2022年10月26日水曜日

ラグビー、渡辺京二の一冊、掃除、PC

 23日、関東大学ラグビー対抗戦の早稲田vs立教戦。新潟陸上競技場は風と雨の悪コンディション。立教の反則が続いて攻撃のフェーズが重ならず、ミスも多く、フラストレーションのたまる試合だった。それにレフェリーが反則やセットプレー時にプレーヤーに話す言葉の回数が多く、それもまたゲームが波に乗れない要因の一つと感じた。立教がディフェンスを積極的に行っていることは理解できるが余りにも反則が多すぎる。中断するためにフェーズが重ねられず早稲田の攻めが畳みかけられない、そしてミスしてしまう。また、風のせいもあろうがラインアウトのスローイングでノット・ストレートのミスが多い。
 SHは島本→小西、SOは吉村。伊藤や宮尾、相良、松下、岡崎、細屋はリザーブにも出ていない。特に伊東は8月の帝京との練習試合で怪我をしたらしい。復帰は未定とwebで見つけたが早くフィールドに登場して欲しい。
 スコアは31-7(5T3G-1T1G)。勝ち点では帝京がトップで(20点)、1点差で早稲田・明治・慶応と並ぶ。結果のスコアだけで判断すると帝京>>明治>早稲田>慶応という順位ヵ。これからはこの4校が激しい戦いになり、11月以降ピークを迎える。

 年末の掃除を一気にやるのはしんどくなってきたのでまずは1Fの外側のガラスや壁、2Fのベランダの清掃を実施。さらに結構な作業量となる1Fベランダの徹底清掃。古い塗装膜をケルヒャーで落とし、乾いてから部分的にもう一度繰り返し、次に乾燥後にサンドペーパーをかけようとするも翌日は雨で中段。結局サンドペーパーかけと塗装を3日に渡って行った。
 ものは序でと花壇雑草駆除にも手を入れたが、抜き苅した草や枝はまだ花壇の側に数ヶ月前から放ったまま積み重ねただけで、これも気持ちが向いたらキチンと後始末をやろうとの気持ちだけがある。

 <渡辺京二 『熊本県人』(言視舎、2012年/初刊1972年)>:著者の「幻の処女作」ということで購入したもので、別に熊本県人に関心があったわけではない。ただひたすら著者の本であるからということで購入し、長らく積ん読状態になっていた。「肥後人の精神の流れをつらぬいている1本の赤い糸のようなものに心をひかれてきた」とあとがきで書いているが、そういった郷土精神のようなものや、特定の偉人話にも昔から関心が低く、何かを感じるのではないかと期待したが結局は斜め読みしたなかに何も見つけることはできなかった。

 戦国末期の石見銀山を舞台にした小説を楽しんだ。メモはもう一つの鉱山関連のブログに書く。1月に読んだ『輝山』のメモもそちらに移動した。

 昔の映画音楽(1960年代)の幾つかのスコアを探すも見つからない。メイン・メロディだけのスコアが欲しいのだが耳コピには自信がない。時間をかけて自分で作るしかない。

 サブマシンとしていたPCが重傷。パーティションで作成しているドライブDが認識されない。リブートを何度か試したら今度は立ち上がらなくなった。そしてついにブラックアウト状態から起動画面とならず、Fixing状態となり、約35時間経過後に立ち上がったが、その後windowsのアップデートがかかり再起動で再度立ち上がらず、再びの自動修復となって30時間経過後の今もまだ継続している。
 SSDが故障、あるいは死にかけているのか、判らない。いつ終了するのか判らないが今のFixing状態を続けるしかない。使用して4年経過のPCであるが早死にしてしまうのか。もしそうなってもデータは常時NASに保存してあるし、正常なPCはあと2台を使用しているので大きな不便さはないが、修理するか(SDD交換も含めて)新規に買い直すか迷うところではある。まずはFixing終了まで静観するしかない。

2022年10月19日水曜日

左翼史、60歳をすぎての生活ヒント、漫画

 <池上彰・佐藤優 『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』(講談社現代新書、2021年)>:本書が対象とする時代は自分より10~20年ぐらい早い世代の同時代史といったところなのであるが、自分にとっては過去に読み聞きしてきた亜同時代史的な左翼の歴史テキストである。解説される歴史(政治)用語や人たちは殆ど知っている。しかし、内容まで知悉している訳ではないので復習するという気持ちで読んだ。この二人の「日本左翼史」はあと2冊読むつもり。
 現在のロシアと中国を彷彿させる指摘をここに記しておく。 「ロシア人は国境を「線」ではなく「面」で捉えており、地図上に引かれた線が自分たちと他国を物理的に隔てているとは全く思っていません。そういう観点からしてみれぱ他国との間に線的な国境が引かれていようと安心できないので、国境の外側に「何か」が起きた際に軍事展開ができる緩衝地帯(バッファー)を欲しがるのですね」-ウクライナを攻撃し一方的に併合したロシアの現在はこれかと得心する。
 「鄭小平の時代になって1974年に「三つの世界」論を出してきたんですね。東西それぞれの陣営の覇権国であるアメリカとゾ連が第一世界で、第二世界にはその両国に従属せざるを得ない東ヨーロッパ諸国や日本、西欧諸国がある。そしてそれらとは別の第三世界もある、中国はその一員であるとした」。結局、中国は独自の世界観で世界の中心-中華-であることを目指している。ま、将来的にロシアは第一世界から外れていくのであろうけれど。

