2018年9月26日水曜日

桜、桜、桜

 ”日本/日本人と桜の関係性”を読みたかったので、書名に「桜」のつく本をまとめて3冊読んだ。

 <佐藤俊樹 『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ起源への旅-』(岩波新書、2005年)>:桜の語源は動詞サク(咲く)に名詞をつくる接尾語ラがついたもの。本書ではサ+クラが紹介されている。サは神霊を表し、クラは「座」の意であったとするが、そのような意味をもつサは古く認められず、信じがたいとする辞典がある。さほどの根拠なくサク+ラを採りたい。
 『万葉集』では桜よりも梅の地位が高く、『古今和歌集』で桜が上になり、平安貴族たちは桜のあでやかさを愛で、散るのを惜しんだ。短期間で廃止されたが、吉野には吉野宮があり、天平年間には維持管理のために吉野監が置かれており、その時代に桜が神木となり、植樹された(という説もある)吉野山は桜の名所となった。現代は春の観光地になっているが、幕末から明治期には名所吉野山の桜はすっかり衰微していたらしい。
 ソメイヨシノは江戸末期に染井村(現東京都駒込)でつくられたサクラで-初めて知った-、日本の桜の、少なくとも7~8割はソメイヨシノといわれている。その特徴は葉が出る前に花が咲きそろい、群れて咲き、短命。ソメイヨシノが各地へ広がる前は多種類の花を植えて楽しむ習慣があったが(向島百花園が例となるヵ)、集中して一面に咲くソメイヨシがその美しさに伴って各地へと普及した。幕末から明治にかけて新しい時代に移り、ソメイヨシノが広がりつつある東京に日本の中心が遷り、やがて靖国の桜が広汎な意味で日本の原点となる。明治維新は何かにつけて維(これ)新たなりとなっており、幕府が続いていたら桜はどう受け止められているだろうとふと思ってしまう。
 日本各地に普及したソメイヨシノは桜の代表格として存在し、一般的に多くの日本人は古くからずっとこの桜を見続けてきたと思い込んでいる。そして、そこに日本人の精神と伝統を関係づけ、桜に意味を持たせるようになった。靖国神社の境内にソメイヨシノの森が現れるのは明治24年頃で、脱亜入欧に走ってきた日本が「日本らしさ」や「日本の伝統」を求めるようになり、日本国民統合の象徴に桜がおかれたとするのはわかりやすい。ソメイヨシノは別名「吉野桜」。吉野の桜は平安時代から和歌に歌われた伝統のある地で、大日本帝国憲法に続く律令国家を立ち上げた天武朝の聖地、天皇親征をめざした後醍醐天皇ゆかりの地、・・・つまり「吉野桜」は明治国家の正統性を象徴する、だから靖国に植えられたのか、・・・桜は日本ナショナリティの象徴、・・・むむ、なるほどと頷く。
 大正期にはいってソメイヨシノは大々的に植樹されるようになった。桜は美しいが、桜に意味を抱かせること、桜を思想を含ませて記号化する。それにはやはり馴染めない。桜は美しいが、川に花びらを浮かべて流れる様や、路に広がる落花には美しさを感じない。そもそも散る華=散華の増幅された美化表現に抵抗感を覚える。
 以上は、『桜が創った「日本」』のみならず、次の辞典をも参照あるいは引用した:『語源辞典』(講談社、2008年)・『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、2011年)・『日本語 語感の辞典』(岩波書店、2010年)。

 <水原紫苑 『桜は本当に美しいのか 欲望が生んだ文化装置』(平凡社新書、2014年)>:「桜」は美しいと思う。高校1年の春に鶴ヶ城で眺めた桜は、近くにいた女子高校生とともに眩しかった。20歳ころまでの間に読んだ梶井基次郎『櫻の樹の下には』、坂口安吾『桜の森の満開の下』は記憶の隅にへばりついている。一方、「桜」に繋がる「散華」-死と結びつく「散華」-に抵抗感を抱いたのもその時期である。「桜」は美しいが、「桜」に思想を持たせるのは好きではない、嫌いである。
 本居宣長にしても、「普通に読めば駄作の山であるというのが定説になっている」歌を多く詠み、その動機も「歌を知るには歌を詠むしかない、それゆえに歌を詠んだだけ」なのに、「上田秋成が痛烈に辛辣に批判し」た「しき嶋のやまとこころを人とはは朝日ににほふ山さくら花」から最初の特攻隊に「敷島隊」・「大和隊」・「朝日隊」と命名されるには無理がある。「ねがはくは花の下にて春しなむそのきさらぎのもち月の頃」と読んだ桜狂いの西行は「自分のみが知る吉野の山深い梢の花を求め」、「花見の群れを嫌」っていた。・・・群れて一斉に咲く桜に、集団の統一的志向性を見、そこに共同体の象徴性を転写することはキモチ悪いし、ぱっと咲いてぱっと散るなかに命を捨てる潔さを重ねるのは寒寒しい。
 本書に出てくる歌人加藤治郎氏は、自分が働いていた某社に勤めていた人で、たしかこっちが開発設計していた製品の営業部門に属していた。発売記念の小パーティーで一緒になったことがあり、何かの賞を受賞して日も浅かったこともあって、上司より歌人と紹介され、照れていたような覚えがある。随分と前のことである。

