2024年2月28日水曜日

ワイン、漫画、尾崎翠

 テレビのドラマで、若い素敵な女性と普通の男性のカップルがレストランで食事をしていて,赤ワイン-こういうシーンではまず白ワインは出てこないのは何故だろう-を飲んでいた。そのシーンを思い出して急にワインを飲みたくなり、散髪に行った帰りに赤ワインを買ってきた。いつもの様にアルコール入り蒲萄ジュースと嘯いて昼食時に1本を空けた。眠くなって一眠りをして目が覚めたらどうも体調が芳しくない。勢いづいて日本酒4合瓶やワイン1本を空ける年齢ではなくなった、気持ちと肉体のバランスが崩れていることをここでも再認識させられた。かつてはウィスキーのボトル1本も空けた日があったというのに。

 <さわぐちけいすけ 『数学教師もげきはじめの考察』(Amazon 無料Kindle版、2023年)>:数学教師とあるので数学関連薀蓄漫画かと思ったら一般世間へ呈する主張であった。

 <尾﨑翠 『第七官界彷徨 琉璃玉の耳輪 他4篇』(岩波文庫、2014年/初出は別記)>:江戸川乱歩賞受賞作『蒼天の鳥』(三上幸四郎)で著者の名を知り購入。「第七官界彷徨」は1931(昭和6)年に雑誌に掲載された作品で、著者35歳の時である。「琉璃玉の耳輪」は1927(同2)年に書かれた映画脚本の草稿で1998年に全集に載せられた。他の4篇は「歩行」(1931年初出-以下同)、「こおろぎ嬢」(1932年)、「地下室アントンの一夜」(1932年)、「アップルパイの午後」(1928年)。
 一つの作品そのものの構成やストーリー展開として読むには少しばかり疲労を覚える。『第七官界彷徨』は秀作と言えようが、他の小説は昭和初期の時代を探る際のテキストとして読むには面白いであろうと思うだけである。
 それよりも、川崎賢子の解説に興味を惹かれた。尾﨑は日本女子大(中退)の寮の同室であった年下の松下文子と終生親交を重ね、「琉璃玉の耳輪」は松下の遺族が保管していたものである。松下は旭川高女の同期生であった井上みよりとも親しく交際していた。松下と井上も生涯親交していた。井上は東京女子師範(現お茶の水女子大)に進学し(中退)、同郷の阿部浅吉と結婚し、二人の間に誕生したのが安部公房。若かりしころに安部の小説をよく読んでいたので、この人たちの繋がりには深く興味を抱いた。よりみは安部ヨリミの名で『スフィンクスは笑う』(1924-大正13年)、翌年には阿部頼実の名で『光に背く』(1925年)を出版している。安部公房のwikipediaには、よりみは『スフィンクスは笑う』を上梓以後は一切の筆を折ったとあるが恐らくこの記事は誤りであろう。『光に背く』をネットで調べようとしたが図書館や古書店を含めても何も出てこなかった。ただ出版した洪文社は大正13年頃には確かに実在していた。

2024年2月17日土曜日

国力低下

 Japan as No.1と謳歌されていた時代はとうに昔の、黴くさい思い出話でしかない。今日(2/16)の朝刊一面の見出は「日本GDP 4位に転落」である。「内需の2本柱である個人消費と設備投資がともに弱く、成長の足を引っ張っ」て、「55年振りに日独が逆転した」。「ドイツは日本の人口の3分の2しかない」(あわせて書けば平均労働時間も日本の約80%である)のに「00年~22年の実質成長率はドイツが平均1.2%なのに対し、日本は0.7%にとどま」り、「円安が最後の決定だ」となって日本の国力低下は顕著の数字となって表れた。(以上、括弧内は新聞記事からの引用。)
 世界に冠たる電気商品はなくなり、先日のラスベガスの見本市で出展されていたLG電子の透明有機テレビの写真には驚いた。昔、我が家にもあったソニー・トリニトロン、亀山ブランド液晶テレビが懐かしい。手頃な価格のオーディオは中国ブランドだし、国内ブランドもmade in XXのXXにはマレーシアなどの国名が表示されている。
 日本の賃金水準は低く、株価がバブル期の値に並んでも一般世間の生活の豊かさには繋がるものではないだろう。GDPの低下は政治(家)の劣化度合いに比例しているような気がしてならない。ま、「貧すれば鈍する」ということなのかもしれない。否、鈍しているから貧するとも言える。

