2017年3月31日金曜日

本一冊、歴史用語の修正

 <塩田武士 『罪の声』(講談社、2016年)>:「週刊文春」ミステリーベスト10 2016国内部門第1位、第7回山田風太郎賞受賞作。「グリコ森永事件」事件に題材を得た小説。前半は後半へのプロローグであり、後半になってスピーディーに展開する。実際の事件を忠実になぞり、綿密な取材(多分)に基づいて物語を展開しており、ノンフィクションとも思えるストーリーテリングは全般的には面白かった。ただ、イギリスで犯行の経緯を詳らかにする場面などは物語を急ぎまとめているとも思え、登場人物が素直な人たちで、最後は予定調和的に幕を閉じたという不満も覚えた。

 小中学校学習指導要領の歴史用語改定案に「異例の修正」(朝日新聞3月31日)がなされた。「聖徳太子(厩戸王)」/「厩戸王(聖徳太子)」→「聖徳太子」、「モンゴルの襲来(元寇)」→「元寇(モンゴル帝国の襲来)」、「幕府の対外政策」→「鎖国などの幕府の政策」、「江戸幕府の対外政策」→「鎖国などの幕府の対外政策」。これらはすべて従来の表記に戻ったものである。「鎖国」といっても実態は海外との通信や貿易に制限を加えたことであり、歴史を少しかじれば誰しもが知っているし、アジア諸国でも同様の海外交流・貿易の制限は行っており、「海禁政策」と呼ばれるのが実際であるといろいろなテキストで学んできた。「江戸期の鎖国では・・」なく、「江戸期の海禁政策においては・・・」とするのが正しいと自分では思っている。自分にとって「鎖国」は、ホッジャのアルバニア社会主義人民共和国の「鎖国」がぴったりする。
 元寇にしても、鎌倉時代には「蒙古襲来」のような言葉で示していたし(「モンゴル」ではない)、「元寇」は『大日本史』から登場した筈である。聖徳太子は諡号であることは常識であり、死後100年以上経過後の文献に初めて登場していると覚えている。
 馴染んでいるからそれを変えたくないというならば、また、世代間ギャップを生じるというならば、それは思考の停止を示しているのではないかと思ってしまう。でも、小中学生相手ではしようがないかな。
 「意見をおくるよう会員らに働きかけていた」「新しい歴史教科書をつくる会」が「大勝利」としているのには落ち着かない心地になる。
 ・・・歴史学者のリアクションはどんなだろう。

2017年3月27日月曜日

本4冊

 <岩木一麻 『がん消滅の罠 完全寛解の謎』(宝島社、2017年)>:「辛口の選考委員たちが口をそろえて絶賛」(帯の惹句)の「このミス大賞」受賞作であるが、楽しめなかった。書名そのままのミステリーで、ストーリー構成上不可欠な医学用語の説明が冗長で退屈してしまう。登場人物にも魅力はなく、硬質な描写である。ミステリーとしてのパズルを嵌め込むことが主体にあって、パズルを嵌め込む過程の情景というか面白さというのが薄いと感じた。

 <『歴史読本』編集部編 『歴史の中の遊女・被差別民』(新人物文庫、2011年)>:2006年『別冊歴史読本 歴史の中の遊女・被差別民 謎と真相』の再編集で、多くの人が発言or書いたものである。そのためか、全編を括るとこの本は何にフォーカスを当てているのか、散漫になっている。参考文献も示されず、講演にありがちな余計な、横道にそれた、内容の浅い記述も多い。雑談向けの知識は得られる。

