2018年1月31日水曜日

無題

 <吉原康和 『靖国神社と幕末維新の祭神たち』(吉川弘文館、2014年)>:書名には「明治国家の「英霊」創出」と付されている。東京招魂社が改称されて靖国神社になり、その原点は尊攘派志士たちの招魂祭にある。さらにその招魂社の源流は長州の招魂場にあり、靖国創建は長州藩出身の大村益次郎が主導した。靖国に大村の銅像が建てられている所以でもある。招魂とは死者の霊を招いて祭ることであるが、靖国は死者を英霊と置き換えることに真の目的があると思っている。「英霊」は民衆の精神を国家に共生させる強力な接着剤となり、現在にもそれは大きな役割を果たしている。その意味で、薩長が中心となった明治新政府の狙いは大成功したといえる。幕末期からの尊攘派の死者を英霊として創出しているが、「英霊」という言葉がいつ作られ発展したのかこの本では詳述していない。一説には藤田東湖が作ったとされており、広く日本に浸透したのは日露戦争以降である。幕末期の死者を靖国に祀る運動は延々と続き、もちろんそれには政府が深く関わっており、そこに多大な時間とエネルギーを費やしたことには疑問がつきまとう。靖国をどう捉えるのかは、幕末から現在までの近現代史をどう捉えるかということである。

 <田中建之 『靖国に祀らざる人々』(学研、2013年)>:書名には「名誉なき殉国の志士たちの肖像」とある。このサブタイトルをきちんと読んでいればこの本は買わなかったかもしれない。靖国に祀られることが名誉であり、国に殉ずることが大儀であるなら、国を思いながらもそこに組み入れられなかった人たちの名誉と大義はどこにあるか、それは、政府の汚濁に反旗を振りかざし、皇国、愛国に身を捧げることなのであろう。この本は、大雑把に言ってしまえば、国士列伝の一冊。「復古」に視線を向け、欧米に体を向けて「近代化」を果そうとした明治以降の歴史の一側面である。

 <小野正嗣 『九年前の祈り』(文藝春秋2015年3月号)>:2年前の芥川賞受賞作。雑誌『文藝春秋』を買ってページをちらちらと捲りそのままにしていることはままあることで、昨年の芥川賞2作を掲載したものも無造作に放ってある。若い頃は芥川賞受賞作家を覚えていたが、いまは殆ど記憶に残ることはない。それはひとえに小説を読むことが少なくなったせいである。著者は立教大学文学部准教授(受賞当時)で、選考委員の選評を読むと、地方の「浦」を生きることを世界に繋げて小説を書き続けているらしい。で、この小説を読み始めたら、「安藤さなえを包んだのは、柔らかい雨のような懐かしさだった」のレトリックがまず引っ掛かってしまった。情景描写の中に入れ子のように独立したものを内在させる表現が好きになれない。これが気になったら頻繁に描写される作者のレトリックが、好きでもないつまみを嫌々ながら口にして酒を飲んでいるような気分になってしまう。「あんパンの皮だけ食べるような会話」、「降り注ぐ陽光のもとで南国の鳥たちが水遊びをしているかのようにはなばなしく音と光があたりに飛び散った」、「滑かな沈黙の石となり、母のささくれだった沈黙」、「物陰から自分たちを凝視する猫に気づいためんどりのように」等々、切り取った場面の中に新たな想像を必要とする場面を入れ込んでいる。このレトリックはレトリックそのものを別の視線で見つめる強制でもあり、読んでいる方が疲れてしまう。心を閉ざしている息子に繰り返し「引きちがれたミミズ」を見るその視線も好きになれない。
 おばさんたちの強烈な存在感は好きになれないが、作者は(主人公は)それを好ましいように描き、反面存在感の薄い父親、息子の父親でもあるカナダ人、舐めることに巧みな交際相手、男はつまらないダメ男としてしか描かれていない。選考委員の選評では山田詠美の評が最もフィットする。例えば次の評には同感する。すなわち、「<発酵しつつあった恋に酩酊していたのにだ~(中略)~あれは発酵ではなく腐敗だった>・・・・・・ああ、そうだったんですか、と鼻白むしかないが、この作者は、あくまで女の味方のように、彼女を生まれ変わらせる。その静かな再生の気配に寄り添えるのか、否か。私は残念ながら後者だった」。
 (所謂純文学的)小説は読む側に何らかの問題を提示することであり、それが作家の伝えたいことに繋がると思うのであるが、この小説にはそれが感じられなかった。そもそも無思慮な母親と、それに抗いながらも実は受け容れている主人公に共感はしない。描かれる女たちの面倒くささを思う。

