2017年6月30日金曜日

気になる文章

 朝日新聞の文化・文芸面の記事で次の文章が気になってしまった。
「原智恵子(1914~2001)。日本人で初めてパリ国立音楽院を最優秀で卒業し、ショパン国際ピアノコンクールにも出場した国際派ピアニストの草分け」
気になったのは「日本人で初めてパリ国立音楽院を最優秀で卒業」の箇所。ここで「日本人で初めて」がどこにかかるものなのか分からない。①「日本人で初めて」「最優秀で卒業」したのか、あるいは②「日本人で初めて」「卒業」したのかが分からない。①ならば、最優秀で卒業した日本人は複数いて、原はその最初だったとも読めるし、②の場合は、かつて入学した日本人が複数いたが卒業したのは原が最初であるとも読める。あるいは入学も(卒業も)最初で、かつそれが最優秀だったのかもしれない。素直に読めば①の方かとも思うが、どうも気になってしまった。要は「初めて」がどこにかかって、「初めて」にどれほどの重みを持たせているのかということである(「原智恵子(1914~2001)。パリ国立音楽院を最優秀で卒業」なら何も問題はない-まるでどっかの官房長官みたいな言い方ヵ)。
 調べてみたがはっきりしない。Wikipediaでも全く同じ文章の「日本人で初めてパリ国立音楽院を最優秀で卒業」とあり、これは他のウェブでも見られる。穿った見方であるが、文章をどこからか引用/転用しているのかもしれない。

 政治家の言葉も軽くなってきているし、週刊誌や雑誌、新聞でもあれっと思う文章をときたま見つけることがある。読点を入れることではっきりすることもあるが、自分のブログでもミスがあって声高には言えない。昔読んだ『日本語の作文技術』(本多勝一)を思い出した。

2017年6月26日月曜日

十勝周辺の旅行

 旅行紹介のダイレクトメールがしょっちゅう送られてくる。北海道のものを眺めていたら「ピョウタンの滝」や「タウシュベツ川橋梁」、「フンベの滝」の文字に目がとまった。日本海側を除いて北海道はほぼ全域を回っているが、これらの地名は初めて目にしたものだし、もちろんどこにあるのかも分からない。じゃ行ってみようかと碌に確かめずに旅行会社に申し込んだのが数ヶ月前。で、今月(6月)の6日から8日の二泊三日で十勝地方に行ってきた。総勢28名のパックツアー。12時15分に羽田を発ち、とかち帯広空港に降りたのが13時50分頃。この空港の利用は今回で3回目くらいになるせいか、何の変哲もない田園風景も見慣れたように思える。「ピョウタンの滝」に向かい、年配の現地女性ガイドさんも訪れるのは初めてだというその地はこぢんまりとした爽やかな空気の流れる場所だった。引き返して十勝川温泉のホテルに入り、風呂に入って食事をしていつもより早く寝た。
 二日目は十勝を一望にできる「ナイタイ高原牧場」でひとときを過ごし、然別湖で食事を摂り、旧幌加駅に向かう。多くの人が働き生活の糧を得たであろう廃線・廃駅に身を置くと、目の前の風景に埋没しているであろう時間の積み重ね、人々の息吹といったようなものに少しは想いを馳せることになる。かつて線路が走っていた路を歩いて旧士幌線第五音更川橋梁を眺め、車を乗り換えて「タウシュベツ川橋梁」への林道は許可車両以外通行禁止となっており、鍵を開けたゲートから先は我々の乗った以外の車は通れないが、ゲートに車を停めてから目的地まで歩いている人たちもいる。熊も出るらしく一人では歩きたくない寂しい道である。現地ガイドさんが話すには最近は人気があって予約は1か月先まで空きがないそうである。海外からの訪問者も少なくないらしい。朽ちて崩壊する時をひたすら待つだけのアーチ橋は季節を変えて訪れたいところでもあった。保存したいという思いの人もいるらしいが、それはやめたほうがいいであろう。もっともダム発電所を管理する企業は動くはずもない。学術的芸術的な価値が薄ければ、人の手を加えずに朽ちるものは朽ちるままにしておけばいい。
 翌日は最終日。雨模様だが、バスを降りるたびに雨はほぼ止んで濡れることはなかった。海沿いの道路わきで「フンベの滝」をちらりと眺め、大樹を経由して襟裳岬に立ち寄った。生憎の濃霧で海も見えない。食事は海鮮丼で、別途注文した焼きつぶ貝とウニも美味。特に生のエゾバフンウニは絶品。普段は絶対に食べない家人もおいしいと口にしていた。日高―新冠―むかわと経由している途中、時々道路沿いに馬を眺め、もしくは廃線となっている日高本線を横目に、何度目かの新千歳空港に入りラーメンを食べ、娘の長女へのご当地ベアを買い(もう17-8匹になるか)、羽田に到着したのは21時過ぎ。これで今回は終わり。