 <中山英一 『被差別部落の暮らしから』(朝日文庫、2014年)>:「もの心がつくころから、すさまじい偏見、差別の攻撃を受け、呻吟の淵で彷徨を余儀なくされていた」(314頁)著者の実人生に基づいており、「被差別部落」における差別の実態が重い。生れた地の部落は、部落外の人たちからは離れ、与えられた名字は部落とわかる名であり、学校に通えば差別され、もちろん部落の地から離れてもその名を隠さねば社会・世間から蔑まされる。墓石は、寺の境内に設置されることは許されず、狭い離された地にまとめられ、自分の家の庭先や田んぼの土手にもある。死んでも寺の僧侶は導師を勤めることを拒否し、戒名(法名)はいわゆる差別的な字、字数、字抜けなどでつけられる。そして戒名は寺の過去帳に記録され、墓石に彫られ、位牌に記される。すなわち、戦後になって差別は多面的に改善されてきたけれど、その差別の実態は引き継がれ継続する。朧気には知っていたけれど、差別名字、差別戒名などの実態を具体的に知ることとなった。
 例えば浄土真宗などの仏教が掲げる理念は薄くなっているし、「葬式仏教に堕した」と言われるが、その葬式に関わることさえ部落は拒否された。仏教(僧侶)が悪い、差別する側がひどい、というのは簡単であるが、本質は社会の中に生きている個々の人間がその社会に飲み込まれ、差別する言動を身に浸み混ませてしまうという性なのであろうと思う。もちろん差別される側の悲しみや憤り、怒りのほどは自分の想像を超えるものであろう。しかし、誤解を恐れずに書けば、繰り返しになるが、人はいとも簡単に社会(世間といってもいい)の空気を感じ取り、それが醸し出す一体性に身を依存させてしまう。そのような人間の性というか業のようなものが、この社会の基底に張り付いている。それを忘れてはならないと考える。

 <國重惇史 『住友銀行秘史』(講談社、2016年)>:イトマン事件を住友銀行側から、すべて実名で著した実録。最近よく名前の出てくる自民党の竹下亘の名前も何度か出てくる。銀行のトップクラスが策略をめぐらし、銀行という組織の中でヒラメのごとく上を見ては保身を考え、日和見的に動く。また、官僚や新聞記者と協力しあう。言えるのは自分が働いてきた実際とは全くレベルも環境も何もかも異なる異質な世界であるということ。
 一方、保身的な行動には共通性がある。会議では碌な発言もしない人が、結果が出てから、「実はオレもあのときはそう思っていた」なんていう台詞には何度も接した。実際には展開しないが、トップにいる上司が喜ぶからと意味のない戦略も何度か作らされ、ひねくりだしたこともある。
 銀行と官僚、マスコミ、フィクサーたちの絡み方はいまの森友騒動にも通じているような感あり。話題になった本であり、またそれ相応に厚い本であったが、所詮オレとは異次元の世界。無論ミステリーのような面白さも覚えなかった。

道徳の教科書

 小学校道徳の教科書検定における修正。これは「忖度」なのか、あるいは「空気を読む」なのか。一体感を求める側とそれへの依存性が発揮された事象かとも思う。
 「しょうぼうだんのおじさん」→「しょうぼうだんのおじいさん」:高齢化社会、地方ではもうおじいさんしかいないだろうから、高齢化率の高い地域にとってはこの修正は正鵠を射ているだろう。「パン屋のおじさん」→「パン屋のおじいさん」。いつまで働かせんだよとおじいさん、早くオレに店を任せてくれよとぼやくおじさんのシーンが浮かんでくる。それに、老人をむやみに尊敬/敬愛してはならない、そうされることで迷惑と思う老人、面映い老人もいるのだから。
 教材「にちようびのさんぽみち」での「パン屋」→「和菓子屋」:パン屋には家族連れが頻度高く見かけるが、和菓子屋では大抵は数人あるいは誰もいないことも多い。いても年配の人が多い。それにパンは朝・昼の食事になっているが、和菓子は間食でしかない。今度の教科書修正に疑問を抱く人が多ければパン屋の売り上げが伸びたりするかも。
 「アスレチック公園」→「和楽器店」:そのうちに、音楽バンドの構成には必ず和楽器を一つ以上は入れることなんて沈黙の通達が発せられたりするかも。そして街の和楽器店訪問の授業が増えるかも。・・・妄想は膨らむ。

