2020年3月28日土曜日

無題

 純粋・無垢←単純・無知、無邪気←無神経、自由奔放←自己愛、打たれ強さ←鈍感
 デーブ・スペクターが言った「あきれ夫人」が言い得て妙である。

 <アダム・ファウアー 『数学的にありえない 上下』(文藝春秋、2006年)>:14年前の世界的ベストセラー。「卓越したアイディア、圧倒的なリーダビリティ、そして作品の随所にちりばめられた量子力学、統計学、確率論などの専門知識」(訳者あとがきから引用)がピッタリで、物語進行のキーとして次の言葉も付け加えておきたい。i.e., 「ラプラスの魔」「統合失調症・癲癇」「諜報活動」「暴力」「銃」、そして「スピーディーな展開」など。ただ、終わりに近づくにつれ、超能力の展開と物語の着地点については飽きてきたというかつまらなさも覚えてきた。

2020年3月20日金曜日

好きになれない本2冊

 <大澤めぐみ 『彼女は死んでも治らない』(光文社文庫、2019年)>:休むことがなく次から次に発せられる言葉、奇想天外なシチュエーションのミステリー、まぁ、そんな概説を何かの記事で見てちょいと興味を持って本作を注文したんだけど、表紙はなんだかコバルト文庫かスニーカー文庫-両方とも読んだことはない-のような趣で、目次にはこりゃなんて言うんだか女の子が可愛く少女漫画-読んだことはない-のようなイラストがあり、間違った家のドアを開けてしまったような気分になった。第一話のストーリーはというと、美少女沙紀ちゃんが首を切られて逆さにぶら下げられ、パンツ丸出しで首から血を垂らしていて、それを沙紀ちゃん大好きな羊子ちゃんと探偵助手役の昇が見つけ、密室殺人事件の謎を二人が解決し、犯人の美術女教師はその場で黒いドロドロにバキバキされて黒い穴に吸い込まれ、沙紀ちゃんは生き返って地の痕跡も消失してしまう。・・・こういう非現実的で明るいホラー的な設定で謎ときはされるんだけど、そもそも目次の絵を見てもう異世界の小説であることは端っから分かっている訳で、じゃぁ読まなければいいじゃんとも思ったが、そこはそれ一応費用はかかっているので義務的に頁は開き続けた。
 第二話以降は斜め読みになってしまい、オレには到底好きになれない異世界の小説であり、まあ手に取って読んでは見てみたが、こんな本はつまらない、読むべきでなかった、時間の無駄だったと言うことは過去にも時たまあって、でもこういう、オレにとっては異質な小説も存在するという知識を得たという意味においては意義があったのかと思わせる一冊だった。ライトノベルの部類に入るのだろうけれど、文章はしっかりしていて語彙も(オレよりは)豊富で、知的な作者であることはうかがわせられた。大澤めぐみと入力するとあるwebでは「日本の女装小説家」とあるが、これってホント?とも思うが、まだwikipediaには載らないような新鋭作家であるようで、もう二度と読むことはないであろうとするが、これは作者を批判している、あるいはけなしているのではなく単に趣味に合わないということだけ。

 <さくら剛 『海外旅行なんて二度と行くかボケ!!』(産業編集センター、2019年)>:新聞で本書の宣伝を見た時、以前よく読んでいた旅行記を思い出し、久しぶりに読んでみようかと思い手に取った。書名から受ける印象はおちゃらけた感じであるが、書かれている内容は真面目で、表現方法がよく言えばくだけているというか、悪く言えばふざけている。文章のポイントが大きくなって太く強調されるものは好きになれない、昔のパートカラーの日活ロマンポルノみたい。基本的にはふざけた文章は好きでない。でもまあ書かれている旅行トラブルは軽いけれど面白くはあった。繰り返しになるが文体は大嫌い。この作者の本にも二度と触れることはなかろう。

2020年3月18日水曜日

誤発注、本2冊

 貯まっていたポイントを利用して発注した本が4冊届いた。開梱して確認したら1冊は既に読んでいた本であることにすぐに気がついた。またしてもやってしまった。古本屋に売るにしても750ポイント(750円)が無駄になってしまった。アルコールが入っているときに発注行為はするものではない。

