2019年7月26日金曜日

歴史の新書-神道・儒教・仏教

 <井上寛司 『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書、2011年)>:原始信仰(アニミズム)から律令制時代の神道、中世での神道、○○神道から国家神道、伊勢神宮から靖国神社まで、身近にある神社もすべて「神道」という名で一束に括られてイメージされているのが一般的である。しかし、勿論そんなことはない。その「そんなことはない」とキチンと言えるだけの体系的知識を得るには分かりやすいテキストである。「太古の昔から現在にいたるまで連綿と続く、自然発生的な日本固有の民族的宗教である」とされることについての批判が展開する。神道が歴史的に論じられるとき、敗戦前の国家神道で閉じられることが多いのだが、本新書は現代までが対象となっており、柳田國男を論じている点は自分にとって新しいことであった。

 <森和也 『神道・儒教・仏教』(ちくま新書、2018年)>:副題に「江戸思想史のなかの三教」、一般的な新書の2~3冊分の厚さがあり、それだけに細部にわたって宗教家の著作などに基づいて三教が論じられる。宗教家・思想家の個々の思想について深く知りたいとは思っておらず、歴史のなかにおける宗教の果した政治的役割や民俗学的な民衆への影響などの理解を深めたいと思っているので、一通り眼は通したが、本書は江戸を串刺しにするというよりも、串刺しにされた個々を微細にときほぐしているようで、かつ高度な内容でとっつきにくかった。

 <阿満利麿 『仏教と日本人』(ちくま新書、2007年)>:人びとのなかで仏教がどう捉えられ滲透してきたのか、死をどう捉えて他界を認識してきたのか、身近の仏教が説かれる。例えば、地蔵について、地獄のイメージについて、僧侶の肉食妻帯や葬式仏教などについて説かれている。
 著者の本は未読の、あるいは途中まで読んで寄り道してしてしまった本が何冊もある。そもそもの始まりは通教での仏教史のリポートを作成するにあたって法然をその対象にしたことからだった。それらの完読していない本が、終わらない夏休みの宿題のようにいつもプレッシャーになっている。

 <松尾剛次 『葬式仏教の誕生』(平凡社新書、2011年)>:副題に「中世の仏教革命」とあり、棄てられていた「死」が弔われるようになったのが中世。そこに介在するのが仏教で、鎌倉期の新しい信仰と葬送が説かれ、江戸期には儒教あるいは神道がメイン信仰になっていても葬式だけは仏教であった。その形態は現代に繋がっている。石造の墓の構造説明には関心が薄いが、それ以外は解りやすい。
 過日、義父の命日に墓に行って来た。花を供えて線香の煙を漂わせるなかで、不信心な己をいつものようにあらためて自覚してしまう。さらには、その不信心さに後ろめたさを抱いていないことでもある。

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