2017年9月28日木曜日

小説と漫画

 <佐藤巖太郎 『会津執権の栄誉』(文藝春秋、2017年)>:会津芦名家18代当主盛隆が弑逆され、嫡子亀王丸は3歳で夭折し、天正15年(1587)に20代当主になったのは常陸佐竹家から婿養子として来た義広。天正18年(1590)に伊達政宗が小田原にて死に装束で秀吉に謁見したときを除いて、物語はほぼ猪苗代。蒲生氏郷がまだ会津に入封する前なので、若松の地名はまだ黒川であった。その数年間に於ける芦名家の内紛から滅亡までの物語が編まれている。
 「湖の武将」:富田隆実が猪苗代盛国の裏切りを知り、盛国を討って家臣筆頭金上盛備に報いる決心をする。「報復の仕来り」:佐竹家家老の家臣を玄番が斬り、その惨殺を目撃していた野村が表れる。野村を襲ってきた玄番は野村に短刀で討たれるが、それは須貝を不条理に殺した玄番への復讐であった。「芦名の陣立て」:伊達正宗の家臣が猪苗代城に入り、黒川城にも危機が迫る。芦名・佐竹連合と伊達は対峙し、佐竹と芦名の間もぎくしゃくする。偵察をしていた金上家臣は判断を誤り、嘘をついてしまう。芦名側は富田を第一陣とした陣立てにした。「退路の果ての橋」:橋は日橋川の橋。「会津執権の栄誉」:金上盛備は原で討ち死にする。ここに会津芦名は滅亡する。「正宗の代償」:正宗は小田原に参じて秀吉に謁見する。死に装束と懐刀の場面は緊迫感があって引き込まれる。
 史実に基づいた人名・地名が出てき、時折Googleマップで場所を確認しながら読んた゛。母校会津高校の前進旧制会津中学校歌には、”葦名蒲生の昔より松も緑の色変へず”の一節がある。猪苗代出身の友人にも年に何回か会っている。会津に生まれていないせいか、中学・高校時代は会津に愛着があったわけではない。友人たちの会津に関する知識は豊富で、やっと最近になって彼らの会津への愛着に近づいてきたような気がする。芦名滅亡後、義広は実家である常陸に逃れ、関ケ原の戦い後秋田角館に移っている。角館にはもう何年も訪れていないが、従兄弟が住んでいる。また、伊達が会津に攻め入ったとき、奥会津の中丸城主山之内は抵抗を続けた。この中丸城は現在の金山町横田にあった山城で、オレはこの地の小中学校を卒業し会津高校に進んだ。この年になってやっと自分が暮らした過去に長い歴史を感じている。遅過ぎるヵ。

 <石川雅之 『惑わない星 2』(講談社、2017年)>:物理学に偏ってきている。もうちょっと違う色合いを期待しているのだが、惰性で頁を開いている。
「宇宙は人間に観測されるためにのみ存在している」、含蓄があるなぁ。

 <雨瀬シオリ 『惑わない星 2』(文藝春秋、2017年)>:神高が1回線に勝利した。この漫画かなり倦きてきた。もうここで止めてしまおう。時間が勿体ない。

2017年9月26日火曜日

また幕末・明治の本

 <原田伊織 『明治維新という過ち』(講談社文庫、2017年)>:サブタイトルは「日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」。単行本の”改訂増補版”を購入していたが本文庫が”完全増補版”となって出版されたので追加購入し、前のものは古本屋に送った。
 著者の思いの丈を、文献を引用しながら、また現在状況にも言及しながら、作り上げられた「明治維新」の虚偽を暴く。指摘は鋭く、言葉は激しい。
 明治新政府を作った新政府指導者たちはそもそも新政府のビジョンを持ち合わせていなかったのでなかろうか。敵を倒して新たな体制の中心に座するとまずは「自己の正当化」=「旧体制の否定」からはじまるのは世の常である。例えば、企業でも上に立つ者が地位を高め、或いは新たな部署の上に立つと、最初に組織改編の謳い文句で前組織の欠点をあげつらい、新たな体制を組もうとすることはよくあることである。そして自画自賛をチラチラ出しながら、正当化への論理を重ねる。明治のリーダーたちに批判的なのは、その正当を構築するために江戸時代のあらゆる文化などを消滅し、いわゆる「官軍教育」を築き、それが今も続いていること。
 繰り返すが、歴史は連続性の上に築き上げられていくものと思っている。しかし、いわゆる明治維新では、それまで培われてきた江戸期の文化やあらゆるものが、スパッと切り落とされてしまった。そんな思いへの裏付けを本書は示してくれる。しかし、吉田松陰のテロリストぶりや、徳川斉昭のバカさ加減、阿部正弘ののらりくらりぶり、光圀の本来のダメ姿、等々を真に自分の頭に溶け込ますにはもっと文献や資料に当たらなければならない。でも、そこまでの余裕はない。例えば、徳川慶喜を評価する研究者もいれば、まったく駄目な将軍と断じる研究者もいる。さて、オレはどうなのかと言えば、浅い知識しかないので、印象で、慶喜はだらしない、と語るしかない。悲劇の容保に対しても批判的な思いはあるが、それは歴史的事実を摘まみ食いした、いたって表層的な感情でしかない。

