2016年9月24日土曜日

秋葉原をぶらぶら

 23日、暇つぶしを兼ね、家人と秋葉原を歩いた。主目的は冷蔵庫の買い換えのために商品の確認。いまの冷蔵庫はもう10数年前に購入したもので、最近はどうも氷の出来具合が良くない。製氷機の底面に固まってしまった氷にアイスピックを入れることもしばしばだし、そろそろ替え時であろう。ヨドバシカメラで親切丁寧な説明を受け、候補を二つに絞った。購入は家人の決断を待って10月に入ってからになろう。

 ここで有隣堂とタワーレコードの階に上がったら様子がかなり変わっている。まず有隣堂が狭くなっている。さらにタワレコードも狭くなっている。ネット購入が多くなり、こういう店舗は縮小しているのは理解できているが、まさかここまで影響が及ぼされているとは想ってもいなかった。本は購入しないと決めていたが、CDは別でクラシックの安価なセットものを探す。メインは現代音楽と決めていたのでそこのコーナーで物色。ラサールSQ/新ヴィーン楽派で6枚セットがあるではないか、ラサールSQではほかのCDも持っているがこっちも買ってみようと思いレジで支払い。そこの若い女性の店員さんに尋ねたところやはりネットでの売り上げの方が大きく、ここでの店舗は縮小したとのことであった。
 本もCDも確かにネットで買うことは多いのだが、現物を手にとる機会が減るのは寂しい限りである。書店が小さくなると売れ筋の本だけが置かれるようになってしまいつまらなくなる。返品がきかないからといって岩波の本を扱わない大手書店もあるし、なんか文化は衰退の方向、つまり選択の範囲が縮小し、一般化された最大公約数的のものがあふれ、刹那的なつまらないものだけが眼前に拡がってくる気がしてならない。テレビでもおちゃらけ芸能人の下らない番組が多いしつまらないなぁ。

 先日テレビでCHABARAを初めて知り、足を向けた。昼食を摂ったのは某所。とんかつの類を食べたのだが美味くなかった、ハイボールを含めて3,300円ほどの出費であったがそれに全く見合わない不味さであった。ハイボールもアルコール度数は2%位しかないのではなかろうか。高架沿いに足をすすめたらB-1グランプリ食堂なる並びがあり、看板を見ると安価であり、ここに来れば良かったと大いに後悔。

 更に足を進め、これまた初めての2k540に入る。もの作りの店が並んでいるらしく、楽しめそう。上に照明がなく、店の明かりだけの暗さだが、ぶらぶらとあちこちの店に寄ってみる。ジュエリーや帽子、服装類は興味がないのでひたすら工芸品、日用雑貨の店に立ち寄る。特に木工品にはその優しい手触りや温もりで惹かれる。竹やつげの工芸品の店に入り、安価で気に入った竹の実用品を2点購入。店内にいた人はつげのブラシや櫛類を製作している人で、ちょいと話し込んだ。つげの櫛といえばイイ小説がありますよね、ということを口に出し、木内昇さんの『櫛挽道守』を紹介する。知らなかった、是非読んでみようとメモしていた。メモには「くし」を「櫛」と書いていたのはさすがである。
 ステンレス製のブックマークも購入。うさぎとビールジョッキとビール瓶がぶら下がっている。

 日比谷線に乗るつもりが間違ってJRの中に入り、少し戸惑って日比谷線入口近くの改札で出してもらい、帰宅。秋葉原の駅では戸惑うことが多い。

 帰宅後、ハイボールを飲みながら買ってきたCDのジャケットボックスを見たら妙な既視感がある。あれ、これって前にも買ってんじゃないか、・・・自室の棚を見たら同じものがあった。鳴呼、久しぶりにまたもややってしまった。タワーレコードで買うときになんで気付かなかったのか、やはりタブレットを持ち歩いて保有CDのデータベースを確認しなきゃいけない、あるいは帰宅してから落ち着いて確認し、ネット発注すべきなのかと反省しきり。3000円強ほどの無駄な出費。このCDボックスどう処置しようか、あるいは誰にあげようか?

