2026年4月24日金曜日

泣きっ面に蜂、『秘剣の名医』

 2月に1Fで使用しているノートPCが故障して修復不可となって1.5ヶ月前ほどに新規に購入したばかり。今度はiPad miniの画面タッチが反応しなくなった。これは瀕死の重傷でブート時のPINコード入力が出来ない。何もかもタッチ操作ができない、文字入力ができない、よって通常の電源オフもできない。強制リセット-再起動しても駄目、放電させてやり直してもダメで、完全にお手上げとなった。しょうがないので新規にRobtompの12インチAndroidタブレット(安価)を購入。国産品にしようか、著名メーカー品にしようか、等々と悩んだがこの中華品に落ち着いた。決め手は価格、FHD+、Widevine L1認証、標準的なRAM容量&メモリー容量、GMS認証、etc。数日稼働させているが快調である。
 泣きっ面に蜂で、今度は最近購入したイヤホンを破損させてしまった。4,000円強と安価なものだが音質が気に入って4.4mmバランス対応のリケーブルも追加購入し、50時間を超えるエージングもしたばかりであった。タブレットのType-CにDACを介して音を出した途端にとんでもない爆音でドライバーが破壊されたようである。原因はDACにあり、色々調べたら、このEarFun UA100の初期設定が音量90%/ゲインHighで、それを知らずに使用したらとんでもない音量がイヤホンに流れてしまった。新しいタブレットのボリュームが大きくなっていたことも絡んでいた。この現象に困っていた人がいて対処方法がネットに書き込まれていた。それはAndroidにEddict Playerをインストールし、音量半減とゲインLow設定をすることでOKとなるとのことだった。確かにそれで対処できた。しか~しだ、ユーザーマニュアルにはそんなことは一言も書いてないではないか、このヤロー。

 <永井義男 『秘剣の名医 二十 幕府検死官 沢村伊織』(コスミック・時代文庫、2026年)>:18年前の事件が気がかりになっている同心の意を汲んで人を訪ね回り、現在の事件に結びつけてすべてを明白に解き明かす。沢村伊織は推理を働かせ辰治親分とお蝶が動き回る。今までも辰治とお蝶は登場していたが2人が互いに交流するのは今回が初めて。伊織の妻お繁が妊娠した。

2026年4月14日火曜日

マンガと乙川さんの小説

 勝手気儘に自分の時間を取ることがはできない。自由とは、制限ある中で自分をどう拡げるのかその精神のあり方である、と考えているので、今の制限の中で作り出す自由を楽しもうと思っている。無論、現実との葛藤、浮き出る我儘などはあるが、それは外に出さないで受容することに努めている。
 以前よりは読書に割く時間は減っている。それでも関心ある本は買ってしまう。また、楽譜は作れどもEWIで演奏する曲は減る。なれども目標としていた100曲は先日達成した。課題は一向に上達していないEWI演奏だし、積ん読量もまた減らないことである。

 <畑中純 『まんだら屋の良太 愛蔵版1』(新潮社、スマートゲート,2023年/初出1979年~)>: 初出は1979(昭和54)年だから戦後昭和の中期の匂いがプンプンする。過去に触れたであろう空気感とバカバカしい懐古感というのが正直なところである。自分が30歳頃のことを振り返れば、何か違うような時代感覚という感じもしないではないが、多分描かれているのはもっと前の昭和30年前後という感覚を覚えた。すぐに消える一過性のノスタルジア。
 4月1日の朝日新聞「「ねじ式」の衝撃、表現者の心を鷲掴み つげ義春さん追悼 美術史家・明治学院大教授、山下裕二」の記事で興味を持って読んだ。

