2019年3月24日日曜日

乙川優三郎の小説を2冊つづけて読む

 <乙川優三郎 『二十五年後の読書』(新潮社、2018年)>:サブタイトルのように表紙に記されている言葉は「After Years Of Wandering The First Blow」。本作品のあとに続けて『この地上において私たちを満足させるもの』が刊行された。
 主人公は響子。学生時代から付き合いのあった男に冷たい仕打ちをうけ、旅行業界紙の会社に勤務中にパラオで谷郷(作家としては三枝)と出会い、以来妻と別居している彼とは文学を介在させて関係を続けている。会社を退社してからは書評家として評価を得ている。カクテルが好きで、コンペティションに出すカクテルのアイディアも出す。谷郷は病気になった妻の面倒を見るためにイタリアに去ってしまう。その後、「男と旅と病の人生でしかなかったのかと自嘲する気持ち」になった響子は病にもおかされ、「脱力した足首をもう一方の足で摩りながら」「同時に擦り寄ってくる自滅の不安とも闘わなければならな」くなり、スールー海に向かいそこで時間を過ごす。南海の地にいる57歳の響子のもとには、小説家になって25年後の谷郷の小説が届く。その小説のタイトルは「この地上において私たちを満足させるもの」であった。
 乙川さんの小説を読むと、いつもそうだが、人物の深いところまで見通した視線でもって情景を描写し、その豊富な語彙もあって透き通った落ち着いた文章に惹かれっぱなしになる。例えば、「平凡な器に情欲と理性をそそいで掻き混ぜると後悔というカクテルになる。ふさわしいガーニッシュは逃避か盲信であろう」。物語のなかにはめ込まれたこういう文章にはなかなか出遇わない。読んでいるなかで、ときおり文字を追う目がとまる。そして読み返す。
 響子の夢の描写が楽しめた。「あるとき夏目が「漱石論」を手に大きな欠伸をし、川端がわけもなく目を剝き、太宰がふてくされるそばで遠藤と三浦がにやにやしている。司馬に噛みついている山本に向かって、そんなことより俺がどこにいるのかはっきりさせてくれ、と泥酔した野坂がつっかかかり、私の膝よ、極楽でしょう、と宇野が答える。ふくれっつらの尾崎が「雨やどり」を読み耽り、となりで向田が「人生劇場」の会話を直している。文学などそっちのけで脱走を企む壇と水上を背もたれにして、吉行と安岡が女流の着物の下を値踏みしていると、有吉が芝木と宮尾の間に割り込んできて、なんで私を見ないのよと怒り出し、俺なんか開高に山椒魚を釣られちゃったよ、と褞袍の井伏が加わり、まあまあ、みなさん、俗念は措いて愉しくやりましょう、ぼくらも歴史になっちゃんだから、と吉村が宥める」。他にも登場させてほしい作家はいるのだが、例えば太宰をを出すなら安吾や石川淳もいいだろうし、織田を加えてもいい。庄野も、そして阿川や島尾ではひねりを加味してちょいと捩ってしまう効果も期待できたかもしれない。もっとも彼らを登場させなかったのは作者の関心の強弱差なのかもしれない。
 手軽に作れるカクテル、「ワンフォースリー」を作って飲んでみよう。「ジン、ビール、コークを1対4対3にして、氷を入れた大きめのグラスにそそぐ」のだが、この場合コークはコカなのかペプシなのか、はたまたレギュラーなのかダイエットコークなのか、と迷いがふと頭に浮かんだ。
 尚、作者は本書の装幀にも名を連ねている。続けて『この地上において私たちを満足させるもの』を開こう。

 <乙川優三郎 『この地上において私たちを満足させるもの』(新潮社、2018年)>:本書の表紙には「After Years Of Wandering The Second wave」。連作短編集の形式をとっているが、実際は一遍の長編小説である。主人公である高橋光洋は、祖父母が東京から疎開して千葉に移住しそこで生れている。高校卒業後に務めた製鉄所を若くして退職し、ワンダラーとなってフランスやスペインなどを経てフィリピンでホテルに勤務する。心臓に持病があり、若いときから40歳までを人生の一つの区切りとしていた。日本に帰国してから40歳を過ぎて小説家としてデビューしている。東京を離れてからは房総に居を構えた。この経歴は著者を反映していると思われる。すなわち、著者は東京生まれですぐに千葉県に移住したこと、内外のホテルに勤務していたこと、本書の舞台の一部であるフィリピンに関しては『R.S.ヴィラセニョール』がある。また、房総を舞台にした小説を多く書いているし、作者自ら書いているように体が弱いことも本書の主人公と同様である。
 弱者に対する著者の眼差しが優しく柔らかく、読んでいてしっとりと落ち着く。底辺の経済状況にあっても政治や世知辛い世の中を上手に世渡りする人たちを責めるでもなく、愚痴るわけでもない。おかれた状況から脱却し、未来に向かって懸命に生きている人たち、直向きに生きている人たちに心を向ける。日々を生きるための生活がある。その生活の中に自分のあり方を見詰め続ける人生がある。作者はそのような生活・人生に視線を向けていると思う。
 描かれる女性たち-急逝する早苗、常に学んでいて養女になるソニア、ミャンマーから来ている賢いウェイトレスのウィンスー、みな魅力ある女性である。そして本作も前作もそうだが、描かれる女性たちは酒を楽しむ。そのような女性たちの存在が羨ましい。
 2冊続けていい小説に触れることができて、充足感に充ちている。


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