2019年10月31日木曜日

志水さんの最新小説

 <志水辰夫 『新蔵唐行き』(双葉社、2019年)>:『疾れ、新蔵』(2016年)の新蔵が、行方不明となった主家の若旦那を捜し求め、アヘン戦争が始まる唐に行く。舞台は主に寧波や杭州湾周辺。長崎からは唐人の父親に会いに行く少女ななえも同行する。実在する紅弊・青弊を彷彿させる黄弊と紫弊が描かれ、その抗争のなかで、黄弊の頭領となったかつての若旦那と新蔵は再会する。ななえを父親に会わせ、アヘン中毒になっていた若旦那をも救う。
 長崎から福江島、杭州と海上に船を走らせ、中国の東シナ海が脳裏に浮かぶ。時折地図で地理を確認しては物語のイメージを膨らませた。
 本作は著者の3年ぶりの出版で、読むのは38作となった。志水さんも齢80を数年前に超え、あとどれくらいの新作を楽しめるのだろう。

思想史のテキスト

 <渡辺浩 『日本政治思想史 [十七~十九世紀]』(東京大学出版会、2010年)>:近世・近代思想史の最良のテキスト。以下、理解したところを短く乱暴に、本文から適宜文章を引用してまとめると以下のようになる。
 「常備軍が官僚制であり、官僚制が常備軍」であった徳川期は泰平の世にあって、「「御恩」と「奉公」という二つの絆で結合する主従関係」にあった武士たちは、武威による功名心とそれに基づく忠義の賛辞を得ることは困難となり、戦が無い時代には追腹することと化したが、それも禁止となった。主家に忠義を尽くすこと、それは「イエ」を基底とする家業(家職)に仕えることであり、小さな組織(百姓・町人)から武士・大名まで、さらには大きな組織=国家まで、それが徳川の政治体制でもあった。
 戦のない武士たちは何によって主家に忠義を尽せば良かったのであろうか、戦闘に臨めない武士たちは、「武士道」を背負うが、その「武士道」は「ほとんど武士らしさを擬装する演技と化した」。武士が儒学を取り入れるのは、「実態と遊離した戦闘者としての名誉意識を、儒学的な「士」としての誇りが補」われることであり、また、儒学は、武士の世界の秩序維持=服従に役立つ面があり、統治のためのガイドでもあった。大きく括ると儒学、少し砕くと陽明学や朱子学。熊沢蕃山や林羅山の師である藤原惺窩が出現し、伊藤仁斎によって古義学が提唱され、幕政を主導し吉宗の時に失脚した新井白石と続き、「徳川儒学史は、彼の出現によって様相を一変」されたとする荻生徂徠が現れる。個人的に面白い人物と思ってしまうのは「直耕」を唱え、「字・書・学問ハ、転道ヲ盗ムノ器具」と説いた安藤昌益である。異端の思想人であり、その思想に共感はしないが、異端故に妙に興味を惹かれる。何が彼をそうしたのかという視点である。
 現在も崇められることの多い本居宣長、「素直な心情と率直な暴力の美しい国・日本、という自画像」を描く賀茂真淵が登場し、「現状への不満と対西洋危機感に駆られ、宣長からも学びつつ「皇国」意識を強調し、士気の高揚と政治的統合のひきしめをはかった思想運動」である水戸学へと進み、そこはもう明治に突入するも同じようなものである。
 幕府が諸外国の開港・開国要求には武力では抗し切れない、抗するには言語しかない。そこに持ち出されるのは、「隣誼」「礼」、「民」への配慮であり、それは儒学的な「道」である。「言語によって外国人をも納得させようと決めた以上、普遍的な規範や価値を持ち出すしかない。そして彼等にとっては、儒学的な「道」しか万国に普遍妥当するであろう規範は無かったのであ」った。
 一方、「外国を意識するほど、皇統の連続が貴重に思え」るのであり、そこには国学と水戸学の影響があった。幕政と禁裏、二つの権威は「二大政党に似て、政権党への不満の結果、在野党の人気が実績でなく期待によって高まるというダイナミズムが働」く。そもそも、冒頭に記した「イエ」や「集団(町村・寺社・「仲間」・「座」)」は「「歴史的「由緒」や「筋目」を誇る形でなされ」、なれば「最古・最強の「由緒」「筋目」「格」を持つ禁裏がじりじりと権威を高めるのは当然である。多分、禁裏は近世後半の全国的「由緒」競争の最大の勝者だったのである」。こうして明治以降、「禁裏の一層の輝きは、「日本」とは天皇を戴く特別に優れた国、「皇国」だ、という自意識を強め」、やがて「一木一草に天皇制がある」(竹内好)の観念が堅固に築かれた。
 現在にも当てはまる指摘を引用しておく。即ち、「一般的に、専制的権力が成立し、安定すると権力が一々指示する必要は減る。その意向を忖度して、「自主的」に随従するようになるからである。それは、「無為にして治ま」った状態ともいえる。しかし、権力が拡散した状態とも見える。特に権力の要求が固定すれば、各人は安んじて先例通りに動くことになる。それは、最強の専制とも見え、合意に頼る統治とも見えよう」。現在だけではなく、古の時代も、中世も近世も、まして明治新政府からは尚更にそうであったと思える。

