2023年8月21日月曜日

高校野球甲子園、『ハンチバック』

 甲子園での高校野球、準々決勝8チーム中3チームの選手たちは丸刈りではない(花巻東・土浦日大・慶応)。高校生だったときだと思う、ある著名人(誰なのかは忘れた)が「甲子園から丸坊主がなくなったときが戦後の終わり」というようなことを言っていた。その弁を受け入れるならば、戦後の終わりまで随分と年数を要したものだ。一方、戦後が終わって新たな戦前が始ってきているような気もする。なぜなら、今になっても非丸刈りを高校生「らしくない」と批判する人たちがいるのだから。彼等批判者の「らしさ」って何だろう。この「らしさ」とは、動詞に結びつかない、地名や校名を冠にする「××魂」に繋がっている。

 <市川沙央 『ハンチバック』(文藝春秋9月号、2023年)>:第169回芥川賞受賞作。いつものように単行本ではなく雑誌『文藝春秋』で選評とあわせて読む。
 ここ数年、芥川賞受賞作に感じ入ったということはなかった。でも今回の受賞作は傑作というか、今までにない世界を味わい、それに作者の文章のうまさ、比喩の巧みさ、鋭い切っ先を感じ、彼女は広範囲に深く沢山の書物を読んでいると感じ、さらに物事への感性の豊かさや深さを覚えた。
 以下、選評の言葉を引用して自分の感想に置き換える。
 「これまで遭遇したことも想像したこともなかった人生の姿がなまなましい文章で活写されており」、わたしの「情動を激しく攪拌」され、「衝動的」だった。「結末部分に異質な物語断片が唐突に置かれていることに」に対しては「こうしたフィクションを生きることじたいが、主人公の人生の現実そのものにある切実な深さと広がりの次元を与えている」と感じた。(以上は松浦寿輝の選評を引用。)
 「釈華が妊娠と中絶を希むのは」「自分より貧乏で不幸で頭の悪い子たちのレベルに追いつき、彼女らを見下したいのだ。ヘルパーの田中に対しては、お金の力で優位に立とうとする」、と小川洋子は評するけれど、この指摘は全く的外れで、評者の狭隘な感性、読書力を感じる。が、「田中の精液を飲み込んで死にかける姿には、常に生死の境に立たされている彼女に堆積した、底知れない疲労が透けて見える」(小川洋子)。
 「言葉の動きになにより力があったといえるであろう」(奥泉光)とは、やはり作者の読書量、感性と騒擾力の豊かさがあるからであろう。
 「健常者優位主義の社会が「政治的に正しい」と信じる多様性に無事に包摂されることを願う、という態度とは根本的に異なり、障害者の立場から社会の欺瞞を批評し、解体して、再構成を促すような挑発に満ちている」。「セックスと金銭を巡る倫理をパロディ的に先鋭化」して、「本書が突きつける問いの気魄は、読者に安易な返答を許さない」(平野啓一郎)。「健常者優位主義の・・・多様性に無事に包摂されることを願う」という現在社会の態度には共感するし、鋭い表現と感服する。
 「弱者である作者が弱者の物語を書いているはずだが、そこには微塵の弱さもない。というか、その弱さこそが強さなのだと見事に反転させてみせる」。「僕たち(私たち)は多様性をどこまで受け入れられるだろうか? などという昨今の生ぬるい上から目線の問題提起を「ハッチバック」は小気味よく一蹴してくれる」(吉田修一)。
 「コトバも骨も屈折しているが、心は不屈だ。自発的服従者ばかりのこの国の不服従を貫く「私」の矜恃に敬意を払う」(島田雅彦)。自発的服従さ、これは流されて生きるってことなのだろう。逆に自発的抵抗とは何か、と考えるがよく分からない。
 「長いこと読み続け、そして書き続けて来た人だけが到達出来た傑作だろ思う。文章(特に比喩)がソリッドで最高。このチャーミングな悪態をもっとずっと読んでいたかった」(山田詠美)。次作が出版されたら読んでみたい。
 「この小説を実感できる人間はほとんどいないはず、なのに、ここにある「知らなかったこと」は、とても身近だった」、「客観性ある描きよう、幾重にもおりたたまれているけれど確実に存在するユーモア、たくみな娯楽性。小説、というものの勘どころを、知悉している作者だと思いました」(川上弘美)。
 唐突に表れる聖書の引用、結末の紗花の紡ぐ物語は二度読みして、その唐突の重みが凄く、良い。「ゴグ」とはこの社会を代表する象徴であり。「我が国」は社会全体であり、ここには釈華の意思表示が暗喩されている。紗花の物語は釈華の可能であるかもしれない全ての事への転写(転移)なのかもしれない。そう、「結末は全体を相対化する重要な装置であると同時に、書かれた人物の思考から外へはみ出した意思の光だと受け取りたい」(堀江敏幸)。

