2021年9月29日水曜日

ミステリー

 夕方にテレビのニュース番組を見ていた。菅首相が次期自民党総裁は河野太郎しかいないと言っているとのキャスターの発言の途中で、「速報」が流れた。何があったのかと注視したら、櫻井翔と相葉雅紀がWで結婚を発表したとのことだった。同じ事を何回か繰り返していた。
 一般国民が直接参加できない総裁選が取るに足らぬものとしているのか、菅の発言が影響ないものと軽く見ているのか、ニュース報道の内容がそもそも浅薄といえるのか、一般大衆の興味・関心は芸能界に比重があると見做されているのか、軽~い世情が反映したニュース番組。なぜこのような風潮になってしまったのであろうか。

 <長岡弘樹 『教場Ⅹ 刑事指導官 風間公親』(小学館、2021年)>:教場シリーズのスピンオフシリーズ、『教場0』に続く第2版。警察学校教官となる前の、刑事指導官として殺人事件の解明にあたる短編6編。初期の作品『傍聞き』、教場シリーズの始まりの頃よりは楽しめない。無機的に殺人の謎を解き明かしているだけで、パズル作家の作品を見ているような気分に陥ってしまう。面白さはあるのだが心底には楽しめないといった感。

2021年9月26日日曜日

本3冊、大学ラグビー

 <永井義男 『江戸の糞尿学』(作品社、2016年)>:永井義男の小説を読み始めたのは1997年で、手にした3冊目が『鮮魚師』(なまし、読売新聞社、1997年)。そこには3作が載せられており、当時の読書メモを読むと「天保糞尿伝」が傑作で面白いと記している。その記憶があったせいで、本作『江戸の糞尿学』を購入した。また、政治史や経済史、思想史などから離れて生活史に触れるのも楽しく、図版が多いのもまた気軽に楽しめる。とは言っても排尿するシーンが性器まるだしで載っているので人前で-たとえ連れ合いであっても-頁を開くのは憚れる。
 本書には付録として前記の小説「天保糞尿伝」が編まれており、23年振りに読んで楽しめた。前回と同様に屎尿の臭いが漂ってくるような錯覚に陥る。

 <キャロル・ブラック 『戦争の記憶 コロンビア大学特別講義-学生との対話-』(講談社現代新書、2019年)>:「特別講義」という語句から、大きな教室で多くの学生を相手に講義した印象を持っていたが、実際は全4回の各回11~14人と少人数の20~30代の学生との対話。学生たちの育った場所は多様であり、彼らは戦争、或は日本の戦争状況をよく学習している。
 過去にあった戦争は何らかの記憶(記録を含む)に依って現代に解釈されていて、その記憶のあり方、分類・分析が勉強になる。その記憶は人間によって作られた(る)ものであることを忘れてはいけないし、歴史に向き合うことはその記憶に向き合うことでもある。それらの記憶が正しさを装っていても、大事なことは、事実を感知・理解する能力(あるいは感性)であり、そして想像力を働かすことである、と思っている。

 <田中克彦 『ことばは国家を超える-日本語、ウラル・アルタイ語、ツラン主義』(ちくま親書、2021年)>:「ことば」と「国家」の言葉に惹かれて手に取ったが、国家が言葉をどう管理し制御したのか、しようとしているのかについて書かれている本、というアホみたいな勝手な思い込みからはほど遠い内容であった。読んだというよりも頁を捲って流し読みしたに過ぎない。例外的に、中国とロシアに分断されているモンゴル民族に関して述べられている第5章の一部には関心を向けた。
 著者の思い出や他者への批判(避難)も多く、発散気味だし、そもそも言語学そのものに興味がなく、書かれている用語や内容も理解できないし、しようとも思わなかった。

 関東大学ラグビー、早稲田の2戦目は日体大。結果は96(14T13G)-0。モニターで見る風景に記憶があり、5年前に上柚木に行ったことを思い出した。
 今回印象的だったのはノーサイドとなっても選手たちの表情は緩むことがなく、結構厳しかったこと。早稲田スポーツの記事を読むと、この試合のテーマは「アキュラシー」で正確度や精度をうたっていたが、そこに課題があったとのこと。その内容は、大田尾監督の言葉、「分析ではもう少し余裕を持って回せるかと思っていたのですが、そのようなディフェンスにプレッシャーを受けた部分がありました。非常に勉強になった試合だと思います」に表れている。
 観ていて楽しめた試合であった。後半の後半では日体大の緊張の糸が切れてしまったような印象も受けた。前回立教戦での吉村のプレースキックを酷評したが、今回は難しい位置からの成功も多く、前回の非難はゴメンナサイと謝る。

