2021年6月21日月曜日

雑記

 auスマホ、自分にとっては全く無意味な内容の契約もあり、新しい料金契約に変更した。結構安くなった。POVOやUQなどでは更に低料金化ができるのだが、それらは少し検討しただけで対象から外した。今のスマホ(Galaxy S8+)を使い初めてから4年も経った。不満もなく、このまま使い続ける。パレートの法則に準じて使っている機能はほぼ決まり切っている。
 こうして自分が使用する機器はどんどん旧くてつまらないものになっていくのであろう。

 炭砿を舞台にした高橋揆一郎の古本を一冊購入するも、本体90円で送料・手数料が430円。90ポイントを使用した上での合計料金は430円となり、送料・手数料のみを購入したような様になり、妙な気分である。

 登録したまま放っていたPayPayを初めて使った。文明化された未知の世界に少し入ったヵ。ネットで購入することが多く、店に足を運んでもレジの女性とはコロナ対策でぶら下げられた透明シールドに遮られ、支払いはタッチパネルで支払いは電子決済。言葉を交わす頻度はなくなり、そのうち口から言葉を発することを忘れてしまうのかも。
 
 再放送の東野圭吾作「秘密」のドラマを見る。初放映は2010年。本を読んだのは1998年。20数年経ったいまでもこの本の表紙は記憶に残っている。当時の感想文を振り返ったらごく簡単にしか記録していなかった。当時は傑作と自分なりに評していたが、いまドラマをみると(勿論ドラマと原作の違いはあろうが)、奥歯に物が挟まった感は拭いきれない。そして、当時の単行本の表紙に隠された「秘密」がすぐに分からなくて焦燥感にかられた記憶だけが甦る。
 一緒にドラマを見ていた連れ合いが言う、「はっきりしない結末、ミステリーはドンパチでスッキリするのがいい」というのも肯ける。

 コロナワクチンの接種が予約できた。7月5日で歩いて5分ほどのところでの接種となる。2回目の接種も今月で終了となるであろう(春日部は2回目の予約が必要)。娘がこれに関するアルバイトをしていて話が聞くことができて面白い。

 ここのところ就寝するのは午前2時頃。その時間を超えないようにしているのだが、往々にして午前3時近くなるときもある。昨夜は1時に寝たのだが、目が覚めたらなんと10時になっていた。9時間も寝たのは久しぶりのこと。お陰で今はアルコールを片手にしても全く眠くない。ジャズを聴きながら夜更かししそう。ちなみに今流れているのはラース・ムラーのカレイドスコープ。大好きなアルバム。

2021年6月13日日曜日

読めない漢字、水出しコーヒー器具自作、3A

 鉱山関連の資料や本を読むのに没頭している。その内容や経緯はもうひとつのブログに書くことにしているが、日々脱線することも多い。印刷の品質が悪く判読に苦労することもあり、またくずし字や旧字体で書かれているものもある。読めないと悔しいので調べるのだが今読めないままにある漢字が2点あり、これはそろそろ諦めかけている。
 数ヶ月前、ある短文の中の一個のくずした漢字が読めず、拡大したりして筆順を追いかけてみたり、『異体字解読字典』や『くずし字解読辞典』と照合しては調べたことがあった。三日ほどかけて納得する答えをみつけた時は嬉しく、気分が昂まった。しかし、その漢字が何であったのかメモを取ることを失念し、それが口惜しい。

 あちらこちらに興味が転がり移り、時間の合間にペットボトルで水出しコーヒーの器具を作ってみた。使用したのはペットボトルと透明なクラフトテープのみ。
 コーヒーの最初のできあがりは失敗。水の流れを分散しなかったので粉の中に通り道ができてしまい薄いものになってしまった。2回目はまあ飲めるが不味い。3回目はできあがりにラカントSで甘さを加えたら少しはまともになった。連れ合いはひたすら不味いというので、粉を変えて4回目に挑戦したら飲めた代物ではなく棄ててしまった。コーヒーの粉は手を抜いてドリップ用のもので試していたが、やはりそれは手抜きであって、そのうちに水出し用の粉で試してみようと思う。が、費用の無駄づかいになりそうな気がしないでもない。

 安倍・麻生・甘利を3Aと呼んでいて、二階や岸田が神経を尖らしているようである。日本の現在の政界は所詮3Aクラスでメジャーにはなれないということだろう。

2021年6月5日土曜日

老後とひとり死の本

 新型コロナのワクチン接種は、今のところは今月中旬に案内が郵送され、下旬に近くの接種会場に足を運ぶこととなる。世の中の状況が早く落ち着いて欲しいものではある。5歳刻みに年齢区分され、高齢者から低齢者へと接種が移行していく。

