2021年4月30日金曜日

長谷川卓さんなど

 週刊現代4月24日号の記事に「人生、最後は回想を楽しむ力」なる特集があって、19人の著名人が「回想」を語っている。その内容自体は千差万別、単なる想い出話というのもあるが、それはそれで時を重ねてきた人たちの言葉で、なる程ねと頷くものもある。「過去を振り返さずして明日はやってこない。回想を楽しむ」ということである。
 自分を振り返れば、ある年齢に達してから、それは勤務していた会社を定年退職して通信教育をするようになり、卒論を意識し始めた頃からなのであるが、「回想」することが多くなったと思う。切っ掛けは鉱山を取上げた卒論にあり、それは鉱山社宅に居住して日々の生活をおくっていた視座で鉱山を見ることに始まった。以来、小中学校の時代を振り返ることが今でも続いている。
 たまたま最近になってネットである写真を見たことからまたもやその過去の時間に立ち戻る時間が増えてきた。以降、暫くしたらもう一つのブログ-一昨年に一度更新して昨年も2月を最後に更新しただけだが-にその「過去」について書いていこうと思う。

 <末木文美士 『思想としての近代仏教』(中公選書、2017年)>:著者名も「彦」を使えずに「士」を使用したのかもしれない。それはどうでも良いことであるが、本書は「史」がついた「思想史としての近代仏教」と見誤って購入してしまった。一通りは読んだのだが、清沢満之や鈴木大拙、倉田百三、仏教辞典編纂の流れ等々には関心が薄く、かつ自分の能力という容れ物には入らない高度な内容である。それでも「日蓮思想の展開」や「今、近代仏教を問う」は姿勢を正して(?)読んだ。

 <長谷川卓 『鳶 新・戻り舟同心③』(詳伝社文庫、2020年)>:昨年11月に亡くなっていた。同年の生まれであり、好きな作家だったので寂しさを感じる。本書巻末の「あとがきにかえて」で奥さんが著者の人柄や、エピソードなどを書いている。それによれば、悪性リンパ腫で亡くなったとのことである。迂闊にも一昨年に『嶽神伝風花』も出されていたことも見逃していた。本書と併せて購入し、この後に読む予定。
 本書では未完に終わった作品(「第2話 犬の暮らし」も収録されている。
 「戻り舟同心」で活写されている人たちに会えないかと思うと寂しい。著者の作品群を調べて未読のものがあったならそれも手に入れて長谷川卓の世界に入浸ってみよう。

2021年4月26日月曜日

『八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』

 <島田裕巳 『八紘一宇 日本全体を突き動かした宗教思想の正体』(幻冬新書、2015年)>:「紘」の字を見るとイメージは戦前に繋がり、中学校時代の教師で、多分8才ほどの年齢の違いでしかない山口紘子という名前に結びつく。この「紘」の漢字は戦後になって暫くは人名に使用することは禁止されており、それは「彦」も同様であった。自分の名前は本来○彦という名前になるはずであったが、父親が役所に行ったときにその名前は拒否され、その場で変更して○克にした。そのことを小さいときから聞かされていたので、「紘」という漢字についても知っていたという次第である。ちなみに、中学や高校での同学年には政日子・俊比古がいて、彼らも「彦」をやむなく変えてしまった名前と思われる。
 「彦」は1951年から使用可となったが(旧字は今もダメ)、「紘」は1976年にOKとなった。数学の教師であった若き紘子女史の授業やその他の記憶は全くないが、「紘子」は敗戦を区切りとする時代の変化を感じさせる名前で、妙に印象深い名前となっている。
 「八紘一宇」は田中智学が日蓮信仰と皇国史観を合体させて造語し、昭和15年の閣議決定された「基本国策要領」で国家の方向性を示すスローガンとして使われ、「紘」は昭和16年から20年の間に誕生した子どもの名前に良く使われたらしい。昭和16年頃に誕生したと予想する前記の紘子女史の年齢にも符合する。ヒット曲「折鶴」の千葉紘子も戦前の生まれで世の流行りにのった命名なのであろう。脇道にそれっぱなしだが、「閣議決定」なる内閣の意志決定も今は碌でもないイメージに結びついている。
 日蓮宗(近代以前は法華宗)と皇国史観が何故に結びつくのか、理解できない。否、そもそも皇国史観、國體観念が理解できない。意味が分からないのではなく、その思想に何故に沈潜するのか囚れるのか耽るのかが分からない。2015年に、三原じゅん子議員が初代神武天皇の言葉として「八紘一宇」を持ち出し、麻生財務相が宮崎の「八紘一宇の塔」を紹介したニュースには驚き、国の行動方向を示す基礎に八紘一宇を持ち出すことに呆然とする思いであった。
 オリンピック開催を巡る迷走、もしも新型コロナの押さえ込みが出来ずに中止となれば、政治の失敗は橫に措いて、政府は日本人総懺悔とでも言いかねないと感じている、そう、失敗は家族である日本国民全員の、我々みんなの責任ですと言うんじゃないかと。

