2017年8月26日土曜日

久しぶりに乙川さんの小説

 幕末・明治維新の新書を読み続けているが、それらのメモは後回しにし、数日前に読んだ小説について書いておく。

 <乙川優三郎 『ロゴスの市』(徳間書店、2015年)>:記憶力も時間経過の感覚も鈍ってきているのであろう、著者の本はここ1年ほどの間に読んでいたと思っていたが、実際には2年ぶりであった。2年前に購入してそのまま手を付けずに積んでいただけで、「本は欲しいときに買う」のパターンから何の変化もなく過ごしている自分を意識してしてしまう。未読の本が溜っているのでさすがに最近は少し自制しているとは思うのであるが、身についた性癖は簡単に変えることができないことも感じている。
 主人公弘之は大学生の時から翻訳家を目指し、大学で同じ文芸サークルに参加していた悠子・小夜子・田上とは年齢を重ねても交流がある。悠子は複雑な家庭環境にあって同時通訳者となり、小夜子はシスターに、田上は出版社に勤務する。彼ら以外に登場するのは出版社の編集に携わる原田、大学教授正木、弘之の家族、そして41歳で結婚した6歳年下の恵里。弘之は翻訳に携るゆえに言葉と格闘し、その格闘が全編を通して描かれる。文章、言葉、言語を深耕する小説は初めてである。そしてまた言動が直截的な悠子も同時通訳として同じように言葉に格闘する。言葉や文芸に若干20歳前後で深く関わり、読んでいることに驚きを感じた-自分のその年齢の頃は足が地に着かず、ゆえに虚勢をはることもあり、十分に理解できない小説、たとえば埴谷雄高などに向き合っていた。彼らの会話は深くもあり、また楽しめるものである。
 ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』が出てきたときは、やはりこの名作は素晴らしいと思ったことを思い出し-勤務していた頃の女性翻訳者に紹介されて読んだ-、「ザ・モスト・ビューティフル・ウーマン・イン・タウン」-「ブコウスキー」-「残念でした、一番の美女はキャスです」の弘之と悠子の会話には、こういう会話が交わせる関係っていいなと羨ましく思う。ジェイムズ・ジョイスの『Finnegans Wake』もトマス・ピンチョンにも触れている。一人の人間がやれることは極々狭い範疇のものでしかなく、その範疇のなかでもほんの一部しか経験できない。ジョイスもピンチョンも名前は知っているが自分の範疇には入れられていない。かろうじてラヒリはちょいと読んだという程度。日本の作家では向田邦子・芝木好子が語られる。女性作家であるのは、主人公が女性作家の翻訳をするからであろう。それに著者乙川は工芸を対象とした小説を著していることから、芝木から影響を受けているのかと想像した。
 言葉、小説などに関して鋭い感性と深い思考は読んでいて楽しく、すぐれた小説だと感じていたが、物語が終わりに近くなったところからこの小説が急につまらなくなってきた。結婚した恵里は恐らく弘之にとって都合のいい妻でしかなく、二人で何を築こうとしているのか弘之の意志が希薄。そこに悠子と再開し、フランクフルトで会い、夏には房総-乙川が好んで舞台にする地-の海辺のホテルでともに時間を過ごして「ロゴス」の会話をする。そして悠子はインド洋にて飛行機事故で亡くなる。小夜子からの手紙には、悠子は複雑なしがらみで結婚し、後にしがらみから解き放されたときに離婚をした。結婚前の彼女と弘之の間には女の子が生まれ、アメリカで養女になっていると記されている。悠子はずっと、学生時代から弘之を愛していたとも書かれていた。この小説のこの急展開を読んだ途端に通俗的なつまらない物語と感じた。翻訳するということは対象となる人間の言葉、大げさに言えば「ロゴス」を日本語に翻訳し、自分の「ロゴス」の中に転写し、それを外に発するものであろう。しかし、主人公たちは自分たちの生活の中で何を翻訳・転写したのかクエスチョンマークが浮かんだ。最後になって、物語は、キレイな装いをした通俗恋愛小説に落ちてしまった感が強い。

孫への甘やかし

 小ニの女の子である孫にハンドスピナーをあげた。家に来ていじっているうちにやはり欲しくなったようで、彼女の兄と同じものをプレゼント。面白がってしょっちゅう回している。