 <『歴史読本』編集部編 『幕末300藩 古写真で見る最後の姫君たち』(角川新書、2016年)>:「菊が栄えて葵が枯れ」た御一新後のお姫様と殿様の写真集。
 印象ある女性は三人。まずは陸奥宗光の妻亮子、この人は「鹿鳴館の華」と呼ばれただけあって左から撮られた写真の彼女の美しさに惹かれる。亮子は籏本の妾の子で芸妓、17歳で陸奥の後妻となっている。故に殿様の子でもないのでこの新書の書名には相応しくないのだが、ただただその美貌から、明治の美女たちからは外せないのであろう。美人薄命の言葉に合うように44歳で亡くなっている(当時は44歳では薄明とはいわないヵ)。
 伊達保子(亘理伊達の流れ)の写真は他の女性と違って華やいだ服装ではなく、普通の和服を着て物憂げな表情でぽつんと椅子に座っている。この人、北海道は有珠の萱葺の開拓小屋に起居し、開拓事業を支えた。現在の伊達市に繋がっているのであろう。他のお姫様の写真は着飾った和装や、鹿鳴館時代に相応しい華やかな洋装であったりするのであるが、保子の写真はそれとは異なり、うら寂しい明治の一面をうかがわせる。
 着飾った姫たちの写真を見ると、彼女たちは所謂名家に生まれたのであるが、彼女たち自身は何を努力して名家に生まれたのであろうか、生を受けた後、気持ちを何に向かわせたのであろうか、その豪華な装いの費用はどこから出ていたのであろうか、そのことに思いを馳せたことがあるのだろうか。生まれた環境に応じた苦労はあったのであろうが、ふとそんなことを想う。
 三人目は岩倉具視二女の戸田極子。美貌であるが故に伊藤博文が懸想し、スキャンダルにもなっている。印象に残るのはその美貌ではなく、ウィーンの公使館で琴を演奏し、ブラームスが直接に極子に演奏を依頼し採譜したと書かれていたこと。ブラームスは54歳頃で極子は30歳頃のことである。もしかしたら、クララを献身的に支えたとされるブラームスは、エスニックな琴の演奏を聴き、遠い異国の極子の美しさに惹かれ、一時クララを忘れたのではないかと妄想を抱く。否、そんなことはなく、ブラームスは純粋に音楽に魅了されたのであろう。極子の夫、戸田氏共(うじたか)の弓を持った、狩りの装いの写真は滑稽さを感じる。
 最後に徳川慶喜の子女の系図を見て、この将軍すごいな、正室に一人、二人の側室に22人と合計23人の子をなしている(死産・夭逝を含む)。激動の時代の激務(?)の合間に、ストレスがいっぱいたまっていたのかと勘ぐる。二人の側室で22人か、年から年中孕んでいた。今の何と違って後嗣問題は起こるはずもない。

2017年9月20日水曜日

早稲田ラグビー、海老名でスタート

 関東大学対抗戦ラグビーが16日にスタートした。早稲田の初戦は海老名での日体大戦。昨季も同じ海老名で成蹊大戦があって、友人たちとの集まりがあって行けなかった。今年は観戦することを決めており、試合前に、かつて居住していた地を30数年ぶりに訪れてみようと思っていた。29歳に勤務会社を変わり、海老名市との市境の綾瀬市綾西4丁目(バス停は国分寺台10とかだったような)であり、そこに約5年間住んでいた。その地を離れてからは一度も訪れていない。かつて住んでいた借家の土地は二分割されて分譲されたことは知っていた。まだ小さかった子どもたちとの思い出もあって、一度は行きたいと思っていた。娘とその娘には、運動会に行けないことを謝っていた。
 しかし、折からの台風の影響もあり、午後からは雨の予報。そして海老名運動公園陸上競技場の観客席は狭く、10列12段+αしかない。雨を避けるエリアはその2割程度しかないし、それ以外は草の平地。雨の中で草地に傘を開いて立って観る気持ちにはとてもなれない。
 速報レベルでの試合経過確認では物足りないので、初めてJsportsのオンデマンドを購入することとした。ラグビーだけに絞り、月会費は1800円+消費税で、月末までは他大学の試合も何度も観られるし、シーズンが終わったら解約すればよい。費用は移動費と観戦料金と思えばいい。地方周りにもなる大学選手権も観戦できるし、PCやタブレットなどでの観戦に限られるが、前から購入しておけば良かったとちょいと後悔もした。

