2019年8月29日木曜日

残暑気払いと文庫本一冊

 25日、高校同窓生11人(自分も含む)で大宮”いかの墨”にて残暑の暑気払い。事前の暇潰しには6人でまずは12時から鉄道博物館。初めての来館だった。14時40分ころに大宮で二手に分かれ、4人で暑い中を歩いて氷川神社へ向かった。娘が七五三の時に訪れて以来だから34年振りかと思う。境内の中で眼に入る風景の記憶は全くなし。大宮駅の待ち合わせ場所に向かう途中で、看板にあったビールの価格がとても安価なのでその店に入る。名前はSako's Bar、店の女性とも会話を重ね、居心地のいい時間と空間だった。ビール2杯とちょっとしたつまみで800円は安すぎ。
 時間ぴったりまで待たされて”いかの墨”に入る。なかなかの人気店のようで、予約で待つ客が何人も外で立っていた。この店、連れ合いが友人たちと利用したときに美味しかったというのでこの日の予約を入れたもので、彼女の推薦通りに美味しかった。再度利用してもいいかと思う。大宮は東北方面の新幹線を利用する同窓生には利便性のよい場所でもあるが、横須賀からの参加者にはちょいと気の毒。数ヶ月後の新年会の補欠候補にはなり得る。参加者の評判も良かった。楽しかった。
 カラオケに行って、春日部経由で帰宅する友人と春日部でまた飲んで、歩いて帰って帰宅後からは殆どバタンキュー状態。

 <本多孝好 『MISSING』(双葉文庫、2001年、初刊1999年)>:購入した本文庫は第26刷で2003年の発行。何回か頁を開いたことはあるが結局随分と長くほったらかしにしていた。5編の短編集で書名の通りに、人の死によって自分を見つめる。「眠りの海」は自殺できなかった男と、彼の両親を交通事故死においっやった切っ掛けとなったかつての少年との出会い。「祈灯」は事故で死んだ妹の名をなのる姉が主人公の妹から幽霊ちゃんと呼ばれて兄妹で親しく付き合い、幽霊ちゃんは死んでしまう。「蝉の証」は老人ホームでの老人の死とそれに絡む祖母たちやルー・リードが好きな女性との出会い。「瑠璃」、情緒不安定なルコと5歳年下の従弟の少年との交流。ルコは自殺して半年後に手紙を残す。「彼の棲む場所」、18年ぶりに出会った小中高の同級生が、高校時に自殺した野球部員を通して自分を語る。記憶に残るのは「眠りの海」と「瑠璃」であろう。文庫の帯にある「感涙の処女短編集」とあるが、「感涙」は的外れ。

2019年8月25日日曜日

雑記、本4冊(春画・吉原・売春)

 何の変哲もない日々の繰り返し。録画した番組をテレビで見て、一日おきぐらいにアルコールを身体に取り入れ、本を読んでメモを記し、と言ったところ。
 早稲田ラグビー、夏の練習試合で天理大に勝った(33/5T4G-14/2T2G)。そして21日は帝京に勝利(31/5T3G-21/3T3G)、これはオンデマンドで観戦。岸岡も斎藤も体が大きくなった気がした。後半は帝京に押され気味と感じたが、負けるよりはもちろん勝つ方がいいに決まっている。しかし、今の段階ではまだまだ先は読めない。ただ、天理戦も帝京戦もBチームが完敗しているので、層の薄さを感じてしまう。
 車の点検。会津に関連して会話をするようになっていた若い女性(星さん)がいなくなっていた。逆に初めてみる女性スタッフが二人いたので定期的な異動でもあったのかもしれない。
 プリーツタイプのブラインドの昇降コードがまたもや破損および動きの不具合。前回修理したところとは別のところのコード被覆が切れてしまい、昇降がスムーズでないしストッパーも効かない。しようがないのでまたもや一日かけて修復したが、他にも原因があることが最後に判明した。それは昇降回転力伝達のカップリング状部品が完全に破断しており、機械工学の初歩の教科書に出てくるような45度の破断面であり、これはもう修復不可能。部品を取り寄せる気にもならない。このブラインドは15年の寿命だった。動きの伴う部品の選択ミス-要は設計不良-であり、耐久試験などやっているのだろうかと疑問を抱く。販売価格を安価にするために安易な設計をしているとも捉えられる。

