2018年5月29日火曜日

好みでなかった時代小説

 <中谷航太郎 『陽炎 くろご弐』(集英社文庫、2018年)>:帯の文句に惹かれて読んでみた。しかし、「次巻に続く」と頁を閉ざされてもこの軽い内容では次を読む気はしない。暗殺者としての秘密を抱える鉄炮打ちの主人公、可愛い妻と婿思いの義父、暗殺集団の頭、幼なじみで不遇の日々を送る鉄砲造り人、謎の老人、等々と書けば典型的なキャラ設定と深味のない物語であると容易に想像できる。展開の早い殺しに己の苦悩を絡ませるのもありきたりの物語構成で、ユニークなのは鉄炮を道具としていること。人物描写に人生の重さや苦さ、喜びなどの刻みをもっと彫り込めば面白さが増すと思う。鉄炮の重さも弾を発した反動もこの小説には感じ取れなかった。好きな部分は鉄砲を「鉄炮」としている漢字の使い方。目の前に出されて試食してみたが美味くなかった、好みでなかったので買う気はないという感じ。

 23日から27日の間は友人たちとマレーシア旅行。行きと帰りは飛行機の中だから実質3日間の強行スケジュール、移動距離の長いパックツアーだった。
 飛行機の中で読もうと文庫小説を2冊バッグに入れたが、読んだのは1冊の数10ページだけ。最近はこのパターンが多い。

2018年5月19日土曜日

眼科医院と小説と新書

 人間ドックの結果が送られてきて、いろいろ指摘があることは毎度のこと。あらたに追加された要注意・要観察の項目があり、まずは一番気になった「右目黄斑部変化」の検査を受けようと、近くにある大きな眼科専門医院に行った。3箇所で検査を受け、医師の診断を2回受け、結果は「本の少しの変化が人間ドックで指摘されたのでしょう。治療の必要はなく、半年後にまた看てみましょう」とのこと。男性医師は画像を見せながらの分かりやすい説明で、マスクをかけた検査助手の女性はルーチンワークの中にも声が優しくて眼が素敵な、背の高いはっとするほどの美人だった。

 <柚月裕子 『朽ちないサクラ』(徳間文庫、2018年)>:この小説は次の事件からヒントを得ている。すなわち、①ストーカー事件の被害届受理を先延ばしにしてその間に慰安旅行に行っていた千葉県警習志野署。②オウム真理教から派生したアレフ。
 事件は著者が居住する山形県であろうと思われる米崎県米崎市。ストーカー被害届けの受理が故意に先延ばしにされ、管轄地方警察の担当部署が慰安旅行に行き、受理二日後に女子大生が殺される。その慰安旅行と被害届引き延ばしが地元米崎新聞の特ダネになってしまう。米崎新聞の記者と県警広報の女性(泉)が親友であり、特ダネ記事をめぐって二人の間に亀裂が入り、新聞記者の方は殺され、さらに記者の遺体が発見された地で続けて殺人事件が起き、当初は自殺と扱われる。殺人犯を追う泉と地方警察の友人、広報の課長と刑事課の課長が中心となって殺人者を追う。過去の殺人事件をを解明する刑事課と、未来の事件を食い止める公安の確執が入り組んでくる。書名の「サクラ」は公安を意味する。
 事件を解きほぐす過程が進むにつれて徐々につまらなくなってきた。なぜかと言えば主人公たちの捜査がうまく進み、そこに絡む公安の影が予定調和的に想像でき、終わりになって広報課長(元公安)の動きに落ちをつけてしまうだろうと予想したらその通りになった。消化不良(よく言えば余韻)の感があり、生煮えの印象が残った。

 <吉田一彦 『『日本書紀』の呪縛』(集英社新書、2016年)>:1500年ほど前に編纂され記定された「過去」の枠組みは強固にいまも築かれている。天皇の正当性を明らかにし、権力を固めるものであった(ある)ことは紛れもないことであり、時を経た明治政府発足にても天皇の権力と正当性を確立するには『日本書紀』に視座を置くしかなかった。矛盾の生じないためには復古するしかなかったことで、それは容易に分かることである。明治以降「國體」を支える「国史」としての書物であったゆえに、歴史を見つめるための対象とはならず、言ってみれば時の政府を「忖度」する上での拠り所にとされたと解釈してもいいだろう。『日本書紀』は、「事実に基づくとは認められない創作による記述が多」く、「政権中枢部の権力者たちの思想を表現した書物」であって、「過去を規定するが、それだけではなく、それによって現在や未来をも規定した」。「『日本書紀』が過去を縛るとともに未来を縛ってきた」ことが本書のタイトルにある「呪縛」である。絶対化するものではなく、相対化することが重要で、さらに言うならば、相対化できない今を(否定ではなく)批判的に見つめるべきである。そして事実を共通認識することが必要とは思うのだが、現実をみれば無理だろうと思う気持ちもある。
 あとがきの文章を借りて自分自身を思えば、それは「本、あるいは文字で記されたものに刻まれた知の枠組を探求」し、自分の生きている現在の「時代の文化や社会を考え、そこから」自分自身の「日本の歴史」を読み解きたい、少しでも確実なものに近づけたい。

