2019年7月30日火曜日

悪口雑言・罵詈誹謗あるいは揶揄(再掲)

ブログを始めた頃に一度載せたが、少しだけ追加していたので再掲する。サラリーマン時代の想い出。


  • [戦略]:①毎年恒例で策定されるが、実行に移された試しがないもの。②グループを率いる能力に欠けるが、そこそこの地位に置いておくマネジャーのために事務局が設置される。③開発内容が決まっているが、トップにアピールするために、あとづけで作成される、装飾を施した書類の一般用語。
  • [人事評価]:部下に対する印象が公にされる、罪悪感の伴わない管理者の行為。
  • [合意]:責任者を不在にさせるための戦術。
  • [スローガン]:本質を見せなくする、誰もが反対できない短縮言葉。
  • [重点実施項目]:当初はやる気をアピールするために並べるが、期末になると実績を取り繕うことに懸命になる目標。
  • [マネジャー]:①年功で付与されるが、一方では「マネジャーなんだろう..」と脅迫できる(される)宮仕えの集合体。②任用されて喜ぶが、何れ脅迫される立場。③入ってくる新人の数よりも、新たに任用される数が多い役職名。
  • [週報]:トラブルは柔らかくオブラートに包み、いいことはストレートに書く技術を求められる文書作成術の題材。
  • [唱和]:バカは明るく胸を張っていつもよりは高いトーンで大きな声で発し、ヒネクレ者は俯き加減に小さな声で発する。独立心のある者は黙する。並みの人間は自分にしか聞こえない声で一応は同調しているポーズをとる。
  • [タスク・フォース]:①担当する能力ある適任者がいないため、しかたなく組織されるチーム。人材不足の露呈。②チームを組むことでひとまずは目的を達成した気分になる方便。③上位者が実績を出すために行使する権限で、能力ある者をこき使う手段。
  • [仮説]:トラブルを出してその原因を探り対策を練るときに、最初に立てる推定原因。しかし、上手く行くことを期待し、担当者の都合の良いことを並べることでひとまずは<見通しがある>と思いこむ自己暗示の手段。
  • [計画]:①上手く行くことだけを前提にして立案する予定表。②現実に即して立案すると上司にしかられる予定表。
  • [会議]:①上位者の意図していることを参加者の合意結果とすり替えるセレモニー。②声の大きいものが生き生きとしてくる舞台。③普段はおとなしく碌な仕事をしていない者が唯一存在をアピールできる舞台。
  • [共通化設計]:①出る杭を打ちのめすための武器。②新たな発想を潰し込むためのスローガン。③創造性のない者に対して救いとなるスローガン。④陳腐化への入り口。⑤長く続ければ、コスト競争で何時かは負けることになる標語。
  • [標準化]:画一を尊ぶ行為の総称。
  • [トップ交渉]:①実状を知らない上位の人間が講じられる唯一の交渉術。②無知であることが武器になる交渉力。
  • [徹底的]:目的達成の具体的手段がないときにプレゼン資料に記載される常套句。<徹底的にコストダウンを実現し...>
  • [協業]:目的達成の具体的手段がないときにプレゼン資料に記載される責任回避の常套句。<関連部門と協業し××を実現する。>
  • [運営会]:①常任参加者の多くが開催されないことを、或は早く終わることを望んでいる会合。②上位の運営会で公知された事柄を有難く拝聴する儀式。
  • [組織変更]:①組織長が最初に示威し、実態は何も変わらないが変革を装う手段となる管理手法。②日本における内閣改造の本質を企業内で露呈する行為。
  • [品質会議]:品質向上への取組を形骸化させる場。
  • [原価会議あるいは原価低減会議]:単純な原価構造を複雑に取り組むことを決定する場。
  • [スタッフマネジャー]:①チームワークはできないがそこそこの仕事はできる高齢のマネジャーに役割を設定する組織管理手法。②実務者に迷惑をかけるマネジャーの総称。
  • [拡大SRM and/or拡大FRB]:①メンバーとなっているお偉い方々が衒学的になる場。②通常のSRM/FRBをお偉い方のために繰り返す儀式。③開催されることで実は問題解決が遠回りになってしまう会議。そして責任の所在が曖昧になる場。  (SRM=Sunrise Meeting:品質保証テストなどで毎朝開かれる状況および対策確認の寄合。FRB=Failure Review Board:商品の市場導入後に開かれる不具合/対策&効果確認会議)
  • [キャリア開発面談]:①誰しもが迷惑がっているが、人事担当者が実績行為を誇示する活動。②老弱男女が一律に将来を語る場。その実だれも本気では語らない場。
  • [商品安全設計]:①すべてに優先すると宣言される常套句。②商品安全事故が消滅しないことを認識する標語。
  • [共有化]:①共有はある目的のための手段でしかないが、共有化しておこうと活動すること自体が優れているとまま誤解される。②自らの判断を回避する手段
  • [組織改編]:①往々にして怪しげな変化、怪変。②思わしくない結果が出たとき、全ての問題を包括する改善策。1年も経つと策にならないことが露呈する。
  • [流行語]:トップが使う言葉・用語は企業内で感染する。感染することが良きこととされる。1年も経つと触れるのを躊躇うようになる。
  • [社内満足度アンケート]:①感性・想像力・分析力・判断力欠如における行動パターン。②満足度をあげることより、調査実施有無が評価される。
  • [ルール]:複雑化し、肥大化する。

