2022年7月29日金曜日

つんどく本、只見線、幾冊かの本

 朝日新聞の土曜日「読書」の頁は毎週楽しみにして読んでいる。今日(23日)から「つんどく本を開く」が始まり、「読書好きの方に、「いつか読もう」と積んだままだった本に手をのばし、開いてもらいます」とあり、随時掲載されるとのことである。このコーナーを見て親近感というかほっとした。というのは、自室に「つんどく本」は200冊を越える。そのジャンルは、数学/物理から宗教/思想/哲学、歴史や政治、もちろん小説もあって、多岐に渡る。
 好きな作家は別にしてなるべく新刊書を購入することは控え、なるべく「つんどく本」を読もうかと意識してはいる。でも、以前ほどではないが新聞の広告などや書評を見ては新刊を買ってしまう。
 本を買ってから時間が経つと関心が向かう方向も変化し、そろそろ読むことをやめる本や廃棄処分しても良いかと思うこともある。

 22日、NHKにて新日本風土記「絶景鉄道-只見線」が放映された。
 会津若松駅から新潟県魚沼市小出駅までの只見線は馴染みのある鉄路であり、只見駅から小出駅までは乗車したことはないが、会津横田駅~会津若松駅までは何度も2~3輛ほどの車輌の乗客となり車窓から流れる風景を眺めた。特に会津高校に入学してからは年に何度か横田の自宅(横田鉱山の社宅)に帰り、大学2年20歳になる3日前、1969年4月5日に横田から東京に向かうのときに乗ったのが只見線に乗ったのが最後である。序でに書けばその時に中学の同級生で会津女子高校に進学し卒業したIYさんと偶然に再会し、会津若松までの時間をともに過ごした。彼女は中学の同窓生(私とは高校も同窓)と結婚し今は名古屋に住んでいるはずである。数日経ってからふと思えば、何故にそのときに彼女が住んでいた静岡の住所を尋ねなかったのだろう、逆に何故彼女は私の住所を聞かなかったのだろうと思った。今から53年前のことである。
 テレビから流れる画像には記憶ある風景もあり懐かしさがこみ上げる。思いもかけず会津横田駅が映し出された。錆びた手すりや案内板、板が打ち付けられた待合室、短い乗降場(プラットフォームと呼ぶには相応しくない)、かつての横田鉱山引込線が見えた。20数年前に娘が線路に立って写真を撮った場所である。高校1年の時に、中学での先生だった杉崎先生(女性)に会い「(高校のクラス担任であった)大越先生のすぐ近くだよ、遊びに来て」と言ってくださった。それもこの会津横田駅の乗降場でのことだった。可愛さのある素敵な先生だったのに行く機会を作らなかった。幾ばくかの後悔。まだまだこの駅から思い出すことも多い。書けばきりがない。
 只見線が復旧することはあり得ないと思っていたが今秋10月から一日3往復の運行をすることになっている。一方で今日の新聞にはJRの赤字路線に関する記事が大きく掲載されていた。只見線は運休になる前も赤字路線であった。観光客に大きな期待が膨らんでいることであろう。一度はゆったりと乗ってみたいのであるが、それはかつてのように疎らな乗客の車内情景を前提としている。

 <ルシア=ベルリン 『すべての月、すべての年』(講談社、2022年)>:アメリカではA Manual for Cleaning Womenとして出版され(2015年)、日本での発刊は2回に分けられ、本作はその2回目にあたる。感想は前に読んだ『掃除婦のための手引き書』と同じで、「触れると火傷をしそうな、あるいは日焼けして赤く水ぶくれを起こしそうな皮膚感覚」。
 決して混じり合うことのない人間関係の中にあって、どこか孤独で滑稽で猥雑であることに愛着を感じ、かつ描かれる社会への拒絶感もあり、結局はその中に飛び込むことのない映画のスクリーンを眺めている自分がいる。

 <高橋三千綱 『枳殻家の末娘』(青志社、2022年)>:29年前にサンケイスポーツに連載されてもので今まで未刊であった。性描写はあっても裸で交わる汗やぬめりなどの濡れ場という感じは薄く、乾いたなかで開放的に描かれるポルノ小説風性描写小説という感覚。
 解説に西村賢太-本作が出版された1ヶ月後の今年2月に急死-。