2018年1月27日土曜日

音楽

 Max RichterのCDを2枚と、EinaudiやRichterの作品が入っているアルバム数枚を購入し、聴いている。Steve ReichのTehillimも数ヶ月前に手に入れ、何回か流している。純然たるクラシックもいいのであるが、ミニマルやネオ(ポスト)・クラシック、あるいはクロスオーバーと呼ばれる音楽にも魅せられ続けている。
 その一方で、古いポップスに向かうときもあり、この前はDusty Springfieldのベストアルバムを追加した。しかし、如何せん音質が余り良くない。日本ではGeorge Harrisonの盗作問題(My Sweet Lord)で少しは名前が売れているJody Millerだが、彼女の歌声が好きでアルバムを買ってしまった。もちろんHarrisonが盗作したとされているHe's So Fineも入っている。彼女のアルバムにある曲は他の歌手で著名になっているものが多いのだが、彼女が歌うとカントリーっぽくなって異なる魅力があり、楽しめる。
 ロックも含むポップス、離れることのないクラシック、アイルランド音楽、ミニマル、ほんの少しのジャズ、クロスオーバー、イージーリスニング、等々ある意味支離滅裂な愛好であるが、いいものはいいし、新しく出てくる音楽も、これまで知らなかった音楽も、自分の波長に合えば好きになってしまい少しは浸ってみたくなる。性分なのであろう。

2018年1月25日木曜日

新年会、漫画と文庫本、雪

 20日は高校同窓会の新年会兼総会。横浜で開催するのは初めてのこと。桜木町で14:30から飲み食いし、その後は関内近辺でカラオケ、そして横浜宿泊組の3人で3次会。伊勢佐木町のホテルに泊まるのは久しぶりのこと。
 翌日は朝食後に上野に移動し、国立科学博物館にてのアンデス展を見る。混んでいるかと思ったがさほどではなかった。上野で別れて解散。

 <田中圭一 『神罰1.1』(イースト・プレス、2015年)>:前作『田中圭一 最低漫画全集 神罰』の「微妙にアップデート! 増補増ページの新版」。
 前作を手にしたときの面白さ、下劣さが伝わってこなかった。それはもう彼の「最低漫画全集」に慣れてしまっており、また馬齢の重なりによって自分が鈍感になっているのだろう。前作は面白がって息子にあげたけれど、これは古本ショップに発送する予定のバッグに入れる。

 <ハインリッヒ・シュリーマン 『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫、1998年、初刊1991年)>:トロイア遺跡の発掘で有名なシュリーマンが事業を畳んで世界漫遊に出たのは43歳。清を訪れた後に日本に上陸したのは1865年(慶応元年)の6月1日で、7月4日に横浜からアメリカに発った。僅か1ヶ月間の滞日期間ではあるが、人々の様子も含めて江戸末期の日本を活写している。家茂の第2次上洛時の江戸出立をも見物している。他の欧米人による旅行記とも共通しているが、清への評価はかなり辛辣だが、日本へのそれには煖かく包むような気持ちが感じられる。それに(バードとは異なって)欧米からの視点を高くはしていない。その意味でシュリーマンの視座は偏らず客観的である。「ある民族の道徳性を他の民族のそれに比べてうんぬんすることはきわめて難しい」の一文にも表れている。それは彼が北ドイツに生まれ、オランダで生活し、ロシア/ペテスブルグでビジネスに成功し、アメリカにも銀行を持ち、多国語を学んだことも背景にあるのだろう。
 日本を発った翌年には考古学をパリで学び、冒頭のトロイアに繋がっている。
 読んでいる歴史のテキストは政治史的側面に偏重しがちであるが、外からの視線で日本の風景、生活を描く本を読むと、当時の情景が少しは実感をともなって頭に入ってくる。
 訳者のあとがきやエッセイを読むと、彼女が原書に触れて翻訳をなした喜びや達成感は充分に伝わってくるのだけれど、家族のエピソードなどや、「私」を多く出していることにうっとうしさも感じた。

 久々に雪が積もった。雪国育ちであるから雪が降る情景は懐かしさもあって嬉しくなる。その後の記録的な寒波では、テレビのニュースに富山市や秋田市の様子が映し出され、自分がそこで暮らした冬の生活がふわっと思い出される。また隣町だった只見町の激しい雪の様子を見たときは小中学校時代に雪の壁に沿って学校に通った50年以上前の情景が浮かんできた。雪の厳しさを感じる前に、あのような生活は日常的だったと懐かしむ自分がいる。