 <V・オフチンニコフ 『一枝の桜 日本人とはなにか』(中公文庫、2010年、初刊1971年)>:ロシア人の日本人観察記で、47年前の初刊時はベストセラーだったとのこと。日常的に接している日本人個々の仕草や集団生活も、海の外から来た人が眺めると、なるほどそう見るのかと改めて気づかされることも多い。しかしながら、大事なことは、そのような本を読んで納得を得るのではなく、自分の感性や想像をもって日本とは、日本人とはと思考するものではないだろうか。外国が日本をどう見ているのかを気にし、その逆に日本って素晴らしいと内側から礼賛するのは同根から芽を出している依存性という枝葉であろう。
 「一枝の桜」がなにを表象させて書名となっているのかわからない。日本人にとって「桜」が何なのかに触れていないし、「一枝」と修飾している意味が何なのかもわからない。
 この日本人観察記の欠点は天皇、天皇制への言及がほとんどないこと。本通りを避けて迂回しては本通りの賑わいや廃れ具合のなかを歩けないだろうに。

2018年9月25日火曜日

The Lock Artist

 <スティーヴ・ハミルトン 『解錠師』(ハヤカワ文庫、2012年)>:原題はThe Lock Artist。2011年のアメリカ探偵作家クラブのエドガー賞最優秀長編賞、英国推理作家協会のイアン・フレミング・スティール・ダガー賞、バリー賞最優長篇賞、2010年全米図書館協会アレックス賞(ヤングアダルト世代に読ませたいとする賞)、2012年のこのミスベストテン1位、週刊文春ミステリーベスト1位。
 不幸な出来事から言葉を発することのなくなった少年が解錠に駆り出され犯罪を犯して刑務所に入る。10年後27歳の主人公が、17歳のまだ犯罪に手を染める前の年と、その翌年の解錠をする年とを交互に描写する。550頁を越える小説であって一気読みとはいかなかったが、頁を捲るのが楽しみな「サスペンスと青春小説のほどよい融合」(訳者あとがき)の小説であった。

 ラグビー、2戦目は早稲田vs成蹊大。現地には行かずにPC-TV接続でのオン・デマンド観戦。時間が自由で11月末まで好きなときに何度も見ることが出来るのは便利。月1800円のラグビー限定であり安価と言えるだろう。早稲田のみならず他大学の試合も早送りを混ぜて観たがやはり帝京は強い。東海はまだ出来上っていないし、失点が多い。少し応援している法政は専修に負けた、このままでは大学選手権出場は危うい。
 さて、早稲田は99-5と勝つには勝ったがすっきりしない。成蹊に取られたトライは簡単に穴の空いた所をつかれたし、何よりもペナルティやハンドリングエラーの多さが気になる。バック陣は層が厚くなっていると思う。スタメンに名を連ねる競争が激しい。

2018年9月12日水曜日

無題

 急に涼しくなった。もうこれで秋に向かうのだろうか。
 早稲田vs筑波大のゲームを再度見ると矢張り前季からは大きく変化していると感じる。スクラムは大きく改善して欲しい。

