2015年10月28日水曜日

漫画に歴史に新書

 <原泰久 『キングダム 三十九』・『キングダム 四十』(集英社、2015年)>:嬴政と呂不韋との対決、そして二人の「天下をとる」ことへの論戦を経て秦の中国統一への実質的第一歩が始まる。
 因みにChinaの語源は秦にあって、インド経由でヨーロッパに至ってChinaになっている。無論日本での支那も秦を語源としている。
 秦の政策での歴史的意義を二つあげてみる。一つには郡県制に見られる中央集権志向。それは中央から長官あるいは次官を派遣し、それも本籍地は回避して一定期間の任期で交替させていた。また、地方地盤と有力者との分離を図るための富裕土豪層の首都への強制移住も実施した。これらは現代にも散見される血縁関係や権力・富裕層に癒着する人間の悪しき性癖を指摘しているように思え、古から変わらぬ社会の姿と、それを改革しようとした秦の時代の政策に普遍的意義を覚える。二つめには経済活動の基盤をなす度量衡や貨幣の統一である。生産活動の基本は物差しを一定に持つことであり、均一性・平等性を保ち、物流を円滑に進めるには「標準」が必要であり、これを広大な土地と多様な民族も存在する中国領土にて紀元前に実施したことに歴史的な重さと先見の明を思う。悪評高い焚書については単に暴力的な一面を見るのではなく、政治・社会システムの側面から焚書という事象を見ても良いのではないかと思う(焚書を肯定している訳ではない)。今後、これらの施策を含め、『キングダム』では秦をどう描くのか、あるいは戦を中心に描き続けるのか、興味がある。

 <大津透ほか編 『岩波講座日本歴史 第15巻 近現代3』(岩波書店、2014年)>:読んだ論文は、①「帝国日本の形成と展開-第一次大戦から満州事変まで」(浅野豊美)、②「都市民衆騒擾と政党政治の発展」(季武嘉也)、③「大衆社会の端緒的形成」(大岡聡)、④「満州事変・日中戦争の勃発と立憲政治」(源川真希)。
 ①で会津出身のキング・オブ・シュガー松江春次を初めて知った。松江は敗戦で財産を殆ど失ったが、「非軍事化されアメリカによって管理・コントロールされる『民主化』された戦後日本」は何を失って何を得たといえるのであろうか。失ったものと得たものは真に価値あることであろうか。②において「これまで歴史学ではあまり注目されてこなかった町内会」が論じられている。現在朝日新聞では自治会・町内会のあり方が連載されている。「町内会の存在が重要になるのは第一次大戦後、特に1923年の関東大震災を契機に増加して以降といわれ」ており、戦後サンフランシスコ条約発効で再び組織化されている。いま様々な問題が提起され、町内会がなくなった地域もある。法的に拘束力のある規定は法律や政令などには存在しないが、いろいろなしがらみで加盟せざるを得ない状況下にあることは否定できない。町内会の存在はメリット面もあるだろうが、総じて言えば、行政が自治会・町内会に依存し行政業務を怠慢していることと個人的には捉えている。④では市川房枝に関する記述に改めて関心が向けられた。それは、戦争協力への姿勢である。即ち、「この国家としてかつてなき非常時局の突破に対し、婦人がその実力を発揮して実績を上げる事は、これ即ち婦選の目的を達する所以でもあり、法律上の婦選を確保する為めの段階ともなる」としたことである。これってどう読んでも説得力のない論理のすり替えである。そして、思い出すのは、西山事件(沖縄密約事件/外務省機密漏洩事件)にての市川房枝の姿勢である。何かの本で読んだのが、それは、密約を男女関係の問題にすり替えた世の中の動きに同調したことである。もてはやされた人ではあるが、軽さと底の浅さを感じている。