 <桐野夏生 『夜の谷を行く』(文春文庫、2020年/初刊2017年)>:1971~1972年にかけての連合赤軍山岳ベース事件は就職を控えた大学4年の時のことで、メンバー29人中12人が私刑を受けて事実上殺された。森が公判前に自死し、永田洋子は東日本大震災のあった2011年に獄死した。2月4日に11番目のメンバーが胎児と共に死亡し、その二日後に本書の主人公/西田啓子が迦葉ベースを脱走する。
 連合赤軍の幹部や死亡者は実名で載っているが、脱走した西田や、永田死亡後に会うかつての同士たちはあくまで小説上の人物であり、どこまでが事実に基づいて描かれているのかは分からない。西田が妊娠3ヶ月でベースに入り、獄中で出産し、元夫がホームレスになり、彼が福島原発事故後のボランティア先で死亡し、生き残ったメンバーに対し真摯にフォローするルポ・ライターが西田の子であることを末尾に描くのは、いかにも小説という趣であり、多少の興ざめを感じ、どこかでノンフィクション的な一冊として向き合っていた自分に対し、本書は小説であると改めて思い直した次第。
 映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(若松孝二監督、2008年)のシーンがいろいろと頭に浮かぶ。

 <樋口有介 『礼儀正しい空き巣の死』(詳伝社、2020年)>:1988年に樋口さんの小説に嵌まってから本作で32年、47冊目となる。主人公は『平凡な革命家の食卓』で登場した卯月枝衣子警部補で舞台は国分寺。温泉旅行から帰ってきたら風呂場で「礼儀正しい空き巣」が死んでいた。事件現場の隣は空き地になっているがそこでは30年前に10歳の小学生女子が浴室で殺され、犯人不明のままであった。そして国分寺では4ヶ月前から3件の連続強制性交事件の捜査が続けられていた。女性週刊誌記者・卯月の恋人である短大講師が警察外で卯月に接し、国分寺署内では刑事課長・生活安全課長・刑事課班長が同じく班長でもある卯月に絡む。最後は3つの事件とも見事に解決し、前作から年齢を重ねていない卯月警部補は念願の捜査一課への転属が決まる。
 樋口さんの小説としては366頁の長い長編で、柚木シリーズに描かれる内容に少し触れられる箇所があり、作者の遊び心が味わえる。楽しめた。

2020年3月13日金曜日

また踵の痛み、『鬼滅の刃』、柚月さんのデビュー長編

 11日、ほぼ1年ぶりに整形外科へ。昨年の3月は左足の踵であったが今回は右足の踵。歩くときは痛みを堪えて引きずるようになってしまう。9年前、7年前、そして今回とレントゲン写真を並べた医師の説明によると、踵部のアキレス腱に繋がる踵骨棘の小片部が折れていて、痛みはこのせいであろうと言う。確かにその部分を押すと痛む。いつになったら治るのやら。またもや経皮鎮痛消炎剤と鎮痛消炎薬が手放せない。

 <吾峠呼世晴 『鬼滅の刃』9-19巻(集英社ジャンプコミックス、2017-2019年)>:絵は好きではないが、薀蓄のある台詞は嫌ではなかった。19巻を続けて読んでいると飽きてきて、惰性で読んでいた。続きはもういらないかな。

 <柚月裕子 『臨床真理』(角川文庫、2019年/初刊2009年)>:時間潰しに入った書店でついつい衝動買い。作者のデビュー長編で『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。導入部で引き込まれ、途中で少しだれ気味になり、繰り返し書かれる亡き弟への思いに安手のドラマを感じ、エンディングでは女性作家がここまで書くのかという性交描写に意外さを感じ、ヒステリックな看護主任の唐突な変貌に安易な作風を覚え、でも全体的には共感覚や知的障害者厚生施設を舞台にし、主人公が臨床心理士というシチュエーションは新鮮であった。

2020年3月7日土曜日

ウォーキング、江戸時代関連の2冊、『鬼滅の刃』

 いつものウォーキングコース、今日で再開5回目。今日は(いつもよりは少し速度を上げて)6.2km/59’。
 スマホのアプリ”私の路線“が便利。”キョリ測“ともほぼ同じ距離データが標示される。これだけでも十分であるが、まだ使用したことのないスマートウォッチに興味が出て、GPSのない安価な、多分中国製のものを駄目元、遊び半分で発注。

