2016年12月31日土曜日

MMCX改造、読書メモ

 イヤホン&ケーブルのMMCXコネクタ改造は大変だった。2時間くらいで完了するであろうと目論んだ作業は結局10時間近く要してしまった。まず部品が小さい、線が細い。だから半田付けに神経を使う。温度を高くし過ぎて変形させてしまう。カバーの接着が綺麗にならない。メス側のカバーは代用品であるのでキチンと収めるのに苦労する。やっとできたと思ったら間違って線を引っ張って断線させてしまう。コネクタのオスメスがかっちりと嵌まらない、等々、以前おこなった複雑な真空管アンプ組立の半田付けよりも難しい。何とか完成はしたがもう二度とやらない。

 今年読んだ最後の本をメモしておく。

 <米澤穂信 『真実の10m手前』(東京創元社、2015年)>:『王とサーカス』の太刀洗万智が核をなす短編集。2017年版『このミス』の3位、週刊文春の2位。どの小説も精巧に作られたピースを精緻な枠に当て嵌めていく精密機械のような感じがした。作者はまるで超精密工作機械のようであり、あるいはどの作品も優れたファインブランキングの工程を見ているようである。何気ないパーツが太刀洗万智の分析を通過すると貴重な高品質のパーツとなって全体を構成し、鮮やかに組み立てられる。主人公には怜悧で艶のある、磨かれたステンレスのような思いを抱いた。鋳物のような粗い理肌はない。

 <塩見鮮一郎 『中世の貧民』(文春文庫、2012年)>:サブタイトルは「説経師と廻国芸人」。土車に六根片端の男が乗っている。「この身を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」とされ、その男”をぐり”は関東荒れ地より熊野本宮に向かう。現代とオーバーラップしながら中世の”をぐり”の旅をトレースする。その途々で襤褸着をまとった者たちがあふれる。著者はこの障害者が当時のひとたちにどう理解されていたのかを確認しながら”をぐり”とともに現代の地を巡っていく。時空を何度も行き来するものだから、一体作者は何を追いかけ表現しようとしているのか自分には苦痛でもあり退屈でもあった。それは多分に自分が「説経節」や「安寿と厨子王」、「山椒大夫」などの物語の知識が皆無に等しく、また関心も薄いせいであろう。そしてこの新書に「貧民」なる言葉を付しているのに、著者は「貧民」をどう解釈しているのか当初は理解に迷うこともあった。
 案山子が障碍者の仕事であり、隷属民と賤民、穢多や非人の違いはいまさら新たに得る知識でもない。中世のあちらこちらに飛んでは戻り、現代の地理との照合は発散気味かつ複雑で、興味のない箇所は斜め読みもした。

 <米澤穂信 『さよなら妖精』(創元推理文庫、2006年)>:高校生時代の太刀洗万智がどのように描かれているのか、ただその点に興味があって手にした。取っつきにくさは彼女が極端に恥ずかしがり屋だから、となれば尚更に彼女は愛おしくはなるがどう接していいかわからない女性となる。「妖精」は旧ユーゴスラビアから来た少女で、『真実の10m手前』の「ナイフを失われた思いでの中に」に登場する男性の妹である。
 ここから脱線。オレは、高校時代は男子高校に通い、進学した大学では機械工学科で女性はおらず、勤務先では工作機械設計部門に所属し、庶務の女性が広いエリアに数人いただけである。そのような哀しき(!)境遇にいたのでこの小説のように高校生が男女一緒に会話をし、出掛け、飲んで、共通の思い出を持つということはオレには全く欠けている。何か大事なことを経験していないという欠落感を覚えるが、一方その反面、多感なときに女性の色香に惑わされこともなく、惰弱な性癖故に入り込んでしまうかもしれないアホな領域に踏み込まずに済んだという妙な安堵感(?)もある。まあ、下らん妄想みたいなものだが。

 <塩見鮮一郎 『江戸の貧民』(文春文庫、2012年)>:著者の『弾左衛門とその時代』『江戸の非人頭 車善七』を既読しているので、弾左衛門や車善七の人物には馴染み(?)がある。彼らを中心にして著者特有のパターンで現代と江戸の時空を行き来する。彼らは身分外の人々を差配して莫大な資産を作るのであるが、差配された側に視点を移せば、身分外になされる原因は、突き詰めれば単純であって食うに困るからである。貧困が引き継がれ、新たな貧困が作られ、貧困故に蔑視され、循環し続ける。そう思う。もちろんそこには宗教上の理由、死生観なども背景にある。
 江戸の不幸の四大記号はやもお、やもめ、みなしご、ひとり、であるとのこと。逆に言えばひとりではないことは幸いであると言える。人情篤き江戸の頃、家主や町役の人は救済の手を伸ばしたであろうが、現代では孤児以外は「自己責任」という名のもとであまり問題視させず、孤独死をしてニュースネタになっている。

 これで2016年は了。

2016年12月30日金曜日

今年の旅行

 家人とともに出掛けた今年の旅行は概して雨が降っていた日が多かった。
 1月25-26日/日光:冬の日光は初めて。旅館の食事の量の多さに吃驚。ここにいたらすぐにぶくぶくと太ってしまうであろう。
 5月27-29日/北陸・飛騨:富山市に住んでいたときは高山には何度も行ったが、今年訪れたところは昔とはあまり重複していない。白エビは期待に反して-期待していたからこそ余計に-美味しくなかった。
 6月20-23日/北海道道東:2009年に初めて北海道を旅行して以来、7回目の北海道。訪れていないのは増毛・留萌・羽幌・天塩のライン、旭川から士別・名寄・音威子府・音威子府、紋別から猿払の海岸線。一般の観光地からは外れているがドライブをしたい。
 知床の先端までの乗船観光は2回目でやっと望みが果たせ、天候も快晴であった。そのほか初めて訪れた地では何とか雨が大降りにならなかったが、過去に訪れた場所ではひどい雨となりバスか外へは出なかった。以前道東を訪れたときのガイドさんと再会。
 8月15-17日/山梨:娘家族と遊ぶ。初めて体験するガラス工芸、フィールドアドベンチャー、葡萄狩り等々、楽しかった。
 9月29-10月1日/倉敷・岡山城・姫路城・淡路島・大塚美術館・:白いうちに見たいと思っていた姫路城は圧巻。今までに見た城のなかでもその存在は圧巻。もう一つの目的であった大塚美術館も楽しめた。鳴門の若布は美味い。淡路島は修学旅行以来50年ぶり、海に眼鏡を落とした記憶だけがありそのほかは何も覚えていない。

 上記以外に家人は9月に友人と二人で那須に小旅行、11月には友人と三人で北海道。自分は7月に高校同窓会で千葉・茨城。夏に奥会津に行こうとするも目的の一つである地が道路崩壊で近づけず断念。来年は別ルートで行こうかと。

高校ラグビー、冩樂純米吟醸おりがらみ

 27日、全国高校ラグビー大会が開幕。3回戦あたりまでは全試合を観る時間的余裕はないが、注目の高校や選手などを絞ってはテレビ観戦をする。ラグビーマガジン付録を片手に観るのが年末年始の楽しみである。そしてここから来季早稲田ラグビーに入部する選手を確認するのも毎年のことである。
 さしたる理由もないのだが札幌山の手が1回戦で敗退するのは予想外で、黒沢尻工の完敗は残念。岡谷工と名護の1点差の試合は楽しめた。シード校登場で試合は引き締まってくるが東福岡はやはり圧倒的な強さ。高校代表候補4人(5人?)を抱える秋田工業が報徳に敗れたのはとても残念。日本航空石川と國學院栃木の試合も均衡していて楽しめた。あそこでノックオンをしなければ國栃は勝利したであろう、あそこでミスをしなければ日本航空は勝利を手中にしたであろうとタラレバをしたくなるが、ミスをした選手は悔いるであろう。特に抽選で退いた國栃のNo.8は肩を落としているかも知れない(5点を追いかける終盤に相手陣内ポール直近ラックからの球出しでノックオン)。

 NHK BSにて平尾さんの特集番組を見た。昔の試合も映し出されていたが、個々の選手の体躯の細さ、太ももの細さが印象に残った。今の高校ラガーには彼らより大きい体の選手がかなりいる。それに昔のフィールドコンディションはよくない。緑の芝生の色がない。かつて日本に来た英国のチームが、我々は土のうえでラグビーをする習慣はないと言って、提供された練習場を拒否したエピソードを思い出した。

 29日、久々に昼から飲む。予定では30日は飲まずに31日に飲んで、1日にも飲んで年末年始を過ごそうと思っている。
 この日は会津の“冩樂純米吟醸おりがらみ”で、会津から送られてきた3本のうちの1本。年齢のせいであろう量を飲めなくなってきたので半分くらいにしておこうかと思ったが、一口飲んでその美味たる世界に引きずりこまれ、結局四合瓶1本を短時間で空けてしまった。そして酔っ払って爆睡。31日は”会津娘純米大吟醸”、1日は”飛露喜純米大吟醸”を飲むつもり。鳴呼、素晴らしきかな酩酊の日々よ、となるであろう。

2016年12月26日月曜日

DAPエージング完了、MMCXコネクタ発注

 DAP NW-WM1A(イヤホンはCA NOVA CK 、ケーブルはSONY XBA-N3)の200時間エージング終了。更にアンバランスの方も(イヤホンはRHA MA750を接続して)同じく終了。合計400時間を費やした。
 RHAはケーブル交換ができないのでMMCXコネクタ接続へと改造することとした。改造するとSHURE SE215を加えたイヤホン3種に対し、ケーブル5本(4.4mmバランス、2.5mmLRバランス独立プラグ、3.5mmアンバランス3本)を入れ替えて音質・音場の変化を遊べる。持っているイヤホンはCAのものが突出して高価であるが果して自分の耳はどれくらい区別できるのであろうか、確認もしてみたい。

2016年12月24日土曜日

ここ1週間のメモ

 18日、イオン春日部・ヨーカドーへ。19日は南浦和。20日は市立医療センターへ腸内視鏡検査の結果を聞きに行く。横行結腸中央付近に2箇所のポリープで大きい方は3mm程度。1年後にまた内視鏡検査をするつもり。年に一度の腸内清掃はいいかも。21日は表参道へ。雑貨屋を中心に歩くも期待したものはなし。人が多く疲れる。一日おいて23日は東京国際フォーラムでの「ふくしま大交流フェア」を経由して新橋で飲む。翌24日、前日の疲れが残っている、若しくは帰宅後のウォッカが利いたのか、起きがけは少々の頭痛。短時間で治まったがやはり昔ほどには全てに関して耐力がなくなっている。
 新橋で飲んでいるとき入口直近に席を取ったが、ひっきりなしに開け閉めされるドアから冷気が入り寒い。許せないのがドアを閉めない客が多い。閉めてくれという口調が段々荒くなってきた。店員さんも開けっ放しで出入りする客たちに苦笑していた。ちょいと思うに、最近は自動開閉のドアが多いので閉める行為に思いが向けられないのであろう。文明の発達は人間の想像力を削いでいく。別の言い方をすれば、便利の裏には不便さがつきまとい、何かを得ようとすれば何かが棄てられる。即ち陽と陰は常にバランスを取る。

2016年12月18日日曜日

内視鏡検査、早稲田自滅敗北

 翌日の腸内視鏡検査のために14日は朝から食事制限。朝食は小粥に具なしの味噌汁とし、昼は指定されたセット品で鮭がゆと肉じゃが(ほんのちょっぴりしかない)、夕食は鶏肉シチューとクラッカー6枚だけ。腹二分程度の量しかないし、飲むものも水かお茶だけ。テレビで流れるCMや番組の食べ物がやたらと目に付く。毎日このような食事だったらダイエットもすぐにできるであろう。
 15日はいつもより早く起きて7時より下剤2リッターを2時間で飲む。飲み始めて30分後からトイレ通いで、3回目くらいからはもう薄い黄色の透明な液体と化し、落ち着くまでに6回トイレに入った。13時には車の運転を避けて徒歩で病院に向かい、14時から内視鏡挿入。痛くも何ともない。盲腸に到達する間近のカーブで若干の違和感を感じる程度で、医師が言うには年齢に比して柔らかい腸でスムーズであるとのこと。結局小さなポリープが数カ所あり、3mm程度のものはあるがまだ切除しなくともいいかな、どうかなというレベルで、生体検査もなかった。胃カメラは20歳ころから10回以上、腸内視鏡検査は23年前に3回やって今回で4回目。鈍感にできているのか、両者とも痛みも苦しみもなく済んでいて、何の抵抗もない。何はともあれ、今回の検査では何も異常はなさそうで安心した。正式には20日の再診で結果を聞かされる予定となっている。
 飲酒許可となるまでの3時間を待って、この日はビールと壱岐焼酎を飲んだ。

 17日、ラグビー大学選手権4試合。Jsportsでは早稲田のみが有料チャンネル中継放送となっているし、NHK BSでも早稲田戦中継はなし。出掛けた先で速報版を頻繁に確認するが、すぐに暗澹たる気分になり、それが最後まで続いた。がっかり。後半に5トライ取ったとしても後半最初まで連続6トライは余りにもひどすぎる。まるで対抗戦での帝京戦が思い出された。試合を見ていないので想像するだけだが、多分帝京戦と同様に受け身に回ってしまったのであろう。双方ではミス、自滅の文字が目についた。
 JRFUのメンバーとなっているので準決勝・決勝までのチケットはあるのだが、またもや紙切れと化してしまった(否、社会人-特にヤマハ・サントリーの試合でも見に行こうか)。早慶明のいずれも準決勝に進めず、これでは早明戦、早慶戦のあの熱い戦いも大学ラグビー中枢から外れた拗ね者のばか騒ぎのようになってしまうではないか。

 Jsports HPに「「花園」で活躍した選手は今、どこの大学? ~ラグビー大学選手権、出身高校まとめ~」のインフォグラフィックが載っている(http://www.jsports.co.jp/press/article/N2016120814063603.html)。HPから引用すると「大学選手権の3回戦に進んだ12校に所属している選手たちの出身高校と、今年度の花園に出場している51校との相関関係を調べて、インフォグラフィックで示してみた」もので、これを見ると帝京・明治・東海・流経などは多数入部し、早稲田・慶応はぐっと少なくなる。ついでに海外からの入学者も載せれば尚更に現在の大学ラグビー状況が判るであろう。

 兎にも角にも今季の早稲田ラグビーは終わった。またもや年越しはできず、早稲田ラグビーを見ながら箱根駅伝の中継を確認するという正月の至福の時間は迎えることができなくなった。1年生が多いので来季に期待しよう。来季主将は誰になるのかな?

2016年12月14日水曜日

ラグビー観戦、大掃除

 11日に慶応vs流経のラグビー観戦で秩父宮へ。それぞれ両校を応援する人たちが近くにいるが、こっちはどちらがトライをしても拍手をしたりしているので少し自らの場違いさを感じる。流経はNo.8がいいプレイをしたが、時々見られたSOの判断ミスがなければ勝てた試合と思った。最後の最後で慶応がトライ及びコンバージョンを決めてドローとなった。時間がなくなったところでの慶応SOのコンバージョンの時は早慶戦のキックミスを思い出したが今回はキチンと決めた。スクリーンには抽選の様子が映し出され、観客の多くがそちらを向いていた。慶応主将が最初のフィールドから退くときのじゃんけん、本抽選前の抽選、本抽選ともに勝って次戦に進んだ。大学選手権での抽選で慶応は強い。
 ハーフタイムでの花園での経過掲示はなし、試合終了後の結果もスクリーンには映されない。外に出ても、例年ならば全試合の結果や次戦の組み合わせが紙に張り出されていたと思うのだがそれがない。カンタベリーの店頭にも例年と違って何の掲示もない。結局、明治敗戦を知ったのは電車に乗ってからスマホでJRFUのHPにアクセスした時で、明治は負けるはずがないと思っていたために驚いた。これでベスト8に進んだのは関東対抗戦グループ3校(早稲田・慶応・帝京)、関西リーグ3校(天理・同志社・京産大)・関東リーグ2校(東海・大東大)でバランスが取れていると言えば取れているのであろう。明治が負けていなければ準決勝が対抗戦Gで占められるという自分の理想通りになる可能性もあったのに、残念。

 秩父宮からの帰途、上野広小路で下車して仲御徒町の大心堂に歩を進めて古代おこしを買い、それから再び広小路に戻ってみはしで豆かんとあんみつ、最後にがんこ亭で豆乳ばーむくーへん。それらを手にして帰宅。疲れた。年齢を感じる疲れ。
 帰宅して明治vs京産大の録画を観戦。京産大の喜びが大きく映し出されている。

 12日、大掃除4回目。意を決してこの日は浴室から1Fの全ての掃除を行った。掃除は徹底することにしているので、浴室内のユニットバスも取り外せるところは全て、パネルもドアも全て取り外して掃除。リビングなどの床も、掃除機-熱風での拭き掃除-オスモのワックスアンドクリーナー、と行う。気のせいではなかろう、部屋が明るくなる。屋内の大掃除はこれで完了。あとは外回りを残すだけ。

 13日、久々にアナログテープの音楽をデジタル化に変換。未デジタル化のテープが2本あってほったらかしにしていたがやっと終わった。SACDからのリッピングは法的にできないし、ソフトもハードも存在しないので、ハイブリッドになっていないSACD DiscはSACDドライブからアナログ出力し、それを再度ハイレゾモードでデジタル化をした。要はSONYのHDDプレーヤーに取り込むための作業。まあ、こうやって遊んでいるのが楽しい。LPからのデジタル化は進んでいないのでそろそろ再開しようかと思う。ゆっくりゆっくりと。

2016年12月13日火曜日

節酒、読書

 節酒をはじめて約3週間。飲酒日数率は30%台をキープしている。原則二日続けての飲酒はなしとしているが、大掃除を二日続けたときはその禁を一度破った。といっても以前とは大きく様変わりして飲むときの量はかなり減らしている。必然的に食べる量も減ってはいるが、まだ体重は計っていない。数値を見るのが(効果のないことを見るのが)コワイので、自分で減量してきたと実感するまでは待とうかと。

 飲酒量が減れば購入する酒も減る。その減った(減る)であろう金額でまとめて10冊ほど本を購入。宅配で届く本はひとまず区分してベッドの下の段ボールに収まっている。未読の書籍はジャンルを区分してリスト化しており、読むことを常に意識しようとしている。

 <勝目梓 『あしあと』(文春文庫、2016年初刊2014年)>:この著者の本(文庫本)は36冊も読んでいた。殆どは読書に倦きたときの気分転換や気晴らしといったところ。もちろん官能とバイオレンスという舞台を求めてのこと。これだけ読んだと言うことは著者にはストーリー展開と文章力があって楽しませてくれるからである。この『あしあと』は性愛に絡んだ短編物語ではあるけれど暴力はなく、淡淡と過ぎし日の、個々の主人公のあしあとをたどるが如く過去の性愛を振り返っている。好ましく思った作品は、戦争で死んだ筈の夫の弟と結婚をして生活をしているが、死んだ筈のそのかつての夫が帰還して情愛に苦しみ、情交を重ねるが相手は苦しみ自死してしまい、年老いて92歳になり老人ホームで暮らす主人公はその最初の夫との苦しい束の間の交わりだけを記憶しているという「ひとつだけ」。・・・勝目梓ももう84歳。読んでるこっちは67歳。

 <東野圭吾 『雪煙チェイス』(実業之日本社文庫、2016年)>:文庫書き下ろしで冬のスキー場シリーズ(?)の一冊。頭を空っぽにし、ほほいのほいと読んでしまった。ストーリー展開の巧さは相変わらずであるが途中で倦きてきた。活字は大きいし短時間で読んでしまい、記憶に残らない軽~いミステリー。

 <塩見鮮一郎 『戦後の貧民』(文春文庫、2015年)>:檻に入れられた裸の少年たちの写真が帯に描かれている。これが70年ほど前の敗戦の日本であることが衝撃的である。敗戦後に生まれた人びとももう70歳前後となり、敗戦後の記憶は薄らいでいくばかりと思われる。この本で述べられる敗戦直後の世相は自分にとっては直接的な体験ではないが、10代に見聞きした多くの記憶と重なる。傷痍軍人たちを上野で見かけたときは、その身体の不自由さと白衣の姿に何の言葉も発することができなかった。バタヤ部落のような一画は大学時代の高田馬場にあったし、アリの町もエリザベスサンダースホームもその存在は知っている。思えば敗戦直後の時代に興味があり、その時代に現れた作家の小説を大学時代によく読んでいた。
 戦後はみな貧しかったと一括りで語られることが多いけれど、売春せざるを得なかった女性たち、孤児となった少年少女たち、未亡人となった女性とその子どもたち、部落民の人たちなどの貧しさをも「みな貧しかった」と括ってしまうのは間違っているだろう。そこには政治の貧弱さだけではなく、日本という国のシステムの脆さ、GHQの非人道性、そして市井の人びとの差別などが貧しさを助長していたと思っている。著者は貧しさの現象を語るのではなく、その基底に横たわるものを見ようとする。著者の視座、例えば部落差別において「問題は部落民にあるのではなく、差別する市民の側にあるとわたしは思う」、この姿勢に共感する。
 この新書に触発され、積んだままになっている「貧民」や「差別」に関する本7冊を机の横に持ってきた。他の新刊本にあまり浮気せずにこれらを読もうと思っている。

 <山本亜季 『HUMANITAS ヒューマニタス』(小学館、2016年)>:Humanitas is a Latin noun meaning human nature, civilization and kindness.(Wikipediaより)。15世紀のメソアメリカの盲目剣士オセロット、旧ソ連のチェス王者ユーリ、イヌイットの鯨ハンター・エナと遭難で迷い込んだ英国人ウィリアム。生きることを探りながら死に、あるい駒を進め、あるいは齢を重ねる。3編のなかではエナに向き合うウィリアムの物語が最も深い。いい漫画である。次の作品が待たれる。

2016年12月9日金曜日

12月に入ってから日記風に

 先月購入したDAPのエージング中に不具合発生。2日にタッチパネル操作が全く不能になった。為に電源オフもできない。購入した量販店に翌日電話を入れ、初期不良の交換をしてもらうこととした。

 3日、息子家族と岩槻に羽子板を買いに行く。岩槻駅前は以前ほどの活況を示していない。このまま次第に寂れていくのかもしれない。春日部にしたって人口は減っているし、同じく廃れていくのかもしれないが。

 4日DAP交換のために秋葉原へ行く。担当の店員さんが不具合再現を確認し、準備してあったものと交換。アンバランスで150時間、バランスで100時間ほどはエージングが進んでいたがゼロからのエージングやり直しとなった。ついでにSONY純正のケースを購入してしまった。
 帰宅後はラグビー早明戦。チケット購入が果たせずに今回はテレビ観戦となった。一進一退を繰り返し、何とか24-22の僅差で勝利。大学選手権ではシード権を得て17日の対戦。負けた明治は一週後の試合となり、早稲田のこの勝利は大きい。スクラムが優位に立ちペナルティー・トライを取ったときは歓喜した。最後のボールキーピングは早すぎると思ったが案の定ペナルティをおかすが明治はPGを選ばず、結局モール・パイルアップでノーサイド。明治の監督がレフェリーへの不満を語っていたが潔くないのでは。悔しさはまずは我が身に向けるものと思う。
 早稲田の次戦は同志社か中央。残念だが花園での試合となりまたもやテレビ観戦となる。JRFUのメンバーズ・クラブに入っているのでチケットがあり、11日は慶応vs流経戦を観に秩父宮に行こう。

 5日、大掃除1回目。以前は一日ですべての大掃除を済ませたが今はもう耐力がなくなり大掃除は分割して行うこととしている。第1回目は3Fロフトのみ。ついでに不要な本を整理。息子にあげるものとブックオフに持って行くものを区分。

 続けて6日は2Fの掃除。家人の部屋は簡素でスッキリとしているが、自分の部屋はゴチャゴチャしており大掃除の中で一番時間がかかる。

 一日空けて8日はキッチンを掃除。普通はやらないであろう所まで分解し、出来るだけ部品一点一点まで油を落として清掃するので時間がかかる。でも一旦やり始めると徹底しないと気が済まない。あと3日ほどやれば終わるはず。

2016年11月30日水曜日

雑記

 17日、秋葉原ヨドバシでDAP購入。店員さんと話していたら年齢が自分より少しだけ若そうな長身の紳士が話に割り込んできていろいろ聞かしてもらう。オーディオが好きで詳しい。最近出たDAPやイヤホンの視聴の感想を鋭く丁寧に柔らかく話されていた。自分はと言うと、これぐらいの贅沢は許されるだろうとハイエンドの領域に入るであろうDAPを購入。ついでに4.4mm5極のバランス接続MMCX対応ケーブルも発注しておいた。このケーブルを装着して手持ちのシュアでこのDAPを聞いてみてその素晴らしい音質(特に音場)に感激。ケーブルは入荷待ちなので暫くは通常のアンバランスのイヤホンで聴くしかない。
 この日の夕方からは梅島で酒とカラオケ。

 23日、早慶戦。慶応SOのミスキックでかろうじて勝たせてもらったという感が強い。ディフェンスに簡単に穴が空く。岸岡のプレースキックの精度が上がっていればもう少しは安心して観られた筈である。CTB中野からの攻撃はワンパターンで、きついマークにあっている中野からの展開に苦労している。帝京の1位、慶応の4位は決定だから早明戦で2-3位が決まる。どちらにしても大学選手権での組み合わせは帝京とは別ブロック。筑波大が出場できないのは残念。
 明治戦はチケット購入を失念していて入手できず、4日はテレビ観戦。

 血圧が高い。新たに自分専用の血圧計を購入し、朝と夜に測定し記録をつけ始めた。毎日の酒精もやめて今のところのデイリー飲酒頻度は30%代。血圧の記録と飲酒頻度をエクセル管理するのは自分の性癖、というかデータ管理が趣味のようなもの。朝は寒いので体重測定まで至っていない。ランニングしていた頃は体重が7kgほど減っていて、今となっては夢か幻かとの想いもしてしまう。あの頃は血圧も中性脂肪も何もかもが正常値の範囲にあった。

 DAPのアンバランス側のエージング進行中。現在値は約150時間で目標の200時間までもう少し。しかし、バランス接続ケーブル入手でアンバランス接続はしなくなる。が、一応イヤホンを接続して通電し続けている。月末頃には入荷するであろうと言われていたバランス接続ケーブルが入荷したとの連絡を25日に受け、29日に再び秋葉原へ。
 この日の予定はケーブルを受け取るのと同時にイヤホンを視聴し新規購入すること。およびひさしぶりの駒形どぜうで泥鰌鍋を楽しみながら一杯飲むこととしていた。
 イヤホンの候補は概ね2つに絞っていたが、第一候補であったSONY品は低音の音圧が好みでない。自分の好みは低音が抑え気味で中高音の響きがキレイというか前面に出てくるというか、要は中高音が主体のもの。audio-technicaのものはSONY品よりいいが音質がキレイと言うより硬い。JVCのウッドシリーズは最大公約数的な音質でつまらなく、Radiusは音が引っ込み気味と感じた。SONYとJVCを何度も聞き比べ、両者から選ぶならJVCかとも思っていた。候補の一つであったCampfire Audio(以下CA)は鍵のかかっているケースに入っており、しゃがんで商品群を眺め、店員さんに声をかけようとしていたところで逆に声を掛けられ、視聴させてもらった。中高音が素晴らしいい、キレイ。もうこれでいいかと思っていたら店員さんがグレードアップされたものが更に素晴らしいと言いそれも耳に入れた。想定していた予算よりオーバーするがもうこの時点でこのCAを買うことにした。グレードが上のものを試すとそれが欲しくなる。だからなるべく触らないようにしているのだが、今回は回避できなかった。
 レジに行ったら店員さんも自覚していなかったらしいがこの商品は翌日からの販売開始となっていた。また春日部から秋葉原に足を運ぶのも面倒だし、自分の場合は送料無料となるので最速で宅配してもらうこととした。CAはデザインも好きだし、バランスでは尚更にキレイな音が耳に入ってくるであろうと期待大。イヤホンのエージングも兼ねてDAPのバランス側のエージングをしよう。200時間に達するのは来月中半ころとなるヵ。
 