 <白川敬彦 『春画に見る江戸老人の色事』(平凡社新書、2015年)>:「老爺の色事」・「老婆の色事」・「老夫婦の色事」と章立てされて春画とそこに描かれる性愛情景、時代性などの解説が付されている。「年がよっては、酒を飲むとするより外のたのしみはない。それ、こゝかこゝか」(50頁)の前半部分は、老人の域に入っている身となれば充分に理解できる。老人を描く春画には思うようにことが運ばなくなった切実さと、ほのぼのとした笑いが混じり合っている。明治以降に裸が恥ずかしいものになり、混浴が公序良俗に反するものとなり、春画は日本文化の湿っぽいところに追いやられてしまった。永青文庫の春画展には若い女性が多勢訪れ、カップルでも来ている。そこには本来の人間の持つ性愛へのおおらかさを感じた。そでには老人の春画を見ることはなかったが、春画に対する視覚をもっと拡げて(即ち人間の生そのものとして捉えること)も良いと思う。
 「いまだに性愛についての認識が硬直していて、たとえば、大英博物館で開催された『大春画展』さえもが、この日本には持ち帰れないといのだから、情けないというか、何を考えているのかわからなくなる。いや、何も考えてりゃしないのだ。という声もあって、それはそれとして、いつもの官僚的な対応の一つなのだろう」(169頁)との著者の指摘が的を射ている。また、その大英博物館の展示内容と同一ではないにしても全面的な協力を得て開催された、永青文庫の「春画展」が、正直なところ都内のひっそりと静かな場所の狭いところで実施され、展示品も4回に分けられるスペースしかないことを思うと、この国の文化にいじましい根性が見え隠れする。

2015年10月27日火曜日

雑記と小説一冊

 24日から那須にいて明日自宅に帰る予定。

 再審決定と懲役刑執行停止で二人の方が釈放された。テレビを見ていると、警察や検察が自白に基づいて検証実験をすべきであったと主張するコメンテータの声が多い。
 自供内容は「ガソリンを駐車場に流してライターで火をつけた」というもの。弁護側の主張は「自供通りでは駐車場にある風呂釜の種火で自然発火する」というもので、「自供内容と検証実験結果では矛盾がある」というものである。よってコメンテータは、警察あるいは検察が自供に基づく検証を実施していないことを批判する。しかし、もし警察(and/or検察?)が検証実験をしていれば、自供内容を「種火で発火することを予め予想していてガソリンをまいた」ということにして自白を強要していたかもしれない。もしそうなったならば、弁護側の反証はどのようなものになったであろうか。コメンテータの方々は「検証」を言うけれど、安易に「検証」を口に出してはいないだろうか。ふとそんな事を思った。・・・要は、自白のみに判断を委ねたことに問題があり、より深くは、そのシステムを生じさせている刑事訴訟/裁判システムに本質的な課題があると思うのだが。

 <中村文則 『去年の冬、きみと別れ』(幻冬舎、2013年)>:二人の女性を殺し死刑判決を受けている男に、ライターが面会するところから始まる。男の姉、人形師などが登場し、物語は錯綜する。ミステリーでもあろうが異様な人間どうしの異様な関係が展開し、狂気の愛が綴られる。内面を見つめ続けて愛を紡ぐとこういう狂気の世界になるのかと思う。愛の世界から美を見つめ、葛藤する…というような描写に関心は薄いし、魅力を感じないので、期待外れの一冊となった。

