2022年3月26日土曜日

国体論、象徴天皇に関する本2冊

 <白井聡 『国体論 菊と星条旗』(集英社新書、2018年)>:明治元年/1868年から敗戦時の昭和20年/1945年まで77年の時が経過し、その1945年から現在2022年までも77年が経っている。敗戦を迎えた1945年は明治維新からの走路の中で折り返し点となり、逆走しているかのような感もある。
 戦前の「国体」と戦後の「国体」は本質的には連続しており、戦前のそれは國體、戦後は国体と個人的に区分している。自分の中では國體/国体はあくまで基軸に天皇をおいた上での捉え方であり、本書で論じられる「国体」とは趣が異なる。
 本書においては「国体」を、”形成期-相対的安定期-崩壊期”と3区分し、戦前においては”天皇の国民-天皇なき国民-国民の天皇”を対応させ、戦後では、”アメリカの日本-アメリカなき日本-日本のアメリカ”を当てはめる。7頁にこの3区分を縦軸にして世界情勢・国内情勢を並べた年表が示され、全容を分かりやすく把握できる。
 戦前の「国体」の基礎には天皇があり、戦後のそれにはアメリカをおいている。それは統治権運用形態としての国体であり、そうなってしまった経緯も理解できるのであるが、自分の思う天皇を基軸にした國體/国体とは意味が異なる。

 <河西秀哉 『「象徴天皇」の戦後史』(講談社選書メチエ、2010年)>:敗戦直後から皇太子御成婚までの期間を対象として「象徴天皇」が形作られるまでを論じている。章立ては以下;
 第1章 昭和天皇退位論 / 第2章 天皇、「人間」となる / 第3章 メディアの中の象徴天皇 / 第4章 揺れる象徴天皇像 / 第5章 「文化平和国家」の象徴として / 第6章 青年皇太子の登場と象徴天皇制の完成
 特に新しい気付きがあるわけでもない。各章で論じられるこの国の諸現象にはいつも疑問、違和感、どうしてそうなっているのか、なったのか、違和感が拭えない。それは日本という国に住む人間とは、さらには本質的に人間とは、組織とは・・・・という疑問につながるものである。

2022年3月16日水曜日

ジョン・ダワーとコシュマンの本を読んだ

 テレビや新聞、webでのニュースでウクライナの状況を毎日知る。どうしようもない悲しみ、憤り、人間の愚かさ、一方では勇気、そしてどうしようもない焦躁、ある種の諦念、人間の業、等々が頭の中で揺らぐ。小額の寄付をすることで尚更にまたやるせなさが膨らむ。
 また、アジア・太平洋戦争における昭和前期日本の侵略やその正当化政策、虚偽で固められた大本営発表、報道統制、国民の歓喜、少数の抵抗と彼らへの弾圧、などを相似的に結びつけてしまう。
 ・・・いろいろなこと、どうしようもないもどかしさ、これをどう落ち着かせればいいのか答に結びつかないまま思い倦ねるしかない。

 <ジョン・ダワー 『敗北を抱きしめて 増補版(上・下)』(岩波書店、2004年)>:もっと早く読むべきであった。戦後の米国占領期の歴史を知るにはもうこれ一冊で十分ではないかとさえ思える。占領軍への批判も、もちろん日本へのそれも鋭く、特に天皇をめぐる論考は明解であり、日本の基底にずっしりと根を張っているものがどういうものなのか輪郭が鮮やかに浮かび上がる。前回読んだ豊下楢彦の内容と合わせると今の日本に内在する病巣も得心できる。
 ロシアのウクライナ侵攻が続いている今現在、プーチンは勝利後の統治について第二次大戦後の米国の日本における統治システムを学習しているとの報道があった。75年前の米国をロシアに、日本をウクライナと置き換えればなるほど大いなる参考になるのであろうと妙に、皮肉っぽくではあるが納得できる。もちろん、そこにある日本は貶まされている。

