2018年6月28日木曜日

雑記

 ワールド・カップ・サッカーに関する報道が朝から晩まで続いている。毎日が日曜日の我が身とすれば朝から夜まで同じ映像が流れるのが嫌でついついチャンネルを変えるが、どこもかしこも似たようなもので、結局は録画のアクションドラマを見るか、テレビの電源を切ることが多い。
 そもそもサッカーの生中継を見ることはない。点数がはいるシーンが少ないこと、レフェリングがよく分からないこと、シミュレーションなる反則が存在することが本来好きではない。先日のセネガル戦も録画しておいて早送りし、得点が入った時しか見ない。
 あれっと思ったのがセネガル。ずっとセメガルと発音していた。Semegalと書いてwikipediaにアクセスしようとしたときに初めてSenegalと気付いた。Senegalとは書くものの日本語での発音はセメガルなのかと思ったほどの愚かさ。聴き取り機能が低いのか、単にバカなのか、意識しないとセメガルと言いそうになってしまう。

 関東大学ラグビーの対抗戦&リーグ戦の日程が決定した。早稲田の初戦は筑波。昨年までのしばらくの間は慶応vs筑波であったが、昨年は慶応が3位で早稲田が4位だからしようがあるまい。試合会場は三郷・調布・足利・前橋と地方が多く、帝京・慶応・明治戦が秩父宮。秩父宮は措いて交通の利便性を考えれば、足を運ぶのは足利と三郷だけかな。

 23日、新宿で痛飲というか飲み過ぎ。途中で今日はピッチが速いと自覚はしたが、友人たちとしゃべっていたら酒量が進み、電車で帰るのはやばいと言われ、結局は会津からの友人が泊まるというし、ホテルがとれたので御徒町に泊まってしまった。帰宅しないと決めてからさらに飲み続けたようである。
 翌日は朝早く帰宅。年齢に比例して酒量は減ってきてはいるが、酔いのリミットも下がってきている。改められていないのが心構え。自戒せねば。

 日本大学問題は日本の社会システムの縮図と思える。
 「新聞読まない人は自民党支持」との麻生の弁、皮肉っぽく言えば当たっているような気もする。朝日や毎日や東京などなどが偏向報道とは全く思っていないが、自民党支持の人たちの中には批判されることを嫌悪する人も多いのだ、と解釈すれば当たっているかもしれない。かといって野党支持の人たちは新聞をよく読むとも思わないが。

2018年6月22日金曜日

ミステリーとビゴー三部作

 膝に痛みを感じるときがある。右足親指に異常を覚える場合がある。一番いいのは必要以上に歩かないこと、膝にはサポーター、足の親指は動きを制限するテーピング。6月に入ってこんな状態で、自分に課していたウォーキングも一切なしとしていて、やっと普通に戻ってきたようである。ま、今月末まではこのままに過ごそう。

 <三上延 『江ノ島西浦写真館』(光文社文庫、2018年)>:舞台は江ノ島、祖母が亡くなり、彼女の営んでいた西浦写真館の遺品整理に繭は善行から足を運ぶ。カメラ好きだった彼女は写真学科に進学するもある出来事が切っ掛けでカメラから離れる。繭の幼馴染みで怪しげな宗教の信者でもある男性が繭の前からいなくなった理由、遺品整理を手伝う医者の息子、写真館を管理している年配の男性等々が絡んで残された写真の謎を解き、過去の事件の真実、再会、それらが短編連作のとして展開する。
 ビブリア古書堂は本にまつわるエピソードが面白く、栞子さんもまま魅力的であり、その延長線上での期待があったが、この本は楽しめなかった。全体的にミステリーをうまく構築してはいるが、無理な作りを感じてしまう。出てくる人物も魅力がない。ジグソーパズルを当てはめては行くが、嵌め方が力任せで、出来上った絵は壁に飾る気はないといった趣。

 <清水勲 『ビゴーが見た日本人』(講談社学術文庫、2001年、初刊1981年)>・<同 『ビゴーが見た明治ニッポン』(同、2006年)>・<同 『ビゴーが見た明治職業事情』(同、2009年)>:明治15(1882)年にフランスから来日し、士族の娘と結婚、新通商条約締結の頃の明治32(1899)年に息子のみを連れて帰国(離婚)。22歳から39歳までの17年間のあいだ、日本人が描かない市井の状況を風刺をまじえて絵に落とし込んだ。sodesuka氏と揶揄する出っ歯の背の低い男を描写する一方で女性には穏やかな視線を送り続けていた(かなりの女好き)。若いけれども視線は鋭くかなり皮肉っぽい。
 絵を眺めれば、基本的には日本人の行動・思考原理は今と変わらない(現代まで変化していない)と思える。明治世相史を知る上で貴重である。