2018年1月20日土曜日

本3冊、新書と文庫本

 <大石学 『なぜ、地形と地図がわかると幕末史がこんなに面白くなるのか』(洋泉社歴史新書、2017年)>:図で表すことは物事の理解を早める。同様に、歴史的事件も地図上に表現すると事実が具体性を帯びて、少なくとも分かったような気分にはさせてくれる。読書に長い時間をとれないとき、ふふん、あっそう、という気持ちで場幕末のエピソードに触れていた。

 <浦賀和宏 『彼女の血が溶けてゆく』(幻冬舎文庫、2013年)>:『彼女は存在しない』を読んだとき、「この作者はもうこれでお終い」とメモしていたが、未読の本の山に混じっていた今回の文庫本は、前言を翻して面白く読んだ。スト-リーの展開が進んだところでまだ頁が厚く残っているのでまだどんでん返しがあると予想し、それが描かれたときはあまり驚きもしなかった。フリー・ライターが取材を進める中でミステリーが進んでいく過程にはどうしても後出しジャンケン的な展開がでてきて、それが味気なくも感じる。アルツハイマー、溶血症、医者、フリーライター、家族・肉親への憎悪、贖罪、等々を絡ませて物語を構成させている。

 <本田靖春 『誘拐』(ちくま文庫、2005年、初刊1977年)>:連れ合いの祖父母の家が入谷にあって、今は叔父・叔母が住んでいる。そこから直線距離で約350mほど離れた場所が吉展ちゃん誘拐事件の被害者宅であった。東京オリンピックの前年1963年3月に事件は起き、解決は2年3ヶ月後である。テレビで流れたニュースや新聞記事をぼんやりと覚えている。何を今更このドキュメンタリーを読むのかと言えば、優れたこのドキュメンタリーで55年前の時代に触れたかったからである。昭和で言えば38年からで、中学3年生になったころである。
 この作品で、犯人小原保の貧乏な生活、異常に多い血縁者の疾病、福島県石川の地、上京して身を置いた底辺に近い生活環境、遺族の悲しみ悔しさ、ミスを続けた警察捜査、等々なのかもしれないし、そこにフォーカシングされることが多いのだが、それらは時代とともに変化している。しかし、今も変わっていない普遍的なものがある。それは、ミスを隠そうとする官僚、忖度を繰り返す組織人、被害者宅への無言の電話と中傷、鬱憤晴らしの迷惑電話や手紙、宗教への勧誘などである。現代のように情報機器や収集・分析システムが発達しても人間の本質は何も変わらない。例えば、一昨年から多くの疑問が投げかけられている”もりかけ問題”、あるいは総理に近い人間による性的暴行はいまもってグレーに蓋われたままである。一方では芸能人のどうでもよい不倫疑惑をことさらに取上げて集団的私刑の報道が繰り返されている。
 警察官僚のやりかたに抗って真実や正義を真摯に追求するには、敷かれた軌道からはみ出しすしかないのかもしれない。この作品で言えば、平塚刑事に代表されるが、彼をドラマチックに賞賛するよりも、大事なことははみ出しがなぜにはみ出さずにいられないのかということではなかろうか。同じようなことは東京新聞の記者の行動姿勢にもみられる。平塚が最終的に警視になったのは警察組織の自己弁護的処置とも思える。
 小原は最後は昇華されて死刑台に消えたけれど、世相を背景にした彼の生き様を問う一方で、この事件が解決するまでに長引いてしまった根源的なものを問う姿勢がもっと強くあってもよいのでは、と感じたことも確かである。

2018年1月10日水曜日

花園

 高校ラグビー、準決勝の東福岡vs東海大仰星および大阪桐蔭vs桐蔭学園の試合はとても素晴らしい試合だった。特に後者は、FWDにこだわる桐蔭と、それを跳ね返す大阪桐蔭の攻防で、最後の最後まで魅せられたいい試合だった。地上波で放送すれば多くの人たちが楽しめたであろうに。昔は住友グループがスポンサーとなって放映されたTBSのダイジェストを観ていた。小倉弘子アナウンサーが初々しかった。
 決勝の東海仰星vs大阪桐蔭、これもまた楽しめた好試合。FWDで攻める大阪桐蔭、ボールが展開すれば東海大仰星と全く攻撃パターンが異なる両チームで、最後は東海大仰星の優勝。
 仰星の主将CTB長田とWTB河瀬の活躍が目立った(他には1年FBも)。足の速いこの二人、今春には早稲田に入る。準決勝で敗退した桐蔭・東福岡からも一人ずつ早稲田に入る。突出しているのは仰星の二人。スポーツ推薦以外はこれから。函館ラサールからは昨季に続いて複数入るのではないかと思っているが、如何なものか。

