2019年12月29日日曜日

まだ続く数学の軽い本、etc

 27日に肺炎球菌ワクチン接種。先月の風邪以来、病院に5回も行っている。病院に行くと病気になりそうな気分に陥る。

 国書刊行会を図書刊行会と、何十年も間違って覚えていた。最近の新聞記事で国書刊行会とあるのを見て、これは誤植だと思って確認したら、自分の頭の中にこそ誤植が刷り込まれていた。

 高校生だった頃、会津若松・神明通りの荒井書店で受験数学参考書を立ち読みしていたら、「1 3 4 6 8 10 12」の数列の中から一つの数値を空白にし、それを解いてうめる問題がコラムに載っていた。解こうと頭を回転させたが解けない。難問であった。同じ問題が「大学への数学」の投書欄にも載っていたことがある。そしてそこには解答とともにコメントも付されており、それは「東京の大学に進もうと思うなら、東京で見られるテレビ・チャンネルくらいは覚えておきなさい」というようなものであった。
 この問題の解答を見たときは、トリックにストンと嵌められた感覚があった。1968(昭和43)年に首尾よく東京には出たものの、そのテレビ・チャンネルを回して「1 3 4 6 8 10 12」の数列に触れることはなかった。テレビがなかった。

 <神永正博 『直感を裏切る数学 「思い込み」にだまされない数学的思考法』(講談社ブルーバックス、2014年)>:”モンティ・ホールの穴”、”バースデイ・パラドックス”、”4色問題”など幾つかは既に知っているテーマもあるけれど、中には何度か読み直さないと理解できないものもあり、そして、分かった気持ちになってもそれを説明できるかと自問すると、きっちりとは分かっていないことを分かってしまう。
 だが、美しい数式や図形に触れると、それらの世界をコントロールしている何かがあるような気にもなってしまう。それもまた不思議。

 <細矢治夫 『三角形の七不思議』(講談社ブルーバックス、2013年)>:三角形の形・組合せ・数学的意味、内接円・外接円・傍接円、三角関数等々、やはり、その不思議さと美しさで楽しめる。

2019年12月25日水曜日

読む数学、材料力学

 <瀬山士郎 『読む数学記号』(角川ソフィア文庫、2017年/初刊2013年)>:
 <瀬山士郎 『読む数学 数列の不思議』(角川ソフィア文庫、2014年/初刊2008年)>:
 <瀬山士郎 『読む数学』(角川ソフィア文庫、2014年/初刊2006年)>:
 中学・高校時代、数学は好きだった。微積と数列・級数は特に好きだったので、これら「読む数学」では微積や展開式ではついつい鉛筆を手に取って証明式を確認したりして楽しめた。高校時代、数列・級数はパズルを解くようで面白かったし、群数列を一般式にするときなどは快感を覚えたこともあった。一方、どうも好きになれなかったのは順列・組合せや集合・確率で、数学らしからぬ(?)数学記号に馴染めなかったし、試験に出るといやな思いをしていた。
 テイラー展開やマクローリン展開、指数関数と三角関数の関係などなど、何十年ぶりに公式を追いかけて見るとその美しさにはやはり魅入られる。

 大学時代から、そして就職してからも機械設計時によく使用したテキスト、『材料力学 (標準機械工学講座)』がどうしても欲しくなり、探したら運良くヤフオクで見付け1000円で手に入れることができた。昭和45年(1970年)4月の版(10版)で、おそらく自分が使用していた版の次に出版されたものであろう。予想よりもはるかに程度がよく、このテキストを保有していた人はあまり勉強もせずにいたのであろうか。著者の奥村敦史は平塚らいてうの子(奥村博史長男)であることは学生時代から知っていたし、確か振動学の授業も受講していたと思う。早稲田の「材料力学」は授業による講義はなく、テキストを7分割して、自学習し、口頭試問を迎えられると自覚した時点で面接を申し込み、それを7回繰り返していた。だからこそテキストを何度も開くことになった。一度他の出版社の「材料力学」を購入したことがあったが、内容が薄くてすぐに放ってしまった。逆に言うと、奥村著のこの『材料力学』は基本原則から説いており、内容が濃いと思っていた。テンソルを勉強したのは専らこのテキストであった。
 頁を開くとどの頁にも見覚えがあり、50年前の自分が、そして勤務先での設計計算の情景が脳裏に浮かぶ。この古いテキストを手にしたからといっても、今の生活に役立つこともないが、時間の合間にクイズやパズルを解くような気分でテンソルに触れ、負荷のかかった梁のSFDやBMDを描き、積分や微分の方程式をたてて解いてみたくなる。錆び付き、枯れかかっている頭に僅かに潤滑油と水分を差すことになるかもしれない。