2023年8月17日木曜日

ペリリュー外伝

 ハワイ・マウイ島が大火で、テレビに映るラハイナは歩いたことがあり、あの通りや街並みが消失し、複雑な気持ちとなる。一方、西海岸では観光客が泳ぎなどに興じているらしい。
 悲しみと喜び、いつも裏表。 左踵の痛みがまた出てきた。

 <武田一義 『ペリリュー -外伝ー 1』(白泉社、2022年)><武田一義 『ペリリュー -外伝ー 2』(白泉社、2023年)>:本編の『ペリリュー -楽園のゲルニカー』は最終巻まで読まずに6巻で止めてしまった。何故かというと戦場の情景描写が続く中で個人の悲惨な戦争、軍としての狂気、リーダーたちの日本精神優越感や精神論ばかり続いて嫌になったからである。前にも記したが「玉砕」と書き、「全滅」と書く視点がないからである。
 敗戦78年後の今も個々人の生活に爪痕を遺す戦争の悲惨さはドラマやドキュメンタリーで流されるけれど、表層的な事実は描かれても、なぜあの戦争は起こされ、何故狂気に走ったか、政治や外交はどうあるべきか、思考するシーンが少ない。また、加害者としての視点は薄い。本書は外伝とあるので違った視点での描写があるかと期待したがそうではなかった。70年以上も生きていると繰り返し描写される戦争シーンや個人的生活や感情にはほとんど気持ちが動かなくなってきている。慣れというのではなく、報道も同じ事を繰り返しており、そこに人間社会の限界というか、性といったものを感じてしまう。結局は、私的にあの戦争にどう向き合うのか、理解するのかと向き合い、ただただ死者を弔い、平和を願うしかないのであろう。これってひたすら祷ることしか出来ない、せざるを得ないあの御方と同じではないかと思ってしまう。
 このマンガは本編と同じで続刊はもう読まない。

2023年8月14日月曜日

雑記

 日大におけるアメフト部のまたもやの不祥事(犯罪)、ふと思う、危機管理学部の学内における位置づけはどうなんだろうと。

  “20190126:現代学生百人一首より”との表題をつけた自分のブログに以下を書いた。
    何にでも「平成最後」とタグ付けてそれでも変わらず流れる日常
 直木賞選考委員の林真理子センセは「平成最後の直木賞にふさわしい作品」と今年度上期(201998の受賞作を評したが、「平成最後にふさわしい」の意味がまったく理解不能。まぁ、彼女は横山秀夫『半落ち』で、「この作品は落ちに欠陥があることが他の委員の指摘でわかった」と他者の見解を引いてそのまま評価に結びつけた人だからしようがないか。

 日大のスポーツに関する問題点を認識していなかったような会見発言をした彼女は、結局は自らの感性と想像力に欠けた人だったと改めて感じた。また、50何年か前の記憶の隅にあるに日大における古田問題を思い出した。
 林理事長の出身学部は芸術学部で、通常は日大と自称せずに日芸というところにも心理的距離感があるのかもしれない、という穿った感じもするのだが、、、、。

2023年8月13日日曜日

メロディ譜二つ、Sing Our Song Together、Do I Dare

 ポップス系の好きな曲があり、気の向くままにMuseScoreでスコアを作成している。時間をかけてメロディ譜を作るのは、カラオケに合わせてEWIを演奏するとき-演奏という立派なものでなく単に音を鳴らしているだけという状況に等しいが-移調が容易く出来るということに過ぎない。
 古い歌本やネットでスコアを見つければそれを転記するだけで済むが、全く見つからないものもある。余りにも古い曲であること、and/or ポピュラーではないことなどが主な理由だが、そのような時は耳コピで音を拾うしかない。日本語の場合は比較的とっつきやすいが、英語の場合はかなり面倒になる。その英語の曲で楽譜が見つからない曲を二つ耳コピした。出来映えに自信はない。が、当たらずとも遠からずという程度の自負はある。
 その曲をここにアップしておこう。もしかしたら正確なメロディー譜を教えてくれる人がいるかもしれないという淡い期待、あるいは、もしかしたらこの曲を知っている人の役に立つかもしれないという薄い自惚である。

 曲の一つは、Sing Our Song Together。42年前に購入した中本マリのアルバムLady In Loveに入っている。車のCMソングでもありシングル盤も出てヒットした。何度も聞いた曲で歌詞を見るだけで歌える。
 もう一つはアメリカの女優Jessy Schramが歌うDo I Dare。YouTubeのPV数も少ないので知っている人は少ないであろう。もう一つOn This Christmas Dayという曲も好きなのだが、これの耳コピは後回し。