2021年4月14日水曜日

またまたAV配線組み替え、『チ。』

 “配線組替を伴うレイアウト変更は2度とやりたくない”と言って、舌の根も乾かぬうちに小変更を加え、これで最後かと思ったが、今度はMQA.CD以外のハイレゾ(DSDなど)をPC-USB以外から鳴らしたくて、1Fに置いてある“ULTRA HD BD Player”(以下UHD-BDP)と自室の普通の”BD Player”を置き換え、“HDMI Audio Extractor”(HDMI to SPDIF分配器として使用)を追加購入し、DVDに書き込んだハイレゾ音源をUHD-BDPでドライブできるようにした。
 こう書くと簡単な作業であったかのようであるが、実はUHD-BDPを事前に確認していなかったため、キチンと音が出るまでは時間がかかった。UHD-BDPの同軸とHDMI-2から複数のアンプに音を送り出すつもりだったが、HDMI-1と-2では同時に音を出すことができない。映像を見るにはUHD-BDP → EXOFIELD → TVの構成になり、音楽を聴くにはUHD-BDP → EXOFIELD → EXOFIELDのヘッドホン、あるいはUHD-BDP → Extractor → アンプ(AorB)、あるいはUHD-BDP → アンプ(C)となり、これら全部に共通する設定がありえなく、結局は場合に応じてUHD-BDPの設定を都度変えなければならない。お金をかければ解決策はあるのだろうが、そこまでやる心算はなく、これはこれで終了とする。何のことはない、音を出すパターンが幾通りもあって、それを面白がってシステムを構成させているだけで、アホみたいといえばその通りなのである-自覚はしている。大体が、機器の接続をブロック線図にまとめていて、音を出すときはそれを参照しないと戸惑うほどにシステム構成を複雑化させてしまっている。時間を相当費やしたけれど勉強になったし、楽しかった。それにしてもifi NEO iDSDは優れものである。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第2集』(小学館、2021年)><魚豊 『チ。―地球の運動について― 第3集』(小学館、2021年)>:C教に対する異端者抹殺や魔女狩りがおこなわれ、身分差別の激しかった時代、地動説に魅入られた、というより真理を求める人々が地下運動よろしく苦悶して学究に励む。面白い。真理を求めるという姿勢は哲学的であり、科学的であり、またそれは広義のC教に支えられている思想でもあると感じる。

2021年4月13日火曜日

日本史の新書と漫画『チ。』

 <大澤真幸 『日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』(朝日新書、2016年)>:高校2年の時だったと思う。日本史の教師に質問をしたことがあった、なぜ天下を取った武士達は天皇/皇室一族を殺さなかったのか、と。教師からの回答はなかった、あるいはあったとしても記憶に残るスッキリとした内容ではなかった。その後目にしたよくあるパターンは、宗教的な祟りを怖れたとかいう類であるが、それで納得できるものではない。信長は多くの宗教者を殺したし、権力争いの中で勢力をもった宗教者や寺院を潰すのはよくあった史実である。明治になってからも仏教や新宗教は弾圧されている。ならば、天皇という存在は存在を消滅できない大きな力、天皇の力と言うよりも人間の社会生活の精神構造上の理由があるのだろうと思うことはごく自然なことである。しかし、中国では易姓革命があるが、それとは違って日本には万世一系の天皇が存在し、それは全世界のなかで無比の素晴らしいことである、などと信じ込むことは自分にはありえないことである。
 本書はそのすっきりしないことを解ったような気分にさせてくれる。気分にさせてくれる、という表現になってしまうことはまだ理解が不十分で、再読し、精読する必要があるということである。書名に「日本史」とあるけれど、その日本史を解くことにおいては、中国の易姓革命からキリストのことにまで論考は及ぶ。もっとも納得できることは「天皇なき天皇制」であって、このシステムは現代社会にもおよぶ日本社会の普遍的な体制、人間行動であって、ここをもっと深く確実に理解したい。これを基底に置けば、政官の動きも組織における人間の動きも、苛立ちなく監察できるであろう。

 <魚豊 『チ。―地球の運動について― 第1集』(小学館、2020年)>:天動説中心の時代における地動説探求の物語。まずはとっかかりを読んで面白いので続集を発注。

2021年4月7日水曜日

雑記

 “配線組替を伴うレイアウト変更は2度とやりたくない”とは言ったものの、Line-Amp セレクターの部分が気にくわなくて、もっとスマートな接続にしようと3時間ほどかけて配線を組み直した。あとは(余程のことがない限り)機器は増やさないし、減らしたりもしないし、このまま永続的に(つまり音楽に関心を向けなくなるまで)今の状態を保つことになろう。

