2022年7月15日金曜日

漫画、占領改革、正義中毒

 <都留泰作 『竜女戦記 4』(平凡社、2022年)>:11ヶ月振りなのでやむを得ないが、やはり前の巻を読み直すところからはじまる。
 蛇国での争いは、人と人、村と村、派閥と派閥、政党と政党、国と国、連携国と連携国との争いをダブらせて見てしまう。これもロシアの蛮行、米中間の敵対、○○ミクスや△△ビジョンを標榜する首相を頂く日本、そんな状況のせいであろうか。・・・デクを操る”たか“は先々何を得るのであろうか。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第8集』(小学館、2022年)>:コペルニクスの登場を先に見て、終わった。

 <天川晃・増田弘編 『地域から見直す占領改革』(山川出版社、2001年)>:構成は“序論/地域から見直す占領改革-Ⅰ部/地域から見直す占領改革-Ⅱ部/指導者交代の諸相-Ⅲ部/制度選択と地域社会”。
 事実の現象把握と分析・類型化、表層をスコップで削るという作業、その下に何があるのかという問題にそのスコップは食い込んでいない。全体的な感想はそのようなもの。しかし首肯するところは勿論少なくない。例えば、次のような箇所、すなわち、「「占領が原点である」とする従来の視点は、「価値観」ではともかく、”事実”においては、見なおさなければならないであろう」、「包括的な論理による把握では、地方における独自性や多様性を見失わせることも偶にはある」-等々。
 一方、(茨城県において)「政治家(多くは、戦時期に、市町村のリーダーになっている名望家の三代目)は、占領期においても、供出、公民館設立などでも、さらに地域社会でも、戦前からの民心の機微の把握力やある種の責任感をもって女性も含む広範な大衆を掌握していたこと、それが民主化の質を限定した」と指摘することは当たってはいると思うが、民主化が限定される根底には、日本における封建的追従性や依存性、長いものに巻かれる集団的性癖性などにあると思っている。そして、民主化や民主主義という言葉が論議を深められないままに安易に使われていることに抗いたい-民主化・民主主義に反対することではない-気持ちがある。

 <中野信子 『人は、なぜ他人を許せないのか?』(アスコム、2020年)>:己の心的枠外の人に「正義の制裁」を加え、脳の快楽中枢が刺激されてドーパミンが放出され、快楽とともに正義の沼に溺れてしまう。これが著書のいう「正義中毒」。
 ネットなどでその「正義中毒」を膨張させ、中毒の沼は深くなり、水平に拡がり集団化する。集団化するとその中の己はますます中毒の度合いが強くなる。このような人たちに-似たような人物は知人の中にも数人はいる-まともに応対してもどうにもならない。こういう人もいると認め、距離を置くしかない。
 「正義中毒」に落ち込まないためには、「人を許せない自分や他者、相手を馬鹿にしてしまう自分や他者の愚かさを人間なのだからしょうがないと認め」、「常に自分を客観的に見る習慣をつけていくこと」である。更には、「目分にも他人にも「一貫性」を求めない」ようにし、「人間は不完全なものであり、結局永遠に完成しない」と「意識」し、「「答えがない」からこそ「考えること」を止めない」ことが最も大事なことではないだろうか。知らないことを知り、知ることを知る、つまりメタ認知はそれなのであろう。

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