 <和田秀樹 『六十代と七十代・心と体の整え方』(バジリコ、2020年)>: 72歳の自分が思っていることや感じていることを著者の言葉で再確認させてもらったということで、何か新しいことや自分に抜け落ちていたことなどを気づかされたということはない。
 感情が劣化していることは自覚しているし、独りになることを意識していることは以前より変わらないし、文章を書くことも好きな方だし、世の中の気にくわないことに対しては諦念に似た気持ちを抱くことが多くなっている。しかし、本書で奨めている3度の正しい食事は出来ないし-16歳から2食の生活になっている-、適度な運動を再開するつもりはないし、規則正しい睡眠と起床は端からできない。まあ、常に自分と向き合いながら生きていくことであろう。
 購入することを躊躇い、書店で衝動的に買ってしまった本であり、今は読まなくともよかったと思っている。

 <上野千鶴子 『在宅ひとり死のススメ』(文春新書、2021年)>:朝日新聞の「なやみの坩堝」では上野さんの回答をいつも強い関心をもって読ませてもらっている。相談者は深刻な気持ちで相談しているのだろうから、失礼な言い方ではあるが“楽しく”読んでいる。
 著者と違ってこっちには子どもはいるし、まして二人とも近くに住んでいるし、彼女らの子どもたちともそこそこの頻度で顔を合わしている。でも、今後とも子ども達と同居するつもりは毛頭ないし、もしも連れ合いが先に逝っても独居生活以外の選択はあり得ない。今は連れ合いと二人の生活であり、そこそこに空間的にも時間的にも距離をあけることが出来ているし、自分の世界に自ら入ることはずっとそうである。互いに不満がないことはないが、適度に呑み込んでいるし、引きずらないように(努力)している。
 この先どうなるか分からないが、これからの「ヨタヘロ期」を愉しみながら過ごして行くことが大事なのであろう。結論は、今後の自分が「どうなるかではなく」「どうしたいのか、を考え」ること。

2021年6月3日木曜日

PCの不具合、条件・制限の積み重ね

 2世代も古かった無線ルータを廃棄して新しいものを設置した。同時に常時使用する3台のPCを使用状況に合わせて相互に入れ替えることにした。パフォーマンスの悪い4台目のSurfaceは臨時に使用するだけのほぼ遊休状態に置き、メインはいままで通りとし、サブ1(1F設置)とサブ2(中心は音楽とメインのアシスト)を入れ替えた。入れ替えたというよりパフォーマンスの制限があってそうせざるを得なかった。それにしても不具合はいつもつきまとう。PC関連は悩ましいこと、分からないことが多すぎる。
 PCはすべてノートPCを使用していて、Surfaceを除く3台のうち2台はBluetoothが機能しなくなって(消失してしまって)いるし、1台はDACへの対応がスムーズでなく音楽再生が途切れ、1台はWiFiが繋がらない。BluetoothとWiFiの不具合については、Windows7から10へアップグレードするに伴いドライバーが対応できなくなったことから生じていることは分かる(多分)。DACへの不具合は結局分からない。Bluetoothはもともと使用していないし、WiFi不具合機についてはもともと有線LANにしているので、現実的には両者とも困ることはまずない。 
 しかし、不具合が生じるとその原因を探り、対処したいという衝動は抑えきれない。Webで調べたり、ドライバーを更新させたり、何度も何度も試行錯誤を重ねることほぼ3日。そして終には諦めた。疲れた。修復はできずとも微かでもPC関連の知識は増えた(と思いたい)。PCを最新版にすればすべて解消するのだろうけれど、不具合以外のパフォーマンスには十分に満足しているので買い換える動機がない。
 PC周りを少しは整理したことに併せてハードを少なくしたいので、1台のマウスで2台のPCを操作できるようにした。マウスを少なくするためにUSB切替装置を購入するのは本末転倒と思っていたら、いいのを見つけた。Microsoft 社から提供されているMouse Without Bordersで、これは便利。
 多くの時間を費やしたので、暫くはPC関連には、また、オーディオ関連にも手を付けないこととする(なるべく)。

 何が何でも開催することを目指すIOC・運営関連者や政府関係者たち、目指すという意志よりも目指さざるを得ない状況が背後にあるのであろう。組織に絡め取られた人たちの主張というものは、所詮組織の状況に応じることが目的化し、本来目指すべき理念は希薄化してしまうことが多い。Aを達成するためにBを達成させる。一方でBを達成するにはCが必要である。するといつのまにか最終目的がCを実現することになってしまう、というようなものである。
 いろいろな条件や制限を重ねているが、制限や条件を積分すれば結局は「否定」に繋がることを理解しているのだろうか。つまり安全・安心のためにというお題目のために積み重ねている条件や制限は「開催できない」という否定に向かっていることであり、そのような状況下で開催されても結果は矮小化されてしまう。
 条件を積み重ねた上で立てた計画は「うまくいけばいいな」という立場でしか考えていない甘~い思い込みでしかないことが多く、条件・制限が多いだけに何度も修正を重ねることとなる。
 まあ、「偶然を積分すれば必然となる」ことから考えれば、7月に開催されるイベントが成功するのはおそらく偶然が重なることでしかないと思われる。そうなったときに、関係者は自らの行動を必然的に正しかったのだと言い張ることになるのだろう。そうなっても詭弁の臭いが漂うことは自明である。