 東レパンパシフィックの録画を見る。応援している大坂なおみさんがベスト4進出。第2セットで0-5からタイブレークに持ち込み、そこでも2つのセットポイントに反撃し-相手の続けてのダブルフォールトだが-勝利した。これでまたランクが上がる。まだ粗っぽい印象があるが、土居さんより上にいくのも近いであろう。

2016年9月22日木曜日

樋口有介さんの新刊

 <樋口有介 『ぼくはまだ、横浜でキスをしない』(角川春樹事務所、2016年)>:新聞の広告で見てすぐに購入。場所は横浜-ヨコハマという響きはイイもんだ-、物語の中心は17歳の県立高校生のアキオ(桐布明生)、アキオと小学生の時に同級生であってフェリスの女子高生メイ(村崎明)、そしてミケ(雌猫)。脇役としては事件調査に加わるのが姉(かもしれない)警部補/能代早葉子。あとは、10年前の事件当事者であるアキオの父親で変態官能小説家/遠野銀次郎。母親、古書店の詩帆などがアキオの世界を形作る。ミケは成仏できない女性でアキオとだけは会話ができる。メイは高いIQで資産家の娘でアキオと再会してアキオと行動する。
 かつての盗撮痴漢事件を起こした父親は警察に嵌められたのであり、その冤罪の汚名を雪ぐべく調査するなかでミケは誰なのかも明らかにしていく。最初にミケが若い女性で・・と設定を知ったときは途端にこの小説への興味が薄れてきたのであるが、そこはそれ、アキオとメイ、そして親父などとの軽妙な会話、アキオの独り言を読み続けると樋口ワールドに入り込んで楽しめる。
 いま66歳の樋口さんが17歳を主人公にした所謂青春ミステリーを描き、それを67歳のオレが楽しんでいる。成熟(老成)した大人という視点をもてば作家の妄想のなかで読者のオレが妄想を楽しんでいるという構図でもある。でも樋口さんの全小説を読んでいるオレにとってはどんなに年齢を重ねても樋口さんにはセイシュンミステリーを書き続けて欲しいのである。
 この本の装丁は面白いのであるが、メイを模した女性の顔が小説の中のメイとはかけ離れている。顔を出さずに後ろ姿だけがいい。後ろ姿で妄想は膨らみ、どんなに美形で可愛くても顔を見たときには現実に戻ってしまい、大体はその現実の辛さ-美形の場合はこちらの、美形でない場合はあちらの辛さ-を想ってしまうものだから。

2016年9月21日水曜日

HAPへのフォロー、文庫本一冊

 SONY HAP-Z1ESのファイル構築を終わったと思っていたら中には再生できない(HAPの仕様に合致しない)ものがあり、その原因が分からなく、結局は該当する曲のmp3化をやり直した。HAPはダイレクトにCDから取り込むことができその際はwavかflacになるのだが、今回は従来通りPCでmp3に取り込み、タグ情報もPC上にて編集し、それをHAPにコピーすることにした。そもそも市販CD(丸ごとコピーも含む)以外の自分で編集して作成したCDはgracenoteの恩恵を受けられないからPCでタグ情報管理をするほうがずっと楽である。ポップス系の曲は管理状態を統一させておくために今後もPC→HAPにし、自分で一切編集していないクラシックやジャズ、アイリッシュ音楽のCDはHAPで直接取り込んでflacファイルにする。音楽を聴くこともそうだが、このように統一されたデータベースを作ることも大きな楽しみの趣味である。「手段が目的化することを趣味という」(長岡鉄男)のであろうが、まさしくそうである。

 <広岡敬一 『ちろりん村顚末記』(筑摩書房、2016年、初出1980年)>:ちろりん村とはかつてトルコ風呂が林立していた雄琴温泉ソープランド街のこと。一世を風靡したトルコ街の誕生(昭和46年/1971年)から昭和55年(1980)までのルポ。トルコ御殿を経営した人とそこで働く女性たちの過去とルポ時点までの状況と生活の経緯。男の欲望の消費する金額と、それを処理するトルコ嬢たちが得る金額の多さには驚く。そして稼いだ金を貢いでもらう男たちのでたらめさと、女性たちの生き様はオレの想像をはるかに超えている。

2016年9月16日金曜日

新設オーディオ機器

 年齢を重ねると物欲よりも不要品の廃棄の方に意識が向いてくる。昔は購入した本は棄てることはもちろん古本屋に持って行くこともなく、書棚に積んでは部屋の装飾の一部となっていた。35年ほど前に神奈川県綾瀬市の借家に住んでいたとき、そこのトイレが比較的広かったのでそこにも小さな本棚を置いて本を並べていた。10数年前の引っ越しを期に本をまとめて廃棄することが増え、その後ミステリーなどは読了後に子どもたちにあげている。

