2021年8月21日土曜日

もう一つの芥川賞受賞作

 <李琴峰 『彼岸花が咲く島』(文藝春秋9月特別号、2021年)>:小説への入り込みはスムーズで、頁の先にどういう展開が広がるのか期待感もあった。彼岸花が咲く海岸に流れ着いた少女、宇美が同年代と思しき游娜と出会い助けられる。島では「女語」と「ニホン語があり、遠き島には「ひのもとことば」がある。琉球周辺であろう島で少女二人はノロになることを目指す。島の男は女語を話すことは禁じられ、島の歴史は大ノロから新たなノロにしか語り伝えられない。と、小説の世界に入り込んで頁を進めるが、少女たちがノロになるあたりからつまらなくなる。島の歴史が作られた経緯がなんとも大雑把で陳腐で浅い。
 芥川賞を受賞した作品は、それなりに完成された傑作でしかないという先入観があったが、それは必ずしも的を射たものではないと知らしめられた。この小説へのいくつかの評価、例えば、「「小説的思考」が凝らされた意義は大きく」(松浦寿輝)、「自己表現の新機軸を打ち出した点を評価し」(島田雅彦)、「未来の可能性について語る時の力強さ、そして可能性という言葉に対する無防備までの信頼感」(吉田修一)、という評価は、言ってしまえば新人への評価であって、完熟した小説に対するものではない。
 自分に通じる(と言っては不遜であるが)次のようなもの。すなわち、「大ノロによって語られる秘史があまりに大味で、政治を描きつつ、政治的に最も困難な問題について書かれていない」(平野啓一郎)し、「語られる島の歴史が、あまりにもマン・ヘイター的なのだ」(山田詠美)が、その嫌いな「男」が女を殴ったりオカスことに対して、「なぜそうなってしまっているのか、その「男を捜し出して描くことが小説の仕事だと思っている。こういう重要な一文の主語が「男」という普通名詞であってはならない」(同)。これらの評価が自分の読後感想にもっとも近い。典型的類型的な事実を一束に紮げて象徴的言葉(用語)に置き換えるのは思考の停止、想像力の欠如であると思っている。その意味でこの小説は後半でつまらなくなってしまった。

2021年8月20日金曜日

小説2作

 <真保裕一 『シークレット・エクスプレス』(毎日新聞出版、2021年)>:舞台はJR東青森駅から始まり、奥羽線~羽越線~上越線~東海道線へと続く。駅を離れた都市では青森・仙台・東京・名古屋。貨物列車が目指すのは佐賀県/鍋島駅で、積んでいるのは核関連の乾式キャスク。登場人物は、JR貨物ロジスティックに所属する運行管理者、東日本新聞の記者、三峰輸送(実は官僚の派遣者)、警察官、反原発の原発監視団体メンバーなど。現実の企業や人物を推定させるものとしては、日本貨物鉄道、三菱重工とその関連企業、IHI、慶応大学、小泉純一郎元総理。福島原発事故(人災)や六ケ所村が背景として設定され、政官財マスコミの隠蔽や忖度も登場人物によって語られる。詳しい取材や調査によって裏打ちされたスピード感あるライト・ミステリー。