2019年7月26日金曜日

歴史の新書-神道・儒教・仏教

 <井上寛司 『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書、2011年)>:原始信仰(アニミズム)から律令制時代の神道、中世での神道、○○神道から国家神道、伊勢神宮から靖国神社まで、身近にある神社もすべて「神道」という名で一束に括られてイメージされているのが一般的である。しかし、勿論そんなことはない。その「そんなことはない」とキチンと言えるだけの体系的知識を得るには分かりやすいテキストである。「太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」とされることについての批判が展開する。神道が歴史的に論じられるとき、敗戦前の国家神道で閉じられることが多いのだが、本新書は現代までが対象となっており、柳田國男を論じている点は自分にとって新しいことであった。

 <森和也 『神道・儒教・仏教』(ちくま新書、2018年)>:副題に「江戸思想史のなかの三教」、一般的な新書の2~3冊分の厚さがあり、それだけに細部にわたって宗教家の著作などに基づいて三教が論じられる。宗教家・思想家の個々の思想について深く知りたいとは思っておらず、歴史のなかにおける宗教の果した政治的役割や民俗学的な民衆への影響などの理解を深めたいと思っているので、一通り眼は通したが、本書は江戸を串刺しにするというよりも、串刺しにされた個々を微細にときほぐしているようで、かつ高度な内容でとっつきにくかった。

 <阿満利麿 『仏教と日本人』(ちくま新書、2007年)>:人びとのなかで仏教がどう捉えられ滲透してきたのか、死をどう捉えて他界を認識してきたのか、身近の仏教が説かれる。例えば、地蔵について、地獄のイメージについて、僧侶の肉食妻帯や葬式仏教などについて説かれている。
 著者の本は未読の、あるいは途中まで読んで寄り道してしてしまった本が何冊もある。そもそもの始まりは通教での仏教史のリポートを作成するにあたって法然をその対象にしたことからだった。それらの完読していない本が、終わらない夏休みの宿題のようにいつもプレッシャーになっている。

 <松尾剛次 『葬式仏教の誕生』(平凡社新書、2011年)>:副題に「中世の仏教革命」とあり、棄てられていた「死」が弔われるようになったのが中世。そこに介在するのが仏教で、鎌倉期の新しい信仰と葬送が説かれ、江戸期には儒教あるいは神道がメイン信仰になっていても葬式だけは仏教であった。その形態は現代に繋がっている。石造の墓の構造説明には関心が薄いが、それ以外は解りやすい。
 過日、義父の命日に墓に行って来た。花を供えて線香の煙を漂わせるなかで、不信心な己をいつものようにあらためて自覚してしまう。さらには、その不信心さに後ろめたさを抱いていないことでもある。