 秋葉原から歩いて浅草橋に向かい、そこから左に直角に曲がって歩を進め駒形どぜいに入る。日本酒と泥鰌鍋を目の前においてもらう。意外だったのが以前は好きでたまらなかった泥鰌鍋がなんかつまらなくなっている自分がいた。年齢を重ねて好みが変化したとしか思えない。割り下がしょっぱく感じるし、酒も楽しめない。泥鰌も牛蒡も葱も全て好きだったのがこの日は美味いと感じることができなくなっていた。加齢するということはこういう変化として表れるのかもしれない。意外であると同時に自分の変化に少し落胆。
 家人のために“おいもやさん興伸”で”みやび”を購入し-女性は何故にこうも芋が好きなんだろう-、手にぶら下げて帰宅。風呂に入って口直し(?)にJamesonのハイボールを飲む。ハイボールはいつもと同じく美味い。しかし、量は進まなくなった。これも年齢の所為なのであろう。それに歩き続けたので疲れた。以前はもっと酔っ払って、もっと長い距離を歩いて、帰宅後も呑み続けたが今はできなくなってきた。

2016年11月22日火曜日

来季スポーツ推薦、文庫1冊

 早稲田ラグビー部のスポーツ推薦入学合格者4名が決定。古賀由教/東福岡高校/FB、下川甲嗣/修猷館高校/FW1列以外、久保優/筑紫高校/PR、星谷俊輔/國學院久我山高校(LO)。古賀・久保・星谷は高校日本代表候補で下川はU17に選抜されていた。古賀はU17およびU20セブンズ代表。星谷は190cmの体躯。例年通り花園における選手名鑑を購入し、今後の自己推薦合格者などをみては来季に向けて期待を膨らませることとなる。

 明日の対慶応戦、もちろん勝って欲しいが、慶応に苦戦しそうだし正直なところ勝敗の予想がつかない。完敗もあるかも。

 <大岡昇平 『無罪』(小学館、2016年)>:初刊は1978年で33年前の5月に新潮文庫で既読であったが内容や感想はメモしておらず記憶もない。舞台は英米で、時代は17世紀から20世紀初期。文献をもとにして裁判が始まってから無罪までの過程を小説化した13篇の短編集。近年においてもシェクスピアは誰それであるとの論考が発表された「シェイクスピア・ミステリー」もあり、かの有名な「サッコとヴァンゼッティ」もある。裁判過程への疑惑と周囲の喧噪はいまも形を変えて表れており、謎も謎のままにあるのは所詮人間の成せる業と言ってしまっては悲観的すぎるか。

2016年11月17日木曜日

シニアの品格

 <小屋一雄 『シニアの品格』(小学館、2016年)>:「ひんかく」など考えたことがない。あるとすれば商品開発部門に所属する現役サラリーマンだった頃、品質管理部を略した「品確」とそれを揶揄した「貧確」。我が身を振り返れば何の格もない「貧格」か。
 定年退職が間近で出世コースから外れた東条が奧野老人と出会ってそれまでの人生を振り返り、自己変革して様を描く自己啓発風の小説。企業人としての恨み節からはじまる東条はまあつき合いたくないステロタイプの人間である。それが鮮やかに変化していくのであるが、その過程に肯く箇所もあれば、そうかなと思う箇所もある。雨滴を眺めてたゆまざる努力を説く賢人もいれば、会話の中で相手自身の姿を気づかせる達人もいる。奧野老人は後者。「私の場合はただ単純に、世界とのつながりを楽しんでいるだけで、自分を高めるというよりも、ただ、生きて楽しむということだけなんです」と虚静恬淡の姿勢で、「『品格』があるとすれば自分から関心が離れていくこと」と言う。その境地には到底およばない我が身であるが、ちょっと待って、そこでいう世界って何を意味しているのか、どのような世界なのか、またその世界との繋がりを媒介するものは何であろうか、それらを自覚した上での楽しみではなかろうか、と思う。例えば、”他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ”という「世界」観を持っている場合、繋ぎとなるのは歴史を学ぶことでもあり、哲学を囓ってみること、あるいは小説を読むことなどであり、それらを通して”この世界でオレは何者だ”と問い続け、それを楽しむことではなかろうかと考える。
 奧野老人が奥さんとの関係を話す言葉、「美代子は私にとって畑で、私はそこに生える草だったんです」。こういう夫婦は素晴らしいと言えるのであろうが、俗人に言わせてみれば-悪ふざけである-、畑に種はどう蒔いたのか、いい草を伸ばそうとしても畑の質が良くなくてさ、てこともあるし、更には権兵衛が種蒔きゃカラスがほじくることもあって・・・・、ふざけすぎ。

2016年11月14日月曜日

漫画と小説とエッセイ

 <原泰久 『キングダム 四十四』(集英社、2016年)>:酔っていたせいもあろう(といえば失礼になるが)、いつも以上に楽しめた。「渇いてねェんだ 心が渇いてねぇから略奪も陵辱も必要ねェんだ 飛信隊はどこの隊よりも心が潤ってんだ」、この台詞がこの巻のエッセンス。

 <浦沢直樹 『BILLY BAT⑳』(講談社、2016年)>:完結したけれど、結局消化不良。惑わされてそのままに終わったという感じしか残らない。終わりかたも性急に進めた印象あり。

 <白石一文 『記憶の渚にて』(KADOKAWA、2016年)>:人が生を受け継いでいるなかで、記憶とは何でどう持ち続けているのか。連綿と続く生の繰り返しのなかで前の人の記憶が残る。問い詰めれば「私とは一体誰か?」という問いを自分に問い続けることとなる。著者はこの根源的な問いを常に小説という舞台で展開し続ける。兄の死、伯父の死、教団との関係、桜の木の謎、・・・900枚の長編も倦きることなく読み続けたが、帯にある「圧巻のラスト」に行き着いてみれば人びとの関係はすべて仕組まれたことであって肩すかしを食らった、生煮えの鍋物を食わされた感が強い。しかし、著者の「私とは誰か」を思索し追い続ける姿(作品)にはいつも引き込まれる。

2016年11月11日金曜日

大腸内視鏡検査始末

 5月末の人間ドックで便潜血が指摘され、書面上で要精密検査とされていたが10月頃に病院に行こうと放っておいた。そんなところに息子が同じく便潜血があるからどこか病院を紹介してとのメールが来た。かつて2年間にわたって2回ポリープ除去をした池袋の某病院を紹介した。23年前の人間ドックを池袋のクリニックで行いそこで紹介された病院であり、そのとき一緒に診察を待っていた人が、地元の横浜では痛くてしようがないが、ここはやはり評判通りの病院で数年前からここに来ている、と言っていた。そのときのポリープ除去は一泊の入院が前提で、まずは3箇所を除去し、翌年には先延ばした1箇所を処置した。痛みも何もなく、スムーズに終了していた。

 息子が予約を入れてから少し経ってオレも予約を入れて先ずは診察をして、11月末には内視鏡検査を予約した。
 暫く経ってから息子から連絡があり、10月末にポリープを除去したが検査中は耐えられないほどの痛みがあり(内視鏡が腸の内壁に当たるときのようである)、一日経ったいまは出血がひどいと言う。すぐに病院に行って止血処置をしたとのこと。そしてその二日後また連絡があり、出血が止まらない、職場の人から病院を紹介され、池袋の病院に紹介状を書いてもらい、柏の某病院に行ったら即時入院となってしまったと言う。息子の嫁さんは0歳児の赤ちゃんがいるので病院に駆けつけるわけには行かないので、オレが着替えなどを持って行くことになった。家人も車に同乗し、柏までの片道1時間の通いを連日4日通うこととなった。
 内視鏡検査のある当日朝に息子から電話があり、念のためにすぐに病院に来てくれろ医者から言われたという。胸騒ぎがするが、連絡は病院からではなく息子本人からなので悪いことは考えずに病院に向かい、ナースステーションで内視鏡検査室に向かうように言われ、エレベーターで降りたら検査を終えたばかりの息子が車椅子に座って出てきたばかりだった。約1時間後、処置をした医者が経過説明に来て一緒に聞いた。オレにすぐに病院に来てくれと言う意味は、手術や輸血の必要があるなら同意書へのサインをしてもらうためだったようである。医者が患部の写真を見せて説明をし、ポリープ除去した3箇所はすべて潰瘍になっており、1箇所毎に数本の止血処置が施してあった。そして直腸部に1cmのIs(無茎型)ポリープが残っているという。池袋では1箇所が残っているとは息子は聞かされていない。取り忘れですかとその医者に聞いたら、少し間を置いてからそうでしょうね、と仰る。また出血の可能性は誰にでもあるとも言う。医者によって技術の巧拙があるのではないですかと聞くと、それはないでしょう、誰がやっても可能性はあると言う。まぁ、医者が医者を非難(批判)することはまずないであろうからそれ以上は聞かないこととした。出血の可能性があるから、その際はすぐに駆けつけられるように自宅の近くの病院がいいですよ、とも仰る。・・ところが、翌日、息子に聞いたところ、看護師さんが、“普段は穏やかで他人の批判をしない先生が、(池袋の医者は)やりっ放しのひどい処置で、同じ医師として許しがたいと言っていた”とのことであった。入院して4日後に息子は退院。4ヶ月後には潰瘍の治療と残っていた1箇所のポリープ除去をその病院で行う予定を組み入れた。
 オレは予約していた池袋のその病院にキャンセルを入れた。その病院で息子のポリープ除去した医師と止血処置をした医師の名前は掴んでおり、オレの検査時の担当医にならないことは判っているが、その藪医者を放置している病院には信頼をおけない。春日部市内の某病院に行って状況を説明し、12月某日に先ずは予備内視鏡検査となる。そこではポリープがあったとしてもいきなり除去することはしないらしい。息子の経過と、オレの経緯を説明していて池袋の某病院の名前をポロッと出してしまったら、その病院の院長は名医で通っているのだが、息子さんに対応した医者は非常勤の医師なんでしょうねと言う。
 その池袋の某病院で購入した内視鏡検査前日の食事パックが残っていて、ダイエット食にしたが、さすがに消化促進の小粥中心で夕食はコーンスープだけでは腹を充たすことはできなかった。しかし、医者も人の子でミスもするであろうが、今回の息子の件ではひどすぎた。数年前にオレがかかった二人の某整形外科医と同様の藪医者ではある。

独り言

 トランプが次期大統領に決定。アメリカ合衆国(合州国の方が適していると思う)の公に定められた法によって彼が選ばれて間もなく全米ではトランプ反対デモ。なんか妙。トランプ側に投票した人たちにどう向き合うんだろうか。受け入れたくない気持は判るけれど、選挙の結果後すぐにトランプ反対というのは筋違いのような気がする。クリントンが当選していたらトランプ賛成の人はやはり結果に抗うのであろうか。そうであるならばやはり選挙で選ぶというシステムに欠陥があるとしかいえないだろう。否、そもそも万人が得心する術などないのだ。
 Popular vote(一般投票)は、クリントン47.7%>トランプ47.5%で、Projected electoral vote(選挙人団)はクリントン232<トランプ306。(以上の数値はhttps://en.wikipedia.org/wiki
/United_States_presidential_election、2016、11日 0:15。)この逆転現象はゴアとブッシュと同一の状況。おかしいと指摘されるもそのままでまた再現した。これがおかしいと言うのは、多数決を是とすることが基本にある。でも根っ子は多数決というシステムが抱える問題にあろうかと思う。日本だって一般投票で過半数どころか遙かに下回る獲得投票でありながら国会では一強となっている。投票率20%代で当選しても、歓喜の表情で堂々と当選萬歳をして議会を構成している現実がある。
 いまの状況が最善策なのか、問題点は何か、そしてどう検め正すべきかを問い続けることが組織(システム)のあるべき姿だと、青臭いと言われようがそう思っている。そして、「軽々しく口に出される民主的」がキライなのである。結局は、この世の中で一体何をどう捉え、自分は何なのよ、と思い続けるしかないような気がする。マジメに考えているわけではないけれど。
 今日の午後、車から甲高い女性の声が何か訴えていた。うるせーなと思いながら、何が彼女をそう熱くするのかな、と不思議だった。

2016年11月10日木曜日

続けざまに映画を観る

 DVDに録画してあった映画を続けて観た。最初は「硫黄島からの手紙」。次に市川崑監督の「野火」。硫黄島や比島で死んだ一般の兵隊は何と戦っていたのだろう。少なくとも米軍と戦っていたのではない。「野火」では延々と飢餓が映し出される。前の戦争の各戦域での餓死者は61%(『敗者の日本史20 ポツダム宣言と軍国日本』)。
 3作目が久しぶりの山中貞雄の「人情紙風船」。名作中の名作であるとの感想は変わらない。この映画が公開された翌1938年に山中は戦病死。
 最後に「一枚のハガキ」。金もなく貧乏な家族の中にあって大竹しのぶだけがこざっぱりとして髪も整えられ歯も白く、いかにも作られた映画という思いを抱いた。燃え落ちた家の焼け跡の中で豊川悦司が大竹しのぶに向かって、一粒の麦を蒔こう、という台詞ではさらに違和感を覚えた。麦を蒔こうではなく、「一粒の麦」と言ったところに感動を呼び込もうとする制作者側の意図を感じた。新藤兼人の作品では「裸の島」が最高であると思っている。
 「人情紙風船」以外のDVDは破棄。

2016年11月9日水曜日

議会の混乱からの教訓!?

 11月8日の朝日新聞に「議会の信頼 富山の混乱を教訓に」の社説。「政務活動費(政活費)の不正で3割の議員が辞職した富山市議会の補欠選挙が、投開票され」、「当選した人の多くは、政活費や議会の改革を訴えた党や無所属の候補だった」が「残念なのは投票率が26・94%と低かったことだ」とし、「政治不信を招いた主因は議会にある。だが不正が長年続いたことは、有権者の関心の低さと無縁ではない。議会が再生を果たすよう、市民は厳しい視線を注ぐ必要がある」と主張する。ここで、ちょこっと抗いたくなった。たかが27%弱の投票率で当選したとする市議会議員と議会制民主主義をまずは嘲け笑い、「市民は厳しい視線を注ぐ」ことへの具体的な手段ぐらいは論じてほしい。たとえそれがラジカルなものであってもだ。市民の厳しい視線を具体的に向けるシステムはまずは選挙であろうし、その選挙での低投票率を嘆くならば選挙に基づく議会制民主主義への疑問を呈するのが先ではないのか、と思うのである。

 つづけて「まずは政活費の不正使用を防ぐ具体策だ」と当たり前のことを書き、政活費の使途を点検する市議会の対策案は、今はやりの「第三者機関を設け」「領収書をインターネットで公開する」ことだと報じる。第三者機関というのは政治の中枢をなす議会システムの機能欠陥を露呈していることであり、自浄作用が不全であることであろう。総じて言えば、市民の厳しい視線を具体的に結びつけることが出来ず、そのようなシステムから生れている議会の機能不全がいまの議会制民主主義である、と感じてしまう。

 「公金は正しく使い、使途はわかりやすく示す。議員に求めたいのはごく常識的な感覚だ」というが、それは使い古された繰り言としか見えないし、「時代が求める改革を怠れば、政治不信が深まるだけ」なのは、時代を超え、形を変え、いつの世にも表出する事象である。くり返される歴史の一面である。そして新聞の論調も型通りのつまらない陳腐な域内に安住している、という感想を抱いてしまう。バカバカしいトランプのように尖がれとは思わないが。

2016年11月6日日曜日

秩父宮、惨敗

 今日は筑波戦以来の秩父宮へ。早稲田が今後対戦する明治と慶応の両校どうしの戦いを見たいこと、余っているリピートクーポンの消化、そして早稲田の帝京戦。帝京戦はスコアによっては試合前に競技場を去ることも前提としていた。
 明慶戦はニュートラルな気持で観戦するにはとて面白い、試合であった。残り少ない時間となった後半、追い上げる明治が反則・ミスを犯さずにフェーズを重ねる集中力と勝利への執念は素晴らしい。最後が認定トライで終わったのは「前への明治」の矜持を示したものであろう。

 さて、帝京戦。早稲田の惨敗。PGによる3点で先制したが、その後すぐに鮮やかなトライをされ、続けて2つ目のトライを取られたところで帰りたくなった。帝京は個々の体躯が鍛えられており、スピード、パワー、スキル、瞬時の判断力がずば抜けており、早稲田は足下にも及ばない。帝京3つ目のトライで席を立つ。トイレによって通路に出たら更にトライが重なっており、そのときはまだ前半20分ほどであり、スコアは3-28、これでは100点を超えてしまうかもしれない、早稲田の得点は初っ端のPG3点だけかもしれないと思ったら、帰宅後に確認した結果は3-75(11T)。帝京は今の大学の中では全てが何段階も上である。大学選手権、日本選手権までにはまだレベルアップする気がする。一方の早稲田、慶応戦と明治戦にも明るい展望が見出せない。

2016年10月31日月曜日

久々に本・漫画

 BD作成ソフトの迷走から始まってPC3台の整備、そしてサボっていた写真と動画のDisc作成に1ヶ月以上もかまけてしまい、碌に本を読まなかった。

 <佐藤優・石川知裕 『政治って何だ!?』(ワニブックス|PLUS|新書、2015年)>:サブタイトルは「いまこそ、マックス・ウェーバー『職業としての政治』に学ぶ」であり、ウェーバーの思考を引用してその意味を深耕し解説している。
 政治って何なのかはいまもってよく判っていないが、少なくとも政治家たちあるいは政治システムに期待を抱くことにさほどの価値は見いだせないし、また不祥事とされる事象に落胆することにも大した意味はない。政治ってのはそんなものさと突き放しつつ見つめている。なぜなら、政治の場で繰り広げられる汚さも清潔さも、希望も反省もすべて、人間が生来持ち合わせているものが政治という舞台で表出しているに過ぎない。そう思っている。
 欧州の常識が、①ユダヤ・キリスト教の一神教の伝統、②ギリシャ古典哲学の伝統、③ローマ法の伝統、の3要素にあるとされている。明治以降、日本はその欧州を範としてきたのであるが、日本はローマ法の伝統のみを吸収し、法学の整備としてすすめられた。つまり①と②に日本は視線を向けることはなかった。世界で初めて工学部を創設した東大をモデルとする日本の大学は過度の実学思考であると指摘している。それは、日本の大学には哲学部も歴史学部もなく、哲学や宗教や歴史は文学部のなかに組み入れられるていることに象徴されている。歴史上の画期であった前の戦争についてその責任を問われると、言葉のアヤと置き換えられて文学方面の範疇に入れられしまうことにも繋がっているようである。
 哲学や歴史への凝視が欠ける政治家たちは実学=金儲けに走り、論理性のない言葉を並べ立てるしかなくなる。政治には金がかかるのを前提とするならば、金のかからない政治を目指せばいいのであるが、政治家は恐らく金のかからない政治システムは望んでいない。

 <村田沙耶香 『コンビニ人間』(文藝春秋2016年9月号)>:評判ほどには入り込めなかった。舞台をコンビニとは異なる狭い世界に置き換えれば何にでも当てはまることではないかと思う。その世界でしか自己の安寧が得られない、あるいはそこに登場するダメ人間等々、コンビニと限るから特殊の世界のように思えるのかも知れないが、結局はすべての人間世界で共通に見られる人間模様である。だから読んでいて途中から倦きてきた。

 <雨瀬シオリ 『ALL OUT 9』(講談社、2016年)>:大学のラグビー定期戦が始まり、この漫画への思い入れも強くなる。女性漫画家らしい絵柄は相変わらず好きになれない。

 <花村萬月 『日蝕えつきる』(集英社、2016年)>:東北地方を中心とした江戸期の大飢饉があった天明期6年(1786年)の皆既日蝕の下、悲惨な死に落ちた5人の物語。「天明六年正月元日、日食皆既-。日蝕えつきて、未一刻にふたたびあらわれた太陽を○○がその目で見ることは、なかった」で各編は了となる。〇〇には各編の主人公の名が埋められる。
 軽井沢で飯盛女であった千代が江戸に出てきて夜鷹となり、唐瘡(梅毒)に罹り、総後架をやっとの思いで出て縊れようとして息を絶える。陰間茶屋にて美貌な陰間見習いの吉弥は踊りの舞台に立つ夢を持っていたが初めての客に菊門を壊されてしまい、商売道具とならぬ躰になって蔑まれ、飛び込んだ井戸の底で死ぬ。自堕落で狡猾ではったりばかりの身勝手な小心者の長十郎は提重筥で躰を売る妻女の靜に寄生しており、靜の稼業を知って嫉妬に狂った長十郎ははずみで靜を殺してしまい、妄想通りにはすすまない惨めな切腹で、しかし最後まで妄想のなかで死ぬ。容貌が劣る登勢は流人の島八丈島で貧しく生きており、口先だけの女犯僧に心も身も寄せるがその実は弄ばれている。妊娠し引きずり出された胎児が殺され、女と一緒にいた男がかけた筵の冷たさに顫えながら流し小屋で息をするのをやめた。次ニは飢饉での飢餓のなか死んだ父・母・妹を食み、江戸に出て無実の罪で牢に入り、無実を訴え続けて度重なる責苦や拷問にも自白せず、陽のあたらぬ故に日輪に敏感な牢内で牢名主に看取られて息絶える。愚か、残酷、陰惨、狡猾、等々の生き様の末に死ぬ、蝕える陽のなかの暗黒な小説群。
 文献のなかで日蝕に触れ、これらの物語の輪郭が泛んだという。文献調査、想像力の拡がり、人の死を凝視る冷徹さに驚嘆。

2016年10月24日月曜日

上柚木までラグビー観戦

 朝8時10分頃に自宅を出て駅まで歩き、大宮・新宿・調布で乗り換えて京王線南大沢へ向かう。予定よりも早い時間の電車に乗り換えることができ、南大沢駅に着いたのは10時18分。いままで新宿から京王線に乗った記憶がなく、もしかしたら初めての乗車かもしれない。調布を出て稲城を通過するとき、20年以上前に姉の家族が住んでいたころに車で来たことを思い出す。
 読んでいた本から目を窓に向けると多摩センターあたりになっており、丘陵の地に多くの高層住宅ビルが林立している。東武野田線の車内から見える景色とはまっく趣が異なる。
 南大沢は何となく郊外の静かな小さな街にある駅と思っていたが、想像していたことに反して大きなショッピングモールがあり、たくさんの人の行き交いがあり、勘違いを恥じる。上柚木公園陸上競技場方向に足を向けるとすぐに首都大学東京のキャンパスがあった。この大学はかつての都立大学なのかあるいは昔の武蔵工業大学なのか迷ってしまう。東京都市大学と首都大学東京、紛らわしい。

 幹線道路沿いを散歩風情の心持ちで歩き、競技場に着いた。今季の対抗戦で早稲田ラグビーは地方周りが多い。海老名・高崎は訪れることを諦めていたが、今回は天候もいいし、テレビ放送もないので現地観戦とした。秩父宮での筑波戦以来の現地での生観戦となる。

 競技場入場は予想外の無料だった。キックオフまでの45分ほどは本を読んだり、周囲の景色を眺めたりしていた。前席にいる5人家族-中学生らしき子と幼児二人と若い両親-がタッパーに入れた焼きうどんを食べ始めたときは、とても美味しく思え食べたくなった。この日はまだ何も食べておらず、ビールも手にしておらず、横からは柿の種とピーナッツの匂いがしてきて、食欲がでてきた。焼きうどんはホントに美味しそうだった。この家族、父親が青学出身のようで、ハーフタイムの時は年長の女の子がもう帰ろうよと言っていたら、父親がこれから反撃して面白くなるんだよと説得し、子どもたちはつまらなそうにしてノーサイドまで父親につき合っていた。

 青学には今春負けている。雪辱するとの早稲田選手のコメントが妙にもの哀しい。青学相手にそのようなコメントを出さなければならない今の実力が悲しくなる-青学には申し訳ない言い方だが-。早稲田は先発メンバー15人の半分以上8人が1年生、リザーブ8人の中にも2人いる。長く早稲田ラグビーを追いかけているがこんなに1年生が目立つのは初めてのこと。出ていない1年生にも逸材はいて、桑山弟は怪我なのかどうなのか今季6月を最後に試合に出ていないし、期待していた森島はBにも出ていないからまだ力不足なのであろう。
 今回も加藤・宮里は怪我なのであろう出ていない。前回スタメンだった黒木はリストに載っておらず、横山も名前を出していない。リザーブに登録されている勝浦は右足のテーピングが傷々しく、後半の後半に登場した。吉岡もリザーブに名を連ねているが、彼だけが唯一フィールドに出ることがなかった。

 セカンドジャージの早稲田の前半の前半はもたもたした流れで、青学陳内に攻めてもパスミスなどで攻めきれず、ため息が出てくる。25分頃になってやっと(!)岸岡がトライ。早稲田は攻撃するもパスを受ける相手がいなかったりして連携ができていない印象もあり、いいところはまったくない。それでもスクラムは優位に立ち、バックスが走り、モールトライもあり17-0となるが自陣で反則を行い青学に取られ、17-7で前半に入る。
 後半はやっと展開がよくなり、5トライを取る。青学が2トライ取るがすべて早稲田の反則・ミスから反撃されており、肝腎なところでのペナルティは今の早稲田では容易にトライに繋がれてしまう。それにプレースキックの精度を高めたい。位置がタッチラインに寄っている難しいキックであろうが、中央からずれた位置で蹴られたボールの殆どがゴールポストから外れてしまうのは不満。成功率をあげないと均衡した試合では致命傷になる。岸岡のプレースキックはボールに勢いがなく何となく頼りない。

 終わってみれば48-19で「雪辱」はしたのであろうが、前半の前半の精度の低さがかなりの不満。
 陸上競技場だからしようがないのであるが、スコアボードは草野球並みの立て看板みたいだし、選手の表示はもちろんないし、女性のアナウンスは聞こえないし、直上の上空にはオスプレイ2機がうるさく飛んでいくし、暫くすると空高く戦闘機らしき1機が轟音をたてて飛んでいるし、勝利はしたけれどスッキリしない試合で、齢重ねた自らに重ねた訳ではないが残尿感ある90分間だった。

 帰りは人並みにくっついて駅まで歩き、建ち並ぶ高層住宅ビルを眺め上げ、これが多摩ニュータウンの一画か、生活の歴史が染みこんだ地からはい出た住宅ではなく、無機的に設計された人工的な活気ある住宅群という感じがした。

 帰宅後、帝京と慶応の録画を早送りもしながら観た。慶応の集中力は早稲田を苦しめるだろう。帝京はやはり強い。日本代表のSOは力強いし、コンバージョンキックの成功率は100%でボールの軌跡も安定している。より強く感じたのは2番の運動量の多さとゲインする前進力、プレーの安定さ。これでまだメンバーが固定していないようだから、今季も抜きんでているのは間違いない。

 さて、早稲田は今後への期待も大きいが、取れていないコミュニケーションや遅れるときもあるフォロワー、つまらないミスや反則等々を改善して欲しい。まだ成長過程のひ弱さという感もある。
 青学の黒地に黄色の背番号は工事現場でも使われる色の組み合わせだけあって視認性がいいのだが、早稲田のセカンドジャージは背番号がジャージ模様の鎖に絡んでしまいとても認識しにくい。


2016年10月18日火曜日

ラグビー

 10/16は日体大戦。14日までは車か電車で高崎まで行くつもりでいた。だが浜川競技場最寄りの駅までの電車の便、駅から競技場までの距離、車での所要時間、新幹線利用の場合の旅費等々を考えたら気持ちが萎えてしまった。駅からの距離も6km位を歩くことは苦にならないが、自宅を出てから競技場に着くまで時間がかかり過ぎてしまうことでテレビ観戦とした。それでも現地での観戦の魅力は棄てがたく、ジクジクとして最終的に行かないと決めたのは前日の夕方。ついでに書けば、新幹線で行けば要したであろう金額を充当して午前中にウィスキーとラム酒を買ってきたのはそのジクジクした気持のはけ口を求めたのかも知れない。