2017年3月24日金曜日

雑記

 22日、たまにはいつもと違うところへ行ってみようと入間のアウトレットへ車を走らせた。大宮から川越を通り入間に向かうのは3-4年ぶりになろうか。R16を通って大宮方面に向かうのだって随分と久しぶり。
 往復ではずうっと衆参議院の証人喚問のラジオ中継を聞いていた。ダイジェストでニュースを見るよりは面白い。同じ質問が何度も繰り返し、なんかうわべ面の薄っぺらな感じがする。偽証罪を担保されて証言している人に対し、伝聞で誰誰はこう言っているという反論は的を射ていないのでは、と思う。言質を取ろうとしているのは分かるけれど、結局は言った言わないのレベルに近く、衝撃的な物証でも出ない限り、寄付・講演料云々は奥歯に物が挟まったまま時間が経過していく感が強い。国有地払下げ価格の疑惑も似たようなものか。
 その後、自宅でテレビを見ても、繰り返しながされる同じ内容のニュース、評論家と称される人たちの推測などにも倦きてくるし辟易してしまい、たまっている録画を見ることになる。

 24日、SWD-HA10を衝動買いしたことに伴ってまたもやオーディオのレイアウトを小変更。HA10で全ソースからのバランス出力でのヘッドホーン利用が可能になり、バランス出力対応のヘッドホンアンプもHA10とHDVA600の2台になり、ちょっと贅沢な遊びになってしまっている。オーディオ機器の組み合わせはラインセレクターとスピーカーセレクターを介在させているし、複雑になっているので手許に置いておくブロック線図(単なる機器のレイアウトと結線図だが)で確認しないと音が出ないときがある。

 ベッドで本を読むとき、ごく小さな音量でBGMを流すためにSonyの可愛い小さなSRS-X11を数週間前に購入。枕の上のライトにぶら下げ、スマホからのブルートゥース接続で音楽を流している。もちろん流す音楽は聴き入るものではなく、エリック=サティが説く“家具の音楽”的なもの。

 テレビをつければ森友学園や首相夫人のものが多く、ふと思えば「忖度」という言葉が随分となじみある言葉になっただろうと思う。新聞の見出しにもなった「事実は小説よりも奇なり」も流布し、もしかしたら今後の大学や高校の入試問題に恰好な気もする。「忖度」を使って文章を作れとか、「事実は小説より奇なり」を説明せよ、とか等々。

2017年3月20日月曜日

飲み会とチューリップ

 3/17、御徒町にて3人で飲む。2軒目に、全国の日本酒を取り揃えた店に入ろうとするも、金曜日の夜の所為か、満席で50分待ちとなるとと聞いて諦める。結局ワンパターン的にカラオケ店に入り2時間を過ごす。17時から飲み始めて零時近くに帰宅。酒に弱くなった、多分。もし2軒目の店に入っていたら日本酒の美味に溺れて泥酔していたかもしれない。

 3/18、夕方から大宮ソニックシティーにてチューリップのコンサート。入場待ちで並んでいる人たちをみると多くは自分と同年代。45周年コンサートとあるのだから観る側も同じく45年の年月は経っている。彼らの歌は、大学学生時代の後半、就職して富山の総曲輪を歩いていた時代から始まる。主にクラシックを中心に音楽を楽しんでいた同期入社の友人にLPをあげた記憶がある。その友人も昨年、既に鬼籍に入っている。また、結婚前、相手は埼玉/川口でこっちは富山市にいたので、友人はオレたちを指して「心の旅」がテーマミュージックのようだと揶揄していたことが思い出される。
 コンサートは2部構成で、最初は知っている曲は2-3曲しかなく、財津和夫さんのトークもさして楽しめるものではなかったが、後半はヒット曲が続き、会場の盛り上がりは高まってきて、アンコールではほぼ全員と言っていいほどに皆立ち上がっていた。アンコールだけでも5曲ほど演奏された。
 ソニックシティの大ホールは縦長であり、機器のセッティングに原因があるのかもしれないが、籠っているようでいい音響とは感じなかった。前半のある曲では音が割れていた。
 15分間の休憩を挟んで合計3時間弱を過ごし、たまにはこのように生の演奏に出掛けるのも気分転換になるし楽しめる。いま、ある女性歌手のコンサートに行きたくなっている。

