2015年10月19日月曜日

芸術の秋-1/2

 KYから上京するとの連絡があり、17日・18日と一緒に過ごした。17日13時近くに池袋で待ち合わせ、まずは永青文庫に向かった。
 以前より永青文庫で開催されている春画展に行こうと思っていて、いい機会だからとKYを誘った。池袋から目白駅に移り、停車していたバスに乗り込み椿山荘前にて降車し、永青文庫まで歩いた。混んでいるとは知っていたが、同じ方向に向かう人が思っていた以上に多い。それに予想以上に若い女性たちが多い。カップルの人、友人同士で歩いている人など、年配の人の存在が少ない。受付では目の前にいた女性3人グループがそれぞれに身分証明となるものを提示して18歳以上であることが確認されてからチケットを購入している。さすがに我々は身分証の提示を求められはしなかった。順路に従い狭い展示場を移動する。目の前には春画、そしてそこに目を向ける多くの人が列をなしている。我々は背後から画を見ることはできるが小柄な人は少々の困難が伴う。繰り返すが若い女性の多さは意外だった。一緒に春画を鑑賞する男女のカップル、黙って見ている友人同士の女性たち、あるいは一人で移動する女性たち。夫婦と思しき年配のカップルなどなど。目の前に掲げられている画はすべて春画であり、人間のちょいとした秘め事を多くの人たちが見ている空間は淫靡とは異なり、湿ったエロチックさもなく、おおらかさがあった。豆本春画に顔を寄せるKYに接してしまうほどの近さで同じく顔を寄せる若い女性がいて、小さな春画とそこに目をやる二人の頭を後から見ていると、和やかで、ユーモアがあり、日常ではあり得ないシーンであった。ここの永青文庫の中でしか存在し得ない時間・空間であった。
 美術鑑賞能力が低いことを自覚しており、ここの絵の技巧や構成などを語る言葉はなく、性交場面をデフォルメして描く日本の春画という存在にただただ感嘆するだけである(因みに中国の春宮、西洋のエロティック・アートは面白みがない)。平凡社/別冊太陽の春画を3冊持っており、今回もそうだが、人間の日常的な性行為に理屈ではなく、単純に、根源的な生き様を見ようとするのは自分の傾向である。政治も、複雑に混沌とした社会構造も、感情や思惑が入り交じる人間関係も、そんな面倒くさいことを横に措いて人々の原初的なものが感じられる。

 永青文庫から早稲田中高校の横を歩き、高田馬場まで歩いた。理工学部出身の自分にとっては早稲田大学の本部エリアには馴染みが薄く、名前だけしか知らない穴八幡宮の横を歩いても何の思いも湧いてこない。明治通りと早稲田通りの交差点(馬場口)から高田馬場駅までは、かつては何度も歩いたはずであるが、思い出すものはほんの一握りの記憶でしかなかった。
 17時に新宿にてSJと待ち合わせをしていたのだが、それまでは時間があくのでSJに連絡を入れ、要は「おーい暇でやることもないだろうから早く出てこいよ」と言って呼び出し、KYとは15時40頃から、16時頃からはSJも合流し、それからは延々と酒とカラオケに浸ることとなった。