 彼ら、アイスクリームの類が好きで、シャトレーゼで購入したものを冷蔵庫には必ず入れてある。小学生・中学生になると我が家に来る回数も減ってくるので、お菓子やアイスで釣っている感がある。昨夕も下の子がちょいと立ち寄ったときに、手にいっぱい持って帰って行った。そんなに持って帰るのと家人が言ったら、一個だけ戻したらしい。
 その直後に、スマホのことをちょっと聴きたいが為に兄の方を呼び寄せた。いまのところスマホに関しては一番詳しい。その彼はスマホ付属品のインナーイヤホンが耳にフィットしないようだし、以前から持っていたものは断線したようなので、余っているカナル型イヤホンをあげる。DENON製のアルミ削り出し品でイヤーピースもセットにしてあげたら喜んでいる。彼、オーバーイヤーヘッドホンもワンショルダー・ボディバッグも彼の家では一番いいものを持っている。彼に64GB microSDカードをあげようとしているのだが、少し高価なものや遊ぶものはプレゼントする前に必ず娘の許可を貰うようにしている。そのSDカード、娘は彼にある条件を提示したようでまだあげていない。条件のハードルは少しだけ高そうでまだクリアしていない。

2017年8月21日月曜日

ハンドスピナー

 中一の孫にハンドスピナーを見せたらとっくに知っていた。オレのハンドスピナーは3個あって、最初に買った1個は5~600円の安価なもの(a)で、あちらこちらの店頭に置かれている。次に購入したのが本屋でこれは品質が悪くない(b)、さらに、ショッピングモールをぶらついていたときに一寸よさげなものも購入(c)。
 一番高いもので1,500円ほどだから、はなから高品質は望んでいない。回転持続性、回転時のベアリング(以下Brg)音などを比較すると、(b)-(c)-(a)の順の優-劣となる。特徴を簡単に書くと、(b)は合金で重く、Bgrが小径、(c)も重量があって慣性を維持しているようにしている、がBrg外輪を外周回転部品のネジで押さえるようにしているので少しでも強く締めるとBrg外輪の変形となり、回転が重くなる。軽く締め付けると回転部品が緩んでしまい回転中に外れてしまう。言ってしまえば典型的な基本設計ミス-Brgとネジの特性を理解していない。(a)は軽いし、三ケ所に空白の穴を設けているのでその分回転の慣性力が小さい。なんといってもBrgの質が悪く、回すとかなりの異音を発する。
 で、この1ヶ月間で手にしたこれらの安価なスピナーに改善対策を施した。まず(c)のBrg(規格番号608相当)を国産(NTT製)のものにした。ただし、近くのホームセンターではzタイプ(608z)しかなく、これにはドラッグトルクを重くするグリースが封入されており、帰宅後にシールド・プレートを取り外し、無水エタノールでグリースを洗い流した。この国産Brgを(c)に取り付け、(c)のBrgを同じ規格のBrgを使っている(a)に嵌め込み、もともとの(a)の粗悪Brgは廃却。(b)のそれはオリジナルのままにしている。(a)の外周回転部分の穴には鉛鈑をはめ込みイナーシャが増すようにした。スピナーを軽く回すためには潤滑油は基本NGであるが、その原則を外し、ごく軽いオイルである楽器用のバルブオイルを軽く塗布した。手の感覚ではこれで回転が重くなると言うことはない。(c)の外周回転パーツのネジ部には緩み止めを塗布し、ネジ先端とBrgとは軽く接触させBrg外輪への押圧をなくした-昔つかっていた機械設計用語で言えばナチュナル・クランプというロック方法-。
 家人が中一のその孫に、ジージが面白いものを3個持っているからねだるとすぐにくれるよと吹き込んでいたせいか、興味を示し、さらに3種のスピナーの違いに関心をみせ、オレはオレで回転力の相違理由を理論的に説明し-かつては工作機械や複写機の機械設計者だったので、得意になってしまう-彼には最も性能のよい、かつ小さな手にも適している(b)をあげた。かれの親にはまたまたこんなものをあげてと多少の顰蹙をかうかもしれないが、孫を可愛がってしまうのはオレと家人の権利であって、そのためのマイナス面を是正するのは娘とその旦那の責任である、と勝手な論理を振り回している。
 ハンドスピナーをあげたその孫に、妹が興味を示したら買ってあげるよと伝えさせたが、小ニの女の子は関心がないらしい。

