2019年3月28日木曜日

10ヶ月ぶりに整形外科へ

 踵と足の甲に痛みが続いている。歩くと時折痛くなる。25日は三渓園に到着したときから痛みが出てきた。普通に歩けるからずっと放っていたがさすがに気になってきた。以前ジョギングをしていたときや数年前には右足の踵まわりが痛くなっていた時期があるが、今度は左足。整形外科に行ってレントゲンを撮ったら素人目にも分かる踵骨棘。たしか右踵が痛いときもそうだった。体重を下げるようにと医師からいわれたが、この年齢になると、いろいろな症状の原因には「加齢」と「体重」と言われることが多い。甲の痛みは筋ではなく骨であろうと言われるが顕著な原因は分かっていない。鎮痛剤をもらうほどではないので貼り薬のみ処方して貰い、暫くは足に負荷をかけないようにし、ストレッチも少しはやって様子をみることにする。以前同様に何とはなしにそのうちに痛みは消えるような気がするのだが・・・。

2019年3月27日水曜日

暇つぶしに三渓園へ

 25日、暇つぶしに横浜/三渓園に行く。10日程前にテレビの「路線バスで寄り道の旅」をながめていたら三渓園が映し出されていて、思い立って連れ合いと二人で行ってきた。横浜駅東口から本牧車庫前行きのバスに乗って車窓から横浜市内をながめ、約40分後には三渓園入口で下車。料金は一律216円で安価と感じる-短距離の乗車の人は高いと感じるかもしれない。

 一人700円の入園料を支払い園に入ると、カップルの結婚衣装での撮影が4組ほど目についた。気のせいなのか、花嫁の方は喜ばしい明るい表情が見られるが、なかには、早く終わらないか、というような疲労感も漂わせている花婿もいた。
 桜はまだ咲き誇っているという華やかさはなく、幾ばくかものたりない。でも近くにこのような庭園があれば散歩がてらにこの美しい景観に身を置き、つまらない世情などから距離をおいて気分を転換し、落ち着いた心持ちになれるのも比較的容易であるかもしれない。一通り池の周りを歩き、桜を眺め、大きな口を開ける鯉を面白がる-餌をもらえるものだから人がいれば開いた口を水面に出すことが習性になっている。
 園内では最初に食事を摂ったが美味しくはなかった。歩き始めのころは広い庭園と感じたが、歩を進めて一周すると大した広さでもなく、物足りなさも感じる。でも、この庭園が私的な所有物で誰もはいれない場所であるならば、それはもう一つの閉じられた広い空間である。

 東南アジアで見られる、黄色い布に身を包んだ僧侶が二人おり、団体旅行のグループからは英語の会話が聞こえ、中国の言葉があちこちから聞こえてくる。日本人よりは海外からの来園者が多いようである。だんごや屋では会計を巡って支払いに納得できずにいる中国人の若い女性がおり、店の女性は英語も通じないし、計算も出来ないようだしと困っていた。
 帰りにバスを待っていたときもバス停では数人の日本人と、多勢の中国人がいて、将来の日本ではどこでもこのような情景が日常的になるのであろう。