 テレビ観戦は録画放送なのでリアルタイムでの状況は速報版で確認した。キックオフ3分後に斎藤がトライをして好スタートと思えどもその後日体大に今季初トライを喫し、一時は12-14とリードされてはあれっと思い、それでも前半26-14で終わり、不満はあれども後半に突き放すだろうと楽観した。なれども、終わってみれば45-40の信じられない落胆のスコア。PCに出てくるスコアの動きを見ていると清宮監督時代の大学選手権秩父宮での大商大戦を思い出した。あのときは清宮さんの「なめすぎた」結果であろうが、今回はいまのベストメンバーを出している。FL加藤やNo.8宮里はいないけれど、いま取り得るベストには違いない。その上でのこのスコアはひどい。筑波とのBの試合で7-37と負けたとき早稲田の層の薄さを想ったが、それが的を射ていることは確実である。
 日体大戦は負けなかったということだけの結果だった。日体大は帝京に134点も取られ、明治には79点取られての零封。慶応には0-55。それが何と早稲田は45-40。45と40を合算した85点が早稲田の得点すべき数字ではないのか。春のレベルに戻ったのかと不安を感じた。この日は、その後の録画放送は見る気にもならなかった。

 早送りせずに通しで筑波戦の録画を見た。筑波に後半立て続けに取られた2トライはまぁしようがないと諦めるが、その後で見た日体大戦は酷かった。筑波に勝って気が抜けたのか、過信したのか、相手をなめたのか、強いはずのスクラムの利点が活かせていない、簡単に穴があく、イージーミスがある。スタメンNo.8の動きとアーリータックルはいただけない、加藤に代わった三浦は加藤の代役になりきっていない。接点では意外に簡単にターンオーバーされているシーンがあるし、後半は前にすり抜けた選手へのフォロワーがいない。日体大のバックス(13番だったか)の機敏な動きがあり、日体大が健闘したといえるかもしれないが早稲田が日体大を健闘させた状況を作り出したというべきであろう。筑波戦と違って早稲田にハイパントがなかった。スクラムでボールを出さずに時間をかけて組み続けることはよく判らない。
 筑波戦でのFL加藤の動きと、No.8の動きに注目し、続けて日体大戦での同じポジションを見ていたが、後者での両FLの動きがいいとは思えなかったのはかつての松本、羽生、金の活躍が頭に残っているからだろうか。
 特筆すべきは今回も1年生が多くて6人がスターティングで登場し、交替した選手を含めると17選手中7人が1年生。来季以降に期待ということにはならずに今季は昨季より大きく変化した早稲田であってほしい。

 もう一つの我が卒業大学である法政大学はまだ1勝しかしておらず、大東文化・流経・東海に負けている。上位4校はこれからつぶし合いになるから、法政は残りの拓殖・日大・関東学院に圧勝していかないと大学選手権に進めない。筑波はもうダメだろう。

2016年10月15日土曜日

Blue-ray Disc作成での苦闘 ②

 “アップグレードされたWindows10は保証外”との返信メールを見て、気軽にWindows10にアップグレードするんじゃなかったとも思ったが、今更である。それにメインで使用しているPC(A機)はフリーソフトも沢山入れてあるし、カスタマイズもかなり行っている。BD作成を除けば快適な使用であるので今更windows7には戻したくない。それに時間のかかるBD作成をメイン機で行うとメイン機がメイン使用にならない。時間のかかる処理はサブ機で行うことを基本としていることには変わりない。
 純正なWindows10機を新規購入し、それをサブ機にしようかと思ったが、踏ん切りが付かない。そしたならば、今はネットと電車の時刻確認、あとはワードをちょこっと使い、ネットから画像を切り出すことをたまにしかやらない家人が、「私のパソコンを取換えてもいい、今は入っているデータも設定もすべて消していい。何かやりたくなったらその時に教えてもらう」と仰るではないか。新規購入はもったいないとする家人の天からの声、あるいは鶴の一声。彼女のPCは昨年春頃に買い換えたもので、そこそこいいものにしている。それではと有り難く交換することとした(B機とD機の交換)。要は自分の古い32bit Gatewayと新しい64bit mouse機の交換だが、これが面倒。
 まずD機をクリーンにしてWindows7に戻す。要は購入した時点に戻す。戻した後で必要なソフトを再インストールして環境を整える。つまり自分用にカスタマイズ。Officeは2016になった。ATOKの辞書もメイン機より移植し、セキュリティーも一からやり直し。リビングのテーブルにPCを持って行き、テレビを見ながら、酒を飲みながら2日間作業を続けた。
 そしてGateway機は不要なソフトをデリートし、兎にも角にも余計なものは全て削ぎ落としてブート短縮および通常動作を軽くするように設定し直した。この2台のPCをリフレッシュするのにはほぼ3日ちょい。忍耐力と集中力だけはあると自負しているが、さすがに倦きた。

 全部完了かと思ったら今度はOnedriveの同期が上手くいかない。調べて設定を見直しことを数度・・・最後は嫌になってきて最も簡便な方法を採用、即ちOnedriveをやめてDropboxに変更。このDropboxは同期速度が速く快適、Onedriveとは大違い。

 ついでにヤマダ電機で格安だった3TB外付けHDDを新規バックアップ用に交換し、これでやっと環境整備が終了。結局のところリフレッシュしたサブのWindows7 mouse computer機が快適。そこでBD編集&作成ソフトを複数使用してBD作成にとりかかった。この顛末の反省は、一般的によく言われているが、衝動でWindows7から10にアップグレードするべきではなかったこと、及びBDに関する知識があまりにも貧弱だったことヵ。

 数年に一度ほどはPCのリフレッシュというか、整備を行っているが、今回だけは2週間以上にわたってしまい正直疲れた。救いは、これで少しはPC関連に詳しくなったかもしれないという想像(妄想)。そして家族がいつでもBDプレイヤーで思い出の動画を見ることのできる環境が整ったこと。でも結局はオレはこういうことが好きなんだな、きっと。

2016年10月14日金曜日

Blue-ray Disc作成での苦闘 ①

 一家あげての旅行のときは終わってからさほど間を置かずにメディア(Optical Disk)に落とし込んでいた。しかし孫たちのイベントや家人との旅行におけるDisc作成はここ数年間サボっていた。ふと思い立ちこのサボっていた作業を再開することとした。まあサブPCで作業すれば効率的にすすめられるのはいつものこと、と構えていたがとんだ落とし穴にはまってしまった。尢も、その穴も自分で作ったものに違いはないのであるが..。

 カメラで撮った写真や動画のファイルはHDDにキチンと整理してあるので、それを焼けばいいと思っていたのであるが、そうは簡単にはいかなかった。

 先ず、自分のPCの環境を備忘録的にメモしておく。PCはすべてノートパソコンで、メインで使っているのはwindows7からアップグレードしたwindows10-64bit機(Mouse Computer製)-A機としておく。サブで使っているのはかつて高評価を得た古いGateway FX 32bit機で、これはVistaからWindows7にアップグレードしたもの-B機-。もう一台のサブ機はSurface3で購入直後に8.1から10にアップグレードした-C機-。以上3台を使用しているが、家人のために設置しているものは昨年購入した64bit Mouse Computerでwindows7から10にあげている-D機-。これ以外に9年前のXP機やかなり古いSotecのXP機もあるがこれら2台は物置で眠っている。7から10にアップグレードしたFujitsu 64bit機もあるがこれは娘の長男が来たときに専用で使っている。

 さてさて、先ずは動画をBDにしようとA機を立ち上げた。ソフトは以前より重宝しているSonyのPlanmemories Home。準備段階まではスムーズに進んだがBD作成段階でエラーコードが出てしまう。M/Cを再立ち上げしても変化なし。C機でやったが同じエラーコードでダメ。B機では動作するけれどやたらと時間がかかる。12時間以上もかかってしまい、時には24時間近くもかかるときがあり、その結果エラーコードが出るときもあり泣きたくなってしまう。
 ソフトを再インストールしても全く変化なし。PowerProducerでやってみたが、持っているバージョンはWindows7適用で10では使えないし、Windows7のB機ではやはり時間がかかる。

 SonyにPlaymemoriesのエラーに関する問合せメールをしたら翌日に返信があり、さらに詳しい情報を求められ、旅行中に得た結果は“アップグレードされたWindows10は保証外”であり、不具合で何が発生するのかは判らないというようなことだった。
 通常価格のほぼ半額で購入できた安価なConvertXtoVideoをインストールしてみた。これは高速だし操作が簡単だし一発で上手く行った。しかし、完成したBDをみると動きがスムーズでない。調べたらフレームレートが9前後ほどになっている。撮影は29.97fpsだからかなりの劣化である。このソフトの操作方法は詳しくなく、ビデオサイズ変更フィルターは沢山構えているがどれが何ななのかさっぱり判らない。フィルターメーカーは米国にあり英文で沢山書かれており読む気がしない。そもそもフィルターの機能は理解できていない。それでもネットで調べて何とかかんとかベストとされているフィルターを特定しそれを設定してみるが全く改善されない。メッセージにはドイツ語も出てくる。
 BD作成で更に複雑にしているのが動画の拡張子の違い。現在は主にm2tsで、panasonicの4Kカメラではmp4、娘もSony機だがmp4で撮っている。ここに息子のカメラが絡んでくるとmovも扱うことになる。拡張子混在でもBDが焼ければいいがそのソフトを選定する前にm2tsすら上手く扱えないでいる。PanasonicのPHOTOfunSTUDIOもあるが、古い32bit機では処理が遅い。

 ファイル変換のフリーソフトも何種類かDLして使ってみたがどうもすっきりしない。エラーが出てしまうソフトもあるし、絵が乱れるものもある。また、保有するプレイヤーでは絵が出ないものもある。もう殆ど混乱状態になっていたとき、メインのA機に入れていたSonyのソフトを思い出した。もともとはオーディオ編集用ソフトを購入しようとしたとき、画像処理ソフトも格安で一括購入できたソフトで、” DVD Architect Studio 5.0”。操作が簡単ではないし、以前はPlaymemoriesを使用していたので頭から消えていた。開いた画面もビジーで操作は面倒のようだったが、マジメに操作を覚えたらば自分の目的とするBD作成では簡単に扱えた。これが上手くいった。しかし、32bitのB機では遅いので使いたくない。

 ここで新たな決断をすることとなり、まだ泥沼から這い出ることはできていない。

2016年10月11日火曜日

ここ2週間ほどのこと

 9月25日、娘の長男と長女が通う小学校の運動会。二人とも走りは遅く、これはオレや婿殿の遺伝でもあろうかと思う。二人がいつもニコニコしている姿がいい。

 23日頃からPCを巡って悪戦苦闘が2週間以上も続いた。動画のBD化ができないことが切掛けで、原因の所在はソフトやPC環境にあり、PC3台を相手にしたものだから予想外の沢山の時間を要してしまった。この顛末は反省も込めて後日まとめよう。今日になって一連の作業はやっと終わった。少しは知識が増えたかも。

 29日から10月1日までは旅行。メインは初めての大塚国際美術館と姫路城。新幹線で岡山に行き、岡山-姫路-明石海峡大橋-淡路島-鳴門-瀬戸大橋-倉敷-岡山を環状に巡った。これもまた後日振り返ることとする(つもり)。

 この間、冷蔵庫買い換えのカタログ検討と販売店での確認、そして購入。その後電子レンジ/オーブンも買い換えとなった。どちらも自宅にあるのは15年前後にわたる使用であり、そろそろ新品する時期でもある。我が家は電気製品をいつもかなり長く使い、いま新品にしておけばまだ新しい機能や操作に慣れるであろうし、高齢となった今頃が買い換え時であろうと判断した。洗濯機も買い換えの候補にあげている。ネット価格よりもかなり有利に値引きしてくれたこともあり、市内の家電量販店で購入。

 10月2日は今季初の秩父宮ラグビー場。早稲田vs筑波戦。筑波と慶応の結果やこちらの期待も込めて50数点-10、悪くとも40-12位との予想をしていた。結果は46-12でほぼ予想通り(!)の快勝。1年生5人がスターティングメンバーになったことが話題となっていたが、個人的にはSH斎藤への期待がとても大きく、これからも早稲田の中心になると思っている。今年1月の花園決勝での斎藤の活躍と支持の出し方や機敏な動きの印象が強く残っている。そのとき優勝した相手チームSOが岸岡でこのコンビはいい。そして東北は黒沢尻北出身のFB梅津にも期待。中野はコメントも何もなく唯々素晴らしい。BK陣で中野と桑山の大型選手は存在感がある。FBから転向したCTB黒木も好きな選手。No.8に宮里がいないのは多分怪我であろう。加藤が故障で退き三浦がFLに入ってから連携が崩れたのか劣勢となり、2Tを取られたのは今の時期としては課題を見つけることで良かったと思っている。岸岡からのキックパス、斎藤のゴロパンは好判断で素晴らしかった。

 娘の長男のドローンのようなオモチャが8月に故障した。オレのところに修理の期待をして持って来た。ブラシレスモータとカメラ部の故障であり、中国から交換部品を取り寄せ、部品到着後1ヶ月ほど何もせずサボっていた。重い腰をやっと上げ、精密スクリュードライバーと半田ごてを片手にして修復。修復完了3日後に娘の長男が来て動作を確認。完全に修復されたことでオレへの感謝と尊敬度合いが高まったようである(と勝手に思っている)。何か壊れるとすぐにオレのところに持ってくるのは以前からのことではあるが。

 10月6日は家人の伯父のお通夜、翌7日は告別式。家人の親戚との人たちとは顔なじみであり、家人の両親が健在だったときのことなどを思い出す。自分が結婚したころに出会った人たちが何人もこの世を去り、いま健在の人たちも顔や歩く姿に重ねられた年齢を思い、振り返って67歳となった自分をも確認させられることとなる。革靴を履き、ネクタイをしたのは昨年の葬儀以来だといったら、家人はスカートをはいたのがそれ以来だと言っていた。僧侶の何を唱えているか判らない読経も、焼香の流れも、飾られた花も、弔電を厳かに読む葬儀社の人の声も、火葬場の控え室で待つ時間も、何もかもが昔からずっと繰り返される人の世のルーチンであり、人はそのルーチンを行うことで恙ない人生を歩んでいるのであろうとふと思った。そのルーチンが蔑ろになるときは恐らく不幸な時代、不幸な環境になっているときなのであろう。

2016年9月24日土曜日

秋葉原をぶらぶら

 23日、暇つぶしを兼ね、家人と秋葉原を歩いた。主目的は冷蔵庫の買い換えのために商品の確認。いまの冷蔵庫はもう10数年前に購入したもので、最近はどうも氷の出来具合が良くない。製氷機の底面に固まってしまった氷にアイスピックを入れることもしばしばだし、そろそろ替え時であろう。ヨドバシカメラで親切丁寧な説明を受け、候補を二つに絞った。購入は家人の決断を待って10月に入ってからになろう。

 ここで有隣堂とタワーレコードの階に上がったら様子がかなり変わっている。まず有隣堂が狭くなっている。さらにタワレコードも狭くなっている。ネット購入が多くなり、こういう店舗は縮小しているのは理解できているが、まさかここまで影響が及ぼされているとは想ってもいなかった。本は購入しないと決めていたが、CDは別でクラシックの安価なセットものを探す。メインは現代音楽と決めていたのでそこのコーナーで物色。ラサールSQ/新ヴィーン楽派で6枚セットがあるではないか、ラサールSQではほかのCDも持っているがこっちも買ってみようと思いレジで支払い。そこの若い女性の店員さんに尋ねたところやはりネットでの売り上げの方が大きく、ここでの店舗は縮小したとのことであった。
 本もCDも確かにネットで買うことは多いのだが、現物を手にとる機会が減るのは寂しい限りである。書店が小さくなると売れ筋の本だけが置かれるようになってしまいつまらなくなる。返品がきかないからといって岩波の本を扱わない大手書店もあるし、なんか文化は衰退の方向、つまり選択の範囲が縮小し、一般化された最大公約数的のものがあふれ、刹那的なつまらないものだけが眼前に拡がってくる気がしてならない。テレビでもおちゃらけ芸能人の下らない番組が多いしつまらないなぁ。

 先日テレビでCHABARAを初めて知り、足を向けた。昼食を摂ったのは某所。とんかつの類を食べたのだが美味くなかった、ハイボールを含めて3,300円ほどの出費であったがそれに全く見合わない不味さであった。ハイボールもアルコール度数は2%位しかないのではなかろうか。高架沿いに足をすすめたらB-1グランプリ食堂なる並びがあり、看板を見ると安価であり、ここに来れば良かったと大いに後悔。

 更に足を進め、これまた初めての2k540に入る。もの作りの店が並んでいるらしく、楽しめそう。上に照明がなく、店の明かりだけの暗さだが、ぶらぶらとあちこちの店に寄ってみる。ジュエリーや帽子、服装類は興味がないのでひたすら工芸品、日用雑貨の店に立ち寄る。特に木工品にはその優しい手触りや温もりで惹かれる。竹やつげの工芸品の店に入り、安価で気に入った竹の実用品を2点購入。店内にいた人はつげのブラシや櫛類を製作している人で、ちょいと話し込んだ。つげの櫛といえばイイ小説がありますよね、ということを口に出し、木内昇さんの『櫛挽道守』を紹介する。知らなかった、是非読んでみようとメモしていた。メモには「くし」を「櫛」と書いていたのはさすがである。
 ステンレス製のブックマークも購入。うさぎとビールジョッキとビール瓶がぶら下がっている。

 日比谷線に乗るつもりが間違ってJRの中に入り、少し戸惑って日比谷線入口近くの改札で出してもらい、帰宅。秋葉原の駅では戸惑うことが多い。

 帰宅後、ハイボールを飲みながら買ってきたCDのジャケットボックスを見たら妙な既視感がある。あれ、これって前にも買ってんじゃないか、・・・自室の棚を見たら同じものがあった。鳴呼、久しぶりにまたもややってしまった。タワーレコードで買うときになんで気付かなかったのか、やはりタブレットを持ち歩いて保有CDのデータベースを確認しなきゃいけない、あるいは帰宅してから落ち着いて確認し、ネット発注すべきなのかと反省しきり。3000円強ほどの無駄な出費。このCDボックスどう処置しようか、あるいは誰にあげようか?

 東レパンパシフィックの録画を見る。応援している大坂なおみさんがベスト4進出。第2セットで0-5からタイブレークに持ち込み、そこでも2つのセットポイントに反撃し-相手の続けてのダブルフォールトだが-勝利した。これでまたランクが上がる。まだ粗っぽい印象があるが、土居さんより上にいくのも近いであろう。

2016年9月22日木曜日

樋口有介さんの新刊

 <樋口有介 『ぼくはまだ、横浜でキスをしない』(角川春樹事務所、2016年)>:新聞の広告で見てすぐに購入。場所は横浜-ヨコハマという響きはイイもんだ-、物語の中心は17歳の県立高校生のアキオ(桐布明生)、アキオと小学生の時に同級生であってフェリスの女子高生メイ(村崎明)、そしてミケ(雌猫)。脇役としては事件調査に加わるのが姉(かもしれない)警部補/能代早葉子。あとは、10年前の事件当事者であるアキオの父親で変態官能小説家/遠野銀次郎。母親、古書店の詩帆などがアキオの世界を形作る。ミケは成仏できない女性でアキオとだけは会話ができる。メイは高いIQで資産家の娘でアキオと再会してアキオと行動する。
 かつての盗撮痴漢事件を起こした父親は警察に嵌められたのであり、その冤罪の汚名を雪ぐべく調査するなかでミケは誰なのかも明らかにしていく。最初にミケが若い女性で・・と設定を知ったときは途端にこの小説への興味が薄れてきたのであるが、そこはそれ、アキオとメイ、そして親父などとの軽妙な会話、アキオの独り言を読み続けると樋口ワールドに入り込んで楽しめる。
 いま66歳の樋口さんが17歳を主人公にした所謂青春ミステリーを描き、それを67歳のオレが楽しんでいる。成熟(老成)した大人という視点をもてば作家の妄想のなかで読者のオレが妄想を楽しんでいるという構図でもある。でも樋口さんの全小説を読んでいるオレにとってはどんなに年齢を重ねても樋口さんにはセイシュンミステリーを書き続けて欲しいのである。
 この本の装丁は面白いのであるが、メイを模した女性の顔が小説の中のメイとはかけ離れている。顔を出さずに後ろ姿だけがいい。後ろ姿で妄想は膨らみ、どんなに美形で可愛くても顔を見たときには現実に戻ってしまい、大体はその現実の辛さ-美形の場合はこちらの、美形でない場合はあちらの辛さ-を想ってしまうものだから。

2016年9月21日水曜日

HAPへのフォロー、文庫本一冊

 SONY HAP-Z1ESのファイル構築を終わったと思っていたら中には再生できない(HAPの仕様に合致しない)ものがあり、その原因が分からなく、結局は該当する曲のmp3化をやり直した。HAPはダイレクトにCDから取り込むことができその際はwavかflacになるのだが、今回は従来通りPCでmp3に取り込み、タグ情報もPC上にて編集し、それをHAPにコピーすることにした。そもそも市販CD(丸ごとコピーも含む)以外の自分で編集して作成したCDはgracenoteの恩恵を受けられないからPCでタグ情報管理をするほうがずっと楽である。ポップス系の曲は管理状態を統一させておくために今後もPC→HAPにし、自分で一切編集していないクラシックやジャズ、アイリッシュ音楽のCDはHAPで直接取り込んでflacファイルにする。音楽を聴くこともそうだが、このように統一されたデータベースを作ることも大きな楽しみの趣味である。「手段が目的化することを趣味という」(長岡鉄男)のであろうが、まさしくそうである。

 <広岡敬一 『ちろりん村顚末記』(筑摩書房、2016年、初出1980年)>:ちろりん村とはかつてトルコ風呂が林立していた雄琴温泉ソープランド街のこと。一世を風靡したトルコ街の誕生(昭和46年/1971年)から昭和55年(1980)までのルポ。トルコ御殿を経営した人とそこで働く女性たちの過去とルポ時点までの状況と生活の経緯。男の欲望の消費する金額と、それを処理するトルコ嬢たちが得る金額の多さには驚く。そして稼いだ金を貢いでもらう男たちのでたらめさと、女性たちの生き様はオレの想像をはるかに超えている。

2016年9月16日金曜日

新設オーディオ機器

 年齢を重ねると物欲よりも不要品の廃棄の方に意識が向いてくる。昔は購入した本は棄てることはもちろん古本屋に持って行くこともなく、書棚に積んでは部屋の装飾の一部となっていた。35年ほど前に神奈川県綾瀬市の借家に住んでいたとき、そこのトイレが比較的広かったのでそこにも小さな本棚を置いて本を並べていた。10数年前の引っ越しを期に本をまとめて廃棄することが増え、その後ミステリーなどは読了後に子どもたちにあげている。

 一方、CDやオーディオ装置(といっても大した物はないが)は増えるばかりになっている。アナログレコードがCDになり、ネットワーク・オーディオも隆盛を極め、そしてハイレゾが普通になった。アナログからCDに代わったときはそのコンパクトさと曲を選択するときの便利さにうれしくなったものである。カセットテープへの録音がデジタル変換録音になり、併せてPCおよびリッピング・ソフトなどは欠かせないものになり、ハイレゾ化した今はもう技術の進歩は止めて欲しい感じがなきにしもあらずである。DAC機能を有するオーディオ機器は4台になり、ヘッドホンアンプやアナログ用のフォノイコも揃え、オーディオ機器の背後の配線はゴチャゴチャになり、ラインセレクターやスピーカーセレクターもおいているものだから、結線がどのようになっているのかはもう機器の前面を見ても戸惑うことも生じ、結局は紙一枚にまとめたブロック結線図を見る羽目になってしまう。もう後期高齢者の区分にいるので、オーディオは現在保有のもので楽しめればいいと思っていたが、PC経由で音を出す煩わしさがあり、これが最後とばかりSONYのHDDプレイヤーHAP-Z1ESを購入してしまった。
 ポップス系の曲は全曲PCに保存してあり、それをすべてHAP-Z1ESに移した。そして、この際にと思い主にmp3のこのPC内の曲の整理を行った。曲のダブり修正、ファイル名の誤記訂正、区分フォルダーの再構成、TAG情報の統一などなど。面倒なのがTAGのIDバージョンの修正。このバージョンがHAP仕様に合致しないとキチンと整理された形での表示がなされなくなり、その表示違いの原因を探るのに便利だったのがTAG編集ソフトのSTEP。結局全作業をひとまず終えるまでには1週間は要したと思う。
 保存しているポップス系ファイル数は12,600強。1960年代から70年代中心の日本のポップス、海外のポップスの充実さは自画自賛しており、自称国内有数のコレクターである(自惚であることは自覚)。単に集めただけでなく、全曲をエクセルでデータ管理しており、洋楽については邦題も併記してある。但し、ヒット曲ではあっても好きではない歌手/グループに対しては積極的ではない-例えばElvis Presleyはあまり持っていない-。
 それでもまだ記憶から漏れている曲、忘れている曲がないかと思うのだが、それを見つけるのは至難の業であり、その曲との幸運な出会いを期待するしかない。頼るのはYouTube。
 HAP-Z1ESだが、これは優れもの。シンプルなデザインも気に入っている。CDからダイレクトにHDDに取り入れられるのは便利であり、また、徐々に物を減らす意味でも、これからはクラシックやケルティック、数少ないジャズのCDも順次取り入れていこう。なんか終活めいてくるのは致し方あるまい。

2016年9月11日日曜日

最近読んだ本・漫画(3)

 <昌原光一 『江戸のたまもの』(小学館、2016年)>
 <昌原光一 『自撰 人情幕ノ内』(小学館、2016年)>:江戸が舞台の人情短編集。昌原さんの江戸漫画は素直にその舞台に入り込め、穏やかな気持になる。
 いい作者の漫画の絵は文章よりも多くを語る。描かれた背景や人物の表情、間をとった静寂な時間に何を感じ、何を思うのかは読み手に委ねられるのであり、優れた漫画は文章で書かれた小説より奥深くて拡がりのある世界を提供してくれるのではないかと思った。
 読んでいて唐突に乙川優三郎『冬の標』のシーンを思い出した。読後のメモを振り返るとその小説には次のように書かれていた。「居間から現れた彼は、ちらりと巻軸を見てから持主に目を移した。どこか昨日とは眼差しが違って涼しげに見えるのは、彼とともに居間を通り抜けてきた風のせいかもしれなかった」。漫画はこのようなシーンを僅か一つのコマに描くことができる。

 <原泰久 『キングダム 四十三』(集英社、2016年)>:黒羊戦。この巻の終わり頃にやっと羌瘣が臨戦する。信が趙国の総大将慶舎を倒しに向かうところでto be continued。

2016年9月10日土曜日

最近読んだ本・漫画(2)

 <雨瀬シオリ 『ALL OUT 8』(講談社、2016年)>:弱いチームには技術的に優れてはいるがどこか投げやりになる者がおり、またスキルは劣るが前向きで根性があり、練習試合とはいえ強豪チームに勝つ。そしてやる気のない教師が覚醒して献身的になり、老コーチがラグビーを教える。勝利の喜びとまだ気付かない壁。・・・・・よくあるスポーツ漫画のラグビー版といってしまえば終わりだが、この先の展開に期待してしまう。今秋よりテレビ放送開始される。しかし多分見ることはしないであろう。

 <東野圭吾 『夢幻花』(PHP学芸文庫、2016年)>:上手い。とても上手く、東野さんのミステリーを十分に楽しめる。若い人たちの配置、進路への悩み、負の遺産への向き合い、伝奇的な匂いも少しするが、エンディングまでほぼ一気読みで楽しんだ。水泳を諦めた秋山梨乃、進路と家族内での疎外感に悩む蒲生蒼太、謎めいた行動を取る蒲生要介、突然に姿を消した伊庭孝美、殺されたのは秋山老人、彼に恩義を感じて単独行動で犯人を捜す刑事の早瀬、家族に秘められた謎。共通するのは黄色いアサガオ。それぞれを配置し、構成の中で巧妙に繋がりを持たせ、伏線を張り、徐々にほつれをほどくストーリー・テリングは秀逸。