2023年8月12日土曜日

傲慢と善良

 <辻村深月 『傲慢と善良』(朝日文庫、2022年)>:話題になっていた小説だし、書名が思索的であるし、著者の本は読んだことがないし、ということで手に取り、帯の「人生で一番刺さった小説 との声、続出」という惹句は安易で、また表紙に描かれた女性の顔が好きじゃなかったが、810円をだして読んだ。
 100点だった彼女はいたが、結婚という行為に踏ん切りがつかずにいて、その彼女は他の男と結婚をし、ビール輸入代理店社長39歳の架は未だに独身。架は婚活を続けて真実と知り合い、結婚することに70%は肯定するようになり、二人は結婚式場の予約も済ませている。
 架の女ともだちから、架にとって自分は70点の女と聞かされた真美はストーカーにつきまとわれ恐怖から架けるに連絡をとり、翌日に姿を消してしまう。
 第1部では架が彼女を捜し求める。自分の好ましい状況下に置こうとする真美の母親、その母親に抗い母から離れた姉、前橋での結婚相談所の女性、真美が見合いをした二人の男性、中学の同級生で県庁では同じ派遣社員だった彼女の友人たちと会い、架はストーカーが誰だったのかを探す。しかし、ストーカーは特定できない。徐々に明らかになるのは真美の「善良」な性格や行動パターン。そして結婚というものを人々はどう捉えているのかということを改めて知る。一方、結婚に踏ん切りがつかなかった架の{傲慢」であることへの自覚。
 単純にいうと「傲慢」とは思い上がりであろうし、「善良」とは素直でいい性質のことを指すのであろうが、言い換えれば、傲慢とは自らの感情や価値観を高所におき他の人のそれらを受容しないことをいうのであろうし-受容するときは寛容という傲慢な姿勢をとる-、善良とは皮肉っぽく言えば己の価値観を他の人のそれに溶け込ませて感情もまた相手のそれに馴染ませてしまうことでもあろう。
 第2部は失踪してからの真美の思いや迷いを真美の視点で語る。作者の意図とは異なるかもしれないが、ここでは真美も傲慢になっていると感じた。架の傲慢は彼自身の価値観や感情の上にある傲慢さであるし、善良さとは自省と表裏一体の鈍感さとも感じる。一方、真美の傲慢さとは彼女の迷いや感情を架によって支えられようとする依存性とも思え、彼女の善良さとは自意識欠如による鈍感さと思える。彼女のそれは、二人だけの結婚式の神前で次のように思うことにある。すなわち、「本当は、これでよかったのだろうか、と望みがかなった今も、考え」、「この人のこの、気負わない鈍感さに、夫であるけれど違う人間であることに、これから何度救われるのだろう」と思うことにある。
 読んでいて苛立ちを覚える人物が何人かいた。真美の母親、真美の2回目の見合い相手、架の女ともだち。それぞれ異なるキャラクターであるけれど、近づきたくない人たちであり、これは俺の傲慢さであろうヵ。
 ・・・昔から言われている。結婚とは判断力の欠如であり、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如。結婚する奴はバカだ、結婚しない奴はもっとバカだ。これらの箴言は正鵠を射ている。 最後に、この文庫本の表紙の女性の絵はやはり編集者の選択ミス。