 <--- 『60歳すぎたらやめて幸せになれる100のこと』(宝島社、2021年)>:わずかではあるが身辺の不要品を廃棄処分している中、何か抜け漏れはあるかと参考にしてみた。
 このムックの読者対象は女性である。定年退職した男性は廃棄処分対象とはなっても老後人生を「幸せになれる」対象とは想定しにくいのかもしれない(!?)。また、多くの家事全般の簡略化が推奨されているのは、これらが女性の役割であるとされている社会を連想させられた。それは、男性が愛する楽器やアウトドア用品、CDやレコードなどは直接には触れられていないことなどから窺われる。
 新たな発見や気付きはなかった。すべて当たり前、あるいはいろいろな記事でいままで目にしたことだけだった。

 <都留泰作 『竜女戦記 5』(平凡社、2022年)>:江戸期のパラレル・ワールド(と感じている)物語。登場人物のプロフィールを何度も確認して記憶を呼び戻し(戻らない場合は諦めて)本文の頁を捲る。

2022年10月18日火曜日

『マンガ猥褻考』

 <黒鉄ヒロシ 『マンガ猥褻考』(河出新書、2022年)>:「猥褻」とは何かと己に問いかければ、それは、「日常と非日常の境目」にあり、権力(者)が、個人的な性的嗜好を横に措いた上で社会秩序なる言葉を前面に出し、組織の中枢で生きる彼らがその個人的経済的安定を背負い出世のために理論(屁理屈)を駆使して庶民を抑圧し、一人になれば芸術愛好と称して枕絵(春画)に魅入り、下手すれば家庭が大事と旧統一教会の信仰に囚われて政治生活を営む。何を言いたいかと言うと、「猥褻」とは個人にとっては深く考えるものではなく、(家庭から国家までの)社会組織を意識したときに観念するものでなかろうか。・・・自慢気に言えば、以上の文章にはSprangerの6種の価値観を含んで編んでみた。かなり支離滅裂ではあるが。
 猥褻は、社会を意識せずにすめばFreedomな範疇にあり且つLibertyなものであろう。面倒くさいのはやはり、社会規範などを意識したときである。尚、手許にある英英辞典から引用すれば、Freedomとは「the right to do what you want without being controlled or restricted by anyone」であり、Libertyとは「the freedom and the right to do whatever you want without asking permission or being afraid of authorit」である。
  “「日常と非日常の境目」にある「猥褻」”というフレーズから頭に浮かぶのは、絵画「世界の起源」であり、且つその前で脚を拡げて局部を拡げる女性の姿勢。絵画を見ればそこには作者の哲学はどうなのかとの想いが沸騰するお湯の泡の如くに沸きだし、女性が局部を拡げる様態を見れば政治的抗議や社会的抵抗を想う。
 西洋のバイブレーターは当初ヒステリー症状の治療に使われたらしいとある(性的緊張からの解放治癒ヵ)。一方日本の張形は職人の工芸品を思わせ、房事に与れない孤独を埋めた(煩悩からの解放ヵ)。なる程、西洋では治癒を求め、我が国では内省的に道具を求めるのか、なんて何となく得心した気分になる。ちなみに今PCのキーボードに向かっているこの時間はバーボン・ウィスキー(Woodford Reserve)を飲みながら書いている。
 「エロ、スケベ、好色、色情、色欲、リビドー」、黑鉄さんは海だろうが谷だろうが、まずは「猥褻の森」と書く。無論、オレとてもその森から出ることはできず、出る気持ちもなく、モニターに映る女性の画像を見ては、奇麗だ、可愛い、素敵だ、頭が良さそうだ、・・などと妄想を抱くに過ぎない。でもこれって猥褻の部類なのか、否、そうではなく人間や社会を見つめているに過ぎない。「日常と非日常の境目」を「正義と不正義」、「正常と異常」と解釈すれば、現在の社会的事情を正視せずに「丁寧な説明」などと空疎な言葉を並べるだけの今の国内政治や、ロシアのウクライナ攻撃は社会的な「猥褻」ではないかとの思いもする。
 ・・・・酔いは深まっている。

2022年10月13日木曜日

結婚記念日、『英雄』

 48回目の結婚記念日を迎えた。長い結婚生活を経て、諧謔の装いをまといながら、よくぞここまでもったものだとか、という台詞を吐く人もいるけれど、自分にとってはそんな気持ちは全くなく平凡に寄り添いながら、性格の違いによる我儘や勝手さやすれ違いはお互いに受け入れ、平穏な日々を過ごしてきた歳月だったと思う。これからもそう続いていくのだろう。
 相互に何かプレゼントしようかとも口にするが、どちらも格別欲しいものはなく-年齢を重ねれば食欲も物欲も薄れるばかりなので-、特に記念日を祝うとかのイベントもなく過ごした。外に出ることも尠くなっている昨今なれば、せいぜい部屋着でも新調しようかと久しぶりにショッピングセンターに出かけただけだった。昨日けっこう飲んだので酒精を口にすることもなかった。