2015年10月19日月曜日

ウィスキーを飲みながらの独り言

 嫌いな・・・・というものは理屈でなく、生理的嫌悪感に近いものでどうしようもない。嫌いな女優が出てくるドラマはチャンネルを変えるし、嫌いな作家は世間から高評価を得ていてもその作品には眼を通さないし、ポップスでも嫌いな歌手、クラシックでの嫌いな指揮者、嫌いなピアニストも自分の中には存在する。
 十数年前に青森出身の同僚と飲んでいて、何とはなしに作家の話をしていて、太宰治が嫌いだと言ったら、相手は急に怒り出した。その後ポップスの話になって彼にプレスリーは好きでないと口にしたら彼の怒りを増長させてしまった。嫌いな作家は誰、好きではないシンガーは誰と問われてマジメに返事をしただけだったのだが...。
 モーツァルトのピアノコンチェルトは好きで、演奏者・指揮者の異なるCDは多く持っている。その中でホロビッツ/ジュリーニのあの速歩の23番は一度聞いてから二度と聞いていない。しかし、それを高評価する人もいて、その評価を論理立てて文章にしているが悲しいかなこっちにはその表現力がない。カラヤンもどうも駄目で、その弱音の美学というらしいものが自分には駄目。
 音楽を文章で表現する人の鑑賞力、語彙、文章力に敬服するのはいつものこと。シベリウスの交響曲第2番はオーマンディ/POがとても好きなのだが、他の指揮者ではなく何故にオーマンディなのか自分でもよく判らない。最初にLPで聞いたのがそれだったせいかもしれない。動物が生まれて最初に目にする生き物を親と思うそれに似ているのかもしれない。多分そうに違いない。シア・キングのモーツァルト/クラリネット協奏曲もそうだし、似たような事例は沢山ある。アンセルメのドビュッシー(特に牧神の午後への前奏曲)、ジョージ・セルのドヴォルザーク交響曲、ABQのベルグやモーツァルト、等々があり、好きなサティもチッコリーニは避けてしまう。あわないといいながらもカラヤンのシェーンベルグ/浄夜はいい。クロノスQやクレーメルは発売されると殆ど購入して聴いている。どこが好きなのかと問われると自分でも上手く説明できない。問い詰められると、最後は好きなものは好きと言い張るだけになってしまう。
 音楽においての好き嫌いは、作家や演奏者の名前をあげることに抵抗は殆どない。しかし、小説をはじめとする本においては特定の嫌いな作家名をあげるのには抵抗がある。それは本には思想性や人生観、政治性が表出してしまい、誤解曲解嫌悪感を容易に生じさせてしまうからである。単独の小説については自分のブログでも書いているのであるが、ある作家を総論的に書くのは控えている。出版社/新聞社も同じで、自分の中では色づけている。これはしようがないことである。最終的には好き嫌いでしかない。

 昨日は疲れていたせいもあろう、21時には寝てしまった。予め判っていたことだが今朝は早く眼が覚めてしまい、午前3時にはコーヒーを入れてPCに向かっていた。今度はその反動で昼になってから猛烈な睡魔に襲われ熟睡の昼寝。そして眠れないであろうからと22時頃からウィスキーをなめている。いつものことではあるけれど、年齢に相応しくない不規則な-出鱈目な-睡眠/起床ではある。

芸術の秋-2/2

 当初は御徒町にホテルをとるつもりだったが満室で予約が叶わず、結局は西武新宿駅直前のカプセルホテルに入った。風呂に入ってカプセルに入り、そこから出たのは9時少し前で、結局は9時間近くも寝た。ルノアールにてコーヒーとモーニングサービスの食事を摂り、KYのバス出発は17時ということもあり、時間的に余裕があるので急遽ホキ美術館に向かうこととした。KYも自分も以前より行きたいと思っていたのでそうすることに決めたのだが、最寄りの駅が判らない。横にタブレットを操作する若い男性がおり、図々しくも彼に調べて欲しいと頼み込み、にこやかな表情で応対してくれ、やはりガラケーではなくタブレットは必要かな、少なくとも先日息子からもらったiPad-まだ操作に不慣れ-を持ってくれば良かったと思った次第。
 新宿から千葉・蘇我を経て土気駅に到着し、タクシーでホキ美術館に入った。日曜日ということもあるのだろう、そこそこの人が訪れていた。ギャラリー1から順にまわったのであるが、ギャラリーに入ったその瞬間から写真と見間違うほどの細密な写実的な絵に驚く。遠くから眺めては驚き、近くに寄って目を凝らしてはまた驚き、ただただ敬服するばかり。1本ずつ描かれた女性の柔らかな髪にため息をつき、背景と服との白色の微妙な描かれ方などに言葉を失くすばかりだった。絵を描く能力に著しく劣る自分にとって、絵をかける人が羨ましいのであるが、ここに来て思うのは、羨ましいという気持はとても失礼なことであって、画家はもう次元の違うところにいる人だという気持である。女性の肌、髪、深い奥まで表現される眼、実際と異なることのない木の床、青空を背景に描写される雲々、透明感のある水の流れ、樹木、家、等々。自分の家の壁に吊り、いつまでも、いつも見ていたいと思う絵も沢山あった。もちろんそんな事は実現する筈もなく、100円を出して絵はがき大の絵を購入することしかできない。648円のA3サイズのものも販売しているのだが一番好きな絵はなかった。そのサイズには、女性の裸体で好きなものがあったのだが、自室に掲げたときの家人の反応、娘の子どもの発する言葉、息子の嫁さんの見開く眼と表情を想像すると-自分の部屋にはみんな自由に入ってくる-臆してしまい、小さな葉書大のものを購入し、パソコン横のスピーカーの上に置くにとどめた。来年になれば展示品の入れ替えをするであろうから、もう一度行ってみたい。あの精細さと美しさは実際のものを見るに優るものはない。