 翌日の慶応vs筑波戦は(いつもそうだが)筑波の勝利を願った。僅差での結果を予想していたが結果は34-12と筑波の快勝といってもいいだろう。全体的に雑なプレーが多い。筑波のゴール前でのディフェンスは立派、逆に言えば慶応の攻撃が物足りない。

 関東リーグ戦も開幕し、法政が専修に勝利。あとでじっくりとオンデマンドを見よう。
 関西リーグでは19日初戦で天理が近大に負けた。オンデマンドで試合を観て、天理に昨季の力強さは皆無。昨年のメンバーがごっそり脱けてしまい、低レベルの試合運びだった。

2021年9月18日土曜日

HONDA車のパンフとMary Custy

 8月23日に車(HONDA N-BOX)の点検に行った。点検が終わってから顔なじみの営業担当者と話をしていて、来年2月に9年目の車検を迎えることを失念していたことを気づかせられた。前回7年目の車検のときには新車に買い換えたいとも思ったが、2年間の様子見をして、そのときにまだ運転は大丈夫なのか、免許返納が必要かを判断することにしていた。そしてほぼ2年経過後の現在、日常生活ではまだ頭の中も運転能力も全く支障ないし、買い物ぐらいにしか出かけないが車がなければ不便だし、70歳での高齢者講習でのテストでは教習所の人が賞賛するほど高いものであったし、等々を踏まえ、今回が最後となる新車購入をしようと気持ちが傾いた。現在は中古車が高騰しており、下取り価格が高いことも要因にあった。
 見積書やパンフレットなどを手にしたときはもう購入する気持ちは固まっていた。先に進めるか否かは連れ合いの判断が大きく左右するが、彼女は2年前とは違っていとも簡単に、ないと不便だから買えば、と宣う。車種はN-BOXと決めていたので、すぐにオプションの検討に入った。ネットでセルフ見積もりを行いディーラー見積もりに幾つかのオプションを追加した。支払いはキャッシュで払うか、残価設定型クレジットにするかの二者択一。自分の寿命が尽きることになったら手続きが面倒であろうし、また総合的な出費金額などを算定比較して、キャッシュで支払うこととした。夕方には電話を入れ、翌日でもかまわないが契約すると伝えたら、決断の早さに驚かれ、向こうの都合により26日に契約することになった。

 ここまでは前段階で、今回のブログのメインは違うところにある。それは、持ち帰ったパンフレット類に「Honda SENSING BOOK」(2021.03版)があり、嬉しくなる図版があったこと。
 何気なく頁を捲っていて10頁目を開き、上段の運転者がナビゲーター付近を見ている図があり、その上のディスプレーにフィドル(ヴァイオリン)を演奏している女性が映っている。えっ、彼女はMary Custyだ、間違いない、彼女だ。3人の演奏者が映っていて、手前はSharon Shannon、中央がMary Custy、奥のもう一人はわからない。
 20年以上前になろうか、アイルランドの音楽に夢中になっていて、Mary CustyのCDをアイルランドCountry ClareのEnnisにあるCusty's Traditional Irish Music Shopから購入していた。記憶違いがなければ、このショップはMar Custyの妹が営んでいる筈である。
 Mary Custyが参加しているアルバムはすべて持っていて、今も年に数回は引っ張り出して楽しんでいる。アイリッシュ音楽は他にもいろいろとアルバムを持っているが、CDを最も持っているのが彼女のもの。その彼女がHondaのパンフに載っている。パンフと同じ絵柄の写真をネットで捜したが見つからなかった。
 とても嬉しくなり、Mary CustyとSharon Shannonが一緒に演奏しているアルバムを心弾んで聴いた。
 26日に契約したとき、営業の人にこれらのことを話したら驚いていた。何万部と印刷して配布し、手に取った人の中に、どれくらいの数の人がフィドルを抱えたこの女性のことを知っているのだろうか。ちょっと自慢したくなる。
 自分の気付きを確かなことと検証したいが、こんな些末なことをどこかに問い合わせるほど不遜でありたくはないし、万が一自分の誤解であったとしても、自分の中で得意げに満足していればいいことである。

