2024年2月15日木曜日

本と漫画

 <渡辺京二 『原発とジャングル』(晶文社、2018年)>:数箇所を引用する。
 「自然過程とは詮じつめると、文明的諸装置の出現・進化は必然であり、いったん獲得した文明的利便は放棄できないということだろう。しかし、原発というエネルギー発生装置が出現したのは人類史の必然=自然過程だったとしても、放射性物質を他のエネルギー源に替えることはわれわれ人間の自由な選択に属する」
 「国家に依存することを知らず、従って支配されることをいまだ知らぬ民は、王侯貴族のそれとは全く異なる個の品位と威厳を保っているのだ。(中略) 個の品位と威厳の喪失、その替わりとしての軽躁さ、けたたましさ、抑制のなさ(後略)」
 「集めた本は私の精神的戦跡なのだ。まだ読めないでいるものも含めてそうなのだ。ということは、私の第二の自己のようなものだろうか。蔵書は未読のもの含め私の自画像なのか。だとすれば、これは物欲じゃなく自己へのとらわれということになる。物欲に劣らずくだらない」・・・”集めた本”を”読んだ本”と置き換え、”蔵書”を”積ん読状態の本”と言い換えれば、この言葉には深く首肯する。
 「天皇の象徴という位置づけは、国家運営に必要な儀礼に関ることだと私は理解している」、と著者は書くが、これは抑制した表現ではなかろうか、否、心底そう捉えているのか疑問を感じる。
 「安倍にせよ名だたる右翼の学識者にせよ、天皇はただ存在していればよいので、主体性を発揮して民のもとへ赴くなどその存立意義からの逸脱なのである。(改行)これに反して、天皇を自分たちの苦難をわがこととして嘆いて下さる神聖な存在として受け取ったのは大衆である。これは戦前からすでにそうであった。竹山道雄や久野収は、神聖にして国民の守護者たる天皇を、明治国家の設計者たちが創った「顕教」的天皇、権力支配の道具にすぎぬ天皇を「密教」的天皇とし、昭和ファシズムの騒乱を顕教的天皇による密教的天皇征伐としてとらえた。何ということだ。戦後70年たつのに、基本的構図は変わっていないのだ」

 <手塚治虫 『手塚治虫の歴史教室』(いそっぷ社、2024年)>:懐かしい。そして解説を含めて楽しめた。ただ、「弁慶」「後藤又兵衛」「風之進がんばる」は、自分が5~6歳である1954~1955年に『おもしろブック』連載の漫画であり、いま初めて読んだ。そもそも『おもしろブック』に触れたことがあるのだろうか。
 時間的に余裕があれば『火の鳥』『三つ目がとおる』『アドルフに告ぐ』全巻を通読して読みたいのだが、そのようなことがくることはなかろう。

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