 画面のバックには首都圏中央連絡自動車道を頻繁に流れる車があり、いかにも地方の競技場での試合という雰囲気である。肝心の試合はと言うと、物足りない。ペナルティが気になるし、肝心なところでのハンドリング・エラーがある。一番不満なのは、相手にボールを持たせるとかなりの場面でゲインされるし、ターンオーバーもなくて接点での強さが見えない。相手陣で攻めていても攻めきれないし、後半になってからは失速気味。結果の54(5T5G/3T2G)-20(2PG/2T2G)に表れている。モールもまだまだ作り上げられていない。すぐにゲインされるのは、相手が少し強ければ簡単にトライにつなげられるような気もする。この試合、勝っただけということになるである。スターティングには1年生が3人(PR久保・LO丸尾・No.8下川)、2年生が6人と若いメンバーが多い。
 SH斎藤中心の早稲田であったが、他に目に付いた選手は、FB梅津のボールを持った前進(キックを使っていなかった)、CTB中野はまだ故障上がりで少し鈍いかな、11番の佐々木の足の早さは素晴らしい(古賀が入ってくれば早さがなおさらに良くなるか)、HO宮里はいい動きをしているし、No.8下川は1年生ながらAに定着するかも。SOには存在感を覚えず、岸岡が戻ればまたチーム力は増すであろう。
 桑山兄弟はBに出ていて今後に期待。秋田出身の加藤主将・三浦、黒沢尻北高出身の梅津、特に応援している-東北出身だから-。横山はどうした、故障か。