 ホキ美術館を出て土気駅まで20分ほど歩き、KYとは秋葉原駅で別れた。
 前日は永青文庫で春画展、この日はホキ美術館での写実絵画、どちらも芸術ではあるが、ホキ美術館の絵画はまさに「美術」、永青文庫での絵は「文化」という言葉が当てはまる気がする。よりフィットする言葉=漢字があればそれを知りたい。
 しかし、絵を描ける人が「羨ましい」のだ。

芸術の秋-1/2

 KYから上京するとの連絡があり、17日・18日と一緒に過ごした。17日13時近くに池袋で待ち合わせ、まずは永青文庫に向かった。
 以前より永青文庫で開催されている春画展に行こうと思っていて、いい機会だからとKYを誘った。池袋から目白駅に移り、停車していたバスに乗り込み椿山荘前にて降車し、永青文庫まで歩いた。混んでいるとは知っていたが、同じ方向に向かう人が思っていた以上に多い。それに予想以上に若い女性たちが多い。カップルの人、友人同士で歩いている人など、年配の人の存在が少ない。受付では目の前にいた女性3人グループがそれぞれに身分証明となるものを提示して18歳以上であることが確認されてからチケットを購入している。さすがに我々は身分証の提示を求められはしなかった。順路に従い狭い展示場を移動する。目の前には春画、そしてそこに目を向ける多くの人が列をなしている。我々は背後から画を見ることはできるが小柄な人は少々の困難が伴う。繰り返すが若い女性の多さは意外だった。一緒に春画を鑑賞する男女のカップル、黙って見ている友人同士の女性たち、あるいは一人で移動する女性たち。夫婦と思しき年配のカップルなどなど。目の前に掲げられている画はすべて春画であり、人間のちょいとした秘め事を多くの人たちが見ている空間は淫靡とは異なり、湿ったエロチックさもなく、おおらかさがあった。豆本春画に顔を寄せるKYに接してしまうほどの近さで同じく顔を寄せる若い女性がいて、小さな春画とそこに目をやる二人の頭を後から見ていると、和やかで、ユーモアがあり、日常ではあり得ないシーンであった。ここの永青文庫の中でしか存在し得ない時間・空間であった。
 美術鑑賞能力が低いことを自覚しており、ここの絵の技巧や構成などを語る言葉はなく、性交場面をデフォルメして描く日本の春画という存在にただただ感嘆するだけである(因みに中国の春宮、西洋のエロティック・アートは面白みがない)。平凡社/別冊太陽の春画を3冊持っており、今回もそうだが、人間の日常的な性行為に理屈ではなく、単純に、根源的な生き様を見ようとするのは自分の傾向である。政治も、複雑に混沌とした社会構造も、感情や思惑が入り交じる人間関係も、そんな面倒くさいことを横に措いて人々の原初的なものが感じられる。