 往路と同じ路線のバスに乗り、殆ど居眠りしたままに横浜駅に到着し、久しぶりに賑やかな場所に立ったこともあり、東口をブラブラし、いくつかの食品を購入し電車に乗った。

 帰宅後、疲れをほぐすために(?)、13日以来に酒精を体にしみ込ませた。12日ぶりの飲酒。さほどの量は飲んでいないがいつもよりは早い眠りに就いた。

2019年3月24日日曜日

乙川優三郎の小説を2冊つづけて読む

 <乙川優三郎 『二十五年後の読書』(新潮社、2018年)>:サブタイトルのように表紙に記されている言葉は「After Years Of Wandering The First Blow」。本作品のあとに続けて『この地上において私たちを満足させるもの』が刊行された。
 主人公は響子。学生時代から付き合いのあった男に冷たい仕打ちをうけ、旅行業界紙の会社に勤務中にパラオで谷郷(作家としては三枝)と出会い、以来妻と別居している彼とは文学を介在させて関係を続けている。会社を退社してからは書評家として評価を得ている。カクテルが好きで、コンペティションに出すカクテルのアイディアも出す。谷郷は病気になった妻の面倒を見るためにイタリアに去ってしまう。その後、「男と旅と病の人生でしかなかったのかと自嘲する気持ち」になった響子は病にもおかされ、「脱力した足首をもう一方の足で摩りながら」「同時に擦り寄ってくる自滅の不安とも闘わなければならな」くなり、スールー海に向かいそこで時間を過ごす。南海の地にいる57歳の響子のもとには、小説家になって25年後の谷郷の小説が届く。その小説のタイトルは「この地上において私たちを満足させるもの」であった。
 乙川さんの小説を読むと、いつもそうだが、人物の深いところまで見通した視線でもって情景を描写し、その豊富な語彙もあって透き通った落ち着いた文章に惹かれっぱなしになる。例えば、「平凡な器に情欲と理性をそそいで掻き混ぜると後悔というカクテルになる。ふさわしいガーニッシュは逃避か盲信であろう」。物語のなかにはめ込まれたこういう文章にはなかなか出遇わない。読んでいるなかで、ときおり文字を追う目がとまる。そして読み返す。
 響子の夢の描写が楽しめた。「あるとき夏目が「漱石論」を手に大きな欠伸をし、川端がわけもなく目を剝き、太宰がふてくされるそばで遠藤と三浦がにやにやしている。司馬に噛みついている山本に向かって、そんなことより俺がどこにいるのかはっきりさせてくれ、と泥酔した野坂がつっかかかり、私の膝よ、極楽でしょう、と宇野が答える。ふくれっつらの尾崎が「雨やどり」を読み耽り、となりで向田が「人生劇場」の会話を直している。文学などそっちのけで脱走を企む壇と水上を背もたれにして、吉行と安岡が女流の着物の下を値踏みしていると、有吉が芝木と宮尾の間に割り込んできて、なんで私を見ないのよと怒り出し、俺なんか開高に山椒魚を釣られちゃったよ、と褞袍の井伏が加わり、まあまあ、みなさん、俗念は措いて愉しくやりましょう、ぼくらも歴史になっちゃんだから、と吉村が宥める」。他にも登場させてほしい作家はいるのだが、例えば太宰をを出すなら安吾や石川淳もいいだろうし、織田を加えてもいい。庄野も、そして阿川や島尾ではひねりを加味してちょいと捩ってしまう効果も期待できたかもしれない。もっとも彼らを登場させなかったのは作者の関心の強弱差なのかもしれない。
 手軽に作れるカクテル、「ワンフォースリー」を作って飲んでみよう。「ジン、ビール、コークを1対4対3にして、氷を入れた大きめのグラスにそそぐ」のだが、この場合コークはコカなのかペプシなのか、はたまたレギュラーなのかダイエットコークなのか、と迷いがふと頭に浮かんだ。
 尚、作者は本書の装幀にも名を連ねている。続けて『この地上において私たちを満足させるもの』を開こう。

 <乙川優三郎 『この地上において私たちを満足させるもの』(新潮社、2018年)>:本書の表紙には「After Years Of Wandering The Second wave」。連作短編集の形式をとっているが、実際は一遍の長編小説である。主人公である高橋光洋は、祖父母が東京から疎開して千葉に移住しそこで生れている。高校卒業後に務めた製鉄所を若くして退職し、ワンダラーとなってフランスやスペインなどを経てフィリピンでホテルに勤務する。心臓に持病があり、若いときから40歳までを人生の一つの区切りとしていた。日本に帰国してから40歳を過ぎて小説家としてデビューしている。東京を離れてからは房総に居を構えた。この経歴は著者を反映していると思われる。すなわち、著者は東京生まれですぐに千葉県に移住したこと、内外のホテルに勤務していたこと、本書の舞台の一部であるフィリピンに関しては『R.S.ヴィラセニョール』がある。また、房総を舞台にした小説を多く書いているし、作者自ら書いているように体が弱いことも本書の主人公と同様である。
 弱者に対する著者の眼差しが優しく柔らかく、読んでいてしっとりと落ち着く。底辺の経済状況にあっても政治や世知辛い世の中を上手に世渡りする人たちを責めるでもなく、愚痴るわけでもない。おかれた状況から脱却し、未来に向かって懸命に生きている人たち、直向きに生きている人たちに心を向ける。日々を生きるための生活がある。その生活の中に自分のあり方を見詰め続ける人生がある。作者はそのような生活・人生に視線を向けていると思う。
 描かれる女性たち-急逝する早苗、常に学んでいて養女になるソニア、ミャンマーから来ている賢いウェイトレスのウィンスー、みな魅力ある女性である。そして本作も前作もそうだが、描かれる女性たちは酒を楽しむ。そのような女性たちの存在が羨ましい。
 2冊続けていい小説に触れることができて、充足感に充ちている。