 <石沢麻衣 『貝に続く場所にて』(文藝春秋9月特別号、2021年)>:読むことに努力を要求される小説と、早く頁を捲りたくなる小説がある。第165回芥川賞受賞作の一つである本作品は前者。まず出だしで躓きかけた。「人気のない駅舎の裏に立って、私は半ば顔の消えた来訪者を待ち続けていた。記憶を浚って顔の像を何とか結び合わせても、それはすぐに水のように崩れてゆく。それでも、すぐに断片を集めて輪郭の内側に押し込んで、つぎはぎの肖像を作り出す。その反復は、疼く歯を舌で探る行為と似た臆病な感覚に満ちていた」。何度かこの文章を読み返し、頭の中でイメージを作ろうにも難儀であって、その作業は打遣って先に進んだ。読み進めていくうちに、この小説は一種の幻想的世界であって、3.11で海に埋もれてまだ遺体が見つかっていない者に対して抱く「記憶の痛みではなく、距離に向けられた罪悪感」であることが判ると、出だしの文章もなるほどと得心した。ただし、「疼く歯」には違和感を拭い去れない。まして、「その表面をなぞる光に、意味の解けた物の塊の映像が別に浮かび上がり、歯痛を真似て疼き出した」に遭遇したときは、なんだこりゃ、著者はこの小説を書き出したときは歯が疼いていたのか、とさえ想った。以降、歯痛の疼きは出てこない。でも、「寝間着という夜の皮膚をまとわずに潜った寝台で」は笑いそうになった。回りくどく、遠回しにも何を表現したいのか、裸(あるいは下着のみ)でベッドに入る意味が伝わって来ないし、文章を弄んでいるのか、はたまた思考を重ねた結果たどり着いた高尚な文章としているのか、どっちともつかずに思わず笑うしかなかった。
 貝の置かれた場所というのは、(多分)巡礼の道の途上であり、幽霊として登場する野宮が埋まっている海をも指すのであろう。
 ゲッチンゲンにある惑星のオブジェ、貝の巡礼の道、何となく分るような気持ちにもなるが、この小説は著者の罪悪感に伴う死者への鎮魂なのかと感じた。そしてこの小説としての良さは、「小説という器を使って何ごとか冒険を試みようとしている」(松浦寿輝)点であり、「構成や構図があまりにも巧み」(吉田修一)なところにあり、「小説でしかできないやり方で、東日本大震災の体験を刻みつけようとする」(小川洋子)ところにあるのだろう。でも、現実世界に幽霊を登場させる小説手法は好きではない。

2021年8月16日月曜日

沖縄をルポした本

 <藤井誠二 『沖縄アンダーグラウンド―売春街を生きた者たち』(集英社文庫、2021年)>:佐木隆三の言葉が記載されている。すなわち、「私は『性の防波堤』という言葉自体を認めたくない。何かを守るために何かを犠牲にしていいという発想自体がダメだと思いますよ。・・・(中略)・・・生存する権利として自分の性器を売る行為を、いったい誰が非難できるのでしょうか」。そう思う。
 「性の防波堤」は戦後の日本政府が作ったRAAが典型であることは容易に理解できることであるが、そこに従事した者たちには経済的困窮があったことを決して無視してはいけない。だから、往々にして道徳的側面を柱にして、売春はいけません、あなたの娘さんが同じ事をして許せますかと、ヒステリックに声を張り上げる女性たちは色々な意味でキライなのである。その女性たちは、彼女の夫や息子が、そのような場所に行ったことがない、行くことはないと言い切れるものなのであろうか。貞操観念は趣味、信仰であると言い放っていた与謝野晶子のような感情主体の立場で売春を指弾する人たちは嫌いなのである。 
 RAA=Recreation and Amusement Associationは直訳すれば「気晴らし・娯楽協会」とでもなろうが、一般的には「特殊慰安施設協会」と呼称され、両者から捉えられる意味合いは随分と異なる。物事の本質を隠して創られる用語はいつの時代にもあるものではある。因に沖縄にはRAAはなかった。本土と違ってなぜ沖縄には作られなかったのかと考えるのも歴史を知る上で意味がある。
 本書で知った事から幾つかメモしておく。
 ・全国的な「反暴力団」の狼煙は沖縄から上がっていた。
 ・1971年に公開された『モトシンカカランヌ-沖縄エロス外伝』。「モトシンカカランヌ-」は「元手がかからない仕事に従事する者」の意。この映画を見たいけれども簡単にはできないであろう。また、「十九の春」を聴くと今までとは違った印象をその歌詞に抱く。
 ・1956~57年頃は、スクラップ産業が黒砂糖を抜いて沖縄の総生産額の一位になっていた。これは戦争中の米軍による激しい砲撃があったことを意味する。
 ・本土の人間は沖縄を差別する、沖縄内部では奄美出身者を差別した。差別はいつの世も多層構造である。米国でBLMが主張され、アジア人は一部の黒人や白人から暴力を受ける。アジア人はまた他所のアジア人を差別する。江戸期、武士の下に置かれた農民、明治に入り穢多・非人の平民化に反対した先鋭はその農民だった。

2021年8月11日水曜日

雑多な本を介して

 <東野圭吾 『白鳥とコウモリ』(幻冬舎、2021年)>:7編の短編をもとにして本作を再構築したもので、時折後出しじゃんけんのような謎ときに些か抵抗は覚えるもの楽しめた。過去の事件を隠蔽し、沈黙を続け、さらに己と家族を犠牲にして現在の事件をもまた嘘で固めてしまおうとする。自ら犯人となった者には全く共感できない。加害者で被害者となった弁護士の娘、嘘を貫いて犯人となった者の息子、そして刑事。この三人を中心に物語はすすむ。ジグソーパズルを上手に散らして当てはめていく手腕はさすがと思う。