 <中江克己 『江戸の躾と子育て』(詳伝社新書、2007年)>:江戸時代の、誕生からお祝い、しつけ、遊び、教育、などを用語解説とともに紹介。表面的な事象解説といったところ。

 <吾峠呼世晴 『鬼滅の刃』1-8巻(集英社ジャンプコミックス、2016-2017年)>:シリーズのどれもがベストセラーになっている『鬼滅の刃』を読んで見ようと、娘の、今季中学卒業となる長男から全19巻を借り、先ずは8巻まで読んだ。

 <安藤優一郞 『大名行列の秘密』(NHK出版生活人新書、2010年)>:大名行列といえば先ずは参勤交代、次は江戸城登城。参勤交代の目的は、大きくは人質を取って謀叛が起きることを防止する政治的意図、次はそれとも繋がるが、諸藩の財力を奪うことの経済的意図。幕府の命によって諸藩は従ったというのが一般的解釈で、本書でもそのように述べられている。しかし、諸藩は将軍への忠誠を示すために率先して参覲交替に臨んだという意見もある。時の権力者へへつらい、追従し、忖度を重ねる等々は日本の伝統的組織形態だと思えば、不満はあっても表に出さず、率先して忠誠心を示した藩があっても全く不思議ではない。
 江戸城登城時の大名行列による混雑、城外で待つ藩士たち、その藩士たちを対象にした商い、多くの見物人、現代から見れば滑稽にしか見えない。逆に言えば、パクス・トクガワーナを象徴する情景であったともいえるヵ。

2020年3月4日水曜日

『剣術修行の旅日記』

 <永井義男 『剣術修行の旅日記』(朝日新聞出版、2013年)>:
 副題に「佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む」とあり、筆者はその「諸国廻歴日録」の内容を脚色せず、当時の社会情勢や制度で補いながら主人公を鮮やかに蘇らせ、その主人公の人柄や交友関係を活写している。素晴らしい一冊である。

 本書の主人公は佐賀藩鍋島家家臣牟田文之助高惇。天保元年(1830)11月24日、吉村家次男として誕生。牟田家の養子となり、天保7年(1836)に同家の家督を相続。実父は宮本武蔵の二刀流の流れを汲む鉄人流を教授し、佐賀藩の剣術指南の一人。文之助も二刀流使いであり、修業先では村上藩にて同じく二刀流である時中流の免許を受けている。

 諸国武者修行を願い出て許可され、嘉永6年(1853)9月、文之助満22歳のときに佐賀城下を出立。久留米・日出・中津筋~萩・山陽道・東海道筋~江戸と旅をし、江戸に滞在した後は、安政元年(1854)4月に江戸を出立し、佐倉・水戸筋~棚倉・仙台・石巻筋~秋田・本荘・庄内筋~越後・村上滞在~新潟・会津・宇都宮・日光筋~江戸滞在となる。安政2年(1855)4月に江戸を出立、中山道筋~名古屋・津・京都・大坂筋~四国筋~豊後路・熊本と歩く。柳川・久留米筋~自宅~大村・長崎・島原筋と移動し、9月に帰宅した。2年間に及ぶ修行であった。当初は蝦夷地松前藩に渡ろうとしたが、アメリカ戦来航の事情などにより一旦は現宮城県栗原にて断念する。しかし、まだ未練があったようで、現秋田県にかほ市で松前行きの船の予定がつかないことを知り、最終的にはそこで諦めている。

 旅先の宿場での宿泊は旅籠屋、あるいは藩の定宿の旅籠屋(但し佐賀から江戸まで)。各藩の城下では修行人宿で宿泊し、このときは宿泊代・食事代は現地の藩が負担することとなっていた。修行人宿であっても武者修行の実績のない修行人は通常の旅人と同じで自己負担となった。

 修行に旅するときは、藩から手札が渡され、これが藩の身元保証書となり、手札を示さない限り、藩校道場は修行人を受け入れなかった。佐賀藩の役人は飛脚を立てて江戸藩邸に修行人が訪れる予定の藩校を知らせ、江戸藩邸は留守居役の各藩留守居役に連絡し、各藩留守居役は各国許の藩校道場に連絡することとなる。よって修業先の藩は誰がいつ頃に修行人が訪れるのかを前もって知っている。また、修行人は武名録(姓名習武帳)なる帳面を用意して、各地で立ち合った相手に姓名を記入してもらい、それが修行の証となった。