2023年8月10日木曜日

カティンの森

 <小林文乃 『カティンの森のヤニナ 独ソ戦の闇に消えた女性飛行士』(河出書房新社、2023年)>:「カティンの森」で殺された唯一の女性は飛行士で、32歳で殺害された日は誕生日だったといわれる。彼女の11歳の年下の妹はレジスタンス組織に入り「バルミサの虐殺」で殺された、20歳。二人の父親は「ワルシャワ大蜂起」の指揮官。
 ポーランド中央部からウクライナ・ベラルーシ・バルト諸国・ロシア西部の地域にてドイツとソ連によって推計1400万人の人たちが死に追いやられ、ポーランドはWWⅡで国民約3000万人のうち600万人が殺害されたといわれている。
 ポーランド人に大人気のカップ焼きそば「OYAKATA 」(味の素のポーランド限定生産)。ポーランドは全体的に反ロシアで親日。親日の主な理由は三つあると思っている。①日露戦(1904-05年)で憎きロシアに勝利した。②1919年に独立したポーランドを逸早く承認した。③1920-22年にシベリアで孤児となった子どもたちを救出して日本経由でポーランドに送った。
 本書を読むときの視点が幾つかある。一つは勿論「カティンの森」で殺されたヤニナがどのような人生を歩んできたのか、そして殺害されなければならなかったのかというもの。二つ目にそのヤニナをポーランドの人たちはどう受け止めて来たのかということ。戦後の歴史の中で沈黙を強いた社会主義という政治体制もうかがうことができる。さらには著者の取材活動を通じて彼女自身の視線を受け止め、読み手としての視線を重ねることになる。
 「カティンの森」に限らず人間のやることはなんと愚かで残虐であり、嘘をつき、ねじ曲げた正義を振りかざし、利己的であり、欺瞞の中で自己正当化するものであろうか。「カティンの森」の残虐性だけでなく、その後のソ連の長期間にわたる虚偽・欺瞞の経緯にも憤るというか、今のプーチンのロシアにも繋がるものを感じる。ある識者はウクライナとロシアの戦争を「価値観の戦争」と指摘するが、価値観と{称することに違和感を覚える。「カティンの森」も価値観という切り口で見ていいのかというとそれは違うと思う。では何と言えばいいのだろうか、「欲望の上に重ねられる、価値観を喪失した単純化された行動」とでもいえばいいのだろうか。
 ふと自分の国に眼をむければ、先の戦争で、日本はどれほどに被害者を悲惨な状況におとしめたのか、一方ではどれほどに加害者意識があるのか、と思いを巡らす。
 ・・・以前読んだ『カティンの森』(みすず書房、2010年)と『ケンブリッジ版世界各国史 ポーランドの歴史 』(創土社、2007年)を何度か開きながら読み続けた。

2023年8月8日火曜日

贈与の歴史

 いつまで続くこの暑さ。

 <桜井英治 『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』(中公新書、2011年)>:日本の贈与は西欧諸国に比べて義務感に基づいてなされる傾向が強く、日本の民法が贈与の撤回を認めていないのもそのためであるらしい。
 贈与の3つの義務はマルセル・モース『贈与論』によれば、①提供の義務、②受容の義務、③返礼の義務であり、さらに別の研究者が第4の義務④神に対する贈与、を加えた。
 神仏に捧げる気前の良い信仰は日本には存在しない。三途の川がわずか6文で渡れるのが日本の信仰。なる程、神仏を幅広く受け入れ、安価なアクセサリー的存在で気持ちの安寧を得ようとするのが日本の信仰心ヵ。神に哲学することなく、現世での利益を得ようと仏に掌を擦りあわせるってことかも。そして供物(贈り物)を捧げる。
 「租」の項にて分析されている贈与と税の関係に興味を持った。神に対する贈与が義務に転じ、あるいは人に対する贈与が義務に転じたとの分析-贈与と義務の分析がなるほどと感じる。「調」の項において、「初穂」とはまさしく”寸志”そのものだった」にも得心する。
 時代劇などに見る「贈与」のシーンではこれからは少し見る眼が違ってくるだろう。もちろん現代における贈与や儀礼に対しても人間社会のシステムとしての性格をより深くうかがうことになる。
 トブラヒ=相互扶助的な贈与、タテマツリモノ=一種の客人歓待儀礼。両者とも贈与儀礼から税に転じ、オオヤケゴト=共同対の公式行事がその徴収を正当化する論理となった(網野)。
 有徳思想をささえていたのは、①富の平準化を求める意識、②喜捨や徳行を要求する意識。徳政一揆はその延長線上にあると解釈すれば(何となく)納得して理解できる。
 先例・近例・新儀、先例の拘束力、先例と新儀の連鎖。今でも先例は大きな拘束力を持つ。不祥事(犯罪)を{繰り返す組織も先例があるからか-これは冗談。日大を思い出した。
 公式の手数料が存在しない中世、そこに「役得」が生じたとする。なるほどである。オレは一生懸命に寝る間も惜しんで町のため会社のため人のため組織のために身を粉にした、少しくらい役得があってもおかしくないだろう、とは現在もままみるシーンである。恒例化する贈与は賄賂ではなくなり、役得も当然の報酬と化す。現在よくある安手のドラマのシーンを彷彿させる。
 あとがきにて「本書で扱った自由奔放な贈与のふるまいとは、さしずめ「資本主義」に相当する最上層の出来事であ」ると述べている。でも、贈与をする富の有無、贈与をする目的の有無を考えれば、もちろん中世から-古代からあったとする論もある-現代社会までにつながる、言い換えれば、人間の本質的な性行と捉えることもできる。いま騒がれているビッグモーターの件も、経営陣と使用者、上司と部下の関係を「贈与」という切り口で見ると面白い。不正を働いて会社に利益を贈与し、会社は働く人間に給与と地位という贈与(返礼)を施し、時が経てばそれが当たり前のシステムと化してしまう、という単純化である。