 キャッシュで払った新車はまだ納車されない。当初は9月中には何とか、と思っていたが、今のコロナ禍の中、東南アジアからの半導体を中心とする部品調達が予定通りには捗らず、どこのメーカーも製造が減産あるいは遅延しており、自分のところに納車されるのも10月いっぱいになりそうだ。待っているしかない。
 Custy's Traditional Irish Music Shopをのぞいても、Mary Custyの新しいCDは見当たらない。もう出ないのか。アイルランド音楽のCDはこのショップからは何度もCDを購入しているし、San Franciscoの演奏家からも直接購入したこともあった-愛らしい、素晴らしい曲が入っている-。
 暫く触れていないアルバムをまた聴いてみよう。

2021年9月15日水曜日

対抗戦ラグビー開幕、娘の息子とガールフレンド

 大学ラグビーがスタート。早稲田の初戦は立教、70 (12T5G)-0でまずまずの勝利。1st half (7T3G)での経過を見ているとトータルで90~100点の得点も期待したが、後半はやや失速。課題と思うところは次の3点。①後半でのペネルティの多さと集中力低下と思われること、②ラインアウト(L/O)の精度の低さ、③プレースキックの精度の低さ。プレースキックの低精度は拮抗した試合では勝敗を大きく左右するし、L/Oは攻撃の機会を自失してしまう。①②はこれから修正されるだろうけれど、③は大幅な改善は期待できない。吉村以外に誰かプレースキッカーはいないのだろうか。かつての五郎丸や斎藤直人までの技量は望まないにしても。
 亀山(PR)、佐藤(No.8)、宮尾(SH)の1年生3人がスターティング・メンバーとして出場した。一方で伊藤、村田、小西、小泉はいなかった。
 筑波vs帝京は帝京が僅差で勝利。筑波に期待したが、トライチャンスはゲーム開始直後のトライと、後半に絶対のチャンスを逃したときの2回くらいで、スコア以上に差があったと思う。
 青学vs明治、34分頃の明治6番FLが青学選手の顔を殴るラフプレイ。一発退場は当然であるが、これはダメ。拳をあげるだけでペナルティとなった昔のワールドカップでの試合を思い出した。

 夜、駐車場で花火をさせてと娘の息子(要は孫)から連絡。バケツやライター、蚊取り線香の準備をしてあげた。「〇〇ちゃんに会う?」と声をかけられ、パジャマから着がえて、彼のガールフレンドと初めて顔を合わした。彼女のことは話では知っていたが、突然のことでちょっと驚き、挨拶を交わした。花火が終わって彼が玄関に来た。玄関から離れて駐車場のフェンス側に立っていた彼女にも声をかけ、アイスクリームなどの餌をまいて二人を(多少強引に)自宅に招き入れた。二人とも可愛かった。
 「孫がガールフレンドを連れてくる年齢になってしまったんだね」とは連れ合いの言葉。高校生のときに女性と連れだって歩くなんて経験もしなかった自分にしてみれば、50年以上も前の時代をちょいと悔みたくなる。

2021年9月12日日曜日

故障は誤解、白石一文さんの小説

 前回久しぶりの音楽関連機器の故障に遭遇し、すぐに交換してもらったと書いたが、十中八九誤解であることが判った。今日もまたヘッドホンから音が出なくなり、これはおかしいと思い、音が出ているときと出なくなったときの機器の操作の差異を確認した。HEADSETのヘッドホン・ミニプラグへの防塵用キャップが原因だった。迂闊だった。マニュアルにも、HEADSETヘッドホン出力端子にヘッドホンプラグを接続すると、(もう一つの)ヘッドホン出力端子からの音はカットされるとノートが記されている。同じようなことはオーディオ機で充分に経験しているのに、今回は見逃した。透明なキャップを刺したために気づかなかったのかもしれない。回収品にはそのキャップを刺したままだったことを思い出し、よって販売店側も(あるいはメーカー側も)すぐにこちらのミスであり、商品に異常がないことはすぐに判ったことと思う。申し訳ないと思うし、汗顔の至りである。
 何らかの馬鹿よけ/ foolproofのような配慮があればいいと思うし、または防塵キャップにも構造的工夫があればよいと思うが(簡単なことである)、それを主張するのは自分の愚かさを棚に上げるような気分となってしまう。

