2022年5月29日日曜日

ヘッダー画像更新、江口バージョンごま焼酎、戦後史の本一冊

 このブログのヘッダー画像を1年4ヶ月ぶりに更新。初めてバーボン・ウィスキーをアップロードした。12 or 10 years old の枠から離れたのも初めて。

 ごま焼酎“紅乙女STANDARD”をまとめ買い。最初は酒店で1本買い。その後江口寿史バージョン限定品-4本セットでイラスト入りグラス2個付き-をネットでみつけたので発注。江口さんの描くイラストは好きなのでグラスの“彼女”を見つめながら心地よい酔に浸ることができそう。

 <岩崎稔・上野千鶴子・北田暁大・小森陽一・成田龍一[編著] 『戦後日本スタディーズ① 40・50年代』(紀伊國屋書店、2009年)>:自分が生れて世の中の動きが少しずつ判り始める頃までの歴史=戦後史前半あたりまでを振り返る。同時代の記憶と言うよりも、10代に入ってから知り始めた戦後史初期の記憶が呼び戻される。当時の世上には何かしら滑稽さも感じ、真摯であったであろう中に感じるその滑稽さに、いつの時代にも繰り返される人間社会の愚かさが顕れており、また人間社会の藻掻を見る。・・・唐突に『神聖喜劇』が脳裏に浮かんだ。

 もう一つのブログを更新していないこと-青木葉鉱山の坑夫取立免状に関して-が癒りきらない傷の瘡蓋のように気になっている。昨年の11月頃までには下調べとメモ整理は終わっているが文章へのまとめを怠っている。ついつい目先の関心事や易きことに気持ちが向いてしまう。

2022年5月23日月曜日

ウィスキー、『日本の戦争 歴史認識と戦争責任』

 先日、久しぶりに酒店に行ってウィスキーを2本買ってきた。10年・20年ものを購入するのも昨年8月以来のこと。スマホを忘れていたので店内で過去に飲んだものをチェックすることができず、記憶力を頼りとして初めてのウィスキーだろうと見当をつけて買ったのがARdbeg 10-years-old Islay Single MaltとMcGIBBON'S PLATINUM RIBBON 12-years-old blended Scotch。帰宅後に確認したら前者はすでに味わったことがあった。後者はハイボールが美味しかった。そういえば大好きなハイボールも久しぶり。

 <山田朗 『日本の戦争 歴史認識と戦争責任』(新日本出版社、2017年)>:三部構成で第1部は「近代日本はどんな戦争をおこなったか」、次に「今、問われる歴史認識と戦争責任」、最後の第3部で「歴史修正主義をどのように克服するか」。
 現在ロシアのウクライナ侵攻で人間の愚かさをまじまじと見せつけられており、形は違えどもロシアが過去の日本、プーチンが過去の日本の軍部、ウクライナが中国や東南アジアと重なってみえてしまう。この後ロシアはどのような失敗と敗北を迎えるのか、ウクライナはどう再興し、ウクライナの人々はロシアへの憎悪をどのように沈静化していくのか、そのようなことがぼんやりと頭をよぎる。
 新日本出版社からの刊行本であり、もっと激しく鋭く深く論じられているのかと想っていたがそうでもなかった。
 明治へのノスタルジアで近代化された日本を誇り、大正時代で息抜きをして、昭和前期を批判することで戦争責任を問う姿勢を見せ、戦後は幸運も重り、米国がつくるジグソーパズルのワン・ピースになり、そこそこの繁栄を享受している、というのがある意味現在の日本なのであろう。それにしても日本には愚かで軽薄な政治家が多すぎるし、システム構造が軟弱である。日本は部品の品質は素晴らしいが、組み立てると性能の劣ったものとなると論じられていたことがかつてあった。検査結果などをごまかし隠蔽している日本の冠たる企業を見ればそれらが露呈している。そして部品(個人)もレベルが落ちてきた感は否めない-おっとっと明治が良かったなどと言うつもりはさらさらない。

2022年5月15日日曜日

妻と毒、EWI、本2冊

 ある老夫婦が病院に行き、夫が書類を書く際に妻の続柄のところに「妻」ではなく「毒」と書いていたと当事者の妻が新聞に投書していた。なるほど、女は妻となり、母となり、その先は毒になるのかと面白く、かつ妙に納得した。我が連れ合いを思って面白く思ったわけではなく、あくまで世間一般からの感情であることは断っておく。
 妻と毒の字源を調べたら、妻は髪に三本の簪を加えて髪飾りを整えた婦人をいうとある。その髪飾りが特に繁多であることが毒である。毒々しい厚化粧や不必要に着飾った衣装の意味に得心する。
 娘の中学生になったばかりの長女にこれを話したら納得した表情で肯いていた。特に女→妻→母→毒の流れが面白かったようである。体験的に理解できるのかもしれない、と言ったら娘に失礼か。

