉は口に出さずに胸の中に仕舞い込んでいたのであろう。

 久しぶりに数カ所を動き回り仕事をやったという感覚を持った。シャワーを浴びてからのビールが美味しかった。

 7月7日、3ヶ月ぶりに病院へ。薬をもらうためだけの診察で、その後変わりありませんか、はい何もないです、次は3ヶ月後の10月6日の同じ時間でいいですか、はい。1分ほどで診察は終わり。
 夏を経て秋になり、今年の残る月日を強く意識する頃、またこの病院に来ることとなる。

2022年6月29日水曜日

アンプ、『彼女が最後に見たものは』

 熱い。あまり外に出ることもない日々を過ごしているので、この猛暑を肌で感じたのは、猛暑を記録した翌日か翌々日。午後になるとエアコンはつけっぱなし。

 20年近く前に購入してまだチャンと動く、小さなモニターアンプYAMAHA AA5にEWIを接続してみたが音質が良くない。このギターアンプとEWIは相性が良くないようである。他のアンプには不満は感じないのだがいかんせん大きいので持ち運びが面倒、というわけでRolandのMOBILE CUBEを買ってしまった。電源アダプターとケースも付いているのでサウンドハウスから購入。キーボード接続にも対応しており、したがってEWI接続にも適しており、なんと言っても小さく、扱いやすい。使う機会がめっきり減ってしまったカメラの三脚にこのアンプを取付けてEWIの橫に立てている。・・・また物が増えてしまった。

 これもまた購入して20年近くになろうか、BOSSのギター・マルチエフェクターME-20とベース用のME-20Bが遊んでいたので、久しぶりに身近に引っ張り出してギターやEWIと接続してみている。使い方をすっかり忘れていたのでマニュアルを読むことから始まった。EWIとの接続はME-20Bも楽しめそうである。EWIでは選択するプログラムによって音質は大きく変わるので遊べる。またギター・エフェクターとして最初に購入したYAMAHA MagicstompもEWIで試してみたが、好みではなかった。古いものなのにまだ動くのが嬉しくもある。
 演奏スキルは一向に上達しないなか、関連機器と接続して遊ぶことに躊躇もするが、これは自分の性癖であるので仕様がなかろう。

 <まさきとしか 『彼女が最後に見たものは』(小学館文庫、2021年)>:作家は1965年生まれの女性、札幌に在住。
 三ツ矢と田所の両刑事のシリーズ2冊目。著者の本を読むのも同じく2冊目。ホームレスの56歳の女性、不倫を続ける女性とそのモラハラ夫、その両親から距離をとる高校生の娘、連帯保証人をしていた社長に逃げられトラック運転手になった男性と虚栄心の強いその妻と引きこもりの息子、社長の息子たち、以上が主要登場人物。彼らが相互に絡み合い、ともあれ自分の人生に不満を抱き、その出口を求め彷徨う。が、何かを見つけ出そうという訳ではなく、不満をどうやって解消するか、何かで糊塗するか、と自分の目先をかき回している。人の身勝手さと欲望、そこに起因する不満、安易な解消。比較的まともなのはホームレスとなってしまった女性のような気がする、しかし共感も同情はない。
 家族の崩壊は、単に愚かな身勝手な人たちを絡み合わせるのではなく、そこにいたる個々の人間のもっと深い心象に触れなければ小説自体に深さは描かれない。逆に言えば、個々の人物の描き方がステロタイプで表層的あると感じた。 シリーズが続いてももう読まない。但し、三ツ矢刑事の過去の事件を解き明かす巻になったら読むかもしれない。

2022年6月24日金曜日

エアコン、弁理士が書いた弁理士が主人公のミステリー

 エアコンを使い始めた。夕方になって汗ばんできて、さらに蒸してくるとベタベタする感覚が嫌でたまらず、シャワーを浴びて、温度は高めにして静かにエアコンを稼働する。自室に戻ってからも部屋を締め切って明け方までエアコンはほぼ運転しっぱなし。以前は5月初旬でもう運転していたので、それに比べれば随分と時期がずれた。これは天候のせいなのか、否、年齢のせいなのか、両者が合さっているのか。

 <南原詠 『特許やぶりの女王 弁理士・大鳳未来』(宝島社、2022年)>:2022年第20回「このミス大賞」受賞作。主人公は弁理士、VTuberを舞台に特許の侵害をめぐる今までにないミステリー。
 個人的には、かつて企業に採用されるときに特許権譲渡契約を提出した経験があるし-出願した実用新案・特許は10件前後だったか-、知的財産権侵害の他社製品調査も何回かやっていたし、製品開発時には他社への侵害有無調査は必ず実施していた。かなりの時間をかけて調査し苦痛でもあった。他社出願の無効調査も経験しているし、会社内で他社とのクロスライセンスを耳にすることも珍しいことではなかった。だから、ここに描かれる特許をめぐる展開には面白く飛び込めた。しかし、VTuberなる言葉は初めて知ったので、その世界を想像するに時間がかかったし今もその世界を知ったとはいえない。
 3Dスキャナーと点群データ処理、それに特許を絡ませるミステリーは新しいミステリーであり。楽しめたのではあるが、いかんせん登場人物のキャラクターがいかにも安直で、輪郭は明確なのだが中身が透けて見えるオモチャのような設定と描写になっている。名前の売れたタレントをただ賑やかに動かしているという、最近よくある安直なテレビドラマのキャスティングの感じがする。
 作者は東工大院出身の弁理士。親しい友人の一人に同大学出身の弁理士がいる。その友人は本書を読んだらどのような感想を抱くのであろうか。 医者の作家、弁護士の作家、新聞記者の作家、エンジニア出身の作家など専門職に携った(ている)人が作家に名を連ねているが、現役弁理士の作家は初めて知った。

2022年6月21日火曜日

アマゾン、『秘剣の名医』、『あの日、君は何をした』

 『ヤノマミ ~奥アマゾン・原初の森に生きる~』のDVDを見た。ヤノマミについては本も読んでおり、映像も過去に見ているので改めて振り返ってこのアマゾン奥地に住む村の生・性・子供の誕生と死、狩り・遊びに自由さを思う。ディレクター(国分拓)へのインタビューがあり、放映されたヤノマミの世界に深みを加える。

 <永井義男 『秘剣の名医〈11〉蘭方検死医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2022年)>:今回は浅草の切見世(岡場所)で女が続けて殺される。篆書で彫られた印形。伊織は湯島に引っ越し、そこを訪れた仕出料理屋の16歳の娘と婚姻することとなって巻が閉じる。
 文章を書くと読点の打ち方で考えることがままある。永井さんの小説はよく読んでいるのであるが、今回は何故かこの読点の打ち方が勉強になった。

 <永井義男 『秘剣の名医〈12〉蘭方検死医 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2022年)>:立ったままに店主の母親が死に、そこに白鼠と壺がトリックとして使われた。死亡時刻の異なる心中では殺人と言い張り冤罪も生じさせようともする親たちの陰謀を暴き、親たちは子の葬儀も行えず死骸取捨、葬式禁止の苦汁を舐めることとなる。長屋で白骨が発見され身元の探索が行われる。悪人はその所業が白日の下に露され、己の道を正しく歩まんとする人たちは日々を大切に過ごしている。伊織と結婚したお繁と下女のお熊が愛らしく好ましい。欲を言えばもうちょっと二人の描写があってもいいかなと思う。素直に明るく毎日をおくる若い女性はそれだけで柔らかい弾みある一つの物語を想わせる。

 <まさきとしか 『あの日、君は何をした』(小学館文庫、2020年)>:ミステリー文庫本。主人公は三ツ矢刑事、彼とコンビを組まされた田所刑事。三ツ矢は中2で母親を殺され、彼女が交際し、三ツ矢との関係が良好だった男が犯人と目され、彼の縊死した遺体を三ツ矢が発見。以後三ツ矢は真実は判明していないと考えている。瞬間記憶能力を持つ三ツ矢は刑事になる。この謎解きがこの小説のメインではなく、これは三ツ矢刑事のキャラクターを形作り、多分シリーズ化する物語を貫くテーマとなろう。
 本小説のメインストーリーは、15年前に警察官の前から逃げて少年が事故死するところから始る。15年後に不倫相手の女性が殺され、男の消息不明となる。男との仲が冷めていた妻は夫の帰りをただ待つ。15年前に死んだ少年の母親は子供の死で狂気を帯びた言動をするようになる。三ツ矢刑事は現在の事件を捜査するとともに、15年前に少年はなぜ警察官から逃げたのか、それも追い求める。失踪した男の母親の狂気、15年前に死んだ少年の母親の狂気。それらが入り交じり物語は解決へとすすむ。
 質問にキチンと答えない相手に、尋ねていることはこうです、と棘を刺すように発する三ツ矢刑事の言葉が楽しめる。かといってこの小説は存分に楽しめるというわけではない。二人の母親の狂気が余りにも異常でそれを物語に骨格に据えることは好みではない。また、瞬間記憶能力という特殊設定も好きではない。
 読んでいて、三ツ矢刑事が、何の脈絡もなく俳優の安田顕に重なった。シリーズ第2作も読むことになるかもしれないが、今は積んである未読の方がかなりあるので手を出すまいとしている。散歩がてらに書店に行ったら買ってしまうかもしれない――と書いた翌日買ってきてしまった。