 <白石一文 『我が産声を聞きに』(講談社、2021年)>:一緒にがんセンターに行って、夫は癌であると診断される。その日の昼食を共にした夫は、好きな人ができたので、家を出るという。家は譲る、退職金の半分は送金する、と言う。妻の多香子はなぜなのか判らずに呆然とするが、やがて自分の過去・現在・これからの人生を思い惑う。
 かつての婚約者だった女性を好きになったと夫は言うが、淡淡としていて、それだけで妻と別れるという選択肢を択んだ理由が深くは伝わって来ない。しかし、人生を二度生きてみたいという衝動は理解できるような気がする。多香子は出て行った夫を追いかけるでもなく、自分の過去を思い、二度目の人生を見つめようとしている。二度目の人生を歩むときのスタートで耳にすることが「我が産声を聞」くことなのであろう。その産声がミーコ-過ぎし日にいなくなった愛猫-の声に重ねられ、思わず巧みな構成の小説だと感じ入る。
 己の人生を自分だけで作ってきたというのは己惚れでしかないが、己の人生を回想し見つめれば、それは自分だけの人生であると得心するしかない。一度しかない人生というのは偽りで、二度目の人生というのはあり得ることかもしれない。それが妻以上に好きになってしまう女性と出会い、その好きになってしまったことを自覚することは一つの例であり、一方では普通に過ごしていたことが形を失くし、そこに自分のありようを再構築することもまた一つの例であろう。要は、自分の人生をどこかで画することで二度目の人生を歩めることだと思う、それが形としては何ら変わらなくとも。
 白石一文さんは最も好きな作家であり、この小説も思索的であり、読み出すと集中することはいつものこと。読むことを中断せざるを得ないことが2回あったが、中途で頁を閉じるその時間が恨めしかった。

2021年9月9日木曜日

雑記、長編小説一冊

 大学ラグビー・シーズン到来に伴ってJSportsオンデマンドを契約。最初に観たのは夏の練習試合の慶応vs帝京戦。早稲田の試合が配信に組まれていないことが不満だが、致し方ない。

 USB接続の音楽関連の機器が初期故障。ヘッドホンの音がすぐに出なくなった。購入先に連絡し翌日には交換品が届いた。初期不良・故障は長らく経験したことがなかった。不具合現象のメールおよび電話での問い合わせに際しては販売先の担当者がとても丁寧で対応も早かった。さすがに翌日配送をうたっているだけあって素晴らしい。

 接着テープで補修したままになっていたメールボックスの取り出し開閉部を丸ごと自作して改修。アクリル板の切断は機械加工よりはもちろん精度が悪く、また手に持ったカッターで表面を傷つけることもあり、これも止むなしと諦めるしかない。現物合わせの修復であるがために試行錯誤も何度か繰り返すが、遠目に見た限りでは出来映えはいい、と自画自賛する。

 <佐藤究 『テスカトリポカ』(KADOKAWA、2021年)>:分厚い長編で、途中で読書に時間を割かなかった日もあって、読み終えるまでに20日近くも経ってしまった。
 メキシコ、アステカ、インドネシア、日本、川崎、東京。理解している暴力という言葉が些細なことと思えるほどに壮絶な、おぞましき、すさまじい暴力と血にまみれた殺人の描写が続く。臓器ビジネス、人骨に手を加えた容器/装飾品。これらの描写はさすがに気持ち悪くなる。
 どのような小説か、KADOKAWA HP内のプロモーション記事と、本の帯の文章を転記しておく。 「メキシコで麻薬密売組織の抗争があり、組織を牛耳るカサソラ四兄弟のうち三人は殺された。生き残った三男のバルミロは、追手から逃れて海を渡りインドネシアのジャカルタに潜伏、その地の裏社会で麻薬により身を持ち崩した日本人医師・末永と出会う。バルミロと末永は日本に渡り、川崎でならず者たちを集めて「心臓密売」ビジネスを立ち上げる。一方、麻薬組織から逃れて日本にやってきたメキシコ人の母と日本人の父の間に生まれた少年コシモは公的な教育をほとんど受けないまま育ち、重大事件を起こして少年院へと送られる。やがて、アステカの神々に導かれるように、バルミロとコシモは邂逅する」(KADOKAWA HP)。「われらは彼の奴隷  メキシコのカルテルに君臨した麻薬密売人のバルミロ・カサソラは、潜伏先のジャカルタで日本人の臓器ブローカーと出会う  二人は新たに臓器ビジネスを実現させるため日本へ向かった  川崎に生まれ育った天涯孤独の少年、土方コシモは、バルミロに見いだされ、知らぬ間に彼らの犯罪に巻き込まれていく  海を越えて交錯する運命も背後に滅亡した王国の恐るべき神の影がちらつく  人間は暴力から逃れられるのか。誰も見たことのない、圧倒的な悪夢と祝祭が、幕を開ける」(刊行本の帯)。

