2019年3月9日土曜日

本2冊

 <小嶋独観 『奉納百景 神様にどうしても伝えたい願い』(駒草出版、2018年)>:宗教への信仰心は極めて薄いし、神・仏を信じる心も基本的はない。何かに願をかけることもない。だから社寺に足を運ぶときも神・仏に気持ちを寄せるのではなく、そこに関ったであろう人々の暮らしや歴史的営みに思いを馳せることが中心となる。本書は文章を読む前にまずは写真に目をとめ、そこに写し出される人々の何かにすがる空間に滑稽さを感じる。中にはどうしても居心地の悪さ-気持ち悪さ-を感じるものもある。もっとも関心を引くのは「性」に関るもので巨大な男根をさらけ出している道祖神。豊作を祈願して田圃の畔道で男性器と女性器に模した藁を交合させ、角度がどうのこうのと言いながら作り上げるのは楽しそうで、また自然への人々の切なる願いと崇敬があってなんとも言えない邪気のない姿である。
 何かにすがりたい、なにかに従いたいという本性は人間の生活にまとわりついているものだろう。

 <田中圭一 『村からみた日本史』(ちくま新書、2002年)>:著者の本は『百姓の江戸時代』(2001年)、『日本の江戸時代』(1999年)以来の3冊目。もちろん百姓(農民だけではない)に視座をおいている。一般的な村の江戸時代観は、明治新政府が創造した視点を築き上げ、あるいは資史料を表層的に捉えて、都合の良い解釈に落とし込んでいると論じる。江戸時代という歴史をみるときには、どうしても武士=政治権力者からみた歴史をみることが多い。これは明治期以降に構築された教育システムの影響でもあり、安易なテレビドラマであり、深層にはそこに引き込まれてしまう人びとの性(さが)もあろう。
 人間は、何事に付けて権威者や権力側の理屈に忖度をし続ける。まぁ、こう言っては身も蓋もないだろうけれど間違っているとは断言できない。また、明治に入った飛騨高山の農村を描いた小説、江馬修『山の民』を思い浮かべれば、農村は明治に入ってから強く虐げられたのではないかと思わざるを得ない。大きなシステムに組み入れられた人びとの辛苦のありかたは何も江戸時代を見ずとも今でも同じように諸処の国家で確認できることである。
 百姓は村に縛られ続け、武士に搾取され、悲惨な-生かさず殺さず-の生活を止むなくされていたというティピカルな江戸期百姓観には与しない。

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