 一方、CDやオーディオ装置(といっても大した物はないが)は増えるばかりになっている。アナログレコードがCDになり、ネットワーク・オーディオも隆盛を極め、そしてハイレゾが普通になった。アナログからCDに代わったときはそのコンパクトさと曲を選択するときの便利さにうれしくなったものである。カセットテープへの録音がデジタル変換録音になり、併せてPCおよびリッピング・ソフトなどは欠かせないものになり、ハイレゾ化した今はもう技術の進歩は止めて欲しい感じがなきにしもあらずである。DAC機能を有するオーディオ機器は4台になり、ヘッドホンアンプやアナログ用のフォノイコも揃え、オーディオ機器の背後の配線はゴチャゴチャになり、ラインセレクターやスピーカーセレクターもおいているものだから、結線がどのようになっているのかはもう機器の前面を見ても戸惑うことも生じ、結局は紙一枚にまとめたブロック結線図を見る羽目になってしまう。もう後期高齢者の区分にいるので、オーディオは現在保有のもので楽しめればいいと思っていたが、PC経由で音を出す煩わしさがあり、これが最後とばかりSONYのHDDプレイヤーHAP-Z1ESを購入してしまった。
 ポップス系の曲は全曲PCに保存してあり、それをすべてHAP-Z1ESに移した。そして、この際にと思い主にmp3のこのPC内の曲の整理を行った。曲のダブり修正、ファイル名の誤記訂正、区分フォルダーの再構成、TAG情報の統一などなど。面倒なのがTAGのIDバージョンの修正。このバージョンがHAP仕様に合致しないとキチンと整理された形での表示がなされなくなり、その表示違いの原因を探るのに便利だったのがTAG編集ソフトのSTEP。結局全作業をひとまず終えるまでには1週間は要したと思う。
 保存しているポップス系ファイル数は12,600強。1960年代から70年代中心の日本のポップス、海外のポップスの充実さは自画自賛しており、自称国内有数のコレクターである(自惚であることは自覚)。単に集めただけでなく、全曲をエクセルでデータ管理しており、洋楽については邦題も併記してある。但し、ヒット曲ではあっても好きではない歌手/グループに対しては積極的ではない-例えばElvis Presleyはあまり持っていない-。
 それでもまだ記憶から漏れている曲、忘れている曲がないかと思うのだが、それを見つけるのは至難の業であり、その曲との幸運な出会いを期待するしかない。頼るのはYouTube。
 HAP-Z1ESだが、これは優れもの。シンプルなデザインも気に入っている。CDからダイレクトにHDDに取り入れられるのは便利であり、また、徐々に物を減らす意味でも、これからはクラシックやケルティック、数少ないジャズのCDも順次取り入れていこう。なんか終活めいてくるのは致し方あるまい。

2016年9月11日日曜日

最近読んだ本・漫画(3)

 <昌原光一 『江戸のたまもの』(小学館、2016年)>
 <昌原光一 『自撰 人情幕ノ内』(小学館、2016年)>:江戸が舞台の人情短編集。昌原さんの江戸漫画は素直にその舞台に入り込め、穏やかな気持になる。
 いい作者の漫画の絵は文章よりも多くを語る。描かれた背景や人物の表情、間をとった静寂な時間に何を感じ、何を思うのかは読み手に委ねられるのであり、優れた漫画は文章で書かれた小説より奥深くて拡がりのある世界を提供してくれるのではないかと思った。
 読んでいて唐突に乙川優三郎『冬の標』のシーンを思い出した。読後のメモを振り返るとその小説には次のように書かれていた。「居間から現れた彼は、ちらりと巻軸を見てから持主に目を移した。どこか昨日とは眼差しが違って涼しげに見えるのは、彼とともに居間を通り抜けてきた風のせいかもしれなかった」。漫画はこのようなシーンを僅か一つのコマに描くことができる。

 <原泰久 『キングダム 四十三』(集英社、2016年)>:黒羊戦。この巻の終わり頃にやっと羌瘣が臨戦する。信が趙国の総大将慶舎を倒しに向かうところでto be continued。

2016年9月10日土曜日

最近読んだ本・漫画(2)

 <雨瀬シオリ 『ALL OUT 8』(講談社、2016年)>:弱いチームには技術的に優れてはいるがどこか投げやりになる者がおり、またスキルは劣るが前向きで根性があり、練習試合とはいえ強豪チームに勝つ。そしてやる気のない教師が覚醒して献身的になり、老コーチがラグビーを教える。勝利の喜びとまだ気付かない壁。・・・・・よくあるスポーツ漫画のラグビー版といってしまえば終わりだが、この先の展開に期待してしまう。今秋よりテレビ放送開始される。しかし多分見ることはしないであろう。