2022年6月10日金曜日

梅雨入り、ウスラウメ、『アメリカ紀行』、『ノモレ』

 梅雨入りした。庭の小さな花壇の紫陽花が一輪だけ咲いている。その橫ではウスラウメの赤い小さな実が緑の葉に隠れるように沢山なった。2回に分けて実を採って果実酒を作った。どういう味になるのか楽しみ。果実酒は、今まで失敗も繰り返したので期待を膨らませずに熟すのを待つこととする。

 <千葉雅也 『アメリカ紀行』(文春文庫、2022年/初刊2019年)>:哲学者の著す紀行とはどんなものなのかと思って頁を開いたが、大きく記憶に残ったのは次の2点。一つは日本では非常に稀薄とされる「二人称」の会話、例えば「How are you ? Have a good day. You too!」の日常的多用。空模様を多用する日本人の挨拶、二人称多用のアメリカ人、何となく納得する。大阪での「もうかりまっか? ぼちぼちでんな、あんたはんは?」が二人称に近いか。「ご苦労様、お疲れ様、お先に」は相手に向かっている言葉なのか自分に話しているのか人称が曖昧という感じである。
 もう一つは著者愛飲のバーボン・ウィスキーWOODFORD RESERVE。どのようなウィスキーなのかと買い求めた。近くの“やまや”にはDOUBLE OAKEDしかなかったのでそれを購入。ついでに好きなFour Rosesのちょっと価格が上のスモールバッチも併せて買った。前者は少し甘いまろやかな感覚があり、後者はそれに比べて辛目の刺激的な味わいがある。初めて舌に乗せたWOODFORD RESERVE DOUBLE OAKEDはバーボンという今まで抱いていたイメージの枠外にあり好きなウィスキーとなった。空になったらまた買おう。

 <国分拓 『ノモレ』(新潮文庫、2022年/初刊2018年)>:未知の先住民イゾラドとの接触。本書の主人公は教育を受けたペルー・アマゾンのイネ族ロメウ。彼が接触をするイゾラドは100年前に別れたイネ族の仲間-ノモレ-ではないのか、結論はでないままに現在も交流は続く。
 写真は2枚だけしか載っていないが、ちょっとしたものはウェブで見ることができる。前に読んだ『ヤノマミ』でもそうであったが、交流のない彼らを知ろうとすることにどのような意味があるのだろうかと疑問も感じる。そして多分、いまでも奥地では資源を求めて森の奥に入り込む”文明人”たちによって彼らは生活・生命を失い続けているのだろう。あらゆる側面での欲望が人間を残酷にし、その欲望を満たす者がいれば、欲望と天秤にかけたように生命や生活を失う人たちがいる。
 映像を見たくなり、『イゾラド ~森の果て 未知の人々~』と『ヤノマミ ~奥アマゾン・原初の森に生きる~』のNHK DVDを2点発注。

2022年6月5日日曜日

ONKYO、サン=ジョルジュ

 焼酎で酔っている状態の続き。 

 ONKYOが破産した。大学を卒業して就職した頃に富山市のオーディオ販売店で買い求めた人生最初のコンポーネント・アンプがONKYO Integra 725であった。当時はかなり高評価のアンプであって、ケーブル接続が背面ではなく上部からできるのが特徴的だった。ちなみに同時に購入したのがプレーヤーPL-25EとスピーカーDIATONE DS-251-今から丁度50年前のことで両者とも奇跡的に(!?)まだちゃんと動作する。同時期に購入したTEACのオープンリールデッキ(A-2300だったか?)はとうの昔に廃棄した。オーディオ・ラックも尞の部屋に置き、月賦とはいえ初任給52,000円の時代によくもまあ揃えたものではある。

 サン=ジョルジュのアルバムを二つ続けてe-onkyoより購入した。この作曲家は砂川しげひささんの文庫本で知り、NAXOSのアルバムで聞いてはいたが「ヴェルサイユ宮殿、小トリアノン宮における王妃マリー・アントワネットのための音楽会」の中にある演奏で尚更に好きになり、今回は高音質の二つのアルバムをよく利用するe-onkyoからDL購入。
 プランテーション地主と奴隷との間に生れ、1700年代に音楽を学び、差別にあったこの人の人生を知りたくなる。「黒いモーツァルト」とも呼ばれるらしいがそう呼ぶこと自体が差別的である。

ELENI

 以下、ごま焼酎を飲みながら書いている。

 ELENIなる曲を知った経緯は覚えていない。YouTubeで何かを捜していてたまたま知ったに過ぎないが、そのたまたまの経緯が記憶にない。TOL & TOLなる兄弟デュオの奏でるイントロのメロディに惹かれ、イントロの後に続くボーカルをカットした楽器演奏だけのスコアを捜した。捜しているなかでこのELENIの動画は幾つか見つかるがさほどポピュラーではないようでなかなか目的のものは見つからない。
 捜している中で映画のELENIを知った。邦題は「哀愁のエレーニ」で1985年公開なのだがこの映画のことは何も知らなかった。ならばELENIなる曲はこの映画のテーマ音楽なのかと思ったがどうも違う。調べているうちに映画はギリシャとアメリカの合作であり、冒頭のELENIはギリシャの歌手・作曲家Demis Roussosの作った曲であることも判った。ギリシャではELENIという名に何か込められた意味があるのかもしれない。
 TOL & TOLはオランダ出身の兄弟で、またELENIを歌う(著名であるらしい)Andrea Jürgensはドイツの歌手。YouTubeでELENIを検索するといくつかの異なる曲がヒットする。しかし、Demis Roussos作曲のELENIのスコアを探すも見つからない。イントロだけの短いフレーズだけでもいいと思っていたら、MuseScoreで“Andrea Jurgens - Eleni Heiss Das Madchen”が見つかった。オーボエやヴィブラフォンなどの器楽曲としてスコアが作られているし、音を出すと無味乾燥な音質であることが多いMuseScoreなのだが意外にも奇麗である。例によって無料でのDLはできない。いつもの手口で動画を録画し、それを静止画に取り込み、画像を貼り付けて楽譜としそれを参照にMuseScoreで主旋律のスコアを作る。イントロと間奏はオーボエ、主旋律はヴィブラフォンなのでそれを繋ぎ合わせて(少しアレンジも加えて)単曲とする。EWIで演奏する際はオーボエ部分とヴィブラフォン部分でオクターブを変えたりすれば少しは退屈でなくなるかもしれない。ゆっくりした曲だし、#とbも複雑ではないのでそこそこ吹けるようにはなる(だろう)。
 二つの楽器演奏を繋げて単曲にするのはFoyle’s War Theme Songで五重奏からオーボエのパートとフルートのパートを繋げたのと同じやり方。楽器すべてを含んだ楽譜からバッキングも作れるが、そこまでの気力は(今のところは)ない。せめてEWI一本で情感を込めて吹けるようになりたい。

2022年6月3日金曜日

「月亮代表我的心」、雹

 2日、NHK「映像の世紀バタフライエフェクト」にて「我が心のテレサ・テン」 の録画を見た。テレサ・テンの歌を好んで聴くことはないのだが、放映の中で歌っていた曲「月亮代表我的心」(月が私の心を映している/The Moon Represents My Heart)のメロディに惹かれた。
 無料の楽譜を探し、ピアノ版のものを見つけたが短い演奏にアレンジされている。やりたいことはテレサ・テン(鄧麗君)の歌うキーで短縮しないスコアを作ること。先ずはピアノ・ソロにアレンジされたC調の演奏の楽譜付きYouTube動画をDLし、それから静止画をキャプチャーし、それを参照にmusescoreでメロディ譜を作る。そしてテレサ・テンの歌を聴きながら修正を加える。EWIでの演奏がしやすいようにG調にて楽譜は完成。EWIではGにトランスポーズするとテレサ・テンのキーと合致する。
 PCとオーディオ・インターフェース(AG06)を使用し、彼女の歌う曲と自分の吹くEWIの音とミックスさせてヘッドホンで練習する。前奏も間奏も歌唱部もすべてEWIで鳴らすのでつまらないと言えばつまらないが、そこはテレサ・テンになりきった気持ちで(?)メロディを奏でるように練習。この曲は同じフレーズが繰り返され、複雑な変化もなく覚えやすい。単調で綺麗なメロディ。