2021年9月3日金曜日

雑記

 メイン使用とするために新規購入したPCがやっと安定して動作するようになって2週間たった。もう大丈夫であろう。
 8月初めに買い換えしたNote PCにいろいろなソフトをインストールしたりしてカスタマイズしていたら、再起動がおかしくなり、購入先の電話サポートを受けても改善せず、そのうち“0”キーを押しながら立ち上げるとOKになり、それで様子見としたが 、暫くすると他の不具合も出た。不具合の原因となったソフトはほぼ特定したが、それをアンインストールしても異なる症状が出てしまった。本格的サポートを受ける予約まで取れるようになったが、予約まで4日間も待たねばならず、結局のところは初期化ということになるのではないかと予想し、我慢できずに手っ取り早く初期化することとした。 
 購入後すぐに準備しておいたリカバリーUSB作成は絶対に必要であることを再確認した。また、自我と何は弄りすぎると肥大化するが、PCは弄りすぎると暴走/自爆する。
 結局は工場出荷時の状態に初期化し、改めてMS Office、IME、その他もろもろのソフトをインストール。途中途中でインストールが完了するたびに動作確認をし復元ポイント作成を繰り返した。PC購入後、やっと安定して動くようにするには約2週間を要してしまった。その後もインストールが漏れていたソフトを導入し、その度に復元ポイントを作成し、Cドライブを丸ごとバックアップすることもここまで2回。トラブルのおかげでPC関連知識も僅かに成長した筈。
 
 ギターを鳴らして録音して遊ぼうかと、随分と久し振りに-10年以上振りに-宅録関連の器材を引っ張り出した。40年ほど前、子どもたちが遊んでいるところを録音するために購入したマイクロフォンは動作OKだが、安価な3ch ミキサーは1chがダメになっていた。廃棄する。残念だったのはMTRのBOSS BR-600で液晶表示が全くダメ。14年ほど前に興味本位で購入し、碌に使いこなさ(せ)なかったのであるがしようがない、これも廃棄。
 遊びたいので、YAMAHAのAG06/AG03を使用することとした。

 保有する数百枚のLPからは数多くデジタル化しており、それでもまだPCに入れていないものもある。それらをデジタル化しようと思い久しぶりに再開した。いつものことだが結構面倒くさい。再開に当たって最初は録音状態をチェックするために数曲録音し、改めてL/Rのバランスをみた。Rが強めであり、ターンテーブルの水平を厳密に調整し、次にアームのインサイド・フォース・キャンセラーを微調整。結果はgood。
 いざ録音となるとレコードのクリーニングから始まる。ゴミがひどいときは粘着ローラーで除去し、つぎは自作のクリーナー(無水エタノール+精製水+ドライウェル)で優しくクリーニングし、除電ブラシも使い、帯電防止/乾性潤滑スプレーも使う。表面の乾きを確認してやっと音を出す。それでも針先にゴミが溜るときはゴミを除去してから繰り返して針を落とすこととなる。
 ターンテーブルからはGT40α(Furutech)を介してAudacityで録音&デジタル化する。取り込んだファイルはAudacityで分割/不要部削除をし、正規化も施す。mp3の場合はMP3Gainで音量を整える。ファイルには自分のルールに従ってタグ作成/ファイル名リネーム(アプリはStep-K)。そして最終的に管理ファイルへの追記とファルダーへの格納、オーディオ機器へのコピー格納。
 新規PCではGT40αを認識してくれない。windows10のバージョンとの絡みもあるようだが、奥深い不具合現象のようで追求は諦め、アナログ・レコードのデジタル化はサブPCで行う。

  PCも関連する機材も進化=複雑化すると、不具合も多くなる。これはPCに限らず、機械装置も何もかもに当てはまる。公務員が多くなって役所システムが複雑化すると面倒が増えるし、複雑化する世の中に追随できない政治家(屋)が政治を語ろうとすると余計に複雑化して混乱することと事象的に同じ事と思う。
 政治家は自分の能力でうまく対処できないと自覚すると乱暴に単純化して力でねじ伏せようとする。鳴呼嘆かわしや。誰かがテレビでポピュリズムの政治家を批判していたが、ちょっと待って、人々=大衆の選挙投票数におもねるしかない政治家って皆ポピュリストじゃないのか。・・・ウィスキーを飲みながら書いていると愚痴っぽくなってしまう。ちょっと読みかけの小説を読んでから寝ようっと。でももう遅いか。