 翌土曜日は夕方から新宿西口、2年ぶりに会う6人との飲み会。そこで口にしたウニの不味いこと不味いこと。少なくともエゾバフンウニではないウニとミョウバンのせいであろう。もうその辺の飲み屋さんで口にすることはないであろう。かくして口は少しずつ傲っていく。

2017年6月25日日曜日

樋口さんの新刊

 <樋口有介 『あなたの隣にいる孤独』(文藝春秋、2017年)>:母と二人、戸籍なし、15歳の少女、アパートには帰るなと連絡を最後に突然に母からの連絡が途絶える。舞台は川越、小説家志望の周東とその祖父の秋吉秋吉(あきよししゅうきち)。
 樋口さんの新刊を知ればぐに買う。この小説も発売と同時に手にして間をおくことなしに読んだ。樋口さんファンなので楽しめるのであるが(女子高生も可愛いし)、物足りない。母が玲菜と逃げ回ることになる動機が深く描かれていないし、最後もあっけなく終わってしまう。それに、自分としては興味の薄い料理の描写が多い。樋口さんの小説ではある時期から食べることが多くなっている気がする。でも、まあ玲奈と周東と秋吉のシーンは楽しめた。何せ、樋口ワールドが好きなのだから。

 今年になって読んだ本は(月10冊にも達していないが)合計40冊を超えている。なのに未読の本が2冊増えている。もちろん読もうと思って買うのであるが、なかなかそれに割く時間を持てないでいる。
 何かに時間を割くということは他の何かに費やす時間を捨てることなのだが、それが上手に運べないでいる。集中と選択がなくて発散したままで、この性癖はなかなか修正ができない。

2017年6月24日土曜日

新書一冊

 <山崎雅弘 『「天皇機関説」事件』(集英社新書、2017年)>:1935年の「天皇機関説」糾弾から短期間に美濃部は追いやられ、国体明徴へと流れていくが、どうしても「国体」を声高にする人たちの思いがどこから、なぜ生じるのか理解できない。江戸期の国学もよくわかっていないし、そもそも天皇を崇める心性がストンと入ってこない。天壌無窮、万世一系、万邦無比、万古不変、神聖なる、云々と冠が付くことに何か言訳がましさを感じてしまい、逆に言端の軽さを受け止めてしまう。糾弾に至る過程は現在の流れと相似性を有していることは間違いなかろう。・・・ふと思った、「個」がないことは自立しないことであり、それは自律することができないことで、結局は依存性が高まることであり、それがあの時代には色濃く出たのではないかと。それに日本人は管理されたがる傾向があり、逆に組織的に管理したがる人が多いのかも。集団化しやすいといってしまえばそれまでだが、それで済まされることでもない。

 加藤陽子『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社、2011年)、瀬川真希「満州事変・日中戦争の勃発と立憲政治」(『岩波講座 日本歴史 近現代3』講談社、2014年)、有馬学『日本の歴史23 帝国の昭和』(講談社学術文庫、2010年)第3章第4章に目を通した。何年か前に引いた線が残っているところもあるが、気分的、記憶的には初読のようなもので、あの時代は何だったのか、現在とどう変わっているのか変わっていないのか、過去から現在へと繋がっている縦糸と、そこを横に紡ぐその時の時代の横糸はどうであるのか、興味が消えることはない。
 明治維新から先の敗戦まで77年の時の経過があり、敗戦から現在まで72年経っており、物差しを当てればほぼ同じ年数となる。感覚的には前者が後者よりも圧倒的に長く感じられる。つまり、敗戦後から現在までの変化の振幅が、明治維新から敗戦までの間のそれよりかなり小さいと思える。
 現在が過去というプラットホームの上に立つとするならば、その過去を深く知りたい。とりあえずの焦点は明治維新、先の戦争前後に関した本-手元に未読のままとなっている本-を読むこと。何年かかるか分からない。

