2019年3月15日金曜日

江戸から東京へ、新書2冊

 <横山百合子 『江戸東京の明治維新』(岩波新書、2018年)>:章立ては、第1章/江戸から東京へ、第2章/東京の旧幕臣たち、第3章/町中に生きる、第4章/遊郭の明治維新、第5章/屠場をめぐる人びと。
 江戸から東京への変化を、政治史的ではなく、生活社会史的な視点で見てみたかった。
薩摩藩がはたらく乱暴狼藉、踏み倒しにも声を潜めて様子をみていた江戸庶民は、一日で彰義隊を壊滅した新政府軍に威圧され、裃・袴で登城した武家たちの情景から、うってかわって公家たちの通勤姿を目にするようになった。大名小路に薩長が屋敷を構え、武家たちが去って人口が4割近くも減ってしまい、江戸は荒廃した。そのように様変わりした江戸で人びとが生きていたであろう時代に思いが馳せられる。本書ではそれらが小説のように具体的に活写されるわけではないが、いままでに触れた歴史書よりはその時代の人びとの生活が身近なものとして想像できた。
 より興味深く引きつけられて読んだのは「第4章 遊郭の明治維新」で、特に「第3節 遊女いやだ-遊女かしくの闘い」。越後から売られてきた”かしく”が転々と遊女屋に売られ続け、明治になって抜けだそうとして訴え続けても却下される。単にそれだけならば陳腐な悲劇の物語になるのであるが、訴えることが出来た背景、抜け出せないシステムと経営者の強かさ(狡猾さ)、等々が論じらる。次のように論じられているのは鋭いと思うし得心する。すなわち、「維新後の近代には、それまで見られた遊女への共感や同情、ある種の憧れは消え、蔑視が前面に現れてくる。そして、その蔑視のまなざしは、娼婦自身に自らの経験を消すことのできない汚点として内面化することを迫った。それは、娼婦たちを、自ら声を上げることのできない位置へと追いやっていくであろう。遊郭の明治維新は、そのような転換への出発点でもあったのである」。
 また、身分の新しいとらえ方として「身分集団」という考え方が新鮮である。いままでは支配する側とされる側という視点で見ることが多く、支配する側からの「身分的統治」に馴染んでいた。しかし、「身分集団」には強いられる自律性よりも、町中や村中に生きた人びとの自発的な自律性が感じられる。

 <松山恵 『都市空間の明治維新-江戸から東京への大転換』(ちくま新書、2019年)>:「おわりに」にて、「横山先生の御本、それに次いで本書というかたちで、できるだけ多くの人たちに手にとってらもらえたらと、切に願っている」と記しており、ここでいう「横山先生の御本」とは前記の横山百合子『江戸東京の明治維新』をさしており、それにぴったりと嵌まってしまった。横山の新書は後半は身分制へと論の転換が図られおり、松山の本書では最初から最後まで武家地がどのように変化していったのかが、地図(絵図)などの史料を用いて解き明かされる。年代の異なる地図から都市空間の移り変わりを掴み取り、そこに新政府の政策や事件を肉付けし、維新直後の江戸から東京への移行を推定していく。パズルを当てはめていくようでもありとても興味があり、自分でもやってみたい、その作業に没頭することが羨ましくさえ感じてしまう。
 「おわりに」にて、現在の政府の明治への礼賛-簡単に言えば「明治の日」制定の動き-へ筆者は強い疑問/戸惑いを呈している。その理由は明快である。「数百年にわたる江戸時代をへて始ったはずの明治という時代を」「最初からほ一色で、しかも現在(現政府の立場)からみてもっぱら輝かしい出来事の集まりと位置づけている」、そして歴史研究者の立場からは「いま起きている事態は、維新期に関するこれまでの研究蓄積の薄さが招いた結果でもあるように思われるのだ」と捉えている。明治に入り薩長中心の政権運営があり、江戸時代をネガティブに断じてそのときの政権を正当化する。それは現政権が何かにつけ、前の政権を悪夢と称し、その時からは格段に良くなっていると断定する、このパターンと酷似していると思われる。「維新期に関するこれまでの研究の薄さ」は時の政権を持ち上げ、いろいろな意味で忖度し続けた結果であろうし、そうすることで保身せざるを得なかった状況が構築されたからでもあろう。維新期は激動の時代でもあり、急進性を求まられた時代でもあり、だからこその試行錯誤もあった。そして明治20年代で江戸期徳川文化は衰退し、東京明治文化へと大きく変化したと思っている。

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