2015年8月24日月曜日

北方領土に関するメモ

 8月23日、とある店で時間潰しのためにそこ置かれていた読売新聞朝刊に目を通していたら次のような記事があった。北方領土を説明する記事である。

北方領土 北海道の北東にある択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の「北方4島」のことで、総面積は約5000平方キロ・メートル。ソ連(現ロシア)は1945年8月の終戦直前に対日参戦し、9月5日までに北方4島を占領した。約1万7000人いた日本人を強制退去させ、不法占拠を続けている。2011年時点で居住するロシア人は約1万7000人。戦後、日ソ両国は56年の日ソ共同宣言で国交を回復したが、4島の帰属問題が未解決だったため、平和条約は現在に至るまで締結されていない。日本政府は、4島の日本への帰属が確認されるのであれば、返還時期や態様については柔軟に対応する方針を示している。

 この文章だけでは北方領土問題は理解できない。さらに言うならば、現在の日ソ両国交渉の延長線上に4島の返還は存在しないと捉えている。国内でも2島返還をメインにすべきとの意見などがある。
 幾つかの本を参考にして「北方領土」問題を時系列的に確認してみた。以下にメモしたことは表面的なことでしかなく、当時の政界情勢と米国の動向、沖縄の状況、日米関係、日露(日ソ)の歴史などもっと深く考えねばならないことが多くあるが、今は深入りしないこととする。

 「カイロ宣言」(1943年12月)は米英中の(ソ連の加わらない)会談であり公文書はない。領土に関する宣言は、次のようである。「右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」、「日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」
 「ポツダム宣言」(1945年7月)には「『カイロ』宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」とある。日本はこれを8月14日に受諾した。ポツダム会談は米英ソでなされたが、ポツダム宣言は米英中の共同宣言で発せられ、ソ連は遅れて加わった。
 8月15日に所謂玉音放送がなされ「終戦」となる。9月2日に降伏文書調印式。ここで日本は無条件降伏となり、外交文書上で「ポツダム宣言」受諾となる。連合国側の署名は米中英ソ豪蘭乳。因みに、アメリカでは14日をVJ Day(Victory over Japan Day)とし、ソ連は9月3日を対日戦争勝利の日としている。
 1951年9月2日にサンフランシスコ講和条約締結。その第ニ章・第二条・(c)項は「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する」(カイロ宣言では1914年を区切りとしているがサンフランシスコ条約では1905年になっている)。
 「ポーツマス条約」(1905年9月)では、ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を日本に譲渡する、とされている。では千島列島はどうであったか。1875年の「千島・樺太交換条約」で千島列島は日本の領土となる。即ち、千島列島はポーツマス条約以前に日本の領土となっており、ポーツマス条約を基点とするからには講和条約から除外されるべきものであった。しかし、サンフランシスコ講和条約を締結し、千島列島を放棄することとした(してしまった)。しかし、この条約締結にソ連は加わっていない(尖閣諸島問題の中国も締結から除かれている)。
 日本は、サンフランシスコ講和条約締結に加わっていないソ連と1956年の「日ソ共同宣言」で国交回復となる。共同宣言では、「ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,千九百四十五年八月九日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国,その団体及び国民のそれぞれ他方の国,その団体及び国民に対するすべての請求権を,相互に,放棄する」とし、次の9項が続く。「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。 ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」 もちろん平和条約はいまもって締結されていない。
 ややこしいのは、日本はサンフランシスコ講和条約で千島列島を放棄するとし、講和条約に署名していないソ連は(千島列島以外の)歯舞諸島及び色丹島を返還するとし、日本もそれに同意していることである。しかし、日ソ共同宣言から繋がる日ソ平和条約を締結することに米国からの恫喝(「ダレスの恫喝」)があった。それは、日ソ共同宣言に基づいて日ソ平和条約を締結するならば(i.e., 歯舞諸島及び色丹島のみが返還されるとするならば)、米国は沖縄を返還しない(米国は沖縄の併合を辞さない)、そもそもサンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島を、米国をさしおいてソ連に譲渡するのは不可能である、とするものであった。その翌月、米国国務省からの日本政府への覚書にはサンフランシスコ講和条約の第ニ章・第二条・(c)項で日本が放棄した領土に国後・択捉は含まず、両島は歯舞・色丹とともに日本の領土であるとするものであった。(尚、「固有の領土」なる用語には多くの問題を含んでいるので使わない。) その頃に新たに登場するのが、国後・択捉は「南千島」であり千島列島の属さないという日本側の論理であった。そしてそのまま進展なく(今後も進展しないだろう)現在に至っている。