2018年1月9日火曜日

バードの紀行、武家ミステリー

 <イザベラ・バード 『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー、2007年)>:かの有名なバード女史は辛辣な言葉を並べる。率直に受ける感想は、彼女は眼に入る光景や、人々の物腰の柔らかさ、慎ましさが心地よければ礼賛し、汚れた衣服、みすぼらしい家や村をみればこき下ろす。明治10年頃の日本の奥地の生活がなぜそうなのか、そこに生きている人たちは何を思い、何に喜びを見出しているのかといった内面に思いを馳せることはない。初めて見る光景を表面的に書き写しているだけではないかと感じた。
 「未開国」日本の奥地、さらにアイヌの人々を世に知らしめるという価値はあったであろうし、そういった面では優れた旅行記であったと思う。ベストセラーになったことも理解できるが、それは単に今までに知らなかった「未開」の国を好奇心のままに眺め回ったというだけにも思える。日本人が他国・他民族を見下したのと同じように、バードも日本を見下していたし、それはもうしようがないことだったのであろう。
 勝海舟の三男で甲斐性なしの梅太郎と結婚したクララ・ホイットニーはバードを、「日本を馬で旅行している奇妙な婦人」と切り捨て、「実にいやな老嬢イザベラ・バード」は「本を書くつもりで、誰にでもしつこくいろいろきき出そうとするので、誰もそばにへ行きたがらない人物なのだ」と断じている。クララのこの表現は的を射ているだろうと想像する。(クララに関しては森田健司『外国人が見た幕末・明治の日本』による。)

 <青山文平 『遠縁の女』(文藝春秋、2017年)>:中編3編。
 「機織る武家」:百石取り育ちの往事に逃げている姑、入り婿先の嫁が死んでしまい、何かとぼんやりしている無能な夫、その夫に嫁ぎ、実家も消滅した機織が好きな縫。血の繋がりのない3人が、食い扶持を減らされ、縫は機織で賃働きをする。次第に変わっていく姑と夫。縫の従順で、深刻にならず、まあ仕方ないとする生き方にある種の逞しさを覚える。
 「沼尻新田」:クロマツ林を清める郷士の美しい娘、名前を聞くこともなかったその娘とクロマツ林のありように魅入られた32歳当主の、砂地新田開発の真の狙いはそのクロマツ林の領主になることであった。おとぎ話のような感あり。
 「遠縁の女」:この中編のタイトルが書名となって、「このミス2018年版」の第7位になった。父親から5年の武者修行に出ることとなった若侍片倉が、当所は2年で帰る積りではいたが結局は父親の死によって5年を経て帰郷する。そこに待っていたのは遠縁の信江の父と、彼女の夫の死。その夫は優秀で片倉の友人でもあったが、義父とともに腹を切っていた。弔いに出かけた片倉に信江は謎の言葉をかける。その謎を解くために禁を犯して片倉は信江に会いに行く。知ったことは、5年前の武者修行に出かける際の父と叔父の思惑であった。魔性とも思える美女の信江、信江の謎の言葉に嵌まってしまう片倉。謎解きの展開は面白く、いままで味わったことのない武家ミステリー。が、物語の構成に無理を感じる。人望のない、金もない右筆に御主法替えを委ねる国などあるまいに、それに信江は妖艶すぎる。
 青山文平の小説は『白樫の樹の下で』以来、7年ぶり2冊目。楽しめるのであるが、一歩近づけない。何故か、多分、描かれる主人公の思いや、求めるものに取り組む姿勢に甘さを感じてしまうことにある。また、長くはない物語にいろいろ詰め込んで散漫さを覚えてしまう。表題作ではなく、自分は「機織る武家」に最も惹かれた。

 6日、新宿で痛飲。帰りの電車乗り越しの心配がないからと、昼12時からの飲み会を要求したにもかかわらず、山手線を一周かニ周したみたいで久々に(昨年7月以来の)遠距離タクシーで帰宅。夕方に帰ればいいものをついつい「青酎」の店を思い出し、そこに友人を誘ったのが躓きだった。ついついとかなり焼酎がすすんでしまった。自分のだらしなさに落ち込んでしまっている。今後、出かけて飲むときは友人たちに予め時間制限を依頼しておくか、花見や新年会のみならずすべての飲み会は宿泊前提にするしかないかと、まだ気持ちが沈んでいる。
 どんなに遅くまで飲んでも歩いて帰れた富山市、近距離のタクシーで帰ることが常だった綾瀬市の時代が懐かしい。問題の本質はそういうことではないのであるが・・・。

