2020年12月31日木曜日

イケール自作、「靖国」関連の読書

 テレビスタンドを介して置かれるテレビはどうしてもキャビネットの内側に置かれる。買い換える前のテレビは重量もありそれでやむなしとしていた。しかし、新規購入のテレビの画面はキャビネット前面と同じか少し前に張り出して設置したく、イケールを自作して壁掛けのようにした。イケールは絶対に倒れないようにせねばならず、かといってキャビネットに固定すると自由度がなくなるのでよくない。要は固定せずに前後左右にテレビごと可動とし、しかし前後に倒れることのないようにし、当然費用を抑える。幾つかのパターンを作り、結局は単純なイケールに落ち着いた。構想図を描いているときが一番楽しい。 
 ホームセンターで木板を選び、カットもそこでしてもらい、あとは自宅で3枚の板を組み立てる。イケール前面に純正の壁掛けアタッチメントを取り付け、テレビを設置。 
 一点のミスもなく全てが構想通りに完成したときは快感を覚えた。 

 「靖国」関連の本を読み続けた。「靖国」を研究しようということではない。「靖国」に対する自分の捉え方、考え方などをキチンと構築しておきたいがためである。それは歴史を通してこの国の姿を自分なりに考えておきたいということである。今回は前の2冊(古川・早瀬の著書)に加えて積ん読状態下の「靖国」関連の本を読み続けた。 
 <島田裕巳 『靖国神社』(幻冬舎新書、2014年)>、<赤澤史朗 『靖国神社 「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』(岩波現代文庫、2017年/初刊2005年改訂)>。 
 <山中恒 『「靖国神社」問答』(小学館文庫、2015年/2003年刊行の改題と加筆改稿)>:原著は『すっきりわかる「靖国神社」問題』。 
 <内田雅敏 『靖国参拝の何が問題か』(平凡社新書、2014年)>。 
 <小島毅 『増補 靖国史観 日本思想を読み直す』(ちくま学芸文庫、2014年)>:第1章~第3章は以前に読んだ『靖国史観 幕末維新という深淵』(2007年、ちくま新書)と同一内容で、第4章が本書で加えられている。 
 「靖国」はなくならないで消化不良のままに存在し続け、「靖国問題」の現象は繰り返されるであろう。日本人自らが戦争責任を追及することなく今に至っていることが「靖国問題」に象徴されていると考える。戦争責任の追及とはもちろんかの明治維新まで遡り、水戸学まで入り込み、さらには日本人の総体的歴史、古代史までも立ち入ってしまうこととなる-もしかしたら神代史までも-。とてもとてもそこまでは風呂敷を広げられない。 
 上記の本や、その直前に読んだ本についてはいつものように要点をまとめておこうと思っているが、なかなか進まずにいて再度机の上に積んだままになってセルフ・プレッシャーになっている。

2020年12月24日木曜日

テレビ買い換え

 テレビを買い換え。液晶にするか有機ELにするか迷ったが、店員さんのアドバイスも受けて液晶にした。一番のポイントは、我が家の視聴対象では有機ELのメリットが殆どないということ。 
 前のテレビは2013年製で今回は2020年製、メーカーは同じ。7年間の経過で画質も音質も向上しており、一方、価格と重量は随分と下がっている。 
 設置・配線に数時間を要し、来月になれば壁掛け用アタッチメントが届くので再び作業をおこないそれで完了。2台目のテレビとして欲しいというので、古いテレビは息子に譲渡。多分彼専用のテレビとするのだろう。 

 今月は読書のペースがなかなか上がらない、上げられない。

2020年12月20日日曜日

大学ラグビーなど

 ラグビー大学選手権、早稲田vs慶応戦のライブをテレビ観戦。出だしは良かったが後半はミスが多く1トライのみ。勝つには勝ったが後半のミスは次戦以降に不安が残る。
 明治と戦った日大は出だしの良さを継続できなかった。東海大vs帝京、東海大はもうちょっと頑張れると思ったが、コロナ・ウィルス感染で練習不足なのかも。天理は流経に12Tで完勝し次の明治戦がどういう展開になるのか関心が強くなった。
  1月2日は箱根駅伝と併せてテレビに釘付けとなる。併せて一日中飲みっぱなしとなるであろう。

 近くの酒店には置いてないのでネットで一升瓶を2本購入(焼酎と日本酒)。「情ケ嶋」と「住吉 銀 +7」、両方とも久しぶりに飲むことになる。次は住吉と同じ樽平酒造の粕取り焼酎になるか。

2020年12月14日月曜日

積読

 購入して一度はさらっと目を通し、あとは未読のままになっている本が数百冊あり、いつかは読むと目を通せる場所に並べてあるが、読まねばならぬとの些かの強迫観念もあるにはある。それらの本はエクセル上で分類してDB化し、一冊読むごとにそのリストを眺め、次は何を読もうかと自分をある方向に向かわせることも常態化している。それでも新聞の書評や出版社の広告を見ると新たに購入する欲求を抑えられないこともある。先日もミステリーを4冊購入した(してしまった)。 
 いつのことからなのか定かではないが、本は欲しいと思うときがその本にとっては旬の時であると思っている。また、ある作家が先輩作家に次のようなことを言われたらしい、すなわち、本は欲しいと思ったらたとえ読む時間が取れないと思っても買ってしまいなさい、それらの本を欲しいと思うときは、自分が何を思っていたのか、自分を取り巻く世界に何を感じ取っていたのかを示すものだから、だから迷わず買ってしまいなさい、と。いい言葉だと思っている。 

 『朝日新聞』(2020年12月12日)に我が意を得たと共感する記事が載っていた。それらは 「主体的「積読」、足場になる」(永田希)とタイトルされた記事。引用文を繋げて次のように解釈する。 

 「少し主体的に本にかかわる方策はないか、と考え」た。その「キーワードは「積読」」である。「書物は「読まれるために在る」と同時に「保存され保管される」特質もあり」、たとえ「読まれなくても中身が変わるわけではない」。但し、積読は「「自分で積む」ことが条件で」ある。 
 「出版システムが勝手につくる「他律的な積読環境」の息苦しさに抗するには、その中に自分だけの「自律的な積読環境」をつくることが有効なのではないか」、と筆者(永田)は考えており、「「自律的な積読環境」を」、「「ビオトープ」(小さな生態系のある場所)」に例え」、それは「少しずつ手入れし、新陳代謝しつつサステイナブル(持続可能)になるイメージ」であるという。 
 「「積読」するために本を買って並べる」、「その方法は自分で決め」る。「積読の蔵書が増えてくると、パラパラめくったり、背表紙を眺めたりしているうちに、本と本の関係が見えてきたり、読んでみたいタイミングが自然に訪れたり」する。「自分の興味と時間軸でつくった本棚を足場にすれば「自己」の輪郭が見えてくる。時折点検し、興味を失った本は古書店に回すなど更新し、環境を持続させていく」。 
 「悪書に駆逐されても生き残っていく良書はある。それを探し求め」る。それには「「積読」のスキルが役に立つ」。思うに、そのスキルを身につけることが大事であって、端的に言えば、オレは何者なのだと、自分を見つめることが基軸なのであろう。

2020年12月13日日曜日

「このミス」のことなど、本2冊

 辻真先の『たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説』が『このミステリーがすごい! 2021年版』、「『週刊文春』ミステリーベスト10」、『ミステリが読みたい!』のいずれでもランキング1位となった。1932(昭和7)年生まれの御年88歳。素晴らしい。早速買い求めてきた。 
 また、「『半身棺桶』どころか、足から両脇の下あたりまで桶の中です。しかも、明らかに、毎日数センチずつ引きずり込まれている」(『このミステリーがすごい! 2021年版』)と書いている1929年生まれの皆川博子も現役であり、彼女は「もうデスノートに名前書かれているんだろうな。あと三年待ってくれないかな、死神さん」(同)とも記しているのは失礼ながらなんとも可愛い。ご両人のように、やるべきことに向かって年齢を重ねていきたいものではある。

 10日、1Fの掃除をやり、これでやっと今年の大掃除は終了。昔は朝8時頃から夜10時頃まで一気に実施したのだが、今は少しばかり手を抜いて1ヶ月余に渡り分断して行った。気力と体力と耐力の減退を強く感じてしまう。 

 <古川隆久 『建国神話の社会史』(中公選書、2020年)>:「建国神話」とは何か、それが近代日本でどのような意味を持ったのか、どういう経緯で重要視されたのか、そしてそれが近代社会に及ぼした影響を平易に論じている。神話と天皇、関連の本を幾つか読んでいるが、このような荒唐無稽な「神話」をなぜ信じるのかいまだに理解できない。しかし、その時代に生きていれば自分も何の疑いも持たずに軍国少年になり、敗戦に涙したのであろうか。 

 <早瀬利之 『靖国の杜の反省会 あの戦争の真実を知る11人の証言』(芙蓉書房出版、2013年)>:松井石根・杉山元・板垣征四郎・石原莞爾・野村吉三郎・米内光政・島田繁太郎・井上成美・東郷茂徳・迫水久常が靖国に蘇り、緒方竹虎の司会進行であの戦争の真実を語る。小説風に展開するつまらない一冊。彼らが語る、だから何なんだ、という視点がない。

2020年12月7日月曜日

ラグビー早明戦、早稲田完敗

 大学ラグビー関東対抗戦の早明戦、早稲田は勝つか引き分けで優勝だが、スコア以上に完敗。スクラム、L/O、接点、すべてにおいて劣勢で、簡単に言えばFWの差が大きかった。FW8人の重さで言えば互角だが力強さでは劣っていて、明治はやりたいことをほぼ完璧にやれて早稲田はやりたいことをやれなかった。早稲田は明治の力を軽視していたとは思わないが、強さを想像していなかったのではあるまいか。 
 明治の帝京戦を見ていて、明治のメンバーには(早稲田に比較して)風格というのか大人っぽさを感じた。早明戦でもそうだが早稲田にはどこか幼さを感じ、明治にはそれよりも年長を感じる。特にNo8箸本主将にはそう思った。 
 早稲田のプレーでいい仕事をしていると印象に残ったのは村田・相良の両FL、FBの河瀬、No.8丸尾は得意のプレーに入ろうとしても明治のプレッシャーからスムーズに動けない。FWの立て直し、L/Oは対抗戦スタート時から精確さに欠けていたと思うので、オプションの追加がなければ選手権でも苦労すると思う。 
 次は大学選手権、順調にいけば初戦は慶応戦。19日まであと2週間もない。明治での敗戦からどう立て直すのか。コロナウィルスの渦中にある東海大学は練習再開を踏まえてスムーズに出場できるのだろうか。

2020年12月3日木曜日

ここ1週間、「特攻」創始者の本

 木曜日(11/26)、古本買取店2店に本を送付。合計81冊で新刊は多少あるが概して古い本が多いので大した値はつかない。 
 ついでに廃棄する本を整理。この作業は今後も継続。 

 土曜日(28日)、息子夫婦と自宅で飲む。スパークリング・ワイン3本にビール、それに焼酎。 

  12/1、屋外の掃除、ほぼ1年ぶりにケルヒャー高圧洗浄機を活躍させる。 今頃になってミズノのマスクカバーが当選した。折角だから数枚購入する。少々高価ではあるけれど。

  歯の被せ物が取れ、7~8年振り、否、10年振りくらいか、12/2に歯医者に行った。これでまた長期間に渡って通院することになる。 
 ある女性の歯科医さんは、どんないい男でも診療台に寝て口を開ければアホっぽくしか見えない、と言っていたが、この日の歯科衛生士さんはオレをどの程度アホっぽく感じたのだろうか。 

 <草柳大蔵 『特攻の思想 大西瀧治郎伝』(文春学藝ライブラリー、2020年/初刊1972年)>:神風特別攻撃隊の創始者である大西瀧治郎。「大死一番」が盛んに使われていた時代、その言葉も「忠死」も得心できない者にとって、大西の「特攻の思想」がどのようなものであったか、テキストに記述される内容を表面的には認識できても理解するには至らない、もちろん共感もしない。 
 「地上においておけばグラマンに叩かれる。空に舞いあがれば、なすところなく叩き落される。可哀想だよ。あまりにも可哀想だよ」と涙を流す大西の感情に抗する気持ちはない。しかし、それに続く「若ものをして美しく死なしめる、それが特攻なのだ。美しい死を与える、これは大慈悲というものですよ」に至っては理解の範囲を超えていて異次元の思考性としか思えない。 
 あの時代に生きた一人の軍人であるとして大西を否定はしない。嫌悪感を覚えるのは、特攻は実質的に「制度としての特攻」「組織としての特攻」であるのに、表面上は形ばかりの「志願制」をとり、統率する側の責任を消しさるような卑怯な環境を作り上げていたことである。現代にも相似するシステムを見つけるのは容易である。

2020年11月25日水曜日

雑記、本2冊

 床下のエアー取り入れ口開閉ワイヤーを支えるブロックがウッド・デッキに取付けられている。そのブロックが割れていたために2箇所とも修復。破損の根本原因は施工した大工さんの設計ミスと言える。16年間近くもよく保たれたものではある。 
 ホームセンターで角材を1本買ってき、物置にある端材も利用し修復。電動鋸とインパクトドライバドリルを久しぶりに活躍の場に出した。床に横になったり、中腰で道具を操作したりして大工仕事で腰が痛くなる。ついでにドリル・ドライバーも動かなくなってしまった。年齢を重ねると、自分の身体ばかりではなく、身の回りの物も古くなりガタがきている。

 23日の大学ラグビー関東対抗早慶戦は22(3T2G1PG)-11(1T2PG)で早稲田の勝利。早慶ともに攻め込んでは反則を犯す。接点への仕掛けが早く且つフォロワーが遅れるというパターン。早稲田の12個の反則は多いがそれだけ慶応のタックルが早くて正確ということであろう。反則をするよりはボールを渡してしまう方がいいとは思うのだ、そう簡単なことではなかろう。慶応もゴール・ライン間近で反則をしてチャンスを逃す場面が多かった。早慶戦はやはりいい試合になる。12/6の早明戦、是非とも勝って大学選手権では組合せの左端(あるいは最上段)に位置して欲しい。
 伊藤を初めて見た。期待大。相良と村田の両FLがいい働きをしている。特にルーキー村田は強くてゲインを重ね、素晴らしい。 

 <白石一文 『ここは私たちのいない場所』(新潮文庫、2019年/初刊2015年)>:「白石さんの小説には、いつも、ひとを気づかせ、救う力が、光があります」(中瀬ゆかり、白川道のパートナー)とまでは言い切れなくとも、引き込まれて読んだ。別に大きなストーリーがあるわけでもなく、比較的淡淡と日常的とも言える日々が進んで行くのだけれど、生きると言うこととは、死ぬと言うことととは、己が存在する場所とは、などと考えさせられる。否、考えることを気づかせてくれる。著者の小説を読むのはこの文庫本で26冊目となった。 

 <マーティン・ファクラー 『吠えない犬 安倍政権7年8カ月とメディア・コントロール』(双葉社、2020年)>:日本政府の圧力はアメリカよりはまだ緩いと思うが、どんどん中国化している気がしてしようがない。安倍・菅はこの国の有り様を大きく劣化させた。 
 日本の社会はあらゆる場面で“仲良しクラブ”をつくって“個”をその中に埋没させ、そのクラブの中で縮こまって“個”の小さな価値を求める。絶対的な善たる価値を求めるのではなく、集団組織の中で波風立てずに安穏な生きる様を求める。だからこそ「出る杭は打たれる」とばかりに世間の空気をうかがうが、出ない杭は土中で腐ることも心しておかねばならない。 
 本書で批判的に視線を向けられているのは新聞。アメリカの主要紙との比較もなされ、産経・読売ははなから期待していないせいか余り語られなく、逆に朝日・毎日に向けられる批判は厳しい。

2020年11月16日月曜日

文庫本2冊

 <連城三紀彦 『運命の八分休符』(創元推理文庫、2020年/初刊1983年)>:『幻影城』でデビューした頃から知っており、15冊ほどは読んでいて、最近の新聞での宣伝に懐かしさを覚えた。『戻り川心中』や『恋文』などの初期作品が記憶にあり、本書はそれらの「恋愛もの」とは異にするミステリーである。5編の連作短編に途中で倦きてきた。冴えない男に美女たち、彼女等に頼まれ謎を解くというパターンがつまらなくなってしまった。幾重にも張られた伏線、トリッキーな謎を鮮やかに解明する、という流れにも全く惹かれなくなっている。 

 <木皿泉 『さざなみのよる』(文春文庫、2020年/初刊2018年)>:43歳でナスミは癌で死んでしまった。ナスミを知る人たちは、彼女の死を知ってそれぞれに彼女を思い、彼等彼女等自身を振り返る。短い物語が幾重にも重ねられる。ナスミの人物像が今ひとつ腑に落ちてこない。第13話から違和感を覚える。ナスミの夫が再婚し、子供が出来て、その子が中心になり、第14話ではその子が63歳になっている。 
 文庫本の帯には「書店員が選ぶ、泣ける本第1位」とあるが、なぜ泣けるのか分からない。「私が死んだとき、私の姉やおばさんや友だちは私を思い出して優しく私の人生を包み込んで欲しい」、そう思うことで「なんだ、私、けっこういい人生だったじゃん」(本の帯の惹句)と感じ入ることができる、そう思っている人たちにはきっといい小説なのであろう。

2020年11月11日水曜日

3回目の大掃除、初めてのGo To Eat、東北弁の小説

 今日(10日)も前日に続いて大掃除。エリアは自室を除く2F全て。これで残すは1F(浴室内は済み)と2Fへの階段のみ。以前より少し手を抜きはじめているのは重ねてきた年齢からであろう。今の家は建て替えてから16年経過したが、多分その年数を感じさせないほどのキレイさはあると自賛している。 
 掃除終了後、水道が流しっぱなしになっている、2ヵ所の窓が開けっぱなしで閉じられていないと家人に警告を受けたのも年齢のせいであろう、多分。 

 Go To Eatを初めて利用。前記の掃除完了後、すぐ近くのくら寿司に予約して行ったら丁度昼時のせいか、とても混んでいた。カウンター近くで待っている間は所謂「密状態」。帰宅後ポイントの獲得もできたが、スマホになれていない人は面倒くささを覚えるであろう。 
 高頻度で同じ飲食店を訪れる人にとってはこのキャンペーンは便利で有効であろうが、頻繁に利用しない人にとってはさほど便利ではあるまい。 

 <若竹千佐子 『おらおらでひとりでいぐも』(河出文庫、2020年/初刊2017年)>:東北は広いので、そこで交わされる言葉を一把からげて東北弁と括ってしまうのには抵抗がある。秋田弁にしても北と南では似て非なるところもあるし、著者の生地である遠野にしても他の東北の地とは同じではない。それは橫に措いてもこの小説は「東北弁」であるからこそ小説として成功しており、これが所謂標準語で描写されたら小難しい、さっぱり魅力のないものになってしまう。そして東北弁を解せない読者にとってはこの小説の魅力は感じ入れられないであろう。独り身になって自分と会話し、過去を振り返り、今を生きることに共感を持てた。幾つか読んだ最近の芥川賞の中では、東北弁を解せるが故に魅力ある小説と思った。

2020年11月9日月曜日

大掃除、ラグビー、本、漫画

 物置に放っておいた故障した掃除機や、入れ替えて不要となったブラインドなどを廃棄するために、規定の長さまで切断。これも大掃除の一環。電動鋸のカッターの切れ具合が劣化してきた。切断音が近所の迷惑になることが気になるが、これはしようがない。
 浴室、3F小屋裏に続いて自室を大掃除。ごちゃごちゃとした物が多く、いつものことだが、物を捨てようとしてもほんの僅かしか廃棄できない。そのうちそのうちと言ってもなかなか進められず、本当にそのうち捨てていかねばならない。

 関東大学ラグビー対抗戦、7日の早稲田の対戦相手は筑波大学。SOのポジションに河瀬は驚いた。筑波は慶応に勝っているし、侮れない相手。結果的に50(8T5G)-22(3T2G)で勝利したが後半の後半はもたついていて不満。それに帝京戦でもそうだったがL/Oに課題がある。 
 早実が國學院久我山を30-7で下して花園出場を決めた。花園にアカクロが2年ぶりに動き回る。楽しみである。それに早実や学院のラグビーが強くなると大学も強くなる。 

 <金子文子 『何が私をこうさせたか』(岩波文庫、2017年)>:朝日新聞(2019年7月)の書評(斎藤美奈子)「『女たちのテロル』『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 ブレイディみかこ〈著〉」のなかで、本書について次のように触れている。「ヤバイ女性は日本にもいた。1923年9月、関東大震災の2日後、金子文子は同棲相手の朝鮮人・朴烈とともに警察に検束された。彼女は絶望的な貧困と虐待の中で育ち、朴と不逞社なる結社を立ち上げた。3年後、獄中で謎の死をとげた。23歳だった」。この文章で金子ふみ子に関心を持ち「読みたい本」にメモしておいた。 
 本書は、ふみ子が栗原一男に手記の添削を依頼し、死後5年たって春秋社から出版された『何が私をかうさせたか-獄中手記』を底本にし、同社から1998年に刊行された新版を参照して2017年に出版された。韓国で2017年に劇場公開されたことを契機として出版されたものかもしれない。韓国で多くの賞を受賞した映画は日本国内で、例えばテレビなどで一般放送されることはまずないであろう。 
 金子文子(金子ふみ・金子ふみ子)、1903(明治36)年に横浜で生まれ、1926(大正15)年7月に宇都宮刑務所栃木支所にて縊死-縊死は刑務所側から発表されたもので真相は謎-。生から死までの記録ではなく、朴烈と同棲を始める前まで、即ちふみ子19歳までの記録である。従って、ふみ子が朴烈と共に「行動」を始めるようになった経緯は本書では知ることは出来ない。ただただ、無籍者として生まれ、学校に通って勉強をしたい意欲も実現することが困難で、想像を絶する貧困と虐待に言葉に言い表せない絶望を覚える。虐待というと日本人による朝鮮人へのそれが思い出させるが、ふみ子になされたのは実の父親であり、愚かな母親であり、騙されて引き取られた先の祖母であり、または傭われた先の主人の妻であり、学校の教師による差別もあった。劣悪な環境はもちろん人間そのものがつくっているものであり、所詮人間はそのようなものさ、と言いたくもなる。その悲惨な状況下で底辺の労働をしながらもふみ子の学習意欲の高さには驚嘆する、尊敬もする。 
 「何が彼女をそうさせたのか」をキチンと認識するには、朴烈と共に行動し、天皇の恩赦を拒否し、縊死するまでの約4年間にも触れねばならない。また、ふみ子と朴烈のアナキズムについても知識を得る必要がある。 

 <斎藤宣彦(編) 『現代マンガ選集 破壊せよ、と笑いは言った』(ちくま文庫、2020年)>:なつかしい漫画家がたくさんいるも、赤塚不二夫・山上たつひこ・いしいひさいちを除いて、前に読んだ同シリーズの「悪の愉しみ」と同様に惹かれた作品は殆どない。