 <東野圭吾 『夢幻花』(PHP学芸文庫、2016年)>:上手い。とても上手く、東野さんのミステリーを十分に楽しめる。若い人たちの配置、進路への悩み、負の遺産への向き合い、伝奇的な匂いも少しするが、エンディングまでほぼ一気読みで楽しんだ。水泳を諦めた秋山梨乃、進路と家族内での疎外感に悩む蒲生蒼太、謎めいた行動を取る蒲生要介、突然に姿を消した伊庭孝美、殺されたのは秋山老人、彼に恩義を感じて単独行動で犯人を捜す刑事の早瀬、家族に秘められた謎。共通するのは黄色いアサガオ。それぞれを配置し、構成の中で巧妙に繋がりを持たせ、伏線を張り、徐々にほつれをほどくストーリー・テリングは秀逸。

 <長谷部恭男 『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)>:『不毛な憲法論議』を読む前にこっちを先に読むべきだったか。憲法とは何かを学術的に学ぶ気持はないし、その能力もない。ただ単に引用文を繋いでメモしておこう。
 「異なる価値観・世界観は、宗教が典型的にそうであるように、互いに比較不能である」(9頁)し、昔の欧州のように「人としての正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっている。ここでは公と私を区分する必要もないし、信仰の自由や思想の自由を認める必要もな」(69頁)かったのであるが、いまのこの世の中で価値観は多様化し、まして日本には多くの神や仏がおり、戦前の如き「究極の価値を体現する天皇との近接関係でによって一義的」(13頁)に秩序立てられる筈もないし、されるべきではない。だから、「立憲主義がまず用意する手立ては、人びとの生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分すること」(10頁)が大前提になる。
 私感:「公」という平面に「私」の小さな平面がべったりと糊付され、「家族」の延長線上で「愛国」が語られるのはやはりキモチワルイ。日本の伝統的家族観は価値あるが、それが伝統的価値秩序に置換され、大切にしたい伝統が、知らず知らずに伝統に囚れることにはなりたくない。その上で語られているかもしれない憲法改正・自主憲法・明治憲法復元にはなじむはずもない。

2016年9月9日金曜日

最近読んだ本・漫画(1)

 8月末の土曜日、息子と彼の友人二人を交え、自宅で酒を飲んだ。その時に息子の友人たちに漫画をあげた。Yu君にあげたのはお下劣な漫画。これらは息子にあげてもいいのだが、そうすれば誰が渡したのか彼の嫁さんに知れてしまい、尊敬(?)されている我が身が地に落ちてしまう。だからYu君にあげた。田中圭一の漫画であって、電車の中では頁を開かないこと、昨年会ったことのある嫁さんにはもらった相手を言わないこと、の条件を付けた。もう一人のHi君には硬い漫画、大西巨人原作『神聖喜劇』全6巻をあげた。古本屋に持って行けば1000位にはなるかもしれないと言って渡した。
 若い人たち-といっても40歳前後だが-と飲むのは楽しい。カーテンにぶら下がっている家人作のネコも2匹もあげた。

 久しぶりに美園に行き、いつもの本屋に入った。家の自室には読んでいない本が数百冊あり、机の下やらベッドの下などにおいているので、今回は本を買うまいと思った。しかし、家人と昼食を摂り、少しの時間潰しで本屋に入ってしまった。唯ぶらぶらと店内を眺めるつもりだったが、漫画のコーナーに行ったら、シリーズ新刊と江戸人情話の作家が目に入った。結局それら3冊を手にとって、今度は小説のコーナーを歩いていたら、またもや食指を伸ばすものがあり2冊を買ってしまった。