2019年10月28日月曜日

スピーカー・エンクロージャ製作

 スピーカーZ601-ModenaのユニットをZ-ModenaからFostex/FE83NVに変え、Z-Modenaが遊休品となった。ユニット交換は、好奇心から価格的にグレードアップしてみただけで、前のユニットに不満があった訳ではない。また、Z600-Modenaのフロント・バッフルが1セット余っていた。
 上記遊休スピーカーとバッフルを使用してスピーカーを1セット作った。但し、コスト抑制のために板材は物置に眠っている端材を使用し、ターミナルも既に保有しているものを使用した。肝心要のエンクロージャ本体は塩ビ管ソケットで、外側には布を貼った。吸音シートもポリエステルの安価なもの。よい音を出すための設計計算や調整は一切していない、というか知識も能力ももっていない。
 音は中・高音が目立ち、乾いた音となる。アコースティック・ギターやエレキギターのメロディーが(意外にも)澄み切った音に聞こえる。


2019年10月24日木曜日

22日祝日、永井さんの文庫本

 22日、近くの郵便局に葉書を10枚買いに行った。平日なのに閉っている。臨時休業なのか、でもそれならば何らかの休業通知の貼り紙くらいあるだろうと入口に行くも何もない。しようがないのでコンビニで購入。帰宅して連れ合いに、今日は全国的に休みだっけ、と聞いたら少し間をおいて返事があった。天皇即位の儀式の日で祝日になっていたことを知らずにいた。
 世界中の多くの国で、儀式では礼服に勲章・褒章・綬(呼称が正しいの自信はない)をつける。厳かなのであろうが、何か違和感というか滑稽というか、そんな感じが拭えない。逆に、自国の伝統に一貫するサウジやブータンに凜々しさ、清々しさを感じる。
 日本での儀式は古式に則って行い、各国からの来賓を迎えるときは西洋式になる。和洋折衷の最たるものか。

 <永井義男 『本当はブラックな江戸時代』(朝日文庫、2019年)>:「美化されがちな江戸時代を軽妙洒脱に徹底検証!」と帯びにある。徹底検証はちょいとオーバーだが、時代劇や江戸人情小説で描かれがちな時代描写や人間模様は、それは幻で、現在の目で作られたものですと、と言っている。そのような認識は当然にあって別に驚きもせず、へぇ~っとも感じない。ブラックな面も今の目で見るからブラックなのであって、当時はそれが現実であった、ということでしかない。識字率が高いというのも、対象となる「字」はどこまでさしていたのかと問えば、「識字」のレベルが疑われよう。たしか、寺子屋ではくずし字の読み方を教えるのが基本であったと何かで読んだ。武士にしても殆どは組織の中でぬるま湯につかりボーッとしていたろうし、アーネスト=サトウが指摘するように殿様には馬鹿が多かった。権威だけを持たせて馬鹿であれば、実務を担う者たちは何事に付け実務をやりやすかったに違いない。
 永井さん、江戸を説明する本はもういいから(本来の)小説を書いて下さいよ。