 <田中優子 『春画のからくり』(ちくま文庫、2009年)>:幸田露伴『五重塔』などを例に出し、「中心を空洞にしてその周りにぎっしりと表現をまとわせ、読む者がその中をただよう文章」は「日本の散文が達成した高度な文章の方法」であったと説き、春画は特定の部分を際立たせて見せるために、ほかの部分や背景を隠す。覆っている衣装や背景を微細に描く。そして見る側に、物語を思い描かせる。また、春画は隠れて覗き見をするものではなく、複数の人間が見て笑い興じるものにある、とする。なるほどと思うが、絵画的表現に関する鑑賞力が自分には欠如しているため、江戸期の春画における技法を読んでも退屈してしまう。そんなことを改めて自覚した。

 <永井義男 『お盛んすぎる 江戸の男と女』(朝日新書、2012年)><永井義男 『江戸の売春』(河出書房新社、2016年)>:江戸期の吉原や売春に関する雑学、エピソード集といった趣であって、江戸に生きた人びとを下半身から軽く推し量る、といった内容。2冊には共通する内容が少なくない。
 江戸の春画では男女はなぜ着物を着ていたのか、(田中優子とは違って卑近な見方をしており、)そこには絵師の技量の発揮があり、庶民の住環境があったと書いている。だが、それは本書を読まずとも推測できることである。また、花魁は、例えば「3回目でようやく肌を許す」などと通説があるがこれは史料の裏付けもない俗説でしかないとしている。ならばなぜその俗説が流布するのかといったことも知りたくなるが、そこには深く入っていない。
 ヨーロッパにも売春はある。江戸期の日本との違いは、ヨーロッパでは個人が売春をするが、江戸期日本では個人の意志ではなく、女衒を通して遊女屋に売られてきた幼女が売春のシステムに組み込まれていた。唐突に泉谷しげる「うられうられて」が頭の中に流れる。
 「芸者は芸を売っても体は売らない」に、仕事への誇りや精神の気高さを説く人がいるが、それは間違いであって、単に「遊女の領分を侵してはならない」という戒めであった。そもそも(という言い方は好ましくないが)、誇りとか精神を声高に説く人にはその人の軽さや浅薄さを感じる。

 <小谷野敦 『日本売春史』(新潮選書、2007年)>:副題に「遊行女婦からソープランドまで」。
 「私は歴史学者ではないから、自分で新しい史料を発見することはできない。飽くまで、滝川を中心とした先学の史料を用いて、私なりの歴史を記述するということになる」とまえがきで述べているように、多くの「先学」の史料や論文を提示し、批判し、著者の見解が記述される。著者の他の著作にもみられるように批判は激しい。本書では特に網野史学を批判する。直接的に「歴史」」に関連しないものも含め、多くの書物からの引用もあり、個人的には、発散するが故に著者のエッセイのように思える箇所もあり、通常のアカデミックな「歴史」テキストとは言い難い。それでも読み続けてしまうのは著者の博覧強識に圧倒されるからである。

2019年8月13日火曜日

両の手で 頬を包める優しさに 「お」と「こ」はそっと「まん」を守れり

 8月末から大学ラグビー・シーズンが始る。そろそろと思い、『J SPORTS オンデマンド』ラグビーパックを購入。シーズン終了まで継続し、今季は多分自宅での観戦だけになろう。年齢を重ねてくると、ラグビー会場まで足を運ぶ時間も節約したくなってきている。