 3日午後に激しい雨と雹。娘の駐車場には屋根がないので彼女はこちらに避難し来て降りが止むまで車の中で待機していた。小降りになって外に出たときにベランダにあった雹を手に取ると綺麗な透明な大粒の氷であり、グラスに入れてオンザロックに使えそうだとふと思う。近くの中学校で硝子窓が割れたらしい。

2022年5月29日日曜日

ヘッダー画像更新、江口バージョンごま焼酎、戦後史の本一冊

 このブログのヘッダー画像を1年4ヶ月ぶりに更新。初めてバーボン・ウィスキーをアップロードした。12 or 10 years old の枠から離れたのも初めて。

 ごま焼酎“紅乙女STANDARD”をまとめ買い。最初は酒店で1本買い。その後江口寿史バージョン限定品-4本セットでイラスト入りグラス2個付き-をネットでみつけたので発注。江口さんの描くイラストは好きなのでグラスの“彼女”を見つめながら心地よい酔に浸ることができそう。

 <岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一[編著] 『戦後日本スタディーズ① 40・50年代』(紀伊國屋書店、2009年)>:自分が生れて世の中の動きが少しずつ判り始める頃までの歴史=戦後史前半あたりまでを振り返る。同時代の記憶と言うよりも、10代に入ってから知り始めた戦後史初期の記憶が呼び戻される。当時の世上には何かしら滑稽さも感じ、真摯であったであろう中に感じるその滑稽さに、いつの時代にも繰り返される人間社会の愚かさが顕れており、また人間社会の藻掻を見る。・・・唐突に『神聖喜劇』が脳裏に浮かんだ。

 もう一つのブログを更新していないこと-青木葉鉱山の坑夫取立免状に関して-が癒りきらない傷の瘡蓋のように気になっている。昨年の11月頃までには下調べとメモ整理は終わっているが文章へのまとめを怠っている。ついつい目先の関心事や易きことに気持ちが向いてしまう。

2022年5月23日月曜日

ウィスキー、『日本の戦争 歴史認識と戦争責任』

 先日、久しぶりに酒店に行ってウィスキーを2本買ってきた。10年・20年ものを購入するのも昨年8月以来のこと。スマホを忘れていたので店内で過去に飲んだものをチェックすることができず、記憶力を頼りとして初めてのウィスキーだろうと見当をつけて買ったのがARdbeg 10-years-old Islay Single MaltとMcGIBBON'S PLATINUM RIBBON 12-years-old blended Scotch。帰宅後に確認したら前者はすでに味わったことがあった。後者はハイボールが美味しかった。そういえば大好きなハイボールも久しぶり。

 <山田朗 『日本の戦争 歴史認識と戦争責任』(新日本出版社、2017年)>:三部構成で第1部は「近代日本はどんな戦争をおこなったか」、次に「今、問われる歴史認識と戦争責任」、最後の第3部で「歴史修正主義をどのように克服するか」。
 現在ロシアのウクライナ侵攻で人間の愚かさをまじまじと見せつけられており、形は違えどもロシアが過去の日本、プーチンが過去の日本の軍部、ウクライナが中国や東南アジアと重なってみえてしまう。この後ロシアはどのような失敗と敗北を迎えるのか、ウクライナはどう再興し、ウクライナの人々はロシアへの憎悪をどのように沈静化していくのか、そのようなことがぼんやりと頭をよぎる。
 新日本出版社からの刊行本であり、もっと激しく鋭く深く論じられているのかと想っていたがそうでもなかった。
 明治へのノスタルジアで近代化された日本を誇り、大正時代で息抜きをして、昭和前期を批判することで戦争責任を問う姿勢を見せ、戦後は幸運も重り、米国がつくるジグソーパズルのワン・ピースになり、そこそこの繁栄を享受している、というのがある意味現在の日本なのであろう。それにしても日本には愚かで軽薄な政治家が多すぎるし、システム構造が軟弱である。日本は部品の品質は素晴らしいが、組み立てると性能の劣ったものとなると論じられていたことがかつてあった。検査結果などをごまかし隠蔽している日本の冠たる企業を見ればそれらが露呈している。そして部品(個人)もレベルが落ちてきた感は否めない-おっとっと明治が良かったなどと言うつもりはさらさらない。

2022年5月15日日曜日

妻と毒、EWI、本2冊

 ある老夫婦が病院に行き、夫が書類を書く際に妻の続柄のところに「妻」ではなく「毒」と書いていたと当事者の妻が新聞に投書していた。なるほど、女は妻となり、母となり、その先は毒になるのかと面白く、かつ妙に納得した。我が連れ合いを思って面白く思ったわけではなく、あくまで世間一般からの感情であることは断っておく。
 妻と毒の字源を調べたら、妻は髪に三本の簪を加えて髪飾りを整えた婦人をいうとある。その髪飾りが特に繁多であることが毒である。毒々しい厚化粧や不必要に着飾った衣装の意味に得心する。
 娘の中学生になったばかりの長女にこれを話したら納得した表情で肯いていた。特に女→妻→母→毒の流れが面白かったようである。体験的に理解できるのかもしれない、と言ったら娘に失礼か。

 今年になって読書量が激減している。以前はそれなりの時間を読書に向けていたが、今は毎日EWIの練習や楽譜の入手、楽譜へのフィンガリング図追加などに割いている。上達速度がとても遅いが、否上達しているのか疑問であるが、気に入った楽譜を手に入れては上手に演奏できる姿を妄想している。曲を絞って練習せねばと思うのだがなかなかそうはならず、ギターが上達しなかった過去と同じ行動パターンを繰り返している。

 <森崎和江 『まっくら-女坑夫からの聞き書き』(岩波文庫、2021年/初刊:1961年-再刊:1970年-増補再刊:1977年)>:明治後期から昭和初期まで九州の炭坑坑内で働いた女性の聞き書き。劣悪な労働環境で働かざるを得なかった女性の語りに世の中の不条理を思う。炭坑で財をなした人たちは末端の彼女あるいは彼女の夫や家族たちの生活実態をどれほど認識していたのであろうか。国が、企業が、そして一般大衆が石炭によって利を得ていることと天秤にかけるように一方では重い負があったことは忘れてはならない。陽があれば陰がある、その差を埋めることが文明の発展、文化の醸成なのであろうと思う。

 <砂川文次 『ブラックボックス』(文藝春秋3月号、2022年)>:第166回芥川賞受賞作。次第に退屈になり、キレやすいサクマの生き方は何なのさと距離をおいて冷やかになる。人生に落後した若い男の内面や生き様を鋭く描写していていてもだから何なの、と感じてしまう。サクマが、サクマは、といった文章がしつこくて嫌になってくるし、自転車に関する描写も自転車に興味がない自分にはそれこそ蛇足のように感じてしまう。単に描写する力量があってそれを披露しているだけの小説。ここ数年あまり読んではいないが、又吉の受賞作あたりから芥川賞はツマラナイという感覚がある。それは単に小説に向かう自分の好みと小説に求める姿勢によるものでしかないのだが。

2022年5月1日日曜日

PC、酒の肴、『占領戦後史』

 3台使用しているノートPC1台のモニター開閉ヒンジ部が壊れた。ネジの緩みと破損であり、通し穴を空けて小ねじとナットで締結し修復した。外観上はみっともないが仕様が無い。

 カンブリア宮殿でマウスコンピュータを紹介していた。今までにここのPCは5台ほど購入している。すべて春日部ダイレクトショップで購入し、今も2台使用している。何年か前に友人が買い換えをするときもマウスコンピュータを薦め、秋葉原で購入した(させた)。

  新玉葱をスライスしていたらスライサーの歯で親指の皮をスライスしてしまった。ドレッシング化しないように流れた血は直ぐに止めた。

 ビールを飲んで日本酒(会津中将と楽器政宗)へと進み、その後は爆睡昼寝。
 この日の肴は①オクラ、②茄子、③胡瓜、④茗荷、⑤長葱、⑥アスパラガス、と極めてヘルシー。オクラはほぼ毎朝に食べているもので、レンジでチンして花カツオ・マヨネーズ・味ぽん。②③④は塩昆布で和える。ときには胡瓜なしで作るときもあるし塩だけで和えるときもある。⑤と⑥はガスオーブン・オーブントースターで焼く。焼き肉のタレにマヨネーズを加えてディップソース。旅行時に購入したおいしい塩も準備する。更に長葱には花カツオと醤油をかける。すなわち、2種の素材を焼いただけで3種の味わい方をする。これが酒に合う。できれば豆腐-塩をかける-も欲しかったが冷蔵庫に入っていなかった。ヘルシーな肴で酒を飲むって健康的なのか不健康なのかよく分からないが美味い。