2019年10月21日月曜日

日本酒の近現代史

 <鈴木芳行 『日本酒の近現代史 酒造地の誕生』(吉川弘文館、2015年)>:世界各地にその地特有の酒があり、「すぐれた酒を持つ国民は進んだ文化の持ち主である」(坂口勤一郎『日本の酒』)のであり、日本酒の歴史は文明の歴史であり、もちろん誇るべき文化である。伏見・灘・西条・・・・と銘酒の産地はあるが、個人的には、東北で生まれ育ったせいか、秋田や青森、山形、会津の酒にはやはり手が先に伸びる。
 本書の著者は、国税庁税務大学校税務情報センター租税資料室に勤務した人であり、税金に裏付けられた日本酒の歴史は詳しい。なれど、酒を味わい、また酒に溺れて身を滅ぼし、酒を友に旅をして人生を送る、といったような側面で酒の歴史や人びとの暮らしに触れようとするには、例えば小説や個人史などのような本を開かなければならない。
 日本の酒が「日本酒」と呼称されるようになるのは幕末・維新の頃であり、「日本酒」と呼ばれることが一般的に広く行き渡るようになるのは前の東京オリンピックの頃である。「日本」が意識されるのは海外を意識する時期と符合し、己を知り意識するのは常に相対的なものでしかないということなのであろう。

続いた不具合、「犾」、南ア戦

 不具合はまだ続いて,今度はテレビドアホンが呼称。門扉近くに取付けてあるカメラ付き玄関子機からの音声が聞こえなくなった。断線などはなく、親機から子機への音声は正常だし、親機でのテレビモニターも正常。約15年間も使っていたので寿命が来たようだ。何年も前に生産中止になっているし、しょうがないので新品をネットで購入。玄関子機+モニター付親機のセットよりもモニター付子機が2倍ほどの価格であるのに合点がいかないが、多分需要の違いによるスケールメリットの差異であろう。
 コンセント電源接続ではなく埋め込み電源直接接続なので、本来は電気工事士の有資格者が作業を行うことになっているが、ブレーカーで該当箇所の電源を落とし自分で実行した。資格はないけれど知識は有していると自負している。
 もう故障は起きないで欲しいが、こればっかりは自分ではどうしようもない。

 『アイヌ民族の軌跡』を読んでいたときに気になった漢字が「犾」、弘前藩の史料にこの文字があって「えぞ」と呼んでいたらしいく、「「犾」は、本州アイヌを含むアイヌの人びとの呼称として用いられていた」とのことである。津軽の竜飛岬近くの宇鉄周辺には、かつては「犾村」が存在していたとのことである。「犾」、獣偏に犬、これで「えぞ」と呼称していたとは、アイヌの人びとへの蔑視を感じる。
 この漢字、使用しているATOKでは「ギン」と入力すると「犾」に変換される。しかし、『字通』にない。「㹜」はある。「㹜」は「ギン・かむ・あらそう」であり、意味は①かむ、犬がかみあう、②あらそう、うったえあらそう、ことである。「㹜」は「犾」の異体字とする記載がweb上にはあったが、真偽は分からない。手許にある『異体字解読字典』にはどちらも載っていない。アイヌの居住地は北東北地方・北海道であり、中央(京や江戸)では一般的でなかったろうから「犾」もごく限定された使い方であったろうと推測する。それにしても「犾」を「えぞ」と読むのには激しい差別を感じてしまう。誤解・曲解だろうか。

 RWC準々決勝、日本は南アフリカに負けた。3-26。特に2ndハーフだけを見ればスコア以上の完敗と思えるが、逆な見方をすれば南アフリカをジリジリさせた日本の健闘を称えるべきであろう。それにしても、スクラムやモール、ラインアウト、ディフェンスの早さと強さには大きな差がある。でも、アイルランドを破り、スコットランドに勝ち、予選グループを1位で通過し、ランキング6位まであげたことは素晴らしい。
 日本でRWCをやっても観客は入るのか、日本が予選を通過するのは五分五分くらいだろう、などと開催決定時はネガティブな想像をしていたが、全くそうではなかった。日本でRWCを開催したことは大成功といっていいだろう。国内のラグビー人口は増えると思う。準決勝・決勝の試合が楽しみである。