 <荒巻豊志 『図解でよくわかる地政学のきほん』(誠文堂新光社、2016年)>:中高生も読める地政学の基本。右に地図、左に概説は分かりやすく、気軽に世界史を部分的に復習。

 <魚豊 『ひゃくえむ。第1巻』(講談社、2019年)>:ひゃくえむは100m。走る少年。次巻に繋がる魅力を感じ取れなかった。

2022年7月23日土曜日

混合栓修理、図工の時間

 浴室の混合栓から水漏れ。何故か分からないけれどピンホールから細く水が放たれ、また可動部の一箇所から水が滴れていた。今の家は18年程前に建てたものだからそろそろ補修が必要な年数となったのであろう。バラして水漏れ部を補修し、ピンホールには詰め物をしようと思い混合栓を分解し清掃した。元に戻せるか、混合栓買い換えになるかと一時不安が頭をよぎったが結果的には全て補修できた。組み立てられたものは分解再組み立てが可能である、機械的結合部は外観上隠されているに過ぎないとの自信に基づいていて、今回も(は)うまく処理できた。

 1階リビングの吹き抜け部にぶら下がっているペンダント照明の和紙カバーが汚れ、傷んでもいた。簡易的に汚れを取り除き、切れ目のあるところは破れ障子張りのごとくに補修しようと思った。が、和紙はかなり弱っていて補修できる状態ではないし、軽く濡らしただけで簡単に破れてしまった。18年程前のものでもう販売されていないし、そもそもカバーだけを売ってもいない。ならば自作しようと格闘することにした。
 上下の針金サポートを残し、上から下まで繋いでいた螺旋状の竹ひご、和紙は全て取り除き、簡便に骨組みを作り、紙で外観を調える。
 使用した材料はΦ1.8mmの竹ひご、Φ3mmの丸棒、トレーシングペーパーとして家にあったケミカル和紙、画用紙、木工用瞬間接着剤と速乾木工用接着剤。121cm高さの仮組み骨格としたのは段ボール。購入金額は1000円ちょっと。メインとなる高価なケミカル和紙に費用はかかっていない。細かい作業で神経を鋭敏にし、集中する時間は延べ1週間ほどに及んだ。
 完成品は下の写真。出来映えは小中学生の図工といったところ。近くで見ると雑なところもあり、職人的技術はもちろん芸術性も絶無であるが、まあ、家族以外の他人が見るわけでもないし、これで良しとして終えた。そう、遠目には良いではないか、と独り言。



2022年7月15日金曜日

漫画、占領改革、正義中毒

 <都留泰作 『竜女戦記 4』(平凡社、2022年)>:11ヶ月振りなのでやむを得ないが、やはり前の巻を読み直すところからはじまる。
 蛇国での争いは、人と人、村と村、派閥と派閥、政党と政党、国と国、連携国と連携国との争いをダブらせて見てしまう。これもロシアの蛮行、米中間の敵対、○○ミクスや△△ビジョンを標榜する首相を頂く日本、そんな状況のせいであろうか。・・・デクを操る”たか“は先々何を得るのであろうか。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第8集』(小学館、2022年)>:コペルニクスの登場を先に見て、終わった。

 <天川晃・増田弘編 『地域から見直す占領改革』(山川出版社、2001年)>:構成は“序論/地域から見直す占領改革-Ⅰ部/地域から見直す占領改革-Ⅱ部/指導者交代の諸相-Ⅲ部/制度選択と地域社会”。
 事実の現象把握と分析・類型化、表層をスコップで削るという作業、その下に何があるのかという問題にそのスコップは食い込んでいない。全体的な感想はそのようなもの。しかし首肯するところは勿論少なくない。例えば、次のような箇所、すなわち、「「占領が原点である」とする従来の視点は、「価値観」ではともかく、”事実”においては、見なおさなければならないであろう」、「包括的な論理による把握では、地方における独自性や多様性を見失わせることも偶にはある」-等々。
 一方、(茨城県において)「政治家(多くは、戦時期に、市町村のリーダーになっている名望家の三代目)は、占領期においても、供出、公民館設立などでも、さらに地域社会でも、戦前からの民心の機微の把握力やある種の責任感をもって女性も含む広範な大衆を掌握していたこと、それが民主化の質を限定した」と指摘することは当たってはいると思うが、民主化が限定される根底には、日本における封建的追従性や依存性、長いものに巻かれる集団的性癖性などにあると思っている。そして、民主化や民主主義という言葉が論議を深められないままに安易に使われていることに抗いたい-民主化・民主主義に反対することではない-気持ちがある。