2020年11月4日水曜日

3日の一日、本2冊

 3日、瓶類を廃棄する日で、1ヶ月分+αの酒精の瓶を捨てる。集積場に置いてある瓶廃棄用のバスケットには栄養ドリンク剤の硝子瓶が沢山あって、ご近所さんは年齢を重ねて疲労回復を頻繁にやっているんだと想像する。その上に重ねて瓶を棄てる。遅れて捨てに来る人は10年12年もののウィスキー瓶や、飛露喜の瓶を見て、美味い酒を飲んでいるなあと感じるか、否、そんなことはなくて沢山よく飲んでいると呆れるのか、多分後者であろう。

 米国大統領選挙のニュースが多く流れている。民主主義がどういうものなのかはアメリカを見れば良く分かるだろう、と誰かが言っていた(書いていた)。むべなるかな。

 ウォーキングを休んで毎年恒例の浴室大掃除。バスタブのパネルも外して汚れを取り、室内の隅々の小さな黒黴も落とし、約2時間半。終わったのが昼時で、ビールと日本酒を飲んで、そして寝不足もあって爆睡2時間。夜眠れなくなるのでまた少しの寝酒。 

 <森博嗣 『馬鹿と嘘の弓』(講談社ノベルズ、2020年)>:父親が誰かが分からず、母親は出奔し、祖母から僅かな金を毎月振り込んでもらっている、若いホームレス柚原典之の動向をただただ監察し、依頼者に報告する女性探偵二人。父親と思しき二人の男性が登場するがどちらが父親なのかは判明しない。 
 柚原はこう考える。即ち、雁字搦の束縛の社会の、そのなかで自由を奪われて人間は生活していて、瞬時の幸せを感じるよう仕組まれている。馬鹿な社会の中で、嘘っぱちの自由を喜んでいる馬鹿たちは、解き放されても自身は飛ぶことのない弓であって、解き放された時に一瞬の自由を感じるが自分では飛べない。 
 偉い奴らが定めた日に仮装し、酔って自由になっているつもりの人たちに柚原は鉈を振り落とす。刑務所で確実に衣食住が確約されるために、柚原は殺人であることを確認して自首する。 
 ストーリーは淡々とすすみ、探偵加部谷と柚原の交流がさらっと流れていくのは好ましく、また所長の小川と加部谷との関係もさらりとしていて二人に好感を抱かせられる。 
 もちろん名前は知っているし、小説の書名も何冊かは知っている。しかし、いままで手は伸びずにいて、作者の本は初めて読んだ。多分これが最初で最後となろう。 

 <滝口康彦 『異聞浪人記』(文春文庫、2020年)>:書店の新刊コーナーに立てられていて、解説が白石一文とあって購入。解説を読むと著者は父白石一郎の親友であり、「究極の才能に一歩でも近づきたくて作家を目指した」白石一文は(滝を瀧に変えて)「瀧口」の姓をつけた名前が最初のペンネームであった。ここまでは本書と無関係で単に白石一文が好きな作家であることの独り言。
 本書は6編の短編で構成され、それぞれに上位からの理不尽な-江戸期の武士社会にあっては当たり前かもしれない-命に刃向かって、死を賭して生きる武士あるいは妻(母)の物語である。その社会に生きる人々のやるせない生き方には悲哀というよりも馬鹿らしさ、解決策のない不条理さを思うしかない。政府トップが感情的な指示や言を発し、それに対して官僚トップが追従・忖度をして部下たちに無理難題を強い、下位の者たちは抗いながらも従う。パターンとしては現代と何も変わらない。詭弁を述べ、強弁を張り、虚偽を図り、隠蔽する。人間の業とでもいうしかないだろう。 
 「拝領妻始末」は、実在の会津藩3代藩主松平正容、4代藩主となった八男容貞、容貞の生母の伊知(本書ではいち)/市/美崎、いちが拝領された先の与五右衛門とその父たちが、意地と体面と役得を巡って物語が繰り広げられる。wikipediaで「本妙院 (松平正容側室)」を見るとこの史実が解説されている。また同じく「拝領妻始末」にはこの小説が詳述されている。映画や舞台やテレビドラマにもなっているから、この類いの物語が一般受けされているのが分かる。皮肉っぽく言うならば、この武士道を礼賛する、あるいは、「会津魂」や「会津藩松平家」を崇める人たちは、藩主(たち)の愚行と武士社会組織の実体を知ったならばどう応えるのだろうか。

2020年11月1日日曜日

ラグビー、帝京に勝利

 関東大学対抗戦ラグビー、今日から上位チーム同士の試合が始まり、まずは早稲田-帝京、明治-慶応の戦い。予想では早稲田は帝京に完敗し、明治も慶応に完勝するとしていた。理由は簡単で早稲田は青学に47-21、日体大に70-5と勝利となっていたが、帝京はそれぞれ122-0、98-10と圧勝しており、どこかのラグビー記事にても対抗戦グループ優勝候補の帝京と書いてあるし、昨年の接戦だった早稲田戦に出場した15人中12人は現役である。一方、早稲田は多くの人数が入れ替わっているし、試合ごとにスタメンもリザーブもかなり変化を続けており、まだまだチーム作りの途上であると感じている。 
 だから試合をライブで見ずに、結果が分かってから録画観戦としていた。負けたならその録画も見ないで破棄することとなる。要は負けるであろう事を前提としていて、そのためにキックオフ時間も失念し、気づいたのはもう前半の終了間際であった。全日本大学駅伝の7区間目が流れていたテレビのチャンネルを変えたら12-19で、あれっ善戦していると思った。そしたらすぐに同点となり、前半終了。それでもライブで見る気持ちにはなれず、というよりやきもきしながら観戦するのは嫌なので、駅伝を眺めていた。駅伝は8区に入ってから実に楽しめる展開であった。 
 ラグビーが気になり、速報をPCで確認したら、早稲田がリードしている。暫く時間が経過して45-24を確認したときはもう確実に勝利を確信し、録画を見るのが待ち遠しくなった。でも駅伝を見続け、早稲田の5位を期待以上でも期待以下でもないと思い、最後の大学がフィニッシュするのを確認し、おもむろに早稲田ラグビーの勝利を観戦することとした。勝利を知っている早稲田ラグーを観るのは、過去の試合でもそうだが実に気持ちに余裕があってリラックスして試合を楽しめる。 
 前半ではスクラムで押し込まれることが目立ったが後半は修正されていたし、接点ではキレイに展開されることはなかった。帝京敗戦の原因はペナルティの多さにあるだろう(早稲田7に対し帝京14)。早稲田は自分たちのラグビーを着実に実践している。結果は45(7T5G)-29(5T2G)と快勝。トライは7人(FWで3T、BKで4T)とトライ・パターンの広がりがいい。 
 Man of the matchに選ばれたのは大学に入ってからラグビーを始めた小柄のFL坪郷。河瀬が今季はじめて出場した。相良は出ていない。1年の伊藤を早く見たいものである。同じく1年のFL村田はすっかりスタメンに定着したようである。 
 兎にも角にも早稲田の完敗を予想していたことはゴメンです。深謝です。 

 続いて明治-慶応戦は明治の圧勝であろうと思っていて後半の後半から見たら、スコアが12-10で拮抗した戦いで、最後の最後に慶応が明治陣で攻める。このままペナルティをせずに攻め続けてフェーズを重ねれば明治は反則をするだろうからPGで逆転出来るぞ、と慶応を応援していたら、その通りになった。入れれば勝利、外せば負けというPGを1年FBがキレイに決めて慶応の勝利。慶応は1T1G2PG、明治は2T1Gとロースコア。サンスポでは「明大、まさかの敗戦」と慶応ファンからすればむっとするような表現の記事。たしかに筑波戦を見れば、慶応は19-30で負けているし、明治は33-17で勝っている。明治が負けるはずはないと思うのは普通の予想だろう。明治の完勝(慶応の完敗)と予想していたことはゴメンである。

 全勝は早稲田だけとなった。早稲田の次戦は筑波、そして慶応、明治と続く。緊張してテレビ観戦する試合が続く。もちろん全試合の勝利を期待していて楽しみである。

2020年10月27日火曜日

晩秋、江戸川乱歩賞受賞作

 いつものウォーキングコースの桜の木の下には落ち葉が多く、快晴の中にも晩秋を感じるようになった。 
 6.2kmほどのウォーキングも回を重ねてきたせいか、キロメートルあたり8分台で歩けるようになってきた。 

 <佐野広美 『わたしが消える』(講談社、2020年)>:第66回江戸川乱歩賞を受賞。マンションの管理人を務める、元県警ニ課の刑事だった主人公は軽度認知障碍(MCI)を医師から告げられる。乳飲み子だった娘を連れて出ていった妻とは18年ほど前に離婚しており、その妻は数ヶ月前に亡くなっている。介護施設でアルバイトする娘の依頼で、施設の門前に置き去りにされた「門前さん」の身元調査をすることとなる。主人公がMCI、「門前さん」も認知症、従って全編を認知症への辛さや恐れが流れている。過去を追うことになる謎は現在の世の問題でもあり、その設定には引き込まれた。が、後半の謎ときは軽いし安直と感じられる。テレビで放映されるドラマ「○○殺人事件」では、最後に景勝地に関係者が集まって事件の説明をするというシーンが頻繁に現れる、それと似たような説明シーンが本書にも続き、また、殺される瀬戸際でタイミング良く表れる警察など、安手の劇画調の場面がなんとも言えずに物語の浅さとなっている。それぞれの場面はそれなりに理屈づけられて説明されるが、いかにもとってつけたような感じは否めない。 
 主人公の過去への悔いや哀しみ、これからの不安と今後への向き合い方に内省的深みがあれば物語に重厚さが出るのにと思う。文章の流れはスムーズだし(改行だらけの文は好きではないが)、全体的にはストーリー展開が早く、娘とのやりとりも楽しめた。


2020年10月26日月曜日

飲酒、読書3冊

 海老で鯛を釣るが如くに美酒飛露喜が送られて来て、23日は夕方から痛飲。深夜になったらスコッチウィスキーを飲みながら本を読んでいたらついつい飲み過ぎてしまい、翌朝は喉の渇き激しく、少しだけだが宿酔気味。胃に優しい食事をしてこの日は断酒して温和しく過ごした。 
 本日25日にまた飛露喜を飲む。一升瓶を3回に分けて空けるペース。昔のような飲み方は出来なくなっている。 

 ここ一週間の間に本を10冊買ってしまった。雑誌も買っているからまたまた未読の本が増えてしまった。 

 <片山杜秀 『皇国史観』(文春新書、2020年)>:知ったつもりでいる皇国史観を俯瞰的に振り返るつもりでこの新書を開いた。前期水戸学からはじまって現代に至るまで平易に書かれており改めて得心するところは多い。前期水戸学からはじまって現代までの歴史観の流れは分かるが、なぜその歴史観に浸るのか、その心の動きはやはり理解できない。 

 <山田英生(編) 『現代マンガ選集 悪の愉しみ』(ちくま文庫、2020年)>:魅せられた作品はなし。「アカシヤの大連」(湊谷夢吉)のタイトルが諧謔的で面白く、絵もまた好きである。 
 前衛的な装いのある作品は(昔ならいざ知らず今は)まったく惹かれない。
  
 <奥泉光 『死神の棋譜』(新潮社、2020年)>:著者の小説は初めてで、あくまでミステリーの一冊として手に取り、頁を進めるにつれ虚実入り交じる展開に少々戸惑いを覚えながらいたが、最後にあたってはこの本はミステリーの装いはしているものの、例えば江戸川乱歩賞的なミステリーではなく、全く期待外れの作品だった。主人公はどうした、謎を見つけたのか、女流棋士の不可思議な行動は何なのか、彼女の実家の福祉施設はどう絡んでいるのか、異次元的な将棋教は何なのか、不詰めの棋譜は何の意味を持つのか、焼死した山木八段は何だったのか、等々狂気の物語はすっきりしないままに終わってしまった。端的に言ってしまえば奥泉光という作家のことを何も知らず、芥川賞受賞作家であることも記憶になく、新聞の宣伝の言葉に思い込みをして、不用意に読んでしまい、勝手に落胆しているに過ぎない。買ったまま何年も放ってある『東京自叙伝』も心して読まねばなるまい。

2020年10月17日土曜日

雑記、青春ものミステリー

 インフルエンザ予防接種、高齢者なので費用は無料。 
 
 ニュースを見ると不愉快さを感じることが多いので、繰り返しは見ないようにしている。何も国内ばかりではなく海外も含めてのこと、i.e.,この世の人間社会のこと。過去に起きたことも、いま起きていることも全てを取り入れて自分の立つ位置を考えること、これが難しい。

  冷雨、暖房機を出してしまった。

  <宇佐美まこと 『夜の声を聴く』(朝日文庫、2020年)>:隆太の目の前でリストカットする百合子、隆太は優秀な頭脳をもつが引き籠もりの日々をおくっていた。百合子が通学する定時制高校に通うようになり、そこで大吾と知り合い、彼が住み込むリサイクルショップ兼便利屋の”月世界”に頻繁に足を向けることになる。”月世界”が依頼された物件を解決するなかで比奈子と知り合い、また物理学者の廣紀とも知り合い、目の前の事件を解決していく。最終的には大吾と大吾の雇い主であるタカエが関係する11年前の殺人事件を解決し、隆太は新しい道に踏み出す。  
 日常生活の中でミステリーがあって、そこに関与しながら隆太たちの青春生活が描かれる。章立てが一切なく、それが新鮮に感じられた。8歳年下の63歳で、その年齢の男性にしては随分と瑞々しい柔らかい物語を作っていると、著者の若々しさを感じていたが、読後にwikipediaで確認したら女性作家だったことを知り、あっそうかと少し得心した次第。
 新聞の読書コーナーで知った作品で、10代の人たちが語り行動する物語には青葉に当たる陽のまぶしさのような輝きを感じ、自分の10代の頃を少し振り返ったりした。

2020年10月12日月曜日

大学ラグビー開始、加藤陽子著書一冊

 2020年度の関東大学ラグビーが例年より約1ヶ月遅れの10月4日にスタートした。スケジュールはタイトで18日まで毎週実施される。全試合がJ Sports CATVで放送されるわけはないので、いつものようにオンデマンドに登録しPCやタブレットで見ることとなる。
  4日はまずは筑波vs慶応戦をTV観戦し、筑波が勝利(3T3G3PG-3T2G)。昨年の慶応は最後の最後で逆転負けし、今季は力負け。
  さて、早稲田の初戦は青学だがぱっとしない(47-21/7T6G-2T1G3PG)。昨年Aでなかった選手が大勢出ていてまだまだチーム作りの途中という感が強い。ミスも多い。インターセプトのトライはしようがないとしても3Tは取られすぎだろう。選手が集合している場面を見ると早稲田は全体的に小さい。
  続く第2戦の立教戦は46-7/8T3G-1T1Gで、立教のトライは前戦に続いてのインターセプト。2戦を通じてスターティングとリザーブで合計46人の選手が登録されるのだが、2戦共に名を連ねている選手は13人のみ。つまり、察するに、まだまだ試合を通じてチーム作りの真っ最中なのであろう。明治・帝京にしてもそうであるかもしれないし、各校の実力を測れるようになるのは早慶明帝筑が相互にぶつかりあう11月に入ってからとなる。

  <加藤陽子 『戦争まで  歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社、2016年)>:菅政権の、というより安倍政権から継続する政権の横暴(権力行使には常に誤魔化しがついてまわる)、それが単純に表に出た日本学術会議会員任命問題、その任命除外になった6人の一人である加藤陽子教授。
  9年前に読んだ『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』に続く本書は、前著と同じく中学生・高校生に講義したもので、高度な内容を平易に論述している。
  リットン報告書を巡る交渉(①)、日独伊三国交渉(③)、そして太平洋戦争直前までの日米交渉(③)。簡潔に「日本の失敗」をあとがきから引用すれば、“見かけだけの「確実」性に騙され(①)、自分だけの利益を上げようとして普遍的な理念を掲げることを失念したり(②)、自国の安全について、自らリスクをとる覚悟がないまま、被動者としてふるまいつつ結果的に戦争に近づいていったり(③)”したことである。
 歴史を知る、その知るために探求すると言うことは微に入り細に入り知り得た事実(史料)を自分の言葉で語ること、その深さを改めて認識させられた。

2020年10月5日月曜日

名が入った戒名、本一冊

 テレビで録画した安直なミステリー・ドラマを見ていて、女性が夫の位牌の前に座っていた。画面の奥に見えるその位牌の戒名は「恵○○道居士位」となっているではないか、○○にはオレの名前がすっぽりと入っている。なるほどオレの名はそのまま上下に適当な漢字を入れるとそれらしく見える戒名になると妙に感心した。 

 <堀田江理 『1941 決意なき開戦-現代日本の起源』(人文書院、2016年)>:「アジア・太平洋の政治、経済、外交、社会、文化などについて優れた著書を発表した研究者や実践者に贈られ」る「アジア・太平洋賞」の第28回特別賞受賞作ということで、帯には「なぜ挑んだのか、「勝ち目のなき戦争」に?」とある。 
 本書の目的は「日本の真珠湾攻撃に至るまでの8ヶ月間を、わかりやすく述べること」であるとされ、膨大な文献を参考に丁寧に述べられている。8ヶ月間の事だけを述べるのではなく、人物の人となりや外交交渉などのやりとりが詳しく書かれており、故に「歴史ドキュメント」(帯の文)とされるのであろう。しかし、全体的にあっちに行ったりこっちに来たりと総花的であり、冗長でもあり、読み進めるのに忍耐と努力を要する。近現代史上の人物のエピソードや性格などは別途注記にでも補足すれば贅肉も取れて内容が絞れるのにと思うことしばしば。

2020年9月29日火曜日

雑記と本2冊

 毎日毎日が何の変哲もなく繰り返され、あっという間に日にちが過ぎていく。そしてもうすぐに10月になる。朝ウォーキングしても汗の量が大きく減ってきた。
 昨日(28日)微酸性次亜塩素酸水を買いにいった。1.5リットル300円は余りにも安価なのでもう少し高くしてもいいのでは、と女性担当者に言ったら目が優しくなり-マスクなのでよく分からないが多分ほほ笑んでいたと思う-、前回は3枚だったマスクを今回は5枚プレゼントしてくれた。 
 古本買取屋さんに本を33冊送る。今年に入って92冊の処分となる。引き取り査定価格を2社比較し、前回まで利用していた業者を今回は変えた。業者によって得意とする分野が異なるようで査定額も1冊ごとにかなりの凹凸がある。 

 <小松真一 『虜人日記』(ちくま学芸文庫、2004年)>:32歳の著者は代用ガソリンであるブタノール生産準備のため技術者としてフィリピンに向かう。本書は、昭和19年2月に東京を発ち、2年後の昭和21年12月に帰国するまでの日記である。3部に別れており、最初の章は東京を発ち、ネグロス島北部の山に入るところまで。次はその山で敗走を重ね、サンカルロスに投降するまで、書名となっている「虜人日記」の章はPW(Prisoner of War-捕虜)となってから帰国するまでである。書き始めたのはオードネル収容所に移された昭和21年の4月頃かららしい。 
 フィリピンの島々を渡って技術指導をするがその移動は命がけで危険きわまりない。米軍上陸に合わせて山に逃げ込む。島々での移動も山に入ってからも状況は厳しく悲惨であり、無論収容所に入ってからも大変な生活であるが、著者は淡淡と簡潔に、時には日本/日本軍を批判的に書き続けている。 
 悲惨な状況描写にはさして関心は向かない。いくら想像してみても現実を詳細に理解出来るわけもないし、今までに読んだ本や映像から知ったことで良しとしている。著者があの戦争に向き合って何を感じ、何を考えたのかに比重をおいて読んだ。日本の敗因や日本と米国の比較など、まともとは言えない環境のなかで物事を冷静に的確に捉えていると思う。が、表層的であり欲を言えばもう一段“何故?”と突っ込んで欲しいと思う。例えば、「国内の事は知らんが. PWの世論では石原莞爾中将は人気のある第一人者だ。彼の支那観. 私生活. 戦争の見通しに対し皆敬服している」とあるが、これだけではすっきりとは入ってこない。でも、著者は公開されることを意識して書いたわけではないであろうから-出版は死後-、実際は心の内にはもっと深い考えがあったとも思う。 

 <関幸彦 『「国史」の誕生 ミカドの国の歴史学』(講談社学術文庫、2014年/初刊1994年改題)>:『「国史」の誕生』の書名から、「国史」が誕生するまでの変遷と、「日本史」ではない「国史」であったことが批判的に論じられるのではないかと思っていた。が、主軸は「国史」ではなく、「明治の歴史学」であり、本書は改題前の『ミカドの国の歴史学』が適当である。 
 朱子学や明治の学者、思想家についてしっかりとした基礎知識を持っていれば本書はスムーズに読めるであろうが、表面的な浅薄な認識しかできていない自分には読みにくく、また譬喩の多用がブレーキになった。

2020年9月23日水曜日

テキスト『日本軍兵士』

 テレビをつけると新政権のニュースや解散時期についての推察が流れている。あまり見ないでいる。Webと新聞で十分である。そもそもコメンテータと称される人が映っていると余計に見たくなくなる。
 一泊でもいいからどこかに行きたい、外で飲みたい、しかし踏ん切りがつかない。

 <吉田裕 『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書、2017年)>:大きくは3つの問題意識を重視して論じられた新書。それは、戦後の歴史学を問い直し、「兵士の目線」「兵士の立つ位置」から戦場を見ること、「帝国陸軍」の軍事的特質との関連性を明らかにすることである。最も関心を強く持って読んだのは兵士の置かれた状況と「死」である。端的に言ってしまえば、長期消耗戦に戦う経済力も国力もなしに無謀な戦争に突入し、精神論で戦火を交え、戦死あるいは戦病死した。政府・軍部・宮中の戦争終結決意の遅れで余りにも多くの兵士たちが死んでいる。「お国のために戦って死んだ兵士たち」、「戦場に散った兵士たちのおかげ今の日本がある」のような美化した言葉を見聞きすると腹が立つ、と同時に呆れる。
  類似するテキストは何冊か読んでいるけれど、それでもまだ初めて認識させられることは多い。そしていつも思うことだが、日本軍の兵站は極めて劣悪なものでしかなかったということで、これも短期決戦、作戦至上主義、極端な精神主義の裏返しであろう。