 <竹前栄治 『占領戦後史』(岩波現代文庫、2002年/初刊1992年-1980全面的改訂増補)>:敗戦後の占領期に日本のあり方の舵を取ったのは米国であり、従って占領期の歴史は米国占領軍を中心軸においたものとなる。日本の政官は、乱暴な言い方をすれば、得意の忖度・迎合・追従を発揮したであろう。もちろんそこには日本を改革しよう、民主化しようとする意思があったであろうが、民主化とは天皇制打破であり、米国の日本改造方針許容であり、共産主義的左派の汲み入れであり、真の日本的民主化といえるものはなかった(理解が及ばなかった)のではないかと感じている。
 葉山軟禁計画、横須賀事件は初めて知った。特に横須賀事件におけるブラッディ氏の揺るがない思想と行動に真の自由人を見る。また、「政治犯解放までの「10日間」の歴史的意義」における次の2点が今につながる前兆と思う。すなわち、一つに政治犯解放は決して日本政府の自発的意思によるものではないということ、二つに東久邇から幣原への内閣移行は、「旧権力=天皇制権力」内閣から「新権力=親英米派外務官僚をリーダーとする戦後保守本流の萌芽的権力を代弁する」内閣への権力移行であり、「戦後の新しい保守権力形成の出発点を画」していたものであったということ。
 「戦後改革によって生れた地方分権的警察制度も、まもなく崩壊し、ますます中央集権化の傾向を強めつつあり、「市民のための警察」という理念はすでに空洞化されている」と書かれた本書の刊行は1992年のことで、この中央集権化傾向は尚更に強化されている。他国の中央集権政治体制を日本はいつまで批判し続けられるのであろうか。

2022年4月23日土曜日

友人からの葉書、『日米戦争と戦後日本』

 郡山市にいる友人から葉書が届き、開業以来31年経過した内科医院を医業継承し、開業医生活から退くことにしたと綴られていた。併せて、「ようやくヒマになりましたが、何をしたら良いのかな」とも書き添えられていた。
 会津若松から列車で1時間15分ほどの町に住んでいた長身の彼のことは中学生のときから知っており、親しくなったのは高校3年のときに同じクラスになってからで55年間のつきあいとなる。高校卒業後は東京と仙台、大学卒業後は富山と岩手であり会うことはなかったが年賀状のやりとりは続けていたし、仙台で行われた彼の結婚式にも出席した。
 医院をたたむ予定であることは今年の年賀状で知ってはいたが、あらためて開業医生活を終えたとの連絡で自分たちの重ねた年齢を思わずにはいられなかった。
 電話をした。前に会ったのは2015年桜が満開の4月、東山温泉で開催された高校同窓会であったから7年ぶりに彼の純な会津弁を聞き、つい数年前にも会って酒を飲み交わしたような気持ちになった。春日部から郡山へは2時間たらずで行けるので、コロナ禍が落ち着いたら郡山に出向き一緒に飲みたいと思う。

 <五百旗頭真 『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫、2005年)>:米国に視座をおいて、日本の敗戦経緯や占領期の両国の動きが著者の明確な意見をともなって描かれている。あの時期に何が起きていたのかという知識を前もって掴んでおかないと、単にアメリカ側に沿った内容ではないかと曲げて読まれかねないと感じる。歴史的出来事を単に羅列し解説したものではない面白さと奥深さがある。

2022年4月18日月曜日

雑記、敗戦後の本2冊

 ほぼ毎朝乗っている体重計のスイッチ一つが機能しない。通常は機能しなくとも他のスイッチでカバーできるのであるが、齢が一つ重なったために登録年齢を変更しようにもそれができない。
 タクトスイッチをプッシュするヒンジ部の不具合あるいは導電性ゴムの接触不良かと見当をつけてばらしてみたら案の定ヒンジのアーム部不具合。プラスティックの弾性を利用したアームの支点部分がへたれてしまい破損していた。しかも3個あるアームでこの不具合があった箇所だけが他の部分と形状が微妙に異なっている。何故なのかは分からないが、端的に言って設計ミス・品質確認ミス。別の箇所のタクトスイッチ部は上手い構造となっていただけに設計のアンバランスを感じた。
 ピンセットを使ってスイッチを押せるように穴をあけ、通常は見えないように体裁を整え、新品に買い換えることなく継続使用することとした。

 娘の長女がコロナに罹った。家族の中でもっとも外出をしない子なので娘も意外だったようだ。罹患が判明した翌日には解熱剤も服用しなくなり、その孫が言うにはインフルエンザより楽だとのこと。しかし、10日間は外出禁止の生活となり、中学生になったばかりで残念な日が続く。本人はいたって元気のようであるが。

 <伊東祐吏 『戦後論 日本人に戦争をした「当事者意識」はあるのか』(平凡社、2010年)>:帯びに「『敗戦後論』を超えて」とある。16年前に加藤典洋『敗戦後論』、それに反論した'高橋哲哉『'戦後責任論』、両者の主張を読みふけった。本書はその『敗戦後論』を中心において日本人の「当事者意識」を問う。が、あくまで一般大衆も含めた「日本人」のそれではなく、知識人・文化人の「当事者意識」である。肯きながら、あるいは疑問も感じ、それらを頁の余白部分にたくさん書き入れながら読んだ。

 <浜日出夫編 『戦後日本における市民意識の形成 戦争体験の世代間継承』(慶応義塾大学出版会、2008年)>:「叢書 21COE-CCC 多文化世界における市民意識の動態」シリーズの31冊目。何の参考にもならなかった。表層をなぞって少しだけ皮を剥いでみただけという感が強い。タイトルに惹かれてそこそこの費用を出して後悔するという悪しきパターンだった。

2022年4月8日金曜日

福島県の日本酒飲み比べ、その2

 2ヶ月ぶりの日本酒-福島県の酒-品評会(?)を実施。前回と同じくテーブルの上に4合瓶4本を並べたお昼時。前回は、ロ万-南会津郡南会津町、宮泉-会津若松市東栄町、会津娘-会津若松市門田町、廣戸川-岩瀬郡天栄村、だった。今回の銘柄は口に含んだ順番で次の4種。
  ① 楽器政宗 中取り-西白河郡矢吹町
  ② 七重郎 生詰特別純米-耶麻郡猪苗代町
  ③ 会津中将 特別純米うすにごり-会津若松市七日町
  ④ 天明 中取り肆号-河沼郡坂下町
 この日も大振りのぐい飲みではなく、品良く(?)好きな透明性のある硝子製のお猪口に注ぐ。飲むにつれ酔もまわるし、文章表現力もないのでいい加減なメモの取り方となる。
  (1) 楽器政宗:軽やかな甘み、透き通るような甘みを感じる、ふわっとする中に個性あ
   る甘みが漂う。草原の中という感じか。楽器でいうとソプラノサックス。
  (2) 七重郎:適度な辛味、酸度をやや強く感じる。すっきりとしていて、夏に汗をかい
   たところで飲むと爽やかさが増すだろう。
  (3) 会津中将:高校2年時の下宿裏すぐ近くにあった鶴乃江酒造。その時代につながる
   甘く酸っぱい刺激があって-これは味ではなく感情-、喉越しに過去を思い出す。
   苦い青春ではなかったがちょっと刺してくる思い出に浸らせる。つまり、この17歳
   の季を思い出させる美味い酒である。
  (4) 天明:尖らず、主張せず、心地よく飲ませる。万人に愛された(坂下町塔寺出身
   の)春日八郎の歌という感じ。癖のない、いい男というか素直な味で、その扱いや
   すさで女性は好むであろう。
  4種の試飲を終えるまではまだ正常(?)であって、その後、銘柄を区分せずにランダムに飲み始めたら単純に酔と日本酒を楽しんでいる自分がいた。4合瓶4本を一人で一度に空けるほど器は大きくなく、まだすべて等しく残っている。日を改めてまた楽しもう。
 上の4種以外にまたもや仕上げとして飛露喜(特別純米)を飲む。・・・しかし、贅沢で幸せな日である。酒は健康のバロメータ、幸福度のバロメータである。(酒を飲めない人は幸福度が低いのか、否それはない。酒飲みの宿酔の苦しみや記憶を失う不幸を知り得ないという幸福を認知せずに味わっている。)