 <乙川優三郎 『立秋』(小学館、2024年)>:親の代から受け継いだ貸しビル業の生業で文筆にも時間を割く、裕福な光岡の漆工涼子との10年に及ぶ触れ合いを描く。
 家業は妻佳枝に任せ、奈良井の漆工である涼子とは塩尻の宿で逢瀬を重ねる。東京では美人で無愛想な寿美のバーに通う。光岡・涼子・宿の女中・寿美と言葉を交わす頁が多く、彼・彼女等の思慮や言葉が静謐の中に深く、艶やかな空気感に包まれる。いつもながら乙川さんの世界に引き込まれる。
 乙川さんの小説に登場する人物の世界がそれぞれに沈静で、例えば画家・木地師・染織・書評・装飾など美術・工芸・文筆などの芸術・文化に生きる人たちが多い。著者の芸術を見る眼差しと批評眼、文章で表現する描写力にはいつも感歎し、語彙の豊富さにはメモを取りながら小説の頁を開いている。
 しかし、今回のこの小説では主人公光岡に好感がもてなかった。涼子との会話の中に光岡の一段上から物事を見る視線とある種の不遜さを感じ、簡単に言えば鼻持ちならない人物を見てしまった。自然や目の前の人に向ける視線は静かで深みがあるのだが、発する言葉に共感を持てなかった。裕福で文才があり傲岸でもないのだが好きになれない人物とでもいえばいいのだろうか。
 乙川さんの小説には珍しい官能的な描写がることに些か戸惑った。炬燵の中で爪先をのばすシーンもある。次の文章に出遇ったときに新鮮な驚きがあった。「光岡は立った勢いで背後から涼子の両肩に手を置き、じきにそうすることが挨拶でもあるかのように片手を浴衣の中に滑らせていった。つんとした膨らみは無防備で、その先に弄びたくなる突起が待っていた。涼子は浴衣の上から自分の手を彼の手に重ねてじっとしながら花火を見ていた」。記憶は曖昧であるが、20歳前後に読んだ『忍ぶ川』(三浦哲郎)の裸で寄り添うシーンが頭に浮かんだ。

2026年4月12日日曜日

1960年代の映画2本

 久しぶりに字幕での映画、1966年制作の『太陽の爪あと』を観た。1960年代に多かった「太陽」の冠が付いた映画の一つで、それらの映画は思い出すだけで幾つかあげられる。すなわち、『太陽がいっぱい』(1960)、『太陽は傷だらけ』(1963)、『太陽のかけら』(1965)、『太陽の中の対決』(1967)、『太陽はひとりぼっち』(1962)、『太陽が知っている』(1969)などで他にもあるかもしれない。ポップスでも「太陽を探せ」、「太陽の下の18才」、「太陽にあたって」、「太陽に歌えば(太陽に歌って)」、「孤独の太陽」、「太陽の中に」、「太陽の彼方に」等々。原題と結びつく邦題があれば、全く結びつかないものもある。石原新太郎原作で「太陽族」なる言葉を流行らした映画『太陽の季節』(1956)の影響で「太陽のなんとか」が多かったのかもしれない。
 今回観た映画も原題は『The Shuttered Room』で、原題は映画のストーリーと謎ときに結びつくが、『太陽の爪あと』ってのはなんかねーという違和感を引きずる。内容は特に優れているということもなく、また駄作という思いでもなく、閉ざされた部屋に訳ありの人物が幽閉されているのだろうと察しは付く。見終わってしまえば陳腐な映画作りという感想も引きずる。5点満点の3.5点。23-4歳頃のCarol Lynleyは魅力的だった。

 続けて1964年の『震えて眠れ』(Hush... Hush, Sweet Charlotte)を観た。若いときからPatti Pageの歌を知ってはいたし、映画があることも知っていたので、正直やっとこの映画を観たという思いである。62年前の映画作りの古さは無論あるが、その古さに郷愁めいたものもなく純粋に当時の俳優の容子や台詞回しが楽しめた。現代の映画を観ることは殆どないし、見ようと思うのは1960年や70年代のものである。Marilyn Monroeの12枚組DVDは持っているしAnn-MargretのDVDも棚に並んでいる。やはり自分の若い頃を懐かしむ気持ちと、今の時代に馴染めない自分が混在しているのかもしれない。