2018年6月15日金曜日

官能ミステリーと思ったが

 <花房観音 『京都三無常殺人事件』(光文社文庫、2018年)>:帯には「京都の魅力が十分に詰った連作ミステリー」とあり、表紙には二年坂(?)に立って振り向く和服の女性とそれを見上げる男の後ろ姿。著者が花房観音で書名が殺人事件、そして3つの殺人の連作集とあらば、古都の清寂の中で殺人事件の謎解きが展開され、ストーリーのなかで女が帯を解き、艶かしい官能場面が描かれる。一言で言えば、妄想満開の官能ミステリーでしばし時間を潰そうと手に取った。
 著者が京都市在住で現役バスガイドでもあることより、京都名跡の観光案内と「京都殺人案内」的な軽いミステリーと思っていたが、3作独立の殺人事件が最後にはすべて繋がるという鮮やかさもある。バイプレイヤーの35、6歳未亡人である月寺松葉の台詞は小気味よく響き、一方では謎解きには無理を感じるが、全体的には楽しめた。けれども、期待していた(?)官能描写は皆無で、スケベ心の我が身が背後から膝かっくんされたような思いもある。
 会話での謎解きをうまく映像構成すれば、この小説はミステリー劇場風にテレビドラマ化するにはうってつけで、ドラマ化されるに違いないだろう。

未読のままに

 未読のまま棚に並んでいる渡辺京二の本の数が半端ではない。けれどもまた購入してしまった。今年で88歳になるので、失礼ながら残された時間は然程多くはない。だからという訳ではないがこの人の新刊が出ればなるべく購入するようにしている。
 未読の本が増えることで自己嫌悪に陥るときもあるけれど、誰かの言葉を思い出す。それは、読む本だけを買うのではなく、その時々に読みたいと思う本を買っておくのは無駄なことではなく、買い求めることでそのときの自己を確認することにもなる、というようなことだった。

 渡辺京二の著作は2007年からであり、切っ掛けは、さもありなんと指摘されるであろうが『逝きし世の面影』を読んだことからだった。しかし、その後眼を通した本はもう一度読み直さねば、との思いが強い。なぜなら、随分と浅い読み方だったとの悔いが残っているから。

2018年6月14日木曜日

佐藤オリエさんのレコード

 51年前の18歳、高校3年生のときに1枚のEP盤レコード(東芝EXPRESS)を購入した。ジャケットに挟まれてレコードを入れた袋があるのだが、その裏には多くの歌手たちの写真が並べられていた。そこに佐藤オリエさんの写真もあったような気がする。もしかしたら同封されていたチラシだったのかもしれない。彼女の歌う曲がヒットしたとは全く耳目に触れもせず、まして会津若松神明通りにあるレコード店の店頭にあるはずもなく、400円のレコードを取り寄せることもしなかった。当時から彼女のファンであった。いまでも一番好きな女優さんは誰かと聞かれると佐藤オリエと応えている。

 時を経て、10数年前に「若者たち」三部作のDVDセットボックスを購入した。その頃から佐藤オリエさんが出ている映画やドラマをDVDで見ていた。特に「ながらえば」(1982年)は好きなドラマである。大学卒業後に住んだ富山や、想い出が詰っている高山本線が舞台であることも相俟って、思い入れの強い作品である。
 映画「非行少女」(1963年)も和泉雅子ではなく、高校生姿の佐藤オリエを見るために見ており、彼女の出るシーンだけをピックアップしてDVDに落とし込んでいた。

 英亜里のCDをネットで探した後、佐藤オリエさんのレコードももしかしたらヤフオクやYouTubeにあるかもしれないと探した。レコードは見つかったがどうも質が劣化していそうなので購入する気が起きなかった。が、そのときに初めて知った曲名でYouTubeを探したら一つだけ見つかった。18歳の時にレコード店に発注しておけばよかったと、30歳半ば頃から時折思い出しては後悔していたがやっとその曲に触れることが出来た。そして初めて聴いた。DLして編集して自分のライブラリーに加えた。
 曲そのものは「若者たち」当時の雰囲気が充満し、ギターが流れる曲はブルーベル・シンガーズ「昭和ブルース」と相似している。佐藤オリエさんの歌は、映画の台詞の延長線上にあるような味わいがある。まだ若かったころに好きになった気持ちを思い出させてくれる。曲は「オリエと歩こう」と「海に眠りなさい」。でも、この曲だけが彼女のレコードなのか、ほかにはないのか(山本圭との朗読はあるが関心が薄い)、高校3年の時に知ったというのが正しい記憶なのか自信がない。高校生時代に購入したレコードも今は残っていない。