2017年9月18日月曜日

新政府軍を嫌い、会津藩に期待する江戸庶民・・・

 <森田健司 『明治維新という幻想』(洋泉社歴史新書、2016年)>:明治維新を礼賛する姿勢に疑問を抱いたのは結構若いときからである。それは靖国であったり、明治になって作られた平安神宮であったり、明治神宮であったり、陵墓が新たに指定されたり、諡号が贈られたり等々、継続する歴史が明治になって大きく変遷した(断ち切られた)ことに疑問・違和感を覚えたときからである。あわせて、傑人と呼ばれる明治の指導者層に対する、疑問符を伴う思いへと繋がってきた。疑問を膨らまして単純な否定へと向かわせることには抵抗するが、少なくも明治維新に作り上げられた日本のシステムは、先の戦争での敗戦後、今でも継続していると思っている。そして、明治を礼賛する人びとの、その礼賛する理由が理解できない。
 金子光晴は「新政府に加担する学者たちは、歴史をいつも一方に押し曲げる」と喝破したらしいが、それはいつの時代にも通じる。本書の著者は、「江戸時代の庶民思想の研究に注力している」社会思想史研究者で、本書では「民衆や旧幕府軍側の視点を通して」「開明的で希望あふれる「明治の世」を目指したという」明治政府の正体を検証する。「庶民に嫌われた新政府軍」-「新政府軍に目をつけられた人々」-「旧幕府軍側から見た明治維新」-「明治政府のイメージ戦略と『三傑』の実像」との4章で構成される。
 江戸時代を高く評価する重要なものは、①平和 ②治安の良さ ③それらを支えた道徳であって、そのような文化に浸っていた江戸庶民にとって新政府軍は不人気極まりなかった。江戸幕府を信頼する「江戸っ子」たちは、薩摩藩を中心とする新政府軍の繰り返される集団強盗=テロで、「錦ぎれ」の布を肩につけた彼らを毛嫌いした。江戸城を明け渡し、新政府軍に恭順した慶喜から庶民の心は離れ、東北戦争が始まってから、江戸庶民にとって旧幕府の中心は会津藩、松平容保であった。この乱暴狼藉強盗殺人のテロの中心にいたのは西郷隆盛の命の下にいた相楽総三の赤報隊である。新政府の第一の目的は、「より良い、近代的な日本の確立」などではなく、「自分たちが政権の座にある日本」だった。それは後の薩長を中軸とする政策に表れている。一方、「徳川家への忠心」と「私欲の強い否定」を家訓の主軸とする、会津松平の容保は自身のプライドを守る行動はない。会津戦争敗戦後、容保は過去については何も語らず書きもしなかったらしい。日光東照宮の宮司に就いた容保は、家康を通して幕府将軍への忠心を継続していたと言えるであろう。
 薩摩藩邸を焼き討ちにした庄内藩を私怨で賊軍にした薩摩藩であるが、会津戦争終了4日後に降伏した庄内藩には寛大な態度で対処した。西郷隆盛の意向があったと伝えられ、現在も庄内藩では西郷への敬愛の念が高いという。テレビでその状況を放映するドキュメンタリーを見たことがある。西郷の深謀があってと論じられているが、加えて会津での惨状をもたらした自らの冷酷な暴虐性(圧倒的な優勢を知りながらも攻撃を続けて若松城下には遺体を散乱させ、埋葬さえ禁じた)に嫌気をさしてきたのかもしれないと思っている。庄内藩敗戦で東北戦争は終わり、心に余裕が生まれ、冬も近づいてくるなかで、新政府軍は自分たちの会津での残虐性に怖れも抱いたのではないかと想像している。確かな根拠はないのだが。
 本書にて、維新三傑+伊藤に対する評価は辛辣である。すなわち、①幕府の追求から逃れるために改名した、影の薄い木戸孝允。②金銭欲より権力欲の男、(滅多打ちの「なます斬り」にされた)大久保利通。③戊辰戦争で天皇の威光を利用しただけの、戦好きで死を恐れなかったが、軍服を剥がれてのほほんとした姿に貶められた西郷隆盛。④品性に欠け、「単線的歴史観」の持ち主、テロリスト伊藤博文、である。そして、「新政府の要人たちの多くは、知識や語学力はあっても、品性や美学が甚だしく欠如していた。その代表が伊藤博文だが、木戸孝允も大久保利通も、道徳的に高い評価を下すことは困難である。彼らは皆、政治の手腕はあったとしても、哲学がなかった。西郷隆盛に至っては、悪い意味で「一時代前の人物」だろう」と断じ、あわせて、「戊辰戦争ほど無意味な戦争はなかったと断言」する。確かに、幕末に生きた数多の優秀な人物が殺されている。「新政府が仮に、自分たちは公益の何たるかを理解して、それに基づいて政治に関わっていると信じているのならば、その根拠は何だろう。答えは、いくら問い続けても出てきそうにもない」のである。「新政府」を特定政党や政治家個人、あるいはテレビで流れるスキャンダル議員に置き換えれば、これは今の「政治」にも当てはまると思う。つまり、「〇〇が仮に、自分(たち)は公益の何たるかを理解して、それに基づいて政治に関わっていると信じているのならば、その根拠は何だろう。答えは、いくら問い続けても出てきそうにもない」のは今でも同じである。
 勝てば「官軍」負ければ「賊軍」は、勝利した側が自らを正当化する行為に導かれる普通の結果であって、維新以降、徳川幕府を「旧き悪しき近世」と歪めたことは否めない。明治新政府を築き上げた指導者たちを単純に批判・非難するのではなく、幕末から明治、明治から大正、そして昭和前期と敗戦後の昭和後期、そして現代の流れを作り上げる日本というシステムの本質は何なのか、それを知りたい。というか得心したい。そんな思いである。
 臨時国会冒頭で解散のニュースが発せられている。民進党もだらしないが、長州出身と称される首相や、与党のあざとさを思う-尢も、政治に関わる議員たちの多くがそうであろうが-。明治維新の薩長体制政治の基底にあるものがいまも大きな潮流になっていると感じる。

2017年9月15日金曜日

一米沢藩士の「明治」

 <友田昌宏 『戊辰雪冤』(講談社現代新書、2009年)>:サブタイトルは「米沢藩士・宮嶋誠一郎の「明治」」で、「幕末から明治にかけて活躍した米澤藩出身の官僚政治家」である宮嶋誠一郎を描く。
 慶応4年/明治元年(1968)に新政府より討伐を命じられた仙台藩とともに米澤藩は会津藩の嘆願書を出し、結局のところ奥羽列藩同盟に加わり新政府に立ち向かった。結果は米澤藩は(会津藩とは異なり)減封されて廃藩置県を迎えるのだが、宮嶋誠一郎が中心となって明治政府の方針を積極的に支持し、「朝敵」の汚名の「雪冤」に努力した。本書はその宮嶋の「明治」を追う。「国家への忠節を第一とするため、中央集権体制確立に向け藩政改革をリード」するのであるが、「政府の要人と結託し、隠然と事を運ぼうとする誠一郎のやりかたは、ときに卑屈に映り、不審のまなざしを向けられることもしばしばだった」のであり、「政府から功績に見あった評価も得られず、米沢での評判もすこぶる芳しからざるものであった」。しかし、宮嶋は米沢出身者が出世をし、世に名を出せば喜んだという。
 郷土が朝敵となった悔しさ、深い郷土愛、そして「雪冤」の努力に関心は向かない。宮嶋の動きにはある種の滑稽ささえ感じてしまう。それは、郷土愛は否定しないが、そこに感じる偏狭さを見てしまうからである。
 本書の頁を開くと宮嶋の上半身の写真が掲載されている。宮嶋の活動も含めて、その写真の表情が鈴木宗男と妙に重なって見える。それは的を射ているのか、あるいは思い過ごしなのか曲解なのか。

