2015年10月28日水曜日

漫画に歴史に新書

 <原泰久 『キングダム 三十九』・『キングダム 四十』(集英社、2015年)>:嬴政と呂不韋との対決、そして二人の「天下をとる」ことへの論戦を経て秦の中国統一への実質的第一歩が始まる。
 因みにChinaの語源は秦にあって、インド経由でヨーロッパに至ってChinaになっている。無論日本での支那も秦を語源としている。
 秦の政策での歴史的意義を二つあげてみる。一つには郡県制に見られる中央集権志向。それは中央から長官あるいは次官を派遣し、それも本籍地は回避して一定期間の任期で交替させていた。また、地方地盤と有力者との分離を図るための富裕土豪層の首都への強制移住も実施した。これらは現代にも散見される血縁関係や権力・富裕層に癒着する人間の悪しき性癖を指摘しているように思え、古から変わらぬ社会の姿と、それを改革しようとした秦の時代の政策に普遍的意義を覚える。二つめには経済活動の基盤をなす度量衡や貨幣の統一である。生産活動の基本は物差しを一定に持つことであり、均一性・平等性を保ち、物流を円滑に進めるには「標準」が必要であり、これを広大な土地と多様な民族も存在する中国領土にて紀元前に実施したことに歴史的な重さと先見の明を思う。悪評高い焚書については単に暴力的な一面を見るのではなく、政治・社会システムの側面から焚書という事象を見ても良いのではないかと思う(焚書を肯定している訳ではない)。今後、これらの施策を含め、『キングダム』では秦をどう描くのか、あるいは戦を中心に描き続けるのか、興味がある。

 <大津透ほか編 『岩波講座日本歴史 第15巻 近現代3』(岩波書店、2014年)>:読んだ論文は、①「帝国日本の形成と展開-第一次大戦から満州事変まで」(浅野豊美)、②「都市民衆騒擾と政党政治の発展」(季武嘉也)、③「大衆社会の端緒的形成」(大岡聡)、④「満州事変・日中戦争の勃発と立憲政治」(源川真希)。
 ①で会津出身のキング・オブ・シュガー松江春次を初めて知った。松江は敗戦で財産を殆ど失ったが、「非軍事化されアメリカによって管理・コントロールされる『民主化』された戦後日本」は何を失って何を得たといえるのであろうか。失ったものと得たものは真に価値あることであろうか。②において「これまで歴史学ではあまり注目されてこなかった町内会」が論じられている。現在朝日新聞では自治会・町内会のあり方が連載されている。「町内会の存在が重要になるのは第一次大戦後、特に1923年の関東大震災を契機に増加して以降といわれ」ており、戦後サンフランシスコ条約発効で再び組織化されている。いま様々な問題が提起され、町内会がなくなった地域もある。法的に拘束力のある規定は法律や政令などには存在しないが、いろいろなしがらみで加盟せざるを得ない状況下にあることは否定できない。町内会の存在はメリット面もあるだろうが、総じて言えば、行政が自治会・町内会に依存し行政業務を怠慢していることと個人的には捉えている。④では市川房枝に関する記述に改めて関心が向けられた。それは、戦争協力への姿勢である。即ち、「この国家としてかつてなき非常時局の突破に対し、婦人がその実力を発揮して実績を上げる事は、これ即ち婦選の目的を達する所以でもあり、法律上の婦選を確保する為めの段階ともなる」としたことである。これってどう読んでも説得力のない論理のすり替えである。そして、思い出すのは、西山事件(沖縄密約事件/外務省機密漏洩事件)にての市川房枝の姿勢である。何かの本で読んだのが、それは、密約を男女関係の問題にすり替えた世の中の動きに同調したことである。もてはやされた人ではあるが、軽さと底の浅さを感じている。

 <白川敬彦 『春画に見る江戸老人の色事』(平凡社新書、2015年)>:「老爺の色事」・「老婆の色事」・「老夫婦の色事」と章立てされて春画とそこに描かれる性愛情景、時代性などの解説が付されている。「年がよっては、酒を飲むとするより外のたのしみはない。それ、こゝかこゝか」(50頁)の前半部分は、老人の域に入っている身となれば充分に理解できる。老人を描く春画には思うようにことが運ばなくなった切実さと、ほのぼのとした笑いが混じり合っている。明治以降に裸が恥ずかしいものになり、混浴が公序良俗に反するものとなり、春画は日本文化の湿っぽいところに追いやられてしまった。永青文庫の春画展には若い女性が多勢訪れ、カップルでも来ている。そこには本来の人間の持つ性愛へのおおらかさを感じた。そでには老人の春画を見ることはなかったが、春画に対する視覚をもっと拡げて(即ち人間の生そのものとして捉えること)も良いと思う。
 「いまだに性愛についての認識が硬直していて、たとえば、大英博物館で開催された『大春画展』さえもが、この日本には持ち帰れないといのだから、情けないというか、何を考えているのかわからなくなる。いや、何も考えてりゃしないのだ。という声もあって、それはそれとして、いつもの官僚的な対応の一つなのだろう」(169頁)との著者の指摘が的を射ている。また、その大英博物館の展示内容と同一ではないにしても全面的な協力を得て開催された、永青文庫の「春画展」が、正直なところ都内のひっそりと静かな場所の狭いところで実施され、展示品も4回に分けられるスペースしかないことを思うと、この国の文化にいじましい根性が見え隠れする。