家人、スマホデビュー

 中一の孫(娘の長男)と、家人がスマホデビュー。孫は以前より家族使用のiPadを使っていたが自分のスマホが欲しかったようで、親のつけた条件をクリアしてやっと自分だけのスマホを持つようになった。親には時間制限やその他の使用制限をつけられているようであるが、我が家に来ては嬉しそうに操作をし、家人に嬉々として説明をし、Lineとかを一緒にやろうよ、とかなんとか話し、かねてよりガラケーからスマホへの切替を迷っていた家人は大好きなその孫の優しい言葉に喜んで早速翌日にスマホを手にした。家族割りの代表者でもあり、家人よりはほんの少しは知識のあるオレも一緒にauに行って約3時間経過して今夏の最新モデルのスマホを購入した。
 大変なのはこっちで、何せオレ、スマホとタブレットは持ってはいるけれどスマホはSim フリーでデータ通信専用に特化し、携帯はガラホにしている。よって家人のスマホの操作は一から覚えてサポートしなければならない。オレのスマホはネットで買ったASUSで、彼女のものはGalaxyの最新S8+でオレのものとの価格には大きな開き。面白がっていじっている彼女はオレに買い換えたらと言うけれど、ガラホとスマホ(とタブレット)の使い分けは便利でその気は全くない。・・・とはいうものの最近、スマホがフリーズしてしまい、通常操作では電源も入らなくなることが2回も起きた。買い換え時が近づいてきたヵ。
 というところで、その孫がやってきて家人はLineの設定から操作までいろいろやってもらっては教えてもらっていた。頷くところも多かったがあとで聞くと「わからん」と云いつつもなんとか操作をし、表情は嬉々としている。彼女にすれば彼とスマホを介してべったりと接しているそのプロセスが至福の時間なのであろう。かというオレはLineはやったことがないから会話には入っていけない。そこに息子一家がやってきてLineでさらなる盛り上がり。

 廃棄あるいは売ってしまう本の山を見て、息子は何冊か取上げ、息子の嫁さんは時代小説が欲しいと云い、彼女に合いそうな本を8冊ほど推薦した。フランスの女性弁護士が書いた傑作『黒衣の下の欲望』が出てきて、その本の内容を説明し、持って行くかと聞いたらその趣味はないのでパスとの返事。まあそうだろう。まだサラリーマンの頃、派遣で翻訳の仕事をやっていた女性にこの本を貸したら良かったとの感想を漏らしていた。この本も明日は廃棄処分。

2017年8月12日土曜日

日々是好日ヵ

 今日もまた昼から「飛露喜」を飲む。前回と同様に新島で買った“くさや”を肴の一つにした。これとぐい飲みを片手に部屋から出てデッキに座り、“くさや”の臭さを部屋に残さないようにしている。右手にぐい飲み、左手にくさや、誰かが観ていれば女房に叱られて外飲みしていると誤解されそうである。
 ビール500ccとこの日本酒2合で睡魔に襲われてしまった。「太平の眠りを覚ます上喜撰たった4杯で夜も眠れず」といった緊張感はまったくなく、「たった2合で昼に爆睡」という体たらくである。

 スーパーのレジにて。
 「買い物袋はお持ちでしょうか」とレジの女性。
 「はい、ここに持っています。というか女房殿に持たされています」と68歳の男性。
 「あら、お優しいんですね」
 「いえ、いえ、年をとれば女房殿には丁重に接するのが一番です。年齢を重ねてから恙なく生きていくためにはたとえ演技でもそうするのが一番です」
 「いいですね、うちの主人もそうなってくれるかしら。なってくれるといいんですけど」
 「そう仰るにはまだ早いんじゃないですか」と彼女は若く見えてると暗に言う。
 彼女、察したのか、「いやもう近いですよ」
 永六輔の新書に書かれていたことを思い出しながら、「若いときはちゃぶ台をひっくり返しても、年をとってからは奥さんと手をつないで歩いている人もいて、それが年齢を重ねた“生活の知恵”というらしいですよ。いや、私はちゃぶ台をひっくり返したことはないですけれどね」。ふと思った、彼女ちゃぶ台って何なのか知っているのかと。
 レジで支払いを済ませるとき、彼女はニコニコして「ありがとうございました」
 「余計なことを言いました。ごめんなさい。これから女房殿がトイレから帰ってくるまでに、この袋にちゃんと入れて待つことにします」
 女房殿、大きなものを出したのか、身も軽くすっきりした顔つきで歩いてきた。