2017年3月12日日曜日

独り言

 今日(3/10)の朝、テレビの画面に現れた田母神俊雄氏、籠池泰典氏とちょっと見には似ているような。

 「最後だとわかっていたなら」(岩手日報社、3月11日)を読んだら涙が出た。この国に住み、この国を愛している人がたくさんいる。そしてその中で、悲しみに堪えている人が多勢いる。
 この地に生きていて、それぞれに愛し方が異なる、歩み方が異なる、何一つ同じものなんてない。でも同じ方向を向きながら、それらの違いで傷つけ合う。・・・ヤマアラシのジレンマ。

2017年3月9日木曜日

ミステリー1冊

 瑞穂の國記念小學院を巡るニュース、ワイドショー、週刊誌などが連日騒々しい。ついついテレビを見てしまうのだが、さすがに何回か繰り返される報道を見てはバカバカしくなりチャンネルを変える。国有地の売却に関する不透明さ、予算委員会の政府・官僚の不誠実な強弁、厚顔無恥さ、等々やりとりは言葉遊びとも思える。面倒な人が非常識な言動を発し、そこにまた面倒な人たちが奇妙な言説を並べる。加計学園も新たに出てきて、混迷は深まるばかり。どうなることやら、まだまだ笑劇は続き、嗤って観劇することになるのであろう。
 事実は小説より奇なりであり、現実には小説を陵いで魑魅魍魎が跋扈している。

 <竹本健治 『涙香迷宮』(講談社、2016年)>:竹本健治の小説は20代の頃に2冊読んだだけである。定期購読していた『幻影城』で『匣の中の失楽』を知って読み、続けてへぼ将棋に凝っていた頃に『将棋殺人事件』を読んだ。読書感想をメモし始める1982年以前の事で、感想などを記したものはない。3冊目となるこの『涙香迷宮』は、「このミス2017年版」の国内編で第1位となっていることを覚えていて書店で衝動買いした。
 黒岩涙香を真ん中に立て、その周囲にいろは歌、連珠などの暗号を複雑に敷き詰める。言葉に使われる文字を重複されることなく全て使用し、意味のある文章を作ることを完全パングラムというとのことで、この本には50の完全パングラムが出てくる。しかもその全てが繋がっており、これを創り出した作者にはただ敬服するばかりである。凄いとしか言いようがない。暗号ミステリーではあるが、なかで発生する殺人はこの高度な言葉遊びを披露するための道具立てでしかない。殺人を解き明かすことを主眼にしたミステリーではなく、暗号を複雑に構成し、それを殺人に引っかけて暗号を解き明かすものである。読むのに少々疲れた。正直なところトリックが複雑に絡められたいわゆる本格探偵小説とか、暗号パズルのミステリーには自分は入り込めない。
 最後に問題提起される涙香と幸徳秋水の謎は解き明かされないままに終わる。なんとも隔靴掻痒のようなもどかしさが残るが、自分なりの答を持つしかない。もちろん、それが正答なのかどうかは分からない。