 <真保裕一 『英雄』(朝日新聞出版、2022年)>:植松英美(えみ)は実の父親を全く知らなかった。山藤ホールディングス創業者で元会長であるその父南郷英雄が拳銃で射殺される。英美の母は7年前に病死しており、最後まで実父のことは全く語らずに逝ってしまった。英美とは母を異にする南郷の長男・次男・長女、それに長女の夫たちとの遺産を巡り駆け引きが始まる。英美は父のことを知りたく、弁護士深尾女史や伯母/春子や異父の弟/正貴・妹瑞希のサポートを受けながら調査を進める。
 南郷英雄が生きてきた時代と現在を行き来して最終的には殺人犯にたどり着く。英雄が南郷家に婿入りする前の苗字は吉藤であり、創業した会社の名を何故に山藤としたのか、山は何に由来するのか、それがキーとなる。
 戦争直後の英雄の烈しい人生、運送業から事業を拡大する際の厳しい経営と人的関係、それらが現代と交錯しながら展開される。①殺人犯を明らかにするということが物語の大筋の背景にあるが、②主軸は英雄の戦後からの生涯を炙り出すことにあり、③英美が父を知りたいという動機はその間接的手段としての位置づけにある。面白くは読んだのが、この三つの構造が小説の焦点を甘くしている。

2022年10月6日木曜日

通院、74歳まで・・・、江戸川乱歩賞

 10月に入った。今日は雨で肌寒い日となった。
 3ヶ月の間を空けて病院に行った。雨が降っているせいであろう駐車場は満車となっておりすぐには入れなかった。泌尿器科のエリアは老人たちが沢山いて、立って診察を待っている人も沢山で、老婦が老夫の座る車椅子を押す姿も何人か見かける。自分も受付に診察受付書を提出すると、お一人ですかと確認され、一瞬戸惑うがああそうか老人は付き添いもよくあるのかと得心し、いやオレは単に頻尿の薬の処方箋を頂戴しにきただけと口には出さずに独り言ちた。
 世の中がコロナ禍となってから人間ドックには行かなくなり、さらに友人が前立腺癌に罹ったこともあり、次回には一通りの血液検査を申し込んだ。3ヶ月後の1月6日には最初に採血をして結果を待ってから診察を受けることなる。
 ふと思う。10月となった。次回の通院は1月。そうか、74歳になる4月までは半年を切ってしまったか。やっぱり傍目には老人なのだろうな、60歳を待っていた頃が懐かしい。毎日深夜近くまで会社で仕事をしていた頃-定年を迎えるまで続いた-が思い出される。10年、20年の経つのは早いものである。

 <荒木あかね 『此の世の果ての殺人』(講談社、2022年)>:2022年第68回江戸川乱歩賞受賞作。作者は23歳の九大文学部卒業の女性。選者たちの高い評価を得て今年度の受賞となった。
 ドライブしていたら自殺者の死体がぶら下がっている。家に帰れば首を吊った父親の死体が不自然な格好のままに横たわっている。処置に困って道端に捨てた。あちこちに放置された死体がある。弟が卒業した中学校には殺された多くの死体が床に並べられている。殺人は体を何カ所も刺され或は切られている。等々、このような、死体がいっぱいという類の小説は好きではない。ゾンビが歩き回るとかホラー小説は絶対に読まない。だから読み始めにこのミステリーは自分の好みの範囲外であろうと感じた。が、豈図らんや、とても面白く読んだ。文章も上手い。作者はいい読書を続けてきたのであろう。
 数ヶ月後には小惑星が熊本に衝突し、地球は滅亡の危機にある。ために人々は海外に逃げ、あるいは絶望して自殺し、警察署からも署員はいなくなり、ごく限られた人が警察システム解消に向けて働いているだけ。ゴースト化する町-福岡近辺がこの小説の舞台。この設定の中で描く連続殺人事件が新鮮である。スピーディーで、殺人のロジックが明解で、伏線の張り方に感心し、語り手のハル-小春-の内面描写も上手いと感じた。
 物足りない点は、登場人物のそれぞれの人生のダークな部分や悲哀が掘り下げられていないこと。例えば、引きこもりとなった弟、元刑事で一緒に事件を追うイサガワ先生、警察官の市村、そしてハルのそれまでの人生など。短くともよいからもう少し深く描かれてもよいのじゃないか。最後の大団円は安手のミステリードラマを彷彿させられた。
 若いし女性ということも相俟っているのだろう、大型新人ミステリー作家と評されている。ただ、ミステリー作家というジャンルで括れば、桐野夏生のような、人生の深さや社会性を描写する作家にはなれないと思う。あくまでも娯楽的な視点で、今はやりの奇想な場面で殺人ゲームを物語する作家であろうと、今は感じる。この作者の本を読み続けるのか否かは次作が分岐点となろう。