 永青文庫から早稲田中高校の横を歩き、高田馬場まで歩いた。理工学部出身の自分にとっては早稲田大学の本部エリアには馴染みが薄く、名前だけしか知らない穴八幡宮の横を歩いても何の思いも湧いてこない。明治通りと早稲田通りの交差点(馬場口)から高田馬場駅までは、かつては何度も歩いたはずであるが、思い出すものはほんの一握りの記憶でしかなかった。
 17時に新宿にてSJと待ち合わせをしていたのだが、それまでは時間があくのでSJに連絡を入れ、要は「おーい暇でやることもないだろうから早く出てこいよ」と言って呼び出し、KYとは15時40頃から、16時頃からはSJも合流し、それからは延々と酒とカラオケに浸ることとなった。

2015年10月13日火曜日

賞賛/歓喜と落胆/失意

 午前2時半からのラグビー観戦はさすがに無理があり、録画でじゃぱんvsアメリカを観戦。試合経過はRWCのHPで知っていたので試合観戦の臨場感には欠けるけれど、勝利へのプロセスに魅入った。全敗中のアメリカは前南ア戦をほぼ捨てていて主力はこのじゃぱん戦に向けていた。アメリカのRWCでの勝利3戦のうち2つは日本からのもので、今大会唯一の勝利獲得をこの試合にかけていることは明らかだった。
 いままでリザーブにも入っていなかった藤田が右ウィングで先発し、松島のトライへの布石を作り、自らもモールに絡んでのトライ。マフィのトライも含め、3T2G3PG/28-18で3勝目をあげた。3勝して決勝Tに進めないのはRWC史上初めてで、ネットにはベスト9と書かれているのは当然であろう。全世界を湧かせた南ア戦での大勝利、サモア戦での完勝。そしてこの日のアメリカ戦勝利。いままでジンバブエにしか勝っていなかった、体躯に恵まれないじゃぱんは今回のRWCを盛り上げ、じゃぱんラグビーへの敬意と賞賛が高まった。ラグビー大好き人間な自分にはたまらない今回のRWCじゃぱんだった。

 そして午後には秩父宮で早稲田vs筑波戦。これまでの早稲田の立教・青学戦のスコア、明治・慶応・帝京のスコアから見て早稲田には力が備わっていないは判っている。そして前日、明治vs筑波戦の録画を見ててからは次のように思った。早稲田が勝利するならば20点前後までのスコアでの僅差であろう、しかし負ける可能性も高い。
 ところが想像以上に早稲田は弱い。最初に筑波ゴールライン直近の攻撃で反則をおかしたとき、ああ、また反則連続で自滅するのかと思った。そして、同じパターンで簡単にディフェンスが破られ、というより接触もなしにディフェンス・ラインを突破される。ディフェンスが徹底的にダメ、ペナルティにハンドリングエラーも多い、筑波に比べて寄りが遅い。これでは勝てるはずもない。
 RWCも終わったし、藤田はいつから出てこられるのだろう、故障している主力選手と言われるが、主力って誰を指しているのか。桑山・黒木(今回から出てきた)・仲元寺・本田・横山たちかな。でもこんな、今までで最大の得点を取られる負け方をしたことは、要は戦力の層が薄いということ。それは入学のハードルが高くなってきていることに外ならない。試験勉強は勉強すれば向上するが、スポーツはいくら練習しても向上できるものではない。それだけに傑出するスポーツマンには敬意を払うべきだし、もう少し入学のハードルを下げても(枠を拡げても)いいような思いがある。
 以前ならば新潟や山梨にも早稲田の試合を見に行った。しかし、今回は帝京戦の秩父宮にも、まして群馬での日体大戦にも足を運ぶ気はしない。・・・兎に角、ディフェンス力、ペナルティーやハンドリングエラーの大改善をして欲しい。