 60日振りに日本酒を飲む。刺し身を肴にして飲みたくなり300mlと少々ではあるが、スーパーで買った上善如水を昼から味わう。然程好きな銘柄ではないが、棚に並んでいた他の純米酒はそれ以上に好みでなかった。やはり今は会津の酒がいい。

 自分である目標を立て、その達成度を監ている。そして達成していないと日々の負債と意識する。一つは、毎月の読書量で、これがマイナスになるとリカバリーは困難となる。本の冊数が管理項目であるが、単に数を増やすそうとするのは本来の読書の目的を失ってしまう。本来は数量ではないのだが、他に思いつく項目が思いつかない。二つにウォーキング歩数で、これはマイナスになってもリカバリーは出来る。まあ、日常生活の中で安易に車を使わずに、出来るだけ歩こうという気持ちでいることで良しとすればいいのだろう、が、マイナスになるのはやはり気になる。で、今は両者とも負債を抱えている状態。
 根本的課題は、時間が足りないこと。あれもやりたい、これもやりたいと思っても時間は限られている。60歳で仕事を引退すれば時間は沢山あると思ったのは誤算で、逆に時間が足りなくなっている。諦めるべきこと、棄てるべきこと、いわゆる断捨離なのであろうが、なかなか出来ない。かなり前のことであるが、読んでは取っておいていた本をバッサリと数十冊、数百冊単位で廃棄したことが何度かあった。それ以来読んだ本は取っておかずに処分するようになった。本以外に関しても、そういう類のことをいつかは行うようになるであろう。

2021年4月2日金曜日

本を売る、MQA-CD、Norah Jones

 4ヶ月ぶりに本を買い取って貰う。29冊を送付し、ついた値は予想していたよりも高かった。

 Norah Jonesの「come away with me」を聴いてはまってしまい、追加でやはりMQA-CDの「feels lile home」を購入。2004年に全世界でベストセラーになったアルバムらしい。ここ数日は自室にいるときは彼女の2枚のアルバムを流し続けている。BGMとして流していても全く邪魔にならず、ヴォーカルが心地よい。 こうなると、えいっとばかりに、アルコールが入っているせいもあって、更に4枚を発注してしまった。彼女が世界中で話題を集めてから随分と年数が過ぎているなかで夢中になっていて、20年近く前に彼女を知らずにいたのが恥ずかしくも、口惜しさもある。最近のCDも手に入れたくなる-収集癖が出てくる。
 序でにBilly Vaughnのベスト・アルバムもMQA-CDで購入。2つあるバランス・ヘッドホンで聴き比べるとヴォーカルとオーケストラで使い分ける傾向にある。

2021年4月1日木曜日

オーディオ

 NEO iDSDとCDトランスファーのSWD-CT10を光ケーブルで接続し、192kHzでCDを鳴らすとノイズが入る。176.4kHzでは入らないが気にいらない。手許の光ケーブルは素性が分からないので、きっちりと192kHz対応とうたっている国内著名メーカー製のものを購入した。が、それでも192kではノイズは消えない。試しにCT10とほかのDAC(SWD-DA20)と接続するとそちらからはノイズが入らない。新品でないケーブルでも入らない。相性が悪いといえばそれまでだが、高価な光ケーブルには手を出したくないので、NEOとCT10は同軸ケーブルで接続し、CT10とDA20は光に接続し直した。安価な商品という範囲では、光よりは同軸の方が一般的には安定しているのであろう。
 NEO iDSD購入に伴ってPCへドライバーもインストールし、ついでにMQA-CDをリッピングした後にMQA再生可とする変換ツール“MQA Tag Restorer”も入れた。ついでに再生アプリもAIMPからMusicBeeに入れ替えた-foobar2000は少し煩雑なので採用せず-。MQA-CD はMusicBeeでflacにリッピングし、“MQA Tag Restorer”で簡単に.mqa.flacに変換できた。
 しかし不具合はあった。PC経由で音を出すことが久しくなかったため、SWD-DA20のファームウェアをアップデートし、ドライバーを再インストールすると、DA20がUSB経由では機能しなくなった。何度かいろいろと現象を確認したが、DA20のドライバーとNEOのドライバーが共存できないようである(自信はない)。結局、DA20をUSB経由でドライブすることは止めた。
 スピーカーを除くとオーディオ機器は安価なものも含めて全部で22台もあって、配線組替を伴うレイアウト変更は2度とやりたくない。スピーカーも8セット(小屋裏に置いてあるものは更に4セット)。何をやってんだか、と思わないでもない。