 今になって昔を思い出すことが多いのはなぜだろう。年齢を重ねていろんなことを見聞き体験し、現在の世の移ろいにさして感動も憤りを覚えることがなくなっている。日大のニュースも、米朝会談も全体的に見れば茶番と思え、茶番は真実よりも耳目を集めると捉えている。ならば、そんなことは措いて、自分の過去を振り返り、その上で己は何者だとちょいと考えるのがいいことなのかもと思う。

2018年6月13日水曜日

英亜里

 年に1~2回、カラオケで英亜里の「花の手拍子」を歌うことがある。この人の声が好きだし、ちょっと妄想を抱かせる浜口庫之助の歌詞も好き。先日、竹の塚のカラオケスナックのステージでこの歌を歌ったら妙に気持ちが良くて、帰宅後にほかの曲を探したが、残念ながらYouTubeで数曲引っかかるだけ。1968(昭和43)年にヒットして、おじさんたちのアイドルになったらしいが今はそれを知る人も少ない。しかし、まだカラオケにあるということは70歳前後の年齢層にはファンがいる証であろう。英亜里は同学年であるから、今はもう68歳で、現在の姿は確かめる術もない。で、ほかの曲を探していたら5年ほど前に限定版のベストアルバム(といってもSony時代のみ)が発売されていた。ネットで探すと結構なプレミアムをつけているショップもあるが、発売元のSonyからなら定価で手に入れることが出来た。
 1974(昭和49)年「夜のヒットスタジオ」を最後にテレビには出ておらず、30歳頃には引退したらしい。その後は中堅歌手の裏方として今に至るとCDライナーノートに書いてあった。沢山の歌を歌っているが、その作詞作曲者には平尾昌明やすぎやまこういち、岩谷時子等々著名な人も多い。弾厚作も「りんどう小唄」を作曲している。
 「花の手拍子」を知ったのはいつのことなのか覚えていない。テレビで歌う姿も記憶に全くない。50年の時を経て、1曲しか知らないのにアルバムを買うのは、曲を聴いて過ぎ去った時代や空気を味わおうとしているのかもしれない。

2018年6月11日月曜日

『想像ラジオ』

 <いとうせいこう 『想像ラジオ』(河出書房新社、2013年)>:「東日本大震災」をテーマにした小説。購入してから約4年の間、表紙を開いては途中でページを捲るのをやめるということが続いた。出だしが緩慢としていて一体何を描こうとしているのか判らずに放ってしまうということが大きな要因。
 突然に亡くなってしまった人たちの声を「想像」で流すという小説に違和感を覚え、内容の軽さに生者の傲慢さも感じた。傲慢さとは、多くの人びとが亡くなり、残った多くの家族の人たちにそれぞれの悲しみがあるが、それを束にして「想像」してしまうこと。
 作中、海外のポップスが流されるが、それがこの小説を軽くしている要因の一つであろう。東北の地を舞台にするなら演歌でも流行歌でも混ぜてみたらどうだったろう。小説の中のポップスを(既に持っているものも含めて)すべて聴いてみたが、新たにYouTubeからDLする曲は一つもなかった。

 東京オリンピックが復興五輪とされて久しいが、いつのまにかその「復興」の言葉は薄れてしまっている。「国会事故調報告書」は未来にどう活かされているのだろうか、政治はどう死者に向き合っているのだろうか、甚だ疑わしい。

2018年6月10日日曜日

椅子のキャスター故障、ラグビー

 腰痛対策として10年以上前にハラチェアーのニーチェを購入し使い続けていたが、キャスター1箇所のウレタン部分に亀裂が入り、徐々に拡大して脱落してきた。それが1-2ヶ月前のこと。購入先に足を運びリペアパーツを問い合わせたが卸元でも取り扱っていないとのことだった。しようがないので回転しないようにネジ止めしていたら、今度は他の箇所も同様にウレタンが剥離してきた。ネットで類似品を探すが同じ部品はない。そもそも故障したキャスターの嵌合軸にはセレーションを施してあり、そのようなものは見つからなかった。これまたしようがないので軸径(セレーション外径)が同じものを見つけて5個セットを発注。届いたら嵌合可否を確認し、場合によってはφ11mmのドリルを買ってきて加工せねばならない。
 この椅子、随分前にプレーンスプリングが破損し、臨時にコイルスプリングを取り付け、これがサイズも耐圧力も適切であったためそのまま使用している。本体機能はOKなのに特定の部位に故障が出てくるのはいか仕方ないことで、ふと我が身を思ってしまう。