 <長谷部恭男 『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)>:『不毛な憲法論議』を読む前にこっちを先に読むべきだったか。憲法とは何かを学術的に学ぶ気持はないし、その能力もない。ただ単に引用文を繋いでメモしておこう。
 「異なる価値観・世界観は、宗教が典型的にそうであるように、互いに比較不能である」(9頁)し、昔の欧州のように「人としての正しい生き方はただ一つ、教会の教えるそれに決まっている。ここでは公と私を区分する必要もないし、信仰の自由や思想の自由を認める必要もな」(69頁)かったのであるが、いまのこの世の中で価値観は多様化し、まして日本には多くの神や仏がおり、戦前の如き「究極の価値を体現する天皇との近接関係でによって一義的」(13頁)に秩序立てられる筈もないし、されるべきではない。だから、「立憲主義がまず用意する手立ては、人びとの生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分すること」(10頁)が大前提になる。
 私感:「公」という平面に「私」の小さな平面がべったりと糊付され、「家族」の延長線上で「愛国」が語られるのはやはりキモチワルイ。日本の伝統的家族観は価値あるが、それが伝統的価値秩序に置換され、大切にしたい伝統が、知らず知らずに伝統に囚れることにはなりたくない。その上で語られているかもしれない憲法改正・自主憲法・明治憲法復元にはなじむはずもない。

2016年9月9日金曜日

最近読んだ本・漫画(1)

 8月末の土曜日、息子と彼の友人二人を交え、自宅で酒を飲んだ。その時に息子の友人たちに漫画をあげた。Yu君にあげたのはお下劣な漫画。これらは息子にあげてもいいのだが、そうすれば誰が渡したのか彼の嫁さんに知れてしまい、尊敬(?)されている我が身が地に落ちてしまう。だからYu君にあげた。田中圭一の漫画であって、電車の中では頁を開かないこと、昨年会ったことのある嫁さんにはもらった相手を言わないこと、の条件を付けた。もう一人のHi君には硬い漫画、大西巨人原作『神聖喜劇』全6巻をあげた。古本屋に持って行けば1000位にはなるかもしれないと言って渡した。
 若い人たち-といっても40歳前後だが-と飲むのは楽しい。カーテンにぶら下がっている家人作のネコも2匹もあげた。

 久しぶりに美園に行き、いつもの本屋に入った。家の自室には読んでいない本が数百冊あり、机の下やらベッドの下などにおいているので、今回は本を買うまいと思った。しかし、家人と昼食を摂り、少しの時間潰しで本屋に入ってしまった。唯ぶらぶらと店内を眺めるつもりだったが、漫画のコーナーに行ったら、シリーズ新刊と江戸人情話の作家が目に入った。結局それら3冊を手にとって、今度は小説のコーナーを歩いていたら、またもや食指を伸ばすものがあり2冊を買ってしまった。

 最近読んだ本・漫画を時系列的にメモ。

 <東谷暁 『不毛な憲法論議』(朝日新書、2014年)>:憲法改正あるいは改悪、自主憲法制定、明治憲法復活、護憲、いろいろと賑やかであるが、改憲にも護憲にも違和感を抱いている。憲法の頭に「平和」の冠を載せているのに抵抗感があるし、明治憲法への回帰なんて言動には驚くばかりである。憲法は時代の進みや社会的環境変化、世界情勢の動きで改正されてもしかるべしと思うのであるが、現代日本にはきちっと憲法を議論できるのかということにはかなり否定的である。
 憲法論議が不毛なのは、「憲法が国のあり方や国民生活の全領域のルールの基本であるとするならば、憲法について論じた本には、国のあり方について深い考察や、さまざまな領域についての粘り強い探求がなければおかしい」(3頁)のであって、「『国民主権』『平和主義』『基本的人権』と何度も繰り返して、あとはそれぞれの条文の解釈をこの三つの落とし所に着地させれば、それが憲法学であり憲法論だという」(3頁)のはおかしいだろうと冒頭で批判する。占領下で押しつけられた憲法だからとよく言われるが、そもそも敗戦という現実を直視してこなかったことに帰着する気がしてならない。自分の思いが次のように簡潔に書かれている。すなわち、「占領下において制定された日本国憲法」の制定の「そのときに生じた屈辱や矛盾を、いまも克服しないままにしてきた現代日本」(72頁)があり、「日本国憲法に関する多くの矛盾を、ともかく受容したことから遡及して納得のための理屈をつくる悪習はもうやめた方がよいのではないのか。それが『憲法学』という名を負っているにせよ、あるいは『歴史学』とよばれるにせよ、そこにあるのは占領下で他国に憲法をつくられながら、それを阻止できなかったという事実であり、いまだに奇妙な理屈を生産しつつそれを押し戴いている事態は、そこに何らかの心理的屈折を考えずには理解できない」(102頁)。
 そもそも国会銀を選ぶ選挙システムには疑問は持っているし、そこで選ばれる政治家および政治家集団は信頼できないし、伝統を大事にすることと伝統に囚れることの違いが分からない政治家も多いし、愛すべきこの国はどこに向かっているんだろう。

2016年9月8日木曜日

家具店、大塚

 IDC大塚は春日部が発祥の地である。そして今は親娘間の騒動が一件落着しているように見えている。父親は新たな会社、匠大塚を設立しており、東武スカイツリー線春日部駅の東側に店舗を構えている。以前はロビンソンというデパートがあったのだが、それが閉鎖して間もなくその建物に匠大塚春日部本店が開店した。レストランなどを併設したい意向であったらしいがそれは叶っていない。自分はまだこの匠大塚春日部店には入った事がない。
 一方、娘の方のIDCOTSUKAは春日部ショールームと称している。数ヶ月前、ひさしぶりにちょっとしたものが欲しくてここに入ったのであるが、自分の希望するものはなかった。父娘が喧嘩別れする前は店に入るとスタッフが寄ってきて案内をしてくれたのであるが-煩わしくもありアドバイスが良かったこともある-、そのときは誰も寄ってこず、店内を歩いていても視線を合わせることもなかった。
 新聞には折り込み広告のチラシが入ってくる。面白いのは同じ日に匠大塚とIDC OTSUKAの両方が入ってくること。全国に家具店は多かろうが、よりによってここ春日部では父娘の企業が同じ業種で店を構え、春日部駅を挟んで東と西で、(多分)冷たい視線を絡ませながら戦っている。
 いつまで両者が対峙し続けられるのであろうか。

2016年9月2日金曜日

妄想

 メダカが泳いでいる透明な水の小川にヒノモトクニがあって、ある日そこに赤毛の大きな人が来て、小川の側でドシンと足踏みをしたら、メダカたちはびくっとしていっせいに身を翻した。群れをなして泳ぐメダカたちはそれからその足踏みを気にするようになった。メダカたちには年齢の違いがあるのだが、コーンパイプを口にする大きな赤毛人にはまだ成長していない12歳のように見えた。

 小川にはコッカイ学校というメダカ学校があるのだが、誰が生徒か先生か、よく判らない学校である。学校の各クラスの人数は平均化されておらず、沢山の生徒がいるジミンクラスが一番勢力を握っており、次にミンシンというクラスがある。コメというクラスは3番目に多い生徒がいるが、小川の支流で固有の文化を育んでおりジミンクラスの分校のような位置を保って泳いでいる。ジミンクラスにはPTAのように振る舞う強力なメダカグループが背後にあり、学校の校則を変えようとしているがなかなか上手くは進んでいない。
 キョサンやイシンなどなどいろんなクラスがあって、時には小川の中で離散習合を繰り替えしている。

 ジミンの級長はコッカイ学校の生徒会長であり、再来年まで任期があるのだが、いまから会長職を延長させようとの動きもある。現在オロシア学校などに行って小川の北部地方のあり方などの話し合いをしようとしているようだ。
 一方、ミンシンクラスはいつもジミンクラスに対抗して生徒会長を奪い取ろうとしているのだが、一度大失敗をしているのでなかなか奪還できないでもがき続けている。そしていまクラスの長を選ぼうとしているのだが、何だろう、結局は学校のありかたではなく、学級委員長を決めるだけの矮小なクラス選挙になっているように見えてしまう。

 雨が降り、風が吹いて水面が荒れるときもあるけれど、小川に住むメダカたちはいつも嬉しそうで、水に流れてつーいつーいと泳いでいる。みんながそろってつーいつーい。

2016年8月25日木曜日

東海大戦

 24日の早稲田ラグビー、東海大戦。スコアを見るとがっくり。Aは19-52で、Bは7-21。しかし、前後半のスコアと選手の入れ替えを見ると、ある意味納得という気もする。後半になってCTB宇野を除く14人を入れ替えている。前後半は別の試合という感じがした(前半19-12/後半0-40)。東海大の選手の入れ替えが判っていないので良く分からないが、前半はAの試合、後半はBの試合というイメージを抱いた。そしてホントのBの試合は7-21でこれもまたCTB一人以外を全て交替させている。山下監督は大学選手権にフォーカシングさせて夏は実力把握の練習試合、選手への経験の積み重ね、課題の抽出とでも割り切っているのだろうか。選手の交代の少なさから帝京戦Aだけは別格に扱っているようであるが。
 ともあれ9/17成蹊大戦から始まる対抗戦に期待しよう。

新書とミステリーと漫画

 <青木理 『日本会議の正体』(平凡社新書、2016年)>:『日本会議の研究』は文献や史資料に重きを置いて日本会議の原点から現在までの経緯を詳記しているとすれば、この新書はインタビュー取材を多く行っていることで現在の日本会議および政治家との関係をリアルタイムデ語っている。
 「公」に天皇・皇室をおき、伝統や日本の美をそこに集約させ、支える基本は家族にあるというその考えは、何故にそう考えるのかがオレには理解できない。個は家族に含まれ、家族は同一平面上で公と同一化し、その公を包み込むのが天皇、皇室ということのようである。なぜそうなるのかは、『生命の実相』に触れて感銘を受けるということにあるようだ。そしてまた多くの国会議員が日本会議懇談会に加わり、地方議員も類似の行動にある。なぜ群れるのか、集票としての利便性にあるからか、単にお賽銭箱に気持を投げ入れるということなのか、疑問というより何か異次元の心象の如くに思える。
 いろんな考え方、思いはあって当然である。しかし、自分には大宅壮一の皮肉たっぷりの言葉が気持ちいい。大家の言葉を借りれば、谷口雅春は糊口をしのぐ方法として1929年個人雑誌『生長の家』をはじめた。発表したいからあなたの過去などを知らせて欲しいと手紙を出し、返事が来れば感想を書いて送る。それの繰り返しで人を呼び寄せる。軍人と未亡人が一番この手にかかりやすいという。それはそうだろう、軍人は名誉欲が強いから自分の過去やイイ話を載せてもらうと誇らしくなるし、未亡人は孤閨の寂寥を埋める慰めとなるのであろう。雑誌に載れば、知性を飾ることもできる。そうやって事業を拡大し、「戦前から戦中にかけて軍部の戦争遂行を全面的に賛美・協力し、これも勢力拡大の大きな跳躍台とな」り、戦後は現行憲法を嫌悪した。
 何はともあれ、「停滞期において不安になった人びとは、自分たちのアイデンティティーを支えてくれる宗教とナショナリズムに過剰に依拠するようになる。戦前の場合は国体論や天皇崇敬、皇道というものに集約されたわけです」(島薗進244-5頁)。
 『月刊日本』主幹の分析を引用する(246-7頁)。「憲法をめぐる考えひとつとっても、日本会議の内部や周辺には『明治憲法の復元』から『自主憲法の制定』、そして『現行憲法の改正』までいろいろな立場がある。2015年の安保関連法制を解釈改憲で押し切ったことも影響し、憲法改正を支持する世論はむしろ減ってしまったから、現実には憲法改正は相当難しくなっている。いまは必死で押さえつけていますが、改憲がうまくいかないということになれば内部対立が顕在化し、組織が瓦解してしまうことも十分に考えられます」。併せて次第に日本会議中枢の人たちも高齢化しており、いつか舞台を降りる。その時には戦前の記憶も薄らぎ、今のように戦前回帰、憲法改正/自主憲法制定の運動は様態を変えるかもしれない。そうなったとき、憲法への新しい向き合い方がでてくるのかもしれない。
 横道にそれるが、テレビや雑誌で日本を称賛することが増えているが、日本自らが日本に向けて、即ち内部に向けていることに違和感がある。日本的美感覚からいえば、称賛や礼賛は外部から発せられるもので、日本人はそれには面映い笑顔で奥ゆかしく接すると思っているのだが、いまは自ら凄いでしょ、偉いでしょとドヤ顔で身内に自我礼賛している。どこかおかしいのではと思うのだが。

 <早坂吝 『誰も僕を裁けない』(講談社、2016年)>:一晩5万円の援交を仕事にする探偵上木らいちのミステリー。ふざけた雰囲気のある、本格ミステリーとでも言えばよいのか、伏線はあちらこちらにあり、最後は全て明らかにして謎を解く。もっとエロっぽく、もっとバカバカしく、面白おかしいかとも思ったが、意外にマジメにミステリーを組み立てていて、期待外れとでも言おうか、感心したとでも言おうか、毛色の変わった一冊。以前に読んだ2冊ほどには楽しめなかった。

 <手塚治虫 『手塚治虫「日本文化」傑作選』(祥伝社新書、2016年)>:懐かしい絵の中に現代の漫画とは異なる深味というのか、人の世を見つめている姿勢がうかがえる。今の漫画には様々な材料を組み合わせて予定調和的に感動を生み出そうする側面を見てしまうのであるが、手塚治虫の漫画には先ず描こうとする世の中の普遍性があって、そこに材料を当てはめて物語を作っているという気がする。

2016年8月24日水曜日

早稲田ラグビー

 帝京大学との練習戦、Cの結果は28-24で勝利し、これで3タテでの負けはないと少しホットし、Aの結果がはたしてどうなるのか、正直に言えばどの程度の差で負けるのかが気になった。昨年は7-52で惨敗しているし、更には対抗戦で92点などと言う信じられない結果もあり、今夏はどうなるのか気になっていた。春にはアタックの練習はしていなかったといえどもディフェンスもさして良い訳ではなかった。結果は22-47で負けてはいるが、この程度で済んでいて、春からの進歩は確実にあるとの感想を持った。そして、唐突に大田尾が主将だったときの、大量得点で負けた夏の関東学院戦(2003年)を思い出した。その時は落胆だったが、今回は希望が持てるような気がした。しかし、Bの負けっぷりが良くない。層の薄さが感じられる。
 帝京大戦でのハーフ陣は斎藤・岸岡の1年生コンビ。SHの斎藤への期待が大きい。花園でみた斎藤の働きが強く印象に残っている。宮里が復帰したし、FBからCTBに変わった黒木がやっと出てきた。黒沢尻北の梅津も相変わらずAで出ている。桑山弟は怪我なのか、BにもCにも名前が出ていない。1年では三浦と柴田にも期待している。桂高校出身の杉本がフィールドにでていないのがちょいと寂しい。SHが活躍するとき、特に1年生のSHが活躍するときの早稲田は強いので、斎藤には目立って欲しい。多分Aで出続けるであろう。
 明日24日の東海大戦で現在の真の実力-帝京に抗するレベル-が判ると思う。現時点、明日の東海大戦のメンバーがHPにアップされていない。なぜ?

2016年8月19日金曜日

山梨に遊ぶ

 娘に全ての企画を任せ、こっちは予算面で全面サポートする夏の遊び。小笠原、1年空けて沖縄、昨年は那須、そして今年は山梨。日程の都合などで段々と身近になってきて、また、子供がまだ数ヶ月の赤ん坊なので息子一家は参加せず、今回は娘一家と私と家人の合計6人。企画する娘は日程調整や行く場所の検討が結構面倒なようで、娘の長男が来年はどこに行くと聞いたら、もうネタが少なくなってきたし分からんと言っていた。夏は旦那の実家のある仙台に行ったり、自由で気儘な子どもたちの面倒で疲れ気味の様子もうかがえる。

 15日、ワンボックスのレンタカーで一路都留市の山梨県立リニア見学センターへ行く。自分は一番後部座席で独り横になって寝ているのであっというまに到着したという感覚になる。外は暑く、リニアの車両が走っているわけではなく、小中学生向けのリニア関連展示場といった施設。ジオラマは良くできていて楽しめる。超伝導のデモでは説明するオバサンの自己満足度一杯の長いしゃべくりにウンザリしてくる。プレゼンの反面教師としては恰好の説明だったとは娘の旦那の感想。10分間しゃべくった後、沢山のマグネットを並べたジェットコースターのようなループに超伝導金属体を走らせたのは僅かに2回だけ。客に何を楽しんでもらおうかとの目的を忘れ、説明することが目的化し、説明している我に自己陶酔しているという典型的な目的と手段のはき違えではあった。
 昼食後は山中湖に向かう。山中湖はロードレースに参加して以来の6年ぶり。今は気が向いたときのウォーキングだけになってしまったが、6年前はネットで1時間20分かけて走った。オレはここを2回走ったんだぞと何度もアピールするが、皆ふーんという反応だけ。
 水陸両用のバスに乗って湖上に浮かぶ。残念ながら天候は思わしくなく富士山は裾野が見えるだけであった。
 夕食前に娘の旦那と焼酎を飲み始め、夕食時は葡萄酒を飲んで、部屋に戻ってまた飲んで、近くのコンビニに娘と長男と買い物に行ったことさえ翌日の記憶は斑模様。ペンションのオーナーの奥さんがランニング歴9年で、昨年初めてロードレースに出たという。スリムなその若い女性のランニング姿を想像(妄想)してしまった。

 16日は鳴沢村-ここのアップダウンの厳しいハーフマラソンも一度走っている-でフォレストアドベンチャー。年寄の我ら、特に家人に合わせてレベルの低いキャノピーコースであったが、それでも楽ではない。途中で家人がアスレチックネットを上れなくなり、四苦八苦し、オレは高所からカメラを落下させ-軟らかい土の上だったのでヒンジの小部品が外れただけで済んだ-、何はともあれ、身体に安全上のプーリーを装着してワイヤーに引っかけ、高所を跳ね歩いたり、1本のワイヤーを歩いたり、上から下に渡されたワイヤーにぶら下がってスライドしたり、楽しそうに遊ぶ娘の子どもたちの表情に嬉しくなったり、家人を世話する娘やはしゃいでいる娘の旦那の笑顔を見たり、とても楽しめた。機会があれば今度はレベルをあげて再度行きたいものである。
 特に予約した予定もなく、プランの候補にあったガラス工房に行こうと自分が言い出し、昼食後に西桂町のあしたばガラス工房に向かう。予約もなしで行ったらラッキーなことに、ホントにラッキーだったらしく、16:00からならOKと言われ、2時間の時間潰しに教えてもらった三ツ峠さくら公園で水遊びをする。人口ではあるが小川の中に入って水の流れで遊ぶのは何十年ぶりであろうか、小さい頃の山奥の鉱山での水遊びや奥会津での鰍とりを思い出した。こぢんまりしている所だけど、シートを張って飲食をしたりする家族もあって、緑に囲まれた素敵な場所であった。三ツ峠は気軽な登山として人気があるらしい。
 ガラス工房では一人40分ほどの時間をかけて自分だけのグラスなどを作る。二手に分かれ、娘の旦那とその子どもたちはグラス、娘と家人は皿、自分はジョッキにチャレンジ。釜の近くだし、高温に熱せられたガラスを吹いたり回したり絞ったりと、暑い。でも楽しい。娘の子どもたちは熱で顔が少し焼けたようになっている。ガラスをいじっている一連の流れのなかで、これにはまりそうになる自分がいる。展示されている工芸品をみて作りたくなる。できあがったガラス品はすぐに冷却釜に入れられ、混んでいるので少々遅れるが1週間ほどで自宅に送り届けられる予定。到着したらまずはハイボールでその美味を味わいたい。
 この日の宿泊は河口湖の貸別荘。きつい斜面に建てられた3階の別荘で、14人ほどの宿泊が可能になっている。娘の子どもたちは大はしゃぎ。レストランはゆったりできないということで、コンビニで買い込んだ食料、ビールをテーブルに拡げほぼ宴会。トランプをやったり、実際の所は娘の子どもたち-冒頭から「孫」の文字は使っていないし使いたくない-に遊んでもらった。3階の各階に別れて一番下の階は私、一番上は娘の旦那、真ん中は家人と娘とチビたちの4人。ベッドは余っているのだが、彼ら4人はそれぞれ二人づつになり、一つのベッドで眠ったとのこと。家人は娘の長男と一緒のベッドで寝たとのことだった。

 3日目の最終日。朝から腹がもたれている。飲み過ぎか食い過ぎか、多分前者であろう。自分一人だけ昼食会場には行かず、薬を飲んで横になっていた。酷いことはないのだが、どうもしっくりこない。1時間ほどして皆が帰ってきて、溺愛している-溺愛のほどが相手には十二分に伝わっていないようでもあるが-娘の娘が入ってくるなり、ジジはどことの言葉を発してくれたことに感激。
 ホテルのまえで富士山をバックに写真を撮り、向かったのは貸しボート屋さん。3人づつ2組に分かれ、湖上にこぎ出す。風があるせいか漕ぐ足が結構きつい。湖上で互いに写真を撮ったりしてあっという間に所定時間の20分が過ぎるが、これ以上は漕ぎたくない。しんどい。
 笛吹市に向かって蒲萄狩りとオリジナルのラベルを張った葡萄酒・ジュース作り。自分でハサミをいれた蒲萄は甘くて美味しいのであるが無制限に食べているとさすがに倦きてくる。それにしても娘の娘はボトルケースに腰を落とし、飽きもせずにひたすら食べていた。その兄の方は形の良い蒲萄を見つけてはそれを取る作業に夢中になっていた。
 同じく笛吹市の信玄餅で有名な桔梗屋工場に行く。暑い。工場見学とアイスクリームと、ちょっとしたお土産を買い、あとは帰路についた。自宅に到着したのは夕方6時頃。録画をしておいた海外ドラマや錦織圭のテニスを観てベッドに入ったのは24時近い。そういえば珍しくこの日は一滴の酒精も体内には入れていない。翌18日も同様。二日続けての酒精なしは極めて珍しい。

 娘の長男の台詞ではないけれど、Mチャン(私の娘)来年はどこ行くの、と聞けばそんな先のこと知らん。企画するのは大変なんだよ、だれか変わってほしいとも言うが、オレと家人は一切口を出さずに任せっきりにすることを良しとし、モットーにしている。息子が絡めば、北海道か沖縄になる可能性が高くなるかも。

2016年8月5日金曜日

新書一冊

 昨夜は友人たちと酒。ビールから始まって日本酒は控えて1杯だけ、ハイボールは多々。いつものように飲んでいるときは深酔いしていないと自覚するのであるが、翌朝になれば、前夜の深酒を少しは反省する。よく飲んでよく食べた翌日の今日はほぼ絶食とする-家人の誘惑がなければ完全な絶食であった。

 <菅野完 『日本会議の研究』(扶桑社新書、2016年)>:日本会議が出版差し止めを要求したことでも話題になった。あの扶桑社がこのような新書を出すことに意外性を覚えた。
 よく調査しているし、論拠の根拠も提示している。日本会議の歴史をワンセンテンスで言えば、「我々はまだ、長崎大学正門前のゲバルトの延長を、生きている」(293頁)のである。社青同を中心とした左翼学生が活動していた長崎大学で、生長の家信徒たちが正常化に成功し、その後日本会議へと続く(現在の生長の家は日本会議からは離れている)。そしてそこに群がる人、団体、地方議員に国会議員たち。
 今朝(8/5)の朝日新聞3面に「日本会議研究」が載っている。記事でのインフォグラフィックを良く見ると象徴的な内容が表されていることに気づく。それは①日本会議の会長の上に事務総長(椛島)があり、②国会議員懇談会会長(平沼)の上に特別顧問(阿部と麻生)が位置すること。中核が誰なのかが分かる。

 時々思うのだが、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」、「美しい日本の私」(川端康成)、などの「美しい」はどの言葉にかかっているのであろうか。美しいのは”日本”なのか、”日本の憲法”(”憲法”)なのか、”・・・国民”あるいは”・・・会”なのか、まぁ通常は美しい”日本”なのであろうが、そうではない「解釈」もできないことはない。何せ、憲法もいろいろと解釈できるようだから。川端の『美しい日本の私』にしても「美しい日本、の私」なのか「美しい、日本の私」なのか。大江健三郎の「あいまいな日本の私」の「あいまい」も“日本”なのか、“日本の私”なのか曖昧な気がするのだが、オレって読解力がないのか。英訳の“Japan, the beautiful, and myself ”や “Japan,the ambiguous,and myself ”の解釈には迷いようがない。

2016年8月3日水曜日

本を読んで、漫画を見て

 都知事選劇場が終演となり、舞台を変えて都議会劇場開演となる。石原慎太郎の厚化粧発言の横でエヘラエヘラしていた増田候補が翌日になって、日焼け防止で私も厚化粧との弁明には嗤えた。参議院選挙から都知事選までの連日の報道には辟易となる事も多かった。政治家が口を開いて何かしら喋ると虚しさを覚えることが多い。

 ここ数週間の読書と漫画。忘れまいと身近に置いてある未読の本がなかなか減らない。

 <阿部謹也 『「世間」とは何か』(講談社現代新書、1995年)>:以前友人と飲んでいたとき、位牌や仏壇の存在に関して否定的態度をとったら、その友人は意外にも「世間が許さないだろう」と簡潔な言葉を発し突き放してきた。そのとき、世間一般で言う「世間」をオレはよく理解していないことを自覚した。母親が世間=他人の目を意識し、親戚の評価に気配りをするとき、オレはいつも反感を抱いていたが言い合うのも面倒くさくて聞き流す、あるいは迎合した態度をとっていた。以前ほどではないが今でも他人から「世間」を意識させられることがある。
 戦後になって日本人は悪しき個人主義に洗脳され、美しき日本を忘れてしまった、なんていう人もいる。世間の中に溶け込み、個を出さないことが良き生き方であるかのように暮らしている人もいるし、また、逆に、世間を意識してそこからはみ出していることに人生の快感を得る人もいるようだ。出る杭は打たれるという。しかし、埋没してしまう杭は腐るだけという捉え方もある。埋められて腐るなら打たれても出ている方がいい。
 この本は、「世間」をどのように捉えたか、描写していたのかを万葉の歌、真宗(親鸞)、西鶴、漱石、荷風などから引く。結論的に言ってしまえば、「社会」や「個人」の言葉が出てきた明治以来、万葉時代から使われて長きわたって私達を拘束している「世間」の存在に私たちは感づいてはいるのだが、それを「対象化することが出来ず、そのために」漱石の「坊っちゃんに身を寄せて架空の世界の中で『世間』をやっつける楽しみを味わってきたのである」。分かりやすい。名著と呼ばれるに相応しい。

 <小林よしのり 『民主主義という病い』(幻冬舎、2016年)>:漫画。フランスでの食事の描写は全く邪魔でしかない。
 「選挙権も、被選挙権も、試験を受けて合格した者だけが獲得し、民主制に参加できるようにすべき」とする立場はオレも同じ。「エリートの『寡頭制』」と言ってしまえば角が立つが、少なくとも民主主義礼賛には違和感がある。小林が「あまりに多くの阿呆が国会議員になっていると思わんか?」と嘆くのは当たっているし、マスコミも萎縮しながら、且つバランスを取りながらその阿呆を非難しても何も本質的は変わらない。阿呆な国会議員がなぜ誕生してしまうのかを継続して取上げなければ意味がない。しかし、阿呆な国会議員が自らの阿呆さを正して法を変えることなどありえない。阿呆を正すに阿呆を選ばなければならぬという阿呆なシステム、それが今の民主主義。
 『日本書紀』に記述されていることを史実として捉え、「公民主義」を主張することには賛同しない。

 <浦沢直樹 『BILLY BAT⑲』(講談社、2016年)>:時は2017年。この物語、どのようにエンディングを迎えるのか、興味はそれに尽きる。

 <高野秀行 『未来国家ブータン』(集英社文庫、2016年)>:GNH(Gross National Happiness)と国王の来日で一時話題を集めたブータンは標高の高い山岳の地であると思い込んでいただけに、「標高200メートルの熱帯」地域があるとは意外だった。何年か前にテレビでブータンの映像が流れ、ゆったりとした時間が流れていると感じていた。
 ブータンは伝統文化と西欧文化をブレンドし、先進国のいいとこ取り&悪いところを回避しているという。発展も環境への取り組みにも「継続する」ことを前提に置いており、それを実現している。環境が大事、伝統が大事と先進国はいまになって気付いているが、ブータンは先取りしている。故に、ブータンは、先進国である我々に追いつくことのできない、「未来国家」であると捉えている。
 翻って、日本は明治期に西欧へ追いつこうとし、馴化し、いまになって明治への回帰を声高に叫ぶ一群がいる。明治の何に回帰しようとしているのか、問い続けねばなるない。明治20年を境にして日本の美は変質したと考える人もいるし、「美しい日本」と冠を付けたがる人々もいる。この国は一体どこにベクトルが向いているのだろう。・・・ブータンの「継続する」という姿勢がある種羨ましい。