2018年5月17日木曜日

漫画2冊

 <ちばあきお+コージィ城倉 『プレイボール2 3』(集英社ジャンプコミックス、2018年)>:夏の地区予選が始まった。谷口の最後の夏。

 <Q.B.B 『古本屋台』(集英社、2018年)>:神出鬼没、帽子をかぶった初老(?)のオヤジがやっている古本屋の屋台。一杯100円一杯限りの白波お湯割り。飲み屋ではなく古本屋。古本の話しは期待していたほどには出てこない。開架図書館のように本が周囲を巡らし、そのど真ん中で営む飲み屋なんてものがあったらいいだろうなと思ってしまう。でもそこでは、本は、日焼ならぬ酒焼け状態になってしまうか。

2018年5月15日火曜日

バッタを倒しに行った新書

 <前野ウルド浩太郎 『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書、2017年)>:昨年の7月に何かの記事でこの新書が賞賛されており衝動買いしたのだが(このパターンはいつものこと)、他の優先度の高い(単に興味がより強い)本に手を伸ばしていてこれは放っておいた(今も寐させている未読の本は400冊以上もある)。で、そろそろ読んでみるかと引っ張り出したが、面白かった。バッタが及ぼす被害の程度は本書からは深く知り得ないのだけれど、バッタに入れ込んでいる情熱、ポスドク打開のための論文執筆への焦りにも似た思い、けれども明るく冷静にバッタを愛して追いかけていく。楽しく読めた。フランス語が話せない本人と英語が話せない現地雇い人との会話のコツは面白くて参考になる。一つは秋田弁の会話に伴う短い会話のテクニック(秋田生まれの自分は秋田弁に疎いが理解は出来る)。乏しい単語に複数の意味を持たせて他のメインとなる単語に繋げる。補うのはジェスチャー。意思疎通の基本であろう。舞台の殆どはアフリカ。アラブ世界に属する馴染みの薄いモーリタニアであるが、スーパーに行けばモーリタニア産のタコは日常的である。
 何かを好きになってそれに入れ込んでしまい、人生の根幹を築いている人の存在は、現代社会では稀少化しつつある。簡単に言えば、選んだ仕事に「好き」という感情を入れ込まず、失敗も脳内を右から左にスルーさせ、眼前の取り組んでいるものに「ムキ」になる人が少なくなったという感じがする。サラリーマンだったころ、ある時期から新人を見るとそう感じ始めた。組織の中で上司の指示にただ忠実になり、嘘偽りもその上司への精神的なれあいのように見える事象が多い。個人の誇りなんてものは打遣ってしまい、上にすり寄って我が身の保身を優先させる。こんな姿はいまの政治に腐るほど観察できる。「慣れよ狎れるな」の箴言はどこにいってしまったのだろう。
 閑話休題。著者は変人の部類に入る。しかし、その変人の情熱や素直さを賞賛するのは、その姿にそうありたい我が身を投影しているからであろう。自分とても過去を振り返ればそうしたかった、そうあるべきだった、学習すべきだったとの後悔はある。

2018年5月13日日曜日

樋口有介さんの45冊目

 <樋口有介 『平凡な革命家の食卓』(詳伝社、2018年)>:内容が要約されている帯を転記-「地味な市議の死。外傷や嘔吐物は一切なし。医師の診断も心不全。なんとか殺人に格上げできないものか。本庁への栄転を目論む卯月枝衣子警部補29歳。彼女の出来心が、”事件性なし”の孕む闇を暴く!?」
 主人公は前記のように29歳の準キャリアで脚が綺麗な女性刑事。場所は西国分寺。病死と判断された市議の殺人事件への格上げを巡って出てくる人物は、女性刑事以外に市議の妻と娘、隣り合わせのアパート住人の3人、医師。あとは警察内部とちょっとした関係者のみで、いつものような(?)魅力ある女子高校生は出てこない。柚木草平の名前が数カ所に出てくるがストーリーには無関係。アパート住人と深い関係になる女刑事はあまり魅力的ではないし、めがねの女性もさして面白い存在ではない。洒脱な会話は楽しめるのであるが、とても面白かったとは言えず、樋口ファンであるからしてそこそこ楽しめたというレベルと評しておこう。
 著書の小説にときどきあることだが、本作の書名がいまいちピンとこない。それから、真の犯人は市議の妻だったのか、という余韻は残る。
 『ぼくと、ぼくらの夏』が出た後、直木賞に一番近い作家と言われたのも昔のことで、サントリーミステリー大賞読者賞受賞以降はいろいろな賞の候補にはなるが受賞にはいたらず、いまはこの本が出版されたことを知って春日部市内の書店3店に足を運んだけれどどこにもおいてなかった。著者の名の影が薄くなったことなのか、あるいはこの新刊を置いていない春日部を田舎と感じるのか、両方含めて少し寂しい。
 1988年以来30年が経過して45冊目の樋口ワールド。