 ラグビー、イタリアとのテストマッチをテレビで観戦。ランキングは似たようなものだが34-17のダブルスコアで日本代表が快勝。イタリアはこの日の暑さのせいなのか後半は徐々に精度が落ちてきたようだ。田村のキックパスとレシーバーのパスによるトライが素晴らしかった。ただ、前半に福岡が飛び出してディフェンスに穴があいたのはきちんと修正しなければなるまい。それに、SH田中がハイパントをあげたとき、深い、まずいと瞬時に思ったら案の定攻め込まれた。その後すぐに流に交替したが、安易なハイパントという印象が強い。

 前日、本日(10日)の天理戦に1年生が出てくるだろうと思ったら、長田・河瀬はU20に追加招集されていた。1年生ではないが、すでに加わっていた古賀は負傷ではずれ、下川も今は故障中。斎藤や中野はどうしているんだろうか、負傷? 状況を知ることができればいいのだが。ちなみに天理戦メンバーに1年生がいない。SHは堀越ジュニア。

2018年6月9日土曜日

雑記

 右足付け根周辺に時折違和感を抱いていたが、マレーシア旅行から帰ってきてから痛みを感じるようになっていた。旅行先では3日間サンダル履きでいたから足指に負担がかかっていたのかも知れない。数十年前にサンダル履きで長時間車を運転してて腱鞘炎(?)になったことを思いだし、近くの整形外科に行った。2年ぶりなので久しぶりですねと言われ、レントゲンなどを撮って、骨や筋に異常はなく、若干の腫れが認められるが、自己治癒力に期待して無理をせずにいましょうと整形外科の三種神器(?)-経皮消炎剤・鎮痛薬・胃の保護薬-を処方された。あわせて、ウォーキングも控えるようにし、今月に入ってからの歩数は極端に減っている。

 それから少し日にちが経って、今度は左手親指と人差し指の間が異常にかゆく毒虫にでも刺されたように皮膚がただれている。庭いじりもしていないし何でこうなるのと思うが、。同じ症状は2年前にもあり、さらに遡れば4年前にも部位は違うが似たような症状があった。市販の薬を塗り、掻いたりしないように簡易包帯をしている。あまりにも長引くようなら、近くの皮膚科に行く。そこの女医は態度・容姿が嫌いだが処方された薬は良く効いた。

 7日、梅島で17時から痛飲。竹の塚で気持ちよく歌って、帰宅は23:15頃。この時間でも連れ合いからは今日は早いのねと言われた。いつも如何に遅くなっているか、あるいは午前様になっているかの直截な感想であろう。

 早稲田ラグビー、本日(9日)は立正大学との定期戦。明日は神戸で天理大学戦。立正大戦のB・Cメンバーを見るとやっと1年生が出る。新人慶応戦や3日の部内マッチ(上級生vs1年生)で1年生が大勝した結果を踏まえてもいるだろう。それでも評判の高い1年生(例えば長田・河瀬・原)は外れているので、彼らは明日の天理戦にでると思っている。
 主将の佐藤が対立正戦のBで右FLに登録されている。主将が何故にBなのか、Aから落とされたか、あるいは本日のBでゲームメーキングの要にするためなのか、あるいは故障上がりなのか(高麗大学戦でも出ていなかった)と想いは発散する。

 全仏オープン、大坂なおみさんが敗れ、錦織も負け、興味は途端に薄れたが、女子ダブルスの二人が躍進し、グランドスラムに日本ペアとして初の決勝に臨むことになった。優勝して欲しい。ジュニアでも女子ダブルスがセミファイナルに進んだ。
 それにしてもナダルは凄いし、錦織を破ったティームも凄い。クレーコートに強い二人の決勝はハードな戦いになるだろう。

 5歳女児の虐待死、書いた文章を見て涙が出てきた。むごさの程度を語っても意味はないが余りにも酷すぎる。

2018年6月4日月曜日

二つの新聞記事

 朝日新聞から二つの記事の抜粋。引用は記事の文章をそのまま切り取って繋いでいる。ここで個人的意見(異見)は書かない。二人の知識人の記事は自分を見つめるときにいい材料(共感と反感)となるから忘れないように並記しておく。