 <高橋源一郎 『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書、2015年)>:朝日新聞をとっているから「論壇時評」には目を通している。しかし、内容は忘れていることが多い。まとめて再読してみようと思い手に取った。以前から「民主主義」には懐疑的になっていて、最近はより度合いが強まっている。「民主主義」を積極的に否定するのではなく、「民主主義」を礼賛することに「でもさ~っ」という抵抗感があり、あるいは、「民主主義」という言葉で人々の言動を逆に束縛し、本質を見えなくしているんじゃないのっていう思いがある。日本は「民主主義」の国家と言うよりは、「民主制=多数決による取捨選択」の国家と理解するのが的を射ている。そして今の多数決による「民主制」に「民主主義」的運用は成されていないと考えている。

 <雨瀬シオリ 『ALL OUT 5』・『ALL OUT 6』・『ALL OUT 7』(講談社、2014年・2015年・2015年)>:登場人物の区別がつかないのは相変わらずだが、描かれるラグビーは以前より面白く感じられてきた。それはポジションの役割と求められる能力などが具体的に解説され、それに取り組む選手が直向に取り組んでいるからであろう。
 オレは高校時代にスポーツは全くせず、その頃の日記には下宿での勉強内容と時間、試験の成績や順位などを記入していたがことが多い。何かやり残したことがあるのではないかと今でも思うことがある。それは大学入学時、附属高校から大学に進学してきた連中は音楽や文学作品に詳しく、それを羨ましく思えたことと相通じている。大学でも会社でもスポーツに打ち込んだ人たちに羨望を抱いたのも事実。家人もテニスではそこそこのレベルにあって、少しばかり羨ましくもあった。スポーツは素晴らしい、但し、脳みそまで筋肉化させた人は除外。
 閑話休題、ラグビーだが、9月も近づきつつあり、今季の早稲田ラグビーはどうなるか? ため息混じりの観戦となるのか、歓喜で右腕をあげて隣の観客と握手をすることが多くなるのか・・・? 最初の試合は海老名だ。隣接する綾瀬市に住み、海老名の事業所に6年半ほど通っていた。かつての生活の場所を訪れながら成蹊大戦を観戦に行こうかな。

 <長岡弘樹 『赤い刻印』(双葉社、年)>:短編4作。表題作はまぁまぁという感じで、あとは以前ほどには楽しめなかった。伏線をちりばめるのに労多く、ストーリーにやや無理があると感じた。こっちの小説への読み方が変わってきたからかもしれない。

2016年7月25日月曜日

雑記

 7月19日朝のテレビ朝日でお詫びがあった。前日遠藤周作の写真に伴淳三郎の写真を使ってしまったというものだった。間違えてしまうほどには両者は似てはいない。共通点は眼鏡をかけていて深味のあるイイ顔だということ。狐狸庵先生こと遠藤周作の『沈黙』は高校時代に読み、伴淳三郎が刑事役だった「飢餓海峡」も高校時代にはじまって何度か繰り返し観ている。二人の写真が取り違えられるとは、オレの過去もかき混ぜられて判別のつかない領域・時代性に入りつつあるということなのか・・・。

 都知事選のニュースが繰り返される。3人のニュースが流れてから付け足したように残り18人の一覧が短時間提示されるが全てを読むことはできない。名前を知っている候補者は届け出順に桜井誠、マック赤坂、山口敏夫、上杉隆。何年か毎に大金を費やして開催される都知事選劇場といった感が強い。名前の連呼と握手の繰り返し、この二つの代表的選挙手法を禁止したらいいのに。

 ポケモンGoが全世界で話題となっている。土曜日(23日)に酒屋へ行く途中、横断歩道でそれらしき人を見かけた。30代前後と思しき男性がスマホ片手に時々顔をあげて周りを見ることを繰り返していた。善し悪しは別として、多くの人たちが同じような所作をすること、および時間を費やすことに違和感を覚えてしまう。

2016年7月17日日曜日

高校同窓会小旅行

 15日、茨城県日立市鵜の岬にて高校同学年同窓会の宴会。団体でどこか名勝地を巡るということはなく、15日に集まって宴会をやり、翌日は現地解散。自分を含めて4人は銚子に前泊で小旅行小宴会。
 14日8時に自宅を出発するもすぐに渋滞に引っかかり、春日部を抜けたのは約40分後。その後も2回ほど渋滞があり、多摩と足立区からの二人を我孫子でピックアップする予定時間には25分ほど遅れてしまった。3人になってからはひたすら走り、会津若松からの一人とは銚子のホテルで待ち合わせ、12時15分ほどに合流。
 KYの車に乗って先ずは銚子港/浜めしで昼食。ビールも飲んで(運転手役のKYはノンアルコール)、犬吠埼に戻るも靄っていて視界が悪く、眺望は最悪。どこへ行こうかと迷い、利根川沿いを走り、香取神宮に行った。由緒ある、全国でも有数の古い社であるが、参道に入る前の土産物などの店は廃れている。参道に入ってからは緑濃く、厳かな空気に少しは包まれる。
 この日2回目の国道356号線を走ってホテルに戻り、汗を流した後は食事&酒。部屋に戻ってからはKY持参の純米大吟醸4合瓶3本=飛露喜・天明・田酒を空ける。翌日ISが言うには自分とSJで一升は飲んでいるとのこと。否定はできない。

 15日は先ずは大洗かあちゃんの店で生しらす丼。普段は食べない朝食を摂っており、まだ10時少し過ぎでもあり、腹は減っておらず、さすがにご飯は残した。生しらす丼は食べてしまえばこんなものであろうと思い、やはり以前静岡から送ってもらった釜揚げしらしの味が忘れられず、すぐ近くの店でみると安い。車の中には入れておけないと言うので宅急便で自宅に送っておいた。
 この日は寒く、七分丈パンツを長いパンツに履き替え、向かったのは偕楽園。自分は初めて。好文亭に入るとき、パンフレットにあった中国語の簡体字と繁体字についてちょいと口に出したら、館内のオバサンから教えてと言われ、いい気になって教えたら、帰るときも呼び止められ、仲間の3人に随分と遅れてしまった。
 偕楽園の次は袋田の滝。ここを訪れるのは17-8年ぶりだが観瀑の場所までの道などには全く記憶が残っていない。懐かしく思い出されるのは、今はいない愛犬が小さな身体でピョコタンピョコタンと階段を上り、その姿を見ている人たちからカワイィーと言われたこと。家人と娘とその愛犬で行ったことがついこの間のように思い出される。
 ここから後は鵜の岬に向かう。この日はKYの車にSJ、自分の車にISが乗り、自分の車ではポップスを流しっぱなし。最初はエレキサウンド、次は洋楽ポップス、そして日本のポップスに移り、最後の1時間はいわゆるHソング。最後のHソングは笑いっぱなしであった。
 15時を過ぎていただろうか、ホテルについて皆と合流。総勢12人の同窓が、煙草組、鼾組、普通組と4人ずつの3部屋に別れ、風呂などに入ったあとは全員で宴会。飲んで語って歌っての楽しい時間は過ぎた。自分は当然の如く鼾組で、並べられた蒲団を移動して各自適宜な距離を取り、鼾の合唱と静けさの繰り返しで爆睡に入った。

 16日は9時過ぎに現地解散し、一人で車を走らせ、最初は日鉱記念館。そして自宅に向かうルートと照らし合わせて高取鉱山に向かう。高取鉱山には結局は行けなかった。この日のことは鉱山関連に特化したブログに記す。

2016年7月13日水曜日

選挙をめぐっての雑感

 都知事選を巡るニュースが賑わしい。都民ではないという理由ではなく、この都知事選にも他の選挙と同様に距離をおいて眺めている。正しくは傍観している。同じ事が繰り返されるテレビでは苛立ちもあり、チャンネルを変えて海外ドラマをみることも少なくない。

 参議院議員選挙では、安倍首相の政策が評価された(15%)のではなく、野党に魅力がないという理由が71%だったと朝日新聞デジタル版(7/13)に載っている。さもありなん、都知事選候補者をめぐる民進党をはじめとする野党の迷走は滑稽でもある。
 何か食おうかと店に入ってカウンターに座ったら、碌なメニューが並んでいない。しょうがないから、さほど不味くもなさそうなものを取敢えず食おうかといったようなものか。或いは料理しようと庖丁とまな板を出したのはいいけれど、俎上に載せる材料に食欲をそそるものがなく、しょうがない新鮮ではないが冷蔵庫に入っている、少し賞味期限がぎりぎりだが食えるもので我慢しようか、そのようなものなのかもしれない。

 7/11に自由民主党東京支部連合会が、地域総支部長・選挙区支部長、常任総務、各級議員宛に「都知事選挙における党紀の保持について」を発した。そこの3番目に記載されていることは、「各級議員(親族等含む)が、非推薦の候補を応援した場合は、党則並びに都連規約、賞罰規定に基づき、除名等の処分の対象となります」。ええっと思った。これってムラ社会の典型じゃん。「俺達が決めたことに少しでも反したら村八分くらいの処分は覚悟しておけよ」とムラの庄屋が板の間の端に立ち、一段下の土間に正座する農民を睥睨している様を思った。
 通達を渡された東京都自民党議員とその親族は反発しないのであろうか。彼ら彼女らから冗談じゃないとの声が出なければ、それはそれで呆れてしまう。親族と言えば民法では6親等内の血族、配偶者、3親等内の姻族まで指すから、議員の高祖父母からその兄弟、またいとこも含んで、玄孫どころかその子の子まで含む。通達を出した石原会長もそこまでは意識していないと思うが、いやな世の中というか、恐ろしささえ感じる。この前に読んだ本に書かれている、「想像上の一体感」そのものである。

 鳥越俊太郎さんが都知事選に立候補した。「参議院議員選挙の結果をみて危機感を抱いた」との談を聞いて、ちょっと違和感を覚えた。「民主主義に基づく選挙」を是とするならば、この参議員選の結果を生んだ選挙民に対して尊重する態度が欠けているのではないかという違和感である。このような結果に繋がった人たちに対し、結果を見てもう一度考えてみませんか、というのが最低限の礼儀であるような気がする。もしオレが選挙をして、それなりに知識のある人から、この結果には落胆して危機を覚えたと言われたら、先ず反発心が先に出てくると思う。
 それにしても、一国以上にも相当する予算を持つ自治体の首長を選ぶのに選挙期間が短すぎる。米国大統領選のように長期にわたってとは思わないが、数ヶ月くらいの期間を重ねて政策を巡る議論、あるいはあら探しに誹謗中傷まで織り交ぜてやるほうが選挙の中身を濃くするんではなかろうか。まぁ、結局は抽象的希望的展望と方針、およびに名前の連呼がビルの谷間の空気を裂いてくるのは間違いない。
 
 誤解曲解も非難も、悪口雑言罵詈誹謗も恐れずに言えば、オレは20代中半から長年にわたって投票所から距離を置いている。

2016年7月11日月曜日

庭仕事、選挙

 久しぶりにジョイホの庭木エリアに足を運び、背の低い樹木と花などを買い、30℃を超える中で樹木の移動と追加を行った。蚊に刺されるのが嫌なので長袖のつなぎの作業着を着て首にはタオル、足は長靴、頭には麦わら帽子という姿はさすがに暑い。スコップで土を掘り、庭木を立て、ついでに隣接する木の葉を落としす。家人と二人でやったのだが、すぐに休みたくなる。昔は長時間黙々と身体を動かしたのであるが、体力も耐力も落ち、早く終えようと何の足しにもならない減らず口だけは多くなり、それでも2時間以上は要した。シャワーを浴びてコンビニにビールを買いに行き、そのビールがすこぶる美味しい。500cc2本を飲んだら昼寝モードに入ってしまった。


 今日は選挙。テレビのチャンネルをどこに回しても殆どが選挙に関する番組。新聞での予想通りに「改憲4党、3分の2うかがう情勢」との報道がなされている。新人ですから党の方針に従っていくだけですとの自民党候補者が当選し、街のおばちゃんがイケメンぽい候補者と嬉々として握手をし、あべちゃんは素敵よね投票するわとスマホ片手の初老のおばちゃんも、これもあれも民意なのであろうし、歯舞を読めなかった大臣が落選して沖縄から自民党議員がいなくなるのも民意。鹿児島県に原発停止の知事が誕生し、歌手が比例で当選し、神武天皇は実在するという元女優も当選。そう、イイもワルイもなしに、それもこれも民主主義国家の選挙結果。オレはそういう選挙から離れている。


 今日は酒を飲んでいないと言ったオレに向かって、ビールを飲んでたじゃないとは家人の言葉。アルコール度数の低いビールに酒という認識が欠けているのかもしれない。だからこれからウィスキー片手に本でも読もうかな。今夜はSTRATHISLA YEAR 12 OF AGE、グラスは(多分)与論島で購入したもの。・・・美味い。

2016年7月10日日曜日

日本的ナルシシズム

 都知事選、参議院議員選挙が連日テレビや新聞で報道されている。市政であろうが国政であろうが選挙ではいつも大きな違和感というか嫌悪感がでてきてしまう。名前の連呼、声高の抽象的方針などを耳にする度にうるさく感じる。まして、幟を立てて統一された色のジャンパーを身にまとい、うるさく歩く集団をみると滑稽とさえ思う。突き詰めれば、結局はこういう日本はどうやって出来上ってきたのか、日本的集団行動はなぜ生じるのか、等々への思いがあって、その良くも悪くも「日本らしさの起源」に得心したい。 

 <堀有伸 『日本的ナルシシズムの罪』(新潮文庫、2016年)>:日本の集団的行動、過剰な自国賛美、曖昧な結論と誤魔化し、優しい国民性、自然災害への耐性、などなどの傾向はなぜ生じるのか、生じてきたのか、この新書を読んで数歩は前に進んだ気がする。個人の尊厳と集団利益、自然との対立/宥和、現実(具体・感覚)容認と抽象・理論の回避、絶対権力と飾られる権威、道徳と法、自我が対立する対象、日本語の言語特性、・・・・・。繰り返しでてくる「想像上の一体感」がわかりやすい。しかし、この本で説明される図は文章をよく読まないと判りにくい。何度も振り返ったが今ひとつ判っていない。
 三土修平『頭を冷やすための靖国論』(ちくま新書、2007年)115頁の図(「公」の平面に貼り付く「私」と直角に向き合う「私」)がわかりやすく、この図を成す起源と現象を頭に置いて考えるとすっきりしてくる。また、ヨーロッパの絶対王制においては誰も王に代われないが、権力のない「天皇」に対しては誰もが「小天皇」として天皇に代わり得る(なりすませる)。この「小天皇」という論理は、日本の、特に戦前における集団主義と支配の形を納得させる。ラディカルなまでの平等主義は激しい競争社会に繋がり、羨望を生み、分業システムに貧弱となってタテ割り社会を生み、優れた官僚社会を生んだ。・・・・明解。
 「母親と幼児の対立/依存性」から「日本的ナルシシズム」への絡みは今ひとつピンと来ていないが、「日本的ナルシシズム」とは何かということに対しては、本書に書かれている内容と現実を照らし合わせ見ると分かりやすい。
 著者の主張をごく簡単にまとめてしまうと次のようになるであろう。すなわち、日本は、「想像上の一体感に依存する精神性を克服して、責任を負える自我の能力が養われる必要があ」り、一方、「過度の抽象化や理論化に不健全さを感じ、体験に基づく直感、自然との接触、親密な人間関係から受ける情緒的な影響を重視して行動する日本文化には、西欧近代の行き詰まりを乗り越える潜在力がある」。 

 報知新聞調査で、選挙民の8割は憲法改正2/3というその「2/3」を知らないらしい(8日朝のテレビ朝日)。意外だった。あれだけ新聞やテレビで報道されているのに、多くがそれを知らないなんて、もしかしたら憲法に触れない安倍首相の作戦が功を奏しているのか、或いはこれが民衆の現実なのか。要は、この国の先の姿を左右する選挙であるのに、所詮民主制選挙はこれが現実ということなのであろう。そもそも参議院議員選挙と衆議院議員選挙の何が違うというのだろう。参議院が「良識の府」であらんとするなら、政党排除、立候補者制限、などという提案が出てもおかしくないと思うのだが。
 映画『雨上がる』の宮崎美子の台詞を借りれば、「大切なのは何をしたかではなく、何の為にしたかではありませんか」であろうが、見えてくるのは、「議員になるにはどうすべきか」だけを考えてがなり立てているようである。

2016年7月9日土曜日

即興

 残存する唯一の機能に鞭打てど、大地を穿つ勢いもなく、人生の悲哀は垂れ下がり、嘆息混じりに曇天を仰ぐ。

 石穿つ雨垂れを見て人生の普遍を語る賢人。その傍らで滴を払う我、眼下に見ゆる短く細き軟弱な一物に来し方の我が人生を投影す。

2016年7月5日火曜日

久々の早稲田ラグビー新聞記事

 サンスポに久々に早稲田ラグビー記事が掲載された。タイトルは「黒星も収穫!早大期待のルーキー・斎藤が“アカクロデビュー”」であって、黒星続きの中で斎藤への期待が大きいことを示している。今春の高校ラグビーにおいて桐蔭の中核であった斎藤の、気の強そうな表情ときびきびした姿がまだ脳裏に残っている。
 これまた久々に『早稲田スポーツ』に山下監督のコメントが載っており、ここでも斎藤への評価は高い。SHがいいときの早稲田は強いので秋に期待したい。1年のCTB中野-逸材-、SO岸岡、FB梅津への好評価もある。東北・岩手県の黒沢尻には個人的に愛着のある地であり、そこの高校(黒沢尻北)出身の梅津にも期待したい。横山はやはり怪我であり、いつ出てくるのか、そして岸岡のポジション争いも楽しくなりそう。横山は高校決勝のときに大怪我をしており、今後の状態に少し不安を思ってしまう。あと、これも偏った見方ではあるが、黒木に出てきて欲しいし、桑山兄弟には揃って試合に臨むのを見てみたいものではある。Dチームに出ている岸野楓へも応援している。秋田中央出身の三浦にも(秋田には三浦が多く、秋田市には何人かの三浦姓の親戚がいる)。
 フロントも何となく形が見え始めた感じがする。春は怪我ででていない選手もいるし、アタックの練習はあまりしなかったようだし、メンバーは常に変動していたし、春の惨敗続きの経験を踏まえ、Aの網走での合宿、例年の菅平での合宿を経て、秋には春とは全く異なる次元の早稲田ラグビーに接したい。

2016年7月4日月曜日

クーラー、テニス、ラグビー

 7月に入った初日、蒸し暑い。保険会社の抽選に当たったダイソンの扇風機-羽も扇もないので扇風機と呼ぶのは妙なもの-だけで過ごしてきたが、風呂から出た夕方にクーラーのスイッチを入れた。今季初となる。以来、続けてクーラーの冷気に当たっている。以前の自分からすれば随分と遅い。10年以上前は5月でもクーラーを稼働させていたのだが、体感温度の感度が落ちてきたのであろうか。

 深夜にウィンブルドンの試合を録画し、錦織の活躍を楽しんでいる。テニスの試合時間はなかなか確定しないのであるが、今年のウィンブルドンは雨が多く、何度も中断あるいは順延となっている。NHK総合でまとめられた放送をするので、無駄な時間がなくなる有り難さを享受している。大坂なおみさんが欠場しているのが何とも残念ではある。また、錦織以外の男性選手がすぐに消えてしまうのが残念。

 予想はしていたが、早稲田ラグビーは東海大学にも完敗。B・Cも含めての完敗であり、敗戦のスコアを見るのにも慣れてきている。法政にも負けているし、今はどん底といったところのようである。最近は本田も出ていないし、横山も黒木も、松井も宮里も桑山兄もリザーブにら名前が見えない。斎藤直人はU20が終わってやっと出てきた。期待している。
 怪我が多いのか、また、しょっちゅうメンバーが替わっているのはいろいろトライしているのか、さっぱり解らない。コーチ・監督の方針というかビジョンというのか、見えるはずもない。結果のスコアと観戦記しか見ていないので何が足りなくてどこが弱いのかも理解していない。夏合宿を経て本番の9月までは三ヶ月ない。一体どうなるのだろうか? 

2016年7月1日金曜日

雑感

 ある会の会報が送られてきた。会長の巻頭言を読んで、その情緒的・感情的な側面だけを基底におく「古き日本への憧憬と現代日本への嘆き」に呆れ、拙劣な文脈に腹立たしさも覚えた。日本の歴史をしっかりと学ぶ必要があるとの主張には共感すれども、歴史の中に何を学ぶのか、その視座の据え方が重要であろう。自らの情緒的観念の正当性を確認するために読書をするならば、それは誤った読書の方法である。読書の重要性を主張しながらも、失礼をかえりみずに言えば、もしかしたらこの人は読書の意味を理解していないのかもしれないとさえ想えた。

 参議院議員選挙に都知事選挙、何かしら滑稽とも感じてしまうことが多々ある。そもそも「良識の府」であったはずの(あらんとしたはずの)参議院議員選挙が衆議院議員選挙と同じシステムで行うことが妙ちくりんである。議員数に圧倒的な差異があるのに関わらず、連立政権と堂々と言っていることにも違和感を覚え、また、ある地方では地元の意見が反映されないからといって地方議員数の削減に怒っていることも筋違いではなかろうかと思う。国会議員はあくまでこの国の政治を担うのであって、地方のことは地方の県議会があるではないかと思うのだが間違っているかしら。

 明日から7月。今年の半分が経過した。2週間ほど前に息子に子供が誕生した。単純に可愛い。セブン-イレブンに行く途中で娘の長女を見かけ、行くかと声を掛けたら長男も顔を出して一緒に行った。並んで歩いている二人の後ろ姿は互いによく似ている。幾らでも買っていいというのに、彼・彼女は自己抑制を利かせている。

2016年6月28日火曜日

ブログの引っ越し

 ブログのプロバイダーを昨年(2015年)夏に引っ越しをしたが、引っ越し先でのブログサービスが明年1月31日にて終了となる予定。引っ越し先を検討していたが、やっとここ(Blogger)に決めた。選択にいろいろと迷ったけれど、ここにした理由は主に、①無料で広告がないこと、②サービスの長期間維持が期待されることの2点。Bloggerは利用するには少し面倒なところもあるが、上記①②が大きかった。広告なしを前提とする点では他の有料プロバイダーも考えたが、もう67歳だし、料金自動引き落としでは、この先もしものことを思うと自分以外の家族がフォローするのは面倒であろうとも思った。

 Bloggerは構築が少し面倒。前のプロバイダーからの引っ越しは考えず、手ぶらで新居に移り、一から新しいブログを書けば楽だったのであるが、ちょいと欲が出て、丸ごとすべての内容を引っ越そうとした。前のブログには写真を載せずに文章だけだったので比較的楽であろうと予想した。しかし、これが面倒だった。丸ごとの引っ越しをやめればいいのであろうが、意地を張って兎に角前のブログの内容をすべて引っ越そうとした。あちらこちらのweb上で参考になるところを探したりしたがかなり面倒。それに初めて知ることも多かった。

 以下、引っ越しの経過。
 (1) ブログをエクスポートするのにはMT形式(MovableType)なるファイルの作成が必要。
 (2) 前のプロバイダー(BLOGari)ではその出力が用意されている。
 (3) MT形式をBloggerに適用する形式で変換せねばならないが、よく使われる方法(*)が今はwebから消えている。(*Blogger2Wordpress conversion utility)
 (4) ならばとたまたま見つけたgoogle-blog-convertersであるが、これをDLしても使い方が面倒みたい、というか解らない。
 (5) 必要とされるPython2.xって何なのか解らない。しかもbinフォルダーの中にMTファイルを入れるとか何とかで、すべてコマンドプロンプトでの操作。コマンドプロンプト操作は随分昔に基礎の基礎レベルでいじっただけで、今の自分にはハードルが高すぎる。まして基礎知識のある人に向けての手順説明は理解できない。
 (6) 結局行き着いたのが、MT形式テキストファイルをblogger向けにxmlとしてコンバートすること。で、MT形式ファイルをダイレクトにbloggerにコンバート&インポートができなければ、間に別のプロバイダーを介在させてしまえばよいと考えた。
 (7) 一時的な利用としてWordPressに登録。
 (8) 美しくないけれど、やった手順は以下。
   BLOGariブログサーブスでMT形式ファイルをエクスポート → WordPressにインポート → WordPressでエクスポート → Bloggerでインポート。
 (9) これでスマート(?)に引っ越しができた。何日間か試行錯誤、五里霧中、右往左往といった状態だったので、今のこのブログにスパッと引っ越しできた時はもう喜びがいっぱい。ただ、各文章の冒頭の段落(スペース)が対応できなかったこと、記事作成日時にズレができたことは、多分何か対処方法があったと思うが、それを探索するのは時間の無駄と思い、腕力で一つ一つ修正をかけた。
 (10) 最初のブログ(easy my web)では9年間のブログで記事数も多く、当初より引っ越しは念頭になかった。フリーソフトでバックアップ(html)をとっておくことにとどめた。

 ブログの引っ越しという初めてのことで、ましてブログ関連の知識もなく、難渋したが、結果的にはいい勉強になったし、終わってみれば楽しかった。
 この始めたばかりのbloggerでのブログ、まだ確認不足もあり、少しずつは改めて行くつもり。

2016年6月26日日曜日

英国国民投票でちょいと思うこと

 国民投票によってイギリスがEUを離脱することが決定した。見通しのつかない今後へ呼応するように株価は大幅に下落し、急激な円高になった。少しばかりの自分の投資も損失を食らうだろうが、放っておくのが基本姿勢なので、楽観も悲観も感じず流れに任せているだけで、所詮よそ事の感覚しかない。

 投票結果についての分析がいろいろ成されている。曰く、若年層は残留派、高齢者層は離脱派。ロンドンとスコットランド、北アイルランドは残留派が多い。THE HUFFINGTON POSTによればEU離脱決定後イギリスの人たちが検索しているのは、1位が「EU離脱の意味は?」であり、2番目は「EUって何?」であり、続けて「EUに参加しているのはどこの国?」、「EUを離脱したら何が起こる?」、「EUには何カ国参加しているの?」。これって、投票前のことではなく、離脱決定後のことであることに着目する。要は、結果が出てから結果後の成り行きに関心を持っていると言うことで、本来は投票前にすることであろう。

 自給自足を例外として、生きていく基本条件の最重要なことは経済的安定性である。移民・難民に仕事を奪われて云々というその基底には自らの経済的基盤が崩れることにあるし、大国イギリスを懐かしんでいてもそれは国際経済での位置づけが高かったことでしかない。あるいは昔の大航海時代の栄光を夢見ているのかもしれない。感じることは、素人が口を出すんではなく、経済や政治の専門家に委ねるしか方策はないと思う。
 住民投票や国民投票で結果を見ようとするのは、本来の「議会制」民主主義を放棄しているようなものであろう。選挙というプロセスを経る議会制民主主義に多くの欠点欠陥があるのは間違いないが、大衆に結果を委ねるのには大きな疑問を持っている。碌でもない議員も多いが、民主主義-いまは右翼もこれを唱える-を標榜するならば、それは選挙というプロセス、議会での決定プロセスなどを改め続けるしかない。そう思っている。

2016年6月25日土曜日

備忘録的旅行メモ

 一昨年2014年9月に鬼怒川・竜王峡にドライブしたときまでは写真を乗せたりしてブログにメモを記していた。が、それ以降は殆ど書くことがなくなっている。書かなくなった時期は以下に重なっている。すなわち、①通教の卒論作成に集中し始めた頃、②通教を何とか卒業してからオーディオ関連へ気が向いたこと、③鉱山関連のメモに時間を割いたこと。そして、2015年8月にブログを載せるプロバイダーを変更し、写真を全く載せなくなってしまった。旅行メモを作成するのには結構時間がかかってしまい、ついつい後回しになり、結局はほったらかしになってしまう。ブログに記していない旅行に関しては、パンフレット、案内書等々を棄てずに持っているので、そのうちに-この言葉がそもそもいい加減なのだが-整理することとしよう。