2022年4月6日水曜日

『カチンの森』、『フィリピンBC級戦犯裁判』、漫画『チ。』

 土曜日(2日)、息子とその嫁さんであるNちゃんと飲む。最後まで飲んでいたのはオレとNちゃん。二人とも結構酔っ払う。翌日は風邪気味と二日酔い気味が入り交じり夕方になってやっと普段の体調に戻ってきた。

 <ヴィクトル・ザスラフスキー 『カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺』(みすず書房、2010年)>:政府権力者の捏造・隠蔽・沈黙、それらを取り巻く国の虚偽と権謀術策。過去・現在における権力者のあり方は普遍的に腐敗する、ということ。
 ポーランドがロシアを嫌悪し、会津が薩長を嫌う事由は相似する。カチンの森事件における初期の真相究明活動における報告をチャーチルやルーズベルトは表に出さなかった。どの国もあるいは人もその時に立つ位置で計算しながら左右を見たり中央に視線を向けたりする。 本書で示される写真を見てはやるせない気持ちになる。

 <永井均 『フィリピンBC級戦犯裁判』(講談社選書メチエ、2013年)>:一般的にキリノ大統領は自らが受けた悲劇と相俟って日本人戦犯への恩赦が美談として描かれることが多い。実際のところはどうだったのか、本書はフィリピンで行われたBC級戦犯裁判を詳細に論じる。フィリピン側の視座に基づく記述も多い。
 論述されるのは、フィリピン一般市民への日本軍人の暴虐と殺戮、そこに表出するフィリピン民衆の怒り。独立国家としてその存在を顕示しようとするフィリピン共和国と戦犯裁判。モンテンルパに代表される収容所における日本人戦犯者の状況、等々。そして、妻と3人の子を日本軍に殺されたキリノ大統領の思い、死刑の執行、恩赦まで大統領を取り巻く影響と恩赦までの経緯。そして戦犯者の帰国。
 最初の死刑-死刑には絞首刑と銃殺刑の二つがあり最初の死刑は絞首刑-は3人で、その中の一人の元陸軍大尉は無実であったといえる。次は一晩で14人の処刑。そして恩赦。 アメリカの日本重視によるフィリピンへの圧力、収容経費負担、等々による影響も大きく、”美談として語られる恩赦”が強調されることには抗いたい。政治絡みは複雑な要素が入り交じり、個人的国民的感情で断じられるはずもない。日本軍が残虐行為をしたことは,間違いないのだが、本書ではその残虐行為への-国・軍・兵士のいずれにおいても-責任の取り方に論を拡げていない。外交的にフィリピンへの謝罪は表明しているのだが、どうしてもそれは形だけの、フィリピンに収容されている日本人の帰国を要望するための儀礼的なものとしてしか感じられない。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第7集』(小学館、2022年)>:内容の濃い会話と物語。次回で最終集とか。
 お金を出して購入した初めての電子書籍となった。

2022年3月26日土曜日

国体論、象徴天皇に関する本2冊

 <白井聡 『国体論 菊と星条旗』(集英社新書、2018年)>:明治元年/1868年から敗戦時の昭和20年/1945年まで77年の時が経過し、その1945年から現在2022年までも77年が経っている。敗戦を迎えた1945年は明治維新からの走路の中で折り返し点となり、逆走しているかのような感もある。
 戦前の「国体」と戦後の「国体」は本質的には連続しており、戦前のそれは國體、戦後は国体と個人的に区分している。自分の中では國體/国体はあくまで基軸に天皇をおいた上での捉え方であり、本書で論じられる「国体」とは趣が異なる。
 本書においては「国体」を、”形成期-相対的安定期-崩壊期”と3区分し、戦前においては”天皇の国民-天皇なき国民-国民の天皇”を対応させ、戦後では、”アメリカの日本-アメリカなき日本-日本のアメリカ”を当てはめる。7頁にこの3区分を縦軸にして世界情勢・国内情勢を並べた年表が示され、全容を分かりやすく把握できる。
 戦前の「国体」の基礎には天皇があり、戦後のそれにはアメリカをおいている。それは統治権運用形態としての国体であり、そうなってしまった経緯も理解できるのであるが、自分の思う天皇を基軸にした國體/国体とは意味が異なる。

 <河西秀哉 『「象徴天皇」の戦後史』(講談社選書メチエ、2010年)>:敗戦直後から皇太子御成婚までの期間を対象として「象徴天皇」が形作られるまでを論じている。章立ては以下;
 第1章 昭和天皇退位論 / 第2章 天皇、「人間」となる / 第3章 メディアの中の象徴天皇 / 第4章 揺れる象徴天皇像 / 第5章 「文化平和国家」の象徴として / 第6章 青年皇太子の登場と象徴天皇制の完成
 特に新しい気付きがあるわけでもない。各章で論じられるこの国の諸現象にはいつも疑問、違和感、どうしてそうなっているのか、なったのか、違和感が拭えない。それは日本という国に住む人間とは、さらには本質的に人間とは、組織とは・・・・という疑問につながるものである。

2022年3月16日水曜日

ジョン・ダワーとコシュマンの本を読んだ

 テレビや新聞、webでのニュースでウクライナの状況を毎日知る。どうしようもない悲しみ、憤り、人間の愚かさ、一方では勇気、そしてどうしようもない焦躁、ある種の諦念、人間の業、等々が頭の中で揺らぐ。小額の寄付をすることで尚更にまたやるせなさが膨らむ。
 また、アジア・太平洋戦争における昭和前期日本の侵略やその正当化政策、虚偽で固められた大本営発表、報道統制、国民の歓喜、少数の抵抗と彼らへの弾圧、などを相似的に結びつけてしまう。
 ・・・いろいろなこと、どうしようもないもどかしさ、これをどう落ち着かせればいいのか答に結びつかないまま思い倦ねるしかない。

 <ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 増補版(上・下)』(岩波書店、2004年)>:もっと早く読むべきであった。戦後の米国占領期の歴史を知るにはもうこれ一冊で十分ではないかとさえ思える。占領軍への批判も、もちろん日本へのそれも鋭く、特に天皇をめぐる論考は明解であり、日本の基底にずっしりと根を張っているものがどういうものなのか輪郭が鮮やかに浮かび上がる。前回読んだ豊下楢彦の内容と合わせると今の日本に内在する病巣も得心できる。
 ロシアのウクライナ侵攻が続いている今現在、プーチンは勝利後の統治について第二次大戦後の米国の日本における統治システムを学習しているとの報道があった。75年前の米国をロシアに、日本をウクライナと置き換えればなるほど大いなる参考になるのであろうと妙に、皮肉っぽくではあるが納得できる。もちろん、そこにある日本は貶まされている。

 <ヴィクター・コシュマン 『戦後日本の民主主義革命と主体性』(平凡社、2011年)>:明治維新を革命と呼ぶことに抵抗感が拭えないし、同じく戦後の民主化を民主主義革命とすることにも抗う気持ちがある。それは横に措いて、本書を手に取った当初は、敗戦後日本の民主化における、日本という国や政治の主体性を論じているものと曲解していた。
 しかし、「本書は第二次大戦敗戦後、占領下にあった日本の知識人のあいだで「主体性」概念と民主主義の政治的・社会的可能性をめぐって展開した論争状況を分析するものである」(「日本思想史研究と現代民主主義論の接点で-訳者あとがきにかえて-」)。
 『岩波 哲学・思想事典』よりの引用を繋げると、「主体性」は、明治時代以〈subject〉の訳語として用いられ、主体は最も具体的かつ客観的な実在として,認識や行為の担い手と見なされるものであって、第二次世界大戦直後の日本で社会変革への個人の参与のあり方をめぐって「主体性論争」が闘われた。直接のきっかけは,主として雑誌『近代文学』による文学者たちによる「第二の青春」論であつた。彼らは,マルクス主義の残影と輝かしき大東亜共栄イデオロギーの間を揺れ動いた自分たちの「第一の青春」の無力さ・不毛さを自ら問いかえしつつ,しかし見て見ぬふりをしてきた各自のエゴイズムを正直に承認し,そこから発する「自己の内的必至に忠実」な「高次のヒューマニズム」を提唱した。そして,それが論争になったのは,西田哲学から和辻倫理学をへてマルクス主義へ転じた梅本克己が,47年から48年にかけて,主体の参与にかんするマルクス主義理論の「空隙」を問題化したからである。彼が提起したのは,「小我を滅して悠久の大義に生きる」式に侵略の銃をになうことを哲学的に正当化した京都学派と,戦後の日本共産党の革命の扇動との類似性であり,そこにおける個の単独性の欠落である。近代的個人の理性的合意による民主主義を主張する潮流と,階級形成を呼号する潮流の対立に終始したのが,主体性論争であった。後者の潮流が,梅本が問題化したような「空隙」は革命という世界史的必然への献身をためらう小ブルジョアの頭の中にあるだけだ、と決めつけていらい,過度に政治主義的色彩を強め、結局は曖昧なままに拡散した。
 結局は学生時代に知った著名知識人の名前が懐かしかっただけで、本書の分析が何の意味をなすのか理解できず、関心もなくただ退屈なだけの大著であった。