 <松本修 『全国マン・チン分布考』(インターナショナル新書、2018年)>:女陰語・男根語の語源を探る。真摯でかつ論理的でありとても面白かった。言語学や語彙史をよく知ってはいないのだが、アンケートで調べ上げた言葉の分布を明らかにし、中心(京都)から地方への広がりを歴史的文献や辞書などから明らかにすることは科学的であり、説得性がある。特に、第7章「「マラ」と南方熊楠」にて「マラ」の漢訳梵語魔羅説を明快に否定し、その根拠も明示している。各辞書の根拠の曖昧さを論破し、併せて辞書編纂者を強く批判している。その論理性や既存語源説の不備をも指摘しているのは、良質のミステリーを読んでいるにも似た爽快さを感じた。
 それまでの著作本で得た印税収入をすべて研究に費やし、また、豊富な人脈もあって、深さ(歴史)と広がり(地理)を増す。日常使うことがなく、学術的には誰も研究せず、ある種の嘲笑さえ向けられるへその下の局部名称。著者はそれらにこだわるのは、人間生活への愛おしさを抱いているからに違いない。
 俵万智さんが本書(と著者)に寄せた短歌が秀逸。

  両の手で 頬を包める優しさに 「お」と「こ」はそっと「まん」を守れり

 分布図を眺めていて、かつて幼い頃に住んでいた秋田県での「マン・チン」呼称名を懐かしく思いだし、小学2年で福島県奥会津に移転したときにはそれまでの言葉とは異なることを知った。もちろん「チン・マン」以外の言葉についても同じで、東京にでてきたときも富山に職を得たときも新しい言葉を知ってきた。方言は楽しい。
 普段口にしない言葉であるからこそ、本書で展開される「チン・マン」語彙に人間社会の豊かさが感じられる。
 本書で抵抗を覚える点は以下;
①友人・知人等の人脈の広さには感心するのだが、私的な思いを語りすぎてうっとうしさを感じる。研究書ならば、まして本書の内容は人々の生活に密着するのであり、だからこそ私的な部分は簡素にするか無機的な記述するほうが好ましい。
②上記にも通じるのであるが、ドラマ的感動の場に著者が漬っていて、それは学術的内容とは無関係であろう。

2019年8月12日月曜日

オーディオ・レイアウト、『日本春歌考』

 現在のオーディオ・レイアウト左半分。写真にない右側はライト側のスピーカーとサブウーファ。装置の結線は結構複雑なので、もう動かす気持ちはないし、故障でもしない限り新規購入もしない。

 <添田知道 『日本春歌考』(刀水書房、1982年)>:初刊は『日本春歌考 庶民のうたえる性の悦び』(光文社カッパブックス、1966年)で、本書は『添田唖蝉坊・添田知道著作集 5』として1982年に出版された。初刊と異なる点は、「「春歌」次第書」と大島渚の解説(「「春歌」、「そして「猥歌」」)が追加されていることで、この二つは本文と同様に興味ある内容となっている。
 「春歌」という言葉は江戸時代に用例はなく、「売春婦」「売淫」もなく、近松の浄瑠璃に「ばいた(売女)」が見つかる程度と述べられている。大島が「カッパの本はすべて知識のカタログに過ぎない」と断じているのは得心する。一方で「カッパ」の本を開いたのは随分と昔のような気がする。
 春歌、替え歌が沢山載せられている。知っている、口遊んだことのある歌もある。懐かしくもある。「<チン>と<マン>はこよなく、美しい<音の符>である。<ソソ>にしても同じ、つつましい美であ」って「本然の美」であり、だからこそそこには、「性」の延長線上にあるおおらかな生活、背後にある時代を感じる。
 因に大島渚は映画『日本春歌考』(1967年)について、「この本が出たあとすぐ題名を借りて映画をつくった」と書いている。

2019年8月10日土曜日

『エロマンガ表現史』、『戦後エロマンガ史』

 7日夜、MuKoからメールが入り、急遽8日に暑気払いという名目で、前回3月と同様に柏にて飲むこととした。ビールから始まりハイボール、焼酎ボトル、最後は日本酒と痛飲。

