2020年3月4日水曜日

『剣術修行の旅日記』

 <永井義男 『剣術修行の旅日記』(朝日新聞出版、2013年)>:
 副題に「佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む」とあり、筆者はその「諸国廻歴日録」の内容を脚色せず、当時の社会情勢や制度で補いながら主人公を鮮やかに蘇らせ、その主人公の人柄や交友関係を活写している。素晴らしい一冊である。

 本書の主人公は佐賀藩鍋島家家臣牟田文之助高惇。天保元年(1830)11月24日、吉村家次男として誕生。牟田家の養子となり、天保7年(1836)に同家の家督を相続。実父は宮本武蔵の二刀流の流れを汲む鉄人流を教授し、佐賀藩の剣術指南の一人。文之助も二刀流使いであり、修業先では村上藩にて同じく二刀流である時中流の免許を受けている。

 諸国武者修行を願い出て許可され、嘉永6年(1853)9月、文之助満22歳のときに佐賀城下を出立。久留米・日出・中津筋~萩・山陽道・東海道筋~江戸と旅をし、江戸に滞在した後は、安政元年(1854)4月に江戸を出立し、佐倉・水戸筋~棚倉・仙台・石巻筋~秋田・本荘・庄内筋~越後・村上滞在~新潟・会津・宇都宮・日光筋~江戸滞在となる。安政2年(1855)4月に江戸を出立、中山道筋~名古屋・津・京都・大坂筋~四国筋~豊後路・熊本と歩く。柳川・久留米筋~自宅~大村・長崎・島原筋と移動し、9月に帰宅した。2年間に及ぶ修行であった。当初は蝦夷地松前藩に渡ろうとしたが、アメリカ戦来航の事情などにより一旦は現宮城県栗原にて断念する。しかし、まだ未練があったようで、現秋田県にかほ市で松前行きの船の予定がつかないことを知り、最終的にはそこで諦めている。

 旅先の宿場での宿泊は旅籠屋、あるいは藩の定宿の旅籠屋(但し佐賀から江戸まで)。各藩の城下では修行人宿で宿泊し、このときは宿泊代・食事代は現地の藩が負担することとなっていた。修行人宿であっても武者修行の実績のない修行人は通常の旅人と同じで自己負担となった。

 修行に旅するときは、藩から手札が渡され、これが藩の身元保証書となり、手札を示さない限り、藩校道場は修行人を受け入れなかった。佐賀藩の役人は飛脚を立てて江戸藩邸に修行人が訪れる予定の藩校を知らせ、江戸藩邸は留守居役の各藩留守居役に連絡し、各藩留守居役は各国許の藩校道場に連絡することとなる。よって修業先の藩は誰がいつ頃に修行人が訪れるのかを前もって知っている。また、修行人は武名録(姓名習武帳)なる帳面を用意して、各地で立ち合った相手に姓名を記入してもらい、それが修行の証となった。

 各地での他流試合は現在のドラマで見るようなものではなく、修行人宿から道場に知らせを伝えてもらい、都合を合わせる。他流試合はドラマで見るような「試合」ではなく、審判もおらず、一対一の打ち込み稽古である。どっちが勝ったとか負けたのかではなく、各自が自己判断で勝ったか負けたとかをするものであり、他流試合の実態は、「試合」を申し込むものではなく、「他流の者ですが一緒に稽古をさせてください」というものであった。だから立合は一人相手でも、あるいは何人かの相手とも何度も行われるた。文之助は『全国諸藩剣豪人名事典』( 新人物往来社 1996年)にもその名が載せられているような剣豪でもあった。だからであろう、立合道場への評価は概して辛い。例えば、有名な玄武館の実質的道場主千葉周作次男栄次郎は立合を逃げてばかりいて「腰抜けのきわみ」とこき下ろしている。参考に道場の広さは、思っていたよりは狭く、10坪から20坪ほどが多く、床は板張りではなく、土間、土間への敷物というところも少なくなかった。

 文之助は律儀で誠実であり、人々から愛されたようである。各藩では稽古が終わると修行人宿に藩士が押しかけ、酒や肴の差し入れも多く、連日の酒盛りの懇親が繰り返され、その地を離れるときは遠くまで見送りが同行した。異色の二刀流であることも相俟って、文之助は、著者が記すように、「剣術の稽古をしていた諸藩の藩士に当時、牟田文之助が鮮烈な印象を残した人物だったことは間違いないであろう」。

 会津若松へは、現阿賀町大牧~野沢~坂下~城下と歩いていている。しかし、所望した日新館での立合は叶わなかった。若松城下は丁度祭礼であちこちを見物しただけに終わっている。糟壁(春日部)でも道場主の都合が悪く立ち合っていない。若松へ入るまでの「若松街道はけわしい山道が続き、「車峠を越える際には軽尻を傭ったが、会津は日本でもっとも悪馬が多いそうだ」と記している。馬には乗ったものの鞍が小さくて、「迚も(とても)せんき持抔(など)ハ、中々一寸も乗馬出来不申、小子ニ而もさへ、きん玉をセき、甚難渋仕候」と認めている。

 江戸期、自分の誕生日を祝うことはなかったとするテキストも少なくないが、文之助は帰路に現名古屋の旅籠に泊まったときが誕生日であり、「出生日ニ付、御神酒等相備、祝也」と誕生日を祝っている。

 「あせ水をながしてならふ剣術のやくにもたゝぬ御代ぞめでたき」と歌われた時代に生きた文之助のその後は、元治元年(1864)8月に第一次長州征討に従軍し、慶応4年(1868)には戊辰戦争(会津戦争)に官軍の一員として参加している。但し輸送体隊を率いる小荷駄方であり実戦ではない。佐賀の乱では反乱軍に身を投じ、小隊長格であり有罪判決/懲役3年を科せられたが、重病のために刑期を残して釈放され、その後の生活は不明である。大日本帝国憲法発布に伴って明治22年に明治22年(1889)に大赦を受け内乱の罪は取り消され、翌年同23年に病没した。享年満59歳。

 剣に生きた文之助は佐賀の乱までは剣を腰に帯びていたであろうが、その後は反乱者となり、たとい竹刀であっても剣を振ることはなかったであろう。剣のない文之助は明治の22年余りをどう思いどう生きたのであろうか。

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