 ブログに記さないことは、旅行終了と同時に写真&動画を整理するのみで、旅行そのものへの様々な思いや感想を振り返ることがなくなり、数日間の日々や訪れた地を忘却してしまう速度が速いようである。

 2014年9月以降の旅行を時系列的に書いておく。
  2014年
    10月21-23日:中国地方西部
  2015年   
    4月18-20日:会津(高校同窓会とその往復)
    5月27-30日:瀬戸内海15島
    6月18-22日:ベトナム/ハノイ(高校同窓会)
    6月24-25日:小豆島
    7月18-20日:那須(家族旅行)
    8月19-21日:信州
    12月15-20日:奄美群島5島
  2016年
    1月25-26日:日光
    5月27-29日:北陸
    6月20-23日:北海道、道東

 いまのプロバイダーは来年早々にブログサービスを停止してしまう。いまは乗り換え先を準備中。今度はサービス停止になったり、吸収合併されたりすることがないようなプロバイダーにしたいものである。

2016年6月13日月曜日

バランス接続ポタアン

 据え置きシステムにおける“バランス接続アンプ&ヘッドホン”が期待以上に素晴らしく、スマホへもバランスイヤホンを接続したくなり、どうにもその欲求が抑えつけられなくなった。しかし、DACは不要で、要はアナログin-バランスoutのポタアンでいいのであり、見つけたのが2013年発売のラトックシステムREX-KEB-01。とても安価なので購入してしまった。
 これには標準ヘッドホンをバランスタイプに改造する2.5φマイクロモノラルプラグが付属しており、自作に取り組んだ。しかし、マイクロプラグは小さく、またイージーミスも重ねてしまい、2時間以上の時間をかけたのにあえなく失敗してしまい、プラグも壊してしまった。結局の所、ShureのSE215とバランス変換コードを追加購入。この二つでポタアンの倍ほどの価格となってしまった。
 全てが届いてからスマホに接続し音を聴いてみた。かけたコストに比して期待以上の音が出る。それからは電車に乗る度(といってもまだ御徒町への往復1回だけ)にポピュラー音楽をかけていて、イヤホンの密閉性と音質の良さに嬉しくなっている。

 今後、もしヘッドホンやイヤホン、あるいはアンプを買い換えることがあってもバランス接続対応以外はありえないと思う。ただ、バランス接続のプラグのタイプが多様であり、それだけは何とかならないだろうか。

2016年6月12日日曜日

Windows10化、ラグビー、樋口さんの新刊

 フリーのアプリを沢山入れてあることもあり、メインで使用しているPCのWindows10化は避けてきたし、Microsoftからの強制とも言えるメッセージも全く表示されないように設定していた。しかし、サブで使用しているSurface3はWindows10にしてあるし、別に不便も感じていないのでメインPCもWin10化した。もともと64bitマシンだし、もしアプリがWin10未対応なら適宜修正をかけていけばよいとした。やるべきことはあるのだが気が乗らないこともあり今日(12日)Win10化を図った。今のところ全く不具合はない。稼働させているPCでWin7は2台のみとなった。1台だけは32bit機であるし、何故かこれでしか動かないソフトがあるし、ある特定の使い方をしているので変更はしない。
 Win10化したことで操作が軽くなった。またhiberfil.sysとpagefile.sysをDドライブに移したのでCドライブの空き容量が増えた(両者合わせると18.4GBも使用している)。

 早稲田ラグビー、AもBも大差ぼろ負けの試合が続いていたが、今日の早稲田vs明治戦では負けたとは言え、19-24とやっと(!)まともなスコアになった。期待する主力メンバーが出ていないし、怪我なのかどうなのか全く解らないが、とにかく秋には強くなってくれと思うばかり。
 日本代表vsカナダ戦、26-22で何とか勝ったが負けても当然の内容だった。トライ数では負けているし(2T-4T)、カナダのプレースキックの低い精度(1/4)や最後の攻め切れなさで勝利がこぼれたようなもの。日本の肝腎なところでの反則、モールの弱さが目に付く。田村のプレースキック(6/6)で救われている。細田のペナルティは酷い。解説していた吉田義人さんは「勢いがとまらずしようがない」というような陳腐な擁護をしていたが、どうみて規律性のない低レベルの反則。両手を挙げている選手の頭に向けて左斜めからぶつかっては即退場は当然。代表初キャップで猛省であろう。総合すると勝負に勝って試合に負けたという感が強い。

 <浦沢直樹 『BILLY BAT⑱』(講談社、2015年)>「最終章開幕」と帯に書かれ、時代は現代に達した。

 <樋口有介 『亀と観覧車』(中央公論、2016年)>〔〕内は樋口有介さんのこと。出身が群馬の地方都市〔伊勢崎市〕で、東京の大学〔國學院〕を中退し、純文学を目指し、世界を放浪し、自棄を起こして学園ミステリー〔『ぼくと、ぼくらの夏』〕で〔サントリーミステリー大賞〕授賞した。それが38歳〔1988年〕の時。沖縄に移り住んで〔2011年から那覇に住む-現在も居住なのかは未確認〕、いまも独身。1950年生まれでオレより1歳下。このようにこの小説の主人公南馬は作者の経歴をトレースしていて、16歳の涼子と爽やかにイチャイチャする生活は彼の想い(妄想?)・願望を映しているのであろうヵ。樋口さんの小説が好きで全て読んでいるのだから、オレはまぁ自分の妄想(空想)を樋口さんに託していると言える。
 涼子(スズコ、養子縁組後からはリョウコ)の16歳は清澄で哀切があり、心地よい空気を漂わせている。いままでの一連の小説とは雰囲気が変化し、軽妙な会話は少なく、無色透明な静謐さが感じられる。が文体に変わりはない。妄想傾向にある初老の小心で酒好きな男(オレ?)には樋口さんの小説世界はいつも好ましい。
 16歳の涼子の台詞(163頁)が、曇天の中の一条の光りのようにキラリとしている。「だけどね 仕方ないことは仕方ないよ わたしは親や家庭(いえ)を選んで生まれたんじゃない だから人生って 本当はなにもかも 自分の責任ではないの でも自分の責任ではない人生を 自分の責任として生きるのが人生だと思うの わたしの言うこと ヘン?」。句読点を使わずにスペース(空白)で会話の流れを作るのが新鮮であった。状況に応じてそれを使い分けることで会話のリズム、ゆったり感が生まれ、絶妙にうまい。
 ・・・ジャガ芋ピザがまたもや出てきた。かなりの自慢料理らしい。そのうちオレもと言っても食べさせる相手(女房以外)がいない。

2016年6月1日水曜日

ヘッドホンのバランス接続

 外出することも少ないのに、ポータブルDACが欲しくなったりしていろいろな商品を調べてみた。オレのアンドロイドのスマホはOTG非対応なのでDACは使えない。Windows10のSurface3はもちろんDAC接続はできるが、せいぜい旅行時の宿泊時に便利になるだけでポータブルに費用をかける価値はない。調べていく中で今度はバランス接続に興味を持ってきた。音が格段に変わるらしい。ここでググッと引き込まれたのが時期未定なれど発売が予定されているSWD-HA10(真空管バッファ付D級アンプ搭載ヘッドホンアンプ)。自室ではSWDシリーズでシステムのメインを構成しているので、マニアックにこのHA10で揃えようかとの誘惑に負けそうにもなった。
 しかし、いままで知らなかったことがある。それはヘッドホン接続端子の多様性。持っているバランス接続対応のヘッドホンはSENNHEISER HD650で、これはXLR4対応。一方、SWD-HA10は写真をみるかぎりXLR3のLR接続。HD650バランスケーブルでXLR3対応のものは見つからない。とすればヘッドホンバランス接続ケーブルに加えてXLR3への変換コネクタ(ケーブル)も必要となる。これってなんか理不尽ですっきりせず、結局落ち着いたのがヘッドホンアンプSENNHEISER HDVA 600。
 HD650専用のケーブル(CH650S)とHDVA 600を購入し(プライスに何度か躊躇ったが最後は勇気と無謀さでいけ-っと発注ボタンをクリック)、届いてからすぐに接続し聞いてみた。アンバランスとバランスを何度か繰り返したが、バランスは素晴らしい音が出る。ヘッドホンでこんなにイイ音の世界が拡がるのかと驚く。上手く表現できないが、音の立体感というか奥行、滑らかな自然の音、アンバランスにしたときの音も悪くはないのだがそれでも平板に聞こえてしまうほどにバランス接続は素晴らしい音楽の世界に誘ってくれる。
 キチンとした接続をするために、DAC(DA20)とアンプ(TA10)の間にHDVAを入れ、XLRアンバランスのラインをTA10にスルー出力させる。このケーブル端子はXLR3-RCAとなり、適当な長さの既製品がないので、コネクタとケーブルをサウンドハウスに発注し自作することとした。ケーブルは以前と同じくMOGAMI 2549にし、コネクタはそこそこの安価なもので既製品よりは費用を抑えることができる。アナログプレーヤーのフォノイコ(GT40α)からHDVAへの接続も可能としたくなるが、2-1のラインセレクターに適当なものがないので、中継ケーブルを自作しケーブルでの入れ替えとするようにした。一番簡便な方法であるが、アナログレコードを鳴らす頻度から考えればこれで良しとする。

 城下工業のHPを見たらSWD-HA10の発売が発表されていた。

2016年5月31日火曜日

またもや漫画、ちょっと硬い本

 田中圭一の『神罰』のことを書いたが(20160521)、もう一人大事な漫画家を書くのを忘れていた。谷岡ヤスジであって、『谷岡ヤスジ傑作編 天才の証明』(実業之日本社、1999年)と『ヤスジのメッタメッタガキ道講座』(同、2004年)は永久保存版的扱いをしている。

 <雨瀬シオリ 『ALL OUT 3』『ALL OUT 4』(講談社、2014年)>:暇つぶしの書店内散歩で目について結局購入してしまった。かつてのスポーツ漫画で見ているように、弱い高校に偏屈そうな監督が現れて厳しい練習を課し、つてで強豪校との試合をやって聖地(ここでは花園)に行くことが大きな目標となる。ここに可愛い女の子が登場して恋愛も絡むと充分に既視感ある漫画となる。

 <原泰久 『キングダム 四十ニ』(集英社、2016年)>:羌瘣が重傷となってto be continued。

 <矢部宏治 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないか』(集英社インターナショナル、2014年)>:日本の憲法は改定されてもいい、というよりも時代の状況を鑑みて見直されべきであると思っている。しかし、今は変えるべきではない。なぜなら、改定は本来の目標に向かって真摯に真正面に向き合うべきであるが、いまの日本にその能力はないと捉えているから。そしてまた、いくら憲法を論じても、アメリカに従属する条約と姿勢がある限り、憲法論議は空虚な響きをもって階段の踊り場で踊っているだけではなかろうかと思う。階段の上から見ても下から見ても声だけが響き渡り、上ることも降りることもなく、踊り場にとどまっているだけ。
 例えば、いま、沖縄で元米軍海兵隊の犯罪があったが、政府答弁も米軍関係者の動きも、過去何回も繰り返された常套句が繰り返されているだけである。恐らく、繰り返される文言は過去にも、未来にも同様の事件に対しても使えるものであろう。過去への言及もなく、未来への発展もなく、いつでも使えるその場限りの一般形式の言葉でしかない。
 この本、「原発」の部分はストンとは落ちてこないが、安保についてはジグソーパズルを当てはめるように経過を知ることができる。但し、憲法制定に関わった日本人たちへの言及が少なすぎる。
 米軍の日本駐在に関する背景-天皇の要望や近衛の恐怖など-は幾つかの書物にも詳述されており、現在では常識となっている。少なくとも安保条約があるかぎり(地位協定があるかぎり)日本は真の独立国家とは言えないと考える。なぜ、こうなってしまったのか、それは単に昭和史や戦後史から理解するのではなく、日本という国にある精神構造論・集団行動論などに踏み込まないと解らないと思っている。また、日本の憲法はGHQが作ったから云々という言葉があるが、戦争に負けるということは何もかもを失うことである。GHQが作ったからとかの恨みごとではなく、GHQが作った(あるいはリーディングした)ことを100%受け入れるしかなく、少なくとも敗戦直後はそれに抗う思想も行動もなかったことを受け止めるしかないはずである。なんだかんだ言っても、真の憲法論議への可能性についてはとても悲観的である。

2016年5月24日火曜日

雑多の本、漫画

  <石川雅之 『惑わない星1』(講談社、2016年)>:瀕死の地球を救うべく惑星たちが行動する。擬人化された惑星と人間の関係、「内」と「外」、戸惑いながら頁をすすめた。
 ちょいと気に入った文章;「人間ってのは地球にとっては表面についた病気みたいなもんでさ、俺らの存在自体が地球にとってはひどく迷惑なんだって、だから地球を守りたいと思うならまず人間が地球からいなくなりゃいいんだって」、あとはこれに続く意味ありげな言葉。「人類ってさ、地球のコアに何かちょっかい出せたことある?」「あんた達は単に自分達で自分達の首を勝手に絞めて遊んでいるだけ」「そんな思い上がった考え方は安心して忘れちゃいなよ!」(63-64頁)。

 <安彦良和 『天の血脈7』(講談社、2016年)>:1910年韓国併合の直前。安積亮は内田良平にたてついて絶縁し、併合に大きく関わる明石元二郎と知り合い、好太王碑傍の大王陵発掘調査の参加を決意する。

 <下川耿史 『エロティック日本史』(幻冬舎新書、2016年)>:文明は発展し、文化の様相も変化する。変わらないのは人間の性への欲求、快楽を得る方法である。性の営みは何らその基本を変えることなく同じ事が繰り返されている。だからこそ筆者は「人生とはペニスとバギナの離合集散のドラマだと」と考え、「そのドラマを見据えることが、歴史と正面から向き合うことにもなるはずだ」とする。しかし、著者も自ら述べているようにエピソード集になっている。
 巻末では、「資料に接してみると、近代以前には個人の生き方が反映されているのに対して、近代以後においてはむしろ個人が時代の中に埋没しているように感じた」と述べている。
 触れにくいであろうが、中世の藤原一族と朝廷との関係および近親相姦傾向にも言及して欲しかった。
 神社の鳥居はなぜ鳥居というのかに得心した-引用するのは控えておく。

 <坂爪真吾 『性風俗のいびつな現場』(ちくま新書、2016年)>:書名から性風俗現場のどろどろしたイメージが喚起されるらしく、結構な売れ行きを示しているらしい。朝日新聞日曜版の”売れてる本”に書評があり、風俗と福祉を絡めた内容であることを予め知った上で読んだ。筆者の本は以前に『セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱』を読んでおり、そこでは障碍者のヘルパーなどに真摯に向き合う姿勢がうかがわれた。今回のこの本、弱者たる女性が生きるために風俗に身を置き、また経営者側も風俗でしか生きられない彼女たちに向き合っている。オレの生きている世界とは異質であり、彼女たちよりも彼女たちから性を買う男たちの存在にこの世の虚しさを覚える。

 <呉智英・適菜收 『愚民文明の暴走』(講談社、2014年)>:呉智英と適菜收の対談。共感するところも、もちろん知識として得られることも多い。一緒に飲んでいる友人、定期的に顔を合わせる友人とは思想的・政治的な会話はしないように意識している。しかし、方向性が異なっても忌憚なく話せる友人はいる。
 民主的にとか、誰しも納得してとか、深い絆で連携してとか、これらの言葉が浅薄に「善」を前提として語られることには反発する。アホな政治家たちだって「民主的に」選ばれているのだし、善い人だって組織の中では敷かれたレールに迎合し、平気で嘘をつくのはよく見られる。活動するバカ、もの言うバカ、一寸賢いバカ、、、、面倒な人たちを見るのに努力は要しない。

 <適菜收 『日本をダメにしたB層の研究』(講談社α文庫、2015年)><適菜收 『ゲーテの警告』(講談社α文庫、2011年)>:B層を相手にしてもしようがない。大事なことは、自らの立ち位置を確認し、その位置からどのような広さで何を見ているか、見たものから何をどう判断し、どう態度をとるのか、を少しずつでも考え続けること。オレはそう思う。妄想ではない想像を、純粋であることと単純であることの違いを理解し、理想と空想をごっちゃにせず、無知であることで無垢を装わず、現実から逃避して希望を語らず、画一的なことを平等と誤解せず、…・等々。
 書かれているゲーテの言葉、オルテガの言葉がストンと入ってくる。
 「『民主化イコール善』という妄想を、無条件に受け入れている時点で、思考が停止しているのです」はまったくそう思う。「キリスト教がわからなければ、デモクラシーの本質がわからないし、イスラム教がわからなければ西欧を突き動かした宗教規範の問題がわからない」のは理解できていない。キリスト教における前提-神の前での平等、資本主義の起源-は微かに判っているつもりだが、イスラム教に関してはさっぱり知識がない。

2016年5月21日土曜日

神罰1.1

 5月18日の朝日新聞「文化・文芸」コーナーに「手塚ワールド 創作の泉 クリエーターに聞く㊤」が掲載されていた。そこの「エロス」のところに田中圭一の『神罰1.1』があって驚いた。田中圭一を知らない人がこの記事を読んで、もしもこの漫画を購入したなら、その内容に呆れるとともに驚く人も多いであろう。「田中圭一最低漫画全集」とあるが、最低ではなくてお下劣なのである。でもこのパロディ漫画、好きである。10数年前、下ネタが好きな部下に電車の中では読むなよとの注意をし、この『神罰』を貸したら苦笑いして返ってきた。翻訳業務で派遣されていた30代の女性に『黒衣の下の欲望』を貸したら楽しめたとの返事があったが、さすがにこの漫画は請われても貸すことはしなかった。さて、今は増補版『神罰1.1』となっており、増補されている内容を確認してみたいから近いうちに発注しようかな。・・・そういえば田中圭一を最初に読んだのは同姓同名の歴史学者の新書版だった。

2016年5月16日月曜日

50本目のA12(10)Yウィスキー

 3年前の夏頃から毎回ことなる銘柄の12年ものの(10年)のウィスキーを買っては飲んでいる。A12(10)Y 、即ちAged 12 (10) Years Whisky (Whiskey)は味わうためのウィスキーであり、酔っ払うためのときは飲酒量が増えるのでコストを考えて安価なウィスキーにしているーといってもあまり安価だと不味いので選択時には熟考(?)する。先日そのA12(10)Yのウィスキーが50本に達した。記念すべき(?)50本目はSPEYSIDEスコッチのAULTMORE。まだ飲んでいない。楽しみ。

 ウィスキーに関わる本の頁を捲りながら、静謐ともいえる柔らかい曲を流して飲んでいるときは至福のベールに覆われる。

 今はTEACHER’S Highland Creamでハイボール3杯目。多少は酔っている、多分。

早稲田ラグビー、どうなんだろう

 高麗大学との定期戦は36-17で勝利したものの、その得点の低さと失点にアレっと思い、メンバーを見たらある意味新鮮だが、しかしベストにはかなり遠い印象を受けた。またトライが本田に偏りすぎている。本田はあのエディーさんも高評価した選手だから4Tはいいのだが、高麗大相手には他の選手もトライしなければと思う。そして次は今季から1部昇格の関東学院との練習試合。結果は7-59の完敗。メンバーは高麗大戦より落としているが、このスコアはいただけない。そして春の交流戦。スターティングメンバーに変化がなければ青学にも苦戦するのではないかと思ったら案の定負けた。
 判らないのがメンバーの選定。加藤はどうした、松井はB青学戦にも出ていないが何故なのか、力が上がっていないのか、吉岡は、杉本は、横山は、勝浦は、中島は、黒木(FBからCTBにコンバージョンとの記事も目にしたことがあるような)はどうしている、桑山は、・・・怪我なのか、さっぱり判らない。1年生に限れば斎藤を早くみたい、桑山弟は桑山ブラザーズとして出られるのか、期待が大きい中野はどうなんだろう。他に大島も。
 これからどんどんスターティングメンバーが替わってくるのであろうが、何かしら今年もダメかなとの不安も頭をよぎる。FLに強い選手はいるのか-強いときの早稲田はFLにいい選手がいる。羽生・松本・金正奎・布巻が好きだった。昨季FLの宮里は今季N0.8に定着だろう。先にあげた選手が出てくるようになれば早稲田のラグビーの試合ぶりはいまのような-青学と均衡するような-試合はしないと期待している。

2016年5月10日火曜日

はじめてのスマホ購入、SWD-DA20購入

 ゲームをやるわけでなし、Lineをやるのでもない、ましてTwitterとかFace Bookもやらない(FBは一度登録したが思うことがあって短期間で止めた)。ハイレゾプレーヤーのフリーウェアソフトをPCに入れたのだが、PCを操作するのがスマホというものがあって、やはりスマホをいじれないと時代に取り残されるのかな、と思ってついに(!)スマホを購入。
 初めてのスマホはSimフリーであることを絶対条件とし、サイズには迷ったが結局はASUSのZenfone Go(5.5”)にした。Surface3に入れていたnanoSimをアダプターに入れてmicroSDサイズに変換してこちらに移した。Surface3はスマホからのディザリングで使用することにする。外出時はガラケーと一緒に(必要に応じてSurface3も)持ち歩いている。
 64GBのmicroSDには音楽を大量に入れ、フリーのアプリもそこそこ入れ、不要なアプリは削除し、初めて活用できたのはホキ美術館に行ったとき。その時もまだ操作に戸惑っていた。購入してから約3週間経った今もまだ知らないところがあると思っている。
 当初の目的の一つであったハイレゾプレーヤーをPCに入れたが使い勝手が悪いのですぐにアンインストールしてしまった。わざわざスマホから操作せず、従来通りPCで直接操作する方が便利である。

 発売されたばかりのSWD-DA20を1ヶ月前に買ってしまった。DSD対応アップサンプリングの魅力に惹かれて手を出してしまった。持っていたDA10はPCからのCOAX接続および小スピーカー接続に特化させた。贅沢な使い方ではあるが利便性がある。中華DACのTopping D3は雑誌Stereo付録のスピーカーをくっつけて息子にあげた。SWDシリーズの5台、フォノイコGT40α、mixing console AG03、Line Selector、Speaker Selector 2台、管球アンプに中華アンプ、これだけの機器の接続が頭に入ることはなく、接続ブロック図をいつも手許において時々は確認しながら音を出している。
 6月にスーパーツイーターが届けばこれで自室のオーディオ関連はほぼ終わり。「ほぼ」というのは、手の出る範囲の新しい魅力的な装置がでればまたしても欲望は湧いてくるだろうし、ソフトウェアも新しいのが出れば(フリーに限る)試したくなるだろう。いまもポータブルDACに関心があるし、12日に秋葉原に行く予定があるので、その時にはもしかしたらヨドバシでフラフラと迷うことになるかもしれない。
 DA20は一番安価なeイヤホンから購入し、ポイントも8000点以上付いてきた。eイヤホンでポイントを使う機会もなさそうなので、そのポイントを使って家内にイヤホンを購入してあげた。カナル型全盛の昨今ではあるが、彼女の好みに合わせてインナータイプを選んだ。音の善し悪しに疎い人ではあるがこの新規イヤホンは音が違うと宣っている。

2016年4月26日火曜日

2度目のホキ美術館

 昨年10月18日以来のホキ美術館。当初は前年12月に行こうと家内に約束していたのだが如何せん自分が風邪を引いてしまい叶わなかった。21日から佐賀県に行く旅行をキャンセルしたこともあり、20日にこの美術館を訪れた。春日部から土気駅まで1時間50分間程度の電車に乗り、駅近くで昼食を摂り-いきあたりばったりにレストランに入ったのだが、そこの2種類のサラダとパスタはとても美味しくかつ安価であった-、そこからは日頃の運動不足をカバーするために歩く。
 11月と5月には展示内容が変わるので、前回とは変化もあり、やはり楽しめた。最初にその写実的な絵を目にした家内は驚嘆し、目を見張った。ここの美術館は明るいことが嬉しい。暗いところが苦手な人にとってはとても配慮がある。帰りには絵はがきサイズの絵、カレンダー(絵が美しい)、横長の絵を購入し、再び歩いて駅に向かった。日頃と違う雰囲気の街・住宅街を歩くのは気持がしっとりとする。

 帰途、新越谷で酒のつまみを買い、自宅に帰ってからはいつものようにハイボール。この日は酔うためではなく、味わうためのウィスキーをハイボールにし、いつもよりは少しゆったりとした、ほんの少し高尚な気分に漂いながら酔いに身をまかせた。

2016年4月25日月曜日

旅行中止、名前、娘の子どもたち

 21日より2泊3日で佐賀県にパック旅行の予定だった。しかし熊本の地震でキャンセルした。佐賀県はさほど地震の影響はなさそうであったが、旅行で遊ぶ気持が削がれ、また通常発生する3割のキャンセル料金が今回は適用されないこともあり、19日にキャンセルした。

 本来は旅行するはずだった21日、用事のある娘の要望で小学校に入学したばかりの孫娘を預かる。赤いランドセルを背にし、ニコニコしながら自宅に来た彼女は学校が楽しいらしい。かつては赤いランドセルは女の子の定番の色であったが、現在は色々なカラフルなランドセルが多く、単純に赤い色は逆に目立つと娘が言っていた。
 女の子に○○子と「子」をつけた名前も今では珍しくなっているらしい。娘の長女も「子」のない名前である。先日息子とその嫁さん、私と家内で新三郷まで買い物に行き、昼食を摂ったとき、店員さんの下の名前が読めなくて尋ねてみた。漢字の読み方はどのようにしても構わないのであるが、特異な読み方をする名前については困惑する。因みにその店員さんの名前は「凪」+「生」で「なお」と呼ぶ名前であった。言われてみればなる程と思ったが、今の時代、読めない名前が増え、例えば女優の武井咲を何と読むんだっけと何度も家族に聞いていた。尢もオレの名前もまともに読まれたことは殆どなかった。
 人の名前に関わらず、ものの名前を覚えるのは苦手で、生物は好きでなかった。数学や物理には法則性があるが、名前には(直接的な)法則性がない。それが好きでなかった。今でも魚や草花の名前、焼き肉の名前はすっきりと覚えていない。

 23日、越谷市場に行き1回だけの抽選をする機会がありガラポンを回したら僅か8名だけが当選する2位に当たった。4種類から景品を選べるのであるが、魚を入れた箱を2箱くれるというのでそれをもらった。中には真空パックされた大ぶりの魚が6種類ずつ合計12種類も入っていた。娘と息子と、ついでに娘の家の前で顔を合わせた顔なじみの人にもお裾分けをした。ラッキーだった。
 最初のガラポンの後もう2回チャレンジする機会があったが、妙に色気がでたその時は全くダメだった。無欲無心であるときが上手くいく。

 スピードが遅いからと買い換えさせた家内の古いパソコン(2010年製)をWindows7から10にアップグレードする。HDDをリセットし、付属ソフトで64bitに変更し、余計なソフトは全て削除したために結構快適な速度になった。そのPCは娘の長男のほぼ専用にする。
 娘の長男はポータブルのmp3プレイヤーに興味があるようなので、使わなくなったプレイヤー2個をあげ、イヤホンもそこそこにいい物をあげた。音楽をYouTubeから取り込みたいというのでその方法を教える。自分で取り込む場合は音質を重視するので外付けの機器を接続し、波形も編集するのであるが、彼には高度な方法を教えずに簡単な方法を教えることとした。先ずは準備としてフリーの録音ソフトおよび正規化ソフトを前記のPCにインストールした。拡張子の意味とコーディックmp3の意味を簡単に説明し、ファイルの格納先やファイルの移動・コピーなどを教える。理屈より操作手順を覚えようとするのはしようがないが、小学校6年の彼は覚えるのが早い。PCやiPadに触れ慣れているせいかキータッチはかなり早い。すぐにYouTubeから流れる音楽をmp3で取り込み、プレイヤーに入れ込んでいた。

 24日は朝早く7時少し前に娘の子どもたちが来て、長男の方はまずは前記の音楽取り込みを覚え、自宅に帰って友達と遊び、長女は帰らずに昼食までいて、藤まつりで一旦外に出てからまた遊びに来た。久しぶりにWiiをやるが老夫婦は常にロースコアであり、6歳の彼女は得意満面の表情で帰って行った。