2019年3月23日土曜日

雑記

 22日、5年ぶり(?)に眼鏡を新調。常時使用していたうちの調光レンズの眼鏡を壊してしまったためで、新しい眼鏡は前とは違って可視光にも反応する調光レンズにした。遠視側が少しすすんでいる以外、レンズ仕様は殆ど変わっていない。

 22日の今日で一滴のアルコールも飲んでいない日は連続9日となった。そしてそのせいだけではないが、体重も約1kg強減っており安定している。両者とも維持性には疑問がつきまとう。

 ここ10ヶ月ほど、積極的にウォーキングはせず、リビングあるいは自室で同じ姿勢を続けていることが多い。自室で小説などの本を読むときは音楽も流さない。流そうとしても集中力を削がれてしまうことが多くなった。サティのいう「家具の音楽」がなかなか成立しないようになっている。音楽を流すときは必然的に軽い雑誌などを拡げるか、何もせずに目をつぶっていることとなる。
 齢を重ねると色々な場面でのキャパシティは小さくなり、集中力の束も緩くなっているようである。

2019年3月21日木曜日

花(つづき)

 庭の樹木に咲く花をアップで撮る。蕾が開いたばかりの花は瑞々しくて美しい。枯れ木に近づいている側から見れば、弾ける若さ、振り向かれる美しさというものは変えることのできない過去を眺めるようでもある。




2019年3月20日水曜日

雑感

 久しぶりに鉱山関連のブログに書き込んだ。内容は鉱山用語とも言える「硑」の字に関する簡単なメモ。

 違法薬物で俳優が逮捕され、出演作品の公開に様々な賛否が発せられている。今日は東映が手を加えずに映画を公開することを決定し、それもまたニュースとなっている。
 俳優一人が法を犯したとはいえ何故に色々な人が関った作品を埋没、否、隠してしまうのかさっぱり理解できない。甲子園野球でも一人あるいは数人の個人的不祥事(あるいは犯罪)でその高校が出場辞退となる。他のメンバーはやりきれないだろうし、原因となった人には法以上の罪科を負わせてしまう。日本人の集団主義、同調性、画一的思考性、ムラ社会、云々という理由はあるだろうが、それらをいくら説明されても理解できない。納得できない。政官の隠蔽体質と同質同類の気がする。
 また、「作品に罪はない」、「音楽に罪はない」というコメントにも違和感がある。作品を社会から抹殺することを日本の思考性のなさという人がいるけれど、それこそ、作品や音楽といった存在にその罪を語ること自体が思考性のなさを露呈していると思う。逆に言えば、もし作品に罪がある、音楽に罪があるとするならばそれははどういうことを言うのだろう。そいう例があるのならそれも語ってほしい。すべて人間が作っているのだから問われるのは人間でなければならない筈である。
 もう一つ、作品、例えば映画で言えば、主演者が犯罪を犯して非公開になるとき、そこに出演していた主演者以外の人たちはなぜ非公開とする対応への怒りの声をあげないのだろうか。映画の中で演じた彼らの矜持-映画を見てもらってこその誇り-はどういうものだろうかと疑問を抱く。

 暖かくなった。隣の土地に梅が咲いているし、自宅の庭の木々にも花が析いてきたし、桃のつぼみも膨らんできた。




2019年3月19日火曜日

ミステリー2冊

 <深町秋生 『探偵は女手ひとつ―シングルマザー探偵の事件日誌』(光文社文庫、2016年、初出2012-16年)>:舞台の中心は山形市。あとは東根や米沢、仙台は国分町がちょいと出てくる。カギ括弧で括られる会話はすべて山形弁で、警察署員もヤクザも元ヤンキーも鋭利な棘がほんわかと柔らかい真綿で包まれている。厳しい冬のシーンや美味しそうな東根のさくらんぼも描かれて山形色満載。楽しめた。この6編、テレビでのミステリー・シリーズに相応しい-是非とも字幕付きで。その際、主人公は30代後半なので山形県出身であっても、間違ってもあき竹城や渡辺えりではなく、迫力には欠けるけれど橋本マナミならギリギリ許容範囲か。