82年前の沖縄の写真

 <朝日新聞社編 『沖縄1935』(朝日新聞出版、2017年)>:1935年沖縄の写真集。朝日新聞デジタル版や本版で眺め、写真集発刊を待っていた。人びとの表情と風景と時間をとらえている場所は那覇・糸満・久高島・古謝。写真集を開く前に、表紙の若い女性の白い歯の笑顔が素敵である。時空を離れた沖縄の写真に、多分、いま失われている何かを見て、何かを見つけようとしている。

2017年9月14日木曜日

朝敵から見た戊辰戦争

 松平定敬は“さだあき”で、松平忠敬は“ただのり”で、ああ紛らわしい。ついでに伊能忠敬は“ただたか”。現代にも多い読めない名前は、昔っからじゃないか。止まれ、オレの名前も簡単には読んでもらえないし、漢字で書かれようとしても、そもそもその漢字が書けなかったり、間違ったり、違う漢字に置き換えられたりすることが圧倒的に多い。その読めない名前の松平容保と定敬兄弟が本書の主人公。
 描かれるのは、「朝敵」とされた藩に視座をおいて戊辰戦争を見ることで、京都守護職/会津藩主/松平容保と京都所司代/桑名藩主/松平定敬の高須兄弟が中心となる。鳥羽・伏見戦争にて真っ先に朝敵筆頭となったのは桑名藩であるが、慶応4年1月に官位剥奪された諸藩の中で、会津藩だけが官軍との全面戦争に至り、その結果の悲惨さは今に伝えられ、薩長の暴力性に関する書物は多く出ている。一方、桑名藩においては、城地は何事もないように明け渡された。なれど、8歳から会津に生活し、会津高校出身でもある我が身にとって、一般的にはハマグリが有名である桑名藩にはほとんど関心がない。
 著者は三重県出身で三重県立博物館の職員でもあり、桑名藩について詳述されるが、いかんせん、桑名に対する関心も知識も無きに等しい自分にとって、明治期に活躍した最も著名な元桑名藩士である辰巳尚史(鑑三郎)は知らない人物であったし、定敬が会津経由で箱館戦争まで行って新政府に抗ったことも知らなかった。定敬は箱館を去った後、結構面白い人生を送っているのだが、今後、発散しないがためにも、そこには入り込まないようにする。
 藩主が藩を離れては藩主の代わりに家臣が死罪を受けていることは、割り切れない気持ちを抱いてしまう。最も藩主の賢愚に関わらず藩主に忠義を尽すのが武士道であり、それこそ中根千枝の説く、日本の「タテ社会の人間関係」であるからして、割り切れない気持ちは飲み込むしかないかもしれない。
 新政府は、「徳川慶喜の叛謀に与して錦の御旗に発砲した大逆無道」の罪を会津藩にかぶせ、仙台・米沢両藩の嘆願にも関わらず、「朝敵である会津藩は天地容れるべからざる罪人なので嘆願の趣旨を叶えられ」ることなく、結局は、「大鳥圭介、仙台・二本松・東北諸藩の盟友や桑名勢、凌霜隊など」の加勢があっても、悲惨な敗北となった。新政府の会津藩への処分は、最初は「鳥羽・伏見戦争への罪」で、会津戦争に勝利してからは「一藩をあげて新政府に抵抗した罪」が加えられた。なぜならば、鳥羽・伏見戦争の罪の筆頭者である徳川慶喜に会津藩と桑名藩は加担し、その慶喜は新政府に恭順した。ここで会津藩の罪が鳥羽・伏見戦争のみであるならば、慶喜を超える重罪を課すことはできなくなるからでもある。もっとも、そんな小難しいことではなく、私欲・私怨から始まった鳥羽・伏見からの流れが、会津にはなおさらに強く向けられた、と単純に捕らえる方がより明確である。会津でやり過ぎたから庄内藩では(西郷は)手を緩めたとも想像している。
 維新後の薩長忠心-特に長州-の政治は今にも続いているようであって、かの森友学園・塚本幼稚園での運動会では、「武士のコスチュームを着た園児が籠池理事長の”長州の武士たちよ、幕府を倒せ!”の合図で刀を振り回」していたらしいし、安倍首相は、「山口出身の総理は私以外に7人います。そのうち在職期間ベスト10人に入っているのが5人います」 と口にし、続けて 、「長ければ良いってものではありませんが、一番長いのは、桂太郎です。こんなことは東北では言えませんが」 と冗談ともつかないスピーチをしたと報道されている。バカバカしさを通り越している。そもそも-安倍に言わせれば「基本的に」となるが-、長州で生まれ長州の地の空気と時間を見にしみこませた明治期の長州出身者と、東京で生まれて山口には墓参するだけのような人間が、それぞれに長州を語っても意味が同じであるはずがない。
 会社勤めをしていた時、7才ほど年下の山口県出身の同僚がいた。彼の奥さんは旧若松女子高校卒業の会津若松出身であり、結婚するときは結構いろいろあったと言っていた。ちなみに、かつては桑名と津の対立もあったらしい。