 <ヴィクター・コシュマン 『戦後日本の民主主義革命と主体性』(平凡社、2011年)>:明治維新を革命と呼ぶことに抵抗感が拭えないし、同じく戦後の民主化を民主主義革命とすることにも抗う気持ちがある。それは横に措いて、本書を手に取った当初は、敗戦後日本の民主化における、日本という国や政治の主体性を論じているものと曲解していた。
 しかし、「本書は第二次大戦敗戦後、占領下にあった日本の知識人のあいだで「主体性」概念と民主主義の政治的・社会的可能性をめぐって展開した論争状況を分析するものである」(「日本思想史研究と現代民主主義論の接点で-訳者あとがきにかえて-」)。
 『岩波 哲学・思想事典』よりの引用を繋げると、「主体性」は、明治時代以〈subject〉の訳語として用いられ、主体は最も具体的かつ客観的な実在として,認識や行為の担い手と見なされるものであって、第二次世界大戦直後の日本で社会変革への個人の参与のあり方をめぐって「主体性論争」が闘われた。直接のきっかけは,主として雑誌『近代文学』による文学者たちによる「第二の青春」論であつた。彼らは,マルクス主義の残影と輝かしき大東亜共栄イデオロギーの間を揺れ動いた自分たちの「第一の青春」の無力さ・不毛さを自ら問いかえしつつ,しかし見て見ぬふりをしてきた各自のエゴイズムを正直に承認し,そこから発する「自己の内的必至に忠実」な「高次のヒューマニズム」を提唱した。そして,それが論争になったのは,西田哲学から和辻倫理学をへてマルクス主義へ転じた梅本克己が,47年から48年にかけて,主体の参与にかんするマルクス主義理論の「空隙」を問題化したからである。彼が提起したのは,「小我を滅して悠久の大義に生きる」式に侵略の銃をになうことを哲学的に正当化した京都学派と,戦後の日本共産党の革命の扇動との類似性であり,そこにおける個の単独性の欠落である。近代的個人の理性的合意による民主主義を主張する潮流と,階級形成を呼号する潮流の対立に終始したのが,主体性論争であった。後者の潮流が,梅本が問題化したような「空隙」は革命という世界史的必然への献身をためらう小ブルジョアの頭の中にあるだけだ、と決めつけていらい,過度に政治主義的色彩を強め、結局は曖昧なままに拡散した。
 結局は学生時代に知った著名知識人の名前が懐かしかっただけで、本書の分析が何の意味をなすのか理解できず、関心もなくただ退屈なだけの大著であった。

2022年3月5日土曜日

現代百人一首

 毎年恒例の東洋大学「現代学生百人一首」。第35回目の今年の入選作をセレクトし、メモを付した下書きをアップし忘れていた。

     着信で半トーンほど上がる声いつから母と同じになった?
 電話に出ると、連れ合いの声はいつもと違って優しく柔らかくなる。いつからだろう、娘も同じようになっていた。反面、オレは電話に出ると何でそんなにぶっきらぼうで不機嫌そうになるのかと会社の同僚にも家族にも言われ続けた。

     顔加工男に変身してみたら「パパにそっくり!」ショックな私
 娘が幼稚園生の頃、オレに似て美人で可愛いと彼女に言うと、娘は膨れっ面になって“似てないもん”とそっぽを向いていた。

     三〇〇年時空をこえてバロックを奏でる僕にバッハがコケる
 3ヶ月前に手にしたEWI、奏でる“タイスの瞑想曲”が激しく迷走している。

     蝉の音が読んだページに刻まれて参考書から八月の記憶
 蝉はうるさい、集中できない。焦りを覚え始めた高校3年8月の夕。
 3浪して医学部に進学した友人の年賀状に書かれていた一言、“12月になると今でも気持ちが落ち着かなくなる”。

     わからない君の指し手も感情も誰か教えて恋の五手詰
 “四桂(死刑)の宣告”という言い得て妙な詰将棋もある。詰んでしまった恋がそうならなければいいのだが。逆に追いかけ追いかけて詰んでしまう“壽”と称される詰将棋もある。やはり五手詰めあたりが望ましいヵ。