2015年8月18日火曜日

『永続敗戦論』

 <白井聡 『永続敗戦論』>:通教のリポートや卒論に取りかかっていた時期以来はじめて、マジメに目を通し赤線を引いた部分を中心に読み返し、重要な箇所はメモに書き落とした。そして、以前から感じていた幾つかのことの輪郭が鮮明になった。
 敗戦の責任を誰もとっていないことを今更に問題視してもあまり意味はあるまい。これからも日本という国家が主体性をもって敗戦責任を提示することはないだろうし、戦後○○年は(次の戦争がない限り)いつまでも続くであろうと思われる。10年後には戦後80年談話がなされ、悲惨な戦場の映像が流れ、家族/夫婦の離別の物語が編まれるのであろうか。それともその間には何か変化が生じるのであろうか。
 「永続敗戦」とは本文より引用すると「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識においてのみ隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、このニ側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況」を指す。
 敗戦の決断は「国体護持」が主眼であり、その延長線上で、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を保障した1951年の安保条約がある。それらと同一線上にある近衛文麿の上奏文は、あまりにも滑稽であり哀れでもある。そして、いまもって戦後70年を経ても敗戦責任が問題視される。国の領土を失い、多くの国民が亡くなり、原爆を落とされ、多くの兵士が南方で餓死したこと等々の責任である。それらに対して「怒り」や「悲しみ」はあっても「恥辱」とする感性は見えない、「国の誇り」「美しい日本(国土)」に向き合う「恥」の感性は筋違の方向に向いているとしか思えない。「俘虜になることを恥」とした文化は1945年で「従属こそが生きる知恵」へと転化したようである。
 「われわれが対内的にも対外的にも無能で『恥ずかしい』政府しか持つことができず」とある。ではこの無能な政府しか持てないのは何故なのか、本書は言及していない。深く考えている訳ではないが、それは政府を構成する国会議員の選び方にあると思う。即ち選挙制度。無能な政治家が生じるのであればそれは生じさせるシステムが不適ということであり、間接民主制を前提にすれば選挙制度を変えるしか方法はない(内容についてはここでは触れない)。そして議員/代表者を選ぶ選挙制度は例外的に議員/代表者に決定権(立法権)を与えないことも必要かと思う。
 あとがきにガンジーの言葉が引用されている。それに絡めて書く自分の思いは次のようなものである。“この世界はすべてが成るようにして成っていると捉えるとき、不条理な悲しみとか条理の上に成り立つ幸福などはさほどに意味はなく、問うことは、この世界において<一体、この私は何者だろうか?>(白石一文『草にすわる』)であり、それが「世界によって自分が変えられないようにするため」(ガンジー)に繋がるのであろう”