2019年7月19日金曜日

1Fテレビ周りのL/O変更

 1Fのテレビ画像にたまにブロックノイズが見られることがある。原因は分からない。それどころか、HDDへの録画番組に見られるのか、そうでないのかも把握できていない。CATVセットトップボックス(STB)からテレビへのHDMIケーブルは自分で購入したものでグレードは高い。でも、J:COM 純正のもの(これもグレードは高い)に変えておいたほうが無難だろうと交換作業に入った。
 ところが、純正品は1.5m長で前より50cm短くなり、僅か10数cm不足で配線できない。しようがないので、レイアウト(L/O)変更とした。右側にあるSTB・BD/HDDレコーダー・BDプレイヤーと、左側にあるAVアンプの位置を入れ替えた。これでSTB-TV間のHDMI配線はいいのだが、今度はAVアンプとレコーダー・プレイヤー間のオプチカル・ファイバーが届かなくなった。75Ω同軸や電源コードのはいまわしなどにも長さ不足が生じ、結局は全ケーブル・コードの取り外しと再結線をする羽目になり、19日午前10時ころから食事も摂らずに5時間半もの時間を要した。2-3時間で終わると思っていたが甘かった。
 その後のブロックノイズは確認できていないが、L/O変更は今日のことなので、まだ確認したとは言えないレベルである。もし以前と同様となっても、発生は頻繁ではないので今度はうっちゃっておくしかないだろう。

2019年7月14日日曜日

『神道の逆襲』

 <菅野覚明 『神道の逆襲』(講談社現代新書、2001年)>:視座を神道において仏教を、あるいは儒教や朱子学を語るというような内容を想像(期待)していた。が、これは間違いであった。「逆襲」の意味とは、著者のまえがきによれば、「神道に向けて言われているようよう」な、「冷たい理解に対するささやかな異議申し立てを意図して書かれた」ものである。著者は神さまとはこういうものであると捉えており、それが時には牽強付会のように思えてしまう。鉄腕アトムが悪いロボットを破壊するのは「武力による祓えなのではなかったろうか」とか、『ひょっこりひょうたん島』の「ひょうたん島」は『古事記』の「多陀用幣国(ただよへるくに)のイメージを引くものだとするにあたっては、ついていけない。
 神道が詳細に説かれているのだが、それには関心が薄い。神道だけでなく仏教や儒教など、特定の宗教そのものの教義や歴史には深く入らないようにしている。
 帯には、日本人にとって「神さま」とは何だろう、とあるが、ここでいう「神さま」とは日本で生まれた「神さま」のことで、デウス・Godの「神」ではない。

2019年7月12日金曜日

きだみのる、赤松利市

 <きだみのる 『気違い部落周游紀行』(冨山房百科文庫、1981年、初刊1948年)>:”きだみのる”の名は中学か高校のときにテレビで知ったような気がするが、もしかしたら、三好京三が1975年に『子育てごっこ』で直木賞を受賞したとき、その養女がきだみのるの子で、学校に通わずにもいて話題になったため、そのときの記憶がとどまっているのかもしれない。もちろん本書をはじめ、「気違いシリーズ」も知っていたが、昨年に新聞か雑誌で”きだ”の名が出ていて、今になってはじめて手に取って見た。気違いは無論精神疾患のことを指すわけでもなく、部落も単に集落を意味している。
 内容的には、今の人間社会で見聞きし、体験する人間模様や世間の本質は以前より変わらずにあるということ、敗戦前後の村にもあったということである。