2016年4月13日水曜日

翔んで埼玉

 <魔夜峰央 『翔んで埼玉』(宝島社、2015年)>:朝日新聞(4/3日曜日)の「売れてる本」コーナーに紹介されていた漫画。30年ぶりの復刊らしいのだが、この漫画のことは知らなかった。新聞記事から引用すると、「都会の住民たちが隣接する県を徹底的にさげす」み、埼玉県民は「『関所』を越え都会に出て」「『こやしの匂いがプンプン』と差別され」、「某都にひれ伏して過ごし」ている。一時期(現在も?)“グンタマチバラキ”と揶揄されていた時の漫画であろう。春日部も登場する。「はあ?おらこれから春日部へ帰るところで」という場面と、「サイタマラリア」は「小型春日部蚊が媒介する埼玉特有の熱病」と解説されるシーンである。この漫画、埼玉県で一番売れているらしい。
 新潟県出身の人が所沢に住んでから書き始め、横浜への引っ越し(脱出)で描けなくなったと後書きにある。岡山県出身のさいた・まんぞうが歌った「なぜか埼玉」もヒット(?)した頃の漫画である。因みに、「なぜか埼玉」はワタシの持ち歌であり、カラオケで一番歌っている地はヨコハマである。
 イタリアに旅行していたとき、ツアーで一緒だった若い女性二人と我々夫婦は食事で同じテーブルに着くことが多く、「サイタマ」ってなんか緩い笑いを誘うけど「ヨコハマ」って響きが良くてカッコよさがあるよね、と見解が一致していた。話していたのは春日部在住のワタシと高校時代は春日部の塾に通っていた栃木県出身の女性。
 さらに思い出がある。現在は春日部市の一部となったかつての北葛飾郡庄和町にワタシが住んでいて岩槻市(現さいたま市岩槻区)の会社に通っていた頃、ワタシのグループのメンバーが揶揄って「○○さんは会社への往復では入出国審査があるんだっけ。就労ビザも持っているんじゃなかったですか」なんて言っていた。彼氏はちょいと東京に近い越ケ谷在住で、出身は山から自宅へ水を引いていた新潟県出身だった。

2016年4月11日月曜日

ふりかえれば70年代初期

 テレビの画面にはビジネスマンの人たちが並んでいて、同時に高田渡の「値上げ」が流れた。一瞬、消費税増税でふらふらしている今の政府を揶揄しているのかと思ったが、そんなことはないと思い直し眺め続けたらガリガリ君の値上げのCMであった。40年以上前の、政府を皮肉たっぷりに揶揄したこの曲を知っているだけに懐かしさと共に、思わず上手い(!)と思った次第。
 自分のライブラリーにあるこの曲を鳴らしてみた。そのうち保有している「タカダワタル的」を久しぶりに眺めてみようか。

 あることを調べていて高校時代の日記を段ボールから出したとき、ついつい昔の手紙を引っ張り出してみた。1972年から75年1月の長男誕生目までの間、結婚前後にニョーボー殿とやりとりした手紙である。合計して40通以上はある。棄てるのはいつでもできるのだからと40年以上とっておいたものである。拾い読みしたらなんとまあ、今では恥ずかしくて口にも出せないような言葉もあった。その言葉を使ってニョーボー殿をからかったら、そんなものひょんなことで子どもたちに見られたらイヤだ、処分する、と言う。それで、今日、彼女の書いたものは彼女に渡した。もちろんオレだって見られるのはイヤだから明日にでもシュレッダーにかけてしまおう。この年齢になればいつなんどき倒れてしまうことになるかもしれないのだから。
 手紙の差し出しには”郵便番号930 富山市東石金の1 不二越男子第一寮1204”とある。2年半住んだ寮は1棟2階の4番目の部屋だった。隣は高梨さんだった。
 手紙の中身を取り出してちらちらと見ていたら、中から写真が3枚出てきた。職場で自分のドラフターと机をバックにして撮った25歳の自分がいて、独身寮自室での2枚は24歳のときで、内1枚には随分前に連絡が途絶えた2年先輩も写っている。懐かしい。そのとき勤めていた職場での写真は後にも先にもこの1枚しかなく、42年ぶりに見て特別な感情が湧いてくる。急遽設計変更を要求されて一人夜遅くまでこの席で図面をひいていたら、部長が飲みながらやったらと日本酒を持ってきてくれたこと。このドラフターで描いていたエンジンクランクシャフト油穴加工専用機の設計構想図を見た先輩が、センスのいい設計をすると褒めてくれたこと。煙草で図面の端を焦がしてしまったこと、尊敬していた先輩が上司と激しくやりあったこと、などなどがつい数年前のことのように思い出される。あの頃の自分に吸い込まれる。

2016年4月9日土曜日

本2冊

 鎮痛薬を2日ほどのんだら踵の痛みは3、4日でなくなった。何だったのだろうか。まあ、これも年のせいというのだろうか。

 <佐高信・松元ヒロ 『安倍政権を笑い倒す』(角川新書、2015年)>:春日部-妙典-茅場町-仲御徒町-春日部と移動する中で拾い読み。「毒を持たないお笑い芸人は世間への迎合者である」と思っているオレに取って、この新書におけるお笑い芸人批判は的を射ている。
 「安部さんはどうして国会議員という職業に就いたんですか?」との小学校高学年か中学生かという年齢の子どもの質問に対し、「それはですね、私の父もこの仕事をやりました。私のおじいさんもこの仕事をやりました。だからこの職に就きました」と答えたそうな。へーっ、くだらない。
 東京オリンピック誘致での「おもてなし」は「表無し」=「裏ばかり」-混迷する東京オリンピック準備とそれに関連する困惑-例えばイベント会場不足、宿泊施設不足-に結びつく。
 「まさに」「全力で」「断固として」「しっかりと」「唯一の」「切れ目なく」・・・・、思考停止の決まり文句。会社勤めの頃、「徹底的に」「協業し」「問題を先取りして」などという言葉が指示する側からも、実務担当側からも出た常套句だった。
 二人とも太宰が好きらしいが、そこは「えっ」という思い。オレは太宰が嫌い。
 「自分の弱い部分をさらけ出せない人、隠して、虚飾のベールで蓋って、自分を実像より大きく見せたがる人は、自分でも気づかないうちに、自意識をどんどん肥大化させていく」、そりゃそうだ、いじりすぎると自意識は膨らんで硬直する、まるで何の如しなのだ。
 「I'm different」、「自分自身について、『私は違う』と感じることを思いつく限り書き出しなさい」。これって大事と思う。

 <樋口有介 『少女の時間』(東京創元社、2016年)>:柚木草平シリーズの11作目で、樋口有介の41冊目の本。作中、南の島に移住してしまおうとの台詞が何度か出てくるのだが、「冬の寒さと杉花粉から逃げるため」に移住した沖縄には今も住んでいるのだろうか。
 樋口有介さんの小説は多分すべて読んでいて、この小説も楽しめた。死んだ女子高生の野川亜彩子と殺された芦田香保梨の謎ときを巡って柚木には多くの美女が関わってくる。柚木の前借り管理者の編集者/小高直海、柚木のベッドで尻を出して寝ていた考古学者か社会学者の枝沢柑奈、ルール無視の刑事/吹石夕子、怖いほどに綺麗な女子高生/山代美早、その母親で娘と同じく美人で世間の一般常識から外れている山代千絵、これだけの名前を見れば数年後でもこの小説の雰囲気は思い出すであろう、多分。娘の加奈子、別居中の妻/知子、不倫の元上司で警視/吉島冴子はシリーズに共通して登場する。
 「古女房 たれた乳房(ちち)振る 除夜の鐘」。この笑える俳句を作った千絵の人物像から、19歳の頃のあるおっとりとした女性を思い出した。その女性は夫がおらず(理由は知らない)、中学生の女の子がいて、脳軟化症(当時はこう称していた)の母親がいて、私の友人(もちろん男)とその妹、そしてもう一人の間借り人をおいていた。ある日そのおっとりした女性は親切にも庭に面した廊下で友人と私にお茶を出してくれた。寿司屋で出されるような湯飲みを見ながら彼女は、「お人形さんが沢山描かれていて面白いので買ってきたの」と言う。しかし、その絵は性行為の体位のバリエーションを表したものであり、友人と私は言葉を返せずにいた。もしかしたらその後も他の人にあの湯飲みでお茶を出していたのかと想像すると複雑な思いがした。48年前の大学1年生のときだった。

2016年3月30日水曜日

ミステリー1冊

 ベッドで眠れるのはせいぜい5~6時間くらいであり、22時くらいに寝ると結局3時か4時に目を覚ましてしまう。今朝もそうだったので、昨日まで読みかけていた小説を3時頃から読み続け、6時前には読み終えた。

 <米澤穂信 『王とサーカス』(東京創元社、2015年)>:ネパール王族殺人事件が発生した2001年のカトマンズを舞台にし、2015年度の『このミス』や『週刊文春』で1位となったミステリー。
カラクリを仕掛け、伏線を張り、謎解きをメインとするミステリーはいわばジグソーパズルのピースの嵌め込みに工夫を凝らすのであるが、この『王とサーカス』はまずパーツを嵌め込んでいくプロセスがユニークである。カトマンズに旅行の取材で来ている主人公太刀洗万智が王族の殺人事件に遭遇し、必然的にその取材に取りかかる。主人公が関わる人物はネパール人、インド人、アメリカ人に日本人。ネパール人はホテル管理人である女性、その日暮らしの少年たち、軍人、警察官たちであり、軍人が殺される。いわばネパール/カトマンズというテーブルに、これらの人物がパーツとして拡げられ、読む側はそのピースがどう嵌め込まれていくのかを楽しみ、そして最後に完成される絵に感嘆する。陳腐な殺人動機で終わらせておらず、ネパールの子ども達の状況を後背として描かれる少年サガルの悲しみと憤り、ゴビンの学校への志向性などがミステリーを重厚にし、主人公の真摯でかつ誠実な姿勢は共感を誘う。良質の、それもかなり上等なミステリーである。
 傑作を読むと言葉の奥深さ、文章の巧さ、豊富な語彙に敬服することが多いが、この本にもそう感じた。語彙を増やすには沢山の本を読むしかないのだろうか。自分の語彙の少なさを何とかしたいと思っているのだが、「時すでに遅し」か。

2016年3月29日火曜日

踵の痛み、椅子の破損、洗車

 暫く忘れていた右踵後部が28日朝より急に痛み出した。前日までは何ともなかったのに朝起きたら痛い。ロキソプロフェンNaテープを貼って様子見。慢性的になっていた痛みがここ1年ほどまったくなくなっていたが、何の前触れもなく目が覚めたら痛くなっていた。一体どうしたのだろう。前日だらだらと1万歩ほど歩いたのかいけなかったか。でも、これ位の歩数を歩くのはしょっちゅうだし、訳が解らない。以前この踵の痛みで3箇所の整形外科に行ったのだが、痛み止めの錠剤と消炎テープを渡されるだけで、治療を期待していた病院では「年のせいです」といとも簡単に宣言され、「痛くなったら安静にし、痛くなくなったらジョギングでもしてつき合っていくしかない」と言われ、以来、整形外科には-他にも藪医者にかかったことが2回もあって-信頼を置けなくなっている。この年齢になると「年のせい」と言われることに妙に納得し、一方では我が身の年齢を恨みたくもなる。まあ、もうすぐに67歳になってしまう身としては受け入れるしかないが、心の隅っこにはまだ抗いたい気持も残っている。
 
 風邪がよくなったと思ったら今度はリクライニングチェアが破損してしまった。座部の木製サポートがぶっつんと折れてしまった。ねじ締結の穴部における応力集中破壊であり、機械工学的には理論通り。ついてないことは重なる。新品の選択検討に余計な時間を費やしてしまった。家族からは「殿椅子」と呼ばれていたので、今度は部屋にマッチングし、家族から浮き上がらないフツーの椅子にした。

 明日から女房どのと娘および娘の子ども二人がオレの車で千葉に二泊三日ででかける。娘の旦那が寝坊すると車で会社に行くしかないのでそれに乗るわけにはいかず、オレの車が選ばれた。今日は、女房どのを駅に送っていった後、彼女の遠回しの指示に従いガソリンを満タンにし、久しぶりに洗車もした。従順なジジィになっている。・・・・永六輔の新書本を思い出した。それは次のような内容である。亭主関白だった夫が年齢を重ねたら奥さんと手を繋いで歩いていた。旦那曰く「老後を恙なく生きるための生活の知恵です」と。

2016年3月26日土曜日

社宅街の研究書

 風邪がなかなか通り過ぎてくれない。喉の痛みを除去しようとスプレー薬を使用し、少しは緩和されたが今度は鼻づまりに痰がひどくなった。結局また薬を買ってきた。服用してから注意書きを見たら、胃潰瘍・十二指腸潰瘍に罹った人は医者あるいは薬剤師・登録販売者に相談しろと記述されている。ちょいとドキッとしたけれど、まぁいいや。
 数年にわたって風邪を引くことはなかったし、その時はオレは健康だと主張していたが、風邪を引いてからはオレは馬鹿ではなかったと言っている(巷間では馬鹿は風邪をひかないといわれる)。

 <社宅研究会編 『社宅街 企業が育んだ住宅地』(学芸出版社、2009年)>:鉱山関係の書物をWebcat Plusで探して引っかかった本。通教の卒論のために文献調査をしていた頃に見逃したか、あるいはそのときはテーマに無関係の本と判断したのかもしれない。楽天のポイントが貯っていたのですぐに購入。こういう研究書でも在庫されていることに驚く。この本の中古本は新刊よりも高い値付けをされているケースがある。
 読み始めてすぐに同分野の文献のコピーを持っていることに気付いた。それは『近代日本における企業社宅街の成立と展開に関する研究-金属鉱山系企業社宅街の比較分析-』(第一住宅建設協会編、2008年)-非売品であるが幸運にも秋田県立図書館で手にすることができた-。両者は部分的に内容が類似している。それもその筈で、この『社宅街』の執筆者12人のうち7人は『近代日本における・・・』の執筆者であった。より正確に記すと、『近代日本における・・・』の執筆者7人全員が『住宅街』を執筆していた。だからといってこの本はムダだったという訳ではない。社宅および社宅街についての研究が詳細に記述されている。もちろん鉱山関連を中心に目を通し、かつての自分の鉱山社宅生活と比較しながら読んだ。資料(史料)がなければ研究はなされないので、ここでは当然ではあるが大企業が研究対象とされている。旧帝大の実習報告を基礎にしており、戦後については社宅街・社宅などの遺構の現況に触れるしかない。研究は樺太・台湾・南洋群島にも拡げられており興味深い。
 いま思っていることは、奥会津横田鉱山についてまとめておくこと。昨年の4月末頃にはその年の年末まで終えたいと思っていたが、自分で自分に縛りをいれる難しさと、生来の怠け癖あるいは易きについてしまうことでずるずると先送りにしていた。やりたいことは沢山あるしが、少しストイックになろうと自戒するしかない。この『住宅街』はその参考文献の一つとなるし、文章構成に関するヒントを与えてくれる。

 たった今、ネットでマイアミオープンの経過を確認したら、西岡と大坂がともにストレート勝ちして3回戦進出を決めた。西岡はランク124位で買勝った相手はランク23位(21シード)、大坂なおみは104位で勝った相手は18位(元5位)。両者ともにストレート勝ちで、特に大坂はスコア上6-1/6-3の完勝。ATPの録画を忘れてしまったが今夕NHKで録画放送される。見なければ。WTAはもともと放映がないが、何とかNHK-BSで放映してくれないだろうか。要確認。

2016年3月23日水曜日

無題

 喉の痛みと咳がありまたもや風邪を引く。風邪は治すものではなく通過するものとは『風邪の効用』だったか、思えば最近の睡眠時間の不摂生などへの警告かもしれない。

 昨日、リクライニングチェアが音を立てて壊れてしまった。5本足の1本が完全に折れてしまった。10数年使っていたもので何の前触れもなく壊れてしまった。家具屋に行っても展示品は尠く、ネットで検討を重ねて新しいものを発注。また、娘の娘に約束していたものを誤発注してしまい、返品手続きと新規発注で時間を費やしてしまった。ここんところ碌でもないことが多い。

 同じ会社に勤めていた知り合いがすぐ近くにおり、先日久しぶりに立ち話をした。米の消費量が減った、そもそも食べる量が減った、ビールと日本酒の量を激減させて代わりに焼酎・ウィスキーになっている、運動不足だ、標準からかけ離れた体重だ、等々要は60代後半の年齢に相応しい話しとでも言えばよかろう。

 女房殿の用事につき合ってイオンモール浦和美園に行く。リニューアル或いは閉店で多くの店舗が閉じている。ここに来たときにはよく昼食を摂るのだが店は2点に限られている-以前は他の店にも入ったのであるが美味しくないなどの理由で2点に絞られた-、しかしその内の1点である大戸屋が閉店していた。残念だがしようがない、有為転変、季が経てば世の中は変わる。
 時間潰しに本屋に入ることが多く、ついつい何か買わねばならないとの、ある種の義務感めいたものがあり、結局手に何も持たずに店をでることは尠い。そして今日も3冊買ってしまった。ただ、今日は行き当たりばったりではなく、好きな作家の新作、好きな作家の文庫本、前から気に留めていたもの1冊であった。読むよりも買う本が多い傾向は最近ではかろうじて回避できているものの、積ん読状態はなかなか解消できない。

 <西村賢太 『形影相弔・歪んだ忌日』(新潮文庫、2016年)>:表題作2作を含む6短編。「青痣」は秋恵シリーズ、「膣の復讐」は秋恵が出ていってからの女性が眉をひそめるであろうキタナイ小説、「感傷凌轢」は20数年以上も没交渉の母からの手紙を契機に感傷を凌轢し、「跼蹐の門」は中学を出て3ヶ月後の躓きと先行きへの不安・畏れ。表題の前者は芥川賞受賞の経緯と藤澤淸造への思い。後者「歪んだ忌日」は芥川賞を受賞してから急に賑わいをみせた藤澤淸造墓参・掃苔への不快を描く。
 秋恵シリーズは、またもや例のパターンかと思い、手紙を寄せた母への毒づきは部分的に共感を覚え、「歪んだ忌日」は俄仕立ての文学ファンへの不快と歓迎の葛藤が伝わってきて、自分に転化すれば北町と同じ抵抗を試したくなるであろう。

2016年3月19日土曜日

小説2冊

 速歩でのウォーキングで結構な汗をかくような時季になり、帰宅後はシャワーを欠かせなくなった。短時間のジョギングはするのであるが根性がなくすぐに歩きに切り替えてしまう。それでも汗をかいてシャワーを浴びた後は心地よい。
 いつものコースの桜も近いうちに咲き、毎年繰り返している風景となるであろう。

 検索しやすいようにCDの一部を並べ替える。
 またぞろオーディオ機器を探している自分がいる。オーディオの趣味とは畢竟物欲であるとは名言であり、初級から中級クラスの機器しか相手にできなくとも新しい、グレードアップしたものは欲しいのである。取敢えずは間もなく発売になるであろうSWD-DA20に惹かれている(DA10はあるのだがそれは息子にでもあげるか)。また、フリーソフトHYSOLIDにも関心があるのだが、コントロールはiOSかAndroidのスマホだけ。しかし、そのOSのタブレットもスマホも持っていない。安価なスマホを購入するか思案中。買うとなればSurface3に装着しているsimの回し使いを可能にするsimフリーとするが、ホントに必要なのかという声が自分の中にあり、葛藤中。


 <東山彰良 『流』(講談社、2015年)>:153rd直木賞。台湾を舞台にした台湾人の家族小説、青春小説、現代史小説、推理小説、・・・。楽しめた。蒋介石が死去した1975年4月に17歳の主人公葉秋生が、台北でもトップの高校を退学して最低レベルの高校に転学し、殺された祖父の死を追いかける。家族・親戚・友人・恋人・恋人の親戚・ヤクザに囲まれ、混沌とする台湾のなかで喧嘩・暴力・恋愛と別れのなかで生き、違法に中国に渡り、漸く祖父を殺した相手を特定し、恋人が去って行った理由を知る。
 台湾が舞台で台湾人が活写される小説であり、知らない熟語や孔子の箴言があり、また活き活きとした文章が跳ね、1970から80年代のポップスもあり、400頁の長編でありながらほぼ一気に読んだ。久しぶりにエンターテイメント大衆小説を楽しめた。
 少々不満があるとすれば、それは、祖父を殺した犯人の殺人動機、恋人が去った理由が小説の広がりを萎ませてしまっていると思うからである。即ち、両者とも主人公の身内-祖父の過去の所業、父親の若かりし頃の無分別-に帰するからである。

 <長岡弘樹 『教場2』(小学館、2016年)>:警察学校小説の第2弾。前作と同じく登場するのは教官風間と警察官を目指す学生たち。暖かく人を見る姿勢と怜悧な態度。短いストーリーの中に伏線となる描写があり、鋭く、簡潔に余韻をもって結ばれ、なる程と得心した感想を6編それぞれ抱く。秀作。

2016年3月15日火曜日

本2冊

 <ピエール・ルメートル 『悲しみのイレーヌ』(文春文庫、2015年)>:『その女アレックス』の前作。この作者に限っては異様で残虐な殺戮描写も冷静に読める。ホラーの小説・映画は嫌いで(怖いので)絶対に読まないし見もしない。その範疇で言えばこの本も読めない筈であるが、作者は殺人現場の残酷さを誇張せずに淡淡と描写しているので抵抗はない。また主人公カミーユは魅力的な人間であり、周囲の人々との関わりや会話も活き活きと書かれているので引き込まれてしまう。
 異常な殺人犯の行為によって、最後は書名どおりに悲しく終わる。

 <坂井豊貴 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(岩波新書、2015年)>:昔(中学or高校時代)から多数決に違和感をもっていた。そのうちに「多数決の暴力」なんていう台詞も口に出していた。間違っていた、あるいは意味のない決定を多数決で決められると、それは愚かな行為でないかと思い無視を装ったこともある。そして政治の場においては、「民意」をすぐ口に出す小賢しさを嫌悪し、「選挙の禊」に至ってはその愚かな倫理感を嗤っていた。当選者への投票と同時に当選させたくない者への投票もあっていいかとも思っていたし-弊害はある-、あるいは投票順位にスコアリングすることで少しはまともに近づくのではないかとも思っていた。こんなこともあったので多数決の疑問を論理的に明示するこの本は選挙の投票に関してもやもやしていたものを解き明かしてくれる。

 投票する側について少し考えてみる。投票する側には適切に情報が与えられ、投票者はその情報を活用して自分で考え、私と公の峻別をし、理性を働かせて熟考し選択肢の中から選ばなければならない。しかし、現実を思うとそれは理想論的すぎる。そもそも、いまの普通選挙というシステムは適切でないと思っている。制限選挙というと時代に逆行していると簡単に非難され否定されるが、運転免許のような拘束を選挙権につけても良いと思っている。そして権利を得るからには棄権にはある種の罰則も必要と思っている。このことは学者や評論家も指摘している。
 良識の府と呼称される参議院が衆議院と同じように政党制に組み入れられ、同じような選挙で議員を選ぶことにも大きな疑問があるのはいまや一般常識化されている。良識の府に所属する、良識とは言えない議員も簡単に思い浮かべることができる。
 大体が、多数決投票=民主的と短絡的に結びつけることに異議がある。民主(的)の本質をもっと深耕すれば、おのずと選挙制度へ踏み込むことになると思うのだが...。・・・愚痴が多いな、年のせいかな。
 民主・維新の両党は「民進党」となるらしいが、なんだか分からない。どっかで聞いたことがあると思ってたら台湾の民主進歩党=民進党だった。日本の民進党の民進って何の意味?何のイメージ?何の言葉(文章)から取上げてくっつけたの?選挙の時に平仮名で書くと「みんしん」と「みんしゅ」は間違えそうだな。

2016年3月14日月曜日

春日部市の東西格差

 今日(14日)TBS「噂の!東京マガジン」で春日部が取上げられていた。西武春日部店が閉店し、東口が廃れ、賑わうのは西口だけになって格差が生じており、それが今後は加速されるであろうと紹介されていた。公共施設や商業施設はほとんど西口側にあり、西口側の住民は東口側に行く用がなく、また西口と東口の通行は不便であることもレポートされていた。確かに西武春日部店がなくなれば東口に行く理由は激減する。自分もせいぜい市立図書館や文化会館に行くだけであり、それも頻度は尠い。西武跡地がどうなるのか知らないし、移転計画のある市役所の移転先は検討中だが(番組での市役所職員の弁によれば)おそらく西口側にある市立病院跡になるであろう(新市立病院は現在西口側に建設中)。
 かつて春日部(粕壁)の中心は東口側であり、1970年頃の西口は田圃だけであった。ロビンソン百貨店(その後西武春日部店)、ラオックスは東口にあったが、ラオックスはなくなりつい先日には西武もなくなった。一方、西口はイトーヨーカドーができ(国内最初)、市役所をはじめとする公的施設ができ、その後は発展を続けた。30数年前、勤務先の大規模移転に伴い、初めて春日部を訪れて西口側に住居を決めたときはまだ開発途上といった趣もあった。
 今後たまに東口に行けば、閉店してシャッターを下ろしたままになる店も増えることになろう。

2016年3月8日火曜日

Whisky aged 12 (10) Years

 3年前の秋から12年もの(なければ10年)にフォーカシングしてウィスキーを買って飲んでいて現在47種までになった。酔いに比重を置くときは安価なウィスキーでハイボールにすることが多く、香りや味を楽しむときは12年ものをトゥワイスアップで楽しむ。後者はベッドの就く前に飲むことが多い。ほとんど「やまや」で購入しており、当初は1年くらいで終わるだろうと思っていたが、店頭に置かれる酒の種類は一定ではなく常に未購入のものが棚に並んでいて、だらだらと続けてしまっている。いまは3本が未開封で40本は空になっている。感覚的だが、日本のウィスキーは高価(!)。以下、購入した順番。

1. CUTTY SARK 12
2. MACALLAN 12
3. JOHNNY WALKER  BLACK LABEL 12
4. THE GLENLIVET 12
5. 山崎 12
6. Tullamore Dew 12
7. Glenfiddich 12
8. 竹鶴 PURE MOLT 12
9. FAMOUSE GROUSE GOLD RESERVE 12
10. MACALLAN FINE OAK 12
11. GLEN MORAY 12
12. WHITE HORSE 12
13. Ballantine’s 12
14. BOWMORE 12
15. THE SINGLETON 12 ・・・ リピートしたいが再入荷されない。
16. Canadian Club CLASSIC 12
17. CRAGGANMORE 12
18. CHIVAS REGAL 12
19. Aberfeldy 12
20. JAMESON 12
21. anCnoc 12
22. ROYAL LOCHNAGAR 12
23. HIGHLAND PARK 12
24. AUCHENTOSHAN 12
25. BUSHMILLS aged 10 years
26. Canadian Club Small Batch 12
27. DEANSTONE 12
28. DALMORE 12
29. TORMORE 12
30. TAMNAVULIN 12
31. CARDHU 12
32. JURA 10 ORIGIN
33. 響12
34. ELIJAH CRAIG 12 year-old Small Batch
35. THE NIKKA 12
36. LAPHROAIG 10
37. TALISKER 10
38. Dewar's 12
39. KNOCKANDO 12
40. CAOL ILA 12
41. TOMATIN 12
42. OLD PULTENEY 12
43. LABEL 5 Extra Premium 12
44. TOMINTOUL 12
45. GLEN SCOTIA 12 (旧ボトル)
46. ARdbeg 10
47. BEN NEVIS 10

作業場撤去、スピーカー音出し

 スピーカー自作を日曜日(6日)に終え、リビングで作業場と化していたエリアを翌日にすべて元に戻した。部品送付に使われた段ボール、ゴミの類などもすべて片付け、工具類も本来あるべき場所に返し、部屋はすっきりとした。
 ダイソン掃除機のホースに埃やゴミが詰ってしまい、吸引力が低下したトラブルもついでに修復。妙なもので掃除機の機械的トラブルが生じるとその修復を楽しむ自分がいる。吸引力低下の原因を探り、特定し、ホースやその他の吸引系統部を分解し、元に戻して修復完了までの過程が面白い。組み立てたものはバラせる筈だ、そしてそこには組立時間短縮のための工夫が成されていると想像を働かせるのが面白い。もちろん掃除機は正常な姿に回復した。