2019年12月17日火曜日

続けて数学の本

 13日、市立医療センターにて再診。次の再診はなく、一旦終了。
 16日で大掃除は終了。

 <吉田武 『大人のための「数学・物理」再入門』(幻冬舎、2004年)>:全55篇。数学・物理の専門用語はかつて見たものであり、一度はその定理・数式などを紙に書いたこともある。だから、そこに見え隠れする科学史、ニュートンなど著名な数学者・物理学者の私生活・性格に関する記述、また諸処に記される著者の科学に対する考え、後半に多く現れてくる教育や社会への苦言・警鐘など、どこか掌編のノンフィクションを読んでいるように楽しめた。

 <桜井進 『数学のリアル』(東京書籍、2008年)>:現実社会での数学に関するエピソード集といったところ。内容的には簡素。

 <竹内薫 『素数はなぜ人を惹きつけるのか』(朝日新書、2015年)>:素数の世界が沢山記されている。前に読んだ『素数はなぜ人を惹きつけるのか』をより高度に解説しているような内容。興味のない方は数式を飛ばして構わないとしているが、飛ばしても数式から離れることはできない。だからなのか、頁を進めるうちに少々倦いてくる。

2019年12月12日木曜日

年末の掃除開始、小説、素数

 日曜(8日)より大掃除を開始。以前よりは手抜きをし、何日かに分けてやることとなる。タイミング良く家を建築した業者の15年点検が9日に入り、知らなかった掃除・メインテナンスのポイントを教えて貰う。立て替え住み始めてから12月で丁度15年たち、翌1月に生まれた娘の長男もいまは高校受験の真っ直中、時の進みの早さを実感する。

 <塩田武士 『騙し絵の牙』(角川文庫、2019年、初出2017年)>:大泉洋のイメージを取上げての「あて書き」の小説とのことである。頁に挟まれる大泉洋の写真がどうしても目に入り、主人公のイメージが彼と重なる。例えばTVドラマ「ノーサイド・ゲーム」の主人公のように。
 何の予備知識もなしに読み始め、作者が塩田武士だから『罪の声』のようなミステリーかと思ったが、出版業界を舞台にした多重的な生き方をするしたたかなサラリーマンの、従順であるようで最後には業界や出版社に牙をむく-というより後ろ足で砂をかけるというほうが相応しいか-したたかな生き様。小説家の技を見せる見事な小説という、評価の高い小説であるらしいが、自分の好みの枠からは外れる。

 <竹内薫 『素数はなぜ人を惹きつけるのか』(朝日新書、2015年)>:『騙し絵の牙』を読んでつまらなかったとの思いもあり、生ものの人間社会の物語から離れて、無機的な物語に気が向いてしまい、手許に積んである数学関係の一般啓蒙書を開きたくなった。暫くはこれらの数学の物語を読むことに浸ってみようと思う。手始めはありきたりの「素数」からスタート。比較的容易な「素数」の入門書を開く。
 ゴールドバッハ予想、素数ゼミやら、ζ関数やら、双子素数、また、オイラー・ガウス・リーマンなどと名前だけは知っている数学用語・数学者がでてきて、何年も前の、数学の教科書を手にしていたころに微かに戻っているような気がする。

 大学時代からサラリーマン時代になっても使用していて、ボロボロになった背表紙をガムテープで補強しても愛用していた「材料力学」の参考書(奥村淳史著)はいつ棄ててしまったのであろう。設計実務から離れたときか、あるいはリタイアしたときであろうか。書き込みもあり、設計時の計算書も挟んでいたので、今になって懐かしく、取っておけば良かったと悔まれる。手に入るならばこの教科書を開きたくなる。