2020年9月21日月曜日

戦前に関するテキスト、そして息抜き

 <田中雄一 『ノモンハン 責任なき戦い』(講談社現代新書、2019年)>:NHKスペシャル「ノモンハン 責任なき戦い」のディレクターの一人が著者。「組織の上層部は責任をとることなく、そのしわ寄せが下へ下へと向かっていく構図は、いまも変わらぬ日本型組織のありようのように思えてならない」(あとがき)。まったく同感。 
 辻は選挙で勝って衆議院議員を4期、参議院議員を1期つとめ、一方では世論の反発は強かった。これって、長きにわたって政権を握った首相ではあるが、一方ではモリカケやサクラで非難される構図に相似している。要は、称える側と反発する側の対立も選挙というシステムで糢糊と化してしまうことであり、今後も改められることはないであろう。
 ノモンハンは「失敗の序曲」というけれど、その序曲は江戸末期・明治維新時より構築されてきたと思う。恰も指揮者が無能力で思いつきのままに指揮棒を振るものだから、オーケストラのメンバーは制御されないままにメロディーを奏ではじめ、音楽にならない曲が響き渡り「失敗の序曲」と化してしまう。序曲の次の楽章では「失敗」の主旋律が拡大膨張して鳴り響き、最後には葬送の楽章へと繋がっていく。そして通奏低音は現在も続いている。
 
<猪瀬直樹 『昭和16年夏の敗戦 新版』(中公文庫、2020年)>:かつて「総力戦研究所」なる研究機関があり、そこにはthe Best and the Brightestなる実務経験10年以上の30代の36名が集められ、昭和16年に摸擬内閣は集めた各種データに基づいて次の結論を出した。すなわち、「12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、終局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしても避けねばならない」。真珠湾攻撃と原爆投下を除いてはその後の日本敗戦までの戦況を的確に予測した。研究生の発表を聴いて東條陸相(当時)は「あくまで机上の演習で実際の戦争というものは君たちの考えているようなものではない。日露戦争でも勝てるとは思わなかった。しかし勝った。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。君たちの考えはその意外裡の要素というものを考慮したものではない」というような内容で講評している。また次のようなやりとりもあった。
 「戦力が十分じゃないのは承知しているが、その気になって準備している場合にはちがう。相手はたとえ地力があっても不意打ちをくらうとやられる。織田信長は今川義元に勝ったではないか。物量が大きい方が必ずしも勝つとは限らないことは、幾多の歴史が教えているよ。なんといってもこちらには大和魂がある」
 「大和魂こそアメリカにはないものでわが国最大の資源だ」
 「日本には大和魂があるが、アメリカにもヤンキー魂があります。一方だけ算定して他方を無視するのはまちがいです」
 「だまれッ」
 呆れるばかりである。非科学的な意志決定機関が上にいては、国民はせいぜい竹槍を持ってB29を見上げるしかなかった。

 <バーカード・ポルスター 『Q.E.D. 知的でエレガントな数学的証明』(創元社/アルケミスト双書、2012年)>:日本酒を飲み続けた翌日に飲むハイボールやジンといったような(?)、しばしの息抜き、頭のリフレッシュと言ったところヵ。生身のヒトの歴史を読み続けたところで脇道にそれ、本書で数学的証明をトレースすると、何というのだろうか、些末なことはさておいて人智の及ばぬ自然の摂理といった世界、神の領域に触れるような清澄なリフレッシュ感を覚える。楽しい。
 証明終わり=Q.E.DをQueen Elizabeth Diedと言い換えて覚えるとよい、と教えてくれたのは高校の数学教師千葉先生だった。

2020年9月13日日曜日

戦前・戦後のカラー化写真

 <庭田杏珠・渡邉英徳 『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』(光文社新書、2020年)>:モノクロームは真の色彩を表現するというようなことを言ったのは黒澤明だったか、確かにモノクロームの写真には過ぎ去った時間を遡り、また色彩を拡がらせる想像を醸し出させてくれる。一方、カラー化することで平面的な写真は立体的に構築し直され、かつ時空を超えて身近な心象風景を刻みつけてくれる。天皇とマッカーサーが並ぶ有名な写真や、星条旗はためく硫黄島の写真などは何度も見たことがあり感慨もない。日にちが経っても振り返りたい写真が掲載されている頁をスキャンしてPCに保存した。
 カリフォルニア州の日系人収容所で体操する少女、何の屈託もないその表情はその後どのような人生を歩んだのだろう。
 白く覆われた骨箱を胸に抱き6列で呉市内を歩む海軍将校・兵士たち。「特潜十勇士」と賛えられても敗戦後は民衆には距離をあけられたであろうし、そもそも骨箱の中に遺骨があろうはずもない。
 「動く婦人標準服展示会」の幟を掲げ、標準服を着て歩く女性たち、幟を持つ女性だけは少し誇らしげな表情をうかがわせるが、他の(表情が分かる)女性たちはどこかうんざりしているような気がしないでもない。そもそも全国一律に「標準」などと規制することは昔も今も碌な事ではない。
 富士山の上空を飛行するB29は東京を空襲した。日本の象徴の一つである富士山を睥睨するB29は現在の日米関係を表象しているようだ。
 多くの日本の人びとが写真に写っており、その服装はアメリカに居住する日系人のそれと比べてみすぼらしい。何の脈絡もないことではあるが、1959年から始まった北朝鮮帰国事業において在日朝鮮人たちが北朝鮮の地に下船したとき、北朝鮮の人たちは彼ら彼女らの服装を見てそのグレードの高さに驚いた。そんなことがふと脳裏をよぎった。また、空襲され焦土と化した東京を視察する天皇の軍靴がピカピカに磨かれ光っている著名な写真を見るたび、複雑な困惑する感情が湧き出てくる。
 見渡すかぎりに焼け野原となった場所で、ドラム缶風呂に入浴する(多分中年の)男性のにこやかな表情に日本人の逞しさがうかがえる。
 現在も損傷痕を残すミズーリ号に突入する特攻機、その左頁の写真では忠魂碑の台座に寛ぐアメリカ兵たちがいる。アメリカ兵はその碑の意味を理解できていたのは思えないし、もしかしたら彼らのうち何人かはアメリカの地で記念碑の建立に意味づけられたのかもしれない。
 1945年4月といえばまだ沖縄戦の真っ只中である。その状況下にて米兵が後方から眺める中で、捕虜となった日本兵と従軍看護師が結婚式を挙げている。二人の後には立会を勤めているのか下駄を履いた女性が一人立っている。二人の、結婚式の前とその後の物語を知りたくなる。
 爆撃を受けた高島屋を後方にカボチャの種を蒔く学徒動員生。何を考えていたのだろうか。3ヶ月後の敗戦を想像していたのであろうか。負けるとはこのように繁華街の地に食料の種を蒔くことである。
 富士山が遠くにあり、手前には相模湾に浮かぶ戦艦ミズーリ。北斎の「神奈川沖浪裏」にある高浪の代わりにミズーリの船首があるような構図となっている(かなり無理はあるが)。
 敗戦の9月にマーシャル諸島で撮影された4人の兵士。頭には律儀にも海軍のキャップ、上半身は裸であばら骨をさらけ出し、腕は細く、下半身は貧弱なズボンまたはステテコの風である。米軍が撮った写真であるからその後はチャンと食事を供され帰国したであろう。
 原爆投下1ヶ月後に焼け野原となった広島市内を歩くカップル。女性が右手に傘を差している。二人は一体何を話しているのだろう。原爆投下一年後に網フェンスがひしゃげているデパートから焼け野原の広島市街地を眺めるカップル。この頃にはデパートはダンスホールを営業していたらしいので、このカップルはそこを訪れたのではないかと解説されている。この二人も破壊された街を眺めて何を話していたのだろうか。
 アジア太平洋戦争と敗戦を意識し始めたのはいつからだったであろうか。鶴田浩二の出る特攻隊映画や「日本の一番長い日」は見ようと思わなかった。今も、戦争時にこう頑張って生きたとか、情緒のオブラートで包み込む映画は見ることはない。「堕落論」を初めとする坂口安吾などの無頼派や「第三の新人」に触れていた20歳前後の頃に意識し始めたようである。大学を卒業した58年前、広島・長崎を除外した地方都市ではもっとも被害を受けた富山市にある会社に就職し、結婚までの間はよく飲み歩いていた。就職した年のまだ夏になる前だったか、友人と二人でカウンター席にて飲んでいて、敗戦後はある意味ではもっとも希望に満ち、未来の発展への可能性が溢れていた時期ではないかなどと話し合っていた。隣席の30代半ばから40代前半と思える一人飲みの男性が、戦後の悲惨さを知らないからそんな悠長なことを口に出せるんだ、と唐突に怒った。こちらの会話に相当腹立たしくなったらしい。こっちは、歎いているばかりでは何も先に進めないだろう、戦前から変わる可能性は敗戦時に最もあったではないか、というようなことで反駁した。互いに大きな声は出さなかったが短時間議論となった。もしかしたら、敗戦時に一番希望に満ちあふれていたのは焼け野原になった街を歩き、眺めていたカップルたちだったのかもしれない。そう思いたい。

2020年9月11日金曜日

歴史からしばし離れてエッセイ・マンガ・小説

 <渡辺京二 『万象の訪れ わが思索』(弦書房、2013年)>:古くは著者が30歳であった1960年に書かれたものから最近までの約50年余に渡る短文がテーマ毎に101の章で掲載されている。語彙豊かに描かれている「万象」を自分はどれだけ理解できているのか甚だ疑わしいのであるが、少なくともその思考の深さと瑞々しさは以前と同じく変わらずに感じる。
 渡辺は25歳頃から公職の選挙では投票しておらず、その点だけは自分と共通である。投票場に足を向けない理由も似たようなものではある。これからも行く気はない。
 著者の本を読むときは、その内容に批評的な姿勢は持つことがなく、ひたすら書かれている内容について理解吸収しようと思ってしまう。が、結局は自分の思考の浅さ、表現力の低さを認識してしまう。語彙不足も痛烈に認識する。

 <都留泰作 『竜女戦記 2』(平凡社、2020年)>:まだ序盤、先の展開はまったく読めない。

 <足立紳 『それでも俺は、妻としたい』(新潮社、2019年)>:フィクション部分もかなり入っている「ほぼ実録」の私小説。書名の通り「妻としたい」とヤルことばかり考えている「ヒモ状態」の夫と、ある種の可愛さがありダメ出しをする心の広い豪快な妻との物語。笑って読んだ。但し、最後の「妻と笑う」と「エピローグ」は当たり前のどこにでもある状況になってしまい、トーンダウンしたような内容が面白くない。
 左手に缶チューハイ(多分)を持ち、フンという感じで右斜めに眼をやってベランダに立っている女性、その左にはブラジャーなどの洗濯物がぶら下がっている-この表紙の絵はこの本にとって秀逸である。
 著者とその妻は次のURLに登場している。https://www.bookbang.jp/review/article/595675。

2020年9月10日木曜日

戦前の日本に関するテキスト

 <筒井清忠 『戦前日本のポピュリズム』(中公新書、2018年)>:近代日本においてポピュリズム現象が日本に初めて登場したのは日露戦争後の日比谷焼き討ち事件(1905年9月)で、加藤高明政権(1924~1926年)と普通選挙実現(1925年)で本格化し、近衛文麿が空前の人気をとって内閣を成立させ、最後は日米戦争に繋がった。マスメディア(ラジオと新聞)でポピュリズムは展開され、支えたのは天皇シンボル(の利用)であった。結局のところ天皇というシンボルが利用され、何もかもが「天皇」というシンボルのもとで束ねられた。自分はそう解釈している。

 <荻野富士夫 『特高警察』(岩波新書、2012年)>:1911年に特高警察が創設され、敗戦の1945年まで存続し、特高警察の中枢にいた多くは敗戦後の公職追放が解除されてからは主に自民党の衆議院となって政治の側面において治安政策をリードした。身近な存在としては余り認識されないが現代の公安警察はその役割から言えば特高警察の流れの上にある。
 特高警察の大きな役割は「国体護持」であり、活動を支えたのは「治安維持法」。「労働運動死刑法」と呼ばれた治安警察法第十七条も警察にとっては大きな効力を発揮した。単純に戦前の日本を括っているのは「国体護持」であり、それはもちろん「天皇」あってのことだし、戦争での成果に大衆が歓喜したのも基底には「天皇」の存在があった。
 「特高警察」や「治安維持法」には、現在の香港(香港だけではないが)を取り締まる中国の「国家安全維持法」に同じ匂いを感じる。

 <纐纈厚 『侵略戦争 -歴史事実と歴史認識』(ちくま新書、1999年)>:書名からは中国・朝鮮などを対象とした侵略戦争をイメージさせられるが、本書の内容はサブタイトルの「歴史事実と歴史認識」がメインである。まずは「侵略思想の源流を探」り、続けて日本軍の「作戦・用兵の特徴」を論じ、ポツダム宣言受諾をめぐる支配層の思惑は何であったのかと続き、「天皇制軍隊の特質と戦争の実態」を明らかにし、戦前から現在まで続くその連続性と課題を述べている。内容が濃く、改めて勉強させられた。
 8月になると戦争での犠牲が語られることが多い。そして加害者としての行為は殆ど沈黙の中にある。これはよく言われるよう「歴史の「忘却」と「記憶」の問題」であって、すなわち「広島・長崎への原爆投下、シベリア抑留」は記憶するが、「バターン死の行進、南京虐殺事件、シンガポール虐殺事件、マニラ掠奪事件、ベトナム1945年の飢饉・・」は忘却してしまう。そして忘却した深層に入ろうとすると、「米英同罪史観、自衛戦争史観、アジア解放戦争史観、殉国史観、英霊史観」が表に出てくる。

 <辻田真佐憲 『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎文庫、2016年)>:虚偽の報告は虚偽を幾重にも重ねることになり、実態を隠す言葉をも発明し(玉砕・転進)、捏造、沈黙も増える。都合の悪いことは隠し、なき物としてしまい、曖昧な状況を継続させ、そして沈黙する。これは現在の政治・官僚でも繰り返されている。最終的には国民は離れていき、どうにかしたいという意識(戦意や真相追究)は低下する。
 「玉砕」という言葉は戦争中に長い間使われていたと思っていたが、大本営発表ではアッツ島から始ってタラワ・マキンの戦いまでの1年に満たないことであった。「皇軍の神髄」と美談化された「玉砕」をいつ頃から国民は「全滅」と認識するようになったのであろうか。現在でも「玉砕」を美しき散華のように捉えている人は少なくないであろう。その意味では大本営発表の「玉砕」発明の狙いは成功して現在に繋がっているということでもある。

2020年9月2日水曜日

雑記

 シャープのマスク抽選の第1回目に応募していたがずっと当選のメールが来ず、応募したこともすっかり忘れていたら18回目で当選したとのメールが来た。せっかく当選したことだし購入した。マスクはもう十分にある。

 A3スキャナーがやっと届いた。第一の目的は写真アルバムをデジタル化し、現物は破棄することにある。なるべくものを廃棄してしまおうという終活の一環。

 8月のウォーキングは21回(日)で累積129kmの距離、累積消費時間は20時間38分。1日60分をかけて6km強を歩くのは先月とほぼ同じ。この間の体重変化は殆どない-去年の同時期からは1kgほど減ってはいるが。

 飲酒頻度はほぼ一日おきでこれも2017年から変わっていない。今は外で友人と飲みたい気持ちが強いが今年はもう無理だろうし、来年もどうなるか分からない。

 自民党総裁選が毎日のニュースのメインになっているが、チラリと見るだけで、あとは新聞を読んで確認しているだけ。テレビで見るとこの日本の政治笑劇には苛立ちを感じるので見ないようにしている。安倍首相の時代は(夫人も含めて)低レベルの政治として歴史に残る。30年後、50年後の政治史の本を眺めてみたいものではある。否、高レベルの政治って現実に存在しえるものだろうか。

 衝動的にThe Dead SouthとBelinda CarlisleのアルバムCDを購入。また、友川カズキ、Patty Gurdy Buffy Sainte Marieの曲をYouTubeからDL。Petersennsのファミリー+1はYouTubeで見ていると暖かみがあって魅力的。

2020年8月26日水曜日

Hurdy-Gurdy


 YouTubeにてThe Dead Southを聴いていて、暇にまかせてあちらこちらのカントリー/フォーク音楽の動画を見ていたらPatty Gurdyなる女性の歌に惹かれ、次に彼女が抱えている楽器に目を奪われた。右手でハンドルを回し左手でキーを動かしている。初めて見る楽器でその音色ももちろん初めてで、ケルティック音楽に通じるようである。一体これは何という楽器なのか調べた。名称はハーディ・ガーディ(Hurdy-Gurdy)。
 日本では売っているものなのかと検索したら、本格的な楽器そのものは大きなショップでは販売しておらず、すぐに見つけたのはウクライナにあるUgearなるホビー会社からのもの。木製のキットで面白そうなので、好奇心を抑えられずにamazonから購入した。
 接着剤は不要でメカニカルに組み立てられ、その作り上げる過程がとても楽しい。あわせてその設計に感心した。3日間で合計8時間ほどの時間を要して完成。弦は一本しかないし、音程はド~シの6音で半音もない限られたものだし、独特の音色に対して連れ合いはウルサイという。でも完成品はなかなか美しい。

2020年8月23日日曜日

カード紛失、飲み過ぎ、芥川賞2作

 20日、イオンモールのATMにて手続きをしようとしたらキャッシュカードがない。この場で紛失したのか、あるいは自宅でなくしたのか、取敢えず自宅に帰って捜すも、見付からない。しようがないのですぐに銀行に電話をかけて紛失の届けをし、カードの無効化と再発行の依頼をした。自宅になかったことで紛失してしまった犯人は自分であるとの気配が濃厚になった。
 失せ物は諦めた頃に見付かるとはよくいったもので、翌日銀行から連絡があり、カードが届けられたとのこと。無効化を取り消してもらい、カード再発行依頼もキャンセル。紛失の犯人は紛うことなく自分だった。

 22日昼、シャンパンから飲み始め、すぐに2本目にも手が伸びて短時間で2本を空けてしまった。以降、昼寝と酔いによるかったるさが続き、久しぶりの飲み過ぎ状態に反省。連れ合いにも軟らかく窘められた。

 第163回芥川賞の2作を『文藝春秋』で読了。大衆娯楽性よりも芸術性があるとされる「芥川賞」は以前より楽しめなくなっている。小難しい芸術的抽象概念の理解力/受容力が低下しているのだろう。

 <遠野遙 『破局』(『文藝春秋』、2020年9月号)>:主人公は公務員を目指して就活する(慶応の)法学部の学生で、体躯を鍛え、大学ラグビー部に所属するのではなく出身公立高校のコーチを勤め、自慰的性癖がある。警官による不祥事/犯罪、タックルなど伏線が張られて物語は展開し、最期には押さえつけられて空を見上げる主人公には不愉快さを覚える。自律的であろうとする姿勢であるからこそ余計に不快さを覚える。登場する人物はみな若く、深みのない生活姿勢にまったく共感できない。

 <高山羽根子 『首里の馬』(『文藝春秋』、2020年9月号)>:幾つもの異世界がパラレルに語られ、それが退屈で、不要と思える饒舌さもあり、読み続けるのに苦痛を伴った。沖縄であることの必然性、唐突に存在する宮古馬、意義を有すると思えない資料館、クイズで繋がる個々の人、・・・・一つの物語を語ると言うよりも、バラバラの想念を狭い世界の中で繋ぎ合わせてバラバラに語っているといえばいいのだろうか。
 書名に「首里」があって、冒頭に「港川」が出て来るので、壮大な時空を飛び交う物語かと期待したが、拡がりのない孤立している人たちの独り言が続く。

2020年8月18日火曜日

1937

 <辺見庸 『1★9★3★7(イクミナ)』(金曜日、2015年)>:『週刊金曜日』に数ヶ月間掲載されたものに修正と補充を加えられ、本書が刊行された。その翌年に増補版が河出書房新社から、さらにその約9ヶ月後に完全版と冠がつけられて角川文庫よる出版されている。読んだのは金曜日版。
 頁を開くと、漢字にしてもよさそうな沢山の語が平仮名表記になっている。「かんがえる」「じんじょう」「かんたん」「かたる」「いっしゅん」「げんざい」などなど。どのような意図なのか。意味が直読できる漢字ではなく、発音記号としての平仮名が続く文章は読みにくく、目で読んで頭の中で漢字変換して二度読みしている気分になってしまう。
 1937年の1年を簡単に記してみる。2月に兵役法施行令が改正されて徴兵検査の身長が5cm引き下げられて徴兵の枠が広がり、5月末日に文部省から「国体の本義」が配布されて「国体」のあり方が強く定義づけられ、8月に閣議決定された「国民精神総動員実施要綱」と合わせて人々は国家の枠組みに堅固に囚れることとなる。NHKの「国民唱歌」の放送が開始され、その第1回は「海ゆかば」である。以降太平洋戦争中に日本軍部隊の玉砕をラジオで報じるときはこの「海ゆかば」が流される。1943年に少し脱線すると、この年の学徒出陣でも「海ゆかば」が流され、その際の行進曲は現在も自衛隊や防衛大の分列行進曲と同じである。なぜと言いたくなるし、一方では変わりようがないのかとも感じる。
 「国体」を象徴するのは、北一輝・西田悦が8月に死刑執行されたこと、10月には朝鮮人に「皇国臣民の誓詞」を配布し、12月に矢内原忠雄が筆禍事件で辞表を提出している。同じ12月には第1次人民戦線事件が起きている。
 先の戦争開始は1941年の真珠湾攻撃からと広く語られるが、重要なのは、1937年7月の蘆溝橋事件から始まることである。そして多くの論争を生むことになる南京大虐殺事件は12月に起きている。
 ヘレン・ケラーが来日して大歓迎を受け、「路傍の石」が新聞連載を始め、『雪国』が刊行されたのもこの年。これらの作家たちはこの時代の政治や社会にどのような姿勢をとって後世に残る代表作を書いていたのか、調べて見れば面白いかもしれない。因に今も続く文化勲章はこの年に制定されている。
 「露営の歌」が発売され、慰問袋セットが売り出され、日露戦争の頃よりはじまった「千人針」がこの1937年に全国的に拡がり、映画館では最初に「挙国一致」「銃後を護れ」などのスローガンを上映することが義務づけられ、要は戦時一色に向かっていく。スローガンは本質を見えなくするが、多分そのとおりだった。「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の熟語が「国民精神総動員実施要綱」に指導方針として書かれている。
 端的に書くのはとても難しいけれど、本書は刺激的でとても参考になった。物事を見る目、状況を詳細に描いていてもそこに「ナゼ」の視線を向けること、自分の視点の据えるべきところ、安直な判断や論理付けを回避すべき要点、表層的な天皇批判ではなくその深層-丸山真男流に言えば古層-に潜むものを見つめ考えること、等々。
 1937年の南京大虐殺における加害者がそのことをきれいに忘れ、1945年の被害者の仲間入りすることの論理展開を自分なりに一般化すると次のようになる。即ち、加害者としての立場を忘れ、被害者として振る舞ってしまうこと。それは加害については自分が痛みを覚えることがないので容易に忘れやすく、故に、加害者であることを自覚するには学習を要する抽象概念であって、被害者側に立つのは肉体的損傷のイメージが具体的に感覚されるからである。そもそも自らが何者なのかと自問することなくては自分に向き合っている他者の内面を顧慮することもできないではないか。このような気づきを改めて突きつけられた。
 1975年の天皇の記者会見。その後の茨木のり子の詩、藤枝静男の思い、朝日歌壇に所載された歌の切っ先が鋭い。