2015年10月11日日曜日

RWC決勝T進出ならず、芥川賞2作

 ついさっきまでサモアvsスコットランド戦ライブを観戦。勿論サモアの勝利を願うだけだったが33-36で敗退し、じゃぱんのベスト8進出の可能性は失せた。キックオフ直後から点数の取り合い。キックオフすれば互いに相手から点を取り激しい試合となった。前半14分で15-10、21分で20-13とサモアは先攻するが自陣でのディフェンスが悪く、ペナルティも多い。随分と荒っぽい試合になり、前半は26-23。どっちが勝利するかは全く解らない展開だったが、サモアは日本戦でも反則が多いのでそれが気になっていた。結局はそのペナルティの多さが敗因といっていいだろう。後半は終了間近のトライ以外はいいところがなく、モールやスクラムでも押されっぱなしでペナルティが多すぎた。
 じゃぱんはアメリカに勝利して欲しい。3勝して決勝Tに進出できなかったという新たな歴史を作って欲しい。

 ラグビー観戦のおおよそ6時間前には錦織が負けて決勝進出ならず。USAオープン1回戦敗戦の相手にまたもや敗退。第1セットを6-1で取っていたが、第2セットの最後のゲームでブレークされ、ファイナルの最初のサービスゲームにもブレークされ、この時点で決勝進出は難しいと感じたがその通りとなってしまった。次は上海マスターズ、第6シードで順調にいけば準決勝でフェデラーと当たる。結果はどうであれATP World Tour Finalsには出て欲しい。

 <又吉直樹 『火花』(文藝春秋2015年9月号特装版)>:「大地を震わす和太鼓の律動に」と陳腐な表現で始まる話題の芥川賞作品。主人公(徳永)と紙谷の間で繰り返されるパターンはいつまで続くのか、と途中で飽きてきた。今時の漫才に興味がなく、若い芸人の芸に若い人たちが何故面白がるのかその理由がオレには解らないし、そもそもこの小説の語り手である徳永が紙谷の弟子になるシーンも唐突であり理解しがたい。徳永や紙谷が目指す漫才の芸がどういうものなのか伝わってこない。それは多分、著者は直向きに漫才芸の何かを求めているのであろうが、その何かが描写されていないし、読書に伝えようとしていない。少なくともオレには解らなかった。登場する人物たちすべては、オレが過去から積み重ねてきた世界とは全く異なる世界である。漫才とは見聞きする側に対し、庶民のペーソスを表現し、それを通じて共感し安堵する場と時間の提供であろうと思っているし、また世の中の仕組みに対し笑いを媒介とする毒をもっていなければならないとも思っている-毒がないといわゆる”毒にも薬にもならない”ということになる。この小説での漫才とは何か、笑わせたいというのは何に立脚しているのかが描写されていないと感じた。要は、核がない、笑いや漫才の基層が描かれていないと思う。だから、同じように繰り返す描写に飽きてきた。

 <羽田圭介 『スクラップ・アンド・ビルド』(文藝春秋2015年9月号特装版)>:語り手は再就職活動中で、筋トレとオナニーにふける30歳近い健斗。彼は口の悪い母親、88歳の祖父と一緒に3LDKのマンションに住む。祖父は死にたいと繰り返し口にしているが内実は計算づくで周囲に甘えており、世話をする孫は祖父の死を叶えようと柔らかく気を遣い行動する。二人のやりとりは滑稽であるが、老齢介護の問題は現社会の抱える問題でもあるので、滑稽さの中に切実さをも感じさせる。『火花』は途中で飽きてきたが、こっちはそんなことはなく、一気に読んだ。文章もこなれていると思った。ただ、この小説に共感するものは一つもない。

2015年10月7日水曜日

小説3冊

 10月4日((日)昼11時から横浜で飲んで歌って飲んでまた飲んで、21時頃に関内のホテルで爆睡。 翌日はさすがに体が酒を殆ど受け付けず、ビールを少々飲んだだけであとは歌いまくった。昼から飲んで歌うには横浜は環境が整っている。5日19時少し前に帰宅。

 最近は以前よりも小説を読むことが少なくなっている。頁を開かないままに放ってある小説を続けて読んだ。買ってしまったままになっている本の費消といった感も強い。実際のところはあれもやりたい、これもやりたいと、やりたいことのメニューが幾つかあって時間が足りない状況にある。取捨を上手にやれないし、怠惰癖もあるものだからこれからもこういう状態が続くとは思う。