2017年8月11日金曜日

最近よく聴いている音楽

 聴いたことのない音楽のCDを買うのはある種の賭け事のようなもので、聴いて気に入らなければ(嫌いなものを知ったとポジティブに捉えることもできるが)基本的にお金と時間の無駄遣いであり、好きになると更にアルバムを追加購入してのめり込むこととなる。好きにならなかったものを、時間をおいて再び聞いてみると案外好きになることもあり、3回4回と聞いても響いてこないものもある。
 そんななかで、いままで触手を伸ばしながらなかなか手に取ることがなく、やっと聴いてみた冨田勲の「惑星」とDebussyはどうも好きになれない。昔から評価の高いアルバムであるが、何度か聴いてみても魅せられることはなかった。期待が大きかっただけに肩すかしをくらったような感じであった。シンセサイザーの奏でるクラシックそのものが好きではないのかもしれない。特に好きなDebussyへの期待が膨らんでいただけに落胆の度合いは大きかった。
 Kronos Quartetは相変わらず新しいアルバムを聴き続けており、その絡みでThe Nationalを知ることとなった。そして、ひょんなことから、マイナーもマイナーであるが、The Enemiesに惹かれた。しかし昨年に解散してしまった。マス・ロックと呼ばれるらしいが、ミニマル・ミュージックの影響は多分にあると思う。クリーンなエレキギターが耳に残る。アイルランドという地の影響があるのだろうか。
 この一年もっとも好きになったのがLudovico Einaudi。昨年春に映画「最強のふたり」を観たときにそのテーマ音楽に魅せられ、以来複数枚のアルバムを聴き続けている。Einaudiの演奏だけではなく、Cecilia Chailly (指揮者Riccardoの妹)のエレクトリック・ハープも素晴らしい。アルバムを探していて見つけたJeroen van Veenの奏でるピアノ曲集CDも気に入った。その延長線上でVeenのCDを探してみて、ミニマル・ミュージックのSimeon ten Holtを知り、やはり聴いてみたくなり、実質2千円と少しで11枚組のセットを購入した(Amazonでラスト1セットだった)。Holtはオランダの作曲家でSteve Reich(好き)やTerry Rileyの曲とは趣を異にしており、何度も何度も切れ目なく繰り返し演奏されるピアノによる演奏は、魔法にでもかかって違う次元の世界に吸い込まれるようでもある。オルガン演奏によるHoltもあるけれどピアノの方がいい。ついでにといっては何だけれど、Veen演奏のYann Tiersenもいい。
 こうやって好奇心の趣くままに知らなかった音楽を聴くと、世界の広さ、人間社会の多様性といったものに今更ながら思いを巡らし、我が身を置く場所がまるで井の中に思え、まだまだ大海の一滴にしか触れていないのではないかとの思いがする。自己のすべてを絵や音楽に投射できる人は芸術家と呼ばれるのであろうが、その能力-感性も想像力も創造力も表現力も何もかも-が備わっていない我が身についてはただぼんやりとこの現実を受け容れるしかない。凡人がなせるのはせいぜいその程度である。