2020年8月16日日曜日

雑記

 渡哲也が亡くなった。長く俳優界で生きて人たちがなくなると「名優」と呼ばれる。この不思議さ。
 石原軍団と呼称されることに抵抗はなかったのか、テレビ番組で銃火器をぶっ放している無邪気さといえばそれまでだが。
 最初に勤めた会社を辞めるとき、所属していた設計部の送別会で8トラックのカラオケを初めて歌うことになり、そのときに取上げたのが「くちなしの花」。意外と上手いじゃないかと話しているのが聞こえてきた。渡哲也というとこの時の場面が思い出される。

 終戦記念日、同じセレモニーの繰り返し。
 降雨量の強弱で原爆症の認定が左右される。何故?症状で判断するのが基本と思われるが。いつわる人間が増えると際限がないという国会議員、あなたたちは何を守ろうとしているのだろうか。国がまずあって物事を見るのか、人々の生活がまずあって物事を見るのか、視座の位置がひっくり返っている。

 若い頃からずっと疑問に思っている。○○慰霊碑、△△記念(祈念)碑、これらを建立することで負の部分の全てをチャラにしてリセットしているとの思いが拭えない。悲惨な展示品を目にして過去の惨劇を振り返るのは重要なことだとは思うが、その心裏にはそれらを建てて終わりとする人たちの(行政の)思惑を感じてしまい、しこりが残る。

 多くの人たちを死に至りしめた責任が75年間も不明瞭であることは、どうしても此の国の無責任さ、真善美を希求する姿勢の欠如、などを思う。

2020年8月13日木曜日

暑い、『少年と犬』

 暑い。熱中症注意の呼びかけが流れており、市の広報からのメールもスマホに入ってくる。一昨日の6.2kmウォーキングもいつもよりは2-3分ほど長い時間を要した。昨日はいつもより早い時刻に外に出たが、既に気温は30度を確実に超えていたと思う。無理はするなとの連れ合いの言葉を守ったわけではないが、ショートカットして1km短い5.2kmでやめた。散歩/ウォーキング/ジョギングしている人は一昨日も昨日も一人しか見かけなかった。
 そして今朝、7時少し過ぎに起きたらもう暑い。連続オンしていたエアコンを5時半ころに止めたがまだ室内は冷えていたはずなのに、暑さで目が覚めた。今日のウォーキングは中止。天気予報を見ると9:00から20時頃まで気温30度超でピーク時には35度を超える。

 <馳星周 『少年と犬』(文藝春秋、2020年)>:1996年のデビュー作『不夜城』では「面白い、但しまともな人間が出てこない」とメモし、その翌年の2作目『鎮魂歌』では「ヤクザ、中国大陸の北京と上海、台湾、悪徳刑事.....こういった連中の殺し合い、騙し合い、裏切り、逃亡、追跡、暴力、ホモ、嗜虐性のセックス、金、.....。辟易としてくる」と記し、以降著者の本を手に取ることはなかった。何度も直木賞候補となっていたし、既に地歩を固めている作家なので今回の直木賞受賞には今更ながらという思いも含めて意外だった。そして本作は、過去の-少なくとも過去に読んだ2作の-作風とはガラリと変わっている。いつからこのような小説を描くようになったのは分からないが、本作は犬-名前は多聞-を軸にした温かい優しい連作。
 初出された時期を追うと、まずは最終話の「少年と犬」を描き、そこには東北大震災(2011年)のあった釜石から、2016年の熊本地震をつなげる少年と犬の物語がある。この最終話の5年間に渡る経過を冒頭からの5つの物語に編んでいる。「男と犬」は仙台、「泥坊と犬」で仙台から魚沼への移動、「夫婦と犬」は富山、「娼婦と犬」は滋賀、「老人と犬」は島根、最期に「少年と犬」に繋がる。多聞は賢く、時には異なる名前で呼ばれても都度の飼い主に寄り添い、常にある一定の方向を見つめる。何も語らない犬に、時々わが家にいたヨーキーを思い出しながら読んだ。連作テレビドラマになりそうな予感。
 犬が好きなので小説を楽しんだが、一方では作者の視線の向く方向にはどうも碌でもない人たちが多そうで、「少年」や「老人」を除いて裏道を歩む人が多く登場し、気持ちの中に抵抗感が浮かぶ。そして、小説全体に感動や感涙などの層を表面に敷き詰める軽さを感じがしてしまう。

2020年8月10日月曜日

暑い、ミステリー、戦死の本

 速歩でのウォーキングは8時から9時頃にはスタートし、汗びっしょりとなる1時間ほどの間に約1kgの体重が減る。もちろん水分補給ですぐに元に戻ってしまう。今のところ続けてはいるがいつになったら減量を実感できるのだろうか。

 暑いので午前中のウォーキング以外に外出することは少ない。数日おきにスーパーに行くか、時折酒店に行くぐらいである。日々の繰り返しと新型コロナの感染者数を確認しているとすぐに9月に入りそうである。

 <今野敏 『棲月 隠蔽捜査7』(新潮文庫、2020年/初刊2018年)>:7年ぶりの著者の小説、即ち7年ぶりの「隠蔽捜査』シリーズ。変わらぬ味を出している竜崎署長に伊丹、それに戸高刑事。サイバー攻撃と殺人を絡めたスト-リーで、スピーディーな展開と巧みな構成でほぼ一気読みとなった。

 <楢崎修一郎 『骨が語る兵士の最期 太平洋戦争・戦没者遺骨収集の真実』(筑摩選書、2018年)>:海外での戦没者240万人のうち113万人の遺骨がまだみつかっていない。海歿した遺骨、戦没した地の事情(中国や韓国など)で収集困難な遺骨、これらを除くと収集対象は約60万人となる。因にアメリカは40万人が戦死し、7万2千人が行方不明であるとのこと。
 書名の副題「戦没者遺骨収集の真実」とは、主に収集にあたっての諸事情の真実である。個々の死に至る瞬間の状況は遺骨から推考されるが、多くの戦没者からすればその数は極極僅かである。地に埋もれて放置され、また海に沈んだ戦没者の数は余りにも多すぎる。

 <藤原彰 『餓死(うえじに)した英霊たち』(ちくま学芸文庫、2018年/初刊2001年)>:先の戦争での日本人の戦没者数は一般民間人も含めて310万人。これは世界の中でとんでもなく多い数である。その内訳を記すと、軍人・軍属・準軍属の死者数は230万人、外地での一般邦人死者数30万人、内地での戦死者数は50万人である。何のためにこれだけ多くの人たちが死なねばならなかったのか、考えても簡単に答えが見出せる筈もない。
 そしてガダルカナル島では多くの兵士が餓死している。ここでの餓死は、単に一義的な飢えによって死んだということではなく、飢えによって誘発される栄養失調や、マラリア、下痢、脚気などによる死-広義の餓死-を意味している。ガ島に残った(残された)兵士の約7割が餓死し、ブナ・ギルワでも7割が病死し、白骨街道(もしくは靖国街道)と呼ばれたインパール、戦没者の8割が病死したビルマ戦線やフィリピン。彼ら餓死した兵士は一体何に向き合って戦って死んだのであろう。少なくとも美称した英霊という言葉では括りたくない。
 第1章「餓死の実態」につづけて、第2章「何が大量餓死をもたらしたのか」と餓死の実態を抉り、続けて第3章「日本軍隊の特質」で本質的な問題点を分析する。餓死者のパーセンテージについては反論もあるらしいが(秦郁彦の著書)、それについては深入りしない。数字の問題にすると(南京事件のように)あらぬ方向に向かってしまう。本書をテキストにして「日本軍の本質」から「日本の本質」をどう捉えるかを意識すればいい。

2020年8月1日土曜日

雑記、『「日本スゴイ」のディストピア』

 8月に入った。コロナ禍はいつになったらある程度の落ち着きを見せるのだろうか。政府の無能無策に呆れるだけで、ニュースを見るのにも嫌気をさしてくる。「現場を一番分かっている人に自律的に意思決定できる権限がなく、現場を知らない上の人が意思決定をする日本のシステムは危機管理に向かない」(小坂健、『朝日新聞』、2020.07.24)のだろう。あるいはよく言われるように「日本人は個々の能力は高いが組織化(システム化)すると3流になってしまう」のだろう。アベノマスクをめぐる国会議員のやりとりは面白くもない喜劇と思える。

 31日、午前中は娘と彼女の長男に頼まれて浦和を往復。2週間前も同様で、これで2回目。

 7月は速歩を22日おこなって、合計127.04kmの距離を歩き、費やした時間は20°29’。連れ合いと一緒のウォーキングを加えると174.5kmを歩いている。日常的な歩数を含めて7月の一日平均歩数は8,471歩。思った以上に歩いている、ちょいと出来すぎ。このペースでいつまで続けられるのだろうか。

 <早川タダノリ 『「日本スゴイ」のディストピア 戦時下自画自賛の系譜』(朝日文庫、2019年)>:満州事変(1931年)から1945年までの、「歴史のゴミ箱に捨て置かれたようなクダラナイ本、知っていても役に立たない本、人類の運命にとってはどうでもいい本」における「日本主義」、「日本にこんなスゴイものがある」、「スゴイものがある日本はスゴイ」の紹介。無論そこには現在の「日本スゴイ」に繋がる連続性がみられる。

2020年7月26日日曜日

ウォーキング、ミステリー1冊

 先月17日から再開した速歩でのウォーキング、踵の痛みは再発せずにいる。約6.2kmを1時間弱で歩いている。怠け心が出て来たとき、あるいは雨が降れば歩かないが、今のところはマジメに続けている。24日で今月の累積歩行距離が100kmを超えた。いつも同じコースを、スマホのアプリで距離と時間とペースを音声で確認しながら、またオールデイズのポップスを聴きながら、時には空想も交えながら、歩く。
 連れ合いが二日に一遍ほどに行っている1時間少しの夕方ゆっくりウォーキングにも付き合っているので、それを加算すれば歩行距離が伸び、一般的に目安とされている月間平均歩数8000歩も十分にクリアできる。しかし、昨日も今日も朝から雨。

 <早坂吝 『ドローン探偵と世界の終わりの館』(文春文庫、2020年/初刊2017年)>:奇抜な構成と謎とき。下ネタ満載エロミスの“上木らいち”シリーズほどには楽しめないが、読者は間違いなくダマされる。「世界の終わりの館」は北欧神話のヴァルハラに取り憑かれた男の建造物。

2020年7月25日土曜日

雑記

 20日に微酸性次亜塩素酸水を買いに行った。これで2回目、1.5リットルで300円と安価で、その上に地域貢献の一環とのことで不織布マスク3枚も頂戴した。増え続ける新型コロナ感染者、いつまで続くのやら。自宅には玄関にアルコール殺菌消毒スプレー、そして布マスクには冒頭の微酸性次亜塩素酸水を利用している。
 ウォーキングと買い物、たまに書店、更にコロナ禍が始まってから外食はたったの3回。あとは自宅に引きこもり状態。公共交通機関の利用も5ヶ月間なし。今後はどうなるのだろう。GO TO何とかも利用する気にならないし、政治もあてにならないし、この国は一体どうなって行くのだろうか。春日部市もこのところ感染者が増え続け、7月に入って30人が増え、あっという間に60を超えた。

 映画「ブレードランナー2049」を見た。コンピューター・グラフィックスが多用されているのだろうが、映像は素晴らしい。そしてエンディングに流れる静かな音楽がとてもいい。YouTubeからDLした。

AOKIマスクにダブルで当選

 マスク購入の抽選にずっと当選しないままでいたが、意外にもAOKIのクールマスクに当たった。しかも連れ合いと二人そろってのこと。でもこのマスク、肌触りはいいのに、耳にかける紐が伸びないので男性には小さめである。とりあえず材料力学でいうクリープ状態となることを期待し、水で濡らした上で負荷をかけて吊り下げている。うまくいかなければゴム紐による改造をするつもり。他にも洗えるクールマスクは持っているのでこのマスクに拘る必要はないのだが、こういうことには性格的に意地を張って望み通りにしたくなる。

 <三上延 『ビブリア古書堂の事件手帖Ⅱ ~扉子と空白の時~』(メディアワークス文庫、2020年)>:『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズのスピンオフ版2作目。1作目の「~扉子と不思議な客人たち~」は読んでいないので、栞子さんと大輔が結婚して子どもの扉子が登場する物語は本作が最初となる。今回の物語の軸は横溝正史の『雪割草』と『獄門島』。二人は2012年に結婚をし、その年に『雪割草』の最初の調査があり、9年後の2021年にその次の推理が展開する。舞台は扉子が高校生となる2030年頃にも拡がる。この年数の拡がりと物語の構成に無理を感じるし、栞子・大輔が以前のように活写されていない。小説の出版事情や変遷に関する薀蓄に興味が持てない、持てなくなった。

2020年7月21日火曜日

新書3冊

 <馬部隆弘 『椿井文書-日本最大級の偽文書』(中公新書、2020年)>:『偽書「東日流外三郡誌」事件』のような“面白さ”を期待していたが、極めて学術的な研究書で、多くの偽書を作った椿井政隆(権之助、1770-1837)の物語には入り込めなかった。興味を引かれたのは、偽書作成に用いられたテクニックや、近世から現代までこの偽書を活用している研究者や郷土史のあり方である。
 京都新聞の記事(2020年5月8日)が本書の価値を端的に述べている。即ち、本書は「地元の歴史関係者らに波紋を広げて」おり「特に関わりの深い山城地域では定説が覆りかねな」く「郷土史が再検証を迫られる」と。

 <井上寿一 『理想だらけの戦時下日本』(ちくま新書、2013年)>:主題は1937年から始まった国民精神総動員運動(精動運動)。「八紘一宇」「挙国一致」「堅忍持久」からおなじみ(?)の「ぜいたくは敵だ!」「パーマネントはやめましょう」「進め一億火の玉だ」のスローガンはこの時期が流布された。この時代に真摯に向き合うというより、これらのスローガンには嗤笑を抑えられない。
 本書は精動運動の色々なエピソードを並べているだけという感が強く、あとがきに著者の主張が述べられているが、精動運動の分析からの論理的展開が弱い。
 読み終わった今も、書名の「理想だらけ」の理想にどのような意味を持たせているのかよく理解できない。八紘一宇から日常生活の細部まで「理想」を求めることが蔓延した時代だったということなのか。

 <宮口幸治 『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書、2019年)>:非行少年たちのみならず、犯罪者たちへの見方が変わる。寛容的になるという意味ではなく、問題の深層に埋もれているもの、そして解決策とされていることが単にその場を繕うだけの表層的なことでしかないこと、それらが理解できる。特に、イジメの深刻さは社会的にもっともっと取上げられてもいいのではないかと思う。

2020年7月15日水曜日

4冊のメモ

 <氏田雄介/西村創 『54字の物語 史』(PHP研究所、2019年)>:「くりぃむクイズ ミラクル9」のクイズに使われ、何かの記事でも目にしたことがある『54字の物語』シリーズ。試しに一冊をと思い「歴史」を軸とした本書に目を通した。感想は、”つまらない”。
 冒頭は、
  「野生の土器は活きがいい。捕まえたら、縄でしばりつけておかないと逃げてしまう。多少縄の跡がついても気にするな。」
 あまり面白くないので、いやらしく作ってみた。
  「あいつの器は具合がいいらしいと夫が言った。嫉妬心から私は縄で縛って焼いてやった。まさか後世まで名を残すとは。」

 <青木理 『時代の抵抗者たち』(河出書房新社、2020年)>:青木理の対談集。登場するのは、なかにし礼・前川喜平・古賀誠・中村文則・田中均・梁石日・岡留安則・平野啓一郎・安田好弘の9人。社会を正視し、鋭い感性で歪みを捉え、想像力豊かに政治的な発言をすると、この社会では「抵抗者」となってしまう。このカナシイ現実。

 <島田裕巳 『大和魂のゆくえ』(集英社インターナショナル、2020年)>:紫式部が『源氏物語』で書いた「やまと魂」は「漢才」に対する語で戦前の「大和魂」の意はない。宣長の「大和心」もこの「やまと魂」と同様である。安丸良夫が「人間の頭脳が考えうるかぎり身勝手で独りよがりな議論」と批判した篤胤や、正志斎、松陰あたりから「國體」や「神国」の語と結びつき戦前に「大和魂」がピークとなり、今はスポーツで使われる。
 そもそも「○○魂」というのはよく分からない、というか違和感がいつもある。近くの中学生が背中に「○中魂」と書かれたジャージを着ていると一体誰がどのような発想でそのようなジャージを作って生徒に着させているのか、疑問が拭えない。出身高校の地である会津の「会津魂」の語もよくわからない。「利を求めず義に生きる会津魂」と説明されても得心に至らない。「○○魂」で一束からげ、そこに安住するというのは集団への「依属」というものであろうと思うのである。

 <一ノ瀬俊也 『特攻隊員の現実(リアル)』(講談社現代新書、2020年)>:特攻は対戦車(刺突爆雷)、桜花、回天、震洋、航空特攻があるが、ここでは最もポピュラーな航空機による特攻のみを対象とし、「特攻隊員たちの頭のなかにあったものは何なのか」を、資料をもとにして批判的に述べている。特に真新しいと思える論述はない。
 まえがきから次を引用しておく。「これまでの特攻論は、特攻隊員たちの死の意義を、戦後の平和と繁栄の礎と説明してきた。あたかも彼らは降伏と復興、その後の経済成長を知り、そのために命を投げ出していったかのようである。しかし、いうまでもないことだが、特攻隊員たちは1945年8月15日の敗戦を知らずに亡くなっていった人びとである。つまり、彼らの頭のなかには降伏も繁栄も存在しない」。

2020年7月1日水曜日

本一冊

<ハリエット・アン・ジェイコブズ 『ある奴隷少女に起こった出来事』(大和書房、2013年)>:本文からの引用で本書の内容を記す。
[Ⅰ 少女時代 1813-1835]
1813年ノースカロライナ州に奴隷の娘として生まれたリンダ・ブレント(ハリエット・アン・ジェイコブズの筆名)は、自分が奴隷であることを知らず、両親の庇護のもと6歳まで平穏な子ども時代を送る。その後、母の死により、最初の女主人の元で読み書きを学び、幸福に暮らしていたが、優しい女主人の死去のため、医師ドクター・フリント家の奴隷となり、一転不遇の日々が始まる。
15歳になった美しいハリエットは、35歳年上のドクターに性的興味を抱かれる。ドクター・フリントから逃げ回る奴隷の不幸な境遇に、たった一人で苦悩するハリエットは、とうとう前代未聞のある策略を思いつく。
[Ⅱ 逃亡 1835-1842]
サンズ氏の子どもを身ごもることで自由の道を開こうとしたリンダに対し、ドクター・フリントの変質的な執着は止むどころか、いまや子どもたちも彼の支配下に入れられ、プランテーションで奴隷として調教されることになる。リンダはふたたび自分と子どもの自由のために一計を案ずる。どしゃぶりの雨が降る真夜中、プランテーションから逃げ出したリンダには懸賞金がかけられ、報復のために子どもたちは牢に入れられてしまう。
[Ⅲ 自由を求めて]
7年間の屋根裏生活のあと、突如訪れた危機と幸運に助けられ、リンダは北部フィラデルフィアに向けて出発する。別れた娘エレンと再会するが、サンズ氏の約束とは裏腹に、娘は女中として遇されており、リンダを失望させる。
子どもたちと一緒に自活するために、ニューヨークで働きはじめるリンダに、フリント一族の追手がせまる。逃亡奴隷法成立により、ニューヨークでも奴隷として追われるリンダは、我が身の安全よりも、自由という栄光を獲得するために、自分がなすべきことを考えはじめる。
最終的にはブルース夫人の大いなる援助があってリンダは自由を獲得する。
奴隷制という制度は、奴隷を過酷な生活に貶めたことは間違いないが、(著者の指摘にもあるように)一方では白人に自らの残虐性を気づかせたとも言える。制度(法律)がなければ残虐性を表に出さずに済んだ白人もいたのではなかろうか、そんなことがふと頭に浮かんだ。

 佐藤優が解説にて「本書の翻訳は実に見事だ。英語から正確に翻訳しているというだけでなく、リンダの心象風景が読者にリアルに伝わる」と述べている。しかし、訳された文を読んでも何を述べているのかよく分からずに何度か読み直す箇所が幾つかあった。直訳調であるとも感じたが、これには訳者の意図を入らせずに「意訳」にならぬようにした結果であろう。

2020年6月27日土曜日

雑メモ、『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』

 娘から青梅と氷砂糖をもらった。2年前に作って殆ど手を付けていない梅酒は焼酎ベースなので、今度はウィスキーで作った。ウィスキーを変えるとどうなるかとの遊びもあって、Ballantine’sとJim Beamの2種類。

 トイレのタンクの自動洗浄モーターが動かない、と思ったら翌朝には正常になり、一日おいたらまたダメになる。これは直さなくちゃと、まずは原因がモーターそのものにあることを確認し、メーカーのパーツセンターに連絡。だが、このモーターは個人には出荷せず、業者の施工になると言われてしまった。業者に頼むと部品費のほかに出張費とか技術料とかが嵩むはずので、自分が直せると己の知識と技術をアピールして交渉し、何とか特例として送ってもらうこととした。便座も自分で修理交換したし、たかがモーター一個で業者の高くなる修理費を払うつもりはない。そしたらば、翌日にまたもやモーターは正常に動くようになった。3日後に部品が届いたがまだ交換しないで済んでいる。不具合が再発し,交換したいのだが、複雑な気持ち。これも「マーフィーの法則」の一種なのか。

 配布されたアベノマスクに虫がいたとの記事を見て、矢張りと思い、アベノマスクを未開封のまま廃棄。
 運試しにマスクの抽選に応募。SharpもAOKIも当選しない。抽選待ちはMIZUNOだが、多分ダメだろう。

 ケーブルテレビのSet Top Box内蔵のHDD再生不具合が生じる。以前より発生していたが小さな障害だし、こちらの操作異常かとも思い長い期間放っておいた。しかし、最近頻度が多くなってきたので技術サポートセンターに連絡。その日のうちに来て下さった。しかし、不具合が再現しない。でもSTBをリセットしているデータが確認でき、結局はHDD不具合が疑われるということでSTBを交換。レンタル品はこのような時に有効である。

 本を買い取ってもらう。今年に入って3回目で計59冊。

 マリリン=モンローのDVD12枚セット+1を購入し、日を置きながら夜に自室で観ている。Shocking Blueの13CD BOXも買ってしまった。60年後半から70年全般の空気が耳元に流れる。