2015年8月18日火曜日

小説、漫画

 <樋口有介 『笑う少年』>:3年前の『猿の悲しみ』に続く風町サエのシリーズ2作目。3年の隔たりはあるものの、主人公も息子聖也も年齢を重ねていない。そして書名が何を象徴しているのかピンと来ないのは前作と同様である。前作の「猿」はヒト全般に繋がるのではないかと推測できるのであるが、「笑う少年」については理解が及ばない。主人公が追いかける人物の過去の姿を表しているのか、あるいは「笑う少年」なる芸術的表現-例えば絵画とか人文社会学的研究書-があるのか、分からない。
 さてこの小説は、極端な言い方をすればストーリーは横に措き、樋口ワールドに浸って、主人公の台詞・独り言を楽しめればいいと思う。

 <昌原光一 『江戸の告白』>:江戸を舞台にして描かれる物語はシリアスなもの。12歳からの丁稚奉公を真面目に勤め、女房と娘をもつ気弱な髪結久蔵は「不承知」と言えない性癖をもつ。その久蔵は、髪結仲間で遠島になっている科人与三治の女房とふとしたはずみから密通をし、挙げ句の果てに殺してしまう。不義密通は死罪であり、殺したことが明らかになれば女房と娘を路頭に迷わしてしまう。女房は密通で死罪になって咎人の女房となることを避けようとし、与三治に久蔵を殺してくれと頼む。久蔵は裁きを受けようと名乗り出るが、自死として処理した役人は相手にしない。与三治の前で殺されることを久蔵は望み、与三次は久蔵を殺して生まれ変わらせる。幾十年か経て久蔵は辻説法をしている、「人は誰しも抗し切れぬ誘惑に誘われるもの。そんな時こそ心して・・・・躊躇わず・・・・言うべき一言は言わねばなりませぬ、それは『不承知』」と。かつての女房は娘に言う、「不安な気持ちはね、誰かに頼ってちゃ消せないものなんだよ」と。
 ノワール時代劇と帯にうたってあるが、前記の如く、気弱な人間の罪への戦き、恐れを描いて、「ノワール」は当てはまらない。
 昌原光一の漫画は3冊目だが-3冊しかでていない-、『まげもん』や『御誂 人情幕ノ内』に入っていないものや、それ以外の作品を(あれば)出版して欲しい。

 <岩谷テンホー 『完本みこすり半劇場』>:下ネタだけの4コマ漫画。こういう徹底したばからしさはそれなりに面白いし、発想に関心したり笑ったりする。田中圭一の漫画同様に家族内閲覧はできない。因みにオレは東スポを手に取ったことはない。