2018年1月4日木曜日

正月も3日経過

 2018年になり、あと3ヶ月と少しで60代最後の69歳となってしまう。この年齢になる自分をきちんと想像していなかったものだから、気持ちだけはまだ若いつもりでいる。だって、自分のことは横に措いて、概して年寄は好きじゃないし、年齢を重ねた芸能人をみては彼(彼女)は年を取ったなと簡単に口に出す。かといって20代30代の若い人の言動は軽く見えるし、・・・結局は自分が年を取ったことの自覚が不足しているのか、唯単に認めたくないのかも知れない。

 殆ど外に出ずにリビングで座りっぱなし。日本酒は年を越さないで空にしてしまったからビールと焼酎。伊佐小町なる芋焼酎は柑橘系や軽やかな味が楽しめる面白い焼酎で、芋焼酎のイメージとは離れている。

 高校ラグビー、例年通り『ラグビーマガジン』付録の「全国高校大会ガイド」を片手に楽しんでいる。スポーツ推薦で来春に早稲田に入る4選手をマークしてそのプレーを追いかけたりする。また、花園が終わっても、来期新たに入部する選手が確定すると、花園出場の有無やプロフィールを確認する。だから暫くはこの冊子を捨てない。

 箱根駅伝。早稲田の往路3位、総合3位は立派。昨日のゴールの際は涙腺が緩くなった。青学・東海・神奈川の3強が言われた中での3位はスゴイと思う。青学は区間賞や区間新を出す選手が大勢いるし、ずば抜けており、東洋は安定している。順天堂や神奈川大が優勝に絡むどころか低い順位になるとは想ってもいなかった。
 当所、早稲田はシード権獲得でいいと思っていたほどだったので3位は嬉しい。もう一つの卒業大学である法政の6位も少しは嬉しい。
 青学の原監督が早稲田の大学院に入学していたことを初めて知った。へぇ~って感じ。

 娘の長男(中一)は漢字を覚えるのが苦手で、そのためにあまり勉強せず、テストでは得点を捨てていると娘が言っていた。彼は理屈っぽいところがあり、数学の点数はかなりいいので、漢字は理屈を覚えれば大丈夫、漢字は組み合わせ技術だと言って二学期期末試験では2時間ほど勉強を手助けした。教材を作って渡し、それをパソコンでテレビに映し出し、娘も同席させて漢字の面白さを教えたら、なんと中間テストでは全滅近かった漢字が、期末では1個間違っただけという。面白くなって自分でも積極的に勉強したらしい。学校の教師にも、どうしたんだ勉強したのかと言われたらしい。
 短時間の教え方で漢字への苦手意識がなくなったので、これに娘が味を占めて今度は冬休みの宿題や三学期のテストでもヨロシクねと求めてきた。まずは冬休みの宿題になっている範囲を教えてもらい、教材を作る。それに2日かかった。専念するわけでなくテレビを見ながら、時には酒の入ったグラスを口に運びながら作るのだが、正直なところ自分の勉強になる。手許には『漢字源』、『字通』、『新明解国語事典』、『部首ときあかし辞典』、『正しく書く読む小中学辞典』、それにPCを開いておいて、地道に教材を作る。漢字でこれだけ辞書を引きまくったことは過去にない。面白いし、いまになって知ることも沢山あって楽しめる。自室でやるときはたまに『大辞林』や、横道にそれて『語源辞典』を開くこともある。

 大学ラグビー、選手権の決勝は順当(?)に帝京-明治。東海はまたもや帝京に勝てない。早稲田のいない準決勝はこれで4年続いている。スコアを見れば東海に完敗しているし、いつになったら早稲田は年越しが出来るのだろうか。
 3回戦からの12大学を見ると、外人勢のいないチームは早慶明・法政・立命館の5校だけ。海外にリクルートするコネクションを持っているのであろうが、何か釈然としない。外人パワーでチーム内での育成強化という点を強調する向きもあるようだが、要は勝利の近道を求めているのだろうと感じる。ラグビーに限らないが、高校ラグビーでもその傾向はある。社会人ラグビーやクラブチーム、国際的チームでは何の疑問も覚えないのであるが、高校・大学では何だろう、上手く言えないが、要は釈然としない。外国からリクルートされた高校ラガー(ランナー)が自己推薦や一般入試で早稲田に進学したいという人はいないのかな。

 高校ラグビーが終わるとスポーツ関連のテレビ放送は見なくなり、早稲田ラグビーへの自己推薦合格者を待つことになる。一般入試も早く知りたいのであるが、4月を待つしかない。