2018年5月11日金曜日

幕末と神話創成の本2冊

 <村上一郎 『幕末 非命の維新者』(中公文庫、2017年)>:初刊は1968年で当時のタイトルは『非命の維新者』、1974年の本書と同じ書名で文庫化され、本書はそれを底本として保田與重郎との対談が加えられている。保田との対談は全く興味もないが、解説に渡辺京二の名があり本書への関心は強まった。55歳で自刃した著者の名はぼんやりと聞いたことがあるという程度だった。で、本書で取上げている「非命の維新者」たちは、大塩平八郎・橋本左内・藤田幽谷・藤田東湖・藤田小四郎・真木和泉守・佐久良東雄・伴林光平・雲井竜雄の8人。最後の3人、詩人たちには関心はなく、藤田一族と真木については興味があった。
 明治維新の歴史は「維新者」たちの「魂魄のうめきの跡であり、だからこそ、とりわけ明治維新はまだ終わっていないともいえる」とまえがきに述べ、明治維新は「文化・文政の交より緒につき、以後ほぼ80年を経て明治中葉の挫折に至る過程と考えている」ともある。個々の「魂魄のうめき」に関心はないし、彼らの明治維新にも興味はない。彼らの挫折もなるべくしてなったという感想しか持てない。重要なことは彼らファナティックな行動がなぜ持て囃され、そして消えていったのかということで、そのバックグラウンドにある社会精神構造というか、日本というシステムというか、あるいは丸山真男のいう「古層」というものなのか、それをより深く知りたい。そうすることで自分の立つ位置の輪郭を描けると思っている。
 明治150年云々がいま盛んに言われているが、なぜ明治に回帰しようとするのかも理解できない。もっとも国家とか政治システムとかに理想を想像するなんて事は出来るはずもなく、少しずつでも進化するであろうという希望的前提に立てば、解説にあるように、「国民国家など、どう転んでも揚棄の対象でしかない」とするのがもっとも正しいと思う。

 <及川智早 『日本神話はいかに描かれてきたか』(新潮選書、2017年)>:サブタイトルは「近代国家が求めたイメージ」。
 幕末期・維新期に、日本が「西洋文明に触れたとき、日本人の根拠として新たに見いだされたものが『古事記』『日本書紀』に載録された神話や古代説話群であったといえる」。万世一系の系譜、天皇支配権の正当性を明示するために、天皇と直結する神々の世界を描く記紀の神話を活用し、記紀に「初代天皇として載せられながら」、近世の終わり頃までは「顧みられることの少なかった神武という存在が」、明治新政府によって「意図的にクローズアップされて」きた。維新期に再構成された神話は今も生きており、その意味では記紀の活用は成功したといえるであろうし、明治期に復古せよと主張する側から言えば、維新はいまも未完成なのだろう。
 科学的知識と感情の分離がいま顕著になっているとする分析があるが、それは何もいまに限定されることでもなかろう。本書では神話の図像の変遷が詳述されている。が、オロチが大蛇であろうと龍であろうと、和邇あるいは鰐と書かれたワニの正体が鮫、鱶、ワニザメであろうと、「肝要なのは解釈の当否ではなく、それが当たり前のように受け取られ、人口に膾炙していったということ」なのである。情報過多の今、SNS等で真偽の不確かな主張が飛び交っている。知識に基づく問いを自問するではなく、「感情」というある種ファナティック状態で、情報が不確かなまま「人口に膾炙」していることが多い。その風潮、時代の流れに強い違和感を覚える。
 ワニが爬虫類であると発表された当時は、日本は南洋諸島のある部分を領土としていたし、あわせて日本人南洋起源説も唱えられた。敗戦後は一転して鮫や鱶の類いであると解釈されてきた。他の事例をあげれば、「明治天皇がヨーロッパ的な軍人君主へと転換する過程」は「東征する神武天皇のイメージの生成」と並行するし、「”みづら”を結う神武天皇の図像は、近代に入って作為されたもので」、そもそも「古代天皇の支配の正統性とその由来を語るために生み出された『古事記』『日本書紀』に、初代天皇として載せられながら顧みられることの少なかった神武という存在が、幕末から近代に入り意図的にクローズアップされて」きた。”みづら”の髪型である神武天皇の図像は今の時代にも深く浸み混んでいる。明治の時代への復古を思うのも、あるいは抗するのも、そういう時代背景を知った上で語ることが大事だと思う。
 図像そのものではセキレイの描かれ方が(下世話的に)面白い。「イザナキ男神(陽神)とイザナミ女神(陰神)は交合の方法を知らず、飛んできたセキレイが頭と尾を振り動かす様を見てそのやりかた(術)を知り」、「国生みの神話の図像では、イザナキ男神とイザナミ女神が天の浮橋におり、そこから岩上(オノゴロ島)のセキレイを見ているというのが、江戸後期以降の定番図像と」なり、「図像として男女二神の交合を直接描くことは憚られたため」「セキレイの図像が、性表現の象徴として最終的に選択されたと考えられる」と述べられる。セキレイに関しては『エロティック日本史』(下川耿史)にも解説されている。