 <ピエール・ルメートル 『その女アレックス』(文春文庫、2014年)>:『このミステリーがすごい!2015年版』の海外編」第1位だけあって秀作のミステリー。3部に分かれており、虐待-復讐-正義、と流れる。主人公はアレックスと警部カミーユで、カミーユは二人の個性的なルイとアルマンとで捜査にあたる。結末は鮮やか。
 気に入った台詞を二つ。一つはこころよく思っていない予審判事ヴィダールにカミーユが放つ言葉で、「考えたことを口にする勇気がない。口にしたことの意味を考える誠実さもない」(339頁)。二つ目はヴィダールが「まあ、真実、真実と言ったところで・・・・これが真実だとかそうでないとか、いったい誰が明言できるものやら! われわれにとって大事なのは、警部、真実ではなく正義ですよ。そうでしょう?」と言う(449頁)。この台詞は秀逸。この言葉の後に、「カミーユは微笑み、うなずいた」で”了”となる。
 最後の台詞に関連して、『岩波講座日本歴史 第15巻 近現代1』14頁より次の指摘を孫引きしておく。”歴史に「事実fact」も「真実truth」もない、ただ特定の視覚からの問題化による再構成された「現実reality」だけがある、と言う見方は、社会科学の中ではひとつの「共有の知」とされてきた。社会学にとってはもはや「常識」となっている社会構築主義(構成主義)social constructionismとも呼ばれるこの見方は、歴史学についても当てはまる”(上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社、1998年、12頁)。

 <乙川優三郎 『太陽は気を失う』(文藝春秋、2015年)>:人生の転換点にさしかかったとき、それまでの人生に思いを馳せ、これからの生き方にどう向き合うのか、それを描いた14編の短編集。大きなドラマがあるわけでも、感動的な悲喜劇が描かれているわけではなく、淡く静かに流れる時の中で自分を見つめている。人の迷い、そこから生じる小さな感情が、静謐な空気の中で端正に描かれる。乙川さんの小説を読むと、夕暮れ時に小さな波の海を何も語らずに眺め、そこに行き交う人がいればただ静かに見つめる、そんな落ち着いた心持ちになる。

 <田中慎弥 『宰相A』(新潮社、2015年)>:「宰相A」とは安倍晋三首相であり、著者はこの作品を首相のところにも送付したという。その行為も含めて、この小説は、政権、日本のシステム、日本に生きる人たちに対する、空想的・妄想的・パロディ小説であり、強烈な皮肉、揶揄がある。現政権の「暴走」や日本の「無思考性」、「積極的平和主義」、「アメリカの正義」等々をマジメに解説する本は沢山あるが、マジメな人たちはこの本のように皮肉っぽく、揶揄って語ることがもっとあっても良さそうな気がする。何となれば、現在の日本の動きそのものが喜劇的であるともいえるのだから。

2015年10月2日金曜日

「そういう形で国家に貢献」、『昭和前期の家族問題』

 10月に入った。今年の残りはもうジャスト3ヶ月。陳腐な言葉だがホントに年月の経つのは速い。
テレビで見ると、福山雅治の結婚で世界中に福山ロス現象、福山ショックを生じせしめ、焼け酒に走る女性、会社を早退した女性、家事を放棄したオバサンもいたらしい。オレは吹石一恵が出ているユニクロのコマーシャルを改めて見つめ直した。・・・妄想を抱いた男ども少なくないだろう。