2019年10月18日金曜日

『江戸の図像学』、『アイヌ民族の軌跡』

 <浪川健治 『アイヌ民族の軌跡』(山川出版社/日本史リブレット、2004年)>:日本の歴史の中で、いわゆる本土以外の地は、中央から見て開発対象の地であった。小笠原は1926年に東京都に組み込まれる(東京府小笠原支庁)までは小笠原島庁の管理下であったし、琉球は沖縄県とされたが、敗戦後に米国統治下にあり、返還後は沖縄開発庁から沖縄振興局と名を変えて中央からの視線を向けられている。そして、かつてのアイヌ民族の地で会った蝦夷はどうかというと、これまた中央には北海道庁が1947年まであり、その後は北海道開発庁が18年前まであった。現在でも政府には「沖縄及び北方対策担当大臣」がおかれ、かつての振興・開発とは意味合いを異にするものの特別な地であることには変わりない。
 アイヌの人びとは江戸幕府によって「蝦夷人」「夷人」と呼ばれてきたが、西洋との接触の中で「夷人」が西洋人を貶む言葉としても用いられてきたために、1856年(安政3)に「土人」と呼称するように改められた。以後、「旧土人」と記載された法律が1889年(明治32)から1997(平成9)まで約100年間にわたって効力をはたらかせ、アイヌの人びとに対し、「生産・生業と文化の諸側面において民族文化を否定し「日本」文化への吸収をはか」ってきた。「旧」が付いても付かなくとも、「土人」という蔑みの呼称は沖縄で機動隊員が口にし、現在でも本土人の心の深層にこびりついている。
 日本の歴史関連の本を読んでいると、北海道や琉球の歴史がストンと抜けていて、要はその地の歴史を知らないことが多い。それは多分に、各地の歴史は中央の歴史の延長線上で捉えられるが、海で隔たった地においてはその延長線が跡切れ、繋がるときには中央政府の圧政としての側面が強調される。圧政と暴虐に抗しては敗北し、懐柔され服従されるというパターンを思うと、結局は彼我の「力の差」がそうさせたことである。対抗するには組織的戦力の構築と増強しかない。その意味で、昔の時代における中央政府に抗う暴力は安易には否定できない。
 それにしてもと思う、北海道や沖縄の歴史はどうも負の側面から描かれることが多く、それ自体がもう中央の高みに視座を置いている、ということなのであろう。

 <田中優子 『江戸百夢』(ちくま文庫、2010年、初刊2000年)>:表紙には書名の橫に「近世図像学の楽しみ」とあり、江戸期の国内外の絵画や彫刻などを見ての著者のエッセイといった風。歴史を知悉し、芸術品への鑑賞眼があり、人間の営みを深く考えて寄り添う、そのような人がものすることのできるエッセイ。そもそも図像学とは何かとWikipediaを開くと、「絵画・彫刻等の美術表現の表す意味やその由来などについての研究する学問」とある。絵画や彫刻を見ても、ぼんやりと眺めておしまいといった態度しかとれない己にとっては、なるほど、殆ど縁のない学問ではある。

ラグビーの本

 <李淳馹(リスンイル) 『ラグビーをひもとく 反則でも笛を吹かない理由』(集英社新書、2016年)>:RWCが毎日のニュースを賑わしている。32年前(1987年)に読んだ傑作『オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄)には僅かな記憶しかない。が、ラグビーの歴史に触れ、イギリスと日本とでは大きく違う環境や設備を知り、オフサイドの「サイド」は陣地のことであり、ラグビーは多勢で長時間にわたって楽しむお祭りであったことを知った。この新書が発刊されたとき、興味があってすぐに買い、しかし数頁読んでは他のことに気を惹かれ放っていた。今回のRWCもあり再度手に取った。著者は刊行当時、関東ラグビーフットボール協会公認レフリー。
 ラグビーのルールが規定された理由、そして繰り返される変更の理由が論理的に丁寧に述べられている。もちろん、その基底にはラグビーの「文化」があり、初めて知ったことも多かった。例えば、「ラグビーは、ルール(規則)ではなく、ロー(法)の下でプレーされる」ということ。なれば、ルールとローの違いとは何かと考えることになる。「Rule by Law」(法治主義)と「Rule of theLaw」(法の支配)の違い、分かりやすい。
 また、レフリーとアンパイアの違い、レフリーとジャッジの意味などはなるほどと思わされた。「いいレフリーは、反則をポケットにしまうことができる」という金言に対し、笛吹童子のごとく「ルール」へのジャッジをすることが多い(日本の)レフリーは秩父宮などで何度も目にしている。
 アドバンテージがあるからこそプレーの継続が図れ、プレーヤーとレフリーのコミュニケーションも、レフリーが選手に声を掛けるのも、反則を予防し、プレーを楽しみ継続させることにあることを再確認した。「相手側から利益を奪ったか」否かをレフリーは判断して仲裁役を務める。ラグビーのプレーとはボールに触れることであり、それを理解することでゲームの流れをより楽しめる。観戦しているとノット・ロール・アウェイが判然としないことがあるが、タックルとは、タックルされたとは、またタックラーとはどういう定義なのかを読むと、より具体的に理解は深まった(ような気がする)。
 『ラグビー憲章』にある5つのキーワード、とてもいいし、それを理解することでさらにラグビーは楽しめるし、オン・プレーの時も、ノー・サイドになったときも、選手たちの姿や言葉・行動に感情を入れ込むことが可能となる。それは、品位Interrity)・情熱(Passion)・結束(Solidarity)・規律(Discipline)・尊重(Respect)。