 <赤松利市 『鯖』(徳間書店、2018年)>:漁師たち、魚(鯖ヘシコ)で中国展開を図る中華系ビジネス・ウーマン、割烹を経営する女性、日本海の孤島とそこを望む陸地を舞台にして繰り広げられるノワール。貧困と暴力と現実からの脱出、酒と鯖、歪んだ劣等感をもって向けられる他人と自分。楽しめた。作者は帰国子女で英語もでき、サラリーマンから経営者、土木作業員、無職で住所不定(今はネットカフェからは出ているらしい)、等々の常人では想像できない人生を積み重ねた人らしい。第1回大藪春彦賞(2017年)を『藻屑蟹』で受賞した1956年生まれの新人。
 本書のパターンの小説は何度も読むと多分あきてくる。あと1冊、デビュー作の『藻屑蟹』を読んでみようか。

2019年7月11日木曜日

オーディオ機器のレイアウト変更

 数年ごとに衝動的に湧き出てくる自室オーディオ周りのレイアウト(L/O)変更。どう変更しようかと構想を練ること数日。結局はその構想はすべて破棄し、延べ約8時間かけてL/Oを変えた。ラック類はすべて重ね置きし、背後のケーブル類のごちゃごちゃ感が緩和されたしアクセスも良くなった。アナログ・プレイヤーとHDプレイヤーは右側から左側への変更し、これはケーブル類の引き回し変更を伴い時間がかかった。メインスピーカーの外側に位置させていたサブウーファを内側中央付近に持ってきてまとまりを良くした。使用頻度が極端に少ないスピーカー3セットは自室から除外。為に全体的にはスッキリとした雰囲気が出てきた。もうこれで最後かとも思う。欲を言えば、あるメーカーの大口径ウーファ2台が欲しいのだけど、サイズが大きくて自室では置き場所がないし、アンプ類も追加せねばならない。これは諦めるしかない。金額的には手の届く範囲内にあるのだけれど....。

2019年7月8日月曜日

雑記

 3日、年1回しか行かない市役所で、かつての勤務先でのトレーサーであったDoちゃんにばったり会った。彼女とは20年振りくらいになろうか。

 4月の人間ドックで2年続けて右目黄斑部の僅かな異常が指摘され、4日にやっと眼科クリニックに行った。昨年春以来となり、そのときからの変化が確認された。薬の服用は必要ないが11月に再診することになった。右目でまっすぐなラインを見ると僅かに部分的に歪みが自覚できる。これも加齢に伴うものであろう。年齢を重ねると失うものがあり、新たにまとわりつくものがある。

 参議院議員選挙が公示された。各党の総裁/代表/委員長/幹事長が「訴えたいこ」を記したボードを持った写真が新聞をかざっている。そのボードの言葉をひろってみる。<>は補助的に付記してみたもの。
 自民党総裁は「<安倍>政治の安定」、公明党は「<創価学会員の>小さな声を聴く力」、立憲民主党は「<立憲民主>生活防衛」、国民民主党はモリカケ問題を揶揄しているのか「(加計)家計第一」、共産党は「<我が党員の>くらしに希望を」、日本維新の会は「身を切る改革 消費税凍結<、ありふれているけれど維(これ)新たなり>」、社民党は「憲法を活かす(我が党を)支えあう社会」
選挙、自分の議会議員選挙への姿勢は45年前から一定である。

2019年7月7日日曜日

とりとめのない読書4冊

 <三橋順子 『新宿「聖なる街」の歴史地理』(朝日新聞出版、2018年)>:Wikipediaによれば、著者は「日本における性別越境(トランスジェンダー)の社会・文化史研究家である。戸籍上の性別は男性」とある。評価が高い本書を知った1年程前、表紙の艶やかな諸肌を脱いだ後ろ姿も相俟って、本書を著す女性は、知的で理性的で凛としている人をイメージした。だから、頁を開いて暫くしてから著書は戸籍上は男性であることを知って、当初抱いたイメージは崩れはしないけれど意外な思いを抱いた。高等教育のカリキュラムには載らないであろう売買春の現代史を、地図・公文書・文献・出版物・実体験をベースにして、よくぞこれほど調べ上げたものである。性を核に据えた傑れた現代史テキストであるし、生活文化史・社会史である。