 さて、スピーカー(Z800-FW188HR)だが、初めての音出しはやはり緊張する。CDをドライブし、ゆっくりとアンプのボリュームを上げ、音が出たところでホッとし、すぐに音量を上げて音質を確認する。このZ800、凄く感動した。素晴らしい音が出る。以前作ったZ601もいい音がすると思ったけれど、さらにその上、かなり上のレベルの音が出た。今まで聴いたことのない音質、上手く表現できないが透き通った奥行きのある、鋭角でない柔らかさを伴った素晴らしい音である。いきなり出した音がこうなのだから、エージングされたらもっと素晴らしさを増すであろう。兎に角感激した。以降、管球アンプとこのスピーカーのエージングをする目的で、家を留守にするときも音量を上げてCDを鳴らしっぱなしにしている。繰り返すが、素晴らしいスピーカーである。スピーカーユニットだけで定価約12万円。それにネットワーク、フィンランドバーチのエンクロージャーなどを含めて20万円を切っていてC/Pが優れている。完成品が30万円超であることは充分に納得できる-もっと高価でも不思議はない-。
 この前の管球アンプキット、そしてこのスピーカー、どちらもパーツ購入の自作(組立)で、組立のプロセスから完成後まで至福の時間を過ごすことができる。
 ものはついでと、雑誌付録の2wayスピーカーも、(当初はやるつもりはなかったけれど)コンデンサーのグレードアップを図った。その結果、音質のグレードアップは少し感じることができている(ような気がする)。

 20日は蒲田、27日は四谷、5日は新宿と3週続けて土曜日は昼から痛飲。泥酔の数歩から数十歩手前の飲酒量か。若くはないとは言いながら、飲んでいるときは極めて正常で-友人も飲んでいるときのお前はホントに酒が強いと言う-、自戒せねばなるまい。普段外で飲むことがないので外に出ると箍が外れてしまっているのかもしれない、きっとそうだろう。

2016年3月3日木曜日

スピーカー作り

 気になる本はメモし、以前より抑制してはいるが結局は購入をもしてしまう。しかし、ここんところ管球アンプやスピーカーの自作にはまってしまい読書はとんと疏かになってしまっている。他にもやるべき事はあるのだが全てが先送りになっている。Z800-FW168HRが完成したら本来の軌道に乗っかるようにしよう。

 そのZ800だがエンクロージャーの組立は完了。サンドペーパーがけも完了し、あとは小さな傷にパテを埋め込んで修復をし、吸音材を貼り付け、蜜蝋を塗布するばかりとなった。綺麗なピアノブラック塗装-専門業者への依頼が必要でかなり高価-や他の塗装も素敵だとは思うのだが時間を掛けたくないので今まで通り蜜蝋ワックス塗り込みとする。ネットワークはパーツ類の半田付けも終了し、あとはスピーカーとターミナルに接続し、エンクロージャーに取付けるだけ。配線をミスると高価なツイーターが破損するので配線チェックのだめ押しをする予定。サランネット作成は後回しにするので、何事もなければ雛祭りの3日中には完了予定。音出しが楽しみ。何しろ数百万円のハイエンドスピーカーに使用されているユニットを組み込んでいるのだから今までにない高品質の音を聞くことができると思うと心が弾む。自分のオーディオシステムや部屋の環境からすればオーバースペックのスピーカーであることは間違いないだろう。でも、自分自身のどこかからか、単にもの作りの過程を楽しんでいるのでないか、との声も聞こえてくる。ま、もうすぐ67歳だし、こうやって楽しんでいればいいや。

 雑誌の付録のスピーカーは矢っ張りコンデンサーを変えることにした。DiGiFiのスピーカーボックスは追加工してコンデンサーを外付けできるようにする。また、Stereo誌のものも多少はグレードの高いコンデンサーに変えてみる。単に音がどう変わるか、自分がそれを認識できるのかに興味があるだけ。近日中にコイズミ無線から発送される。

2016年2月29日月曜日

管球アンプキット音出し、早稲田ラグビースタッフ新体制

 年齢を重ねれば本質的には何も変わらないことを何度も何度も繰り返し見聞きする。だから、本質的に同じで表現を変えただけの台詞、悲喜劇、同じストーリーでもって「創造」を模したドラマも小説も映画も好きではない。要は決まり切ったような起承転結の構成を組み立て、涙と感動を創り出し、ハッピーエンド的に余韻を持たせる。そのような物語は好きではない。変化を模した想像力のない疑似創造性が好きでない。それらにはビジネス-生活の糧-的な匂いを感じてしまう。思索を重ね、物事の本質の深さを見つめようとし、その結果読み手側に問題を突きつける小説に惹かれる。

 <白石一文 『幻影の星』(文春文庫、2014年)>:「星」とは地球、この世の中、過去現在未来を含む生きとし生けるもの全てを意味している。この本には言葉として出てこないけれど「意識」を思い、それに併せて空間に存在している「物体」、そしてそれらを突き刺している「時間」についてイメージが膨らむ。それらを深耕すればこの世の中は「イリュージョン」とこの小説では表現する。
 主人公熊沢は東京で買って東京にあるコートが長崎で見つかり、その中に入っていたSDカードには未来の画像が入っている。一方、諫早で「るるど」でアルバイトするるり子(久美子)には今持っている携帯と同一の携帯が河原で見つかり、そこには覚えのない画像があった。3.11の原発後の現在の時間の流れのなかで、ありえない未来の出来事、そして過去の出来事を絡めて今現在の存在を問い、考え続ける。この物語(思索)を大きく蓋っているのは、『草にすわる』巻末の「あとがき」に繋がる。すなわち、「『この世界とは一体何か?』という問いは実は幻影でしかないからだ」。
 「当初避難所を訪ねた東京電力の幹部、福島県知事といったお歴々は、被災者に対して詫びや激励の言葉を掛けても、膝を折って彼らと同じ目線で言葉を交わすことはしなかった。それに比較して、天皇皇后両陛下や皇太子夫妻は、一人一人の被災者の前で正座し、顔を寄せて彼らの話をちゃんと聞き、ねぎらいの言葉を口にされていた。 (改行)(中略)一代ポット出の権力者たちと万世一系の連綿たる皇統を継ぐ人々との歴然たる器量の差を実感した。(改行)僕はといえば、皇族を皇族たらしめるのがひとえにその歴史であることにあらためて気づかされた。過去と現在とを融合させ、過去の記憶や意味を自らの記憶や意味として保持する者。そいういう存在は、いまや皇族や王族をおいてほかにはあり得ないだろう。この『時間そのもの』なのだ、と痛感したのである」(88-89頁)。このように企業人・政治家と対比して皇族を捉えることは自分にはなかった。次のような下劣な存在は「かつての復興大臣」として歴史に残る。サッカーボールを蹴って場違いのアピールをした役立たずの松本龍元復興大臣、香典問題・下着窃盗疑惑の髙木毅復興大臣等々、碌でもない輩が復興に向き合っている(いた)フリをする。
 「ただ、それよりもさらに大きな喜びは、その誰かの苦しみや悲しみを分かち合えることなのかもしれない」(90-91頁)。いとおしい者に対する気持はそれでしかないような気がする。
梅枝母智夫のエッセイが興味を持って読める。小説作法として面白い。

 NHK「コズミックフロント」シリーズ(現在は「コズミックフロント☆NEXT」を録画してよく見ている。宇宙とは何か、宇宙の外には何があるとか、同時性あるいは現在と星々との時間との関係、人智の及ばぬ世界と存在の根源、などなど思いを巡らす広がりはとどまらないし理解の及ばないことばかり。それに宇宙に目を向ける研究者たちへのある種の羨望もある。遠き星々を思い、地球の画像を見ると、「神」の存在を信じる人たちの存在は理解できる気がする。

2016年2月26日金曜日

オーディオ-自作、読書(漫画)

 アナログプレーヤーのケーブルも追加して合計10本(5セット)のRCAケーブル自作完了。追加した2本のRCA端子はTOMOCA製にしたが前の方が作りやすかった。
 久しぶりにサウンドハウスを利用したが、送料は無料で翌日に配達され、以前より対応が格段に良くなった。それにケーブルは切り売りもあり安価。

 友人が送ってくれた紫檀の角材(断面30mm×15mm)を利用してスピーカーのインシュレータ(スペーサー)を数10個製作。手持ちの工具では綺麗な直角に切断することができないがやむを得ない。それに面取りも1個1個手作業でやるのでとても市販品のような整った形状にはならない。また加工冶具も作り、思った以上に時間がかかった。工作機械があればと何度思ったことか。
 スピーカーの下には8mm袋ナットや比較的安価な市販品を使用していたが、この紫檀スペーサーの方が美的にもいい。時間をかけて作ったので、その分だけでも音は良くなっているはずだ。

 管球アンプ(FA105)のキット、Z800-FW168HRのスピーカーユニットとエンクロージャーのキット、それに『Digi Fi』付録スピーカーのボックス(奥澤製)がまとまって宅配された。リビングに置いたら、先週から一部工作場と化しているリビングは尚更に雑然としてきた。作業テーブルを置き、その上に半田ごてや工具類を並べ、工具箱もフロアにあり、もの作りの匂いのする好きな雰囲気になってきた。

 先ずは『Digi Fi』付録スピーカーを作った。付録にあったコンデンサーを間に入れてツイーターは逆相接続し音を出した。『Stereo』付録の2wayスピーカーと比較すると音がこもっている感じがする。カーテンの後から出ているような音になっている。コンデンサーの種類を換えたりすれば音質も変わるのだろうけれど、その領域に入ったら底のない泥沼が待っていると思うので一切やらない。他のスピーカーでも音を出してみたが、自分の好みはエッジのはっきりした中高音にあると再確認した。まあ部屋の環境も良くないし、音質に拘る条件下にない。
 そういえば20代に会社の寮にいた頃は友人知人たちがそれぞれにオーディオ装置を構えていた。先輩の部屋にあったパイオニアのスピーカーから出る音は平面的に感じられ、同期入社の友人が買ったビクターの音には低音だけのビクターと評し、自作スピーカーにいそしんでいた先輩の部屋での音は聴くに堪えなかった思い出がある。オレはというとさっぱり知識がなかったので同期のクラシック好きの友人にオーディオ機器を選んでもらっていた。

 <都留泰作 『ムシヌユン 2』(小学館、2015年)、『ムシヌユン 3』(同、2016年)>:第1巻を引っ張り出してきて再読し、その後に3巻まで読んだ。先が全く見えず、不思議な世界、それでいて生きている人間たちの魅力もある漫画である。帯には「亜熱帯 x SEX x SF!」とある。著者は文化人類学者で漫画家、理学博士で富山大学人文学部准教授を経て現在は京都精華大学マンガ学部准教授。『ナチュン』も読みたくなった。全6巻をそのうちに・・・、紙ベースでは入手できないかも。

 <谷沢永一 『もう一度読みたい昭和の性愛文学』(KKロングセラーズ、2016年)>:大学教授にして文芸評論家として名前を知っていた。富島健夫と広山義慶-両者とも懐かしい名前である-のエロ小説引用が多い。もっとアカデミックに性愛文学と世相あるいは社会を論じるのかと思っていたが、引用が多く、昔の一時期に売れていた性愛小説の性愛場面を紹介しているだけという感が強い。

2016年2月16日火曜日

オーディオ関連のもの作り

 図面(部品加工図・装置やケーブルのL/O-レイアウト図など)を書き、ものを作るのは楽しい。もっぱら自室のオーディオ関係が主体であり、ここ数日も今度こそ最終にしようとしてL/Oを変更した。2セットのスピーカーを作る予定があり、それを見込んでの変更。ゴチャゴチャしていたケーブル類も少しは整理して、もうこれで最終とするつもり。
 昨日はラックとして使用するための木製ボックス(単に4枚板構成の安価品)2個を組み立て、購入したばかりのライン-アンプセレクターやアンプ-スピーカーセレクターを含めて全ての機器を並べ直したら初期構想以上に収まりがよくすっきりした。満足。

 オーディオケーブルが今日(16日)届いたので別途端子とハンダが到着したらまずはRCAケーブルを8本、合計長12mを自作する。よく分からないままにケーブルをモガミ2549にし、RCA端子は安価な秋月電子通商のもの。数十年使用してきた半田ごてもグレードを上げて新調した。
 その次は雑誌DiGiFi付録の2wayスピーカー。近いうちに届くはずのエンクロージャーはサイズを優先して小さなものにした。多分簡単に終わるであろう。それと相前後して管球パワーアンプのキット品を作り上げる。これまた間もなく配送される予定の管球アンプキット。管球アンプは初めてであり、音がどう違ってくるのか興味があったことと、自分で作り上げたいことがある。デザインも性能も高評価なトライオードなどには手が出なく、持っているオーディオ機器のレベルと合わせてサンハヤトのもの(FA105)にした。10年近く前から販売されているらしいが、価格的にこれでよしとした。楽しみ。しかし、オーディオ機器の価格の広さにはいつも驚く。雑誌にて新製品紹介がよくあるが、とても手が出ないし、それに価する耳も部屋も持っていない。
 最後は「数百万のハイエンドスピーカーに採用されているユニットを使用」したスピーカー。今月下旬になれば送られてくる。いままで手を着けたオーディオ関係のなかでは最も高価で、数年前から欲しくて欲しくてしようがなかった。人生も残り少なくなってきたので楽しんでもいいだろう、エイヤッと購入を決めた。自分のオーディオ機器は言ってみれば初級クラスのものでしかないが、もうこれでおしまい。音楽を鳴らしていると色々試したくなるのはしようがなく、やはり「オーディオとは畢竟物欲」(『レコード芸術2015年10月号』211頁)なのであろう。40数年前から使っているDIATONEや昨年組み立てたスピーカー、雑誌の付録のスピーカー(3セットになろうとしている)、なにが違うのと言われるけれど、音質が変わるのが面白いし、それに、何よりも作る楽しみがある。

2016年2月14日日曜日

独り言

 朝、テレビのスイッチをオンにすると、朝っぱらから何とかエイコウが女に二股だとか五股だとかを流し、ベッキーの復活を口にする芸能人のコメントが映し出される、ドイツの鉄道事故でコメンテーターが安全を確認して欲しいですねなどとたわい無いことで評論する、そんなことどうだっていいじゃないか、長い時間をかけて報道する価値なんてないじゃないか、くだらない、・・・・と苛立つ。

 家にいることが多く、テレビをつけていることも多いが、朝昼夕と同じ画像で同じトーンのニュースが流されるのにウンザリし、他のチャンネルに代えても同じようなものだし、もしかしたらオレを含む一般大衆の思考能力を貶めるためにくだらん報道を繰り返しているのかなんて妄想もしたくなる。

 イクメン議員の不倫が「ゲス不倫」などという下卑た言葉を被し、さも大事件・大不祥事のように報道されているが、批判するならばそいういう議員がなぜ存在しているのか、そのシステムにも触れたらいいじゃないのか。地元の人たちの声を流しているがそれは大して意味を持たない。何故って不倫議員もバカ面小百合議員も歯舞を読めない沖縄北方担当相も、号泣議員もみんな選挙で選ばれている。そのバカ議員を組み入れる組織があって、彼等彼女等を支え応援する人たちがいて、そして選挙で投票する人たちがいる。そのシステムに目を向けないといつになってもこのバカさ加減は繰り返される。また、「我々選んだ側にも責任がある」なんて小賢しく言うコメンテーターもいるが、ならばその責任の先にある責任の取り方や責任の重さ、或いはどうすればいいのかにも触れるべきであろう。「我々もキチンと見ていく必要があります」なんていう言葉は何の意味も持たない、(テレビ出演による)あざとい小遣い稼ぎの言葉でしかない。
 当議員の謝罪会見で「女性と3回会われたということですが、(後略)」との質問があった。3回という数字を出すならば「何回ぐらい(性)行為したのですか」の類の質問もして欲しかった(と思うのはオレだけかな)。

 などと愚痴っているところに、環境大臣がバカな発言。「『反放射能派』と言うと変ですが、どれだけ下げても心配だと言う人は世の中にいる。そういう人たちが騒いだ中で、何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた」(信毎web)だと。その後、記憶がないとか、やっぱりあったからと発言を撤回し謝罪した。一連のバカさ加減に思うことは多くあるけれど、かつて彼女の発言をもとにして作られたTシャツを彼女自身が着てくれないかなぁ。それは、2010年に自民党が作ったTシャツで、そこには現環境大臣の直筆サイン「この愚か者めが」と彼女の顔写真を入れてある。似合うと思うのだが。

2016年2月9日火曜日

早稲田ラグビー新体制および推薦合格者発表

 早稲田ラグビーHPにて来季新体制と推薦合格者がアップされた。
 監督は公に流れている通り山下大吾。コーチ等の布陣はこれからだろうが熱い指導を望みたい。主将は、大した理由もなく予想していた通りに、桑野。
 推薦合格者は例年になく多い人数で、期待が弾む。12人中6人はU18 TIDキャンプメンバーであり(早実の森島も含めれば7名)、内2名(岸岡SO-東海大仰星・中野CTB東筑)はセレクション合宿参加メンバーに選ばれている。箱館ラサールから3名も入学予定であり、うち2名は創造理工学部であり、旧理工学部機械工学科出身の自分としては応援したい気持になっている。CTB出身の監督のもと、大型CTB中野や桑山弟にも大きく期待したい。12人の内FWBは4人で第一列は一人もいないのが気になるが、何はともあれ来季に期待。
 来季は秩父宮や他の競技場に足を運ぶ回数を多くしたい。

白石一文 『幻影の星』

 年齢を重ねれば本質的には何も変わらないことを何度も何度も繰り返し見聞きする。だから、本質的に同じで表現を変えただけの台詞、悲喜劇、同じストーリーでもって「創造」を模したドラマも小説も映画も好きではない。要は決まり切ったような起承転結の構成を組み立て、涙と感動を創り出し、ハッピーエンド的に余韻を持たせる。そのような物語は好きではない。変化を模した想像力のない疑似創造性が好きでない。それらにはビジネス-生活の糧-的な匂いを感じてしまう。思索を重ね、物事の本質の深さを見つめようとし、その結果読み手側に問題を突きつける小説に惹かれる。

 <白石一文 『幻影の星』(文春文庫、2014年)>:「星」とは地球、この世の中、過去現在未来を含む生きとし生けるもの全てを意味している。この本には言葉として出てこないけれど「意識」を思い、それに併せて空間に存在している「物体」、そしてそれらを突き刺している「時間」についてイメージが膨らむ。それらを深耕すればこの世の中は「イリュージョン」とこの小説では表現する。
 主人公熊沢は東京で買って東京にあるコートが長崎で見つかり、その中に入っていたSDカードには未来の画像が入っている。一方、諫早で「るるど」でアルバイトするるり子(久美子)には今持っている携帯と同一の携帯が河原で見つかり、そこには覚えのない画像があった。3.11の原発後の現在の時間の流れのなかで、ありえない未来の出来事、そして過去の出来事を絡めて今現在の存在を問い、考え続ける。この物語(思索)を大きく蓋っているのは、『草にすわる』巻末の「あとがき」に繋がる。すなわち、「『この世界とは一体何か?』という問いは実は幻影でしかないからだ」。
 「当初避難所を訪ねた東京電力の幹部、福島県知事といったお歴々は、被災者に対して詫びや激励の言葉を掛けても、膝を折って彼らと同じ目線で言葉を交わすことはしなかった。それに比較して、天皇皇后両陛下や皇太子夫妻は、一人一人の被災者の前で正座し、顔を寄せて彼らの話をちゃんと聞き、ねぎらいの言葉を口にされていた。 (改行)(中略)一代ポット出の権力者たちと万世一系の連綿たる皇統を継ぐ人々との歴然たる器量の差を実感した。(改行)僕はといえば、皇族を皇族たらしめるのがひとえにその歴史であることにあらためて気づかされた。過去と現在とを融合させ、過去の記憶や意味を自らの記憶や意味として保持する者。そいういう存在は、いまや皇族や王族をおいてほかにはあり得ないだろう。この『時間そのもの』なのだ、と痛感したのである」(88-89頁)。このように企業人・政治家と対比して皇族を捉えることは自分にはなかった。次のような下劣な存在は「かつての復興大臣」として歴史に残る。サッカーボールを蹴って場違いのアピールをした役立たずの松本龍元復興大臣、香典問題・下着窃盗疑惑の髙木毅復興大臣等々、碌でもない輩が復興に向き合っている(いた)フリをする。
 「ただ、それよりもさらに大きな喜びは、その誰かの苦しみや悲しみを分かち合えることなのかもしれない」(90-91頁)。いとおしい者に対する気持はそれでしかないような気がする。
梅枝母智夫のエッセイが興味を持って読める。小説作法として面白い。

 NHK「コズミックフロント」シリーズ(現在は「コズミックフロント☆NEXT」を録画してよく見ている。宇宙とは何か、宇宙の外には何があるとか、同時性あるいは現在と星々との時間との関係、人智の及ばぬ世界と存在の根源、などなど思いを巡らす広がりはとどまらないし理解の及ばないことばかり。それに宇宙に目を向ける研究者たちへのある種の羨望もある。遠き星々を思い、地球の画像を見ると、「神」の存在を信じる人たちの存在は理解できる気がする。

2016年2月4日木曜日

本2冊

 <適菜收 『現代日本バカ図鑑』(文藝春秋社、2016年)>:週刊文春に連載されていた「今週のバカ」を収録している。週刊文春を購入するのは年数回程度でこのコラムは知らなかった。俎上に乗せられる多くは政治家であり、この本を読まずとも自分はバカと思っている人たちが多い。
 「バカとは知識がないことではありません。バカとは価値判断ができないことです」から始まる。自分のサラリーマン経験などからもバカに向き合うのに疲労した思いが強い。バカを批判してもそれを理解できないからバカは耐力がある(打たれ強い)、説得もできない。活動的なバカは周囲に害毒を振りまくし、少し知恵があるバカは手に負えなくなる。知恵が付いたバカはあざとい行動を取り、それが表面的には比較的まともに見えるから、周囲のバカが追従することも多い。バカは本質論を嫌って(自問できないで)いて、表面的な感情論に依拠して論を立てる。
 政界の動きをみてもあざとさを感じてしまい、ほとほと厭(嫌)になる。テレビをみれば馬鹿馬鹿しいことを正論めいて発するバカコメンテータもいれば、毒にも薬にもならない悪ふざけをしているコメディアンがさも世の中を睥睨するようにエラソーなことを喋り、そしてまたそれをマスコミが取り上げる。政治家が劣化したというけれどその政治家を選挙で選んでいるのは一般の人間であり、結局、この国が総体的に劣化したということであろう。そもそも選挙ってのは優れた手段である筈はない。ベストなシステムとして使われる「民主(的)」という用語もホントは常に疑っていなければならないものである。
 こんなことを書いていても何も変わることはないので、少なくともバカをバカと感じる感性は鋭敏にし、なぜバカはバカなんだと考える想像力は豊かにしていきたいものである。

 <石田衣良 『水を抱く』(新潮文庫、2016年)>:6年前に『sex』を読んで以来の著者2作目。この本は「婬らな純愛小説」の宣伝文に惹かれて購入したのであるが、つまらなかった。俊介の元恋人は性的欲望の強い女で、ストーリーのメインとなるナギはセックスに逃げ込む色情狂であり、常軌を逸したセックス依存症である。この女を婬らと言うのには抵抗がある。婬らと言うのは隠微ななかにも美的なものの存在をうかがわせるものであると思うのだが、この小説にはそれを感じない。そもそも著者の描写力は浅い。何故に依存性を強くしているのかが語られないままに物語はすすめられるのだが、最後に明かされる理由というのが陳腐である。登場人物の内省的描写はなく、人生の深淵への入口さえも描かれはしない。純愛の純愛たる純粋性、一途さもロマンもない。せいぜい安っぽい三流ポルノ映画の原作にはなりえる程度の薄っぺらな小説。著者の本はもうこれでお終い。

 気になる本は常にメモしている。勢いで購入しても読む時間がなく放っておくことも多いし、そもそも関心の向く方向が発散気味であり、読む本の数よりも買ってしまう数の方が多い。こんな状態に反省もあり、積ん読状態にある本を先月はリストを作って整理した。それはダブって買わないためでもあるし、読む方向性を少しでも絞り込み、衝動的に購入しないためにブレーキをかけようとするものでもあった。
 そんな状態にあるのに、楽天のポイントが結構たまっていたので、メモしていた中から3冊の本を2日前に注文した。1冊はすぐにでも読んでみたいと思っていた小説だった。そしてそれらが今日一括で宅配された。開けてみて、あれっと思った。何故ってその小説は既にいま読んでいる。楽天ブックスに発注してから本屋に2回散歩に行き、そこでその小説を見たときに、発注済みであることを失念して購入してしまったらしい。ぼけてきたのか、忘れっぽくなったのか、少し自己嫌悪。

2016年1月30日土曜日

冬の日光東照宮、ほか

 電車に乗って日光に行ってきた。旅行会社のフリープランで平日の一泊二日。スペーシアが新栃木付近を過ぎるときは、数年前に酔っ払ってそこまで乗り過ごした悪夢がよみがえり、それはしっかりと女房殿も覚えていた。電車に乗っている時間が経過するにつれ雪の風景となり、予想以上に白い風景が広がっていた。下今市で乗り換えて東武日光に降り、送迎車でホテルの前で降り、あとは東照宮の方に向かって歩いた。
 日光は久しぶりであり、まして冬は初めてのことであった。雪が凍って慎重に歩くところも多く、メインなところを歩くだけになってしまった。三仏堂が修理中であり、そのために修理現場を見ることができ、さらに展望見学通路の高みからの眺望を楽しむことができた。また、屋根に葺く土居葺板を受け付けている場所があり、二人それぞれに四文字の言葉と名前を書き入れてきた。この葺板は屋根の中に入れ込まれ次の改修まではそのまま三仏堂の屋根と一体となる。数百年後(?)まではそこに存在し続ける。神仏への信仰心は殆どないのだが悠久の歴史の中に埋もれることを思い嬉々たる心持ちになる。

 三猿の前には外国からの-主に中国からか-観光客も集まっており、ガイドの説明に耳を傾けていた。「見ざる、聞かざる、言わざる」の三つの教えは、悪いことを見たり、聞いたり、言ったりしないで、良いものだけを受け入れて素直な心のまま成長せよという教えであるが、魔の誘いに惑わされないようにもう一つ「やらざる」を加えるとした文章を読んだ記憶がある。あながち間違いではない?!

 政治の世界が騒がしい。陰謀説を口に出したり、告発した側を蔑んで喧嘩両成敗と唱えたりする議員もいて正直呆れかえる。「純粋無垢に国家国民のために全身全霊で取り組んできたという自負がある」議員がいるのかもしれないが、政治家が宣えば「単純無恥に国家国民のために全身全霊で取り組んできたという自惚がある」ような気もするような…。

2016年1月29日金曜日

息子たちと新年会

 息子が高校時代の友人たち3人と新年会を行い、66歳のオヤジであるオレも参加した。前から一緒に飲みたがっていたじゃん、友だちに声をかけたら是非来てよと言ってみんな歓迎しているよ、と息子に言われ多少の気後れはあったが40歳4人の中に入って一緒に飲んだ。一人は初対面、一人はほぼ20年ぶり、もう一人は家族を含めて昨年一緒に息子の家で飲んでいる。楽しかった。また一緒に飲みたいしオレの家にも来たいと言われ、今度はオレの家で集まって飲む約束をした。4月は仕事で都合が悪いからその後の方がいいですと一人が言い、気が早い。春が過ぎたら具体的に予定を組もう。

 <竜田一人 『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記 (3)』(講談社、2015年)>:シリーズは終わってしまった。世間から福島原子力発電所が薄れかけており、いまの現地での状況は殆どニュースにもならず、朝日新聞での「プロメテウスの罠」は続くけれど、一般的には、あの事故の根本原因は何かという本質的議論は語られず、風化していくだけと思われる。・・・そしてまたいつか同じような事故は-原発事故に限らず-繰り返されると思う。

 <原泰久 『キングダム 四十一』(集英社、2016年)>戦闘を中心に描いているが、気持の中では始皇帝の諸政策がどう描かれていくのかを楽しみに待っている。