 <横山秀夫 『ノースライト』(新潮社、2019年)>:著者の本は6年ぶり11冊目。物語を思い出すキーワードは、ダム設計/渡り/ブルーノ・タウト/椅子/親子/夫婦/贖罪、そしてノースライト-北からの光を取り入れる家。読み始めてから主人公の建築に関する思いが長く綴られる。バブルが弾けて設計事務所を退所し、拾われた小さな事務所で「あなた自身が住みたい家を建てて下さい」と発注されて建てた信濃追分のY邸には誰も住んでいない。そこで見つけた椅子がブルーノ・タウトに繋がり、そこからY邸設計発注者の探索がはじまる。最期の1/3で物語は急速に進み、人が抱える贖罪・悔恨・情愛が、それこそ朝のノースライトに柔らかく暖かく包まれる。
 前半の建築に関する記述に少々倦いたりもしたが、頁を捲る手は休まずにこの長篇をほぼ一気読みした。読書の楽しみ、人に向ける著者の優しい視線が感じられた。

2019年3月15日金曜日

雑記

 11~12日、連れ合いは友人と伊東。13日は15時からMuKoと柏で飲む。彼とは昨年の2月以来で、柏の駅は10年以上振りになろうか。14日は前日の飲み疲れで何もせず。
 パリバ・オープン・テニス、錦織はベスト16に進めず、大坂と西岡はベスト8ならず。大坂さんは勝ち負けの差が大きい。勝つときは完勝で負けるときは完敗。1stサービスが入らないとあっさりと負けパターンに入ってしまう。

江戸から東京へ、新書2冊

 <横山百合子 『江戸東京の明治維新』(岩波新書、2018年)>:章立ては、第1章/江戸から東京へ、第2章/東京の旧幕臣たち、第3章/町中に生きる、第4章/遊郭の明治維新、第5章/屠場をめぐる人びと。
 江戸から東京への変化を、政治史的ではなく、生活社会史的な視点で見てみたかった。
薩摩藩がはたらく乱暴狼藉、踏み倒しにも声を潜めて様子をみていた江戸庶民は、一日で彰義隊を壊滅した新政府軍に威圧され、裃・袴で登城した武家たちの情景から、うってかわって公家たちの通勤姿を目にするようになった。大名小路に薩長が屋敷を構え、武家たちが去って人口が4割近くも減ってしまい、江戸は荒廃した。そのように様変わりした江戸で人びとが生きていたであろう時代に思いが馳せられる。本書ではそれらが小説のように具体的に活写されるわけではないが、いままでに触れた歴史書よりはその時代の人びとの生活が身近なものとして想像できた。
 より興味深く引きつけられて読んだのは「第4章 遊郭の明治維新」で、特に「第3節 遊女いやだ-遊女かしくの闘い」。越後から売られてきた”かしく”が転々と遊女屋に売られ続け、明治になって抜けだそうとして訴え続けても却下される。単にそれだけならば陳腐な悲劇の物語になるのであるが、訴えることが出来た背景、抜け出せないシステムと経営者の強かさ(狡猾さ)、等々が論じらる。次のように論じられているのは鋭いと思うし得心する。すなわち、「維新後の近代には、それまで見られた遊女への共感や同情、ある種の憧れは消え、蔑視が前面に現れてくる。そして、その蔑視のまなざしは、娼婦自身に自らの経験を消すことのできない汚点として内面化することを迫った。それは、娼婦たちを、自ら声を上げることのできない位置へと追いやっていくであろう。遊郭の明治維新は、そのような転換への出発点でもあったのである」。
 また、身分の新しいとらえ方として「身分集団」という考え方が新鮮である。いままでは支配する側とされる側という視点で見ることが多く、支配する側からの「身分的統治」に馴染んでいた。しかし、「身分集団」には強いられる自律性よりも、町中や村中に生きた人びとの自発的な自律性が感じられる。