 <稀見理都 『エロマンガ表現史』(太田出版、2017年)>:2018年3月に北海道にて、本書が「青少年健全育成条例」規定によって「有害図書類」に指定され、ニュースになっていた。有害図書に指定されると、「青少年(18歳未満の者)への販売、貸付、贈与、交換等は固く禁止され」、書店などには「規則で定める方法で、他の図書類と区分して陳列し、青少年による購入等を禁止する旨の表示をしなければ」ならなくなり、陳列方法の具体例も提示されている。また、本書が「有害図書類」に指定された際の議事録は残されていなかったと報道されていた。議事録は残されていなかったのか、あるいはそもそも記録する行為がなかったのかもしれない(-日本は英米に比して公文書作成・保管・管理の重要性認識が極めて低い)。
 本書を読むと、よくもまあこれだけの「エロマンガ表現」が考えられるものではあると、感心、敬服する。欲望を圧する規制があると(ハードルを設けられると)、それを超えようとする、あるいはくぐろうとする智慧が働くのは人間本来の必然的行為であって、そこに創造性が発揮される。
 章立てを追ってみる。・・・男の視座からの「おっぱい表現」の変遷が説かれ、さらに「乳首残像」が誕生し拡散する。北斎の「蛸と海女」が想像できる「触手」が発明され、不可視の結合構造とそこからの外界をも見る「断面図」が深化し、女性の表情に「アヘ顔」が登場し、日本に豊富なオノマトペにも通じる「くぱぁ、らめぇ」の音響が発せられ、性器を直接に描けないものだからデフォルメし他のものに置き換える(貝とかオットセイなど)。等々エロマンガのエロたる表現が解説される。
 書店内をぶらつくにのは好きなのであるが、「有害図書」の類いが並んでいるコーナーには過去も現在も殆ど足を向けたことはなく、「エロマンガ」がかくも激しいものであるとは思わなかった。そして、海外にも日本の「エロマンガ表現」が拡大しているとは驚いた。アメリカから日本に移住してエロマンガ作家になっている人がいることにも、へぇっ、と思う。
 「エロマンガ表現史」が日本の世相・社会・政治などの同時代史と関連付けられて言及されていることが予想よりもはるかに少なく、結局は「エロマンガ」世界の枠の中だけで渦巻いているようで物足りない。その点では、「小難しいことをいう」『増補 エロマンガ・スタディーズ』のほうに読書意欲が強かった。

 <米沢嘉博 『戦後エロマンガ史』(青林工藝社、2010年)>:[エロマンガ前史]にてカストリ雑誌や夫婦雑誌、「奇譚クラブ」やSM雑誌などの出版が記述され、[戦後エロマンガ史]にて1951年から1991年までの厖大なエロマンガ週刊誌などの出版経緯が延々と続く。雑誌名、作家とその作品名がずらりと書き連ねられ、活字を追うのは苦痛になり、結局は刊行物のエロマンガ絵を駈け足で眺めたに等しい。行為の本質は何も変わらないのに、よくもまあこれだけのバリエーションが創り出されているものだと、半ば呆れ、半ば感心する。
 著者は、「マンガ研究の基礎資料の収集と評論活動などの幅広い業績に対して」手塚治虫文化賞を受賞し(他にも日本出版学会学会賞や日本児童文学学会賞、星雲賞を受賞)、14万冊の蔵書を明治大学に寄贈・寄託し、「米沢嘉博記念図書館」が運営されている。

2019年8月6日火曜日

暑い

 暑い。外に出るのも、まして歩くのも厭になる。

 家人の部屋のエアコン室外機が太陽光に曝されており、物置にあるありあわせの材料で日よけを作った。これで少しは省エネ&熱効率が良くなる(のかもしれない)。

 午前中はエアコンをつけることはないのだが、午後からは稼働しっぱなし。寝室に移動すると自室と家人の部屋それぞれで運転し朝まで動いている。25℃に設定し布団の中に身を入れると快適に眠れる。ときおり誰もいなくなった1Fリビングのエアコンの電源を切るのを忘れ、そんなときは朝起きてから下に起きるとひんやりし、尚更に外に出るのが厭になる。