2017年6月19日月曜日

マンガ、志水辰夫、早坂吝、PC回復

 <竹田一義 『ペリリュー -楽園のゲルニカー 1』(白泉社、2016年)・『ペリリュー -楽園のゲルニカー 2』(白泉社、2017年)>:昭和19年夏ペリリュー島、漫画家志望の兵士が米軍との戦中にいる。

 <志水辰夫 『疾れ、新蔵』(徳間書店、2016年)>:姫を国許に連れ戻す新蔵。旅をともにするのは籠かきの二人、途中で出会う女とうり坊。追っ手をかわし、国に入る。明らかになる出生(新蔵)、村の秘密(隠れキリシタン)、山火事、裏切ってきた家族への思いと謝罪(忠治郎)。面白い、楽しめた。
 1985年に『尋ねて雪か』を読んでから作者の小説は37冊になった。物語を作る側も、それ読む側も32年の齢を重ね、40代が80歳になり、30代があと2年で70歳を迎える。

 <早坂吝 『双蛇密室』(講談社ノベルス、2017年)>:援交探偵らいちのシリーズ4作目。書名の通りに蛇が二匹でて、奇想天外な二つの密室が舞台。刑事藍川が絡む殺人事件の真相はらいちの優しさでオブラートに包んでしまおうとするが、小松凪の要求ですべて明らかにする。その真相は奇抜で突拍子もなく、男の何にかかわるものであって、思わず犯人になり得ない我が身の分身を思う。

 PCの回復とアプリ等整備で3日を費やしてしまった。メインで使っているPCが突然に-心当たりはあるのだが-起動できなくなってしまった。エラー表示でWindowsに移行しない。たまにはWindowsが立ち上がろうとするがすぐにエラー表示がでてしまう。この際いっそのこと初期設定に戻した。アプリも入れ直し。レジストリーを使用していないアプリは問題ないが、それ以外はすべてインストールし直し。ATOKも一太郎もOfficeも画像処理関連のすべても、音楽編集ソフトも、何もかも。いちいちシリアル番号を入れ、アクティベートのキー文字を入れ、入れ終わってもアップデート処理をし、ただただ我慢してやるだけ。他にもやることがあるので結局3日間は回復処置を施した。プラスの面を考えれば、PC内部のリフレッシュができて操作が快適になり、また不要なソフトやデータをクリーニングできたことヵ。でももう懲りたのでHDまるごとコピーなどの対策を打つことにする。少なくとも自分が使用する3台のPCについてはやっておこう。

おっ、パイは面白い

 娘の長男が中学生になった。彼にπの面白さを教えたくて整理してみた。もちろん数式などや複雑なことは一切なしにして、単に、へぇ~っと面白がるかも知れないレベルでしかない。以下箇条書。

  • 「定規とコンパスだけを使って、ある円と同じ面積を持つ正方形を書きなさい」、これがπの命題。
  • エジプトの大ピラミッドの底辺の一辺と高さの比率が約π/2
  • π≒22/7 ・・・55年程前の中学生の時からこれは便利と知っていた。計算が早くなる。知ったのは姉が使っていた参考書のコラムからだったと朧げに記憶している。誤差を少なくすると、π≒223/71   22/7の分子に3を追加し、分母には1を追加すると覚えればよい。