 <弓月光 『瞬きのソーニャ③』(集英社、2020年)>:6年ぶりに読む続刊。「『ソーニャ』は完全に趣味。気晴らし」と著者が言うだけあって前巻から長い年月が経っているが、それにしても6年も間を空けるなんて空きすぎであろう。弓月光と言えば女性の艶かしい姿態を描く漫画で有名だが、それらの作品は手に取ったことがない。
 1949年生まれの作者が描くカワイイ女の子のハードボイルド漫画を、同年に生れた男が楽しむというこの情景、少々照れくささもある。

 <宮口幸治 『どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない人たち2』(新潮新書、2021年)>: ADHDやASD、LDの診断障害がつけられず、知能障害でもない「境界知能」の人たちの生きづらさを前作で知り、結構衝撃的であった。本作では簡単に言えば、「頑張らない」ではなく、「頑張れない」人たちへの支援のあり方を論じている。人びとの置かれた環境は様々だし、自身の行動も千差万別だからこれが正解だとする策はない。しかし、人にはこう接しなさいという指針の内容は深く、考えさせられるし参考になる。
 9日の朝日新聞「折々のことば」に載っていた言葉が意味深い-「貧しい言葉で豊かな明日を語るくらい、人びとをシラケさせるものはない。<天野祐吉>」。この言葉、人をネガティブにさせる言葉を単に豊かに深くせよ、と言っているのではなく、ネガティブにさせる自分自身の言葉、人を見つめる姿勢をきちんと考え、人の置かれた状況を理解した上で言葉を発せよ、と指摘していると解釈する。
 本書の最後に書かれた言葉が重い。「”あの子、表情が悪いな”と思った時は、まずは”自分の顔はどうかな”と思うようになりました」。“あの子”を自分の身近にいる人に置き換えると、自分の生き様を客観視する言葉と思え次の言葉が浮かんでくる、すなわち、「過去と他人は変えられない。変えられるのは自分と未来」。

2021年8月1日日曜日

警察から電話、『竜女戦記』

 鎌倉を舞台にした、鉄道ミステリー娯楽ドラマの再放送録画を眺めていたらスマホが鳴った。知りもしない電話番号であったが、取敢えず出てみたら偶然にも鎌倉警察署からの電話で、確認のために尋ねられた名前が違っていた。何かの捜査の一環であったのだろうか。

 ふと40年近く前に埼玉県警の強力班の刑事二人が勤務先に来たことを思い出した。
 県警は大学に問い合わせ、次に最初に務めた富山市の会社に連絡され、当時住んでいた綾瀬市の自宅に電話が入り、当時の勤務先の内線電話を確認し、自分に面会したいとの連絡が入った。自宅への電話では大学同窓の者と名乗り、余計な心配をかけないよう心配りをされていた。富山の会社に問い合わせをしたときも警察であること明示しなかったらしい。
 会社に見えたとき、予め連絡を受けていた事もあり、また興味を抱いていたこともあり、会議室を取っておいた。守衛さんのところに迎えに行き通行許可を取るとき、警察と名乗っていいのかと問われ、構わないと応じて、彼らが警察手帳を守衛さんに見せたときに守衛さんが条件反射的に敬礼していた情景にいまでもおかしさを感じる。
 草加の質店で殺人事件があり、手懸かりを求めてその質店に記録されている一人一人に当たっているとのことだった。50年ほど前、学生であった1970年前後にその質店にカメラを質入れしたことがあった。
 会議室で事件の概要を教えてもらい、指-左右どちらかの薬指と中指だったか-の指紋をとり、当然だがその後何の連絡もない。いま改めてネットで確認すると、事件とは1981年12月に草加で起きた事件(「質店女性強盗殺人事件」)で、34歳の主婦が刺殺されたものであった。いまもって未解決になっている。いわゆる迷宮入り事件、Cold Caseである。

 <都留泰作 『竜女戦記 3』(平凡社、2021年)>:第2巻を読んだのは昨年の9月で、物語も朧げな記憶でしかない。3巻目を読むに当たってまずは第1巻から読み直し、頭の中でストーリーと登場人物と彼・彼女等の関係を再構築した。壮大な物語の中でまだまだ序盤での展開である。