 <松山恵 『都市空間の明治維新-江戸から東京への大転換』(ちくま新書、2019年)>:「おわりに」にて、「横山先生の御本、それに次いで本書というかたちで、できるだけ多くの人たちに手にとってらもらえたらと、切に願っている」と記しており、ここでいう「横山先生の御本」とは前記の横山百合子『江戸東京の明治維新』をさしており、それにぴったりと嵌まってしまった。横山の新書は後半は身分制へと論の転換が図られおり、松山の本書では最初から最後まで武家地がどのように変化していったのかが、地図(絵図)などの史料を用いて解き明かされる。年代の異なる地図から都市空間の移り変わりを掴み取り、そこに新政府の政策や事件を肉付けし、維新直後の江戸から東京への移行を推定していく。パズルを当てはめていくようでもありとても興味があり、自分でもやってみたい、その作業に没頭することが羨ましくさえ感じてしまう。
 「おわりに」にて、現在の政府の明治への礼賛-簡単に言えば「明治の日」制定の動き-へ筆者は強い疑問/戸惑いを呈している。その理由は明快である。「数百年にわたる江戸時代をへて始ったはずの明治という時代を」「最初からほ一色で、しかも現在(現政府の立場)からみてもっぱら輝かしい出来事の集まりと位置づけている」、そして歴史研究者の立場からは「いま起きている事態は、維新期に関するこれまでの研究蓄積の薄さが招いた結果でもあるように思われるのだ」と捉えている。明治に入り薩長中心の政権運営があり、江戸時代をネガティブに断じてそのときの政権を正当化する。それは現政権が何かにつけ、前の政権を悪夢と称し、その時からは格段に良くなっていると断定する、このパターンと酷似していると思われる。「維新期に関するこれまでの研究の薄さ」は時の政権を持ち上げ、いろいろな意味で忖度し続けた結果であろうし、そうすることで保身せざるを得なかった状況が構築されたからでもあろう。維新期は激動の時代でもあり、急進性を求まられた時代でもあり、だからこその試行錯誤もあった。そして明治20年代で江戸期徳川文化は衰退し、東京明治文化へと大きく変化したと思っている。

2019年3月9日土曜日

本2冊

 <小嶋独観 『奉納百景 神様にどうしても伝えたい願い』(駒草出版、2018年)>:宗教への信仰心は極めて薄いし、神・仏を信じる心も基本的はない。何かに願をかけることもない。だから社寺に足を運ぶときも神・仏に気持ちを寄せるのではなく、そこに関ったであろう人々の暮らしや歴史的営みに思いを馳せることが中心となる。本書は文章を読む前にまずは写真に目をとめ、そこに写し出される人々の何かにすがる空間に滑稽さを感じる。中にはどうしても居心地の悪さ-気持ち悪さ-を感じるものもある。もっとも関心を引くのは「性」に関るもので巨大な男根をさらけ出している道祖神。豊作を祈願して田圃の畔道で男性器と女性器に模した藁を交合させ、角度がどうのこうのと言いながら作り上げるのは楽しそうで、また自然への人々の切なる願いと崇敬があってなんとも言えない邪気のない姿である。
 何かにすがりたい、なにかに従いたいという本性は人間の生活にまとわりついているものだろう。

 <田中圭一 『村からみた日本史』(ちくま新書、2002年)>:著者の本は『百姓の江戸時代』(2001年)、『日本の江戸時代』(1999年)以来の3冊目。もちろん百姓(農民だけではない)に視座をおいている。一般的な村の江戸時代観は、明治新政府が創造した視点を築き上げ、あるいは資史料を表層的に捉えて、都合の良い解釈に落とし込んでいると論じる。江戸時代という歴史をみるときには、どうしても武士=政治権力者からみた歴史をみることが多い。これは明治期以降に構築された教育システムの影響でもあり、安易なテレビドラマであり、深層にはそこに引き込まれてしまう人びとの性(さが)もあろう。
 人間は、何事に付けて権威者や権力側の理屈に忖度をし続ける。まぁ、こう言っては身も蓋もないだろうけれど間違っているとは断言できない。また、明治に入った飛騨高山の農村を描いた小説、江馬修『山の民』を思い浮かべれば、農村は明治に入ってから強く虐げられたのではないかと思わざるを得ない。大きなシステムに組み入れられた人びとの辛苦のありかたは何も江戸時代を見ずとも今でも同じように諸処の国家で確認できることである。
 百姓は村に縛られ続け、武士に搾取され、悲惨な-生かさず殺さず-の生活を止むなくされていたというティピカルな江戸期百姓観には与しない。

