2017年9月14日木曜日

朝敵から見た戊辰戦争

 松平定敬は“さだあき”で、松平忠敬は“ただのり”で、ああ紛らわしい。ついでに伊能忠敬は“ただたか”。現代にも多い読めない名前は、昔っからじゃないか。止まれ、オレの名前も簡単には読んでもらえないし、漢字で書かれようとしても、そもそもその漢字が書けなかったり、間違ったり、違う漢字に置き換えられたりすることが圧倒的に多い。その読めない名前の松平容保と定敬兄弟が本書の主人公。
 描かれるのは、「朝敵」とされた藩に視座をおいて戊辰戦争を見ることで、京都守護職/会津藩主/松平容保と京都所司代/桑名藩主/松平定敬の高須兄弟が中心となる。鳥羽・伏見戦争にて真っ先に朝敵筆頭となったのは桑名藩であるが、慶応4年1月に官位剥奪された諸藩の中で、会津藩だけが官軍との全面戦争に至り、その結果の悲惨さは今に伝えられ、薩長の暴力性に関する書物は多く出ている。一方、桑名藩においては、城地は何事もないように明け渡された。なれど、8歳から会津に生活し、会津高校出身でもある我が身にとって、一般的にはハマグリが有名である桑名藩にはほとんど関心がない。
 著者は三重県出身で三重県立博物館の職員でもあり、桑名藩について詳述されるが、いかんせん、桑名に対する関心も知識も無きに等しい自分にとって、明治期に活躍した最も著名な元桑名藩士である辰巳尚史(鑑三郎)は知らない人物であったし、定敬が会津経由で箱館戦争まで行って新政府に抗ったことも知らなかった。定敬は箱館を去った後、結構面白い人生を送っているのだが、今後、発散しないがためにも、そこには入り込まないようにする。
 藩主が藩を離れては藩主の代わりに家臣が死罪を受けていることは、割り切れない気持ちを抱いてしまう。最も藩主の賢愚に関わらず藩主に忠義を尽すのが武士道であり、それこそ中根千枝の説く、日本の「タテ社会の人間関係」であるからして、割り切れない気持ちは飲み込むしかないかもしれない。
 新政府は、「徳川慶喜の叛謀に与して錦の御旗に発砲した大逆無道」の罪を会津藩にかぶせ、仙台・米沢両藩の嘆願にも関わらず、「朝敵である会津藩は天地容れるべからざる罪人なので嘆願の趣旨を叶えられ」ることなく、結局は、「大鳥圭介、仙台・二本松・東北諸藩の盟友や桑名勢、凌霜隊など」の加勢があっても、悲惨な敗北となった。新政府の会津藩への処分は、最初は「鳥羽・伏見戦争への罪」で、会津戦争に勝利してからは「一藩をあげて新政府に抵抗した罪」が加えられた。なぜならば、鳥羽・伏見戦争の罪の筆頭者である徳川慶喜に会津藩と桑名藩は加担し、その慶喜は新政府に恭順した。ここで会津藩の罪が鳥羽・伏見戦争のみであるならば、慶喜を超える重罪を課すことはできなくなるからでもある。もっとも、そんな小難しいことではなく、私欲・私怨から始まった鳥羽・伏見からの流れが、会津にはなおさらに強く向けられた、と単純に捕らえる方がより明確である。会津でやり過ぎたから庄内藩では(西郷は)手を緩めたとも想像している。
 維新後の薩長忠心-特に長州-の政治は今にも続いているようであって、かの森友学園・塚本幼稚園での運動会では、「武士のコスチュームを着た園児が籠池理事長の”長州の武士たちよ、幕府を倒せ!”の合図で刀を振り回」していたらしいし、安倍首相は、「山口出身の総理は私以外に7人います。そのうち在職期間ベスト10人に入っているのが5人います」 と口にし、続けて 、「長ければ良いってものではありませんが、一番長いのは、桂太郎です。こんなことは東北では言えませんが」 と冗談ともつかないスピーチをしたと報道されている。バカバカしさを通り越している。そもそも-安倍に言わせれば「基本的に」となるが-、長州で生まれ長州の地の空気と時間を見にしみこませた明治期の長州出身者と、東京で生まれて山口には墓参するだけのような人間が、それぞれに長州を語っても意味が同じであるはずがない。
 会社勤めをしていた時、7才ほど年下の山口県出身の同僚がいた。彼の奥さんは旧若松女子高校卒業の会津若松出身であり、結婚するときは結構いろいろあったと言っていた。ちなみに、かつては桑名と津の対立もあったらしい。

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