 <中山康樹 『ロックの歴史』(講談社現代新書、2014年)>:1951年頃に「ロックンロール」という呼称が生まれ、当初のブラック・ミュージックから白人的要素が混じり、1964年にビートルズがアメリカに上陸して「ロック」となり、その後アメリカではポップス系がメインとなり、ロックはイギリスで展開する。フォーク・ロック、ハード・ロック、グラム・ロック、そしてプログレッシブ・ロックへと展開している時代は、まさに自分の10代後半から20代後半の時代であった。
 ロックンロールのプレスリーは好みでないし、ビートルズやアニマルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクス、ゾンビーズ、デイヴ・クラーク5などにはロックという呼称よりもポップスという感覚に自分はなっている。そもそも「ロック」という区分がよく分かっていないし、分かろうともしていない。ジャンル分けに意味を感じ取っていない。例えば、内田裕也が「ロック」と口に出して片膝をついても何か滑稽さを覚えてしまうのだから。
 クリフ・リチャード&シャドウズをブリティッシュ・ロックの嚆矢とし、本新書はイギリスでのロックがの変遷を中心に描かれている。レコードや曲の逸話を斜め読みしながら、昔のグループや曲を懐かしんだ。
 ビートルズが日本でまだ有名になる前の1962年、「トニー・シェリダンとビート・ブラザース」の名で「マイ・ボニー」が「マイ・ボニー・ツイスト」との邦題で発売された、このことは初めて知った。ツイスト全盛期のころである。

 <飛田良文 『明治生まれの日本語』(角川ソフィア文庫、2019年、初刊2002年)>:21語の成り立ちが文献に裏付けられて丁寧に説明されている。その丁寧さは簡略化され、より多くの言葉が取上げられ、「明治生まれのことばの語源辞典」というようなものを期待していた。

 <池井戸潤 『ノーサイド・ゲーム』(ダイヤモンド社、2019年)>:社会人ラグビーを軸にした企業小説。書名に惹かれて手にとった。左遷させられた主人公がラグビー部のGMとなり、ラグビー部運営改革と会社組織の不正を正す。併せて現実の日本ラグビー協会を思わせる日本蹴球協会の改革にも乗り出す。著者の他の小説にあるパターンが予定調和的に展開される。ラグビー部監督や選手たちの描写を読んでいると、清宮監督や大田尾、小野晃征が浮かんだ。
 まもなくドラマ化されてテレビ放映される。小説とドラマの違いを見るのも楽しみになるであろう。と思ってキャスティングを確認してみたら、原本には登場しない人物がかなり設定されている-主人公の妻や監督の娘、飲食店の女将等々。キャスティングの失敗ではないのかと思うケースも多々あるが、それは本を読んで登場人物のイメージを自分勝手に作り上げたからであろう。まぁ、原本と映像化されたドラマは別物ということである。廣瀬俊朗と齊藤祐也が出演する。

2019年7月5日金曜日

三陸へ2泊3日

 29日(土)、7時25分のバスに乗ったのは遅かった。もし8分後のバスだったら大宮での新幹線乗車には間に合わなかった。いつもと違って時間に余裕を持たせることが頭から抜けていた。
 仙台までは途中停車がなく、仙台から一ノ関までは各駅停車。一ノ関からはバスで釜石へ向かい、そこでたっぷりの時間があり、どうせホテルでの夕食は魚づくしになるであろうからと魚介類は避けてゆっくりと昼食。釜石は小さな駅で賑わいはまったくない。ラグビーの街をうたう建物の文字などが妙に寂しげである。この駅は45年前に通過あるいは乗り換えているのだが全く記憶がない。
 釜石からは三陸リアス線で宮古へ。人気があり、電車内は立っている人も多い。運良く海岸側の席を二つとれた。45年前には宮古から釜石まで、詳しく書くと宮古~陸中山田、岩手船越~釜石まで、旧JR山田線に乗ったことがあるが、逆にたどる今回は車窓から眺める風景に以前の記憶はなく、それに駅周辺の建造物はみな新しいし、重機がたくさんあって土木工事中の地域も多い。あの震災で、歴史の中に連続する時間が跡切れ、町並みや家屋が新しく作り直されることは、生活そのものの連続性が断ち切られてリセットされる(する)ことであり、悲惨さと諦めと未来への希望とが混濁して複雑な気持ちになってしまう。
 北山崎へ向かう途中から雨脚がひどくなり、霧で視界も悪くなり、50年ぶりに訪れた北山崎では下車することもなく落胆した。もう再訪することもないであろう。
 この日は田野畑村の海沿いのホテルに宿泊。案の定魚料理が多い。油目の刺身を追加するが、油目とは鮎並、美味いとは感じなかった。