 <管賀江留郎 『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』(洋泉社、2016年)>:直前に読んだ本のメモを取るのにかなりの日にちを要し、そしてまた今度も約520頁の本書を読むのに長い時間をかけてしまった。
 読み始めると冤罪事件や殺人事件-二俣事件と浜松事件-に多くの頁が割かれ、そこには拷問刑事として著名な紅林麻雄刑事や時の警察、弁護士などが詳説され、法医学者も糾弾される。書名にある「道徳感情」が何を意味しているのか、読み進めてもよく分からず、この本はかつての冤罪や殺人に関する詳細な解説書なのかと肩すかしをくらったような気持ちもあった。が、「13 進化によって生まれた道徳感情が冤罪の根源だった」に入ってやっと理解できた。ベースにあるのはアダム=スミスの『道徳感情論』であり、あとがきから引用すると、本書は、「冤罪すべての根本原因を解き明かし、さらには冤罪や殺人だけでなく、大恐慌や戦争、テロや革命に至る人間の歴史を動かす原理が<道徳感情>であるなどという」「人間の壮大なる統一理論を展開」するものである。大恐慌や戦争、テロや革命に関してこうも<道徳感情>や<認知バイアス>で言い切ってしまっていいのだろうかとも思うが、一方では所詮人間のやることだから突き詰めれば単純なことなのだろうとの首肯もある。

2020年6月20日土曜日

踵骨棘、『ルシファー・エフェクト』

 13日に約一ヶ月ぶりにまたもや左踵が痛くなり、二日間は歩くのが辛かった。鎮痛剤と消炎剤(どちらもロキソニン)が少なくなったので月曜日(15日)にいつもの整形外科医院に行った。レントゲンをとって原因はいつもの踵骨棘。これはもう体質的なものなのかもしれない。昨年の3月は左踵でこれは暫く続き、今年に入って3月は右踵、5月に左踵、そして今度。以前は一旦症状が出ると暫く長い間は痛みが続いたが、今年に入ってからは症状がでても1週間も経たずに痛みがなくなる。医者は、痛みがひいたら歩いて体重と中性脂肪を減らせという。次に痛くなっても、体重が目に見えて減っていないとこの医院には行きづらくなってしまった。
 17日に約1時間6.2kmのウォーキングを10日ぶりに再開したが、今度こそ続けてやろうとしている意欲を削ぐように翌日から二日間は雨になってしまった。怠け癖のある気持ちに天邪鬼な天気、明日は晴れるか。

 <フィリップ・ジンバルドー 『ルシファー・エフェクト ふつうの人が悪魔に変わるとき』(海と月社、2015年)>:参考文献一覧を除いた本文だけで750頁強あり、読みごたえのある分厚い本、数年前に購入した本書をやっと読み終えたという感じである。「スタンフォード監獄実験」について半分以上の頁数が割かれ、次に「アブグレイブ刑務所」、そして「悪をめぐる実験の数々」では「青い目茶色い目実験」、「ミルグラム実験」なども概説されている。
 スタンフォード大での実験は、これをモデルにした映画『エクスペリメント』を観たことがあるので概要はほぼ理解していたし、イラク戦争後の「アブグレイブ刑務所」もあのおぞましい写真の記憶がある。言ってしまえば”人間はおかれた状況でどうにでも変わる”し、「悪の陳腐さ」もハンナ・アーレントで一般化された。
 人間および人間社会の業とでも言えばいいのか、それを詳しく読むことができた。しかし、この本に描かれる人々の所業は別世界の極限状況下で出現するのではなく、相似的にさまざまな場面で確認できる。即ち、システム化された中ではいかようにも観察できる。悪しき状態に引っ張り込まれないようにするには第16章の「望まない影響力に抗う方法を身につける」の10項目を心することである(原文ではwww.lucifereffect.comで確認できる)。簡単に言ってしまえば、システムの中で自立・自律することであり、その方法論がその10項目であろう。

2020年6月12日金曜日

長髪化断念、特別定額給付金、文庫本3冊

 伸びた髪がうっとうしくなり、若い頃に回帰せんとした長髪化は断念した。今年初めての、約半年ぶりに散髪をする。髪を切ってくれる人のマスク姿は何ら違和感はないが、鏡に映り、はさみを入れられている自分のマスク顔にはやはり違和感よりも異常の空気を感じ取ってしまう。
 深夜、特別定額給付金が振り込まれた。振り込まれたことを知らせる、ゆうちょ銀行のスマホ通知音がこうるさい。10万円/人で助かる人・家族、一方ではボーナスとしか感じない人たちもいるわけで、ある種の不条理な世の仕組みを覚える。

 <山本巧次 『留萌本線、最後の事件 トンネルの向こうは真っ白』(ハヤカワ文庫、2020年)>:存続が困難とされている留萌本線であって、最早廃線は不可避であろうからと「最後」が書名に付けられているのだろう。廃線反対を訴えるために峠下トンネルの中に車両を止めてハイジャック。かつて鉄道を利用した炭砿などへの郷愁を感じさせられるところはあるし、犯人たちと道警のやりとりはそこそこ面白かった。しかし、若い女性ふたりの軽さや、私欲で権力を使う代議士、癌に罹っている犯人などの設定に安易さを感じる。
 初めての、名も知らなかった作家で、期待を抱いていたが、西村京太郎的作風と捉えた。

 <都築響一 『独居老人スタイル』(ちくま文庫、2019年/初刊1913年)>:ここに登場する独居老人たちはいずれも「我が道」を確実に持っていて-故に中には奇人変人と呼称される人もいるが-、色気があって依怙地(意気地)であって、この世はこんなものさとの諦観を秘めている。著者は現在60代であって、70歳になるころの自分を「ご近所からはなんとなく不審な目で見られ、金銭的にもラクにならず、本人だけはハッピーだと思っている」と確信に近い予測を行っている。そこで71歳になっている(独居ではない)老人である自分がこのような本を読んでいることに何かしら気恥ずかしい場違いな気持ちになっている。本書に書かれる老人は確かに独居ではあるけれど、「独居」というのは独り居することではなく、どこにも寄生することなくまた他に追従することなく、独りとしての生き方を探し続けることであるはずだ。

 <井上ひさし 『十二人の手紙』(中公文庫、2009年/初刊1978年)>:なんとまあ、井上ひさしの本は23年振りのこと。そして本書の初出は1977~78年のことだからもちろん時代的古さはある。その頃の自分は転職(正しくは転社)活動真っ最中で、長女が連れ合いのお腹の中にいた20代後半であり、たった42年前という時間経過であり、現在と当時との時代の隔たりは然程感じないで読んだ。それよりも上手い連作集であると感じ入るばかりで、特に「玉の輿」で書かれる通信文の多くが書物からの引用であることに著者の洒落気というかイタズラ心というか、エヘヘとほくそえむ著者の出っ歯で眼鏡の顔が浮かんできた。楽しめる。
 携帯電話もない時代、手紙が主流だった時代が懐かしい。相手に伝えるべき言葉・文章を何度も考え、受け取った手紙の行間から相手の意図や気持ちを読み取り、自分の表現力の低さにため息をついていた頃、今よりはまだ言葉の重みがあった。スタンプで置き換えられるか、短い文章でチャッチャと済まされる現代において、便利さと共に失ってしまったことはとても大きいと感じる。当時多くの人が持っていて今は失ってしまったもの、そして当時持っておらず今得ているもの、それらは個々人の意思伝達システムという側面ではバランスがとれていないと感じる。

2020年6月5日金曜日

雑記

 2日、アベノマスクが届いた。嗤笑。使うことはない。

 <都留泰作 『竜女戦記 1』(平凡社、2020年)>:『ムシヌユン』以来、2年ぶり。このシリーズも6巻ほどになるのであろうか。主婦”おたか”の天下取り物語。平凡社のコミックは珍しいのでは。

2020年5月31日日曜日

明日から6月

 明日から6月、2月18日を最後に公共交通機関の利用や大型店での買い物などをしていない。生活範囲が極端に狭くなってさすがに閉塞感は否めない。まだまだ続くような気がする。家で飲むことしかしていないと矢張り店で出す酒のつまみが欲しくなるし、若いアルバイトの女の子にハイボールのお替わりを頼みたくもなる。しかし、同じように閉じこもった生活をおくっている連れ合いを家において1人で外に飲みに行くのには罪悪感があるし、たとえ友人に誘われても電車に乗って夕方から飲む気持ちにはならない。

 <駄場裕司 『天皇と右翼・左翼 -日本近現代史の隠された対立構造』(ちくま新書、2020年)>:対立構造が、横軸に天皇家と伏見宮系、縦軸に親英米と反英米の4つの事象で区分され、そこに人物名や組織名が当てはめられる。そういう単純なものなのかと違和感は残る。
 緒方竹虎や笠信太郎時代の朝日新聞、60安保闘争時の朝日新聞と産経新聞の立つ位置、ブント全学連闘争の目的、宮中某重大事件や美智子妃排斥の宮中の動き、そこに絡む朝日新聞、等々はスキャンダル誌を読むようで楽しめた。昭和に入ってからの人物は誰も彼も少なくとも名前は知っており、彼らがどういう人脈の中におり、また姻戚関係にあるのかが描かれ、面白くはあるが、それらを知ったところで酒場談義の中で衒学的にしゃべる雑学の類でしかない。

2020年5月26日火曜日

緊急事態宣言解除

 緊急事態宣言解除される。でも2週間後の状況を見極めてから自分自身に解除可否判断をしたい。

 <古谷田奈月 『神前酔狂宴』(河出書房新社、2019年)>:神社に併設されている高堂会館、そこに派遣されている浜野。高堂会館に出張奉仕する椚神社併設の椚会館の人たち。
 神社に併設されている会館で働く人たちとは、神(天皇)のいる国に住んでいるこの国の人びとを彷彿させ、その人びとは意識せずとも神を意識せざるを得ず、本に描かれる狭い世界がこの国を暗喩しているようである。
 会館で結婚式をあげる新郎・新婦は神前で何を誓うのか、永遠に誓えるのか、そこに疑念を持ち、親兄弟と疎遠にしてさして向上心もない主人公/浜野と、それを取り囲む人たち全てが滑稽である。棘があるようでなく、皮肉を充たすわけでもなく、毒もなく、炊ききれない米を食しているような感あり。

2020年5月25日月曜日

ベストセラー小説一冊

 土曜日(23日)、前立腺炎の再診で今回はこれで御仕舞い。踵の痛みもなくなったし、まずは一区切りがついた。

 <凪良ゆう 『流浪の月』(東京創元社、2020年)>:立ち寄った書店にたくさん平積みになっているし、新聞での宣伝も目立つし、ついふらふらとベストセラーの誘惑に負けて手に取りレジに向かってしまった。
 主な登場人物は、父親が死に母親が出奔し伯母の家に預けられた更紗、ロリコン(実は肉体的成長に障害があった)佐伯文、母が男と旅行してその間は更紗に預けられる梨花、DV男の亮、文が手を出してこないことに悩む谷。物語のバックにいるのは、マニュアル通りに育てようとする文の母、世間的同調の中に押さえ込もうとする更紗の小学校の担任と伯母。そしてスキャンダラスな物語に寄生する世間。
 伯母の長男中学生の猥褻行為もあって、更紗は避難的に文のところに入り込み、それが幼児誘拐事件になってしまう。そして事実を探らずに短絡的に間違った方向に結論を見出す警察、面白おかしく勝手な解釈で文を犯罪者とし更紗を被害者として記事を流してしまうマスコミ、そのマスコミに依存して執拗に誹謗中傷を垂れ流す世間という名の人びと。
 愛とか恋とかでなく、自分の居場所を互いに認める文・更紗そして梨花。世の中がどう中傷しようが誹謗しようが、それに抗うのではなく、馬耳東風的に流してしまって世間の喧噪から離れてどこかに居場所を見つける。大上段に愛とか恋とかを求めるのではなく、全ての生活様式を、息づかいを相互に受け容れる優しさというのか、それが文・更紗・梨花のいる場所である。世間と相容れない主人公たちの唯一安心できる世界がそれなのであろう。
 ミステリーっぽく展開する物語で引き込まれて読んだが、何か物足りない。それは、子を棄てる(子から逃げる)母親の描写がなく、また、不条理な世間に対し主体的に抗わない、怒らない、主人公たちの姿勢にある。彼女・彼が求めるのは、世間に抗うのではなく、そんな世間は打棄っておき、あるいは逃げてしまい、自分たちだけの小世界を守ることなのである。20~30代の男女のメルヘン的要素の入った現実逃避行物語。

2020年5月22日金曜日

坂口安吾

 坂口安吾は魔の退屈と歯の痛みを書いた。尿管結石と前立腺炎は味わったことはなかったのであろう。
 20日、数ヶ月ぶりに外食をした。混むのはいやなので11時の開店直後に馴染みの店に入りラーメン+α。久しぶりなのでたったこれだけで解放された幸福感を味わえた。
 ついでに、車を置いていたイトーヨーカドーの小さな書店で本を眺め、ついつい小説を2冊衝動買い。小説は読んでしまえば段ボールに放り込んでしまい、ある程度の数がまとまれば売ってしまうだけ。小説は定期的な消耗品である。ここ暫くはその消耗品に安易に手を出していることに少しばかり後ろめたく、高校校歌の「難きを忍び 易に就かず」の一節をふと思い浮かべる。

 <坂口安吾 『不良少年とキリスト』(新潮文庫、2019年/初刊1949年)>:初刊からは2編が外され、3編が追加されている。収められている全編は1947-48年の発表であるから自分がまだこの世に生まれる1~2年前。口絵の写真(銀座ルパンで林忠彦が撮影)はもう昔から見慣れているものだが、安吾の背中が写っていることは初めて知った。2018年にはじめてトリミングなしで公開されたもので、多くの人が驚いていたらしい。
 座談会に臨んでいる面々は安吾・太宰治・織田作之助・平野謙で、20歳前後に無頼派と第三の新人の作家に入れ込んでいたので、この作家・評論家たちはなじみ深く、座談会は20歳前後のかつての自分からみても既に20年ほど前のものだった。なぜ無頼派や第三の新人の本をよく読んでいたのか-太宰は数冊でやめた-今ではよく分からないが、今も関心の強い戦後、その時代の作家ということであったからであろう。
 「不良少年とキリスト」、ストレート、小気味よく圧巻、少しばかりフツカヨイの匂い。掌編の「復員」は若松孝二監督の「キャタピラー」を思い出した-復員兵の心境は真逆だが-。

2020年5月21日木曜日

急性前立腺炎、『太陽黒点』

 18日、踵の痛みが殆ど消えかけている。数ヶ月は続くと予想していたが随分と早く回復しそうである。と思ったが、夜、寒気がして早く寝る。数日前から排尿時に異常を感じてはいて、この状態が続くようなら21日に病院に行こうとしていた。しかし、19日未明から排尿時の痛みがひどくなり、5年前の急性前立腺炎が再び襲ってきてしまったのであろうと、病院に足を向けた。当初21日に行こうとしたのは昨年末より夜間頻尿で薬を処方してもらっている医師の方がいいだろうと思っていたからだが、痛みがひどくなってきたために待っていられなくなった。診断結果はやはり前立腺炎で、処方してもらった薬(レボフロキサシン500)を服用しこの日も早めに寝る。日付が変わってからが辛かった。均すと約1時間おきに尿意をもよおし便座に座るも排される尿の量は僅かばかりであり、しかも排尿直前がかなり痛い。堪らなく痛い。これが深夜1時から始まって9時過ぎまで続いた。それ以降は徐々に回復傾向となってきた。土曜日に再診。
 19日、上記の如く体調が良くないせいでいつもよりは食事量が減り、その結果であろう1.3kgの体重減となった。昨年11月に風邪を引いて寝込んだときは1.5kg落ちたから、これは病の効用と言ってもいいだろう。課題はその落ちた体重を維持できないこと。

 <山田風太郎 『太陽黒点』(角川文庫、2010年/初刊1963年)>:渡辺京二さんの本を読んでいて、その中に本書がでていた。山田風太郎の代表的ミステリーと称されている本書は知らなかった。何故か坂口安吾の『不連続殺人事件』(昭和23年刊)を思い出すのは、自分が若いときから、敗戦直後から十数年間の時代に強い関心を持ち続けているからであろう。
 昭和38年に刊行された本なので描かれる時代風景はもちろん今から見ればセピア色。本書のキーワードは「遠隔操作」「誰カガ罰セラレネバナラヌ」その後景にあるのは前の戦争。殺人(交通事故として扱われる)に至るまでのシナリオには無理があるが、無理の中にも筋が通っていて、さもありなん、と思えばいいだろう。登場する人物の状況、閉塞性、戦争の引きずられ方、どれも同時代的に感情移入できる。が、彼らに共感するものではなく、一言で言えば、閉塞性の中で人が愚かさをかき混ぜていると、突き放した気持ちにもなる。

2020年5月16日土曜日

AV女優の本、女性作家のハードボイルド

 <沙倉まな 『春、死なん』(講談社、2020年)>:木更津工業高専生だったときの19歳頃にAVデビューしたとのことで、本作には『群像』に掲載された「春、死なん」と「ははばなれ」の2編が収められている。文章は上手いと感じたが、小説としてはどうかなと思う。書名となっている表題作はいろいろと詰め込みすぎて発散気味になり、ばらばらのまま非現実性を現実っぽくみせて着地させたようになっている。70歳の男性に焦点を絞っているようだが、そこに死んだ妻や、温和しげな息子と輪郭が不明瞭な嫁、中途半端な孫、かつて一度同衾した1歳年下の女、それらがバラバラになっている。もう一編はつまらない。
 工業高専在学の女性が性行為の躰をカメラの前に曝す心境は全く理解できないし、想像も出来ないが、そのような女性がどのように文才を発揮しているのか、帯に書かれた高橋源一郎の「どれもありふれた光景のはずなのに、どうして、こんなにも新鮮なんだろう」が読書欲を刺激し、書店で衝動買いした1冊。

 <柚月裕子 『凶犬の眼』(角川文庫、2020年)>:10日に衝動買いした4冊を4日間で読んだ。小説や軽い本は早く読み終えてしまう。
 本書の作者の本は『孤狼の血』から始まり、本書はそのシリーズの2作目。広島県の架空の地における警官とヤクザの物語。
 3作目が刊行されているが文庫本になるまでは読まない-本作のように文庫化にあたっては加筆修正があるかもしれないし-。

2020年5月14日木曜日

踵の痛み、音楽ミステリー

 二日前の早朝から左足踵がかなり痛い。歩き時も左足を引きずってしまう。腫れはないし、原因はさっぱり分からない。ぶつけたのかも知れないがその覚えがない。暫くすれば治るだろうと鎮痛薬服用と経皮鎮痛剤貼付を施しているが3日目の今日も症状はよくならない。近くのよく行っている整形外科医院に行ったが生憎と休診日だったことに気付いた。昼から酒を飲んでいたら少し痛みが軽くなったような気がする。酒は百薬の長なのか、否、単に酔いが痛みを緩和してくれるのか。病院に行くのは明日の痛みの程度次第。

 <深水黎一郎 『最高の盗難 音楽ミステリー集』(河出文庫、2020年/初刊2017年)>:「ストラディヴァリウスを上手に盗む方法」「ワグネリアン三部作」「レゾナンス」(純文学的短編)で、前者2つで描かれる4編はこの表題に沿うミステリーっぽい物語。悪く言えばクラシック音楽のマニアックな知識を大きく広げてそこに推理小説の味付けをしているだけ、というようなもので、よく言えばクラシック音楽を広い意味で-聴くだけでなく読むこと見ることなどを含んで-楽しみ、さらに好きなミステリーも加えてクラシック音楽愛好の世界をさらに拡げている。
 本書に書かれている音楽知識やエピソードには知悉していないが、読むことには抵抗はない。つまり、作曲家や土地、楽器、作品名は知っているし、聴いたこともあるが、それらを解説できるほどには詳しくはない。だからであろう、それらに関して細やかに記述されると少し面倒くさくなり倦み気味になる。
 ワーグナーに関しては、48年ほど前に購入したベーム/バイロイト祝祭管弦楽団の「ニーベルングの指輪」-16枚組LPセット(0239の番号が付されている)-に始まったが、そこからは未だに展開していない状態だし、その「指輪」にしてももう何十年も通しで聴き直していない。よってかつて友人が教えてくれた「ワーグナーの毒」に染まることもなく未熟なままでいる。

2020年5月12日火曜日

最後のトリック、暇潰しの一冊

 政府がらみのニュースを見ていると実に不快な気分に陥る。だから繰り返しては見ない。物事をキチンと理解しようとしない、否、もともと理解できる能力も、理解しようとする能力も有していない、こういう人たちはとても打たれ強いし、焦点のずれた言葉を弄ぶ。

 <深水黎一郎 『最後のトリック』(河出文庫、2014年)>:「読者が犯人」が本書の惹句であるが、「読者」はこの文庫本を読んでいる読者ではなく、本書の中に描かれる小説を読む人のこと。しかし、その読者が罪を犯す訳ではなく、病的原因で死ぬ登場人物が読者を意識することで死ぬのであり、その人物が「読者が犯人」と主張するだけである。ここには道徳的にも法的にも犯罪はない、よって実際には犯人はいない。
 独創的なパズル(ストーリー)の中に個々のピース(シーン)をうまく嵌め込んでいるが、自分の趣味の枠からははみ出している。超能力や本書の骨格となる「手紙」に書かれる、普段目にしない漢字-例えば繖形・虞れ・心悸・簇がる・瞞着等々-は楽しめた。豊富な語彙に接するとわが身の語彙欠乏が嘆かわしくなる。

 <別冊宝島編集部 『教養としての日本の上級国民』(宝島社、2020年)>:イトーヨーカドーにある小さな書店で衝動買い。暇潰しの一冊。章立ては、安倍家、総理輩出の政界「名門」、財界、キャリア官僚、メディア、令和のニューエリート。閨閥の系図を見ていると、平安時代の中央政府のそれを見ているような気になるし、財閥を見ると明治の官営事業払下げを直感する。政財界の閨閥を存続させている限り、そこにあるのは男性優位の社会であり、少なくとも政界での女性活躍は遠い先のことと思う。

2020年5月10日日曜日

高校初登校、近代関連の新書

 7日、娘の長男が高校初登校。いまのところは今月いっぱいまで休校で、来週からはタブレット活用もあるらしい。本来なら国内遠隔地でのイベントなどもあるのだが諸々の行事がなくなった。海外への研修旅行もなくなるであろう。夏休みがなくなるのは本人も覚悟しているようである。
 制服姿を見せに来て、改めて大きくなったと思うし、大人になって来たと感じる。まだネクタイはちゃんと結べないようである。

 <渡辺京二 『近代の呪い』(平凡社新書、2013年)>:本書での「近代の呪い」とは①インターステイトシステム、②世界の人工化を意味している。
 近代以前、民衆の社会はその内部で強固に自立しており、その民衆社会の上に成立している藩や国家的次元での物事に、民衆は無関心であったし直接的に結合していた訳ではなかった。例えば、馬関戦争時において長州の民衆は外国軍の物資運搬をしていたし、会津戦争では民衆は藩の危機に我関せずの態度であった。英仏戦争時においても国民と国民の戦争ではなかった。このように、国家と関わらない民衆世界の自立性(自律性も)を滅したのが近代であった。
 知識層は国外の世界を見て自国の半文明性を知り、外国との経済競争勝利を目標におき、いわゆる富国強兵を目指した。国家のために民衆を教育し、国家のために民衆を動員し、結果、近代化によって国家の動向が民衆生活に直結するようになる。近代以前、民衆は自然と共生するのであるが、近代では国家経済の安定をはかり、人工的世界を築くために自然から資源を収奪するようになる。
 その近代から現在に繋がる国家に属して自分も生きているのであるし、国家に管理され、また援けられているのであろうが、自分は、自分という存在、精神的あり方を独立して持っておきたいと思う。