2019年10月17日木曜日

酔っ払いの本と鍛冶屋の本

 <大竹聡 『酔っぱらいに贈る言葉』(ちくま文庫、2019年)>:帯に書かれているように、この文庫本は酒飲みの酔っ払いたちに向けられたのではなく、「愛すべき酒呑まれたちへ」贈る言葉を詰めたものである。家人あるいは友人たちに酒に強いと言われる(た)己ではあるが、本書に登場する酒好きな人たちに比べれば「ひよっこ」のようなものである。
 「この店のビールはうまいから帰りに六本包んでくれ」(内田百閒)などと粋な台詞を口にした覚えもなく、「恋人は一瓶のワインであり、女房はワインの瓶である」(ボードレール)と人生を振り返れるほどにワインはまだ味わえない-日本酒とウィスキーは楽しめるがワインはアルコール入り蒲萄ジュースのようにしか感じ取れずにいる。
 かつて、酒の飲めない部下の女性に、「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」(若山牧水)の如きことを口に出したら、彼女からは「酒の苦しみを知らなくて幸いです」と返された。
 年齢も重なり、アルツハイマーにはなりたくないし、また「アル中ハイマー」にもなりたくない。
 本書にあったレシピ、フライパンで強火で手早く焼いた葱に醤油と七味唐辛子を加える、これが美味そう。油を使わずに葱を焼き(ガスで焼くのは駄目)、塩をかけてつまむのは以前より好物であり、葱のレパートリーが一品ふえた。そして、本書での「本格派レモンサワー」にはまっている-400ccのグラスにキンミヤ焼酎を90cc入れ、氷をグラスいっぱいに入れ、レモンを加えて炭酸を注いでステアせずに飲む。すべてを冷やしておいてこれを作ると実にうまい。

 <遠藤ケイ 『鉄に聴け 鍛冶屋列伝』(ちくま文庫、2019年)>:書名に惹かれて購入。まえがきの「僕」を多用する文章に馴染めない気分となり、その後の鍛冶作業にまつわる描写は、専門技術的であり、活字を追う気持ちが萎え、さらには手書きのスケッチが何とも見にくい(多分『ナイフマガジン』に連載されていたときはカラーであったと思う)。一体何を期待してこの本を開こうとしたのか自問してみると、鍛冶職人の生活史や人生観などに触れたかったのだが、それには殆ど触れることなく頁がすすみ、描かれるのは鍛冶職人の鍛冶工程が多く、結局そこには興味が湧かず、駈け足で活字を眺めて終えてしまった。

2019年10月15日火曜日

PCデスク補強、台風、続く不具合、RWC

 PCデスクに活用した譜面台は脆弱なものではなく、パイプも太く剛性のあるものなのだが、プラスチック部品も使ってあるせいで、いわばピッチングとローリングの動きがあって気になる。ヨーイングも多少あるがPC操作上は気にならない。ために、これら二つの動きを抑制すべくステーを追加し、またマウスのスペースも追加。延べ2日を要した。

 台風19号が襲ってくるための準備。広い範囲で災害が起きているが、幸運にも風が強かったというだけで済んだ。いままでも台風や大雨といった天候でも殆ど何も影響を受けていない。でも、各地では亡くなった人もいるし、多くの箇所で水害の被害も発生している。某政治家が「この程度の被害で済んでよかった」というような言葉を発したらしいが、怒りを感じる。否、それを通り越して呆れてしまう。端的に言えば、彼の政治屋たちはあらゆることに対して感性が鈍くかつ想像力が欠乏しているのだろう。