 <「異論のススメ」”森友問題一色の国会 重要政策論の不在、残念”(佐伯啓思、2018.04.06)より>
 この1年、国会で論じられた最大のテーマは何かと世論調査でもすれば、たぶん、森友・加計学園問題だということになるであろう。両者は、今日の日本を揺るがすそれほどの大問題だったのか、と私など皮肉まじりにつぶやきたくなる。
 現時点で確かなことは、ただ財務省内部での改ざんの事実であり、官邸の関与はなかったと佐川氏が発言したことであり、森友学園問題は現在、検察が捜査中、ということだけである。官邸が関与したという事実は何もでていない。
 森友学園騒ぎと、安倍内閣の支持率を一気に下降させた政治的エネルギーはといえば、事実も想像力も、また様々な政治的思惑も推測もごちゃまぜになったマス・センティメント(大衆的情緒)であり、この大衆的情緒をめぐる駆け引きであるといわざるをえない。だがそれこそが大衆民主政治というものなのであろう。その時その時の不安定なイメージや情緒によって政治が右に左に揺れ動くのが大衆民主政治というものだからだ。
 私がもっとも残念に思うのは、今日、国会で論じるべき重要テーマはいくらでもあるのに、そのことからわれわれの目がそらされてしまうことなのである。
 私は安倍首相の政策を必ずしも支持しないが、それでもこうした問題について安倍首相は、ひとつの方向を打ち出しており、そこには論じるべき重要な論点がある。問題は、野党が、まったく対案を打ち出せない点にこそある。だから結果として「安倍一強」になっているのだ。
 財務省の文書改ざんの「真相解明」はそれでよいとしても、それ一色になって、重要な政策論が見えなくなるのは残念である。安倍首相の打ち出す方向に対する代替的なビジョンを示して政策論を戦わせるのもまた、いやその方が大新聞やメディアに課された役割であろう。

 <「政治断簡」”畑作は土から、寝言は寝てから”(高橋純子、2018.04.16)より>
 「国会で議論すべきことは他にもたくさんある。○○問題一色になるのは残念だ。私は必ずしも安倍政権支持ではないが、野党は対案を出さずに批判ばかり。もっと政策を議論すべきだ」
 以上、男もすなる「憂国しぐさ」といふものを、女もしてみむとてするなり。
(1)議論すべきことは他にもあるという〈嘆息〉(2)私は「中立」だという〈弁解〉(3)野党は対案を出せ、政策論議をせよという〈すり替え〉――が基本セット。なにげに手軽に高みから知ったげに何か言ったげになれるがゆえに流行中だが、権力擁護以外の効能があるはずもなく、ならば堂々と日の丸の小旗でも振ったらいいのに。
 それにしても、である。政治という営みはいつから、政策論議に矮小化されるようになったのだろう?
 畑の土が汚染されていることがわかった。もうこの畑で作物をつくるのは無理ではないかという議論をしている時に、いつまで土の話をしているのか、ニンジンをうえるかジャガイモをうえるか議論すべきだ、冷夏への備えも必要なのに、対案を出さず批判ばかりして……などと言い出す者は正気を疑われる。
 政治がリーダーシップを発揮して官僚組織のうみを出し切るなどという言も聞こえてくる。寝言はせめて寝てからにして頂きたい。リーダーシップとは責任を取ることと表裏一体のはず。官僚にのみ責任を押し付けた上で発揮される政治のリーダーシップなどあり得るのか
 先の展望がないからしがみつく。いろんな意味でこの国は老いているとしみじみ思う。どうすれば若返れるか……あっ。「やらされモードではなく、死ぬほど実現したいという意識を持つことが最低条件」かもしれない。自分の記憶の限りでは。

『光のない海』

 <白石一文 『光のない海』(集英社文庫、2018年)>:頁を捲るのがとまった箇所(189頁)を引用。

 私たちがかしずき、そのために身を粉にして働いている組織とは、私たち個々人とはまったく次元を異にする別種の生命体と言っていい。
 組織とは、人間が作り出した”自然”なのだ。
 その”自然”に人間は常に翻弄され、その”自然”の掲げるルールに従って生かされていく。自らが創造したものでありながら、いざ、その”自然”が誕生すると我々にはそれに逆らったり対抗する手段が一切ない。
 そういう”自然”の最たるものが国家だと私は考えている。