2020年5月5日火曜日

嬉しいマスク、明治を描く本

 自宅を設計建設した工務店から臨時の通信誌が届いた。中にはマスクが8枚入っていた。自宅には50枚強のストックがあるとはいえ、近辺のドラッグストアにはまだマスクは販売しておらず、この工務店さんからの心遣いはとても嬉しく、お礼の言葉をファックスで送信した。

 <渡辺京二 『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』(平凡社、2014年、2014年)>:明治を生きる人びとを活写しているとき、読む側としては二つの時代を読むことになる。通常はそこに描かれた明治という時代に思いを馳せる。一方では明治を見る作家が生きていた時代である。後者の場合、二つの時代に関する知識を持っていなければならないし、広範な深い思考も求められる。これが本当に難しい。それを気づかされるのは畏敬する本書の著者である。いつか読まなければならないと思いつつも放っておいた著者の沢山の本から近代を扱う本書を開き、改めてそう感じ入った。
 1~3章までは小説の作家をあつかっている。山田風太郎・坂口安吾・大下宇陀児・司馬遼太郎などである。正直なところ、対象となる作品を読んでいないのに著者の詳説を読んでもなかなか入り込めなかった。4章以降は、士族の反乱、民権運動の中で一般的には知られていない人を論じ、最終章では内村鑑三を取上げている。いずれも明治という時代の「谷間」を照射して人びとを物語る。歴史学者がものする歴史書とは異なった視座を与えてくれる。

サン=ジョルジュ、『近世史講義』

 30年ほど前に砂川しげひささん-昨年亡くなってしまった-のクラシック関連の本を何冊か読んでいた。そこに書かれていたサン=ジョルジュの協奏交響曲作品13に惹かれて何度か購入しようとしたが叶わなかった。『なんてたってクラシック』(73頁)と『聴け聴けクラシック』(105頁)に紹介されている(他にも書かれているかもしれない)。
 30年ほど前から今に至るまでこの曲のことは記憶に残り、何度か思い出しては手に入れようとするも販売しておらず、サン=ジョルジュはNAXOSのヴァイオリン協奏曲2枚を購入しただけでいた。今回もなんとなく思い出してネットで探したらCDが見付かった。ERATOの“CONCERTO POUR LA REINE MARIE-ANTOINETTE AU PETIT TRIANON”(邦題は”ヴェルサイユ宮殿、小トリアノン宮における王妃マリー・アントワネットのための音楽会“)で、本に書かれていた内容と多分同じ演奏で、1964年録音のパーヤール指揮パイヤール室内管弦楽団。
 届いてからすぐに聴いて、出だしからすぐに好きになった。軽快で明るく、屈託がなく、丁度いまの青空の季節にピッタリする。アルバムに収められたゴセックとショーベルト-シューベルトではない-の曲も邪気のない軽やかで楽しめる(両作曲家の名前はここで初めて知った)。

 <高埜俊彦・編 『近世史講義-女性の力を問い直す』(ちくま新書、2020年)>:「はじめに」に書かれた文章を要約すると、本書の内容は次のようなものである。すなわち、江戸城や大名家の奥向きの女性がそこで果した重要な役割を描き、天皇家や公家に存在していた女性の実態を探っている。また、村落の百姓家に居住する女性の権利や処遇を論じ、長崎の遊女たちの生き方、吉原の遊女にとっての近代、山伏などの宗教者と巫女の関わり、同化政策を受けたアイヌの女性たちをも論じている。
 14の「講義」を順番に並べると、「織豊政権と近世の始まり」「徳川政権の確立と大奥」「天皇・朝廷と女性」「四つの口」「村と女性」「元禄時代と享保改」「武家政治を支える女性」「多様な身分」「対外的な圧力」「寛政と天保の改」「女性褒賞と近世国家」「近代に向かう商品生産と流通」「遊女の終焉へ」「女人禁制を超えて」。
 特定の切り口で長い江戸期の歴史が短く論じられることに読み手としては発散気味となり、関心は特定の講義に向いてしまった。
 読んだ感想を乱暴に言えば、男性中心の社会・仕組みの中で女性は都合よく利用されていたが、一方では権力を握ることも少なくなく、女人禁制をもなきものとし、あるいは遊女の如く存在を認められていた世界もあった。
 明治に入って社会(世間)の見る視線が大きく変化したものがあれば、一方では今にも根付いている文化もある。例えば、江戸期における遊女へは同情や共感があったが、明治に入ってからは蔑まされるようになり、その視線は基本的に今にも繋がる。買う側の男はある意味不可視化されていることは江戸期も現代も基本的には変わっていない。また、綱吉の時代で制度化された「令」がトリガーとなり「穢多」の蔑称が用いられ、血の穢れの延長線上に女人禁止-土俵に上げさせない、富士山に登らせないなど-が一般化した。もっと古い時代からの因習と思っていたが、意外にも歴史は浅かったとの感が強い。
 苦界に生きる女性たちが江戸期は被害者側的・受動的であって、そこに社会の同情や共感はあったのだが、明治になって制度上では遊女屋がなくなり、女たちは自らの意志で売春を営む者として見られるようになる。実態に変化がなくても、社会(世間)が彼女たちを見る価値観は制度によって変化させられている言えないだろうか。本質、実態を見ているつもりの眼が、その時々の法律や情勢によって変化してしまうということはいつの世にもあることではないだろうか。もちろん今の世でも。いま現在新型コロナウイルスで「自粛警察」なる空気がある、何か同じ匂いがしてしようがない。

2020年4月29日水曜日

9月始業? 明治史研究の概説書

 いつまでこの緊急事態宣言状況が続くのであろうか、一旦設定された5月6日に解除されることはまずないだろう。高校入学式が未実施の、娘の長男はいつになったら通学するようになるのだろうか、いっそ欧米並みに9月始業に変更したらどうだろうか、などと漠然と思っていたら、いきなりニュースで流れるようになった。やはり多くの人は同様な考えをするものである。変更についていろいろ困難さは伴うであろうが、その困難さを前面に出して否定的する人も多くなるであろう。困難さを多く口にすることは実行しないことを主張することと同様で、そもそも変化を望まない人は難しさばかりしか言わない。個人的には9月始業がいいと思うのだが。

 草毟りの2回目を実施。今回はこれで終わり。草毟り後、連れ合いが見たらやはり毟りすぎの箇所があった。

 <小林和幸 『明治史研究の最前線』(筑摩書房、2020年)>:先回の『近現代日本史と歴史学 書き換えられてきた過去』もそうであったが、本書にも深入りしなかった。それは、歴史学の変遷を知ることに焦点をあてていないからである。過去の歴史が時代によってどのようにメスを入れられているのか、また新たな発見があったとしても、結局のところ、自分の関心は現在の時代でどのように過去を見て今を見るのかと言うことに尽きるのであって、例えば戦後に明治時代をどのように見ていたのかということも、その戦後の時代を見ることに重きをおくからである。しかし、本書は分かりやすく説明されており、明治という時代を広範囲に俯瞰するのには良書と思う。

2020年4月26日日曜日

雑記

 近くの100円ショップに行った。入ったら怒鳴り声が聞こえ、目を向けたらかなり高齢の男性が4点支持の杖を右手に、カウンターの前で男性店員さんに声を張り上げて怒っている。その声はよく通り、結構長い時間よく通る声が店内に響き渡り、店員はすみません、はいと返事を繰り返し、10分前後も続いていたと思う。何に怒りを向けていたのかは分からないけれど、この老人、ほかの客の不愉快さを招き、店内の空気を汚している自覚はないのだろう。

 昼、眠くなってきたので眠気覚ましに草むしり。やり始めると止まらなくなり約2時間、花壇一箇所を残して終了。手を付けた花壇では、いつものことではあるが、抜くべきものと残すべきものとの区別に自信がなく、もしかした間違って抜いてしまったものもあるかも、あるいは抜くべきものを残したのかもしれない。動物に限らず植物も生きているものは取り扱いが難しい。もちろん人間および人間社会も。

 まだまだ続く新型コロナウイルス、何となく来年になっても続くような気がする。アベノマスクは我が家に配布されても開封することはないであろう。カビや髪の毛や変色など、目に見える品質異常があったかぎりそれへの対応はなされるのであろうが、目に見えない品質はどのように保証されるのであろうか。
 能力のない医者のように“特に異常はみつかりません、暫く様子をみましょう、何かあったらまた来て下さい”のような対策。何かあってからでは遅いのである。敵が攻めてきているときに様子見でその攻め具合を眺め、何かあってから対策を検討しても遅いだけであろう。様子見とは、それを発する人間の「何もなければいい」という楽観的願望の色合いが濃いし、能力不足も背景にある。
 また、「一致団結して・・」、「みんなで・・」の主張があるが、この同調性を前面に出す情緒的対応願望、具体的には何をどうしようとしているのか理解できない。これらの主張で、事が上手く運ばないときにはまずは身を安全地帯に置き、「いままで経験したことのない」や「想定外」とか「集団責任」とかを言いだし、本質を見えなくする方向に進むものである。

2020年4月24日金曜日

電話再診、歴史学の本

 初めての電話再診-処方箋の発行。1km弱の近くにあるとはいっても今は総合病院の中には入りたくないので電話で済ませた。電話が混んでいると事前に教えて貰っていたが2回目で通じて、診療科に回され、医師がすぐに出てくれ、終わるまでには5分も要しなかった。午後になって薬局に行くとすでに薬は準備されており、ここでも短時間で済んだ。次の再診の7月でも電話で済ませればと思う。

 <成田龍一 『近現代日本史と歴史学』(中公新書、2013年)>:副題は「書き換えられてきた過去」。本書は、「戦後直後からの歴史学を第一期、続く1960年代からの高度成長期の歴史学を第二期、そしてその後、現在にいたるまでの歴史学を第三期として、それぞれの時期の歴史学の特徴と、それが提出する歴史像」(“あとがき”から引用)を紹介し、比較的入手しやすい多数の参考文献があげられている。広い範囲を駈け足で走るがために、全体を掴もうとすると疲弊する。結局のところ、今現在の自分に問いかけながら、関心ある歴史分野の対象を絞って参考文献に眼を通し、自分なりの歴史解釈をしながら今の世を見つめ、そこに向けての感性や想像力を築いていくしかない。

2020年4月18日土曜日

古本の買い取り依頼、MS Office不具合

 古本買取店に本を引き取ってもらった。今年になって2回目。ネットを利用して本を送付する買い取り店は、最初は関西のA、次に隣接町のBと変遷し、丁度1年前から現在も利用している業者は信州にあり、そこでの利用は今回で6回目となって合計冊数は210を超えた。処分する本は内容の軽いものや当てが外れた本、そして小説が中心。理由は、それら以外は書き込みをして本を汚してしまうから。
 バーコードのないものや書き込みをしている本については、そのうちにゴミと同様に扱って廃棄処分となる。これは所謂終活の一端ともいえ、本以外のものも、何年がかりになるか分からないが、未練を断ち切って少しずつ廃棄を進めなければならない。多分、一般的に見てものがありすぎる。

 サブPCにてMS Officeが立ち上がらなくなった。自動的に更新モードに入るのだがエラーが発生してしまう。結局はネットで検索して同様の不具合を体験した人のwebを参考にして解決した。Webでは修復に1時間ほど要したとあったので、数時間の時間を覚悟したが意外にも短時間で終わった。よく分からないが、officeを再インストールしたようである。Windows使い始めの昔(Windows 3.1の頃?)はDOS/Vに入っていろいろとやったのだが、今は全くわからない。身の回りのテクノロジーはどんどん高度化・複雑化していく一方、こっちのもろもろの理解力は年齢と共に劣化している(多分といいたいが)のだからしようがない。

 新型コロナウイルスに感染しても70歳以上は軽症でも入院できるらしいから、少しは安心なのか(笑)。

2020年4月17日金曜日

新型コロナウイルス、『ファクトフルネス』、『最期の言葉の村へ』

 毎日増える新型コロナウイルス感染者、実態の見えない感染者数と感染経路。いつまで続くのだろうか。もう2ヶ月近くは電車・バスにも乗らず、飲食店にも入らずにいる。
 アベノマスクでこの日本の政治の絶望さと滑稽さを味わい、いったいこの国の政治を動かしているモノは何だろう、日本人特有のものなのかともどかしい気持ちになる。モリカケやサクラ、山口某の事件などなど、一連の隠蔽や忖度などが姿を変えてアベノマスクや給付金の迷走、感染対策の遅れなどに繋がっている気がしてならない。本質的な何かがあるのだろう、きっと。
 消毒・殺菌の補充に微酸性次亜塩素酸水を買ってきた。持参した2リットルのペットボトルに入れてもらい、300円の安さ。

 <ハンス=ロスリング 『ファクトフルネス』(日経BP社、2019年)>:クイズ13問で正解したのは6問であり、やはり思い込みがかなりある。
 若い人たちや、ビジネスの渦中にある人にとって本書は有用なテキストであるが、リタイアした無職の高齢者にとっての本書の位置づけは次のようなものである。すなわち、世の中の政治やニュースで腹を立てたり不愉快になったりするとき、その事由を正しく掴み、疑問点がどこにあるのかを自分でキチンと理解すること、それへの手助けになる。変だと思う感性と、どうしてなんだろうと考える想像力を養うためには本書に書かれているファクトフルネスはとても大切なことである。頭の中をリフレッシュした気分になった。

 <ドン・クリック 『最期の言葉の村へ-消滅危機言語タヤップを話す人々との30年』(原書房、2020年)>:原題は「A Death in the Rainforest How a Language and a Way of Life Came to an End Papua New Guinea.
 世界の中で最も多くの言語を有するパプアニューギニアにおいて、ほかの言語とは関連性を持たないタヤップ語を話すガプンの村。2014年時点で村人は200人あまりでタヤップ語を話すのは45人ほど。そのタヤップ語も各人のバージョンがある。
 著者はその村に30年間関わり続け、延べ3年近くをその村で過ごした。白人が来てパプアニューギニアに文字が作られ、ガプン村では他地域との交流ができると、次第にトク・ピシン語が使われるようになる。キリスト教もその言語が使われる。要は交流の拡がりに伴ってタヤップ語は縮小する。日本における標準語と方言の関係性が頭に浮かぶ。
 ガプンの村はニューギニア奥地の熱帯雨林の中、人里離れた湿地帯で暮らしており、そのようにさせた要因として日本軍が関係している。日本軍がガプンのある地域に出現すると、行政官として入植していたオーストラリア人は姿を消し、当初は日本軍に協力的であった村人であったが、補給路を断たれた日本軍は凶暴になり、村人の恐怖の対象となった。村人は村を捨てて熱帯雨林に逃げ、日本軍は激怒して無人の家を焼き払い、村人は戻ることはなかった。不安の中にあっては理不尽に怒りが高まり、そうすると何をし出すか分からないという日本人のパターンが表出したのであろう。
 言語が消失するのはしようがないことであろう。著者は、「タヤップ語の喪失を嘆くのは、現在の状況においては禿げ頭の人間が櫛を失くすことを嘆くのと似ている」とうまい表現をしている。
 写真や地図を一切載せないのは何か意図があるのだろうか。

2020年4月12日日曜日

71歳

 71歳になった。正しく表現すれば意に反して(!)71歳にもなってしまった。70歳前後の老人がテレビに出ていると“あぁオレもあのような老人になってしまったのだ”と思い入る。若い頃、この年齢の自分の姿・顔立ちなど想像することもなかった。

 午後に眠くなる。まして昼に飲んだ後は確実に眠ってしまい、深夜2時近くまで起きている羽目に陥る。昼に寝なければいいのだがそれがなかなかできない。今日(11日)は絶対に眠るまいと体を動かすことにして、1Fと2Fともに便器と便座をクリーニングした。始めてしまうと徹底的にやりたがる性分なので、自賛するほどに-ほぼ新品と見間違うほどに-奇麗にした。

2020年4月6日月曜日

新書2冊

 新型コロナウイルス感染者が増え続けている。特に東京での増加カーブがいつ右下がりになるのか気になる。住んでいる春日部市でも4/5現在累計14人となった。
 2月18日を最後に電車に乗っていない。スーパーマーケット以外には人のいるところには殆ど行っていない。散髪に行くのもやめている(昔のような長髪にチャレンジしようヵ)、飲食店にも行っていない。
 政府の動向を思うとイライラしてくるので考えないようにしている。特にアベノマスクで苛立ちが更に強くなった。

 <中野信子 『空気を読む脳』(講談社+α新書、2020年)><中根千枝 『タテ社会と現代日本』(講談社現代新書、2019年)>:
 以下は短絡的で妄想でもあろうが、あながち的外れでもなかろう。
 日本の国土には颱風があり、川の氾濫もあり、火山噴火もあれば地震もあり、津波もあるし、豊かな四季と言うけれど快適な春と秋があるからこそ冬は尚更に厳しく、この地に住む人々は常に不安の中にあった。安心感はセロトニンの量によって左右され、少ないと不安を感じやすくなる。セロトニン分泌量を調整するのがセロトニン・トランスポーター。このセロトニン・トランスポーターの数の少ない人数が日本人には非常に高い(約97%)。よって、日本人は、どちらかといえば悲観的になりやすくて真面目で慎重で粘り強く、自己犠牲をいとわない。真面目であることは閾を超えることへの不安の裏返しだろうし、慎重であることも同じく枠外へ踏み出す事への恐怖心とも言える。要は安心感への願望の強さかも知れない。
 人は不安を覚えると何かにすがりつきたくなり互いに寄り添う集合体を作る。さらに集合体の中で経験深い人に寄るようになって、自分の身の安定性を確保する。集合体=場の中でリーダー格におもねっていれば自分の不安は希薄化され、自己安定性を高められるようになる。集合体が何を目指すのかという理念はなく、あくまでも自分の保身と安定性を得ることが主眼となる。かくして場の中にタテの関係が構造化する。見知った人で場を作るから論理よりも感情が紐帯の基礎となり、相互依存で保護され、忠誠によって温情が得られる。この「場」が「公」であれば「公」と同じ平面上に「私」がべったりと張り付き、「私」のベクトルが「公」平面に直角に交わることはない(直角に交わるとは「私」と「公」が相互に影響し合わないこと)。

 「愛、親子の情、師弟の恩、仲間同士の連帯意識、感動、自己犠牲、忠誠心、誇り、絆・・・・そういったものをふわっと感じさせるだけで、なぜ世の中の大部分の人は押し黙り、納得して、大人しくされるがままになってしまうのでしょう?ずっと疑問に思っていました」と著者(中野)は“おわりに”の冒頭に記している。同じ思いが強く、例えば、「絆」がいかにも大事な言葉として口に出され、スローガンとなっているのを見ると強い違和感を覚えてしまう。

 『タテ社会の人間関係』を読んだのは今から37年前のことで、あらためて『タテ社会と現代日本』に目を通した。真新しいことはなく、頭の中を整理するつもりだった。37年前というと34歳の頃で、それから定年退職となるまでにはいろいろと「タテ社会」の経験の積み重ねはあった。幸いというべきであろう、自分が露骨な「タテ社会」を感じて忸怩たる思いをしたということは余り記憶にない。本来は上で決まったことに従順に従うことを求められた場面があったが、その決定事項に従わず、ある意味ちゃぶ台返しをやって意志を貫いたこともあった。それは多分に、製品設計という理屈で成り立つ世界にいたからこそ出来得たものなのかもしれない(対面を重んじる上司には嫌みを何回か言われたが)。「坊主と袈裟の分離ができない日本人の知識人」は鋭い指摘であるし、覚えておかなければならない言葉である。そして「論理性」を欠くことがないようにしたいものである。

2020年4月3日金曜日

神頼み、白石一文の新刊

 東京五輪が来年7月23日開催と決定された。組織委会長は「神頼みみたいなところはあるが、そうした気持ちが必ず通じていくと思う」と語った。首相時代に「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国」と発言した人のさすがの言葉である。

 <白石一文 『君がいないと小説は書けない』(新潮社、2020年)>:作者の自伝的小説。ほぼ事実に基づいて小説を構成されているのだろうと思う。文芸春秋はA社と書かれているように出版社名はアルファベット、文学賞もそう(芥川賞はAで直木賞はNのように)、ただ人名は仮名になっていたりイニシャルに置き換えられたりと使い分けられている。
 還暦を迎える作者の「大失敗の人生」と、共に暮らす15歳年下の彼女へのある種の「依存性」が軸となって物語が展開する。(他の小説でもそうであるが)人生における様々な曲面で自他を観察し、論理的に思索・分析をし、作者の思索・哲学が論じられ、それが心地よく読める。
 本作品で25冊目、大好きな作家の1人である。

2020年3月28日土曜日

無題

 純粋・無垢←単純・無知、無邪気←無神経、自由奔放←自己愛、打たれ強さ←鈍感
 デーブ・スペクターが言った「あきれ夫人」が言い得て妙である。

 <アダム・ファウアー 『数学的にありえない 上下』(文藝春秋、2006年)>:14年前の世界的ベストセラー。「卓越したアイディア、圧倒的なリーダビリティ、そして作品の随所にちりばめられた量子力学、統計学、確率論などの専門知識」(訳者あとがきから引用)がピッタリで、物語進行のキーとして次の言葉も付け加えておきたい。i.e., 「ラプラスの魔」「統合失調症・癲癇」「諜報活動」「暴力」「銃」、そして「スピーディーな展開」など。ただ、終わりに近づくにつれ、超能力の展開と物語の着地点については飽きてきたというかつまらなさも覚えてきた。