 <青山透子 『日航123便墜落 遺物は真相を語る』(河出書房新社、2018年)>:1985年(昭和60年)8月12日、羽田発伊丹行日航ボーイング機123便が墜落した。公的にはボーイング社の不適切な修理が原因とされている。それは、後部圧力隔壁の破損 → 垂直尾翼と補助動力装置が破損、油圧操縦システムも全喪失 → 迷走飛行 → 墜落であって、乗員乗客合わせて524名中、520名が死亡した。単独機での史上最悪の航空事故である。(以上はWikipediaより要約。)
 事故ではなく事件と呼称する人もおり、様々な疑問・疑惑が投げかけられている。例えば、ファントム2機の追尾、赤い物体、目撃証言への解明回避、墜落場所不明報道にかかわらず自衛隊車両や機動隊車輌の集結、航空機検査長の自殺への疑問、ジェット燃料ではなくベンゼンが含まれる大量のガソリン使用の痕跡、事故調査報告書の論拠となる生データの非開示、ボイスレコーダー・フライトレコーダーの非開示、炭化している遺体、尾翼が回収されない、任意で提供された検死現場のビデオが所有者に返却されず且つその理由が不明確で文書回答も拒否されている、機長だけの制服が行方不明、等々である。
 ヒステリック、エキセントリックな陰謀説もあるが、それは無視するとしても、本書は記述内容への根拠も明らかにしており、真摯に事故(事件)に向き合っている。
 恐らく半永久的に全てが事故(事件)が透明になり可視化されることはないであろう。謎のままに放置され続けるだろう。そして、真相に少しでも関わった人は沈黙を守り続け、記憶から消し去ろうと努め、いつかこの現実から消え去っていく。

2018年9月10日月曜日

テニス-大坂なおみさん、ラグビー-早稲田

 大好きな大坂なおみさんが全米オープンで優勝した。WOWWOWには入っていないので速報はPCにて確認し、後にハイライトを数分間見るだけ。
 4回戦で2セット目を落としたときだけが勝利に不安を抱いたが、準決勝に進んだときは優勝するのではないか、少なくとも錦織がジョコビッチに勝つ可能性よりも大坂さんが優勝する可能性の方がずっと高いと思った。S.ウィリアムスのネットプレーにも十分に対応できると思っていた。
 9日、朝起きてベッドに入ったままスマホで確認したら優勝していた。もう嬉しくてしょうがない。彼女のファンになったのは、まだランク150位あたりにいた3年前。彼女はそのときの目標は100位以内に入ることと言っていた。それからずっと注目して見ていて、今年は68位からスタートし、ベスト10にはまだまだ遠いと思っていたら、3月にインディアンウェルズ・マスターズで優勝。その後パッとしない状態が続いたが今回の全米オープンの試合は素晴らしかった。ハイライトを何度も見た。PCのスクリーン・セーバーにも写真を追加した。
 一方、錦織も準決勝に進んだけれど、対戦相手は連敗を重ねているジョコビッチで勝利は難しいと思っていたらやはり負けてしまった。ジョコビッチは優勝。ナダルやジョコビッチは、特にナダルは次元の違う安定した強さだと思う(全米準決勝途中棄権のアクシデントが長引かなければ良いが)。

 9日のこの日、車を走らせ三郷の市営陸上競技場-セナリオハウスフィールド三郷に行った。目的はこの日に開幕した関東大学ラグビーの早稲田vs筑波の観戦。家から50数分で草いきれのする駐車場に車を駐め、少し歩くと陸上競技場。観戦は無料。今年6月にオープンしたばかりで大型映像装置が目立つ。日除けのある観覧席に座るが、観覧席は通常想像するスタンド席ではなく、フィールドから数段の階段状のもの。しかも目の前にはポールが立っている。いままで幾つかの地方都市陸上競技場で観戦をしているが、観戦コンディションがこんなに悪かったことはない。今後ここで早稲田が戦うことがあっても、自宅から近いといえども、二度と行かない。
 春に早稲田は筑波に負けているので、選手のレベルが今とは違うとはいえ、まずは勝つことであって、勝っても春のスコア(21-38)が引っ繰り返るくらいかと漠然と思っていた。キックオフ早々に古賀がトライして前半は17-3。スコアはパッとしないがFWDの動きは良く、デフェンスが強い。後半は1T取られたものの38-7、トータル55-10(8T6G1PG-1T1G1PG)で快勝。早稲田のトライはすべてバック陣で3Tの古賀がマン・オブ・ザ・マッチ。風が強いせいもあろうが、斎藤のゴールキックは6/8、それでも何度かの難しい位置からも綺麗に決めていた。不満は、これも風の影響があろうが岸岡のキックの精度が低く、ハイパントも深いと思ったことが何度かあった。あとはラインアウトの精度をもっと高めて欲しいこと、スクラムが筑波に劣勢だったことで、コラプシングも複数回取られたようだった。でも、初戦の筑波戦でこの快勝は次戦からの期待が膨らむ。少なくとも昨年までの弱さからは脱却しているとの印象を得た。
試合終了後に駐車場から出る車の混雑が予想されたので後半36分には競技場を離れた。その時の早稲田の得点は48、従ってノーサイド直前の桑山(淳)のタックルから中野の70独走トライのシーンは生では見られなかった。
 次戦は府中西、その次は足利、さらに前橋と続くがいずれも遠い。自宅で観戦する。昨年と同様にJ-sportsラグビー・パックのオンデマンドを購入した(1800円/月)。この日の早稲田vs筑波戦も帰宅後すぐにPCで振り返った。
視点が低いし、ポールが邪魔。
歩道からの観戦もある。カメラの櫓が目立つ。
道路ではいつもの旗振り。