2022年3月5日土曜日

現代百人一首

 毎年恒例の東洋大学「現代学生百人一首」。第35回目の今年の入選作をセレクトし、メモを付した下書きをアップし忘れていた。

     着信で半トーンほど上がる声いつから母と同じになった?
 電話に出ると、連れ合いの声はいつもと違って優しく柔らかくなる。いつからだろう、娘も同じようになっていた。反面、オレは電話に出ると何でそんなにぶっきらぼうで不機嫌そうになるのかと会社の同僚にも家族にも言われ続けた。

     顔加工男に変身してみたら「パパにそっくり!」ショックな私
 娘が幼稚園生の頃、オレに似て美人で可愛いと彼女に言うと、娘は膨れっ面になって“似てないもん”とそっぽを向いていた。

     三〇〇年時空をこえてバロックを奏でる僕にバッハがコケる
 3ヶ月前に手にしたEWI、奏でる“タイスの瞑想曲”が激しく迷走している。

     蝉の音が読んだページに刻まれて参考書から八月の記憶
 蝉はうるさい、集中できない。焦りを覚え始めた高校3年8月の夕。
 3浪して医学部に進学した友人の年賀状に書かれていた一言、“12月になると今でも気持ちが落ち着かなくなる”。

     わからない君の指し手も感情も誰か教えて恋の五手詰
 “四桂(死刑)の宣告”という言い得て妙な詰将棋もある。詰んでしまった恋がそうならなければいいのだが。逆に追いかけ追いかけて詰んでしまう“壽”と称される詰将棋もある。やはり五手詰めあたりが望ましいヵ。

2022年2月28日月曜日

3回目のワクチン接種、EWI

 27日、3回目のワクチン接種。車で5分ほどのクリニックで実施。日曜日のせいなのか混んでいなく、14:30から15:00の予約であったが、14:30にはほぼ終えることができた。年内に4回目もあるのだろうか。

 翌日、注射を打った左肩は痛むのであるが、あとは副作用などを感じることはない。日本酒を飲みたくなった、昼寝をしたくなった、寝不足のせいなのか少し頭が重い。もしかしたらこれらが副作用なのか、と口に出したら年から年中副作用だらけだと連れ合いに軽く躱された。

 EWIで最初に練習を始めた曲は何度も何度も同じ事を繰り返しているが、バッキングに合わせて演奏して初めてとちらないで-音程=運指を間違えないで-終えることができた。思わずやったーとガッツポーズ。 いろんな曲のバッキングに合わせてEWIを演奏したいし、好きな曲は移調したりしながら運指の図をスコアに貼り付けて準備はしている。いつか録音して自己満足感を味わいたいが、72歳と8ヶ月で始めた初めての管楽器はそんなに簡単なものではあるはずもない。

2022年2月18日金曜日

AKAI EWI SOLO fingerings

 毎日いろいろな形でAKAI EWI SOLO(以下EWI)に関っている。上達スピードがとても遅い練習、いつかは美しく奏でようと思って(妄想して)いる曲の楽譜入手、MuseScoreでの楽譜清書、運指パターンを書き入れるための楽譜作成、運指パターンの検討・確認・決定、等々である。
 下図に運指パターンを整理したものを示している。
 一つは、EWI入門書やwebからDLできるものに若干追加している。それらの多くはEWI 400/500がメインになっているのでSOLO 用にアレンジしている。
 次には、EWIの運指がどのように設定されているのかを知りたくなるのは当然であって、それを知るともっと楽しめる。実際のところ上図の運指には入門テキスには示されていないものも含んでいる。下に示したものはエクセルで作成したものを図にしており、エクセル版ではキーのピッチチェンジを計算して音を数字で確認できるようにしている。音楽のごく初歩的な基本を勉強することにもなって面白い。
 図を作成するに当たっては“https://bretpimentel.com/flexible-ewi-fingerings/”と“https://fingering.bretpimentel.com/”を参考とした。

 EWIでMy Wayを演奏しているものがYouTubeにあって魅入られた。それをいつかは吹きたいと思ってスコアを探したが無料で入手できるものは物足りない。キーも一定していない。いくつかを参考にしてF調のスコアを作成し、そこに運指を貼り付けた。練習すれば運指は変わるかもしれないが、まずは記念的な意味も込めてここに乗せておく。誰かが利用してくれると嬉しいが、それに価するのだろうか。










2022年2月11日金曜日

ジョージ・クラム、雪、戦後日本の一冊

 ジョージ・クラムが亡くなった。92歳。最初に聴いたのはLPで「夏の夕のための音楽(マクロコスモスⅢ) アンプリファイされた2台のピアノと打楽器のための」、次は年月を経てからCDとなり、クロノス・クァルテットが好きなことで「ブラック・エンジェル」、「魅入られし風景」はジャケットが印象的。CDの「マクロコスモスⅢ」は「幼子たちの古えの声」とカップリングされておりLPと同一演奏。「マクロコスモスⅢ」は深夜によく聴いた-連れ合いがいるところで聴くとこの曲は嫌がられた。

 10日の朝、雪が降っている。窓から見える家々の屋根に薄らと、まだ塗り始めたばかりの白粉のようである。
 「しんしんと雪が降る」の「しんしんと」は好きな表現で、中学生になろうとする頃、奥会津の鉱山社宅の冷たい窓から見える、雪が降る夜の情景を思い出す。電信柱の上にある電球の灯りが下に円錐形の形を作り、雪が静かに降っていた夜の10時頃、人がひとり背を丸めて歩いていた。あの頃の雪は、何かを暖かく包み込んでしまいそうであった。翻って今は海を隔てた地で、茶色の丘陵が人工の雪で固められ、どこか虚しい祭典が創られている。

 <豊下楢彦 『昭和天皇の戦後日本 <憲法・安保体制>にいたる道』(岩波書店、2015年)>:憲法と安保体制が戦後日本の方向性を定めた。敗戦後にマッカーサーをはじめとする米国に向き合って憲法と安保体制の基礎を固めた根源的要因は、一つには昭和天皇が考える天皇自身の存在目的にあり、もう一つはその天皇を日本国民-特に政官-がどう捉えていたのか、ということにある。史料から展開された論理は明快で、モヤモヤしていたものに輪郭が与えられ得心した。
 帯に書かれた、「あとがき」から引用された文章を要約すると、天皇は「皇統」を維持する目的のために一切を従属させた徹底したリアリストであり、象徴天皇と規定された憲法をも逸脱する政治的行為も辞さなかった。その延長線上に現在がある。
 明治憲法から現憲法改正への経緯、第1条と9条制定の意味、天皇が裁かれなかった経緯、マッカーサーの意思、天皇と沖縄-というより本土という解釈、ダレスと安保と日米地位協定、國體が意味するところ、等々頁に線を引き、メモを書き込みながら引き込まれて読んだ。手許に残しておく一冊。

2022年2月6日日曜日

日本酒品評会(?)、長髪化をやめる、西村賢太の死去

 日本酒品評会(?)を実施。お昼時、テーブルの上に4本の日本酒を並べて品評会めいたことを実施。向き合ったのは福島県の酒で次の4本。①ロ万(純米吟醸1回火入れ)、②宮泉(純米)、③会津娘雪がすみ(純米吟醸うすにごり)、④廣戸川(純米吟醸)。
 いつもは大ぶりのぐい飲みで飲むが、この日は久しぶりに品良く一般的な大きさのガラス製盃でもって①~④の順番で味わう。根はいやしいものだから都度口を水ですすぐなどのことはなく、飲むひとときを楽しむものだから、まして利き酒の技量も浅く、表現力もないものだから、以下のコメントは多分正鵠を誤っているかもしれない。まして酔いながらのメモは難しい。
 ① 美味。香りが口の中で広がる。少し甘く感じる。端麗やや甘口。香りよく初恋の淡さといったところか。
 ② 美味。香りはあるが①ロ万よりは広がりを抑え、落ち着いた趣がある。やや辛口で酸度も好みである。
 ③ 微かに舌に抗う舌触りがあり、感じがいい。馴染みあるほんわかさがあり、会津高校付近の雪景色が浮かんできた。いつもながら美味い。
 ④ 平たい、尖がっていない、個性が薄く何にでも従いますというような従順さを感じる。
 続けて飲んでいるために次第に酔いがまわってきて、品評が怪しくなる。続けて番外として一合ほど残っていた新潟/佐渡の壱蔵(純米大吟醸)を空ける。新潟の酒は美味いのであるがどうも魅入られるところがない。この酒も辛口で香りもそこそこだが再度買い求めるという気持ちはない。
 更に仕上げとして飛露喜(特別純米)を飲む。やはり美味い。毎年何度かこの酒を飲めることはこの上なく幸せである。結局のところ、本日も飲み過ぎである。