2018年5月5日土曜日

雑記

 4月26日は人間ドック。毎年繰り返していることなので、いつもの病院に入るとまた1年が経ったと馬齢の重なりを実感する。病院内の人間ドックのエリアは椅子や器財などが新しくなっており、儲かっているんだなと思った。また、毎日異なる人たちに同じ仕事を繰り返しているスタッフの動きを見ては、自分がこの仕事に就いていたらどのように仕事の面白さを見つけて日々の業務をこなすんだろうかと想像を巡らす。

 まる一日をかけて自室の模様替え(L/O変更)を行った。かなり大幅に変えたのだが、それは自分がそう思っていることで、家族から見れば大した変化ではないはずだ。変わったことを面白がって見ていたのは娘の娘だった。
 L/O変更のメインは、放ってあったギター関連機材をいつでもすぐに手に触れる位置に移動したこと。本やテレビを移し替えて場所を空け、アンプ2台を常時座っている椅子の近くにもってきて、それに伴ってマルチ・エフェクターなどもその近くに位置させた。機材はすべて10年以上前に購入し、ただただキレイな音を出したいがためであったが、まあ途中で触ることもなくなっていた。その理由として一番大きいのは左腕の肘部管症候群で、手術後も今も左手小指は思うようには動かない。簡単に言えば左小指で鼻くそをほじれない。だからギターコードを押さえるのにかなりの制限が出てきていて、フォークギターではよくやっていたスリーフィンガー・ピッキングなんてごく簡単なコードしかできなくなった。せめて左ではなく右だったらよかったのにと思っても詮無きこと。
 久しぶりに表に出したマルチ・エフェクターや録音機材の操作すら覚えていなくて、学習のし直し。エレキギターで-例えばShadowsのような-キレイな音を出したいだけで、ちゃんと弾けるかどうかは二の次でいい。ソフトよりもハードが好きということだけなのかも知れない。

 ギブソンの経営破綻のが近いのではないかということは以前から流れていたが、それが現実になった。「多くのギター好きがそうするように、楽器店のショーウィンドーの前に立ち、何時間も見つめる男がいた。ロックの大スターになる前のエリック・クラプトンである」と5月4日の天声人語にあった。クラプトンと並べるのはおこがましいが、大学入学の年、楽器店のショーウィンドーの中にあるマーチンを涎を流しそうにして眺めていたことがある。他のギターとは醸し出す空気が違っていた。4年になって入った研究室の同学年に「走れコータロー」の作曲者に名を連ねていた人がいて、彼がマーチンのD45だかD28を買ったと聞いたときは自分より背の低い彼を見上げたような気分だった。レコード売り上げの印税が入り、1/8の印税収入でも200万円を超したとか言っていた。爪を研ぐヤスリをいつも持っていた。
 マーチンの次に欲しいと思ったのはBurnsで特にHBMのモデル。もっと技量があって人前でも弾ける自信があるレベルだったら買っていたかも知れない。

 4-6日、ゴルフをやる連中に便乗して猪苗代に泊めてもらい、酒を飲んで、日中は会津の訪れたことのない鉱山の地をドライブする予定だった。が、連れ合いが風邪を引いてしまい28日頃より激しい咳を繰り返すようになった。もともと気管支喘息を持っていて、定期的に大学病院に通い症状は出なくなったが、そのせいで咳が出ても市販の咳止めは服用できない。しかも連休だし、担当医診察予定日の関係で大学病院に行ったのが2日。風邪と分かったのもその日で、薬を貰い、咳は治まってきたがその副作用なのか風邪の症状なのか体調は崩したまま横になっていることが多い。当初、会津行きはOKと言っていたが、さすがにそれはできないと思い、病院に行ったその日に会津行きを中止した。彼女のせいだけではないとの理由を幾つか付けて中止理由を説明したのは、多分オレのヤサシサ(?!)。