 上の引用文がストンと入ってくる。「個々の人々が組織に組み込まれるとなぜに変質し、個を失くしてしまうのか、そいう組織とはどう表現すればいいのか」とずっと思っていた。その「組織」を「人間が作り出した”自然”」と考えることに得心する。人智の及ばない”自然”を個々の人々が作り出すというこの矛盾めいた構造に納得性を感じる。

 主人公は建材会社の社長、50歳。女を教えてくれた会長、その娘と結婚したが、子供は自分の子ではない。友人は少なく、心を開いているのは同業とも言える女性社長に、自社での配下でもある年配の女性。善意で繋がる実演販売の女性とその祖母。女性にというより性欲そのものを失った主人公は、自らの過去と現在を対比しつつ、バリ島で死んだ妹、および出奔した父にまつわる秘密を知らされる。

 海の中、水に光があるとしていた妹とは対照的に、海に胸まで入った主人公は海の中ではなく、外を見る。「県道を走り抜ける車のライト。道沿いに建つ紳士服店やガソリンスタンドやコンビニの看板・・・・・・。あの海には光がない、と」主人公は思った。このラストは秀逸。

 「孤独を綿密に描いた」という裏表紙の文章が的のど真ん中を射ているとは思わない。寧ろこの小説の世界を矮小化している。

2018年6月2日土曜日

雑記

 マレーシア旅行から帰ってきて体重が2kgほど増えており、3日ほどで1.5kg減らしたがあと500gが下がらない。拡大気味に描いているグラフだとその500gが目立つがまた少しずつ数値を眺め続けるしかない。旅行に出ると普段は摂らない朝食を控えめではあるが食べるし、ビールも昼夜毎日飲むし、体重は確実に増える。また、体重増加とならない旅行はつまらないものとも言える。

 旅行で撮った写真・動画をいつものように整理し、PCに保存。ディスクへの保存や動画のBD化はずっと後になろう。そもそもBD化を待つファイルはかなり溜ったままになっている。
 不要なファイルは削除してしまうので、駈け足ではあるが1枚1枚眼を通すことになる。それにしてもクアラルンプールからペナンまでの4時間ほどの列車移動の車窓からの景色は実につまらないものだった。海が見えることもない、人びとの生活の営みを少しでも窺い知るような町並みもほとんどない。途中停車する駅のホームにも人の姿はない。見えるのはパーム椰子だけ。ペナンからクアラルンプールへ戻るバスもハイウェイを走るのでこれもまたつまらなかった。
 この旅行でのメモは今後断片的に書いていこう。旅行記的にまとめる気持ちが起きない。

 7月はじめの北海道パックツアーを申し込んだ。前にも歩いたフラワーガーデンなどを4年ぶりにまた歩いてみるつもり。前回とはコースが少し違うし、宿泊先も異なる。帯広空港から帰路につくのはもう何回目になるだろうか。1ヶ月後には記憶の中にある風景が呼び戻されて目の前に拡がるだろう。

 新刊本、発刊されて時間が経っている本、写真集など49冊を処分。着払いで送り、翌日には買い取り金が振り込まれた。金額は漠然と予想していた額の3倍くらいになっていた。上質の12年ものスコッチ・ウィスキーを購入してもお釣りがくる位。1冊毎の金額は提示されないが、良心的な業者(個人経営と思う)で、ここを利用するのは2回目。前回も予想より高価に引き取って貰っていた。
 業者引き取りは30冊がミニマムであるので、次回の処分はずっと先になろう。歴史書や、蒙を啓いてくれるような本には棒線を引いたり、書き込みをするのでそれらはいつかは廃棄するしかない。

 4日ぶりに飲酒。久しぶりに日本酒が飲みたくなり、埼玉県の純米酒を購入し、鰊の塩焼きと寿司を目の前におき、昼から飲み始める。ビール500mlのあとに日本酒を飲み始めたが、これがあまり美味くない。一合ほどで止めた。
 夜になって錦織の全仏テニスを観戦。口寂しさに、残っていたこの酒をダラダラと、美味くないといいながら全部呑んでしまった。酒の不味さは錦織の快勝で隠されたようである。
 大好きな大坂なおみが負けてしまったのは残念。最初のセットは1-6と完敗だが、2セット目はタイブレークに入り、タイブレークは7-9と惜敗。キーズにはこれで0勝3敗。いつか雪辱して、彼女の含羞んでコメントする声と表情を見たい。