2019年12月4日水曜日

早稲田完敗、『聖なるズー』

 蓮田に出かけていてラグビー早明戦のライブ観戦はできず、速報版で確認。勝利するときは接戦、負けるならば明治が帝京に勝ったときと同じように完敗し、そのときはFWと接点で負けるパターンかと思っていたが、結果は後者となった(36-7)。慶応・帝京と戦ったときの早稲田・明治のそれぞれのスコアの現実がそのまま早稲田の完敗に繋がっている。
 帰宅後、録画は見ずに直ちに消去。報道で知る限りやはりFWで負けた。いまのラグビーはFWで優位に立たないと勝利はものに出来ない。そしてセット・プレーとプレース・キックの精度。
 大学選手権ではCTB中野が戻ってくるだろうし、相良も戻るであろう。今の早稲田は強くなったといわれたFWは実はそれほどでもなく、集散の早さとスピーディーな展開をしなければならないであろう。明治は準決勝で当たるだろう東海大戦が最初の山、早稲田はやはり準決勝での天理大(もしくは帝京)。決勝は早明戦となって欲しい。

 <濱野ちひろ 『聖なるズー』(集英社、2019年)>:2019年開高健ノンフィクション賞受賞。19歳から「性暴力を含む身体的・精神的暴力」を受け続け、離れるべき賭けとして結婚をして、首尾良く別れることができるまでほぼ10年を要している。警察に3回以上も連絡をしても真摯に取上げてはくれない、窓から逃げ出したこともあるという。性行為は暴力がやみ、眠りにつくための手段でしかなかった。そのような状況で、二つの疑問がまずは頭から離れなかった。一つはなぜ逃げ出せなかったのであろうか、ということ。世の中のDV被害者がその現実から離れられない、逃げ出せない理由を想像する能力が自分には欠けているのだろう。いまでもよく分からない。もう一つは大学入学時の19歳で何故にそのような男をパートナーに選んでしまったのか、それは本書では描かれないが、自分には判然としない。人が暴力的に他者を支配するというその精神性も全く理解できない。一方、そのような暴力状況下にあれば、愛とかセックスのもつ意味が分からなくなるのは当然であろうことは想像に難くなく、愛やセックスに自分としての納得できる解釈ができずにその後の人生に引きずってしまうことは十分に理解できる。そして著者は39歳で大学院に入り愛やセックスを研究する場に身を置いた。著者が体験した愛や性を直接的に研究するのではなく、動物性愛という迂回路を選んだことは賢明な選択であったと思う。
 主にドイツに滞在して「聖なるズー」に触れる。著者の個人的セクシャリティとは別に、先ずは「動物性愛」とは何なのかも知らないし、「獣姦」の言葉くらいしか知らないので、本書は異端の世界に性的嗜好を抱く人びとのその異端たる意味をルポするのかと最初は単純にそう思った。もちろん、「bestiality」も「zoohilia」も本書ではじめて目にした。読み続けるうちに、一般的なおぞましいイメージとは全く違い、主に犬を対等なパートナーとして愛や性を語る「ズー」たちに嫌悪感や差別感は抱かず、単に一つの愛・性のパターンの一つとしか思えない。一般的にいわれるLGBTQにプラスされるもので、行ってみればLGTQZと称されてもいいのかもしれない。本書が優れているのは、愛・セックスに真正面に向き合い、かつ著者自身のそれを追求していることである。彼らは動物たるパートナーに対等に向き合う。逆に言えば、人間社会において対等な関係を構築できないのかもしれない。
 性とは、一側面としては相手を選ばない本能的なものでもある。反面、相手にたいする愛の表現、相互確認・コミュニケーションである。「ズー」たちはその両者を理解した上でパートナーに寄り添っているのであろう。もの言わぬ動物へ注ぐ人間の愛情とはどう理解したらいいのだろう。あるズーは、パートナーが言葉を発すればよりコミュニケーションがとれる可能性を言っていたが、これには疑問がある。言葉を発しないからこそ人間が相手の気持ちや意志を汲取って表現するということもあるのではないだろうか。会話をするということは一種の制限された環境下に身を置くことでもあるし、相手に愛情を抱くが会話が出来ないという場合、相手を含めたその人の空間で自由になれるということでもある。
 本書を読み始めたときに最初に抱いたことが、読み進める中で変化していくことを自覚した。そしてまたドイツがなぜにXplorer Berlinのような催し物を開催できるのか、日本では頻繁に目にするペット・ショップがなぜにドイツにはないのか、動物性愛の法律があるのか(日本にはない)、歴史的な背景にそれらがうかがえて興味深い。
 愛とは、性とは、ズーを通して思考するノンフィクションとして優れた一冊である。衝撃的な一冊である。そして、著者の行動力と冒険心、探究心と思考力に敬服する。