2017年3月4日土曜日

幾冊かの本

 <中島義道 『差別感情の哲学』(講談社、2009年)>:被差別部落・障害者・在日・性・LGBTなどを対象に多様な差別が存在する。そして差別をすることへの抑制・禁止がある。しかし、差別はなくならないと思っている。あらゆる差別に対し、差別する側もされる側も本質的には人を差別する(してしまう)ことは不可避と思っている。言いかえれば立場を変えればどんな人も人を差別する(してしまう)ことに陥ってしまうと考えている。ここでいう差別は何も態度あるいは言葉として発する差別だけではなく、表には出さずとも心の中で抱いてしまう感情をも含んでいる。差別のない社会は実現不可能である。また、一切の差別感情を抱かない人もいないと思う。そして、「差別」に関する本が何冊か手許にある。順番として先ずはこの本を読んで頭を整理し、範囲を狭めた本に進もうと思う。
 そもそも差別する感情は何から生じてしまうのか、そのヒントを得ようとこの本を持ち出した。組織的に、法的に、社会体制をどうすればいいのか、などとは考えていない。あくまでも差別感情の本質に近づき、自分がどう向き合うのかが課題である。本文にもあるように人間は平等だとか、基本的人権などとそれらを眼前にぶら下げるのはきれい事としか思えない。運動会で順位を争わないとか、学校の成績を柔らかに3区分に表現するとか、努力すれば報われるとかそんなきれい事を塗り重ねても、厚化粧はいつか剥がれるが如く、きれい事も削ぎ落ちる。
 人びとのあらゆる行動には必ず差異(優劣)が生じる。勉強しても運動しても差異は生じるし、そもそも努力する能力にも差異はある。生まれながらの差異もある。個々の人間はその差異によって生じる(生じた)差別に晒される宿命にあるし、差別してしまう感情を完全に消滅はできない(多分差別感情のまったくない人間はつまらない人間であろう)。差異が生じれば上下関係(権力)もできる。その差異構造の本質を見えないように努力しても見かけ上の結果にしか結びつかない。いじめもなくならないし、いじめ対策もいつも空疎な言葉しか発せられない。
 そのような中で、巻末の言葉は大切にしたい-「”差別したい自分”と”差別したくない自分”とのせめぎ合いを正確に測定」し、「”差別したい自分”の声に絶えず耳を傾け、その心を切り開き、抉り出す不断の努力をすること」。

 <奈良 人権・部落解放研究所編 『日本歴史の中の被差別民』(新人物文庫、2010年)>:部落史を扱う。関心は部落発生を歴史的に知ろうとすることにある。ケガレの意味や部落囲い込みの発生経緯が述べられる。部落史がどのように学術的に取り扱われてきたのかなどには関心が低い。異なる者に抱く人間の感情、集団の発生から惣村、太閤検地による体制への組み込み、人の動きと都市化、などなどが論述される。異人論の二面性(恐れと幸運をもたらす)はどの民族にも社会にもあるとされるが、日本文化における霊魂についてはよく理解できない。霊魂・言霊・祭祀・信仰・鬼神・信仰・宗教・・・苦手な分野である。

 <安彦良和 『ヤマトタケル4』(講談社、2017年)>:伊勢湾を通って火が放たれる草薙の場面に入った。

 <三上延 『ビブリア古書堂の事件手帖⑥』(メディアワークス文庫、2017年)>:最終巻はシェークスピアの稀覯本が題材。まま面白かった。ただ、登場人物の描き方がどうも中途半端で描き切れていない。また、3冊のうち本物はどれかという仕掛けは途中で推測でき、稀覯本に対する展開は面白いけれど、ミステリーとして読むには物足りない。
 アニメと実写で映画化されるらしい。以前にもテレビでドラマ化されたが、その際は古書店の広すぎる店内などに違和感を覚え、また栞子さんが剛力彩芽という嫌いな女優であって興味が削がれた。透き通る肌で長髪の内向的な美人、小柄でスリムだが巨乳という彼女にどのようにキャスティングするのだろうか、少なくとも表紙に描かれるような女優は思いつかない-そもそも若い女優を知らない。
 シリーズは終わったけれど、あとがきにスピンオフ版は出ると書かれている。