 <中野信子 『人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム、2020年)>:己の心的枠外の人に「正義の制裁」を加え、脳の快楽中枢が刺激されてドーパミンが放出され、快楽とともに正義の沼に溺れてしまう。これが著書のいう「正義中毒」。
 ネットなどでその「正義中毒」を膨張させ、中毒の沼は深くなり、水平に拡がり集団化する。集団化するとその中の己はますます中毒の度合いが強くなる。このような人たちに-似たような人物は知人の中にも数人はいる-まともに応対してもどうにもならない。こういう人もいると認め、距離を置くしかない。
 「正義中毒」に落ち込まないためには、「人を許せない自分や他者、相手を馬鹿にしてしまう自分や他者の愚かさを人間なのだからしょうがないと認め」、「常に自分を客観的に見る習慣をつけていくこと」である。更には、「目分にも他人にも「一貫性」を求めない」ようにし、「人間は不完全なものであり、結局永遠に完成しない」と「意識」し、「「答えがない」からこそ「考えること」を止めない」ことが最も大事なことではないだろうか。知らないことを知り、知ることを知る、つまりメタ認知はそれなのであろう。

2022年7月8日金曜日

雑記

 7月5日、約2ヶ月半ぶりに髪を切りに行った。近くの1,200円カットで、3人いたスタッフの一人の女性には何回か担当してもらったことがあり、今回も運良く彼女が担当となった。1万円札を出してくずしてもらったからか、支払いはカードを使うことが多いですかと聞かれ、ええ、ほとんどがクレジットカードで本屋でもスーパーでもカードを使っている、と応じてから、彼女が本好きで小説の話となった。カットしている合間に彼女は東野圭吾の小説が好きでよく読んでいるとのことだった。彼女にとって東野圭吾の小説は読みやすくて、読み始めると時間の経つのを忘れてしまう、と言っていた。こっちもその作家の本はほとんど読んでいるので、一人の作家を中心に会話ができ、楽しい10分ほどの時間を過ごすことができた。

 髪を切った後、100円ショップに立ち寄り200円の買い物をし、次は健康保険組合に提出する書類を発行してもらいに市役所に行く。何故に市役所に働いている人が多いのかといつも思う。仕事が多いから働く人が多いのか、人が多いから仕事が増えているのか、市役所のフロアを歩くといつもそう感じる。

 市役所の後は、30分ほど書店で時間を潰してから16時に予約していた銀行へ。前日午前に入ったときは多くの人がいたが、この日は16時という時刻のせいか閑散としている。ワンタイムパスカードに変わって、スマホで暗証番号を受ける新システムに登録するために行ったのだが、スマホだけで登録手続きはできないためであって、当初はその原因が分からなかった。おそらく70歳という年齢制限に引っかかったのであろうと思っていた。銀行で確認するとやはりそうであった。70歳を超えると銀行でしか登録できないと何故に明示してくれないのであろうか。そうすれば何度かスマホやPCでトライした無駄な時間を費やすこともなかったのに。とは言っても銀行の親切な女性に苦情を言うほど野暮ではないので、そこは楽しく会話をしながら時間を過ごせた。しかし、安全のためと言いながら、却って不便や無駄なことを強制している側面があることには想像が及ばないのであろうか。運営管理側の図る安全考慮-余計なお世話、という図式は簡単に回避できると思うのだが。
 スマホ登録以外にも用事があり二人の女性と手続きを済ませたのであるが、スマホの扱いにとても慣れていると褒められた。多分に「年齢の割には」という言葉は口に出さずに胸の中に仕舞い込んでいたのであろう。

 久しぶりに数カ所を動き回り仕事をやったという感覚を持った。シャワーを浴びてからのビールが美味しかった。

 7月7日、3ヶ月ぶりに病院へ。薬をもらうためだけの診察で、その後変わりありませんか、はい何もないです、次は3ヶ月後の10月6日の同じ時間でいいですか、はい。1分ほどで診察は終わり。
 夏を経て秋になり、今年の残る月日を強く意識する頃、またこの病院に来ることとなる。