2019年10月31日木曜日

思想史のテキスト

 <渡辺浩 『日本政治思想史 [十七~十九世紀]』(東京大学出版会、2010年)>:近世・近代思想史の最良のテキスト。以下、理解したところを短く乱暴に、本文から適宜文章を引用してまとめると以下のようになる。
 「常備軍が官僚制であり、官僚制が常備軍」であった徳川期は泰平の世にあって、「「御恩」と「奉公」という二つの絆で結合する主従関係」にあった武士たちは、武威による功名心とそれに基づく忠義の賛辞を得ることは困難となり、戦が無い時代には追腹することと化したが、それも禁止となった。主家に忠義を尽くすこと、それは「イエ」を基底とする家業(家職)に仕えることであり、小さな組織(百姓・町人)から武士・大名まで、さらには大きな組織=国家まで、それが徳川の政治体制でもあった。
 戦のない武士たちは何によって主家に忠義を尽せば良かったのであろうか、戦闘に臨めない武士たちは、「武士道」を背負うが、その「武士道」は「ほとんど武士らしさを擬装する演技と化した」。武士が儒学を取り入れるのは、「実態と遊離した戦闘者としての名誉意識を、儒学的な「士」としての誇りが補」われることであり、また、儒学は、武士の世界の秩序維持=服従に役立つ面があり、統治のためのガイドでもあった。大きく括ると儒学、少し砕くと陽明学や朱子学。熊沢蕃山や林羅山の師である藤原惺窩が出現し、伊藤仁斎によって古義学が提唱され、幕政を主導し吉宗の時に失脚した新井白石と続き、「徳川儒学史は、彼の出現によって様相を一変」されたとする荻生徂徠が現れる。個人的に面白い人物と思ってしまうのは「直耕」を唱え、「字・書・学問ハ、転道ヲ盗ムノ器具」と説いた安藤昌益である。異端の思想人であり、その思想に共感はしないが、異端故に妙に興味を惹かれる。何が彼をそうしたのかという視点である。
 現在も崇められることの多い本居宣長、「素直な心情と率直な暴力の美しい国・日本、という自画像」を描く賀茂真淵が登場し、「現状への不満と対西洋危機感に駆られ、宣長からも学びつつ「皇国」意識を強調し、士気の高揚と政治的統合のひきしめをはかった思想運動」である水戸学へと進み、そこはもう明治に突入するも同じようなものである。
 幕府が諸外国の開港・開国要求には武力では抗し切れない、抗するには言語しかない。そこに持ち出されるのは、「隣誼」「礼」、「民」への配慮であり、それは儒学的な「道」である。「言語によって外国人をも納得させようと決めた以上、普遍的な規範や価値を持ち出すしかない。そして彼等にとっては、儒学的な「道」しか万国に普遍妥当するであろう規範は無かったのであ」った。
 一方、「外国を意識するほど、皇統の連続が貴重に思え」るのであり、そこには国学と水戸学の影響があった。幕政と禁裏、二つの権威は「二大政党に似て、政権党への不満の結果、在野党の人気が実績でなく期待によって高まるというダイナミズムが働」く。そもそも、冒頭に記した「イエ」や「集団(町村・寺社・「仲間」・「座」)」は「「歴史的「由緒」や「筋目」を誇る形でなされ」、なれば「最古・最強の「由緒」「筋目」「格」を持つ禁裏がじりじりと権威を高めるのは当然である。多分、禁裏は近世後半の全国的「由緒」競争の最大の勝者だったのである」。こうして明治以降、「禁裏の一層の輝きは、「日本」とは天皇を戴く特別に優れた国、「皇国」だ、という自意識を強め」、やがて「一木一草に天皇制がある」(竹内好)の観念が堅固に築かれた。
 現在にも当てはまる指摘を引用しておく。即ち、「一般的に、専制的権力が成立し、安定すると権力が一々指示する必要は減る。その意向を忖度して、「自主的」に随従するようになるからである。それは、「無為にして治ま」った状態ともいえる。しかし、権力が拡散した状態とも見える。特に権力の要求が固定すれば、各人は安んじて先例通りに動くことになる。それは、最強の専制とも見え、合意に頼る統治とも見えよう」。現在だけではなく、古の時代も、中世も近世も、まして明治新政府からは尚更にそうであったと思える。

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