2019年12月4日水曜日

早稲田完敗、『聖なるズー』

 蓮田に出かけていてラグビー早明戦のライブ観戦はできず、速報版で確認。勝利するときは接戦、負けるならば明治が帝京に勝ったときと同じように完敗し、そのときはFWと接点で負けるパターンかと思っていたが、結果は後者となった(36-7)。慶応・帝京と戦ったときの早稲田・明治のそれぞれのスコアの現実がそのまま早稲田の完敗に繋がっている。
 帰宅後、録画は見ずに直ちに消去。報道で知る限りやはりFWで負けた。いまのラグビーはFWで優位に立たないと勝利はものに出来ない。そしてセット・プレーとプレース・キックの精度。
 大学選手権ではCTB中野が戻ってくるだろうし、相良も戻るであろう。今の早稲田は強くなったといわれたFWは実はそれほどでもなく、集散の早さとスピーディーな展開をしなければならないであろう。明治は準決勝で当たるだろう東海大戦が最初の山、早稲田はやはり準決勝での天理大(もしくは帝京)。決勝は早明戦となって欲しい。

 <濱野ちひろ 『聖なるズー』(集英社、2019年)>:2019年開高健ノンフィクション賞受賞。19歳から「性暴力を含む身体的・精神的暴力」を受け続け、離れるべき賭けとして結婚をして、首尾良く別れることができるまでほぼ10年を要している。警察に3回以上も連絡をしても真摯に取上げてはくれない、窓から逃げ出したこともあるという。性行為は暴力がやみ、眠りにつくための手段でしかなかった。そのような状況で、二つの疑問がまずは頭から離れなかった。一つはなぜ逃げ出せなかったのであろうか、ということ。世の中のDV被害者がその現実から離れられない、逃げ出せない理由を想像する能力が自分には欠けているのだろう。いまでもよく分からない。もう一つは大学入学時の19歳で何故にそのような男をパートナーに選んでしまったのか、それは本書では描かれないが、自分には判然としない。人が暴力的に他者を支配するというその精神性も全く理解できない。一方、そのような暴力状況下にあれば、愛とかセックスのもつ意味が分からなくなるのは当然であろうことは想像に難くなく、愛やセックスに自分としての納得できる解釈ができずにその後の人生に引きずってしまうことは十分に理解できる。そして著者は39歳で大学院に入り愛やセックスを研究する場に身を置いた。著者が体験した愛や性を直接的に研究するのではなく、動物性愛という迂回路を選んだことは賢明な選択であったと思う。
 主にドイツに滞在して「聖なるズー」に触れる。著者の個人的セクシャリティとは別に、先ずは「動物性愛」とは何なのかも知らないし、「獣姦」の言葉くらいしか知らないので、本書は異端の世界に性的嗜好を抱く人びとのその異端たる意味をルポするのかと最初は単純にそう思った。もちろん、「bestiality」も「zoohilia」も本書ではじめて目にした。読み続けるうちに、一般的なおぞましいイメージとは全く違い、主に犬を対等なパートナーとして愛や性を語る「ズー」たちに嫌悪感や差別感は抱かず、単に一つの愛・性のパターンの一つとしか思えない。一般的にいわれるLGBTQにプラスされるもので、行ってみればLGTQZと称されてもいいのかもしれない。本書が優れているのは、愛・セックスに真正面に向き合い、かつ著者自身のそれを追求していることである。彼らは動物たるパートナーに対等に向き合う。逆に言えば、人間社会において対等な関係を構築できないのかもしれない。
 性とは、一側面としては相手を選ばない本能的なものでもある。反面、相手にたいする愛の表現、相互確認・コミュニケーションである。「ズー」たちはその両者を理解した上でパートナーに寄り添っているのであろう。もの言わぬ動物へ注ぐ人間の愛情とはどう理解したらいいのだろう。あるズーは、パートナーが言葉を発すればよりコミュニケーションがとれる可能性を言っていたが、これには疑問がある。言葉を発しないからこそ人間が相手の気持ちや意志を汲取って表現するということもあるのではないだろうか。会話をするということは一種の制限された環境下に身を置くことでもあるし、相手に愛情を抱くが会話が出来ないという場合、相手を含めたその人の空間で自由になれるということでもある。
 本書を読み始めたときに最初に抱いたことが、読み進める中で変化していくことを自覚した。そしてまたドイツがなぜにXplorer Berlinのような催し物を開催できるのか、日本では頻繁に目にするペット・ショップがなぜにドイツにはないのか、動物性愛の法律があるのか(日本にはない)、歴史的な背景にそれらがうかがえて興味深い。
 愛とは、性とは、ズーを通して思考するノンフィクションとして優れた一冊である。衝撃的な一冊である。そして、著者の行動力と冒険心、探究心と思考力に敬服する。

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