 2日目は北山崎断崖クルージングが予定されていたが、あいにくの雨と視界不良で運行中止。昨日に続き今回一番楽しみにしてた50年ぶりの北山崎への期待は悉く外れてしまった。ここ数年間のパックツアーでは雨が多い。多すぎる。
 次は龍泉洞。意外な狭さにここも期待外れ。確かに地底湖の透明度はすごいし奇麗。だが、以前訪れたあぶくま洞や沖縄の鍾乳洞、石垣島の鍾乳洞、飛騨鍾乳洞の方が楽しめた。おそらく歩く距離の違いがそうしているのだろう。就寝前の焼酎かウィスキーを割るために龍泉洞の水は買っておいた。
 しかし、ホテルでも土産物店でも意外だったのが焼酎が売られていないこと。日本酒とワインはかなり多いが焼酎がない。夕食後に飲もうと買った焼酎は鹿児島のものだった。地元の粕取り焼酎を少しは期待したがそれもなかった。岩手・宮城では焼酎はあまり飲まれないのかもしれない。
 この日は1969年および1974年以来となる浄土ケ浜にも行ったが、奇麗に整備された道路や土産店がすっかりつまらなく感じた。こんな景観を若い頃は楽しんでいたのかと、そんなかつての自分にも落胆の思いを抱いてしまった。
 南三陸町の大きなホテルに宿泊。予定変更で早い時刻にチェックインしたので、夕食前から焼酎を飲んでいた。この日は午後4時頃から寝るまでよく飲んだ。

 最終日3日目は7月1日で今年も恰度半分がすぎた。陸前高田の工事中の風景に言葉を失ってしまう。道路橫のボードに進捗率5%とあるように目の前に建物はほとんどなく、平地で、工事中の重機が立ち並び、テレビなどで観た情景よりもはるかに衝撃的であった。遠くにはレプリカと化した「奇跡の一本松」を眺めた。一人参加の75歳の男性が東京オリンピックなんてよくやるよな、この風景を見て復興オリンピックなんてよく言えるよね、と話しかけられた。同感。この地に住んでいた人たちは東京オリンピックに向けて昂る声に何を感じるのだろう。
 帰りの新幹線の時間に合わせたのであろう、やたらに自由時間がたっぷりあった。松島で3時間近くをぶらぶらして時間つぶし。土産物店で便器の前に立っていたらコップ酒を目の前において用を足していた人がいた。その人は同じツアーに参加している男性(老人)4人グループの一人で、トイレを出てからはベンチに座って4人で飲んでいた。この4人組、どこにいてもよく飲んでいた。初日の新幹線、三陸リアス線でもコップ酒から日本酒の大きな紙パックも手にし、飲んでいた。夕食時ももちろん飲んでいたし、さほどに昼から(もしかしたら朝から)飲んでいる人たちは初めてみた。

 雨にたたられ、期待していた景観を目にできず、時間はたっぷりあって、以前訪れた景勝地などには興味が薄く、極端に言えば、いつもの日常を離れて電車に乗って温泉に入り上げ膳据え膳で食事を摂り、ゆったりした3日間、そういった旅行だった。