雑記

 「Surface 3の充電が円滑になされず、この不具合、ネットで調べるとかなりヒットする。原因を探っていたが、結局はドライバでもなく、付属USB充電ケーブルを変更したら修復できた」と2月7日に書いたが、それは一時的なもので結局はもとの悪しき状態に戻った。これではSurfaceを使用するときはバッテリー残量を気にせねばならず、ドライバー入替やプログラム更新をやっては見たが結局はダメ。昨年のまだまともだった7月の状態にWindows10を復元してみたがダメ。
 手間がかかるのでやりたくなかったが、最終手段として3月7~8と2日間にわたり回復ドライブUSBでSurfaceをリセット。バックアップアプリをインストールしたところで一旦この状態をバックアップし、OfficeやATOKを再インストールして先ずは終了。この状態で「電源に接続 充電していません」は解消し、通常使用でも充電されることを確認。USB充電ケーブルを純正に戻しても、あるいは他のケーブル、あるいはAC充電アダプターを非純正品にしてもOK。アプリはすべて入れ直しになるが先ずはこれで修復された。ハード的故障かと思うこともあったが、多分ソフト上の問題。このトラブル結構あるみたい。

 8日、70歳の誕生日まであと一月となり、60代でいられるのも僅かとなった。60歳になったときから年齢を強く意識するようになったが、70代に入れば今度は余計に残された年数を意識するようになるであろう。
 娘の娘に誘われて-ある意味強要されて-、連れ合いと共にトランプやUNOで遊ぶ。神経衰弱のゲームでは勝つことはまずない。記憶力の低下はどうしようもない。

2019年3月4日月曜日

本3冊

 <濱田浩一郎 『日本会議・肯定論!』(たちばな出版、2018年)>:自民党や安倍首相を応援している著者による主張。日本会議に抗する人たちへの論理的で濃い内容の反論かと期待したが浅い内容。読んだ時間と書籍費用が無駄だった。

 <堤隆 『ビジュアル版 旧石器時代ガイドブック』(新泉社、2009年)>:4万年前から1万5千年前までの旧石器時代に空想の羽を広げて人を思い浮かべてみようとした。有史の物語は数千年しかなく、それよりも遙かに長い間、ヒトは石器を手にして活動してきた。気の遠くなるような、繰り返される原始的生の営みはどんなものだったのだろう。描かれる絵に妙に現代を感じてしまう。

 <堤隆 『黒曜石 3万年の旅』(NHKブックス、2004年)>:黒曜石そのものの物語であり、著者の黒曜石を追う物語でもある。随分前になるが、黒曜石を実際に手に取って見たときは漆のような光沢(江戸期には漆石とも呼ばれた)、ナイフのような刃に魅せられた。
 石器と言えば、2000年の毎日新聞スクープの「前・中期旧石器遺跡捏造事件」が思い出される。あの問題の中心は個人の異常性にあるが、実態はそれを取り巻く組織としての未熟さ愚かさを露呈していた。その構造はいまも連綿と続いている、否、増幅されている。

2019年3月3日日曜日

windows10クリーンインストールの不具合

 複数のPCを併用している。すべてwindowsで、①windows7→windows10にアップグレード、②windows8.1→windows10へのアップグレード、③プリインストールwindows10の3台。他に連れ合いのPCはwindows7であるが、このPCは実使用状況をみればオーバースペック甚だしく勿体ない。時折サポートするときの利便性を考慮して購入したようなもの。
 上記③のPCは全く問題なく使用しているが、①と②には多少の不具合がある。もっとも不便なのはメインに使用している①はSonyのNW-WM1Aを認識してくれないこと。メーカーに問い合わせるとアップグレード版のwindows10では認識しない場合があり、保証していないと言われた。NW-WM1Aは②あるいは③に接続している。②の場合でもmicroSDカードを抜かないと本体は認識されない。
 ①と②をクリーンインストールすれば何か変わるのかも知れないと思った。が、新たにwindows10を購入してやるものなのか、あるいは既にアカウントもあるからダウンロードしてやるものものなのか、両者の違いが分からない。新規に購入すれば結構な価格もするので先ずはダウンロードしてクリーンインストールしてみた(要は現状への上書き)。そうしたならば今度はSonyのHAP-Z1ESも認識しなくなった。Canonのスキャナーソフトも操作できなくなった。これには全くうんざり。
 結局は、PCを丸ごとバックアップしているHDDからすべて復元して以前のwindows10にもどした。新規にWindows10を購入してもプリインストール版のPCと同じようにはなるまい。そもそもこのPC独自のドライバーにも苦労したことがある。というわけで労多くして効果はなにもなし。不便がなかったらグレードアップもしくはバージョンアップはすべきではなく、ホントにやりたかったら新規にプリインストールされたPCを購入すべきという教訓(?)を得ただけ。まったくもって面倒くさいことをやってしまった。