2024年2月15日木曜日

本と漫画

 <渡辺京二 『原発とジャングル』(晶文社、2018年)>:数箇所を引用する。
 「自然過程とは詮じつめると、文明的諸装置の出現・進化は必然であり、いったん獲得した文明的利便は放棄できないということだろう。しかし、原発というエネルギー発生装置が出現したのは人類史の必然=自然過程だったとしても、放射性物質を他のエネルギー源に替えることはわれわれ人間の自由な選択に属する」
 「国家に依存することを知らず、従って支配されることをいまだ知らぬ民は、王侯貴族のそれとは全く異なる個の品位と威厳を保っているのだ。(中略) 個の品位と威厳の喪失、その替わりとしての軽躁さ、けたたましさ、抑制のなさ(後略)」
 「集めた本は私の精神的戦跡なのだ。まだ読めないでいるものも含めてそうなのだ。ということは、私の第二の自己のようなものだろうか。蔵書は未読のもの含め私の自画像なのか。だとすれば、これは物欲じゃなく自己へのとらわれということになる。物欲に劣らずくだらない」・・・”集めた本”を”読んだ本”と置き換え、”蔵書”を”積ん読状態の本”と言い換えれば、この言葉には深く首肯する。
 「天皇の象徴という位置づけは、国家運営に必要な儀礼に関ることだと私は理解している」、と著者は書くが、これは抑制した表現ではなかろうか、否、心底そう捉えているのか疑問を感じる。
 「安倍にせよ名だたる右翼の学識者にせよ、天皇はただ存在していればよいので、主体性を発揮して民のもとへ赴くなどその存立意義からの逸脱なのである。(改行)これに反して、天皇を自分たちの苦難をわがこととして嘆いて下さる神聖な存在として受け取ったのは大衆である。これは戦前からすでにそうであった。竹山道雄や久野収は、神聖にして国民の守護者たる天皇を、明治国家の設計者たちが創った「顕教」的天皇、権力支配の道具にすぎぬ天皇を「密教」的天皇とし、昭和ファシズムの騒乱を顕教的天皇による密教的天皇征伐としてとらえた。何ということだ。戦後70年たつのに、基本的構図は変わっていないのだ」

 <手塚治虫 『手塚治虫の歴史教室』(いそっぷ社、2024年)>:懐かしい。そして解説を含めて楽しめた。ただ、「弁慶」「後藤又兵衛」「風之進がんばる」は、自分が5~6歳である1954~1955年に『おもしろブック』連載の漫画であり、いま初めて読んだ。そもそも『おもしろブック』に触れたことがあるのだろうか。
 時間的に余裕があれば『火の鳥』『三つ目がとおる』『アドルフに告ぐ』全巻を通読して読みたいのだが、そのようなことがくることはなかろう。

2024年2月9日金曜日

来季の早稲田ラグビー、渡辺京二の本を読んで

 来季の早稲田ラグビーの主将・副将は予想通りに佐藤健次・宮尾昌典に決まった。大田尾監督は4期目となる。とにもかくにもFWDが強くなって欲しい。
 佐藤と矢崎が日本代表トレーニングスコッドに選ばれた。また、来季新入学の服部亮太が高校代表となってイタリアで戦う。今季SOが固定できなかった(後半は久富になったが)ので来季はどうなるのだろう、野中がやるのか、なんて思うこともあったが新1年の服部が活躍するのかもしれない。

 2月6日、高校同窓10数名が上野に集まってTaYuを偲ぶ会を開催。どうしても自分の余命がどれくらいあるのかと思うときがある。こうやって残りの人生に馴染んでいくのだろう。

 <渡辺京二 『死民と日常 -私の水俣病闘争』(弦書房、2017年)>:副題の「私の水俣病闘争」を見ずに購入したが故に内容が50年強も前の1970年代に書かれていたことに少し驚きもした。また、著者が40代に書いていた文章であるという事実から、自分の40代の知識・教養・表現技術の低レベルさに愕然とした。さらに、1970年~72年は自分は大学生であり、水俣病をはじめとする公害や世の中全般への自分の向き合い方の薄っぺらさを自覚させられた。当時は現実に生じていた社会問題や政治的事象、三島由紀夫自死事件に対してはより本質的な別な言い方をすれば抽象的な捉え方をしていた。日記をめくり直してもそのような表現が多い。季刊雑誌『人間として』を定期購読していて、そこに掲載されていた人たちの作品を読んでいた。例えば、柴田翔・高橋和巳・真継伸彦等々。
 本書を読むことによって渡辺京二に触れ、彼が水俣病闘争に距離を置くようになった理由は以前より深く分かった(ような気がしている)。