『永続敗戦論』

 <白井聡 『永続敗戦論』>:通教のリポートや卒論に取りかかっていた時期以来はじめて、マジメに目を通し赤線を引いた部分を中心に読み返し、重要な箇所はメモに書き落とした。そして、以前から感じていた幾つかのことの輪郭が鮮明になった。
 敗戦の責任を誰もとっていないことを今更に問題視してもあまり意味はあるまい。これからも日本という国家が主体性をもって敗戦責任を提示することはないだろうし、戦後○○年は(次の戦争がない限り)いつまでも続くであろうと思われる。10年後には戦後80年談話がなされ、悲惨な戦場の映像が流れ、家族/夫婦の離別の物語が編まれるのであろうか。それともその間には何か変化が生じるのであろうか。
 「永続敗戦」とは本文より引用すると「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識においてのみ隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、このニ側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況」を指す。
 敗戦の決断は「国体護持」が主眼であり、その延長線上で、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を保障した1951年の安保条約がある。それらと同一線上にある近衛文麿の上奏文は、あまりにも滑稽であり哀れでもある。そして、いまもって戦後70年を経ても敗戦責任が問題視される。国の領土を失い、多くの国民が亡くなり、原爆を落とされ、多くの兵士が南方で餓死したこと等々の責任である。それらに対して「怒り」や「悲しみ」はあっても「恥辱」とする感性は見えない、「国の誇り」「美しい日本(国土)」に向き合う「恥」の感性は筋違の方向に向いているとしか思えない。「俘虜になることを恥」とした文化は1945年で「従属こそが生きる知恵」へと転化したようである。
 「われわれが対内的にも対外的にも無能で『恥ずかしい』政府しか持つことができず」とある。ではこの無能な政府しか持てないのは何故なのか、本書は言及していない。深く考えている訳ではないが、それは政府を構成する国会議員の選び方にあると思う。即ち選挙制度。無能な政治家が生じるのであればそれは生じさせるシステムが不適ということであり、間接民主制を前提にすれば選挙制度を変えるしか方法はない(内容についてはここでは触れない)。そして議員/代表者を選ぶ選挙制度は例外的に議員/代表者に決定権(立法権)を与えないことも必要かと思う。
 あとがきにガンジーの言葉が引用されている。それに絡めて書く自分の思いは次のようなものである。“この世界はすべてが成るようにして成っていると捉えるとき、不条理な悲しみとか条理の上に成り立つ幸福などはさほどに意味はなく、問うことは、この世界において<一体、この私は何者だろうか?>(白石一文『草にすわる』)であり、それが「世界によって自分が変えられないようにするため」(ガンジー)に繋がるのであろう”

2015年8月8日土曜日

不条理、条理

 7月25日の朝日新聞(終末別冊be)に「もう一度見たい日本の戦争映画 人間をもてあそぶ不条理な悲劇」があり、1位から順に『火垂るの墓』・『ビルマの竪琴』・『私は貝になりたい』・『戦場のメリークリスマス』・『ひめゆりの塔』と続く。それぞれ名作であろうことに異論はないが、しかし、悲劇を主軸として描く映画を見るといつも妙に苛立ち、違和感を覚える。また、小説や映画・ドラマの宣伝文において「涙を誘う感動の作品」とか「涙なくしては観られません(読めません)」とかの類をみると興味は大きく削がれてしまう。
 そのような自分にとって「もう一度見たい・・・・」に記載されていた寺脇研さんの下のコメントは得心のいくものであった。

 「『火垂るの墓』も『ビルマの竪琴』も、人間が大いなる運命に翻弄されてしまう不条理な悲劇。しかし私は戦争映画には条里もあるべきだと思っています。つまり、戦争がいかにして始まり、どのように戦われ、終わらせられたのか、その筋道を理詰めで押さえるマクロな視点もあってこそ、未来へつながる作品になる」

 「涙を誘う悲劇の物語」への抗しがたい違和感の理由を寺脇さんは端的に表現している。条理とは「社会における物事の筋道。道理」(大辞林)、道理とは「物事がそうであるべくすじみち。ことわり。わけ。人の行うべき正しい道」(同)。不条理は「理論的思考では筋が見えず、理由が分からないこと」(岩波 哲学・思想事典)。条理・道理を単純化すると、お天道様が正しいか正しくないかを常に見ていて、お天道様に恥ずかしくないように生きるべきであるという大前提を理解することで人間社会は成り立つ、としているのではなかろうか。しかし、そのような前提だけに立てば悲劇は悲劇のままでクローズしてしまい、その先に何があるのか分からない。戦争も犯罪も悪事も非道も人間社会には条理として存在するという思いが、悲劇の深淵にある本質を見つめることになるのではないかと思っている。それは、突き詰めれば自分を見つめることになる。その思いは、「人が皆、肉体的な恐怖を克服し、真摯に自分の心を生きようとしない限りは、社会からいかなる非道も残虐も差別もなくなりはしないだろう」(白石一文)との認識に繋がり、よって、「私たち一人一人に与えられている問いは、ただ一つ、『私とは一体何者であるのか?』という問いだけなのである」(同)への共感に繋がる。