 散髪に行っても極力切らずに調えるだけにしてもらい、5ヶ月ほど伸ばし続け、何度目かの長髪化を図ったが、伸びるにつれて鏡に映る自分の姿が次第に不潔っぽくなってきて、もしかしたらだらしない恰好でいるとホームレスの様相を帯びてくるのかとの懸念もあり、結局はバッサリと切ってもらった。ヘヤーカット店の床に落ちている自分の髪を眺めたら黒髪の瑞々しさなど全くなく、白髪交りで、風に吹かれて吹きだまりに転がった細い枯れ草のように見えた。

 西村賢太が死んじゃった、54歳。タクシーの中で具合が悪くなったらしい。最近は以前ほどには小説やエッセイのプロモーションを新聞で見ることも少なくなり、私小説の限界もあるのかと想ってもいたがまさか突然に亡くなってしまうとは驚いてしまった。石原慎太郎への追悼文が最後に書いたものとなるのか。
 以前、立て続けに彼の小説を読んだこともあって一抹の寂しさを思う。

2022年2月3日木曜日

雑記

 石原慎太郎が死んだ。彼の足跡をたどる解説がテレビで流れ、何はともあれ戦後の日本をかき回した人であることは間違いなく、このニュースに触れた山口教授はツイートで改めて彼の言動を批判している。死に当たってのその発言を疑問視する声や、逆に「いいね」とする人たちもいるとウェブ版のニュースに載っている。「天声人語」でも触れられており、現在の政治に関連付けて最後には「「率直」と「乱暴」の違いをわきまえられない、幼稚な政治家が相次いでしまった」と結んでいる。
 武満徹が、大江健三郎に批判されると考え込んでしまうが、石原慎太郎が批判してもなんとも思わない、というようなことを50年以上前に言っていたことを思い出す。武満が言っていたことを正確に記憶しているわけではないが、自分の頭の中ではそう記憶している。また、選挙の時に石原プロの芸能人を背後に立たせ、石原軍団と称していたシーンが思い出される。「軍団」と称する時代錯誤を感じ、また、石原プロ所属の芸能人は本当のところはどう考えていたのであろうかとの疑問があった。

 「率直と乱暴の違いをわきまえられない」と前段に書いた。純粋と単純、無垢と無知のはき違え、感情を思想と同一視する人、従順と追従、論客と饒舌、秩序と差別、平等と画一、・・・・勘違いされていることは沢山ある。

酔っぱらいが世界を変えた

 <ブノワ・フランクバルム 『酔っぱらいが変えた世界史 アレクサンドロス大王からエリツィンまで』(原書房、2021年)>:「ホモ・ノンベラスに遺伝子変異が起き」、エタノールをより早く分解(代謝)されるようになり、ひとは呑兵衛となり、大きな歴史変化に関わってきた。遺伝子変異説は、アメリカで提唱された「酔っぱらいのサル仮説」と呼ばれている「科学史上の最高傑作ともいうべき名称をもつ学説」であると書かれている。人類は大きな進歩を遂げてきているが、「進歩とは、長い歳月にわたる二日酔いのようなものではないか、という考え」から発した論説であるらしい。とするならば、二日酔いはいつか醒めるものであるが、酒飲みはどんなにひどい二日酔いでも苦しみの記憶を消し去り、飲むことを繰り返す。拡大すればアルコール中毒に罹患した「生」という名の病気なのであろう。
 318万年前の化石人骨はルーシー (Lucy) と呼ばれ、その愛らしい名前はビートルズの曲など多くの親しみやすいネーミングとなっている。ルーシーは転落死した可能性があるとある人類学者はいっている。酔っぱらって落ちたのか否かは判らずも、おいしいウォッカ・カクテルに「ルーシー・ラブ」があり、それはルーシーが酔っぱらっていた証拠ではないかと主張するにおいては、面白くて喝采をおくりたくなる。
 日露戦争での旅順攻囲戦は、日本が制したのではなく、「ロシア軍が底なしに酒をくらって戦いに敗れたのだ」とある。そうか、ロシアは前線に多量の酒を供するほどに裕福だったのか、決して日本軍が優れていたのではない。ロシア艦隊が撃沈されたあとには「数百本の酒瓶と4400名のロシア海兵隊員の死体が海峡の海にただよっていた」とのことで、さらに旅順陥落後、日本軍到着時に、ロシア軍は備蓄の食料を焼却するよう兵士に命じたが、兵士たちは拒み飲んでしまった。退却の途についた兵士たちは酔っぱらい、銃は失くしてしまうは卑猥な歌を歌うは、酔って倒れ、あげくは日本軍にいとも簡単に銃剣で刺された。参謀たちはシベリア鉄道の中でシャンパンを飲み気勢をあげて逃亡した。このエピソードで歴史を振り返ってみると、なまじっか日本軍は大国との戦で勝利を得、結果的に己の能力を過信し、錯誤と妄信に酔ってしまい、ためにのちのノモンハンなどをはじめとしてアジア太平洋戦争で悲惨な結果に繋がった。

2022年1月29日土曜日

只見高校が甲子園

 只見高校が春の甲子園出場となった。58年ほど前に住んでいた会津・金山町から更に奥の只見町で、そこにある只見高校は全校生徒が86人(令和3年度)の奥会津の小さな高校で野球部員もマネージャーを含めて僅かに15人-ちなみに金山町にある川口高校も80人前後の生徒数-。幹線道路から坂を上ったところにある小さな校舎の只見高校は場所も知っているし、かつて暮らしていた地から国道252号線を車で16kmほど走らせればそこに至る。その只見高校が21世紀枠で甲子園出場決定とのテレビのニュースを見て驚いた。画面に映す出された校庭は深い雪に被われ、部員たちは駐輪場でバドミントンのシャトルを投げてバッティング練習をしていた。29日の朝日新聞でも3段抜きで報じられていた。地元の喜びは大きいだろうし、奥会津全体にとっても感動的なニュースであろう。ユニフォームのキャップのマークが“T”ではなく“只見”となっていることにも彼らの地元への愛着心が感じられる。とともあれ隣町で生活していた我が身としてはとても嬉しい。最近目にすることもない久しぶりの明るくなるニュースである。親しい親戚が快挙を成し遂げたような昂揚した気分になる。

 読んだ本や不要となった本30冊強をいつものところに買い取り依頼をした。約3ヶ月振り。送料無料のキャンペーンに応じた。

 3回目のワクチン接種券が届き、早速予約手続きをし、来月末にモデルナ社製をうつこととなる。

 <蝉谷めぐ実 『化け物心中』(角川書店、2020年)>:時は文政、所は江戸、演じるは鳥屋と足を失った女形歌舞伎役者、傾奇者たちを相手に鬼を追求する。・・・と、書店で衝動買いしたが、この手の本はどうも合わない。途中で放り出した。

2022年1月23日日曜日

本2冊

 寒いし、コロナ第6波のウェーブは急峻であるし、さらに外へ出かけなくなっている。家の中でテレビに録画した番組を流しながら本を読んだり、長時間新聞を眺めたり、いま入れ込んでいることをPCで調べたり・・といったことだけである。昔ほどにはニュースも見なくなっている。 酒精、都度買いに行くのも面倒になり、焼酎の一升瓶をまとめて5本買った。九州のものでついつい飲み比べたくなるが、酔うと何も出来なくなるので飲むのはほぼ隔日で、量もほどほどに抑えている。

 EWIの練習関連で楽譜の見方の学習や、♯や♭の多い曲を移調して楽譜に落とし込んだり、楽な運指パターンを考えたり、チャートを作ったりと結構な時間を費やしている。EWIに直接触れる時間よりもこのような関連作業をすることが楽しいと感じるのはいつものこと。好きな曲の楽譜を買ったり、DLしたり、バック・トラックを捜したりと入れ込んでいる。そしてEWIを鳴らせばまだまだ入口にやっと立っているような状態である。同じ曲を何度も何度も繰り返し練習していれば少しは上達するであろうと淡い夢をみている-妄想カモシレナイ。