2017年8月9日水曜日

明治維新の柔構造

 <坂野潤一・大野健一 『明治維新 1858-1881』(講談社現代新書、2010年)>:複雑な明治維新の維新活動が解りやすく、曖昧なままの理解が少しは進んだと思うので自分なりに(乱暴ではあるが)エッセンスをまとめておく。
 本書の目的は、1958(安政5)年から1881(明治14)年の時代を対象として、当時の「我が国の幕末維新期の社会変容を導いた政治メカニズムを、歴史比較および国際比較の視点をもって明らかにしようとする試み」である。1958年は、海外諸国との「修好通商条約」調印があり、「戊午の密勅」を経て「安政の大獄」による捕縛が開始された年であり、1981年には参議大隈重信派の罷免(「明治十四年の政変」)があり、「国会開設の詔」が発せられ、近代日本の国家構想を決定付け、薩長藩閥体制が確立した。
 幕末期の国家目標は、軍事経済的には「富国強兵」であり政治的には「公議輿論」。維新期のそれは「富国」「強兵」「憲法」「議会」となる。
 幕末期は少数の雄藩が藩を単位として行動するが、単独では政治力が十分ではなく、他藩グループと協力関係を築く。そのグループ間の政策論争は「国家目標」「合従連衡」「指導者」のレベルでの可変性・柔軟性-簡単に言えば状況に応じて相互の組み方が変わっていった。この政治的構造を「柔構造」と説き、この柔構造ゆえに維新期の日本は、「複数目標を同時に達成する能力、内外ショックへの適応力、政権の持続性のいずれにおいても、東アジアの開発独裁の単純な硬構造よりもはるかに強靱であった」とする。
 27頁に示される「国家目標と指導者の基本的組合せ」の図が判りやすい。図を文章に落とすと次になる。

  大久保利通(殖産興業)--<富国強兵>----西郷隆盛(外征)
    |                      |
  <内治優先>                 <海外雄飛>
    |                      |
  木戸孝允(憲法制定)---<公議輿論>----板垣退助(議会設立)

 ここに表れるのは「薩長土」であり、「肥」がない。その理由は、鍋島藩(佐賀藩)は自藩だけで「富国強兵」が実施され、他の雄藩との連携は必要なく、故に佐賀藩士は組替えを含む協力関係のあり方の訓練がなされていないからである。佐賀藩士は「自己主張のためには過激性や単独プレーに頼る傾向」があると指摘されている。先月佐賀県を旅行したときの嬉野茶の製茶見学で、旧鍋島藩ではこの茶が大きな輸出品であったと説明されていたことが、この本を読んでストンと腑に落ちた。
 「幕末期の政治競争とナショナリズム」の項におけるまとめが判りやすい。12行の文を短くしてしまうと次のようになるであろう。すなわち、「ペリー来航以来、徳川政権の正統性は」、「軍事的無力」「によって大きく傷つけられ」、「通商条約の」「不備」、「一方的・強圧的な政治運営」、「開港がもたらしたインフレーションと急激な産業の盛衰などが一連の外交的・政治的・経済的失策として追討をかけた」。雄藩による「政治競争」は、「支配階級の一部を構成する下級武士および知識階級層」が「広く共有するにいたった民間ナショナリズムという求心的な精神基盤のなかで進行したため」、「国家利益を目的に競われた」。「ゆえに、藩益や特定階級の利益が国家利益よりも優先されて日本が長期の内乱に突入したり、その際に乗じて外国勢力の介入と支配を招くといった事態は生じなかった」。しかし、国学とその流れを全面的に受け容れることは自分にはできない。それにここでは国学の負の側面を論じていない。

2017年8月6日日曜日

本の処分

 読んでしまった本はそれがミステリーや漫画であるならば適当に選んで子どもたちにあげていた。それ以外の既読の本は3Fにおいてあるが、思い立って処分することとした。終活という事ではないがもう頁を開くこともないものは処分してすっきりさせようと思った次第。中古本を引き取ってもらうところから段ボールを送ってもらい、それに詰めて送るだけ。書き込みのある本や全く価値のない本は廃棄する。まずは、最近読んだ本や3Fにある本を1Fの和室に運び、①引き取り価格がつくもの(オンラインである程度の目安はつけられる)、②廃棄するもの(バーコードがない、書き込みがある、1円の価値しかないもの)、に大別する。この作業を繰り返す。きょう現在で500冊ほどは終わったろうか。処分するといっても、歴史関連の書籍、鉱山関連のものはまだ保管しておく。

 時代小説が好きな友人に段ボール一箱(90冊前後はあろうか)送った。彼の好みは分かっているし、事前に問い合わせたら欲しいというので送ったのであるが、到着後に電話があって、特に彼が最近読んで好きになったという長谷川卓の本(ほぼ全冊ある)は喜んでもらえた。ついでにその後の処分もお願いした。彼は読み終えた本はすべて寄贈しているらしいので、オレの読んだ小説がまたどこかで読んでもらえると思うと嬉しくなる。