2017年9月13日水曜日

幕末・明治維新の本2冊

 <町田明広 『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年)>:本書で主に扱う時代は文久期(1861~1864)で、この時代は日本人すべてが尊皇であり、攘夷であったし、討幕を唱えていたのはごく一部の尊皇志士激派のみに過ぎない、と断じる。
 では、幕末期のあの対立はなんのかといえば、「大攘夷」と「小攘夷」の対立である。それらの基底には天皇を中心に据えた東アジア的華夷思想があった-後々のアジア侵攻、世界での中心である日本、といったような思想に繋がっている。
 「「大攘夷」とは、現状の武備では、西欧列強と戦えば必ず負けるとの認識に立ち、無謀な攘夷を否定する考え」のもと、「現行の通商条約を容認し、その利益によってじゅうぶんな武備を調えた暁に、海外侵出をおこなうと主張」するもの。一方、「「小攘夷」とは、勅許を得ずに締結された現行の通商条約を、即時に、しかも一方的に破棄して、それによる対外戦争も辞さないとする破約条約を主張するもの」。なれど、龍馬たちが思う「大攘夷」にはチラチラと金儲けしようとする意図が見え隠れするのはオレの思いすぎか。
 本書では、歴史上あまり重きを置かれていない「朝陽丸事件」(長州藩と弱小小倉藩の対立)を「歴史的大事件」ととらえている。それは、奇兵隊が起こした朝陽丸事件は、朝幕間の直接的な軍事的紛争の発端と位置づけているからである。
 第三章に坂本龍馬の対外認識が論じられているが、龍馬には興味がない。そもそも坂本龍馬は歴史上大きく取上げられる対象ではないと感じている(勉強不足かもしれないが)。

 <坂野潤治 『未完の明治維新』(ちくま新書、2007年)>:『明治維新 1858-1881』に記載されていた明治維新の各指導者たちの構図を再掲する。
   大久保利通(殖産興業)--<富国強兵>----西郷隆盛(外征)
     |                     |
   <内治優先>                <海外雄飛>
     |                     |
   木戸孝允(憲法制定)---<公議輿論>----板垣退助(議会設立)
本書『未完の明治維新』では<海外雄飛>が<征韓論>になっている(前書で改められた)。この2冊の新書は同一の著者が著しているので共通点も多い。
幕末の政局では「憲法制定」路線はなく、下図がとても分かりやすい。そしてここではどの路線も強力可能な関係にあった。
         富国論                横井小楠
      /   \     (思想家→)     /    \
      議会論  — 強兵論        大久保忠寛 — 佐久間象山
 横井も佐久間も暗殺されている。有能な多くの人間が幕末/維新期に暗殺されている。生かされていれば明治は、日本はどう変わっていたであろうか。タラレバは意味ないがふと思ってしまう。
 冒頭の構図に戻ると、「富国」・「強兵」・「立憲制」・「議会制」は、各指導者の挫折の後に、「実務官僚と実益政党」の手によって熟された。そしてそれは、1881年天皇詔勅では「9年後」に議会を開設し、それ以前に憲法を制定するという、じっくりとした時間をかけて実現していった。大久保・西郷・木戸・板垣の明治維新は「未完の革命」であったが、成果だけを見れば、1894年の第一次日中戦争の前にはすべて実現していた。
 戦火のなかで叫ぶ「平和」と安寧の時代に主張する「平和」は異なる。つまり、「スローガンの持つ意味とその重さとは時代毎に違うのである。その意味で西郷と木戸と大久保と板垣の「明治維新」は、彼らにとっては永遠に「未完」のものだったのである」と著者は言う。「降る雪や 明治は遠く なりにけり」のような情緒的表現ではある。
 巻末に記される文が重い、すなわち、「戦後歴史学の暗黒の日本近代史像も間違っていれば、それを単に裏返したにすぎない、体制派知識人の美しき天皇制日本像も事実に反する」

