2020年12月31日木曜日

イケール自作、「靖国」関連の読書

 テレビスタンドを介して置かれるテレビはどうしてもキャビネットの内側に置かれる。買い換える前のテレビは重量もありそれでやむなしとしていた。しかし、新規購入のテレビの画面はキャビネット前面と同じか少し前に張り出して設置したく、イケールを自作して壁掛けのようにした。イケールは絶対に倒れないようにせねばならず、かといってキャビネットに固定すると自由度がなくなるのでよくない。要は固定せずに前後左右にテレビごと可動とし、しかし前後に倒れることのないようにし、当然費用を抑える。幾つかのパターンを作り、結局は単純なイケールに落ち着いた。構想図を描いているときが一番楽しい。 
 ホームセンターで木板を選び、カットもそこでしてもらい、あとは自宅で3枚の板を組み立てる。イケール前面に純正の壁掛けアタッチメントを取り付け、テレビを設置。 
 一点のミスもなく全てが構想通りに完成したときは快感を覚えた。 

 「靖国」関連の本を読み続けた。「靖国」を研究しようということではない。「靖国」に対する自分の捉え方、考え方などをキチンと構築しておきたいがためである。それは歴史を通してこの国の姿を自分なりに考えておきたいということである。今回は前の2冊(古川・早瀬の著書)に加えて積ん読状態下の「靖国」関連の本を読み続けた。 
 <島田裕巳 『靖国神社』(幻冬舎新書、2014年)>、<赤澤史朗 『靖国神社 「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』(岩波現代文庫、2017年/初刊2005年改訂)>。 
 <山中恒 『「靖国神社」問答』(小学館文庫、2015年/2003年刊行の改題と加筆改稿)>:原著は『すっきりわかる「靖国神社」問題』。 
 <内田雅敏 『靖国参拝の何が問題か』(平凡社新書、2014年)>。 
 <小島毅 『増補 靖国史観 日本思想を読み直す』(ちくま学芸文庫、2014年)>:第1章~第3章は以前に読んだ『靖国史観 幕末維新という深淵』(2007年、ちくま新書)と同一内容で、第4章が本書で加えられている。 
 「靖国」はなくならないで消化不良のままに存在し続け、「靖国問題」の現象は繰り返されるであろう。日本人自らが戦争責任を追及することなく今に至っていることが「靖国問題」に象徴されていると考える。戦争責任の追及とはもちろんかの明治維新まで遡り、水戸学まで入り込み、さらには日本人の総体的歴史、古代史までも立ち入ってしまうこととなる-もしかしたら神代史までも-。とてもとてもそこまでは風呂敷を広げられない。 
 上記の本や、その直前に読んだ本についてはいつものように要点をまとめておこうと思っているが、なかなか進まずにいて再度机の上に積んだままになってセルフ・プレッシャーになっている。

2020年12月24日木曜日

テレビ買い換え

 テレビを買い換え。液晶にするか有機ELにするか迷ったが、店員さんのアドバイスも受けて液晶にした。一番のポイントは、我が家の視聴対象では有機ELのメリットが殆どないということ。 
 前のテレビは2013年製で今回は2020年製、メーカーは同じ。7年間の経過で画質も音質も向上しており、一方、価格と重量は随分と下がっている。 
 設置・配線に数時間を要し、来月になれば壁掛け用アタッチメントが届くので再び作業をおこないそれで完了。2台目のテレビとして欲しいというので、古いテレビは息子に譲渡。多分彼専用のテレビとするのだろう。 

 今月は読書のペースがなかなか上がらない、上げられない。

2020年12月20日日曜日

大学ラグビーなど

 ラグビー大学選手権、早稲田vs慶応戦のライブをテレビ観戦。出だしは良かったが後半はミスが多く1トライのみ。勝つには勝ったが後半のミスは次戦以降に不安が残る。
 明治と戦った日大は出だしの良さを継続できなかった。東海大vs帝京、東海大はもうちょっと頑張れると思ったが、コロナ・ウィルス感染で練習不足なのかも。天理は流経に12Tで完勝し次の明治戦がどういう展開になるのか関心が強くなった。
  1月2日は箱根駅伝と併せてテレビに釘付けとなる。併せて一日中飲みっぱなしとなるであろう。