 この結婚に際して、菅義偉官房長官は①「この結婚を機に、ママさんたちが一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれたらいいなと思っています。たくさん産んで下さい」と発言したとのニュースが流れている。その後菅官房長官は発言の真意を問われ、②「結婚について聞かれたので、大変人気の高いビッグカップルで、皆さんが幸せな気分になってくれればいいと思っている中での発言だった」と説明した。(引用先は9月30日の朝日新聞朝刊。)
 上記の二つの発言から、①は「子どもを産むことは国家に貢献する」ことで、また、②では「結婚して子どもをたくさん産めば幸せな気分になれる」と菅官房長官は思っているらしい。①の真意を尋ねられての②の回答は論理性に欠ける誤魔化しの言葉でしかないが、それを措いて、人の幸せを政治に関わる人間から軽々しくとやかく言われたくない。また、①については昭和13年に施行された、「戦時(戦争ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム以下之ニ同ジ)ニ際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂フ」「国家総動員法」を連想する。因みに昭和16年10月には厚生省次官から通牒が出され、「男子25歳まで、女子21歳までの結婚」を奨励し、「結婚することが何よりのご奉公になるのだ、という結婚報国の念に徹す」ことが大切といわれた。官房長官の発言は、個々の人々を一括りにして高みから見下ろしている、殿様側近主席家老の姿に重なる。この発言を大きく取上げた新聞は3紙のみ(毎日・朝日・東京-某氏が潰れればいいと名指しした新聞社ばかり)で、テレビでも殆どニュースになっていない模様。

 <湯沢雍彦 『昭和前期の家族問題』(ミネルヴァ書房、2011年)>:昭和元年から昭和40年8月15日までの18年8ヶ月を対象にしている、「昭和初期の暮らしと家庭の悩み」と「非常時の暮らしと家族の絆」の2部構成とし、結婚と夫婦、家庭生活、病、思想などを、出版物の記事や参考文献からのデータで示している。3部作の一冊。
 端的な感想としては、個人的にはあまり入れ込むことのできない内容であった。というのは、給料や日記などから見る生活、新聞の身の上相談などから見る男女関係や家族問題などにはこちらの関心が低いことにある。家族の悩みや低所得層の悲惨な状況、地方と都会の格差、あるいは都市の中の格差、こういったものを日記や新聞記事で示されても、自分はそれらをエピソード的に捉えてしまう。大事なことは何故そのような状況になったのか、ならしめたのか、社会システムはどうだったのかなどということであり、これらの点についてこの本はその性質上表層的にしか言及されていない。でも当時の家庭生活とはどのようなものだったのかを知るには好著である。乱暴な言い方をすれば、ここに書かれている内容からある特定の範囲を取上げ、深く掘り下げれば小説の世界になるのではないかと感じた。
 戦前のスローガンである「ぜいたくは敵だ」 ・「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」に対し、「ぜいたくは素敵だ」・「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」などの皮肉った庶民生活がオレには好ましい。
 前記の「子どもを産むことは国家に貢献する」に絡めれば、昭和14年9月には「結婚十訓」(厚生省予防局民族衛生研究会)が出され、第十訓は「生めよ育てよ国の為」だった。

 NHK BSにてイギリスミステリー『刑事フォイル』が放映されており、最近は「兵役拒否」が流れている。その中に疎開児童が登場する。ちょうど時期を同じくして読んだこの『昭和前期の家族問題』にイギリスでの学童疎開が紹介されており、ドラマへの入り込みが少し深くなった。
 日本の学童疎開は縁故者への疎開や学校単位での疎開であったが、イギリスのそれは「里親委託型」であって、児童たちが到着する地での登録家庭の親が気に入ればその家庭に入った。
 イギリスの学童疎開では、「到着先で登録家庭の親が気に入った子を選ぶ「里親委託型」で、気に入れられない子は再度バスに乗って隣村へ行き、里親がどうしても見つからない子は協会などの施設へ入れられた。選ばれるのはかわいくって人好きのする女の子や農業の手伝いができそうな体格の良い男の子。汚いかっこうをした子や不器量な子は取り残された」のであった。いつまでも引き取られなければ自分の身を嘆くしかなく、これは子どもに対しかなり残酷なことである。また、「ロンドンで話題にされたのは、里親に虐待された、放置された、性的虐待を受けたという不快な話ばかりだったとされ」、「日本の倍にあたる3年間も養育されたので、終戦後帰宅した実親との人間関係を回復できずに、親しくなった里親の養子になった子どもも出た」とのことである。イギリスを批判するとかではなく、あらゆる人間社会が本来有しているダークな面と捉えるのが正しいであろう。