 今日も暑い。この暑さの中で甲子園の野球が始まった。

2019年8月5日月曜日

エロマンガ入門テキスト、「表現の不自由展・その後」中止

 <永山薫 『増補 エロマンガ・スタディーズ』(ちくま文庫、2014年、元版2006年イースト・プレス)>:「「快楽装置」としての漫画入門」が副題。文化的に広い意味を有する漫画の中で、一つのジャンルを確立している「エロマンガ」を概観し、フツーの漫画しか知らない者にとっては、異世界を刺激的に知らしめてくれる好著。東浩紀が解説し評価しているように、内容的には研究書のようであり、思索的で、諸処に記される指摘は、なるほどそうなんだ、と説かされる。例えば、表現規制を求める側の論拠、あるいは表現規制強化に反対するロジックなどは簡便なテキストを読んでいるようである。
 東の解説文から引用して本書を端的にまとめてしまうと、それは、「性愛と暴力が分かちがたく結びついていること、他者の主体性の否定が快楽の源泉になりうること、つまりは「性の快楽は他者をモノ扱いすることに(も)あること」を、道徳的な糾弾の対象としてではなく、単なる文化史的な事実として、無数の表現を例にじつに雄弁に描き出すことができている」のである。日本のエロマンガは海外にも影響を与えている一方で、児童ポルノは大きな問題になっていて日本は欧米から非難されている。そこに考えねばならないことは、「キリスト教は性に関する罪は大きくて、セックス自体は罪ではないけれど、女性を人格として見ないでモノとして見るのは、非常に大きな罪です」(『性と国家』)ということであり、文化や宗教の相違とそこにある集団としての人間をもみつめなければいけない。
 本書は真摯に取り組まれているのであるが、多く掲載されているエロマンガの絵はかなり刺激的で、ある意味おぞましく、漫画文化の広がりというよりは異常な嗜好性を思ってしまい、そのようなマンガが連綿と買い求められていることは文化的頽廃と受け止めてしまう。また、所謂「萌え」系というのであろうか年端もいかない少女を多く絵柄にしていることはとても強い違和感を覚える。それは何もエロマンガに限らず、今の世に蔓延しているとも思える.幼児性にも繋がっているような思いもある。
 表現の自由のあり方、難しい問題である。

 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」(津田大介芸術監督)の企画展「表現の不自由展・その後」が中止された。電話やファックスなどによる顔の見えない抗議の殺到や脅迫もあり、さらには政治の側からの展示内容への反対表明。この国の「守らなければならないもの」というのは一体何なのだろう。規制されたなかでの秩序、強制される道徳・倫理、・・、いやーな感じがしてならない。
 己の感情をいっぱいなかに練り入れて、歴史だ伝統だとか道徳とかの外皮で包み込み、見た目の美しさの包装紙で飾り立てる、そこには他のモノを認知し、それぞれを尊重し、自立・自律するという思考性が薄いのだろう。あるいは、他者を自己に向けて同調させなければならないという、ある種の集団依存性があると思える。
 「行政の立場を超えた展示」とか、「国のお金も入っているのに、国の主張と明らかに違う」と発現する政治業の人たちは、「政府が右というを左といえぬ」といったかの愚人と同じ思考性(志向性)なのであろう。

2019年8月2日金曜日

一時の寄り道

 日本の、「神道」を中心とした宗教史を概観しようとテキストを読み続けたが、自分なりの、浅いなりにも「神道」の概ねの理解はできたつもりでいる。今後は特定の時代において宗教が果した役割とその位置づけ、あるいは特定の宗教-例えば法然・親鸞・儒教・道教など-をもうちょっとだけ入り込もうと思う。最終的には日中戦争/太平洋戦争/大東亜戦争の敗戦後に入りたいのであるが、その前段階としての、いわば戦争準備期間の歴史を踏んでいおくのは必須であろうと思い、なかなか先に進めないでいる。それに「寄り道」することも多々なので歩みは遅い。購入しておいたテキスト類も少なくないのだが手つかずのままでいる。
 で、ここで一息ついて、極めて庶民的な下半身中心の本を一気に読了しておこうと思う。そのものずばりの妄想拡大のエロ本、官能小説などではなく、それなりに評価を得ているマジメな社会学的な本である(なかには興味本位のものもあるが)。

 <佐藤優・北原みのり 『性と国家』(河出書房新社、2016年)>:「性」とタイトルにあるが、「性」的な側面から捉えているにすぎなく、本質は「国家」のあるいは世の中の歪みを論じている。物事の捉え方、考え方が参考になる。佐藤優氏の批判的発言は鋭い。

