2017年8月9日水曜日

明治維新の柔構造

 <坂野潤一・大野健一 『明治維新 1858-1881』(講談社現代新書、2010年)>:複雑な明治維新の維新活動が解りやすく、曖昧なままの理解が少しは進んだと思うので自分なりに(乱暴ではあるが)エッセンスをまとめておく。
 本書の目的は、1958(安政5)年から1881(明治14)年の時代を対象として、当時の「我が国の幕末維新期の社会変容を導いた政治メカニズムを、歴史比較および国際比較の視点をもって明らかにしようとする試み」である。1958年は、海外諸国との「修好通商条約」調印があり、「戊午の密勅」を経て「安政の大獄」による捕縛が開始された年であり、1981年には参議大隈重信派の罷免(「明治十四年の政変」)があり、「国会開設の詔」が発せられ、近代日本の国家構想を決定付け、薩長藩閥体制が確立した。
 幕末期の国家目標は、軍事経済的には「富国強兵」であり政治的には「公議輿論」。維新期のそれは「富国」「強兵」「憲法」「議会」となる。
 幕末期は少数の雄藩が藩を単位として行動するが、単独では政治力が十分ではなく、他藩グループと協力関係を築く。そのグループ間の政策論争は「国家目標」「合従連衡」「指導者」のレベルでの可変性・柔軟性-簡単に言えば状況に応じて相互の組み方が変わっていった。この政治的構造を「柔構造」と説き、この柔構造ゆえに維新期の日本は、「複数目標を同時に達成する能力、内外ショックへの適応力、政権の持続性のいずれにおいても、東アジアの開発独裁の単純な硬構造よりもはるかに強靱であった」とする。
 27頁に示される「国家目標と指導者の基本的組合せ」の図が判りやすい。図を文章に落とすと次になる。

  大久保利通(殖産興業)--<富国強兵>----西郷隆盛(外征)
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  <内治優先>                 <海外雄飛>
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  木戸孝允(憲法制定)---<公議輿論>----板垣退助(議会設立)

 ここに表れるのは「薩長土」であり、「肥」がない。その理由は、鍋島藩(佐賀藩)は自藩だけで「富国強兵」が実施され、他の雄藩との連携は必要なく、故に佐賀藩士は組替えを含む協力関係のあり方の訓練がなされていないからである。佐賀藩士は「自己主張のためには過激性や単独プレーに頼る傾向」があると指摘されている。先月佐賀県を旅行したときの嬉野茶の製茶見学で、旧鍋島藩ではこの茶が大きな輸出品であったと説明されていたことが、この本を読んでストンと腑に落ちた。
 「幕末期の政治競争とナショナリズム」の項におけるまとめが判りやすい。12行の文を短くしてしまうと次のようになるであろう。すなわち、「ペリー来航以来、徳川政権の正統性は」、「軍事的無力」「によって大きく傷つけられ」、「通商条約の」「不備」、「一方的・強圧的な政治運営」、「開港がもたらしたインフレーションと急激な産業の盛衰などが一連の外交的・政治的・経済的失策として追討をかけた」。雄藩による「政治競争」は、「支配階級の一部を構成する下級武士および知識階級層」が「広く共有するにいたった民間ナショナリズムという求心的な精神基盤のなかで進行したため」、「国家利益を目的に競われた」。「ゆえに、藩益や特定階級の利益が国家利益よりも優先されて日本が長期の内乱に突入したり、その際に乗じて外国勢力の介入と支配を招くといった事態は生じなかった」。しかし、国学とその流れを全面的に受け容れることは自分にはできない。それにここでは国学の負の側面を論じていない。

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