2020年3月20日金曜日

好きになれない本2冊

 <大澤めぐみ 『彼女は死んでも治らない』(光文社文庫、2019年)>:休むことがなく次から次に発せられる言葉、奇想天外なシチュエーションのミステリー、まぁ、そんな概説を何かの記事で見てちょいと興味を持って本作を注文したんだけど、表紙はなんだかコバルト文庫かスニーカー文庫-両方とも読んだことはない-のような趣で、目次にはこりゃなんて言うんだか女の子が可愛く少女漫画-読んだことはない-のようなイラストがあり、間違った家のドアを開けてしまったような気分になった。第一話のストーリーはというと、美少女沙紀ちゃんが首を切られて逆さにぶら下げられ、パンツ丸出しで首から血を垂らしていて、それを沙紀ちゃん大好きな羊子ちゃんと探偵助手役の昇が見つけ、密室殺人事件の謎を二人が解決し、犯人の美術女教師はその場で黒いドロドロにバキバキされて黒い穴に吸い込まれ、沙紀ちゃんは生き返って地の痕跡も消失してしまう。・・・こういう非現実的で明るいホラー的な設定で謎ときはされるんだけど、そもそも目次の絵を見てもう異世界の小説であることは端っから分かっている訳で、じゃぁ読まなければいいじゃんとも思ったが、そこはそれ一応費用はかかっているので義務的に頁は開き続けた。
 第二話以降は斜め読みになってしまい、オレには到底好きになれない異世界の小説であり、まあ手に取って読んでは見てみたが、こんな本はつまらない、読むべきでなかった、時間の無駄だったと言うことは過去にも時たまあって、でもこういう、オレにとっては異質な小説も存在するという知識を得たという意味においては意義があったのかと思わせる一冊だった。ライトノベルの部類に入るのだろうけれど、文章はしっかりしていて語彙も(オレよりは)豊富で、知的な作者であることはうかがわせられた。大澤めぐみと入力するとあるwebでは「日本の女装小説家」とあるが、これってホント?とも思うが、まだwikipediaには載らないような新鋭作家であるようで、もう二度と読むことはないであろうとするが、これは作者を批判している、あるいはけなしているのではなく単に趣味に合わないということだけ。

 <さくら剛 『海外旅行なんて二度と行くかボケ!!』(産業編集センター、2019年)>:新聞で本書の宣伝を見た時、以前よく読んでいた旅行記を思い出し、久しぶりに読んでみようかと思い手に取った。書名から受ける印象はおちゃらけた感じであるが、書かれている内容は真面目で、表現方法がよく言えばくだけているというか、悪く言えばふざけている。文章のポイントが大きくなって太く強調されるものは好きになれない、昔のパートカラーの日活ロマンポルノみたい。基本的にはふざけた文章は好きでない。でもまあ書かれている旅行トラブルは軽いけれど面白くはあった。繰り返しになるが文体は大嫌い。この作者の本にも二度と触れることはなかろう。

2020年3月18日水曜日

誤発注、本2冊

 貯まっていたポイントを利用して発注した本が4冊届いた。開梱して確認したら1冊は既に読んでいた本であることにすぐに気がついた。またしてもやってしまった。古本屋に売るにしても750ポイント(750円)が無駄になってしまった。アルコールが入っているときに発注行為はするものではない。

 <桐野夏生 『夜の谷を行く』(文春文庫、2020年/初刊2017年)>:1971~1972年にかけての連合赤軍山岳ベース事件は就職を控えた大学4年の時のことで、メンバー29人中12人が私刑を受けて事実上殺された。森が公判前に自死し、永田洋子は東日本大震災のあった2011年に獄死した。2月4日に11番目のメンバーが胎児と共に死亡し、その二日後に本書の主人公/西田啓子が迦葉ベースを脱走する。
 連合赤軍の幹部や死亡者は実名で載っているが、脱走した西田や、永田死亡後に会うかつての同士たちはあくまで小説上の人物であり、どこまでが事実に基づいて描かれているのかは分からない。西田が妊娠3ヶ月でベースに入り、獄中で出産し、元夫がホームレスになり、彼が福島原発事故後のボランティア先で死亡し、生き残ったメンバーに対し真摯にフォローするルポ・ライターが西田の子であることを末尾に描くのは、いかにも小説という趣であり、多少の興ざめを感じ、どこかでノンフィクション的な一冊として向き合っていた自分に対し、本書は小説であると改めて思い直した次第。
 映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(若松孝二監督、2008年)のシーンがいろいろと頭に浮かぶ。

 <樋口有介 『礼儀正しい空き巣の死』(詳伝社、2020年)>:1988年に樋口さんの小説に嵌まってから本作で32年、47冊目となる。主人公は『平凡な革命家の食卓』で登場した卯月枝衣子警部補で舞台は国分寺。温泉旅行から帰ってきたら風呂場で「礼儀正しい空き巣」が死んでいた。事件現場の隣は空き地になっているがそこでは30年前に10歳の小学生女子が浴室で殺され、犯人不明のままであった。そして国分寺では4ヶ月前から3件の連続強制性交事件の捜査が続けられていた。女性週刊誌記者・卯月の恋人である短大講師が警察外で卯月に接し、国分寺署内では刑事課長・生活安全課長・刑事課班長が同じく班長でもある卯月に絡む。最後は3つの事件とも見事に解決し、前作から年齢を重ねていない卯月警部補は念願の捜査一課への転属が決まる。
 樋口さんの小説としては366頁の長い長編で、柚木シリーズに描かれる内容に少し触れられる箇所があり、作者の遊び心が味わえる。楽しめた。

2020年3月13日金曜日

また踵の痛み、『鬼滅の刃』、柚月さんのデビュー長編

 11日、ほぼ1年ぶりに整形外科へ。昨年の3月は左足の踵であったが今回は右足の踵。歩くときは痛みを堪えて引きずるようになってしまう。9年前、7年前、そして今回とレントゲン写真を並べた医師の説明によると、踵部のアキレス腱に繋がる踵骨棘の小片部が折れていて、痛みはこのせいであろうと言う。確かにその部分を押すと痛む。いつになったら治るのやら。またもや経皮鎮痛消炎剤と鎮痛消炎薬が手放せない。

 <吾峠呼世晴 『鬼滅の刃』9-19巻(集英社ジャンプコミックス、2017-2019年)>:絵は好きではないが、薀蓄のある台詞は嫌ではなかった。19巻を続けて読んでいると飽きてきて、惰性で読んでいた。続きはもういらないかな。

 <柚月裕子 『臨床真理』(角川文庫、2019年/初刊2009年)>:時間潰しに入った書店でついつい衝動買い。作者のデビュー長編で『このミステリーがすごい!』大賞受賞作。導入部で引き込まれ、途中で少しだれ気味になり、繰り返し書かれる亡き弟への思いに安手のドラマを感じ、エンディングでは女性作家がここまで書くのかという性交描写に意外さを感じ、ヒステリックな看護主任の唐突な変貌に安易な作風を覚え、でも全体的には共感覚や知的障害者厚生施設を舞台にし、主人公が臨床心理士というシチュエーションは新鮮であった。

2020年3月7日土曜日

ウォーキング、江戸時代関連の2冊、『鬼滅の刃』

 いつものウォーキングコース、今日で再開5回目。今日は(いつもよりは少し速度を上げて)6.2km/59’。
 スマホのアプリ”私の路線“が便利。”キョリ測“ともほぼ同じ距離データが標示される。これだけでも十分であるが、まだ使用したことのないスマートウォッチに興味が出て、GPSのない安価な、多分中国製のものを駄目元、遊び半分で発注。

 <中江克己 『江戸の躾と子育て』(詳伝社新書、2007年)>:江戸時代の、誕生からお祝い、しつけ、遊び、教育、などを用語解説とともに紹介。表面的な事象解説といったところ。

 <吾峠呼世晴 『鬼滅の刃』1-8巻(集英社ジャンプコミックス、2016-2017年)>:シリーズのどれもがベストセラーになっている『鬼滅の刃』を読んで見ようと、娘の、今季中学卒業となる長男から全19巻を借り、先ずは8巻まで読んだ。

 <安藤優一郞 『大名行列の秘密』(NHK出版生活人新書、2010年)>:大名行列といえば先ずは参勤交代、次は江戸城登城。参勤交代の目的は、大きくは人質を取って謀叛が起きることを防止する政治的意図、次はそれとも繋がるが、諸藩の財力を奪うことの経済的意図。幕府の命によって諸藩は従ったというのが一般的解釈で、本書でもそのように述べられている。しかし、諸藩は将軍への忠誠を示すために率先して参覲交替に臨んだという意見もある。時の権力者へへつらい、追従し、忖度を重ねる等々は日本の伝統的組織形態だと思えば、不満はあっても表に出さず、率先して忠誠心を示した藩があっても全く不思議ではない。
 江戸城登城時の大名行列による混雑、城外で待つ藩士たち、その藩士たちを対象にした商い、多くの見物人、現代から見れば滑稽にしか見えない。逆に言えば、パクス・トクガワーナを象徴する情景であったともいえるヵ。

2020年3月4日水曜日

『剣術修行の旅日記』

 <永井義男 『剣術修行の旅日記』(朝日新聞出版、2013年)>:
 副題に「佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む」とあり、筆者はその「諸国廻歴日録」の内容を脚色せず、当時の社会情勢や制度で補いながら主人公を鮮やかに蘇らせ、その主人公の人柄や交友関係を活写している。素晴らしい一冊である。

 本書の主人公は佐賀藩鍋島家家臣牟田文之助高惇。天保元年(1830)11月24日、吉村家次男として誕生。牟田家の養子となり、天保7年(1836)に同家の家督を相続。実父は宮本武蔵の二刀流の流れを汲む鉄人流を教授し、佐賀藩の剣術指南の一人。文之助も二刀流使いであり、修業先では村上藩にて同じく二刀流である時中流の免許を受けている。

 諸国武者修行を願い出て許可され、嘉永6年(1853)9月、文之助満22歳のときに佐賀城下を出立。久留米・日出・中津筋~萩・山陽道・東海道筋~江戸と旅をし、江戸に滞在した後は、安政元年(1854)4月に江戸を出立し、佐倉・水戸筋~棚倉・仙台・石巻筋~秋田・本荘・庄内筋~越後・村上滞在~新潟・会津・宇都宮・日光筋~江戸滞在となる。安政2年(1855)4月に江戸を出立、中山道筋~名古屋・津・京都・大坂筋~四国筋~豊後路・熊本と歩く。柳川・久留米筋~自宅~大村・長崎・島原筋と移動し、9月に帰宅した。2年間に及ぶ修行であった。当初は蝦夷地松前藩に渡ろうとしたが、アメリカ戦来航の事情などにより一旦は現宮城県栗原にて断念する。しかし、まだ未練があったようで、現秋田県にかほ市で松前行きの船の予定がつかないことを知り、最終的にはそこで諦めている。

 旅先の宿場での宿泊は旅籠屋、あるいは藩の定宿の旅籠屋(但し佐賀から江戸まで)。各藩の城下では修行人宿で宿泊し、このときは宿泊代・食事代は現地の藩が負担することとなっていた。修行人宿であっても武者修行の実績のない修行人は通常の旅人と同じで自己負担となった。

 修行に旅するときは、藩から手札が渡され、これが藩の身元保証書となり、手札を示さない限り、藩校道場は修行人を受け入れなかった。佐賀藩の役人は飛脚を立てて江戸藩邸に修行人が訪れる予定の藩校を知らせ、江戸藩邸は留守居役の各藩留守居役に連絡し、各藩留守居役は各国許の藩校道場に連絡することとなる。よって修業先の藩は誰がいつ頃に修行人が訪れるのかを前もって知っている。また、修行人は武名録(姓名習武帳)なる帳面を用意して、各地で立ち合った相手に姓名を記入してもらい、それが修行の証となった。

 各地での他流試合は現在のドラマで見るようなものではなく、修行人宿から道場に知らせを伝えてもらい、都合を合わせる。他流試合はドラマで見るような「試合」ではなく、審判もおらず、一対一の打ち込み稽古である。どっちが勝ったとか負けたのかではなく、各自が自己判断で勝ったか負けたとかをするものであり、他流試合の実態は、「試合」を申し込むものではなく、「他流の者ですが一緒に稽古をさせてください」というものであった。だから立合は一人相手でも、あるいは何人かの相手とも何度も行われるた。文之助は『全国諸藩剣豪人名事典』( 新人物往来社 1996年)にもその名が載せられているような剣豪でもあった。だからであろう、立合道場への評価は概して辛い。例えば、有名な玄武館の実質的道場主千葉周作次男栄次郎は立合を逃げてばかりいて「腰抜けのきわみ」とこき下ろしている。参考に道場の広さは、思っていたよりは狭く、10坪から20坪ほどが多く、床は板張りではなく、土間、土間への敷物というところも少なくなかった。

 文之助は律儀で誠実であり、人々から愛されたようである。各藩では稽古が終わると修行人宿に藩士が押しかけ、酒や肴の差し入れも多く、連日の酒盛りの懇親が繰り返され、その地を離れるときは遠くまで見送りが同行した。異色の二刀流であることも相俟って、文之助は、著者が記すように、「剣術の稽古をしていた諸藩の藩士に当時、牟田文之助が鮮烈な印象を残した人物だったことは間違いないであろう」。

 会津若松へは、現阿賀町大牧~野沢~坂下~城下と歩いていている。しかし、所望した日新館での立合は叶わなかった。若松城下は丁度祭礼であちこちを見物しただけに終わっている。糟壁(春日部)でも道場主の都合が悪く立ち合っていない。若松へ入るまでの「若松街道はけわしい山道が続き、「車峠を越える際には軽尻を傭ったが、会津は日本でもっとも悪馬が多いそうだ」と記している。馬には乗ったものの鞍が小さくて、「迚も(とても)せんき持抔(など)ハ、中々一寸も乗馬出来不申、小子ニ而もさへ、きん玉をセき、甚難渋仕候」と認めている。

 江戸期、自分の誕生日を祝うことはなかったとするテキストも少なくないが、文之助は帰路に現名古屋の旅籠に泊まったときが誕生日であり、「出生日ニ付、御神酒等相備、祝也」と誕生日を祝っている。

 「あせ水をながしてならふ剣術のやくにもたゝぬ御代ぞめでたき」と歌われた時代に生きた文之助のその後は、元治元年(1864)8月に第一次長州征討に従軍し、慶応4年(1868)には戊辰戦争(会津戦争)に官軍の一員として参加している。但し輸送体隊を率いる小荷駄方であり実戦ではない。佐賀の乱では反乱軍に身を投じ、小隊長格であり有罪判決/懲役3年を科せられたが、重病のために刑期を残して釈放され、その後の生活は不明である。大日本帝国憲法発布に伴って明治22年に明治22年(1889)に大赦を受け内乱の罪は取り消され、翌年同23年に病没した。享年満59歳。

 剣に生きた文之助は佐賀の乱までは剣を腰に帯びていたであろうが、その後は反乱者となり、たとい竹刀であっても剣を振ることはなかったであろう。剣のない文之助は明治の22年余りをどう思いどう生きたのであろうか。

ウォーキング再開ヵ

 いつからだろう、右足踵の痛みがなくなった。また再発するかも知れないが、そうなればなった時のことと諦めるしかない。旧日光街道を歩いてはいるが、それも新型コロナウィルスのせいで中断し、ならばと、ほぼ2年ぶりに以前の近場コースをウォーキング。
 再開初日は午前9時頃から約6..2km、翌日は雨で外に出ず、そのまた翌日(3日)は約6.8kmのウォーキング。そして今日も雨模様で家の中。26日からの腰痛もやわらいできたので、気が向いたときにはなるべく歩くことにしよう。

 前回宇都宮までのウォーキング時にGarminが突如動かなくなり、多分バッテリー故障であろう。一度ファクトリー・リセットをしても再現した。ベルトも破損してしまったので廃棄し、新品は買わない。

 確定申告の書類を税務署に投函。毎年同じパターンの書類作成と提出の繰り返しで何か虚しい。

2020年2月24日月曜日

新型コロナウィルス、一貫性のない読書3冊

 新型コロナウィルスに対し数日前から急に弱気となり、不特定多数の人たちが集まる場所を敬遠するようになってきた。何日かごとに近くのスーパーやコンビニに行けば日常生活には全く困らないので、当分はこの状態が続くであろう。旧日光街道歩きも電車に乗って最寄りの駅まで行くことが前提なので、これも暫くは中断することとしたし、数日後に予定していた、柏での友人との飲み会も当分延期することとした。毎年恒例の上野公園での花見も中止となった。感染者の増加が下火になるまでは今の心持ちが継続される。

 <赤田裕一・ばるぼら 『定本 消されたマンガ』(彩図社、2016年)>:マンガが「消される」理由は、「人権、猥褻、宗教、著作権、盗用疑惑、業界裏事情・・」と様々なものであろうが、青少年に対しての有害図書、悪書追放などを標榜する各種婦人団体や教育委員会などの活動には時には反発を覚えていた。あまりに声高に正義を振りかざされると抗いたくなるし、それは多分に、その「正しさ」の主張のなかには何か本質的なものを覆い隠しているように感じるからであろう。また、「正義」を振りかざすなかには「正義」でないものへの冷酷な排他性が隠されることがあるのも事実である。
 結局のところ、「組織や仲間の正義が正しいか否かは、それを判断する”私”が正義をしているか否かだ」(あるドラマでの台詞)ということ。

 <小沢健志・岩下哲典 『レンズが撮らえた 幕末明治日本紀行』(山川出版社、2011年)>:再読(見)。風景や建造物の写真を見てはそこに存在していたであろう人たちを想像する。人物が写っていればその人の一生はどのようなものだったのかと思いを巡らす。古い写真を眺めるとこのような想像パターンに陥ってしまうのはいつものことである。7年前のメモにも似たようなことを記していた。

 <伊坂幸太郎 『AX アックス』(角川文庫、2020年/初刊2017年)>:最初はさして面白くもなかったが、後半以降、具体的には「EXIT」から最後の「FINE」まではそれまでの伏線を踏まえての展開で上手さを感じた。但し、この軽さは好みでない。

2020年2月20日木曜日

旧日光街道、『ある村の幕末・明治』

 18日、自宅を7時少し前に出て春日部駅で電車に乗り込み、TaHiとともに自治医大駅まで移動。この日はここから東武宇都宮駅まで旧日光街道を歩く。宇都宮からは梅島まで移動し、SuJuと合流して飲む。春日部駅~自宅の往復を含めて約24kmのウォーキング。

 <長野浩典 『ある村の幕末・明治 『長野内匠日記』でたどる75年』(弦書房、2013年)>:幕末・明治維新の時代、一般庶民は大きな政変をどう受け止め、あるいは翻弄されていたのだろうか、それを少しでも実感したくて本書に目を通した。実史料に基づいて当時の農民を活写する。
 旧会津藩士で阿蘇にて戦死した佐川官兵衛の波乱の人生を知りたくなった。また、人命を奪うことのなかった阿蘇の農民一揆のことも知りたくもあるが、こらえておこう。
 幕末・維新黎明期の本といえばすぐに江馬修『山の民』が頭に浮かんでくる。

2020年2月15日土曜日

『背高泡立草』

 <古川真人 『背高泡立草』(『文藝春秋』、2020年3月号収録)>:読み始めた途端に文章の読みにくさというか、句読点の使い方がすっきりせずに、自分ならばどう書くのかと立ち止まってしまった。読み進めても時々は引っかかりを感じて滑らかには入ってこない箇所があった。全体への感想はというと「つまらない」に尽きる。時間の異なる3つの物語が繋がりもなく描写される。「緻密さと冗漫さがないまぜ」(宮本輝)になっているが、「冗漫さ」しか感じられず、作者は「結局はただわけもわからぬまま書いているように見える」(松浦寿輝)という指摘が的を射ていると感じる。

2020年2月14日金曜日

旧日光街道、給湯器交換、ミステリー2冊

 12日、野木駅からスタートして旧日光街道を歩き、自治医大駅まで歩いた。自宅から春日部駅までの往復を含め、この日の歩行距離は約27km。春日部の店に入りTaHiとアルコールで体をほぐすのも3回目となった。

 13日、ガス給湯器の交換。10年ほどが寿命と言われているなかで、15年以上使用しているのでガス展開催を契機にして交換とした。交換作業に来た人の作業が丁寧で、特にドレン配管が予想以上に体裁が良く、こういう仕事をしている人は多分何事にも真摯に取り組んでいるのだろうと思った。

 <今村昌弘 『魔眼の匣の殺人』(東京創元社、2019年)>:前作『屍人荘の殺人』で高い評価を得、大きな話題となった著者の第2作。前作では読んでいて引き込まれたが、今作はちょいと小粒になった。クローズド・サークルの舞台の中で、非科学的な予言と謎とき論理をうまく絡めているが、その分複雑になっているし、躍動感が薄い。二日間で4人が死ぬという予言と実際に起きる殺人、謎ときは、前作に引き続き登場する美女剣崎比留子。最後の文章で次作が“予言”されている。

 <梶村啓二 『ボッティチェッリの裏庭』(筑摩書房、2019年)>:帯に「アートミステリーの超新星出現」とあるが、ミステリーとして読むと結末は落胆する。何だよこの終わり方は、カオルの娘カサネが入れ替わっているなら何故追い求める絵の在り処をを知っているのか、何故最初からそこに行かないでバーゼルやルチェルンを訪ね歩くのか、最後に絵を消失させて偽カサネが姿を消す理由と手段は超常現象なのか、と文句を言いたくなる。
 ボッティチェッリの生きていた1510年のフィレンツェ、1945年のヒュッセン、そして現在と3つの時代が描かれる。
 11年前にウフィッツィ美術館で「ヴィーナスの誕生」を目の当たりにしたときも大した感激もなかったほどに自分は美術には疎いのだから、小説での絵に関する描写が精緻であっても、こっちにはそれを味わう資質がそもそも欠けている。

2020年2月9日日曜日

セイタカアワダチ草、『熱源』

 今季の芥川賞は古川真人さんの「背高泡立草」となった。この作品名を見て頭に浮かんだのは、十朱幸代さんが歌う「セイタカアワダチ草」。今から43年前、1977年の歌だから十朱さんが34-5歳ごろ。奇麗な声で歌っていてもっと知られていても良いと思うのだが。

 <川越宗一 『熱源』(文藝春秋、2019年)>:直木賞受賞作で、一時は品切れにもなって手に入れるのに日にちを要した。それ以外には何の予備知識もなく読み始め、時間的にも空間的にも人間社会的にも壮大な舞台なのであるが、何というのだろうか、箇条書き的で深みがなく、エピソードの寄せ集めによる連鎖という感が強かった。改行の多い文章にもそれが表れていると思う。読み終わる頃になって本書が、史実に基づく小説であることを知り、史実を小説にする難しさと安易さの両方が混じり合っていると思った。穿った見方ではあろうが、史料に書かれていることをうまくつなごうとしたのではないかと思ってしまう。本書のように一冊にまとめるのではなく、もっと細部にまで描写し、数巻にわたって大長編にして編んだ方が良いのではないだろうか。本書ではダイジェスト版を読んで安易に済ませてしまったという感がある。
 ここに描かれている物語に深く入り込もうとするには、巻末にあげられている参考文献を読むのが一番よく、その上で自分が受け止める世界を築くことだろう。
 ポーランドについては、通信教育に励んでいた頃に興味を持ち、『ケンブリッジ版世界各国史 ポーランドの歴史』(創土社)を読んでいたので朧げに知っていた。ビウスツキの独裁政治も微かに記憶に残っていた。一方、アイヌについては一般的なことがらしか知らない。樺太アイヌについては何も知らないに等しい。知らないことが多すぎる。
 ヤヨマネクフ(山辺安之助)・シシラトカ(花守信吉)・千徳太郎治・バフンケ・チュフサンマ・ブロニスワフ=ピウスツキ・ユゼフ=ピウスツキたちはwikipediaでも知ることが出来る。金田一京助・白瀬矗・大隈重信等々、歴史上の人物はほかにも登場する。