 <毛利眞人 『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス 昭和モダン歌謡の光と影』(講談社選書メチエ、2016年)>:レコードを中心とした昭和初期の昭和モダンと称せられる時代がうかがえる。当時の歌手たちは戦後の歌謡界でも活躍し、遠く離れた時代の歌手という感じはない。
 「エロ」がタイトルに付され、著名な作詞家(詩人)もそれらの唄を作り、エロとかグロとかイットとかナンセンスとかの文字をちりばめたレコードを数多く出している。大正デモクラシーから昭和モダンの時代は、エアポケットに入った、一瞬の無重力、開放的な(悪く言えば享楽的な)時代と個人的には思っていて、それらが端的に表現されていたのがエロ・グロ・ナンセンスであった。これらの言葉が気軽に発せられていたことに驚きもする。いまならコケティッシュとかセクシーとでも表現する言葉が当時はエロ・グロであったのであろうか。
 カジノ・フォーリーの日本女性の写真を見ると、多分にその短躯・短足のせいか滑稽で、アメリカの、クララ・ボウなどのフラッパーの写真を見ると、その厚化粧がなんとも言えず時代を感じさせる。
 時代が進めば、いまのAKB48もジャニーズ事務所のグループも相当に滑稽に見えてしまうだろう。世に媚びた人たちの姿はいずれは滑稽に見えるしかないと思っている。
 本書、事象の羅列、紹介といったふうであり、当時の社会や人々への生活、一般化への思考が浅く、全体的にはカタログのような一冊。

2019年8月1日木曜日

ブラインドの修理

 プリーツタイプのブラインドの昇降コードが破損し、ごまかしごまかし使用していたが、とうとう限度に達した。破損は、昇降コードの被覆部剥離から始まり、それは昇降の円滑な動きを妨げる。最初は被覆部を部分的に削除し、コードの芯だけで耐えさせていたが、ついにはその芯が切断される。切断部は繋げれば良いのだが、昇降時の動きに支障-動きの引っかかり-が出てくる。このような状態がほぼ1年近く続いていたが、限界となった。
 カーテン屋さん経由でメーカーに修理を出せば、予想だが数万円の費用はかかるであろう、それにこのような単純なメカニズムの不具合を自力で修理できないのでは、かつての機械設計従事者の沽券にかかわる。自分で直そう、そして家人に自慢してやろう、家族にも凄いねと言わせよう、と少しは思った。
 大きなDIYのカーテン屋さんにまずはコードの有無を確認したが、予想通り在庫していない。注文すれば1週間はかかる。結果、ネットで探し、1mm径芯あり8打コードを発注、送料込みで2041円。発注翌日に配達された。最長でも5-6mほどしか使わないはずなのだが注文したコードはなんと50m、短いものを探すもかえってかなりのコスト高になる。まあやむを得ない。
 そして修復に取りかかる。1.8m幅で2mほどの高さのブラインドはプリーツタイプとあって結構取扱が面倒。取り外しは経験済みだがいかんせん忘れている。結局は、都度要点はスマホで写真を撮りながらほぼ9割方分解し、結果だけ言えば完璧に修復できた。最初は午前中だけ、2日目は夕方と2日間に渡り、絡み合うコードと格闘し、分解とコード交換-これが面倒-、長さ調整等々と述べ約6時間ほどは要したであろうか。
 繰り返しになるが、修復後は完璧、自分の技術力を自慢すれど、家人は理解せず。過去にも家のものを何度も修復をしているので当たり前と思っている節がある、これも自慢でしかないか。
 部品代約2千円、技術料(プロならば)時間あたり1万円として2時間を見込み2万円、輸送費+利益管理費で総合計3万円の費用、と乱暴に見積もる。それを自分でやったので半額にして1万5千円とするも、家人は”あらそう”と言うだけ。随分と重宝できるオレなのだが、所詮それは己惚れなのであろう。いいたいことは、「完璧な修理」という自画自賛だけ。
 でも、分解-部品交換-再組立、という工程のなかで、ここはこうすればアセンブリーのコスト低減につながるかも、部品の形状変更で金型コスト低減になるだろう、とかなんとか思いながら作業をするのは楽しかった。もし修理に失敗してもその原因のごまかしというか、逃げ場を予め想定しながら進めるのはちょいと不真面目ではあるが。