 最近読んだ本・漫画を時系列的にメモ。

 <東谷暁 『不毛な憲法論議』(朝日新書、2014年)>:憲法改正あるいは改悪、自主憲法制定、明治憲法復活、護憲、いろいろと賑やかであるが、改憲にも護憲にも違和感を抱いている。憲法の頭に「平和」の冠を載せているのに抵抗感があるし、明治憲法への回帰なんて言動には驚くばかりである。憲法は時代の進みや社会的環境変化、世界情勢の動きで改正されてもしかるべしと思うのであるが、現代日本にはきちっと憲法を議論できるのかということにはかなり否定的である。
 憲法論議が不毛なのは、「憲法が国のあり方や国民生活の全領域のルールの基本であるとするならば、憲法について論じた本には、国のあり方について深い考察や、さまざまな領域についての粘り強い探求がなければおかしい」(3頁)のであって、「『国民主権』『平和主義』『基本的人権』と何度も繰り返して、あとはそれぞれの条文の解釈をこの三つの落とし所に着地させれば、それが憲法学であり憲法論だという」(3頁)のはおかしいだろうと冒頭で批判する。占領下で押しつけられた憲法だからとよく言われるが、そもそも敗戦という現実を直視してこなかったことに帰着する気がしてならない。自分の思いが次のように簡潔に書かれている。すなわち、「占領下において制定された日本国憲法」の制定の「そのときに生じた屈辱や矛盾を、いまも克服しないままにしてきた現代日本」(72頁)があり、「日本国憲法に関する多くの矛盾を、ともかく受容したことから遡及して納得のための理屈をつくる悪習はもうやめた方がよいのではないのか。それが『憲法学』という名を負っているにせよ、あるいは『歴史学』とよばれるにせよ、そこにあるのは占領下で他国に憲法をつくられながら、それを阻止できなかったという事実であり、いまだに奇妙な理屈を生産しつつそれを押し戴いている事態は、そこに何らかの心理的屈折を考えずには理解できない」(102頁)。
 そもそも国会銀を選ぶ選挙システムには疑問は持っているし、そこで選ばれる政治家および政治家集団は信頼できないし、伝統を大事にすることと伝統に囚れることの違いが分からない政治家も多いし、愛すべきこの国はどこに向かっているんだろう。

2016年9月8日木曜日

家具店、大塚

 IDC大塚は春日部が発祥の地である。そして今は親娘間の騒動が一件落着しているように見えている。父親は新たな会社、匠大塚を設立しており、東武スカイツリー線春日部駅の東側に店舗を構えている。以前はロビンソンというデパートがあったのだが、それが閉鎖して間もなくその建物に匠大塚春日部本店が開店した。レストランなどを併設したい意向であったらしいがそれは叶っていない。自分はまだこの匠大塚春日部店には入った事がない。
 一方、娘の方のIDCOTSUKAは春日部ショールームと称している。数ヶ月前、ひさしぶりにちょっとしたものが欲しくてここに入ったのであるが、自分の希望するものはなかった。父娘が喧嘩別れする前は店に入るとスタッフが寄ってきて案内をしてくれたのであるが-煩わしくもありアドバイスが良かったこともある-、そのときは誰も寄ってこず、店内を歩いていても視線を合わせることもなかった。
 新聞には折り込み広告のチラシが入ってくる。面白いのは同じ日に匠大塚とIDC OTSUKAの両方が入ってくること。全国に家具店は多かろうが、よりによってここ春日部では父娘の企業が同じ業種で店を構え、春日部駅を挟んで東と西で、(多分)冷たい視線を絡ませながら戦っている。
 いつまで両者が対峙し続けられるのであろうか。

2016年9月2日金曜日

妄想

 メダカが泳いでいる透明な水の小川にヒノモトクニがあって、ある日そこに赤毛の大きな人が来て、小川の側でドシンと足踏みをしたら、メダカたちはびくっとしていっせいに身を翻した。群れをなして泳ぐメダカたちはそれからその足踏みを気にするようになった。メダカたちには年齢の違いがあるのだが、コーンパイプを口にする大きな赤毛人にはまだ成長していない12歳のように見えた。

 小川にはコッカイ学校というメダカ学校があるのだが、誰が生徒か先生か、よく判らない学校である。学校の各クラスの人数は平均化されておらず、沢山の生徒がいるジミンクラスが一番勢力を握っており、次にミンシンというクラスがある。コメというクラスは3番目に多い生徒がいるが、小川の支流で固有の文化を育んでおりジミンクラスの分校のような位置を保って泳いでいる。ジミンクラスにはPTAのように振る舞う強力なメダカグループが背後にあり、学校の校則を変えようとしているがなかなか上手くは進んでいない。
 キョサンやイシンなどなどいろんなクラスがあって、時には小川の中で離散習合を繰り替えしている。

 ジミンの級長はコッカイ学校の生徒会長であり、再来年まで任期があるのだが、いまから会長職を延長させようとの動きもある。現在オロシア学校などに行って小川の北部地方のあり方などの話し合いをしようとしているようだ。
 一方、ミンシンクラスはいつもジミンクラスに対抗して生徒会長を奪い取ろうとしているのだが、一度大失敗をしているのでなかなか奪還できないでもがき続けている。そしていまクラスの長を選ぼうとしているのだが、何だろう、結局は学校のありかたではなく、学級委員長を決めるだけの矮小なクラス選挙になっているように見えてしまう。

 雨が降り、風が吹いて水面が荒れるときもあるけれど、小川に住むメダカたちはいつも嬉しそうで、水に流れてつーいつーいと泳いでいる。みんながそろってつーいつーい。