 各地での他流試合は現在のドラマで見るようなものではなく、修行人宿から道場に知らせを伝えてもらい、都合を合わせる。他流試合はドラマで見るような「試合」ではなく、審判もおらず、一対一の打ち込み稽古である。どっちが勝ったとか負けたのかではなく、各自が自己判断で勝ったか負けたとかをするものであり、他流試合の実態は、「試合」を申し込むものではなく、「他流の者ですが一緒に稽古をさせてください」というものであった。だから立合は一人相手でも、あるいは何人かの相手とも何度も行われるた。文之助は『全国諸藩剣豪人名事典』( 新人物往来社 1996年)にもその名が載せられているような剣豪でもあった。だからであろう、立合道場への評価は概して辛い。例えば、有名な玄武館の実質的道場主千葉周作次男栄次郎は立合を逃げてばかりいて「腰抜けのきわみ」とこき下ろしている。参考に道場の広さは、思っていたよりは狭く、10坪から20坪ほどが多く、床は板張りではなく、土間、土間への敷物というところも少なくなかった。

 文之助は律儀で誠実であり、人々から愛されたようである。各藩では稽古が終わると修行人宿に藩士が押しかけ、酒や肴の差し入れも多く、連日の酒盛りの懇親が繰り返され、その地を離れるときは遠くまで見送りが同行した。異色の二刀流であることも相俟って、文之助は、著者が記すように、「剣術の稽古をしていた諸藩の藩士に当時、牟田文之助が鮮烈な印象を残した人物だったことは間違いないであろう」。

 会津若松へは、現阿賀町大牧~野沢~坂下~城下と歩いていている。しかし、所望した日新館での立合は叶わなかった。若松城下は丁度祭礼であちこちを見物しただけに終わっている。糟壁(春日部)でも道場主の都合が悪く立ち合っていない。若松へ入るまでの「若松街道はけわしい山道が続き、「車峠を越える際には軽尻を傭ったが、会津は日本でもっとも悪馬が多いそうだ」と記している。馬には乗ったものの鞍が小さくて、「迚も(とても)せんき持抔(など)ハ、中々一寸も乗馬出来不申、小子ニ而もさへ、きん玉をセき、甚難渋仕候」と認めている。

 江戸期、自分の誕生日を祝うことはなかったとするテキストも少なくないが、文之助は帰路に現名古屋の旅籠に泊まったときが誕生日であり、「出生日ニ付、御神酒等相備、祝也」と誕生日を祝っている。

 「あせ水をながしてならふ剣術のやくにもたゝぬ御代ぞめでたき」と歌われた時代に生きた文之助のその後は、元治元年(1864)8月に第一次長州征討に従軍し、慶応4年(1868)には戊辰戦争(会津戦争)に官軍の一員として参加している。但し輸送体隊を率いる小荷駄方であり実戦ではない。佐賀の乱では反乱軍に身を投じ、小隊長格であり有罪判決/懲役3年を科せられたが、重病のために刑期を残して釈放され、その後の生活は不明である。大日本帝国憲法発布に伴って明治22年に明治22年(1889)に大赦を受け内乱の罪は取り消され、翌年同23年に病没した。享年満59歳。

 剣に生きた文之助は佐賀の乱までは剣を腰に帯びていたであろうが、その後は反乱者となり、たとい竹刀であっても剣を振ることはなかったであろう。剣のない文之助は明治の22年余りをどう思いどう生きたのであろうか。

ウォーキング再開ヵ

 いつからだろう、右足踵の痛みがなくなった。また再発するかも知れないが、そうなればなった時のことと諦めるしかない。旧日光街道を歩いてはいるが、それも新型コロナウィルスのせいで中断し、ならばと、ほぼ2年ぶりに以前の近場コースをウォーキング。
 再開初日は午前9時頃から約6..2km、翌日は雨で外に出ず、そのまた翌日(3日)は約6.8kmのウォーキング。そして今日も雨模様で家の中。26日からの腰痛もやわらいできたので、気が向いたときにはなるべく歩くことにしよう。

 前回宇都宮までのウォーキング時にGarminが突如動かなくなり、多分バッテリー故障であろう。一度ファクトリー・リセットをしても再現した。ベルトも破損してしまったので廃棄し、新品は買わない。

 確定申告の書類を税務署に投函。毎年同じパターンの書類作成と提出の繰り返しで何か虚しい。