 本の引き取り価格を調べていると、1円、すなわち価値のつかない本も多くある。数十冊を確認しているなかで、まず少し古くなった小説は価値がない。漫画はバラツキがあって意外な価格がついているものもあれば、人気がなかったものはダメ。本ではないがあるDVDが数千円の価値がついていたのには意外な感じがする。個人的にはつまらない映画であったのに。

 本を処分するのはこれで7-8回くらいになろうか。最初は20年程前でそのときは裏表紙に購入日や名前をサインしていたもの700冊ほどをゴミと同様に廃棄し、それからは古本屋さんに持ち込んで引き取ってもらった。もちろん廃棄処分にしたものもある。買い取り価格が高かった個人店を数回利用したが、そこは倒産してしまった。以降は誰しも知っている全国チェーン店に持ち込んだが、とにかく時間がかかるのが不満であったし、価格は安かったため、今回はじめてwebからのアクセスとした。
 暫くすれば、少しはすっきりするだろう。

 会津から届いた「飛露喜 純米吟醸」をついついだらだらと(一升瓶の)半分近くまで空けてしまった。美味い。

2017年8月2日水曜日

小説週間のラスト

 小説だけを読むのは一旦これで小休止。次からはまたメインを一応「幕末・明治維新」に戻す。で、読んだのが連続して女流官能小説家、花房観音の最新単行本。

 <花房観音 『色仏』(文藝春秋、2017年)>:朝日新聞日曜版(2017年7月9日)の書評に掲載されており、故にこれは-書名は如何にも“それらしく”はあるのだが-単なる官能小説ではあるまいと思い直ちに購入。要は“高尚な官能小説”を期待していたのである。
 冒頭、親鸞の「女犯の夢告」が記される。
 近江の寺に捨てられた男、烏は親も生地も知らずにいた。彼は村の月無寺にある十一面観音に魅せられ、それこそが究極の女性像と信じる。僧侶になるために京に上り寺に入るが観音像を彫る仏師にならんと寺を離れ、活計を得るために女の裸を木に写し取る仕事に就く。足を開く女を深く観察し細密に筆に落とし木を彫る。烏は、観音像を作り上げるに自らを律して(勃起はすれども)目の前の女を抱くことはしない。家主でもある女、真砂は背に観音の彫り物があり、烏は、彼女の性交時に見せる背の観音にかつて村で見た十一面観音を投影し、背に彫った男に畏敬の思いを抱く。裸を曝す女たち、男との交わりを繰り返す真砂、女に交わらない烏、真砂の背に観音を彫った男が短い物語を編む。真砂の背に彫った男と真砂が交わるその官能を見て烏は観音像を彫るが、真砂はその像を鴨川に放り投げる。なぜなら交わりを見た烏は勃起せず、それを真砂は見抜いていた。二人は新たな思いで塒へと歩き出す。
 舞台は京都、時代は幕末でペリーが浦賀沖に見えた頃。濡れ場を描き続ける官能小説とは趣が異なり、女に対する烏の内面描写が思索的であり、虚無的であり、本能的でもあり、楽しめた一冊。ただ書名『色仏』はいただけない。これでは寺の本堂におけるめくるめく淫猥な性交描写を思わせてしまう。いっそのこと作者名にあわせて「観音」とでもすればまだよかったのかと思う-観音を開くシーンも多いし-。
 「長い平和を保ってきた幕藩体制が黒船来航を機に崩壊へと向かう時代の文脈と、主人公が抱いてきた究極の女性像が現実のなかで虚像と化してゆく過程とが、見事に重なっている」との書評(原武史)は時代に結びつけすぎであろう。しかし、「少しだけ出てくる京都の公家や天皇がさらに輪郭を帯びれば、より深みが増したようにも思われる」には同感し、欲張れば仏教や仏師の深遠、観音像の歴史的意義などに触れればこの「官能小説」はもっと厚みを増すであろうと思う。
 16年程前に読んだ、真言立川流文観を描く黒須紀一郎の大作『婆娑羅太平記』を思い出した。
 ”花房観音”とは女性官能小説家に相応しい名である。花はあそこの花びら、房は乳房の房、観音は言わずもがな。勤めていた頃、「俺は毎朝奥さんのスカートをひょいとめくり、観音様に向かって手を合わせ、それから家を出る」と仰っていた、社内結婚した、オレをいつも下の名で呼ぶ、取締役がいた。いい人だった。・・・ちょっと酔っている。