2020年2月4日火曜日

仙台、旧日光街道、樋口さんの小説

 1月28日病院へ、次の通院は3ヶ月後。帰宅後は大宮から仙台へ向かう。
 1月28-29日は仙台で通夜と告別式。二日間とも雨。久しぶりに履いた革靴にトラブルが生じ慌てたが、一時的対策を施し、帰宅までなんとかもたせた。帰宅して廃棄。

 2月3日は旧日光街道ウォーキング2回目。自宅~春日部駅、南栗橋駅~野木駅、春日部駅~自宅の合計約21.1kmを歩く。Garminを充電しておいたのに持ち出しを忘れてしまい、移動距離は“キョリ測”にての数値。春日部駅近くの飲み屋さんで飲むのは前回と同じ。同行のTaHiは日本橋からの継続歩行であるが、こっちは春日部スタートなので、いつか日本橋~春日部を歩かねば(大げさな表現ではあるが)画竜に点晴を欠くことになろう。

 <樋口有介 『うしろから歩いてくる微笑』(東京創元社、2019年)>:柚木草平シリーズ、舞台は鎌倉。いつもの軽妙な会話が続き、登場人物も主人公以外にこれといった男性は登場せず、娘と女子高校生、独特なキャラの妙齢な女性たちが物語を彩る。サントリーミステリー大賞受賞以来いろいろな賞の候補にはなるも受賞には至らなく、マンネリと言えなくはないが、やはりこの樋口ワールドが好きなので読んでしまう。
 樋口さんも今年で70歳。相変わらず独身生活に漬っているのか。沖縄は離れたのかな。
 3月には新刊が出る。予約は済んでいる。

2020年1月26日日曜日

『ぼくと数学の旅に出よう』、『数の女王』

 <ミカエル・ロネー 『ぼくと数学の旅に出よう』(NHK出版、2019年)>:サブタイトルが「真理を追い求めた1万年の物語」で、縦書きの数学の本。中高生から大人まで、数学を好きにさせる本で、数式は「万有引力の法則」や「質量とエネルギーの等価性」など一般的に知られている基礎的な式がでてくるだけである。数学的内容は既に知っていることが多いが、数学者に関する記述が興味深く、平易な文章も相俟って楽しめる。数学者である著者の数学好きが伝わってくる好著。

 <川添愛 『数の女王』(東京書籍、2019年)>:もうちょっと書評などを読んでから購入すれば良かった。まったくつまらない一冊。著者への悪口ではなく、兎にも角にもファンタジーはオレには合わないということである。素数を題材にした物語であるが、展開される公式や数列、予想などの殆どはすでに知っていることなので-少なくとも名前は知っているので-、それを物語に組み込んでも新鮮さはなく楽しめない。純粋に公式などを追いかける方が楽しめる。
 本書に出て来る数学の用語・公式・数列・予想などは次の通りである(本書の解説より引用)。i.e.,,約数・素数・合成数/素因数分解/過剰数・不足数・完全数/友愛数/フィボナッチ数列/フェルマーの小定理・擬素数・カーマイケル数/素数を生成する式/カプレカ数/三角数/巡回数/メルセンヌ数・メルセンヌ素数/ピタゴラス素数/リュカ数列/コラッツの予想。これらをwikipediaや数学のサイトで確認することで十分楽しめる。全ての数はある操作を繰り返すと1になる(コラッツの予想)、この未証明の予想で、このファンタジーは閉幕する。

2020年1月24日金曜日

本の購入、家具の音楽、文庫本2冊

 新聞の広告や書評で目にとまり、また、テキストの参考文献に掲載されている図書などに興味を引かれてはそれらの本をメモしておき、購入する。そして未読のままになっている本が数百冊も自室に鎮座している。そんな状況にあるのにまたもや悪い癖が出た。
 頻繁に使うクレジット・カード某加盟店のポイントが貯まり、酔った勢いもあって本を10冊ほど発注した(してしまった)。過去に購入した本を気の向くままに読んではいるのだが、読まなければいけないという気持ちが少しばかりストレスになっている。でも、読むことそのものが目的になってしまっては本末転倒もいいところで、自分の中で何のために読むのかと自問することも少なくない。

 今日は家に1人なのでスピーカーの音量をあげて音楽を聴きながら本に向き合った。が、BGMとして流したピアノとオーケストラに気が取られてしまい、本に集中できない。選曲を間違えた。やはりこのようなときは好きな曲ではなく、邪魔にならない、サティのいうところの“家具の音楽”がよかった。しようがなく音楽を聴くことに専念することとあいなった。

 <E.オマール 『不思議な数eの物語』(ちくま学芸文庫、2019年)>:寝る前や、中途半端に時間が空いたときなどに淡淡と読み続けた一冊。大昔に学んだ数学の知識を思い出しながら読んだ、というより眺めたという方が当たっている。高校の時や大学の頃はどうやって理解していたのだろう。“e”の発見(発明)過程などには触れずに、単にテストで得点を得るためのテクニカルな部分だけに関心を寄せていたのかもしれない。いまは、そのような刹那的な試験合格テクニカルな側面は全くないから、純粋に数学の面白さを感じている。尢も、以前学んだ範囲のごく限られたレベルにとどまっていて、それを越えようとは思っていない。過去の人生の無機的な部分を振り返っているようでもある。

 <山田英生・編 『老境まんが』(ちくま文庫、2019年)>:老境をテーマにしたアンソロジー。最も古い作品は1963(昭和38)年で、最新のものは2014(平成26)年。年齢を思えば十分に老境の域に達している自分であるが、往々にしてその年齢を意識するように務めている。

2020年1月21日火曜日

現代学生百人一首より

 東洋大学「現代学生百人一首」、第33回入選作より以下を選択。今年は昨年・一昨年よりも響いてくるものが少なかった。こっちの感性が尚更に鈍くなったのかもしれない。

     留学のポスターの前で立ち止まる夢ある友とまだない私
 年齢を重ねると次のように口ずさむかも。“友がみな われよりえらく 見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ”(啄木)

     おとうとのつむじが見えなくなった日にひとには別れがあることを知る
 鏡に映る我が顔の、上を見やれば白くなり、部分的には肌が見え、若きときへの別れを知る。

     世のしくみ速さ第一何事も今は通じぬ大器晩成
 大器晩成と言い訳することができるのは何歳までなのだろう。
 一日の中で一番美しいのは夕暮れ時、と著名な作家は小説に書いている。ならば、大器ならずとも平凡に生きてきた人生の夕暮れ時=晩年もまた美しいと言えるだろう、多分。そう思いたい。

     「待たせてた?」「今来たところ」とはにかんだ今は約束の二十分前
 相手を気遣っていなければこのような言葉は出ない。慣れて、そして狎れてしまえば「今」はなくなり、遅れることに気後れしなくなる。

     電車内スマホの群れに紛れ込むおじいちゃんの古本の香り
     「おつ」「おけ」「り」スマホの会話単語だけそんなにみんな忙しいのか
 電車を待つ人も乗った人も、うつむき加減にスマホを見ては操作している。この異常な情景。そして記号化された言葉。文字とともに築き上げられてきた文化そのものが消え去っていくのだろうと思う。俺だって明治の頃の文章を円滑には読めない。文語体、口語体、その次に来るのはスマホ体となるのだろうか。

     日本地図眺めて祖父はつぶやいた「俺の生まれた満州はない」
 かつて満州国建国を果した日本を懐かしんでいるのか、はたまた13年半の泡沫のような国に生まれた不遇の身を歎いているのか、あるいは時の政治を恨んでいるのか。祖父のつぶやきの中に何があるのだろうか。

     静電気パチリと鳴ったそれだけで笑えた君とあの冬のとき
 静電気がパチリと鳴ったのはどんな時かな。授業中? 下敷きを頭に乗せてふざけ合ったとき? セーターが触れあった時? それとも・・・。

2020年1月19日日曜日

アシュケナージ、11年前の優勝、短編集

 アシュケナージが音楽活動から引退とのニュース。最近の写真を見るとやはり老いたという印象が強く、よって自分の年齢をも再確認することになる。
 ラフマニノフ「ピアノ協奏曲2番」「同3番」(プレヴィン指揮LSO)、スクリャービン「ピアノ協奏曲/プロメテウス」(マゼール指揮LPO)のLPは彼の演奏の中で特に愛聴盤である。両方とも1972年の発売とある。

 11年前に早稲田ラグビーが優勝したときの決勝戦DVDを見た。主将は豊田将万で懐かしいメンバーが躍動している。帝京とのこの決勝戦では国立競技場内で友人達と観戦していた。11年前のブログを見直すと当時の情景がよみがえる。

 <伊与原新 『月まで三キロ』(新潮社、2018年)>:自分をみつめ、迷い、心の置き所を求めてさまよい、何かを切っ掛けにして今より先に気持ちを向かわせる。乱暴に言ってしまえばそれが6編全編のテーマ。その何かとは、「月まで三キロ」の標示とタクシーの運転手さんの人生であり、30代終わりとなっている独身女性が「星六花」の雪の結晶が落ちてくるのを一緒に待つ同性愛者の男性の言葉であり、やる気のなくなっている小学生が老人に「アンモナイトの探し方」を教わり、化石になってしまうかも知れない自分を見つけ出そうと一歩を踏み出して石を打つ。「天王寺ハイエイタス」では惣菜屋の次男が零落した叔父の弾くブルース・ギターに魅入らされる。妻を亡くして小学生の娘と二人で暮らし、小さな食堂を営む男性が、定期的に訪れる41歳の女性物理研究者との交流の中で、娘が亡き母親を思う真の気持ちを知る「エイリアンの食堂」。書き置き一つでバラバラになっている家庭から離れて山に登り、火山学研究で石を刻む研究者と学生たちと行動をともにし、母親として妻として娘・息子や義母に接した過去の自分を振り返り、山小屋を営むことで「山を刻む」ように過去を刻みこれからの生き方を築こうとする。6編のなかでもっとも好きなものは「星六花」で、「山を刻む」の主人公の女性には、いままで何もしていなく、そして今明るい先を見つめようとする、その流れに小説としての安直さを感じ、気持ちがフィットしない。
 著者は地球惑星科学を専攻して大学院博士課程を修了した。小説家としてのスタートは推理小説から。だからなのか、小説の構成に何かしら無機的な機械的な作り物を感じてしまう。

2020年1月17日金曜日

ミステリー2冊

 <長岡弘樹 『風間教場』(小学館、2019年)>:帯にキムタクの写真、気にくわない。特定の人物の写真を載せることは、これから小説を楽しもうとする自由な先行きを限定的に方向付けするようなもので、愚かである。『教場』と題して1月4日と5日にキムタク主演でドラマを放映していたが、もちろん見ることはしない-この芸能人が好きでないことも理由の一つであるが-。
 シリーズ初の長編小説であるが、内容的には、一貫した場面を串刺しにして短編を編んで一冊にするほうが味わい深くなると感じる。逆な言い方をすれば、この小説は短編小説を練って繋げたようなものである。

 <相沢沙呼 『medium 霊媒探偵 城塚翡翠』(講談社、2019年)>:『このミステリーがすごい』および『本格ミステリ・ベスト10』(両者とも2020年版)の第1位。霊媒・霊視などという非科学的空間は好みでなく、それを肯定的に描く物語は殆ど読んだことはない。しかし、この本には「すべてが伏線」「本格ミステリー」とあり、読む側を驚かせるトリックがあるのではないか、まして書店では平積みにされているし、ということで『風間教場』とともに衝動買いした。そして、蠱惑的な翡翠さんと推理作家の香月史郎-この名前もアナグラム-とともに三つの謎を解いていく。本作に流れるシリアル・キラーをどう解決するのかと思っていたなら三つの事件の解決がすべて伏線になっていた。三つの事件を霊媒的に解いたとされるプロセスは実は霊媒など無関係であることも説かれる。新鮮であり組み合わされた謎とき、楽しめた。ただ、翡翠さんが香月と向き合って最後の謎ときをするとき、それまでの彼女からの豹変振りがどうもしっくり来ない。可愛くとも女性はそういうものなのかと思えば納得はするのだが。

日光までの第一歩

 昨日16日、南栗橋まで歩いた。
 TaHiが昨年より日光までのウォーキングを計画している。二本橋を起点に3回目で春日部に到着し、一緒に飲んだのが昨年の秋頃。そのときに次は春日部から同行しようと決めて、この日に至った。
 歩行距離をリアルタイムで知るならばGARMIN。随分と久しぶりの使用になるので操作を忘れている。前日にマニュアルを見ながら操作の記憶を呼び戻し、充電もしっかりと行い、シューズもジョギングしていた頃のものを玄関に置いておいた。
 9:30頃に春日部駅東口で待ち合わせてそこから旧日光街道を歩く。途中で少しは現4号線を外れるが殆どは現4号線と並行する。
 杉戸高野台近く4号線に面するレストランで食事をし、それから幸手の旧日光街道を歩き続ける。旧日光街道の様子など知りもしないのであるが、少なくとも江戸時代の面影を窺わせられる風情はない。歩いている人も少なく、歩を進めながら昔はこうやって歩いていたのかなどと想像を巡らすしかない。しかし、それが楽しい。太ももが張ってきても楽しく、そして日頃の運動不足を痛感する。
 栗橋まではまだ時間を要するし、次回の待ち合わせに便利な南栗橋駅まで行くことととした-東武線の急行は南栗橋駅行きが多い-。春日部駅東口からここまで歩いた距離は約18.8km。こんなに歩いたのは高校時代以来か。
 南栗橋駅東口周辺には適当な居酒屋がない。そもそも店がない。春日部で飲むことにして急行に乗り、僅か16分の乗車で着いた。西口に出て24時間営業の店が3軒かたまってあることにTaHiはその恵まれた環境を羨む。昼飲みには割引があり、約1.5時間飲む。初めて入る店であったが、内装はキレイに整っており、店員さんの応対はテキパキしていて感じがよかった。今度は1人でも来よう。
 17:30頃に駅で別れ、歩いて帰宅。この日歩いた距離は自宅からの往復も含め合計約23.1km。よく歩いたものである。次は南栗橋から利根川を渡り、最短古河までは歩きたい。

新年会、早稲田優勝

 11日、上野にて高校同学年同窓会の新年会&総会。総会という大袈裟の名称はこそばゆいが、一応昨年度の活動報告も行って一年を振り返り、次年度の幹事を決めることもあり「総会」という名にも微かに相応しくもある。勿論メインは新年会と称する宴会。参加者は10人でちょいと寂しいのであるが、最近のイベントではこの程度の人数の参加が普通になってきた。地元の行事や自治会役員としての仕事、他の新年会・宴会とも重なり欠席となる人もいるがこれはしようがない。
 最初は2020年度の幹事を決める。遠方よりいつも参加してくれるメンバーなど3人を免除し、独断で7人から新幹事を選ぶことにして、全員一度は幹事を務めているので、厳正公平に円形阿弥陀籤で決めた-円形阿弥陀籤は最近読んだ数学関連の本で知ったばかり-。
 いつもの如くKoYoが差し入れた銘酒飛露喜の大吟醸を味わい-この酒を差し入れで呑むというのは実にこのうえない至福の一時である。自分も家に転がっていたボルドーの白ワインを1本持っていったが、皆の手が伸びるのはもちろん飛露喜である。
 事前にアナウンスしておいた会費と宴会費に差額が生じたので追加料理も頼み-結果200円の追加徴収となった-、約3時間でお開きとなり、その後は6人でカラオケに行く。このあたりから自分の記憶が斑状になっている。
 春日部から自宅に向かう途中である店に寄ろうと思ったが既に閉りかけていたので真っ直ぐに帰宅。その店が閉っていたことで良かった。でなければ更に酔いを深め、連れ合いに非難と呆れ気味の視線を向けられたであろう。

 この新年会の日はラグビー大学選手権決勝、早稲田vs明治で下馬評は明治有利。早稲田の優勝は難しいかと思っていて、新年会で酔っていたらスマホで試合経過を確認することも失念していた。そんなところにISaが「前半31対0で早稲田が勝っているよ」と教えてくれ、正直耳を疑った。いくらなんでも前半で31-0、しかも早稲田が勝っている。誰も、こんなスコアは予想していないはずで、帰宅後風呂上がりからすぐに録画観戦をする。この日はNHK(解説は坂田氏)の録画。もうなんと言っていいのだろう、前半の後半から早稲田の奇麗なトライが続き、結果を知っているものだからもう有頂天になって観戦した。FWでトライを取っているし、バック陣は華麗に展開してトライを重ね、いうことなし。
 翌日は J Sportsで観戦(解説は野澤・村上両氏)。試合が終わった後も「荒ぶる」が歌われ-テレビの前で一緒に歌い-、放映が終わるまでの時間をずっと見ていて、忘れかけていた優勝の嬉しさに浸った。

2020年1月9日木曜日

西新井大師、ラグビー、ATPカップ、只見線

 1/6に西新井大師へ初詣(?)。古いお守りなどを処分し、手を合わせて心の中でささやかな祈願をし、お神籤を引き、新しいお守りを購入し、清水屋で漉し餡の草団子を買い-対面の中田屋は工事中で閉じており、為か清水屋のいつもの試食はなかった-、まめ屋で数パックの豆を買い、帰宅。いつもの、毎年繰り返しているパターンの初詣であった。
 昼食時はとうに過ぎていたが、過去の経験から立ち寄りたい食事処がなく、結局は自宅に帰ってからとした。

 高校ラグビー、桐蔭学園がやっと(!)単独優勝を決めた。主将のSO伊藤、後半から登場したSH島本は早稲田入学が決まっていて、この二人の動きを中心にテレビ観戦。

 国別対抗戦ATPカップ(ATP Cup 2020)の日本対スペイン戦、西岡とナダルの試合は好試合だった。正直なところ西岡がここまでやれるとは思ってもいなかった。続けてのダブルス戦で勝てば準決勝進出が確定するのだが、スーパー・タイブレークの後半でスペインのブレークが続き、前半リードが覆されて逆転負け。ナダルはここでもやはり凄い。
 11時からずっとこの対戦を見続け、結局6時間以上見続けた。久しぶりの長時間テニス観戦。いつも思うことだが何故にWTAのテレビ放映はないのだろうか。大坂なおみさんのブリスベンでの試合はダイジェストでしか見ることができない。

 <柴田哲孝 『赤猫 刑事・片倉康孝 只見線殺人事件』(光文社文庫、2016年/初刊2018年)>:新聞の広告で”只見線”が眼に入りすぐに購入。小出から会津若松までの”只見線”が頻出するが、列車内で殺人事件が起きるわけではない。只見線が登場する切掛は約20年前の石神井警察署管内、天祖若宮神社近くでの放火事件。その家内に貼られていた守札は須門神社で、その神社の最寄り駅は只見線/魚沼田中駅。以降舞台は小出・只見線新潟側・小千谷、只見線会津側-只見・西方・川口など-で、諸処で只見町が中心となる。
 只見駅から小出駅までは乗車したことがなく、その区間は何度も車で六十里越えをしている。もちろん会津横田駅から会津若松駅までは何度も乗っているので、この小説に出てくる会津側の駅は全て知っており、まして昭和30年代の生活も語られるので懐かしく感じられる。3つのことをしたいとふと思う。一つは春日部から田島に抜けて会津若松で折り返し只見から小出に出るルートを旅してみたいこと。二つ目はその逆のコース。三つ目は代行バスがなくなって只見線の鉄路がすべて繋がった時にはそれに乗ってみたいこと。一泊すれば余裕を持って実施可能なプランなので、前者二つの小旅行は自分の重い腰をあげるだけなのだが。
 さて、小説はと言うと、放火したのは誰なのか、その人につながる人たちはどのような関係性を持っているのか、誰が何を隠しているのか、それを只見線の地に赴いて警察や消防署、市役所(町役場)などで記録を調べ、60年も前の出来事や人の消息を尋ねまわる。そこにはトリックもなく、後出しじゃんけんのように事実が浮かび上がってくるだけで、恰もノンフィクションのような展開が続く。

2020年1月8日水曜日

CD購入ミス、来ない年賀状

 20セット以上のCDと1枚のLPを持っている好きなKronos Quartet、このクァルテットの新発売CDがないかとショッピングwebを斜め見していたら全く知らないCDがあった。よく確かめもせずにKronosの名前で判断し発注した。届いたその日の夜、聴いてびっくり。好きなKronos Quartetとは全く世界が違うし、違和感満開。そのアルバムはフランスのデスメタルバンドKronosというものだった。デスメタルとはなんぞやと思いちょいと調べてみるとハードロック・ヘヴィメタルの一ジャンルとのことらしい。購入してから、これはミスってしまったと思ったCDは過去に何回か経験しているが、それは、二重に購入してしまったとか、演奏が好みでないなどの類いであった。が、今回のこのCD購入は自分にとって事件であり、自分の粗忽さに呆れもした。同時に購入したシューベルトの歌曲集と静かなオーボエ曲集で気持ちを切り替える。

 姉妹の従姉妹二人と一人の従兄弟から年賀状が来ていない。何十年と続いていたのに、3人から同時に来ていないことに何故なのか、何か不幸なことが起こったのか、という思いが強くなる。問い合わせるのも憚れる。

2020年1月3日金曜日

思いつくままに

 生まれてから71回目の正月を迎えた。

 高校ラグビー、浦和高校が花園で2勝をした。高校から始めた人が多い同チームのなかで、幼少の頃からラグビーに親しみ、ワセダクラブにも所属していたのがNo.8で主将の松永。大学進学は早稲田を目指しているとのこと。

 大学選手権準決勝で早稲田が天理大学に52(8T6G)-14(2T2G)で完勝。天理のミスが多かったし、L/Oの成功率が低かったとはいえ、ここまでの差がつくとは予想していなかった。1/11決勝では明治と当たる。対抗戦時は完敗したが中野・相良が戻っているので期待したい。天理戦でも見られたが、中野の復帰は特に大きい。

 箱根駅伝、早稲田の監督は総合3位が目標としていたが、現実的にはシード権獲得を期待してテレビ観戦。結果は7位(往路は9位、復路は5位)。5区山上りの個人成績は15位で、6区山下りでは19位。この2区間での成績はひどい。それにしても青学は強い。

 もう一つの卒業大学である法政はラグビー大学選手権には出られないし、駅伝もぱっとしない。一番目立っているのは田中優子総長のような気がしないでもない。

 Carlos Ghosn Is gone. お粗末、何という体たらく。
 何の脈絡もなく次のことが頭に浮かんだ。即ち、唯一の原爆被害国であることを標榜する国が国内で原発による被害を生じさせた体たらくのこと。属するシステムが堅牢であろうと信じれば(信じたければ)、どこかに穴があってもその存在を否定するように論理を構築しようとする。明確な論理の根拠が示されない場合は神話づくりとなる。あるいは目を瞑る。

 <佐藤健一 『日本人と数 江戸庶民の数学』(東洋書店、1994年)>:つまらなかった。かつて鳴海風や金重明・永井義男・他の算学小説を好んで読んでいて、やはり、息吹を感じられるのは小説かと思った次第。