メモを忘れていた

 本を読んだ(見た)あとは必ずメモをとっている。概略内容であったり、感想であったり、あるいはその本とは離れて自分の身の周りのことだったりする。書いた文章は少し時間が経った後で最低一回は見直して誤字などに修正を加え、その上でブログにアップする。ブログに載せる確たる目的はもっていないが、メモを客観的に眺めるという意義はあると思っている。

 下記2点はメモしていたがここへの記載を忘れていたもので、1ヶ月以上前に目を通したもの。あまりにも軽い内容だったので忘れてしまったのだろう。

 <週刊現代編集部 『鷲尾老人コレクション』(講談社、2017年)>:「某芸術家が人知れず蒐集してきた明治・大正・昭和の性風俗写真の数々を大公開」との宣伝文句で購入してみた。写真やモデルの古さから明治・大正・昭和を思えるのであるが、単に当時のヌード写真、エロ写真を集めただけで、当時の世相を浮かび上がらせる「風俗」写真ではない。風俗=エロではない。

 <橋本勝 『風刺漫画 アベ政権』(花伝社、2017年)>:漫画だけで伝わる風刺の剣先が鈍く、毒も薄い。クスッと笑えるウィットも乏しい。文章も然り。

2017年9月9日土曜日

太陽に向かって咲く花ばかり?

 ヒットしているらしい歌がテロップとともにテレビで流れていた。機嫌が悪かったのか、ちょいと絡みたくなった。

 「太陽に向かって咲く花」ばかりが花ではないし、太陽が沈む頃に咲き始めて陽が昇る朝には萎む花だってある。なかなか咲かない竹の花もある。「誰よりも輝」くって、なんでいちいち他人と比較してしまうのかな。「それなのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがる」ってSMAPに歌われていたじゃない。
 おっと、「花咲かずとも根を伸ばしゆけ」ってことは花が咲くことに拘泥している訳ではないんだ。しかし、咲かなければ根を伸ばすのか。最初の「太陽に向かって」は“地に伸ばす根っ子”に置き換わった。でもやっぱり花は咲いて欲しいらしい。しかし、それは日本的情緒の「名もなき」花で、ひっそりと咲く「綺麗な花」であるらしい。歌われるのは、燃えるような怒りの花でもなく、大輪でもなく、地面に突き刺さる根でもない。

2017年9月8日金曜日

3日(日)の充実した一日

 日頃、ウォーキング以外にはあまり動かないことが多いが、3日(日)はよく体を動かした。娘の娘(以下C)のピアノの発表会で与野本町まで往復。終了後、緊張から解き放されたのか、いつもは写真をなかなか撮らせてくれないCは何度もカメラのシャッターを押させてくれた。久々にツーショットをたくさん撮った。
 午後4時頃になって娘の息子(以下T)が端材を入れたボックスを抱えてやってきた。夏休みの宿題を作るらしい。もう二学期ははじまっているのにと疑問を口にすると、技術家庭の宿題で一回作ったのだが短時間で作ったもので気にくわないらしく、次の授業までに持っていけばいいので作り直したいと言う。ノコギリで木を切るのは時間がかかるので、電動ノコギリやいろんな工具を持っているオレのところに来たのだが、無計画で何を作るのかは決めていないらしく、迷っている。母親からLineで送って貰った写真を参考にして、スマホのスタンドを作ると決めてからが大変で、終了したのが夜8時過ぎ。どうも2時間ぐらいで終わると甘く考えていたようである。
 妹のCもやってきてハンディ・ベルトサンダーなどを使って作業している兄の写真を撮ったり、ちょっと手伝ったりし、やることがなくなると家に入って窓から作業を眺めたり、ちょっと用事を頼むと喜んで動いていた。
 完成品の姿は頭に浮かんでいるようなので、彼の予想に合う機構的なことにヒントを出してあげ、使う材料や接着剤、ネジも手持ちのものを提供し、面取りの意味ややり方、長さの揃え方などを教え、できるだけ作業の手出しはしないようにした。ものを作るのが大好きなTは木を切ったり削ったり嬉々としている。6時半で妹に母親から帰宅命令が出て、その後、娘からは何時頃に終わるのと何度かLineが家人に入っていた。Tにはスマホ使用停止命令が何度か出ているので、遅くなるのにはこっちの方が気になるが、宿題だから大丈夫だよとTは気にもかけていない。それどころか、ここはこうしたいとか、こういう動きを持たせたいとかこだわりもしていた。早く帰宅させたいが為に、駐車場にひろげた工具、作業台、部品等々はこっちで片付けをし、家に入ったのは8時半を過ぎていた。
 娘が言うには、4時間かけて完成したスマホ・スタンドの出来映えにTは大満足して帰宅したとのこと。遅くなって怒らなかったのかと尋ねたら、ジジのところに行くならもっと早く夏休みに入ってすぐに行けと注意しただけらしい。翌日やってきたTは、今度は蜜蝋を塗りたい模様。スピーカーなどを作っていたときの一連の作業を見ていて記憶しているようである。
 そして、充実したこの一日を過ごし、翌日は足に筋肉の張りがある。立ったりしゃがんだりを繰り返したためで、勿論心地よい張りである。