 ポータブル・チャージャーの充電部に不具合が発生。USB端子挿入部のぐらつきと接触不良。ポータブル機器の不具合は、頻繁に抜き差しをするこういった機械的接触部における不具合-部品と電子基板の半田付け部分の不具合-から発生することが多い。どのような機械あるいは機器でも広義のマン・マシン・インターフェース部分で生じるし、だからこそその部分の設計は難しい。
 大容量のチャージャーなので何のツールもなしで修復するのは危険。よってディスチャージして廃棄。

 不具合は続くもので、今度は長年使用していたヘッドホンの名器であるSONY MDR-CD900STの右側から突如音が出なくなった。コードをいじると音が鳴ったり鳴らなかったりするとか、あるいは音が途切れるとか雑音がするなどの現象は一切なくいきなり音が出なくなった。断線ではなくドライバーの故障かと思ったが、まずは電線チェックをすれども異常なく、やはりドライバーの故障と思われる。このヘッドホンはパーツが売られているし、ドライバーも販売されているのであるが、いかんせんヘッド部の人工皮革が部分的にボロボロになりかけているし、ウレタンリングは形がなくなっている。ドライバーに付け加えてヘッドバンドやドライバー、ウレタンリングを購入してまで修復する気にはならず、バラバラにして廃棄することとした。オーバーヘッドのヘッドホンはSENNHEISER・FOSTEX・AKGのものがあるので、それでよし。

 さっき、さらにオーディオで不具合発生。キットを手作りした真空管アンプを通すと左側スピーカーから音が出ない。ゴチャゴチャしているコード類の接続状況を確認し、他のアンプからの音出しも確認し、たどり着いた原因は不具合発生アンプの左側スピーカー端子の内部接触不良。要はキット組立時の自分の作業品質不良に帰因する。
不具合は何故にこうも連続するのだろうか。

 13日のRWC、日本はスコットランドに28-21で勝利し、予選プールを1位で通過し、初のベスト8に進出。最初にトライを取られたときはこのままずるずると負けパターンに入ってしまうのではと不安になるが、同点になった時点で少しは安堵し、逆転したところでは勝利の可能性を強く感じた。FWは強いし安定している。4Tのどれもが素晴らしく美しい。オフ・ロードパスは何度見ても感動する。キックパスによるトライも絵に描いたようだし、後半直後の福岡の独走トライで4Tとなり、ボーナスポイントも確保し、これで勝利を確信。日本が勝ったのはもちろん嬉しいし素晴らしい勝利なのだが、ラグビーの試合としても傑出した試合だったと思う。

2019年10月6日日曜日

雑記、RWC サモア戦


 窓際においてあるスピーカーのレイアウトをまたまた変更。PCの左右間隔が離れ過ぎていること、PCを操作する位置から聴く音楽の左右バランスが歪んでいること、サブ-ウーファを中央に持ってきたいこと、等々でレイアウトを変更。そのために、譜面台に手を加えてPCデスクを作成。これだけで随分と良くなった。

 4日、17時より梅島で飲む。飲む量は減り、カラオケも1時間だけで終わりとし、21時少し過ぎには春日部駅改札を出て自宅に向かった。以前のように寄り道をすることもなく帰宅。

 5日、RWCサモア戦。テレビのライブ観戦。前半は反則が多く、ためにPGの繰り返しとなって試合はつまらなかった。コンテスト・キックの多さも楽しめない。2ndハーフの後半になってやっと面白くなり、日本がボーナス・ポイント(BP)を得るための4トライ目となる攻防ではテレビ画面に釘付けとなった。
 今後、アイルランドvsサモアではアイルランドが完勝するだろうし、スコットランドは日本戦4日前のロシア戦で快勝するだろうから、日本が決勝トーナメントに進むには、日本vsスコットランドの結果次第となる。もし、日本が引き分けor勝利となると予選1位となる。負けてもスコットランドが3トライ以内でかつ差が7点以内ならば2位通過となり、双方4トライ以上の戦いでも7点差以内ならば1位通過となる。
 それにしても日テレの放送において、芸能人の何の変哲もないしゃべりは余計な時間費消で嫌気がさすし、さらには試合解説者(永友)の饒舌さには辟易とした。消音にして観戦するのが最良である。