 ここからπの面白さというか不思議さが増してくる。
  • ギリシャ語のπは16番目の文字  16=4^2
  • 英語のpiのpはやはり16番目で16=4^2、 iは9番目で9=3^2、   16+9=25=5^2、16*9=144=12^2,  9/16=0.5652=0.75^2  要は二乗が絡んでいる。
  • 円の面積と同じ面積の図を書くヒント:厚みが半径の半分である車輪を一回転させ、その描かれた軌跡の面積がそのはその車輪の面積に等しくなる。これはレオナルド・ダ・ビンチが見つけた。数式で書けば、πr^2=2πr*(π/2) の応用。
  • π≒3.14159                               3は素数、31も素数、314159も素数。 順序を逆にすると、3は素数、13も素数、951413も素数
  • アルファベット(大文字)を円状に書き並べ、左右対称の形になっている文字を消していくと、残った文字はπの桁の並びと同じ数にグルーピングされる。
       ABCDEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZ
             6          3     1      4             1         並べ替えれば31416
  • πの計算が分からなくなったら、例えば、How I wish I could calculate pie. 文字の数が3-1-4-1-5-9-3   この方法に類似した文は沢山ある。
  • PIEを逆さにしてみれば、314に見える。
  • 片仮名で「パイ」。世の中ではポピュラーなことかもしれないが、ちょっと考えてみた。ハはイロハで3番目、イは1番目。アイウエオ順では、ハは26番目、イは2番目、そこで26/2=31
  • 円周率、昔は円積率と称したらしい。それで円・周・積・率の旧字や異体字の画数を調べてみたがうまい具合にπに結びつけられることはできなかった。無理をすれば円周率も円積率も漢字の字数は3文字。

 参考にしたものは主に、『[パイ]の神秘』(アーティストハウス、1999年)、『日本人と数 江戸庶民の数学』(東洋書店、1994年)。

2017年6月4日日曜日

ミステリー2冊、島の焼酎

 <東野圭吾 『虚ろな十字架』(光文社文庫、2017年)>:帯に、死刑は無力だ、罪は贖えるのか、東野圭吾最大の問題作、とあるが、死刑という制度を重々しく取上げたものではなく、死刑廃止反対を道具の一つに立てたミステリー。死刑制度に真っ正面に対峙したものではない。
 中学の少年が1年下の中学生との間に子を作り、その子を殺し、その後二人は別れ、男は小児科医の医師になり、妊娠していた女と結婚をし、女は風俗で働き・・・・、そこに現れたのが娘を殺されてから離婚、その後死刑廃止反対を訴える女。彼女が殺され元夫が謎を追う。碌でもない親が贖罪のような形で安易に殺人者となり、、、、、ストーリー構成に無理を感じる、人ってそう簡単に過去に向き合えるのだろうか。初刊は2014年。

 <早見和真 『イノセント・デイズ』(新潮文庫、2017年)>:これも初刊2014年の文庫版。意図したのではないが又もや死刑が出てくる。中心になるのは女性死刑囚。彼女は生きるために死刑を望む。必要とされるのを求めるが、必要とされなくなるのが死よりも恐怖である彼女は刑を執行される。
 母が死に、義理の父から疎んじられ、唯一の血縁者である祖母に引き取られ、祖母に男がいれば無視される。同級生の罪を言い訳もなく受け入れて施設に送られ、つきあう男の暴力受け入れる。いじめ、あるいは強迫をする、される中学生男女が登場する。死刑を待つ彼女のかつての同級生は弁護士になり、彼女に面会を求めるも一度だけであとは拒まれる。刑務官も裁判の頃から死刑囚を見つめる。世の中に喧伝される死刑囚像と現実の違いが後半語られる。
 うまく物語を構成していると思うが、どうもそれぞれの人たちが薄っぺらく描かれている気がしてならない。すべての人が、である。そして人に頼り、その人に抗い、やがて少しだけ自分をみつめ、安寧の生活に入っていく。上手い小説なのだが物足りなさも感じる。それは多分、オレが年齢を重ね、小説世界を一過性の娯楽、時間潰しとしか捉えなくなっているが、その一方では何かしら気持の片隅に新しい何かを期待しているからであろう。

 先月東京都の島を巡ったとき、島の人たちに評価の高い焼酎「盛若」を買ってきた。以前、四谷の店で飲んだ八丈島の「情け嶋」が運良くあればと思ったが、さすがにそれはなかった。今日(4日)、ウォーキング歩数を稼ぐために駅前の本屋に行き-自室には積んでいる本が沢山あるのにまた2冊買ってしまった-、帰宅する途中でもしかしたら「情け嶋」があるかもと淡い期待で”やまや”に寄った。目当ての焼酎はなかったが、まったく期待していなかった青酎があるではないか、置いてあったのは「青酎麦」。迷わず35度の方を1本買った。盛若もまだ飲んでいない。ゆったりとした時間にこれら島の焼酎を飲んでみよう。機会を作って新宿にある青ケ島屋に行って色々な青酎も飲んでみたい。