 近くの酒店には置いてないのでネットで一升瓶を2本購入(焼酎と日本酒)。「情ケ嶋」と「住吉 銀 +7」、両方とも久しぶりに飲むことになる。次は住吉と同じ樽平酒造の粕取り焼酎になるか。

2020年12月14日月曜日

積読

 購入して一度はさらっと目を通し、あとは未読のままになっている本が数百冊あり、いつかは読むと目を通せる場所に並べてあるが、読まねばならぬとの些かの強迫観念もあるにはある。それらの本はエクセル上で分類してDB化し、一冊読むごとにそのリストを眺め、次は何を読もうかと自分をある方向に向かわせることも常態化している。それでも新聞の書評や出版社の広告を見ると新たに購入する欲求を抑えられないこともある。先日もミステリーを4冊購入した(してしまった)。 
 いつのことからなのか定かではないが、本は欲しいと思うときがその本にとっては旬の時であると思っている。また、ある作家が先輩作家に次のようなことを言われたらしい、すなわち、本は欲しいと思ったらたとえ読む時間が取れないと思っても買ってしまいなさい、それらの本を欲しいと思うときは、自分が何を思っていたのか、自分を取り巻く世界に何を感じ取っていたのかを示すものだから、だから迷わず買ってしまいなさい、と。いい言葉だと思っている。 

 『朝日新聞』(2020年12月12日)に我が意を得たと共感する記事が載っていた。それらは 「主体的「積読」、足場になる」(永田希)とタイトルされた記事。引用文を繋げて次のように解釈する。 

 「少し主体的に本にかかわる方策はないか、と考え」た。その「キーワードは「積読」」である。「書物は「読まれるために在る」と同時に「保存され保管される」特質もあり」、たとえ「読まれなくても中身が変わるわけではない」。但し、積読は「「自分で積む」ことが条件で」ある。 
 「出版システムが勝手につくる「他律的な積読環境」の息苦しさに抗するには、その中に自分だけの「自律的な積読環境」をつくることが有効なのではないか」、と筆者(永田)は考えており、「「自律的な積読環境」を」、「「ビオトープ」(小さな生態系のある場所)」に例え」、それは「少しずつ手入れし、新陳代謝しつつサステイナブル(持続可能)になるイメージ」であるという。 
 「「積読」するために本を買って並べる」、「その方法は自分で決め」る。「積読の蔵書が増えてくると、パラパラめくったり、背表紙を眺めたりしているうちに、本と本の関係が見えてきたり、読んでみたいタイミングが自然に訪れたり」する。「自分の興味と時間軸でつくった本棚を足場にすれば「自己」の輪郭が見えてくる。時折点検し、興味を失った本は古書店に回すなど更新し、環境を持続させていく」。 
 「悪書に駆逐されても生き残っていく良書はある。それを探し求め」る。それには「「積読」のスキルが役に立つ」。思うに、そのスキルを身につけることが大事であって、端的に言えば、オレは何者なのだと、自分を見つめることが基軸なのであろう。

2020年12月13日日曜日

「このミス」のことなど、本2冊

 辻真先の『たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説』が『このミステリーがすごい! 2021年版』、「『週刊文春』ミステリーベスト10」、『ミステリが読みたい!』のいずれでもランキング1位となった。1932(昭和7)年生まれの御年88歳。素晴らしい。早速買い求めてきた。 
 また、「『半身棺桶』どころか、足から両脇の下あたりまで桶の中です。しかも、明らかに、毎日数センチずつ引きずり込まれている」(『このミステリーがすごい! 2021年版』)と書いている1929年生まれの皆川博子も現役であり、彼女は「もうデスノートに名前書かれているんだろうな。あと三年待ってくれないかな、死神さん」(同)とも記しているのは失礼ながらなんとも可愛い。ご両人のように、やるべきことに向かって年齢を重ねていきたいものではある。

 10日、1Fの掃除をやり、これでやっと今年の大掃除は終了。昔は朝8時頃から夜10時頃まで一気に実施したのだが、今は少しばかり手を抜いて1ヶ月余に渡り分断して行った。気力と体力と耐力の減退を強く感じてしまう。 

 <古川隆久 『建国神話の社会史』(中公選書、2020年)>:「建国神話」とは何か、それが近代日本でどのような意味を持ったのか、どういう経緯で重要視されたのか、そしてそれが近代社会に及ぼした影響を平易に論じている。神話と天皇、関連の本を幾つか読んでいるが、このような荒唐無稽な「神話」をなぜ信じるのかいまだに理解できない。しかし、その時代に生きていれば自分も何の疑いも持たずに軍国少年になり、敗戦に涙したのであろうか。 

