2016年12月31日土曜日

MMCX改造、読書メモ

 イヤホン&ケーブルのMMCXコネクタ改造は大変だった。2時間くらいで完了するであろうと目論んだ作業は結局10時間近く要してしまった。まず部品が小さい、線が細い。だから半田付けに神経を使う。温度を高くし過ぎて変形させてしまう。カバーの接着が綺麗にならない。メス側のカバーは代用品であるのでキチンと収めるのに苦労する。やっとできたと思ったら間違って線を引っ張って断線させてしまう。コネクタのオスメスがかっちりと嵌まらない、等々、以前おこなった複雑な真空管アンプ組立の半田付けよりも難しい。何とか完成はしたがもう二度とやらない。

 今年読んだ最後の本をメモしておく。

 <米澤穂信 『真実の10m手前』(東京創元社、2015年)>:『王とサーカス』の太刀洗万智が核をなす短編集。2017年版『このミス』の3位、週刊文春の2位。どの小説も精巧に作られたピースを精緻な枠に当て嵌めていく精密機械のような感じがした。作者はまるで超精密工作機械のようであり、あるいはどの作品も優れたファインブランキングの工程を見ているようである。何気ないパーツが太刀洗万智の分析を通過すると貴重な高品質のパーツとなって全体を構成し、鮮やかに組み立てられる。主人公には怜悧で艶のある、磨かれたステンレスのような思いを抱いた。鋳物のような粗い理肌はない。

 <塩見鮮一郎 『中世の貧民』(文春文庫、2012年)>:サブタイトルは「説経師と廻国芸人」。土車に六根片端の男が乗っている。「この身を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」とされ、その男”をぐり”は関東荒れ地より熊野本宮に向かう。現代とオーバーラップしながら中世の”をぐり”の旅をトレースする。その途々で襤褸着をまとった者たちがあふれる。著者はこの障害者が当時のひとたちにどう理解されていたのかを確認しながら”をぐり”とともに現代の地を巡っていく。時空を何度も行き来するものだから、一体作者は何を追いかけ表現しようとしているのか自分には苦痛でもあり退屈でもあった。それは多分に自分が「説経節」や「安寿と厨子王」、「山椒大夫」などの物語の知識が皆無に等しく、また関心も薄いせいであろう。そしてこの新書に「貧民」なる言葉を付しているのに、著者は「貧民」をどう解釈しているのか当初は理解に迷うこともあった。
 案山子が障碍者の仕事であり、隷属民と賤民、穢多や非人の違いはいまさら新たに得る知識でもない。中世のあちらこちらに飛んでは戻り、現代の地理との照合は発散気味かつ複雑で、興味のない箇所は斜め読みもした。

 <米澤穂信 『さよなら妖精』(創元推理文庫、2006年)>:高校生時代の太刀洗万智がどのように描かれているのか、ただその点に興味があって手にした。取っつきにくさは彼女が極端に恥ずかしがり屋だから、となれば尚更に彼女は愛おしくはなるがどう接していいかわからない女性となる。「妖精」は旧ユーゴスラビアから来た少女で、『真実の10m手前』の「ナイフを失われた思いでの中に」に登場する男性の妹である。
 ここから脱線。オレは、高校時代は男子高校に通い、進学した大学では機械工学科で女性はおらず、勤務先では工作機械設計部門に所属し、庶務の女性が広いエリアに数人いただけである。そのような哀しき(!)境遇にいたのでこの小説のように高校生が男女一緒に会話をし、出掛け、飲んで、共通の思い出を持つということはオレには全く欠けている。何か大事なことを経験していないという欠落感を覚えるが、一方その反面、多感なときに女性の色香に惑わされこともなく、惰弱な性癖故に入り込んでしまうかもしれないアホな領域に踏み込まずに済んだという妙な安堵感(?)もある。まあ、下らん妄想みたいなものだが。

 <塩見鮮一郎 『江戸の貧民』(文春文庫、2012年)>:著者の『弾左衛門とその時代』『江戸の非人頭 車善七』を既読しているので、弾左衛門や車善七の人物には馴染み(?)がある。彼らを中心にして著者特有のパターンで現代と江戸の時空を行き来する。彼らは身分外の人々を差配して莫大な資産を作るのであるが、差配された側に視点を移せば、身分外になされる原因は、突き詰めれば単純であって食うに困るからである。貧困が引き継がれ、新たな貧困が作られ、貧困故に蔑視され、循環し続ける。そう思う。もちろんそこには宗教上の理由、死生観なども背景にある。
 江戸の不幸の四大記号はやもお、やもめ、みなしご、ひとり、であるとのこと。逆に言えばひとりではないことは幸いであると言える。人情篤き江戸の頃、家主や町役の人は救済の手を伸ばしたであろうが、現代では孤児以外は「自己責任」という名のもとであまり問題視させず、孤独死をしてニュースネタになっている。

 これで2016年は了。

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