2018年9月6日木曜日

行ってみたい時代?

 「行ってみたい時代」にてアンケート結果が掲載されている(朝日新聞、2018年8月25日)。第1位から20位までがリストアップされ、そこに敗戦後の時代がなかったことに意外感を抱いた。20位に続くとしてやっと”占領・復興期(1945~50年代半ば)”が補足的に記述されている。
 第1位が”高度成長期(1855~73年)”(311人/1282人)、第2位が”バブル期(1987年~91年)”(300人/同)でその次は”平安時代”だから平穏な繁栄した時代を懐かしむor憧憬を抱くのかもしれない。そして”幕末(1853~68年)”、”江戸後期(18世紀初頭~1853年)と続く。
 自分が”占領・復興期(1945~50年代半ば)”に行ってみたいと思うのは、一つに混沌の中にこそ最も未来への展望の礎を築く可能性が高かったのではないかと思い、一つに価値観をドラスティックに変化させられる時代であったと思うからである。三つ目にそれらの可能性に気づくことなく大方は潰してしまったと思うからである。その結果がいまの懐旧的志向に対して繰り広げられる無駄な議論、腐敗した権力構造、前近代的な格差・差別、無責任体制・社会、等々に繋がっていると思う、譬えれば「東京五輪学生ボランティア応援団」に書かれているような。

 <中村文則 『A』(河出書房新社、2014年)>:全く楽しめなかった。社会に棲息する普通人が内面に潜めている異常性を顕すとこうなってしまうのか、と。

2018年9月1日土曜日

雑記

 <待鳥聡史 『代議制民主主義 「民意」と「政治家」を問い直す』(中公新書、2015年)>:代議制民主主義の基本概要をある程度は理解しておこうと頁を開いた。歴史の記述や国別による比較は軽く流し、日本の制度や課題を中心に読む。選挙制度、多数決決議に不完全さがあるのは当たり前であって、そもそも民主主義を絶対視することにも懐疑的であり、「代議制民主主義の具体的なあり方に「正解」は存在しない」のであって、結局のところは議会制度の中枢にいる、人格性と置き換えてもよい個々人の問題に行き着くと思う。

 <フェランデズ/カミュ 『バンド・デシネ異邦人』(彩流社、2018年)>:カミュ『異邦人』、高校時代か20歳くらいに読んだ記憶がある。『ペスト』も新潮文庫のシルバー色カバーを覚えている(間違っているかも知れないが)。読んでどうだったのかは全く記憶になく、ただ文学に触れるときの必須小説だとの流れに入って、おそらくは理解も出来ずに活字を追い、頁を捲っていたのだろう。しかし、自分が世の中を眺めるときの視座というか理解方法というか、些少は影響を及ぼされていると思う。なぜなら今このマンガ版に眼を通すと違和感なく頭に入ってくるから。「不条理」などとあえて肩肘張らずとも、この世の中の人間が、あるいは総ゆる命が生まれて消えるその流れに「条理」で説明できるものなどありはしないと思う。あるとすれば「不条理」と説明するその「条理」だけという、その感覚が離れない。

 本に書かれている内容の取捨選択、精読すべき箇所と棄てる箇所をはっきりさせるように読書方法を変えた。それによって本を読むスピードがあがっている。振り返りのために要点を整理し、エクセルにまとめることだけは省かないようにしているから、学術書的な本は2度読みになる。これは佐藤優の著作から多くのヒントを得ている。

 今日は午後から新宿に出かけ、友人たちと飲む。猛暑から気温が低くなっていることがありがたい。酩酊、泥酔、電車乗り越しに注意せねば。