 <早瀬利之 『靖国の杜の反省会 あの戦争の真実を知る11人の証言』(芙蓉書房出版、2013年)>:松井石根・杉山元・板垣征四郎・石原莞爾・野村吉三郎・米内光政・島田繁太郎・井上成美・東郷茂徳・迫水久常が靖国に蘇り、緒方竹虎の司会進行であの戦争の真実を語る。小説風に展開するつまらない一冊。彼らが語る、だから何なんだ、という視点がない。

2020年12月7日月曜日

ラグビー早明戦、早稲田完敗

 大学ラグビー関東対抗戦の早明戦、早稲田は勝つか引き分けで優勝だが、スコア以上に完敗。スクラム、L/O、接点、すべてにおいて劣勢で、簡単に言えばFWの差が大きかった。FW8人の重さで言えば互角だが力強さでは劣っていて、明治はやりたいことをほぼ完璧にやれて早稲田はやりたいことをやれなかった。早稲田は明治の力を軽視していたとは思わないが、強さを想像していなかったのではあるまいか。 
 明治の帝京戦を見ていて、明治のメンバーには(早稲田に比較して)風格というのか大人っぽさを感じた。早明戦でもそうだが早稲田にはどこか幼さを感じ、明治にはそれよりも年長を感じる。特にNo8箸本主将にはそう思った。 
 早稲田のプレーでいい仕事をしていると印象に残ったのは村田・相良の両FL、FBの河瀬、No.8丸尾は得意のプレーに入ろうとしても明治のプレッシャーからスムーズに動けない。FWの立て直し、L/Oは対抗戦スタート時から精確さに欠けていたと思うので、オプションの追加がなければ選手権でも苦労すると思う。 
 次は大学選手権、順調にいけば初戦は慶応戦。19日まであと2週間もない。明治での敗戦からどう立て直すのか。コロナウィルスの渦中にある東海大学は練習再開を踏まえてスムーズに出場できるのだろうか。

2020年12月3日木曜日

ここ1週間、「特攻」創始者の本

 木曜日(11/26)、古本買取店2店に本を送付。合計81冊で新刊は多少あるが概して古い本が多いので大した値はつかない。 
 ついでに廃棄する本を整理。この作業は今後も継続。 

 土曜日(28日)、息子夫婦と自宅で飲む。スパークリング・ワイン3本にビール、それに焼酎。 

  12/1、屋外の掃除、ほぼ1年ぶりにケルヒャー高圧洗浄機を活躍させる。 今頃になってミズノのマスクカバーが当選した。折角だから数枚購入する。少々高価ではあるけれど。

  歯の被せ物が取れ、7~8年振り、否、10年振りくらいか、12/2に歯医者に行った。これでまた長期間に渡って通院することになる。 
 ある女性の歯科医さんは、どんないい男でも診療台に寝て口を開ければアホっぽくしか見えない、と言っていたが、この日の歯科衛生士さんはオレをどの程度アホっぽく感じたのだろうか。 

 <草柳大蔵 『特攻の思想 大西瀧治郎伝』(文春学藝ライブラリー、2020年/初刊1972年)>:神風特別攻撃隊の創始者である大西瀧治郎。「大死一番」が盛んに使われていた時代、その言葉も「忠死」も得心できない者にとって、大西の「特攻の思想」がどのようなものであったか、テキストに記述される内容を表面的には認識できても理解するには至らない、もちろん共感もしない。 
 「地上においておけばグラマンに叩かれる。空に舞いあがれば、なすところなく叩き落される。可哀想だよ。あまりにも可哀想だよ」と涙を流す大西の感情に抗する気持ちはない。しかし、それに続く「若ものをして美しく死なしめる、それが特攻なのだ。美しい死を与える、これは大慈悲というものですよ」に至っては理解の範囲を超えていて異次元の思考性としか思えない。 
 あの時代に生きた一人の軍人であるとして大西を否定はしない。嫌悪感を覚えるのは、特攻は実質的に「制度としての特攻」「組織としての特攻」であるのに、表面上は形ばかりの「志願制」をとり、統率する側の責任を消しさるような卑怯な環境を作り上げていたことである。現代にも相似するシステムを見つけるのは容易である。