 <逢坂冬馬 『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房、2021年)>:モスクワから徒歩で2日を要する寒村で母と暮らす16歳の少女セラフィマはドイツ軍に襲われ、母が殺され、村で一人生き残り、イリーナに狙撃兵となるよう彼女の隊に組いられ狙撃兵となる。セラフィマの復習する相手はドイツ軍と母を殺した狙撃兵イェーガー、そして村を焼き、唯一の写真を放り砕いた上官イリーナ。
 セラフィマは優秀な狙撃兵で、少女狙撃隊の仲間と供に成果を上げ続ける。最後の激戦地ケーニヒスベルグの戦の章において、セラフィムのそれまでの日常の戦や同僚・上官との葛藤、イリーナの思いなどが凝縮されて描写され、イェーガーへの復習も果たす。良質の戦争映画を見るように臨場感にあふれ、スピーディーに展開され、小説の楽しみを味わった。
 文中にでてくる次の言葉「費やした日数を数えるな、歩いた距離を数えるな、殺したドイツ人を数えろ」、ここにある言葉を少しでも言い換えれば、いろいろな場面での戒めとなる。

 <桐野夏生 『インドラネット』(角川書店、2021年)>:カンボジアが舞台。ストーリーの展開に引き込まれ頁はどんどん進むが、最後になって訳の分からない中途半端な域に入ってしまった。現地の婆ちゃんは日本で大学も出ていて「まとも」な人であるが、あとは訳の分からない、中途半端な怪しげな人ばかりで、主人公に至ってはどうみても社会に爪はじきにされる自堕落な若者。彼が追い求める空知に対して抱く感情も理解できない。読んでいてコッポラの映画「地獄の黙示録」を思い出したが、その映画で展開される狂気や世界観、圧倒的な凄絶さ、破滅性は本書では描かれていないし、一体著者は何を描こうとしたのかとモヤモヤとして感覚が残った。帯には「現代の黙示録」との紹介文があるが、描写される日本人がどれもがまともではなく、その存在自体が日本という国における黙示録的な象徴なのかとも感じる。黙示録的描写が東南アジアを舞台にしてしまうのは、おそらく熱帯の、体温のような湿潤や沼、そこに浸ってしまう渾沌、猥雑、無秩序、頽廃などが想像されるからであろう。・・・「地獄の黙示録」を再び観たくなる。今観たらどのような感じを受けるのだろうか。

2022年1月14日金曜日

雑記、官能小説

 全国レベルで新型コロナ陽性者が急激に増加している。春日部もその例に洩れず増え、昨日は30人に近くなってきた。今月末には3回目のワクチン接種の通知が届けられる予定。

 自宅で飲んでいるせいもあろう、飲酒量が減り、酒に弱くなってきたという実感がある。

 EWIの練習は続けているも、今のレベルはリコーダーをはじめた低学年小学生なみであろう。否、それ以下かも知れない。模範演奏を耳に入れて同時演奏するとまだまだパニック状態になることもある。ためにフィンガリング・チャート-ギターでいうタブ譜のような役割-を作り、それをスコアの下に貼っている。ブランクのチャートを作ったので今後はレパートリーが増えることがあれば活用できる。こういうツールを作っていることがまた楽しい。

 ゆうちょ銀行での硬貨の取り扱いが来週17日より有料となる。気づいたのは昨日13日の夕方。連れ合いも自分も小銭が貯金箱や瓶にかなり貯っていて急遽預け入れてしまうこととした。
 本日9時頃に近くの郵便局に入ると硬貨をカウントするジャラジャラという音が聞こえ、呼ばれた少し年配の男性が、小銭が満杯となっている大きなペットボトルを窓口にどんと置く姿があり、他にも今朝のニュースで知ったであろう人が何人か来ているようだった。こっちは予め小銭を分類し数えてあったのであまり時間が経たずに終った。今日は全国的に郵便局の中には尋常でない小銭が山となっていたであろう。

 <曇居るい 『破蕾』(講談社文庫、2021年/初刊2018年)>:初刊時は冲方丁の名で出され、文庫版発刊にあたり一般公募の著者名とした官能時代小説。特に最初の「咲き乱れ引き廻しの花道」が淫靡で最も官能的。引き廻しの身代わりとなった武家妻女に対する牢屋敷でのいたぶりからはじまり、身悶える引き廻しを描き、最後は再び屋敷内にて複数の男たちから凌辱される。長々と続く性描写では縄や性具が出てきて伊藤晴雨の責め絵の世界が脳裏に浮かんだ。その手の趣味は自分の埒外の異世界のことであるが、これらの描写は蠱惑的であることは確かである。

2022年1月13日木曜日

高校・大学ラグビー終了、漫画

 高校ラグビー、予想通り東海大仰星が國學院栃木に36(5T4G1PG)-5(1T)と勝利し優勝。圧勝とは言えないまでも快勝で6度目の頂点。

 2022年度のラグビー高校生の進路で早稲田だけが判らない。web上で探すしかないが全く確認できない。どうなっているのだろう。推薦合格者も例年ならばとうに発表されているが全く見当たらない。・・・とメモったのが4日前、いま改めて検索したら東海大仰星のCTB野中健吾が早稲田に進学するとの記事があった。あとは野球部に関するものだけで相変わらず全容が見えない。これもコロナ禍が影響を及ぼしているのだろうか。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第6集』(小学館、2022年)>:C教の教会体制批判と擁護、秩序と支配、偶像崇拝の是非、神の存否等々。地動説はそこでの利用価値として扱われる。

2022年1月8日土曜日

今年はじめての雑記

 平日と何も変わらない正月を迎えるのはいつものこと、おせち料理は嫌いだから準備しないし、年末恒例のNHK紅白歌合戦なるものにテレビのチャンネルを合わせることがなくなって数十年は経っているだろうか。ニュースも一度見ればもう十分だし、まして政治絡みのニュースは国内外を問わず関心は薄くなる一方である。新たな一年はどうなるのかと新聞などで展望が描かれていても、日々は連続して区切りがあるわけでもなく、これといって何かが革まるわけではないし、結局は些細に見えることが積分され、気づけばいつのまにか世の中が変わったとか昔と違ってきたと感じるのが実情であろう。

 箱根駅伝は圧倒的な青山学院の勝利で、早稲田の惨敗で終わった。早稲田にはせめてシード権獲得を希ったが二日目途中で諦めた。高校選手のリクルートが上手くいかないのか、入学の門が狭いのか、コーチ監督たちの指導・育成がダメなのか、青学と比較すればその差はとてつもなく大きいと感じてしまう。

 高校ラグビー、國學院栃木の躍進が素晴らしい。高校代表候補が一人もいない中でよくぞここまで強くなっているものと試合を観戦して感激する。今日、東海大仰星との決勝戦があり、仰星の圧倒的勝利となる予想。
  大学ラグビー、ちらちらと試合を摘まみ食いのごとくに観たが、帝京・明治・東海・京産とどのチームをみてもFWDが強い。この4校に早稲田を加えると早稲田のFWDの弱さは目立つ。東海大と当たっても京産大と当たってもFWDで苦戦or負けるような気がした。

 年賀状は昔のピーク時と比較すると随分と少なくなった。何の連絡もなく来なくなった人は生きているやら亡くなってしまったのか、あるいは筆を執る力が失せてしまったのか、思いを過去に向かわせると、10代の頃より多くの人と知り合いかつ離れたと感慨深く感じる。

 ペシミスティックな書き方になってしまっている。これも年齢を重ね、生きている世界が狭くなってきている証しなのであろう。

 新たに始めたEWI、毎日練習しており、ほんの少しずつ指の運びが良くはなっている(と思う)。いまの目標はジムノペディ1番、カバチーナ、逝きし王女のためのパヴァーヌ、これら3曲をマイナス・ワンのバックに併せて吹けるようになること。ゆっくりした情緒あふれるこれらの曲を、せめては家族の前で拍手をもらえるようになりたいものである。そのためには基礎練習の積み重ねで深夜に練習をしている。ときどき、自分は音楽演奏の素質がもともとないような気がしないでもない。練習しかないと今更ながら思う。

 久しぶりにクロマチック・ハーモニカをいじってみたらレバーがスムーズに動かない。分解してバルブオイルを塗布したが、組み立て時にネジを破壊してしまった。ネジをねじ切ってしまうのは自分によくあるパターンだが、しかしだ、なぜにこうも軟な材質を使っているのだろうか。非正規のネジを使う手はあるがそのうちに楽器店あるいはメーカーから正規品を取り寄せよう。