2017年9月5日火曜日

「振り返る」ということへのメモ

 「振り返る」ことの意味を大事にしていた時期は、製品設計業務に従事していたときである。
 設計は単純にいえば、要求仕様を設計仕様に翻訳し、それを設計図面に転写する一連の作業である。この翻訳-転写の概要は、「設計仕様」-「構想設計」-「部品設計」と進み、図面に向き合う構想段階では部品を構想しながら全体構想を組み立てていくと言ったようなものである。設計には、時間やコスト、製造技術/生産技術上などからの拘束性がある。悩ましいのは、設計が進んでいくと必ずといっていいほど設計をやり直したくなる瞬間が訪れるということ。時間がない、コストが目標に達しないなどといったようなものはまだ理由が明確であるが、厄介なのはもう少し良い設計にしたい、手直しすればもっとセンスある設計になるのではないかといったような、矜持というのか、ある種の美学的な欲求がでてくること。そして「振り返るべきか否か」、「手直しをすべきか否か」に葛藤する時間が少なからず発生する。設計がある程度進んだら原則的に振り返るべきではないと自分の中で決めていた。目標から大きく外れていない場合、或は機能や性能が仕様より劣っていない場合は、振り返るべきではないとしていた。取り戻すことの出来ない時間の中で、いちいち振り返っていては進まない。振り返りは次の段階でプラスに転じればいい。そう思っていた。仕事から離れた今でも、その考えは基本的に変わっていない。

 振り返ることだけを描く小説やドラマなどは嫌いだし、読んでいて見ていて不愉快になる。まして、過去に帰りたいと涙し、昔は良かったと懐かしむだけの描写は嫌いである。
 振り返ることの要因の一つには現実への未充足感がある。未充足感を填めるために過去を振り返るよりも、未充足が何に起因しているのかその現実を看ることが先ではないか。会社に勤めていたときのトップが座右の銘にしていた「看脚下」を思い出す。
 自らの足元を見ずに他人の言動ばかりを見て現在を嘆き、過去の社会に回帰しようとする人たちがいる。違うんじゃないかと思わざるを得ない。

 歴史を学ぶと言うことは単に「振り返る」ことではなく、過去の事実から今を見て、先に展望を開くことである。まさしくE.H.カーの「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」のだが、なぜなのか、単に過去を振り返り、懐かしみ、現在を歎き、歴史的事実を歪曲して声高に論じる人びとや書籍が多くなった。先日、ある小さな本屋に行ったら、入口の新刊コーナー、つまり最も目立つ場所にその手の本が並んでいた。売れているからそうしているのか、店主の好みでそうしているのか、居心地のよくない場所だった。

 好きな言葉、「過去と他人は変えられない。未来と自分は変えられる(You can not change the other people and the past. But, You can change yourself and the future.)」(Eric Berne)。

2017年9月3日日曜日

本の廃棄

 火曜日(22日)に福祉関連団体が回収する新聞・雑誌・衣類等に本を加えた。単行本・文庫本・新書などが合計600冊ほどあろうか。家の中では多量に見えた本の山が、玄関先に出してみると大した量には見えない。家の中では重みがあっても、仕切りのない場所にさらけ出せば僅かな不要品でしかない。

 6日後の28日には宅配の人が来て買い取りの本を引き取っていった。段ボールにしたら5個あった。新書・文庫本は尠いので3~400冊程度の量か。古い本が多いだけに買い取り価格は僅かにしかならないと思っていたが、予想よりは少し膨らんだ。それよりも何よりも、何年も、10年以上も、中にはそれ以上の本が一遍に家の中から消えてしまう。サッパリとさせてリセットという状態に近い。でも、まだ相当の、廃棄・買い取りされた量に勝るとも劣らない本が本棚やベッドの下の段ボールに並んでいる。チマチマと読み続けようと思っている。
 小説以外の、学術的なマジメな本は一度目を通し書き込みをし、読んだ後には再度書き込んだところを中心に読み直してノートに要点を書き落としている。時間がかかるが、これをしないと老化した頭に入ってこない。以前は書き込みをしただけで終わっていたので精読にはほど遠い読み方であった。後悔もあるが振り返ってもしようがない。