2023年8月8日火曜日

贈与の歴史

 いつまで続くこの暑さ。

 <桜井英治 『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』(中公新書、2011年)>:日本の贈与は西欧諸国に比べて義務感に基づいてなされる傾向が強く、日本の民法が贈与の撤回を認めていないのもそのためであるらしい。
 贈与の3つの義務はマルセル・モース『贈与論』によれば、①提供の義務、②受容の義務、③返礼の義務であり、さらに別の研究者が第4の義務④神に対する贈与、を加えた。
 神仏に捧げる気前の良い信仰は日本には存在しない。三途の川がわずか6文で渡れるのが日本の信仰。なる程、神仏を幅広く受け入れ、安価なアクセサリー的存在で気持ちの安寧を得ようとするのが日本の信仰心ヵ。神に哲学することなく、現世での利益を得ようと仏に掌を擦りあわせるってことかも。そして供物(贈り物)を捧げる。
 「租」の項にて分析されている贈与と税の関係に興味を持った。神に対する贈与が義務に転じ、あるいは人に対する贈与が義務に転じたとの分析-贈与と義務の分析がなるほどと感じる。「調」の項において、「初穂」とはまさしく”寸志”そのものだった」にも得心する。
 時代劇などに見る「贈与」のシーンではこれからは少し見る眼が違ってくるだろう。もちろん現代における贈与や儀礼に対しても人間社会のシステムとしての性格をより深くうかがうことになる。
 トブラヒ=相互扶助的な贈与、タテマツリモノ=一種の客人歓待儀礼。両者とも贈与儀礼から税に転じ、オオヤケゴト=共同対の公式行事がその徴収を正当化する論理となった(網野)。
 有徳思想をささえていたのは、①富の平準化を求める意識、②喜捨や徳行を要求する意識。徳政一揆はその延長線上にあると解釈すれば(何となく)納得して理解できる。
 先例・近例・新儀、先例の拘束力、先例と新儀の連鎖。今でも先例は大きな拘束力を持つ。不祥事(犯罪)を{繰り返す組織も先例があるからか-これは冗談。日大を思い出した。
 公式の手数料が存在しない中世、そこに「役得」が生じたとする。なるほどである。オレは一生懸命に寝る間も惜しんで町のため会社のため人のため組織のために身を粉にした、少しくらい役得があってもおかしくないだろう、とは現在もままみるシーンである。恒例化する贈与は賄賂ではなくなり、役得も当然の報酬と化す。現在よくある安手のドラマのシーンを彷彿させる。
 あとがきにて「本書で扱った自由奔放な贈与のふるまいとは、さしずめ「資本主義」に相当する最上層の出来事であ」ると述べている。でも、贈与をする富の有無、贈与をする目的の有無を考えれば、もちろん中世から-古代からあったとする論もある-現代社会までにつながる、言い換えれば、人間の本質的な性行と捉えることもできる。いま騒がれているビッグモーターの件も、経営陣と使用者、上司と部下の関係を「贈与」という切り口で見ると面白い。不正を働いて会社に利益を贈与し、会社は働く人間に給与と地位という贈与(返礼)を施し、時が経てばそれが当たり前のシステムと化してしまう、という単純化である。

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