 今年になって読書量が激減している。以前はそれなりの時間を読書に向けていたが、今は毎日EWIの練習や楽譜の入手、楽譜へのフィンガリング図追加などに割いている。上達速度がとても遅いが、否上達しているのか疑問であるが、気に入った楽譜を手に入れては上手に演奏できる姿を妄想している。曲を絞って練習せねばと思うのだがなかなかそうはならず、ギターが上達しなかった過去と同じ行動パターンを繰り返している。

 <森崎和江 『まっくら-女坑夫からの聞き書き』(岩波文庫、2021年/初刊:1961年-再刊:1970年-増補再刊:1977年)>:明治後期から昭和初期まで九州の炭坑坑内で働いた女性の聞き書き。劣悪な労働環境で働かざるを得なかった女性の語りに世の中の不条理を思う。炭坑で財をなした人たちは末端の彼女あるいは彼女の夫や家族たちの生活実態をどれほど認識していたのであろうか。国が、企業が、そして一般大衆が石炭によって利を得ていることと天秤にかけるように一方では重い負があったことは忘れてはならない。陽があれば陰がある、その差を埋めることが文明の発展、文化の醸成なのであろうと思う。

 <砂川文次 『ブラックボックス』(文藝春秋3月号、2022年)>:第166回芥川賞受賞作。次第に退屈になり、キレやすいサクマの生き方は何なのさと距離をおいて冷やかになる。人生に落後した若い男の内面や生き様を鋭く描写していていてもだから何なの、と感じてしまう。サクマが、サクマは、といった文章がしつこくて嫌になってくるし、自転車に関する描写も自転車に興味がない自分にはそれこそ蛇足のように感じてしまう。単に描写する力量があってそれを披露しているだけの小説。ここ数年あまり読んではいないが、又吉の受賞作あたりから芥川賞はツマラナイという感覚がある。それは単に小説に向かう自分の好みと小説に求める姿勢によるものでしかないのだが。

2022年5月1日日曜日

PC、酒の肴、『占領戦後史』

 3台使用しているノートPC1台のモニター開閉ヒンジ部が壊れた。ネジの緩みと破損であり、通し穴を空けて小ねじとナットで締結し修復した。外観上はみっともないが仕様が無い。

 カンブリア宮殿でマウスコンピュータを紹介していた。今までにここのPCは5台ほど購入している。すべて春日部ダイレクトショップで購入し、今も2台使用している。何年か前に友人が買い換えをするときもマウスコンピュータを薦め、秋葉原で購入した(させた)。

  新玉葱をスライスしていたらスライサーの歯で親指の皮をスライスしてしまった。ドレッシング化しないように流れた血は直ぐに止めた。

 ビールを飲んで日本酒(会津中将と楽器政宗)へと進み、その後は爆睡昼寝。
 この日の肴は①オクラ、②茄子、③胡瓜、④茗荷、⑤長葱、⑥アスパラガス、と極めてヘルシー。オクラはほぼ毎朝に食べているもので、レンジでチンして花カツオ・マヨネーズ・味ぽん。②③④は塩昆布で和える。ときには胡瓜なしで作るときもあるし塩だけで和えるときもある。⑤と⑥はガスオーブン・オーブントースターで焼く。焼き肉のタレにマヨネーズを加えてディップソース。旅行時に購入したおいしい塩も準備する。更に長葱には花カツオと醤油をかける。すなわち、2種の素材を焼いただけで3種の味わい方をする。これが酒に合う。できれば豆腐-塩をかける-も欲しかったが冷蔵庫に入っていなかった。ヘルシーな肴で酒を飲むって健康的なのか不健康なのかよく分からないが美味い。

 <竹前栄治 『占領戦後史』(岩波現代文庫、2002年/初刊1992年-1980全面的改訂増補)>:敗戦後の占領期に日本のあり方の舵を取ったのは米国であり、従って占領期の歴史は米国占領軍を中心軸においたものとなる。日本の政官は、乱暴な言い方をすれば、得意の忖度・迎合・追従を発揮したであろう。もちろんそこには日本を改革しよう、民主化しようとする意思があったであろうが、民主化とは天皇制打破であり、米国の日本改造方針許容であり、共産主義的左派の汲み入れであり、真の日本的民主化といえるものはなかった(理解が及ばなかった)のではないかと感じている。
 葉山軟禁計画、横須賀事件は初めて知った。特に横須賀事件におけるブラッディ氏の揺るがない思想と行動に真の自由人を見る。また、「政治犯解放までの「10日間」の歴史的意義」における次の2点が今につながる前兆と思う。すなわち、一つに政治犯解放は決して日本政府の自発的意思によるものではないということ、二つに東久邇から幣原への内閣移行は、「旧権力=天皇制権力」内閣から「新権力=親英米派外務官僚をリーダーとする戦後保守本流の萌芽的権力を代弁する」内閣への権力移行であり、「戦後の新しい保守権力形成の出発点を画」していたものであったということ。
 「戦後改革によって生れた地方分権的警察制度も、まもなく崩壊し、ますます中央集権化の傾向を強めつつあり、「市民のための警察」という理念はすでに空洞化されている」と書かれた本書の刊行は1992年のことで、この中央集権化傾向は尚更に強化されている。他国の中央集権政治体制を日本はいつまで批判し続けられるのであろうか。