2019年3月1日金曜日

漢字(部首)、会津

 2冊の本を読む。クレジットカードのポイントが貯っているからと本4冊を発注。いつまで経っても未読の本がなかなか減らない。

 <阿辻哲次 『部首のはなし2』(中公新書、2006年)>:続けて読んだ本書は52の部首とそれにまつわるエッセイを載せている。面白い。文系の中に分類される漢字の文字学ではあるが、理屈から成り立つ漢字は理系の要素が詰っている。ある種の法則から成り立っているからこそ漢字は面白い。中学・高校時代にこの面白さに触れていたなら大学進学時に機械工学とは異なった進路を選んでいたのかもしれない。会社勤めのときに同僚に、文学部機械工学科出身と揶揄された自分の性癖がそのときから今も続いているようである。

 <鈴木荘一 『幕末会津藩 松平容保の慟哭』(勉誠出版、2018年)>:サブタイトルに「北方領土を守った男たちの最期」。利尻に行ったとき、ペジ岬展望台に会津藩士の墓三墓が建てられており、横にある説明書きには「水腫病」や「文化5年」、「高田村」や「駒坂村」の文があり、これらを見たときには遠き江戸期の北端で死ななければならなかった会津藩士に思いを馳せた。
 吉田松陰は好きでない。萩の松陰神社に立ち寄ったとき、そこにある「恕」を「いかり」と読んで松陰を賞賛するオバサンに苦笑したことがある。松陰が儒学・古学から始まって蘭学/洋楽や水戸学に触れるも結局は(当時の知識人たちとは違って)振り出しの儒学・古学に戻った要因が、松陰の知的貧困・理解力不足にあるとする本書は論理的である。
 松平春嶽も嫌いで、狡猾で臆病で卑怯であると思っている。本書で松陰や春嶽はボロクソに書かれており、西郷や松陰、春嶽ファンは本書と著者をけなすだけであろう。
 唐突に思い出した歌がある。つボイノリオの「吉田松陰物語」は次元の異なる傑作。
 近現代史で最も関心が深いのは1945年の敗戦前後であり、その戦争に至る過程を振り返ればどうしても幕末・明治維新をみなければいけない。それは現代にもつながることだが、明治維新になってこの国は方向性を過ち、戦争を導き、今も続いていると感じているからである。本書はそれを簡潔に述べている。
 サブタイトルの「北方領土を守った男たちの最期」とは、幕末期に北海道で命を絶った会津人を思うだけではなく、維新以降の政治が結局は北方領土を失ってしまったことを指し、現政府が返還に動いてもどうにもならずにいる今を、会津藩士から見れば「我々が守った北方領土は最期にはこんな状態になっているかの」と歎いていることを意味していると捉える。

漢字、CD

 24日で娘の息子への漢字レクチャーを終了。今回は量が多く、テキスト準備に述べ3日を要した。漢字を記載して手書きでメモを付記しているテキスト(pdf)が合計して700枚ほどになり、記載漢字をファイル名にして検索を容易にした。それにも丸一日を要し、なかなかいい漢字テキストであると自賛。

 久々にCDを購入。木野雅之/イレイニ/ハンガリー交響楽団のベートーヴェン ヴァイオリンコンチェルト/ロマンス2曲、約2万円などという高価な値をつけているショップもあるが、それよりも一桁少ない価格で購入できた。シェリング/ハイティンク/コンセルトヘボウのものと聞き比べて楽しむ。ロマンスはまだ聞き比べていないが、コンチェルトはシェリングの方が柔らかく澄み渡り、溶け込んで入ってくる。
 年齢を重ね、何かしらやることを急いている自分がいて、その所為であろう、昔みたいに何もせずにただ聴くだけという余裕がなくなってきている。

 <阿辻哲次 『部首のはなし』(中公新書、2006年)>:漢字の部首を軸としたエッセイ。50個の部首が載っている。漢和辞典や部首の辞典を読んでいるよりは面白く読める。例えば結婚した二人の関係を中国笑話集から引いているところは、既に知っているとはいえ、やはり面白い。すなわち”北→比→臼”の漢字遊び。