2015年8月6日木曜日

雑記

 <井上雄彦 『バガボンド37』>:前巻を読んだのは2年前だったが記憶の中でストーリーは繋がった。

 <原泰久 『キングダム 三十八』>:秦王政は雍にて加冠の儀を執り行い、太后と関係を持っていた嫪毐は反乱を起こすところで次に続く。
 ここからは漫画と無関係な記述。始皇帝は紀元前3世紀に生き、さまざまな中央集権志向の政策を打ち出した。その一部が印象に残っている。i.e.,中央から地方に長官あるいは次官を送るのであるが、派遣に当たっては彼らの本籍地を回避し、一定期間の任期で交替させていた。これって現代の国会議員の世襲否定に繋がるであろう。もちろん、地方で力をつけて中央に抗うことを防止する意味はあったのであるが、血縁関係や権力・富裕層に癒着する人間の性癖を指摘していることをも意味し、古から変わらぬ社会の姿と、それを改革しようとした秦の時代の政策に普遍的意義を覚える。それに比べて今もこの国の国会議員は世襲を重ね、利権を求めて彼らに癒着し、群れては詭弁を弄している。

 <長谷川卓 『嶽神伝 孤猿(下)』>:超常的「影」が襲ってくるシーンだけは違和感を覚える。現実を題材にしておいてそこに非自然的材料で物語を組み込むことには好きになれない。SF小説や伝奇小説のように非日常的舞台を軸にしていれば何の違和感もなく楽しめるのであるが、唐突に超常現象を出してくるのはオレにはダメである。
 それを除けば上下2巻にわたる”無坂”が活躍するこの小説は楽しめた。長谷川卓の描く人物は何にも与せず媚ず、己の生き方を全うする姿勢が好きである。

 <佐伯泰英 『居眠り磐音江戸双紙49 意次ノ妄』>:作者あとがきによれば来年正月に50巻と51巻を同時に出してこのシリーズは完結する。この49巻も偉大なるマンネリというか、いつもの登場人物がいつもと変わらぬ設定でいつもと同じ傾向の台詞を口にして、正直倦きているのだがあと2巻で終わるというのだから最後までつき合おう。

  <安田浩一 『ヘイトスピーチ 「愛国者」たちの憎悪と暴力』>:新大久保での差別デモの最中、たまたま現場に遭遇した右翼組織のメンバーが「朝鮮人って言葉を使わずに愛国を語ってみろよ」とデモ隊に叫んでいたとの描写がある(206頁)。本質を突き刺す鋭い言葉である。著者同様に同感する。右翼に対し全面的共感を持ってはいないが、「人間の理性を懐疑し、風雪に耐えて生き延びてきた伝統や文化、歴史に身を委ねる、その生き方に対しては一定の敬意を持っている」(66頁)ことは私も同様である。
 以前ある企業に勤めていた頃、所属する部の運営に関しあるマネージャーと頻繁に会議や打ち合わせを持っていた。人格的には穏やかな人物であったが、業務遂行においては思い込みが強く、間違っていても主張を押し通そうとする性癖があり、面倒な人であった。周囲は説得をし、間違いを正そうと努めるのであるが徒労となることも多かった。思考することにおいては底が浅く、理よりも情を大事にする人であったが、こういう人と交渉をするとホントに疲れた。理屈が通ぜず、時に罵声を浴びせても一向にめげることはなく、「強い」のである。結局のところ、こちらが主導する立場にあるときは彼を除外することにもなる。そうすると何も理解していない上司はそれについてクレームをつけてきれい事を言う。・・・ホントに面倒なものである。

 国会議員の暴言があれば、昨日(8/5)朝日新聞朝刊には本社特別編集委員の、ツイッターにおける裏付けのない投稿、許可のない写真掲載に関しお詫び記事があった。政治もジャーナリストも質が落ちてきているのか。共通するのはパターナリズムである。選ばれた存在である国会議員(というより議員という就活に成功した人)、社会を鳥瞰して記事を書く新聞記者、彼らの中にはいつのまにか社会や人びとを見下ろして己の判断が正しいという思い込みが出てくるのであろう。
 「権力は腐敗するのではない、腐敗するのが権力だ」(佐高信?)、「群れたら腐る」(『突破者の条件』)。

2015年8月4日火曜日

引っ越し(URL変更)

 2006年7月よりブログを続けてきましたが、登録していたインターネットサービスの終了に伴い、ここに引っ越しました。
旧ブログ[http://tcat.easymyweb.jp/member/tocka2/]は明年2016年7月末まで残しておくことにします。